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魔界のメリークリスマス
「ホー?オマエ、『ニンゲン』ホ!珍しいホ!」
「……えぇ?」
月森ミコトは何だかよくわからない着ぐるみみたいなものに見下ろされていた。倒れているミコトをしげしげと見つめているのは、丸っこい黒いボディが可愛い謎の生き物。二本の角が生えたような紫色の帽子を被り、真っ赤なつり上がった目でミコトを観察している。大きい。テカテカした着ぐるみみたいで可愛いと思っていたが、横にも縦にもミコトより大きく、思ったよりも威圧感がある。もしこの生き物の下敷きになってしまったらごく普通に死にそうだ。
「あのー……えーと、ここどこ?」
ミコトは周囲を見回しながら、とりあえず疑問を口にした。縄印学園から学生寮に帰ろうとしていたはずなのに、気がつくとよくわからない場所にいた。あたりは崩れそうなビルと剥き出しの地面が退廃的な空気感を醸し出す見たことのない場所で、これまたよくわからない雪だるまにじっと見つめられている。困惑どころの話じゃない。
「どこって、ギンザホ!」
「銀座!?」
銀座といえば東京屈指の人口密集地、夜になってもビルの明かりが煌々と輝く眠らない街。こんな人っ子一人いない寂しい場所が銀座だなんて信じられない。
「……嘘でしょ……」
黒い雪だるまはミコトの困惑などどこ吹く風、「?」と首を傾げている。ずっと変な体勢で倒れていたから体が痛くなってきた。起きよう。ゆっくり立ち上がる。目線の位置が高くなっても周りの景色は変わらないし、黒い雪だるまは大きい……立ち上がったミコトよりも背が高く、大きな黒い顔が迫ってくる。
「ところで、オマエ……貧相なナリだけど、キャストにはなれそうホー!」
「……はぁ?」
頭から爪先まで舐めるように見られた末の言葉がそれで、ミコトは思いきり眉をひそめた。なんでこんなわけわからない生き物に「貧相」だなんて言われなきゃならないんだ。いや、確かに自覚はしてるけど……背は低い方だし女性らしい体つきとも言い難いが、猛烈に腹が立った。
「オマエ、イクアテとかないホ?だったらオイラの高級クラブのキャストになるホ!」
「……はあ?」
「ギンザで高級クラブを経営すればマッカザクザク、オオモウケ!でもキャストがまだいないホー。ちょうどいいホ、オマエを働かせてやるホー」
「えぇ……?私お酒飲めないし、働くなんて言ってないけど」
「じゃあオマエのことなんか知らないホ。オマエみたいな貧相なニンゲンが生き残れるとは思えないホー」
「!?」
ミコトの背後で派手な音が響いた。振り返ると、羽根が生えた人間に似たものと悪魔じみた生き物が小競り合いを繰り広げている。どちらかが倒れるまで続きそうな勢いだ。……あんなことが日常茶飯事というなら、一人にされたらいずれ巻き込まれて死んでしまう。
「オイラのクラブで働くなら、ちゃんと面倒はみるホー。悪い話じゃないと思うホ」
「うん……なんかヤバそうだし、そうする」
「賢明ホー。じゃあビシバシキャストの教育しなきゃホー!」
黒い雪だるまがぐっと拳を天に向かって突き上げる。……なんか働くことになってるけど大丈夫かなあ。ミコトはため息をついた。
ミコトがギンザのジャアクフロストに雇われてから数ヶ月が経過した。ジャアクフロストが経営するクラブにはミコトの他に酒等の調達を担うディオニュソス、キャストとしてサキュバスとアリスがいた。ジャアクフロストは無論店長である。店長の宣伝が功を奏し、それなりに客が来るクラブになった。店長の意向でお触りなしの健全な店であるゆえ、悪魔が客ではあるがミコトは指一本触れられることなく過ごしてきた。酒が飲めない人間という物珍しさがウケるのか、一応は固定客もついたらしい。悪魔に気に入られてもなあ……と当のミコトは複雑な心境だ。
「ミナノモノー!聞くホー!」
ジャアクフロストの明るい声のもとに、キャストとディオニュソスが集まる。開店前恒例の朝礼のようなものだ。時間は夜だが。
「もうすぐクリスマスホー!このクラブで初めてのイベントだホー!そこで、クリスマス仕様にするホ!」
「クリスマス仕様?」
ミコトは首を傾げた。この色味の少ない退廃的な魔界であっても、そういう世俗的なイベントがあるのかと疑問だった。ここがミコトの知る銀座だったら、大きなクリスマスツリーやイルミネーションがあったりするのだろうけど、残念ながら魔界でそんなものを見たことがない。
「キャストはクリスマスの服!お酒や料理もクリスマス仕様に!できるホ?」
「ふむ……少々時間をいただけるかな?善処しよう」
ディオニュソスの返答が不安を感じさせるものだっただけにどうなることかと思っていたが、彼はどこからともなくクリスマスツリーや電飾、可愛らしいサンタ服等々、考えうるクリスマスの装飾を仕入れてきた。キャスト三人には同じデザインのサンタを模した赤い服。赤い上等な布地の膝丈ワンピースに袖やスカートの裾にふわふわの白いファーがついた、肌の露出が控えめなものだった。そこに三角の赤いサンタ帽を被る。サキュバスが着ると普段の妖艶さに可愛らしさが足されたギャップのある印象になり、アリスが着ると淑やかな令嬢がクリスマスにご機嫌といった塩梅。ミコトはというと、
「馬子にも衣装というところかな」
「貧相なナリはどうしようもないホー!」
「ミコト、店長たちはああ言ってるけど、気にしなくていいわ。とっても可愛いわよ」
「おねえちゃん、可愛いよ?」
「ありがとう、二人とも」
ジャアクフロストとディオニュソスには散々な言われようだったが、女性型の悪魔二人には素直に褒められた。ちょっと不安だけどそれなりに可愛いサンタになれてるんじゃないかな、と無理矢理自分を納得させ迎えたクリスマスの夜。クラブの外に大きなクリスマスツリーが鎮座している。それだけでも異質でかなり目を引くが、やっぱり装飾がないと間の抜けた印象だ。ミコトが外でツリーの飾り付けをしていたところ、
「……君は?」
声をかけられた。店長でもディオニュソスでもキャスト二人でもない、透き通るような綺麗な声。
「はい、何ですか?」
