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僕は成り行きで新たな宇宙を創世した神。創世の直後はとんでもない達成感があったが、がむしゃらに戦っていた僕は目的を見失ってしまった。絶望しそうになった。でも創世により得た神の力を実感するにつれ、僕はきっと何でもできてしまう、そう思った。
人間は愚かだ。ナホビノになる前は僕も人間だったし、大人は手の届かない存在だと思っていたが、どんな賢人も聖人もしょせんはただの人間。神の力を手にした僕の前にひれ伏すしかない。今や僕はこの世界の全てを見通す目を持っているし、目に見える運命の糸をほんの少し解いたり切ったりしてやれば、人間の人生や感情なんてすぐに操れてしまう。
ずっと創世そのものが目的で、創世してからどうするということは考えていなかった。でもようやくやりたいことを見つけた。
僕は新たな世界の神となる。神たる僕の名のもとに、人はすべからく跪くべきだ。
「ねえミコト、最近どう?」
土曜日の昼下がり、ほどよいざわめきに包まれた喫茶店。月森ミコトは昔からの友人とたわいもない話をしていた。互いに社会人になり会える時間は限られるが、定期的に会って雑談に花を咲かせていた。
「どう……って、特に変わったことはないかな。そっちは?」
「この前さ、職場にパワハラ上司がいるって話したじゃない?」
「言ってたね。それがどうかした?」
コーヒーを飲みながら尋ねると、友人はにんまりと嬉しそうに笑った。何か悪い話かもしれないと身構えたが、そうではないようだ。
「上司が異動になったの!もう本当に嬉しくて!」
「そうなんだ、よかったね。ずっとしんどいって言ってたよね」
「ほんとに!あの上司がいなくなってから仕事が楽しくてさ!よかったー!」
憑き物が落ちた晴れやかな顔をしている友人を見て、ミコトは心底ホッとした。数ヶ月前に彼女と話したときは、上司からのパワハラが辛いと聞かされ心配していた。あのときの友人は表情も声も暗く心を病んでしまわないかと思ったものだが、大きく事態が好転したようでミコトは我がことのように喜んだ。
「そういえば、ミコトも職場のことで悩んでなかったっけ?」
「そうなのよ……」
友人の話を聞いて思い出してしまった。隣のデスクにいる先輩。何故かミコトを目の敵にし、日々細々とした嫌がらせをしてくる。嫌がらせ自体は筆記用具を隠される、先輩の些細なミスをミコトのせいにされる、雑用を押しつけられるといったモラハラ、パワハラとまでは言いづらいものだが、それが毎日となると地味に精神力を削られる。当初はただの気のせいかと流していたが、さすがに看過できなくなってきた。
「先輩が嫌がらせしてくるんだったよね。最近はどうなの?」
「今も変わらない。ずーっと小さい嫌がらせを続けてくるの。そろそろ上司に相談した方がいいかな……」
脳裏に先輩のにやにやした顔が浮かぶ。思い出しただけで憂鬱になる話題だ。ミコトが俯き気味に呟くと、
「ミコトにいい話があるの。ねえ、しんこうに興味はない?」
「しんこう……?」
爽やかな笑顔を浮かべた友人がミコトを期待の眼差しで見つめていた。この話の流れで「しんこう」の正しい漢字変換ができず、ミコトは困惑した。
「さっき上司が異動したって言ったでしょ?教祖様に相談してしばらくしたら異動になったの」
「きょ、教祖……?」
「教祖様は素晴らしいお方なの!ミコトも相談してみたらいいと思うの。きっとお力を貸してくれる」
友人はミコトではなく斜め上に視線を移し、恍惚とした顔をしていた。危ないクスリでもキメているのではないかと思うほどの豹変ぶりで、ミコトは訝しんだ。久しぶりに会った友人から高い壺を買わされそうになるとか聞いたことがあるが、まさか自分の身に降りかかることだったとは。
「そういえば元カレにストーカーされてるって言ってたでしょ?それも教祖様なら解決してくださるわ!」
「……」
どちらかといえば、先輩よりも元カレの方がよほど放っておけない問題だった。数ヶ月前、あまりのだらしなさに幻滅して別れた元カレ。刺激しないように別れたつもりだったが、職場からの帰り道や休日の外出時等、高頻度で元カレの姿を目にするようになった。別れてからずっと悩まされており気苦労は絶えない。警察に相談もしたが、直接の被害はないので相談だけで終わってしまった。もしも元カレのことが解決するならばありがたい話だが……よりによって怪しすぎる「教祖様」の言葉。あまり頼りたくない言葉だった。
「……ねえ、どうしたの急に。教祖様とか……宗教とか興味ないって言ってたじゃない」
「確かにそうだったの。でも、目を開く瞬間ってあるのよミコト!ミコトも教祖様にお会いすればわかるわ!」
目を大きく見開いて身を乗り出しながらまくし立てる友人に恐怖を覚えた。彼女の急激な変化は心配だが、それよりも怪しい信仰を押しつけられる方が恐ろしい。
「ごめん、体調悪くなってきた。お金は置いてくから!また埋め合わせはするから、ごめん!」
現金をテーブルに置き、ミコトは立ち上がり迷いなく出口に歩いていく。友人の声が後ろから聞こえるが振り返らない。咄嗟についた嘘だったが、何だか本当に気分が悪くなってきた。久しぶりに会った友人が危ない宗教にのめり込んでいるなんて……ミコトの口から重いため息が漏れた。