作業の手を止めて声のした方を向くと、不思議な人物が立っていた。流れるような青い髪、不規則な模様が入った服で体を覆っている。クリスマスの夜に金色の瞳がきらきらと輝いて星のよう。初めて見る人だった。限りなく人間に近い見た目だが、魔界にいるんだしこの人も悪魔なんだろうなあ、とミコトは思いながら青い彼に近付く。
「お店にご用ですか?まだ開店時間じゃないんです。もう少し待っていただけますか?」
「お店?」
「はい。ここ、クラブなんですよ」
「クラブ……?君、ここで働いてるの?」
「え?はい、そうですけど」
「……」
彼はぐっと黙り込んで視線をミコトから逸らし、何か考え込んでいるようだった。その表情は険しく、とてもクリスマスに浮かれてクラブにやって来た客には見えない。悪魔の世界にも縄張り争いやら権力闘争やら色々あるようだが、クリスマスの日くらいそんなこと忘れて浮かれたっていいのに。
「おねえちゃん、店長が今日はもうお客さん入れていいって」
サンタ姿の可愛らしいアリスがミコトの服の裾を掴んで言った。姉を呼びにくる妹みたいな可愛らしい仕草で、ミコトは笑って頷いた。
「あ、そうなのね?じゃあお客さん入れるから、アリスは戻っておいてくれる?」
「うん、わかった」
アリスが店に入っていくのを手を振って見届け、ミコトは青い彼に向き直った。相変わらず彼は、クリスマスに似合わない訝しげな顔をしている。
「えっと……うちは初めてだと思いますけど、入っていかれます?今日はクリスマスなんで、ちょっと豪勢なんですよ。せっかくなんでどうですか?」
「……うん。寄らせてもらおうかな」
「はい、ありがとうございます!」
魔界で迎える初めてのクリスマス、その最初の客だ。ミコトは純粋に喜び、彼を伴って店に入った。
「お客様でーす!」
見慣れたクラブの内装は、赤と緑のクリスマスカラーに彩られたきらびやかな空間に生まれ変わっている。きらきら輝くクリスマスツリー、中央に置かれたシャンパンタワー、ところどころ飾られたクリスマスのリース。普段は高級クラブの名に恥じない落ち着いた佇まいだが、今日限りは高級感がありながらも楽しそうな浮かれた雰囲気に仕上がっている。
「ご指名はどうなさいます?」
「え?指名?」
青い彼に尋ねると、よくわかっていない顔でミコトを凝視していた。
「私の他にもサキュバスやアリスがいます。お客様のお好みのキャストをご指名ください」
「君がいい」
「私ですか?わかりました」
ミコトは彼を接客用のソファーに通し、ジャアクフロストのところに向かった。客が入った際は逐一報告することになっている。
「店長、お客様が入りました。私をご指名ですから、行ってきます」
「ホー?ミコトがクリスマスの指名第一号ホー?負けたホー」
「……またディオニュソスさんと賭けてたんですか」
「賭けのことはどうでもいいホー。ミコト、VIPルームのことちゃーんと宣伝してくるホ!」
「わかってますって……行ってきます」
店長のあしらいにも慣れた。キャストのあれこれでディオニュソスと賭けているのもいつものことだ、それより仕事だ。しかもご新規さんだ。ミコトはよし、と小さく拳を握って青い彼の元に歩く。彼は落ち着きのない顔で店内を見回していた。見るからに「一見さん」の仕草で、現実離れした綺麗な顔の人がちょっと子供っぽい視線の動かし方をしているのが面白かった。
「お待たせしました。私はキャストのミコトです、初めまして。今夜は私をご指名いただいて、ありがとうございます」
「……あれ、君と二人で話せるものだと思ってたけど」
「え?私と二人ですけど?」
そう言ってみても彼は困ったように金色の目を細めている。ソファーにはミコトと彼しかいない。店長やディオニュソス、他のキャストもいるが、サキュバスとアリスもお客がつきそれぞれ接客しておりミコトたちのことなど見ていないし、ソファー同士の距離はそれなりに離れているから何を話しているか聞こえたりはしない。店長とディオニュソスは店内全体を監視しているがソファーとは反対側の壁際におり、こちらも声が聞こえるような距離ではないが、それでも気になるのだろうか。
「そうじゃなくて……二人きりだと思ってたんだ」
彼が少し身を乗り出して、隣に座るミコトとの距離を詰める。彼の麗しい顔貌がすぐそばで自分を見つめていてドキリとした。接客中に相手にときめくのは初めてだった。これまで人とは程遠い容姿の悪魔ばかり相手にしていたからだろうけど。
「私と二人きりをご希望であれば、VIPルームをご利用になりますか?二時間あたりこれくらいお金がかかりますけど」
指で数字を示してみる。彼は頷き、
「二人きりになれるならそれでいいよ」
「わ、わかりました」
迷いなく即答した。ミコトの方が驚いてしまった。今日初めて指名されて、大して話してもないのにもうVIPルームに?金額を知らせると難色を示されるばかりだったから、VIPルームに入るのは初めてだ。彼は全く躊躇いがない分、ミコトの方が緊張してしまう。
「こちらです。行きましょう」
一階は通常のクラブ、二階にVIPルームがある。クリスマスの浮かれたイルミネーションで輝く階段を上り、VIPルームの扉を開ける。二人だけの空間にしては広く、一階に置いてあるものよりさらにランクが上の調度品が置かれている。ソファーに彼を座らせて、隣に座る。
「ねえ」
「はい、何ですか?」
「君、人間だよね?」
金色の瞳を細めて彼ははっきりと言った。何だか思っていたのと雰囲気が違う。ミコトは面食らった。
「は、はい……人間ですけど」
「どうして悪魔が経営してるお店で働いてるの?もしかして脅されてる?」
「え?」
何の冗談かと思ったが、彼の顔は真剣そのものだった。彼がVIPルームに来たがった意図をようやく理解できた気がする。
「別に脅されてなんか……むしろ私は拾ってもらった立場ですよ」
「拾ってもらった?」
「はい。私、別のところから来まして困ってたら店長に声をかけられて、クラブで働いてみないかって言われて」
「店長?」
「あ、お店にジャアクフロストがいたでしょう?それです」
「……」
彼は顎に手を当て、黙って何事かを思案している様子だった。妙な人だ。ミコト以外の従業員は全員悪魔、訪れる客も悪魔という状況はおかしいのかもしれない。しかしここは魔界、それが普通だ。彼はミコトを案じてくれているようだが、初対面の人間を心配する悪魔などいるのだろうか?
「君は……確かミコトさん、だったね。僕はヒイラギ。覚えておいてくれるかな」
「あ、はい。そういえばお客様のお名前、聞くの忘れてましたね。ごめんなさい」
「いや、それはいいんだ。そうじゃなくて……ミコトさん、別のところから来たって言ってたね。もし君が東京の縄印学園のあたりから魔界に来たなら、僕は君を東京に帰してあげられる」
「……えっ?」
縄印学園。その名前を久しぶりに聞いた。クラブで忙しく働くうちに忘れそうになっていたが、ミコトは元来魔界の住人ではない。それを見抜き、東京に帰せるという彼――ヒイラギは一体何者なのか。
「縄印学園って品川駅近くの、あの縄印学園ですよね?」
「そうだよ。僕は縄印学園の生徒で、東京からこの魔界に来た。色々あってこんな格好になってるけど……僕も元々は人間だよ」
「は、はあ……」
今まで聞いたことのない類の話だ。縄印学園。魔界。元人間。……だめだ、色んな言葉が急に出てきて混乱する。
「君と同じように、東京から魔界に引きずり込まれた人たちを見てきた。東京に繋がってる装置があるから連れていくよ。悪魔ばかりの場所で人間は君だけなんて、怖いでしょ?」
「それは……そう、ですけど……」
ミコトは俯き、膝の上に置いた自分の拳を凝視した。ジャアクフロストと初めて会った日、怖かった。見た目は可愛い雪だるまでも得体の知れない存在だったし、話している間にも悪魔同士の危険な小競り合いも見た。ジャアクフロストに匿われるようになってからもちょくちょく悪魔同士戦っているのは見てきたから、恐怖が完全に消え去ったわけではない。
「でも、私は店長に面倒を見てもらえて、サキュバスさんやアリスちゃんとも仲良くしてもらって……ディオニュソスさんはちょっと話しかけにくいけど、悪い人じゃないし……ここにいるの、悪くないなって思ってるんです」
顔を上げてヒイラギに正直な気持ちを伝えると、彼は目を丸くしていた。
「……そう、なんだ。人間は悪魔に襲われるものだと思ってたから……もう一度聞くけど、脅されたりしてないよね?」
「してません」
首を振る。間違いない。ミコトは自分の意思でここにいる。
「……そっか……」
ヒイラギはしばらく黙り込んでいたが、懐からきらきら輝く宝石のかけらのようなものを取り出した。彼の掌の上で光を反射して不規則な輝きを放つ。
「これ、あげる。これを持って念じれば、僕に声が届くようになってる。もし何かあって逃げたくなったら、危なくなったら言って。助けに来るから」
「あ、ありがとうございます……」
わざわざ高いお金を払ってまでミコトの身を案じてくれる彼に心が揺れた。ミコトは輝く宝石を受け取り、すっくと立ち上がった。ここはクラブ、自分はキャスト。彼の優しさに報いるために取るべき行動はただひとつ。
「ヒイラギさん!このお話は終わりにしましょう!今日はクリスマスですよ!」
ぽかんとした顔の彼にびしっと指を突きつける。
「せっかくVIPルームに来たんです!クリスマスを楽しみましょう!ドリンクは有料ですけど、ケーキとお料理は無料ですよ!」
言いながらミコトはディオニュソスが用意したクリスマス用の料理を手に取った。カプレーゼのような前菜から、ローストチキンやラザニア、真っ白な雪化粧に真っ赤な苺を飾ったホールケーキ。クリスマスと聞けば大体思い浮かぶ色鮮やかな料理が所狭しと並んでいる。シックなテーブルの上に置くと、一気に華やかになる。さすがのヒイラギも興味津々といった顔。
「これ、ほんとに食べていいの?」
「いいですよ!店長のお墨付きです!ドリンクどうします?」
さっと料金表を見せるとヒイラギの顔が曇った。
「……お酒……飲めないんだよね……」
「あ、そうなんですか?私も飲めないので、じゃあ私の分もソフトドリンク頼んでください!ね?」
さりげなく彼の隣で甘えてみる。彼は頬を赤らめてじゃあ、と言いながらぶどうジュースを頼んだ。ミコトは頷き、ワイングラスにぶどうジュースを注ぐ。高級クラブだけあってノンアルコールであっても上質な代物で、ワインのような艶やかな赤色が美しい。
「ヒイラギさん、メリークリスマス」
「うん……メリークリスマス」
カン、と軽やかな音がして二人のグラスが挨拶を交わす。口に含むと芳醇なぶどうの甘味が広がり、少し渋みがあるのも相まって酒のようだった。ヒイラギはこの部屋に入った当初と比べると、いくぶん柔らかい表情を浮かべている。
「魔界にもクリスマスがあるんだね。意外だな」
「ですよね。私も最初はそう思いましたよ」
ヒイラギはワイングラスを持ったまま深いため息をついた。体の内側に溜まった濁流も吐き出す、重いものだった。
「クリスマスなんて忘れてたよ。それどころじゃなかったからさ」
ミコトに視線を移して笑うヒイラギには、くたびれた哀愁が漂っている。悪魔は大抵エネルギーに満ちておりギラギラとした目をしている、こんな疲れた目の客を見るのは初めてだった。
「何かあったみたいですね?私でよければ色々聞かせてください」
ぽつぽつと呟くヒイラギの話を聞いた。彼は縄印学園の三年生で、合一という事象を経て悪魔と戦えるようになり、東京を守るために戦っているらしい。悪魔は良くも悪くも自分のこと、もっといえば欲望を声高に語るから、彼の使命感に満ちた話は新鮮だった。それと同時に同情もする。どうやら選択の余地なく戦いに身を投じているらしい彼の身の上は、戦場とは無縁のミコトですら重い気分にさせる。
「……このケーキ、美味しいね。甘いもの、すごく久しぶりに食べた気がするな……」
ショートケーキを一口食べた彼の言葉は、深くしみじみと沁み入る声で響いた。疲れたときには甘いものなどというが、心の奥にまで甘さが沁みている、そういう声だった。
「お好きなだけどうぞ。ほら」
丸く綺麗なホールケーキの一部を切り取り、皿に持って彼に差し出した。彼は不自然な体勢で固まり、じっとミコトを凝視している。……あれ、何か変なことを言っただろうか。