豹変した友人の様子に恐れ慄いた日から数週間。友人の記憶が薄れてきた頃、ミコトは休日の街を歩いていた。穏やかな昼下がりの快晴、心地よい散歩のはずだった。……十数メートル後ろに元カレがいなければ。
元カレがつけてきていることには早い段階から気付いていた。走ったところでミコトの足では元カレを振り切れないし、ただただ後ろをついて歩いてくるだけなので実害はなく、無視を決め込むことにしていた。それでもつかず離れずの距離に不愉快な人物が張り付いていると思うと、精神をじわじわと蝕まれる。
背後に向いてしまう意識を何とか剥がしながら歩いていくと、見慣れない教会のような建物の前に立っている少年を見かけた。不安そうに周りをきょろきょろと見回している。見るからに困った様子の彼をミコトは放っておけなかった。
「どうしたの?」
ミコトが声をかけると、少年は一瞬肩を竦ませてミコトに視線を向けた。背が高く女性的な顔立ちの少年だった。白百合が描かれた学ランがよく似合う。よく見ると手に何かを握りしめていた。
「あ、ええと……落とし物を拾って……」
少年が見せたのはハンカチだった。眩いくらいに白く手触りのよさそうな代物で、それなりの値段がしそうな一品だった。
「そこの建物に入っていった人が落としていったんです。届けたいんですけど、知らない場所で怖くて……」
ミコトは少年が指差す建物を一瞥した。あまり大きくない白い壁の建物、三角の屋根の上に十字架に似た形のシンボルを掲げている。看板には礼拝等のスケジュールが書かれており、教会らしいことが伺える。教会の名前がどこにも書いていないが、小さい教会なら名前がないこともあるのだろうとミコトは納得し、
「不安なら、私も一緒に行こうか?」
少年に提案した。少年は目を丸くしつつも、
「え、いいんですか?」
「落とし物を届けるだけでしょ?大した時間はかからないし、それくらいいいよ」
「あ、ありがとうございます!」
大袈裟な所作でミコトに頭を下げた。ミコトはその様子を微笑ましく見つめていた。そんなにかしこまることではないのに。
「じゃあ、行こうか」
少年を視線で促し、ミコトは建物の扉の前に立った。濃い茶色の木製の扉。ぐっと押すと、ぎぎ……と重い音を立ててゆっくりと扉が開く。
扉を開けて入った先は暗い空間だった。一般的な教会と同じ縦長の礼拝堂のようなつくりだが、窓がなくとにかく暗い。入り口から奥まで臙脂色の絨毯が敷かれ、絨毯の左右両端、それぞれに一列に人が立ち並んでいる。皆一様に白いフードのついたゆったりした服で全身を覆い、俯き加減でフードを目深に被っており顔がよく見えない。彼らはそれぞれ燭台を持ち、その上で蝋燭の炎が揺らめき部屋を照らしている。蝋燭の灯りでかろうじて見える最奥には、玉座のような立派な椅子が置かれている。
「え……?」
異様だった。想像していた内装と違う。遅れて入ってきた少年がカツカツと足音を鳴らして奥に歩いていく。先ほどまでの不安げな様子はどこへやら、迷いのない歩み。咄嗟にミコトが後ろを振り返ると、扉の前に白いフードの人物が立ち退路を塞いでいた。
「お姉さん」
涼やかな声が響き振り返ると、部屋の最奥、玉座の前にあの少年が立っていた。近くにいたフードの人物から白いフードのついた服を受け取り、裾を大きく翻し身にまとう。白百合の学ランが白い服に覆われ、麗しい顔にフードの影がかかる。部屋の暗さ、フードの影が相まって少年の金色の瞳が月のように浮かび上がる。
「僕は迷える人の子を救う、神たる教祖。ようこそ、僕の『幸福の教団』へ。歓迎するよ」
胸に手を当てのたまう少年の言葉が終わると同時、一列に並んだフードの彼らが歓声を上げた。暗い空間に声がこだまし、不気味な熱狂が渦巻く。
「お姉さんは初めてだよね。じゃあまずは僕とお話しようか。お姉さんのこと、色々知りたいな」
少年はにっこり笑うと部屋の奥にある扉の向こうに消えていく。異様な空気に飲まれていたミコトだったが、我に返った。このままではいけない、どう考えても危ない集団の中にいる。そう思って踵を返そうとしたが、気がつくと両隣にフードの人間がひとりずつ立っており、両手をそれぞれ握られてしまう。
「離して!」
声を上げて振り払おうとしたが、
「静かにしてください」
「我らが教祖様があなたとのお話を所望です」
二人が顔を挟むように左右からミコトの耳元に迫り囁いた。ぎゅう、と手を握る力が強くなる。ぞわりと首筋が粟立ち硬直したミコトの手を引き、両脇の二人が歩き始める。それなりに強い力で手を引かれ、立ち止まる選択肢を奪われる。自分の意思に反して歩き続けるわずかな時間に、ミコトは冷や汗を流した。どうすればこの状況を脱することができるか混乱した頭で考えるが、答えは見つかりそうにない。
少年が消えた扉の先には、真っ直ぐ伸びる廊下。やはりというか窓がなく暗かった。等間隔に燭台が設置され不安定な蝋燭の炎が照らすのみ。この暗さは悪い感情を生み出す。ミコトは止まらない冷や汗と悪寒に何も言葉が出てこなかった。
「さあ」
「こちらです」
二人に手を取られ歩き続け、ある扉の前で立ち止まる。ごく普通の木製の扉。ひとりが扉を開いた。やはり室内は暗く、中の様子はよくわからない。二人の手が離れた途端背中を押され、よろめいた。
「……え?」
ふと後ろを振り返り隣にいたフードの人物を見ると、少し前に陶然とした顔で教祖を讃えていた友人だった。友人はミコトと目が合っても夢見心地の怪しい笑顔を浮かべているだけで何も言わない。まさかミコトだとわかっていないのだろうか?