「ああ、そっか……その服、サンタなんだね」
「え!?あ、はい、そうですね」
「なんか今更気付いちゃった。可愛いね。よく似合ってるよ」
「か、かわ……!?」
さらりと零れた言葉に今度はミコトが硬直する番だった。顔が発熱する。彼と見つめ合うことができなくて、思わず目を逸らした。
「ケーキ、ありがとう。いただくね」
動けないミコトの手から皿を受け取り、ヒイラギはにっこり笑った。穏やかな甘さが伝わる、綺麗だが素朴な笑顔。フォークをケーキに刺し、また食べ始める彼はあどけない子供に見えた。視界に入っただけで見惚れてしまうほどの美貌を持つ彼だが、思ったよりも人間味があるらしい。
彼がケーキを味わう様子をつぶさに見つめて、ふと思った。サンタ姿のミコト、クリスマス用の料理と飲み物、赤と緑の装飾で輝く部屋。その中で、唯一ヒイラギだけがクリスマスに染まらない青色のまま。それが彼の自然な姿なのだろうが、今この場では浮いてしまっている。ミコトは赤いサンタ帽を取り出し、ヒイラギの眼前で見せてみた。
「ん?なに?」
「ヒイラギさんも被りませんか。せっかくですから、見た目からクリスマスになりましょう」
「……え?」
ヒイラギはケーキを食べる手を止め、ミコトとサンタ帽を交互にまじまじと見つめている。
「僕も?」
「ええ。どうですか?こんなの被れるのも今夜だけですよ?」
「…………被ってみようかな?」
「はい、どうぞ」
ヒイラギは受け取った帽子をおずおずと頭の上に乗せた。三角形の先についた白く丸いふわふわの重みでくたりと帽子が折れ、可愛らしい雰囲気になる。全体的に青色が目立つ彼が被ると大きく印象が変わり、今日という日に心を弾ませた明るい空気感が混じる。
「……どうかな?」
「楽しそうな感じでいいですよ!」
「楽しそう……僕、暗い顔してた?」
「ええ、割と」
「……そっか」
ヒイラギは苦笑いしながら息をついた。ため息の様相ではあるが、そこまで深刻には聞こえないものでミコトは安心した。
「ねえ、ミコトさん。せっかくこうやって君と二人きりなんだ、色々話してもいいかな?」
「いいですよ、どんどんお話ししてください。ヒイラギさんのお話、聞きたいです」
そう言うヒイラギは柔らかく笑み、声がやや明るく上向きなものになり、しばしクリスマスの華やかな料理に舌鼓を打ちながら二人で談笑していた。あるときを境に、ヒイラギがゆらゆらと体を揺らしながら目を開いたり閉じたりを繰り返し始める。
「……ミコト、さん」
「なんですか?」
「今、二人きりだよね……?君に少し甘えてもいい?」
「?はい、いいですよ」
答えた瞬間、ヒイラギがミコトにしなだれかかってきた。彼の麗しい顔がミコトの肩に置かれている。
「大丈夫ですか?疲れちゃいました?」
「うん。……正直」
ヒイラギはミコトを上目遣いで見ながら苦笑していた。その人間臭い表情が可愛くて、ミコトは彼の頭を優しく撫でた。ここはお触りなしのクラブだけれど、二人きりのVIPルームなら少しくらいいいだろう。
「ナホビノになったのは偶然で、戦ってるのも成り行きなんだ。本当はずっと疲れてたのかもしれない。誰にも褒められないし、東京はいつか消えるって言われて、戦ってばかりで……誰にも言えなかった。君が初めてだよ。話を聞いてくれたのは」
「そうですか。ここに来てくれれば、私はいますよ。お話だって聞きます。……お金はかかりますけど」
「そうだね、君は仕事で僕の話を聞いてくれてるんだよね。……ごめんね、僕ばかり喋って」
「仕事ですから、気にしないでください。今夜私に話すことでちょっとでも楽になれたなら、それでいいじゃないですか」
キャストの仕事は、訪れた客と癒しの時間を共有し、明日からの活力を得てもらうこと。これまで接客した悪魔にも精一杯務めた。ヒイラギにも務めを果たせているはずだ。きっと。
「ミコトさん。ケーキ、食べさせてくれない?」
「え?あ、はい」
ミコトの肩に顔を預けたまま、ヒイラギがまた上目遣いを寄越してくる。神秘的で綺麗な顔立ちのヒイラギが赤いサンタ帽を被って甘える目付き、ミコトの中にある母性をくすぐってくる。放っておけなくて、ヒイラギのフォークにケーキを一欠片刺した。
「苺が乗ってるところがいい」
「わかりました」
一度甘えると決めたら遠慮はしないたちらしい。意外だったが悪い気はしない、赤い苺と白いクリームが美しいケーキを一口、彼の口に放り込む。彼は目を閉じてじっくり咀嚼し、やがて眠そうだがにっこりと笑った。
「美味しい。ありがとう」
「よかったです」
「まだ時間はあるよね?……時間が来るまで、こうしていてもいいかな?」
ミコトの肩に頬を寄せ、ヒイラギは落ち着いた息をつく。彼の張り詰めた空気が柔らかく溶け、ふわふわとした空気が漂う。
「いいですよ。クリスマスくらい、ゆっくりしましょう」
ミコトはキャストでヒイラギは客、度を越す接触はしない。放り出されたヒイラギの手を握りたい気持ちもあるけれど、肩を貸すに留める。
「ありがとう。魔界でこんな時間を過ごせるなんて思わなかった。……メリークリスマス」
「メリークリスマス、ヒイラギさん」
微笑むヒイラギの頭をほんのひと撫でしてみた。青い髪がさらさらと心地よく掌を流れる。ヒイラギはふふ、と笑みを漏らしミコトに体を預けてくる。ずいぶんと甘えたがりのお客さんだ。でも、たまには……こんな甘えたがりの人と心静かにクリスマスを過ごしてもいい。きっとお互いに忘れられないクリスマスになるだろう。
「ホー?オマエ、『ニンゲン』ホ!珍しいホ!」
「……えぇ?」
月森ミコトは何だかよくわからない着ぐるみみたいなものに見下ろされていた。倒れているミコトをしげしげと見つめているのは、丸っこい黒いボディが可愛い謎の生き物。二本の角が生えたような紫色の帽子を被り、真っ赤なつり上がった目でミコトを観察している。大きい。テカテカした着ぐるみみたいで可愛いと思っていたが、横にも縦にもミコトより大きく、思ったよりも威圧感がある。もしこの生き物の下敷きになってしまったらごく普通に死にそうだ。
「あのー……えーと、ここどこ?」
ミコトは周囲を見回しながら、とりあえず疑問を口にした。縄印学園から学生寮に帰ろうとしていたはずなのに、気がつくとよくわからない場所にいた。あたりは崩れそうなビルと剥き出しの地面が退廃的な空気感を醸し出す見たことのない場所で、これまたよくわからない雪だるまにじっと見つめられている。困惑どころの話じゃない。
「どこって、ギンザホ!」
「銀座!?」
銀座といえば東京屈指の人口密集地、夜になってもビルの明かりが煌々と輝く眠らない街。こんな人っ子一人いない寂しい場所が銀座だなんて信じられない。
「……嘘でしょ……」
黒い雪だるまはミコトの困惑などどこ吹く風、「?」と首を傾げている。ずっと変な体勢で倒れていたから体が痛くなってきた。起きよう。ゆっくり立ち上がる。目線の位置が高くなっても周りの景色は変わらないし、黒い雪だるまは大きい……立ち上がったミコトよりも背が高く、大きな黒い顔が迫ってくる。
「ところで、オマエ……貧相なナリだけど、キャストにはなれそうホー!」
「……はぁ?」
頭から爪先まで舐めるように見られた末の言葉がそれで、ミコトは思いきり眉をひそめた。なんでこんなわけわからない生き物に「貧相」だなんて言われなきゃならないんだ。いや、確かに自覚はしてるけど……背は低い方だし女性らしい体つきとも言い難いが、猛烈に腹が立った。
「オマエ、イクアテとかないホ?だったらオイラの高級クラブのキャストになるホ!」
「……はあ?」
「ギンザで高級クラブを経営すればマッカザクザク、オオモウケ!でもキャストがまだいないホー。ちょうどいいホ、オマエを働かせてやるホー」
「えぇ……?私お酒飲めないし、働くなんて言ってないけど」
「じゃあオマエのことなんか知らないホ。オマエみたいな貧相なニンゲンが生き残れるとは思えないホー」
「!?」
ミコトの背後で派手な音が響いた。振り返ると、羽根が生えた人間に似たものと悪魔じみた生き物が小競り合いを繰り広げている。どちらかが倒れるまで続きそうな勢いだ。……あんなことが日常茶飯事というなら、一人にされたらいずれ巻き込まれて死んでしまう。
「オイラのクラブで働くなら、ちゃんと面倒はみるホー。悪い話じゃないと思うホ」
「うん……なんかヤバそうだし、そうする」
「賢明ホー。じゃあビシバシキャストの教育しなきゃホー!」
黒い雪だるまがぐっと拳を天に向かって突き上げる。……なんか働くことになってるけど大丈夫かなあ。ミコトはため息をついた。
ミコトがギンザのジャアクフロストに雇われてから数ヶ月が経過した。ジャアクフロストが経営するクラブにはミコトの他に酒等の調達を担うディオニュソス、キャストとしてサキュバスとアリスがいた。ジャアクフロストは無論店長である。店長の宣伝が功を奏し、それなりに客が来るクラブになった。店長の意向でお触りなしの健全な店であるゆえ、悪魔が客ではあるがミコトは指一本触れられることなく過ごしてきた。酒が飲めない人間という物珍しさがウケるのか、一応は固定客もついたらしい。悪魔に気に入られてもなあ……と当のミコトは複雑な心境だ。
「ミナノモノー!聞くホー!」
ジャアクフロストの明るい声のもとに、キャストとディオニュソスが集まる。開店前恒例の朝礼のようなものだ。時間は夜だが。
「もうすぐクリスマスホー!このクラブで初めてのイベントだホー!そこで、クリスマス仕様にするホ!」
「クリスマス仕様?」
ミコトは首を傾げた。この色味の少ない退廃的な魔界であっても、そういう世俗的なイベントがあるのかと疑問だった。ここがミコトの知る銀座だったら、大きなクリスマスツリーやイルミネーションがあったりするのだろうけど、残念ながら魔界でそんなものを見たことがない。
「キャストはクリスマスの服!お酒や料理もクリスマス仕様に!できるホ?」
「ふむ……少々時間をいただけるかな?善処しよう」
ディオニュソスの返答が不安を感じさせるものだっただけにどうなることかと思っていたが、彼はどこからともなくクリスマスツリーや電飾、可愛らしいサンタ服等々、考えうるクリスマスの装飾を仕入れてきた。キャスト三人には同じデザインのサンタを模した赤い服。赤い上等な布地の膝丈ワンピースに袖やスカートの裾にふわふわの白いファーがついた、肌の露出が控えめなものだった。そこに三角の赤いサンタ帽を被る。サキュバスが着ると普段の妖艶さに可愛らしさが足されたギャップのある印象になり、アリスが着ると淑やかな令嬢がクリスマスにご機嫌といった塩梅。ミコトはというと、
「馬子にも衣装というところかな」
「貧相なナリはどうしようもないホー!」
「ミコト、店長たちはああ言ってるけど、気にしなくていいわ。とっても可愛いわよ」
「おねえちゃん、可愛いよ?」
「ありがとう、二人とも」
ジャアクフロストとディオニュソスには散々な言われようだったが、女性型の悪魔二人には素直に褒められた。ちょっと不安だけどそれなりに可愛いサンタになれてるんじゃないかな、と無理矢理自分を納得させ迎えたクリスマスの夜。クラブの外に大きなクリスマスツリーが鎮座している。それだけでも異質でかなり目を引くが、やっぱり装飾がないと間の抜けた印象だ。ミコトが外でツリーの飾り付けをしていたところ、
「……君は?」
声をかけられた。店長でもディオニュソスでもキャスト二人でもない、透き通るような綺麗な声。
「はい、何ですか?」
作業の手を止めて声のした方を向くと、不思議な人物が立っていた。流れるような青い髪、不規則な模様が入った服で体を覆っている。クリスマスの夜に金色の瞳がきらきらと輝いて星のよう。初めて見る人だった。限りなく人間に近い見た目だが、魔界にいるんだしこの人も悪魔なんだろうなあ、とミコトは思いながら青い彼に近付く。
「お店にご用ですか?まだ開店時間じゃないんです。もう少し待っていただけますか?」
「お店?」
「はい。ここ、クラブなんですよ」
「クラブ……?君、ここで働いてるの?」
「え?はい、そうですけど」
「……」
彼はぐっと黙り込んで視線をミコトから逸らし、何か考え込んでいるようだった。その表情は険しく、とてもクリスマスに浮かれてクラブにやって来た客には見えない。悪魔の世界にも縄張り争いやら権力闘争やら色々あるようだが、クリスマスの日くらいそんなこと忘れて浮かれたっていいのに。
「おねえちゃん、店長が今日はもうお客さん入れていいって」
サンタ姿の可愛らしいアリスがミコトの服の裾を掴んで言った。姉を呼びにくる妹みたいな可愛らしい仕草で、ミコトは笑って頷いた。
「あ、そうなのね?じゃあお客さん入れるから、アリスは戻っておいてくれる?」
「うん、わかった」
アリスが店に入っていくのを手を振って見届け、ミコトは青い彼に向き直った。相変わらず彼は、クリスマスに似合わない訝しげな顔をしている。
「えっと……うちは初めてだと思いますけど、入っていかれます?今日はクリスマスなんで、ちょっと豪勢なんですよ。せっかくなんでどうですか?」
「……うん。寄らせてもらおうかな」
「はい、ありがとうございます!」
魔界で迎える初めてのクリスマス、その最初の客だ。ミコトは純粋に喜び、彼を伴って店に入った。
「お客様でーす!」
見慣れたクラブの内装は、赤と緑のクリスマスカラーに彩られたきらびやかな空間に生まれ変わっている。きらきら輝くクリスマスツリー、中央に置かれたシャンパンタワー、ところどころ飾られたクリスマスのリース。普段は高級クラブの名に恥じない落ち着いた佇まいだが、今日限りは高級感がありながらも楽しそうな浮かれた雰囲気に仕上がっている。
「ご指名はどうなさいます?」
「え?指名?」
青い彼に尋ねると、よくわかっていない顔でミコトを凝視していた。
「私の他にもサキュバスやアリスがいます。お客様のお好みのキャストをご指名ください」
「君がいい」
「私ですか?わかりました」
ミコトは彼を接客用のソファーに通し、ジャアクフロストのところに向かった。客が入った際は逐一報告することになっている。
「店長、お客様が入りました。私をご指名ですから、行ってきます」
「ホー?ミコトがクリスマスの指名第一号ホー?負けたホー」
「……またディオニュソスさんと賭けてたんですか」
「賭けのことはどうでもいいホー。ミコト、VIPルームのことちゃーんと宣伝してくるホ!」
「わかってますって……行ってきます」
店長のあしらいにも慣れた。キャストのあれこれでディオニュソスと賭けているのもいつものことだ、それより仕事だ。しかもご新規さんだ。ミコトはよし、と小さく拳を握って青い彼の元に歩く。彼は落ち着きのない顔で店内を見回していた。見るからに「一見さん」の仕草で、現実離れした綺麗な顔の人がちょっと子供っぽい視線の動かし方をしているのが面白かった。
「お待たせしました。私はキャストのミコトです、初めまして。今夜は私をご指名いただいて、ありがとうございます」
「……あれ、君と二人で話せるものだと思ってたけど」
「え?私と二人ですけど?」
そう言ってみても彼は困ったように金色の目を細めている。ソファーにはミコトと彼しかいない。店長やディオニュソス、他のキャストもいるが、サキュバスとアリスもお客がつきそれぞれ接客しておりミコトたちのことなど見ていないし、ソファー同士の距離はそれなりに離れているから何を話しているか聞こえたりはしない。店長とディオニュソスは店内全体を監視しているがソファーとは反対側の壁際におり、こちらも声が聞こえるような距離ではないが、それでも気になるのだろうか。
「そうじゃなくて……二人きりだと思ってたんだ」
彼が少し身を乗り出して、隣に座るミコトとの距離を詰める。彼の麗しい顔貌がすぐそばで自分を見つめていてドキリとした。接客中に相手にときめくのは初めてだった。これまで人とは程遠い容姿の悪魔ばかり相手にしていたからだろうけど。
「私と二人きりをご希望であれば、VIPルームをご利用になりますか?二時間あたりこれくらいお金がかかりますけど」
指で数字を示してみる。彼は頷き、
「二人きりになれるならそれでいいよ」
「わ、わかりました」
迷いなく即答した。ミコトの方が驚いてしまった。今日初めて指名されて、大して話してもないのにもうVIPルームに?金額を知らせると難色を示されるばかりだったから、VIPルームに入るのは初めてだ。彼は全く躊躇いがない分、ミコトの方が緊張してしまう。
「こちらです。行きましょう」
一階は通常のクラブ、二階にVIPルームがある。クリスマスの浮かれたイルミネーションで輝く階段を上り、VIPルームの扉を開ける。二人だけの空間にしては広く、一階に置いてあるものよりさらにランクが上の調度品が置かれている。ソファーに彼を座らせて、隣に座る。
「ねえ」
「はい、何ですか?」
「君、人間だよね?」
金色の瞳を細めて彼ははっきりと言った。何だか思っていたのと雰囲気が違う。ミコトは面食らった。
「は、はい……人間ですけど」
「どうして悪魔が経営してるお店で働いてるの?もしかして脅されてる?」
「え?」
何の冗談かと思ったが、彼の顔は真剣そのものだった。彼がVIPルームに来たがった意図をようやく理解できた気がする。
「別に脅されてなんか……むしろ私は拾ってもらった立場ですよ」
「拾ってもらった?」
「はい。私、別のところから来まして困ってたら店長に声をかけられて、クラブで働いてみないかって言われて」
「店長?」
「あ、お店にジャアクフロストがいたでしょう?それです」
「……」
彼は顎に手を当て、黙って何事かを思案している様子だった。妙な人だ。ミコト以外の従業員は全員悪魔、訪れる客も悪魔という状況はおかしいのかもしれない。しかしここは魔界、それが普通だ。彼はミコトを案じてくれているようだが、初対面の人間を心配する悪魔などいるのだろうか?
「君は……確かミコトさん、だったね。僕はヒイラギ。覚えておいてくれるかな」
「あ、はい。そういえばお客様のお名前、聞くの忘れてましたね。ごめんなさい」
「いや、それはいいんだ。そうじゃなくて……ミコトさん、別のところから来たって言ってたね。もし君が東京の縄印学園のあたりから魔界に来たなら、僕は君を東京に帰してあげられる」
「……えっ?」
縄印学園。その名前を久しぶりに聞いた。クラブで忙しく働くうちに忘れそうになっていたが、ミコトは元来魔界の住人ではない。それを見抜き、東京に帰せるという彼――ヒイラギは一体何者なのか。
「縄印学園って品川駅近くの、あの縄印学園ですよね?」
「そうだよ。僕は縄印学園の生徒で、東京からこの魔界に来た。色々あってこんな格好になってるけど……僕も元々は人間だよ」
「は、はあ……」
今まで聞いたことのない類の話だ。縄印学園。魔界。元人間。……だめだ、色んな言葉が急に出てきて混乱する。
「君と同じように、東京から魔界に引きずり込まれた人たちを見てきた。東京に繋がってる装置があるから連れていくよ。悪魔ばかりの場所で人間は君だけなんて、怖いでしょ?」
「それは……そう、ですけど……」
ミコトは俯き、膝の上に置いた自分の拳を凝視した。ジャアクフロストと初めて会った日、怖かった。見た目は可愛い雪だるまでも得体の知れない存在だったし、話している間にも悪魔同士の危険な小競り合いも見た。ジャアクフロストに匿われるようになってからもちょくちょく悪魔同士戦っているのは見てきたから、恐怖が完全に消え去ったわけではない。
「でも、私は店長に面倒を見てもらえて、サキュバスさんやアリスちゃんとも仲良くしてもらって……ディオニュソスさんはちょっと話しかけにくいけど、悪い人じゃないし……ここにいるの、悪くないなって思ってるんです」
顔を上げてヒイラギに正直な気持ちを伝えると、彼は目を丸くしていた。
「……そう、なんだ。人間は悪魔に襲われるものだと思ってたから……もう一度聞くけど、脅されたりしてないよね?」
「してません」
首を振る。間違いない。ミコトは自分の意思でここにいる。
「……そっか……」
ヒイラギはしばらく黙り込んでいたが、懐からきらきら輝く宝石のかけらのようなものを取り出した。彼の掌の上で光を反射して不規則な輝きを放つ。
「これ、あげる。これを持って念じれば、僕に声が届くようになってる。もし何かあって逃げたくなったら、危なくなったら言って。助けに来るから」
「あ、ありがとうございます……」
わざわざ高いお金を払ってまでミコトの身を案じてくれる彼に心が揺れた。ミコトは輝く宝石を受け取り、すっくと立ち上がった。ここはクラブ、自分はキャスト。彼の優しさに報いるために取るべき行動はただひとつ。
「ヒイラギさん!このお話は終わりにしましょう!今日はクリスマスですよ!」
ぽかんとした顔の彼にびしっと指を突きつける。
「せっかくVIPルームに来たんです!クリスマスを楽しみましょう!ドリンクは有料ですけど、ケーキとお料理は無料ですよ!」
言いながらミコトはディオニュソスが用意したクリスマス用の料理を手に取った。カプレーゼのような前菜から、ローストチキンやラザニア、真っ白な雪化粧に真っ赤な苺を飾ったホールケーキ。クリスマスと聞けば大体思い浮かぶ色鮮やかな料理が所狭しと並んでいる。シックなテーブルの上に置くと、一気に華やかになる。さすがのヒイラギも興味津々といった顔。
「これ、ほんとに食べていいの?」
「いいですよ!店長のお墨付きです!ドリンクどうします?」
さっと料金表を見せるとヒイラギの顔が曇った。
「……お酒……飲めないんだよね……」
「あ、そうなんですか?私も飲めないので、じゃあ私の分もソフトドリンク頼んでください!ね?」
さりげなく彼の隣で甘えてみる。彼は頬を赤らめてじゃあ、と言いながらぶどうジュースを頼んだ。ミコトは頷き、ワイングラスにぶどうジュースを注ぐ。高級クラブだけあってノンアルコールであっても上質な代物で、ワインのような艶やかな赤色が美しい。
「ヒイラギさん、メリークリスマス」
「うん……メリークリスマス」
カン、と軽やかな音がして二人のグラスが挨拶を交わす。口に含むと芳醇なぶどうの甘味が広がり、少し渋みがあるのも相まって酒のようだった。ヒイラギはこの部屋に入った当初と比べると、いくぶん柔らかい表情を浮かべている。
「魔界にもクリスマスがあるんだね。意外だな」
「ですよね。私も最初はそう思いましたよ」
ヒイラギはワイングラスを持ったまま深いため息をついた。体の内側に溜まった濁流も吐き出す、重いものだった。
「クリスマスなんて忘れてたよ。それどころじゃなかったからさ」
ミコトに視線を移して笑うヒイラギには、くたびれた哀愁が漂っている。悪魔は大抵エネルギーに満ちておりギラギラとした目をしている、こんな疲れた目の客を見るのは初めてだった。
「何かあったみたいですね?私でよければ色々聞かせてください」
ぽつぽつと呟くヒイラギの話を聞いた。彼は縄印学園の三年生で、合一という事象を経て悪魔と戦えるようになり、東京を守るために戦っているらしい。悪魔は良くも悪くも自分のこと、もっといえば欲望を声高に語るから、彼の使命感に満ちた話は新鮮だった。それと同時に同情もする。どうやら選択の余地なく戦いに身を投じているらしい彼の身の上は、戦場とは無縁のミコトですら重い気分にさせる。
「……このケーキ、美味しいね。甘いもの、すごく久しぶりに食べた気がするな……」
ショートケーキを一口食べた彼の言葉は、深くしみじみと沁み入る声で響いた。疲れたときには甘いものなどというが、心の奥にまで甘さが沁みている、そういう声だった。
「お好きなだけどうぞ。ほら」
丸く綺麗なホールケーキの一部を切り取り、皿に持って彼に差し出した。彼は不自然な体勢で固まり、じっとミコトを凝視している。……あれ、何か変なことを言っただろうか。
「ああ、そっか……その服、サンタなんだね」
「え!?あ、はい、そうですね」
「なんか今更気付いちゃった。可愛いね。よく似合ってるよ」
「か、かわ……!?」
さらりと零れた言葉に今度はミコトが硬直する番だった。顔が発熱する。彼と見つめ合うことができなくて、思わず目を逸らした。
「ケーキ、ありがとう。いただくね」
動けないミコトの手から皿を受け取り、ヒイラギはにっこり笑った。穏やかな甘さが伝わる、綺麗だが素朴な笑顔。フォークをケーキに刺し、また食べ始める彼はあどけない子供に見えた。視界に入っただけで見惚れてしまうほどの美貌を持つ彼だが、思ったよりも人間味があるらしい。
彼がケーキを味わう様子をつぶさに見つめて、ふと思った。サンタ姿のミコト、クリスマス用の料理と飲み物、赤と緑の装飾で輝く部屋。その中で、唯一ヒイラギだけがクリスマスに染まらない青色のまま。それが彼の自然な姿なのだろうが、今この場では浮いてしまっている。ミコトは赤いサンタ帽を取り出し、ヒイラギの眼前で見せてみた。
「ん?なに?」
「ヒイラギさんも被りませんか。せっかくですから、見た目からクリスマスになりましょう」
「……え?」
ヒイラギはケーキを食べる手を止め、ミコトとサンタ帽を交互にまじまじと見つめている。
「僕も?」
「ええ。どうですか?こんなの被れるのも今夜だけですよ?」
「…………被ってみようかな?」
「はい、どうぞ」
ヒイラギは受け取った帽子をおずおずと頭の上に乗せた。三角形の先についた白く丸いふわふわの重みでくたりと帽子が折れ、可愛らしい雰囲気になる。全体的に青色が目立つ彼が被ると大きく印象が変わり、今日という日に心を弾ませた明るい空気感が混じる。
「……どうかな?」
「楽しそうな感じでいいですよ!」
「楽しそう……僕、暗い顔してた?」
「ええ、割と」
「……そっか」
ヒイラギは苦笑いしながら息をついた。ため息の様相ではあるが、そこまで深刻には聞こえないものでミコトは安心した。
「ねえ、ミコトさん。せっかくこうやって君と二人きりなんだ、色々話してもいいかな?」
「いいですよ、どんどんお話ししてください。ヒイラギさんのお話、聞きたいです」
そう言うヒイラギは柔らかく笑み、声がやや明るく上向きなものになり、しばしクリスマスの華やかな料理に舌鼓を打ちながら二人で談笑していた。あるときを境に、ヒイラギがゆらゆらと体を揺らしながら目を開いたり閉じたりを繰り返し始める。
「……ミコト、さん」
「なんですか?」
「今、二人きりだよね……?君に少し甘えてもいい?」
「?はい、いいですよ」
答えた瞬間、ヒイラギがミコトにしなだれかかってきた。彼の麗しい顔がミコトの肩に置かれている。
「大丈夫ですか?疲れちゃいました?」
「うん。……正直」
ヒイラギはミコトを上目遣いで見ながら苦笑していた。その人間臭い表情が可愛くて、ミコトは彼の頭を優しく撫でた。ここはお触りなしのクラブだけれど、二人きりのVIPルームなら少しくらいいいだろう。
「ナホビノになったのは偶然で、戦ってるのも成り行きなんだ。本当はずっと疲れてたのかもしれない。誰にも褒められないし、東京はいつか消えるって言われて、戦ってばかりで……誰にも言えなかった。君が初めてだよ。話を聞いてくれたのは」
「そうですか。ここに来てくれれば、私はいますよ。お話だって聞きます。……お金はかかりますけど」
「そうだね、君は仕事で僕の話を聞いてくれてるんだよね。……ごめんね、僕ばかり喋って」
「仕事ですから、気にしないでください。今夜私に話すことでちょっとでも楽になれたなら、それでいいじゃないですか」
キャストの仕事は、訪れた客と癒しの時間を共有し、明日からの活力を得てもらうこと。これまで接客した悪魔にも精一杯務めた。ヒイラギにも務めを果たせているはずだ。きっと。
「ミコトさん。ケーキ、食べさせてくれない?」
「え?あ、はい」
ミコトの肩に顔を預けたまま、ヒイラギがまた上目遣いを寄越してくる。神秘的で綺麗な顔立ちのヒイラギが赤いサンタ帽を被って甘える目付き、ミコトの中にある母性をくすぐってくる。放っておけなくて、ヒイラギのフォークにケーキを一欠片刺した。
「苺が乗ってるところがいい」
「わかりました」
一度甘えると決めたら遠慮はしないたちらしい。意外だったが悪い気はしない、赤い苺と白いクリームが美しいケーキを一口、彼の口に放り込む。彼は目を閉じてじっくり咀嚼し、やがて眠そうだがにっこりと笑った。
「美味しい。ありがとう」
「よかったです」
「まだ時間はあるよね?……時間が来るまで、こうしていてもいいかな?」
ミコトの肩に頬を寄せ、ヒイラギは落ち着いた息をつく。彼の張り詰めた空気が柔らかく溶け、ふわふわとした空気が漂う。
「いいですよ。クリスマスくらい、ゆっくりしましょう」
ミコトはキャストでヒイラギは客、度を越す接触はしない。放り出されたヒイラギの手を握りたい気持ちもあるけれど、肩を貸すに留める。
「ありがとう。魔界でこんな時間を過ごせるなんて思わなかった。……メリークリスマス」
「メリークリスマス、ヒイラギさん」
微笑むヒイラギの頭をほんのひと撫でしてみた。青い髪がさらさらと心地よく掌を流れる。ヒイラギはふふ、と笑みを漏らしミコトに体を預けてくる。ずいぶんと甘えたがりのお客さんだ。でも、たまには……こんな甘えたがりの人と心静かにクリスマスを過ごしてもいい。きっとお互いに忘れられないクリスマスになるだろう。