「ほら、早く」
「お進みください」
友人を認識して硬直していたミコトの背中が再び押される。完全に室内に体が収まった瞬間、ぎぎぎ、と不穏な音がして扉が閉まった。慌てて押したり引いたりしたが開かない。
「お姉さん、待ってたよ」
声が聞こえる。弾かれたように振り返り部屋の奥に目をやると、丸い小さなテーブルに少年が座り、頬杖をついてミコトを見据えていた。金色の目を細めて柔和に笑っている。蝋燭の灯りしかない暗い部屋の中で、彼の金色の双眸は不気味なほど目立つ。
「まあ座ってよ。立ちっぱなしはしんどいでしょ?」
「……嫌。帰して」
「そっかあ。じゃあ僕がそっち行くね」
少年は立ち上がり、ミコトの前に立った。橙に揺らぐ蝋燭の灯りを受けて輝く金色の目は、美しいが不穏だ。
「ほら、これあげる。綺麗でしょ?」
少年の不自然なまでに白い手が差し伸べられ、掌には先ほどの白いハンカチ。到底受け取る気になれず、ミコトは少年を睨みつけた。
「お姉さん、そんな睨まないでよ」
「怪しい宗教だってわかってたら入らなかった。最初から引き込むつもりだったわけね」
「人聞きが悪いなあ。僕はお姉さんに悩みがあるのがわかったから、どうにかしてあげたいだけだよ」
少年は子供っぽく笑うと、銃の形にした右手をミコトの額に突きつけた。
「僕わかってるよ。お姉さん、職場のことで悩んでるね?あとは……そうだな、四六時中後ろをつけてくるストーカーとかいない?」
「……!なんで……」
「当たり、だね」
困惑するミコトだったが、少年はずっと笑顔を浮かべている。こんな場所とシチュエーションでなければ見惚れるほどの、麗しい笑み。
「僕は何でも知ってるよ?だって僕、神たる教祖だから」
少年は慈愛に満ちた眼差しをミコトに向けながら、両腕を広げた。聖母がこの世の全てを抱きしめようとしているかのような、神々しい所作だった。
「お姉さん、言ってみなよ。助けてくださいって。お姉さんのお友達みたいに、悩みを解決してあげるよ」
ね?と小首を傾げながら少年がミコトの顔を覗き込んでくる。フードの影の中で爛々と輝く金色の眼差しがミコトを捉えていた。お姉さんのお友達――心当たりしかない。数週間前、教祖様に相談したら問題が解決したと言っていた。その教祖が、目の前にいる少年?少年は自分を神たる教祖とのたまう、ちょっと、いやかなり精神状態を疑ってしまうような人間だが……彼に一言助けを求めれば解決するのだろうか?本当に?些細な、しかし永続的な悪意を向けてくる職場の先輩や、実害はないが背後をつかず離れずの距離でついてくる、日常を蝕む元カレも?職場に相談するほどのことでもないし、きっと相談しても気のせいで一蹴される。警察にも相談したが実績作りで終わってしまった。目の前の少年は?……ミコト自身この建物に入ってから異様な空気に当てられ、思考が鈍っていた。
「何とか、できるの?」
「できるよ」
尋ねた言葉に即答。少年は得意げに微笑む。
「何とかしてほしい……」
藁にもすがる思いとはまさにこのこと。もうどうにでもなれと呟いた言葉に、少年は笑った。
「僕に任せて。助けてあげるからね」
熱に浮かされるように初対面の怪しい少年に助けを求めてから数日。月森ミコトは後悔していた。いくらあの場の雰囲気に飲まれたとはいえ、どう考えても怪しい宗教の教祖を名乗る人物に助けを求めるなどと。あの少年はすでにミコトのことを知っていたような口ぶりで友人にも顔を見られただろうから、金銭の要求でもされるのかと戦々恐々としていたが、あれから何の接触もなかった。特に友人からは何か言われるだろうと身構えていたが、メッセージひとつ、電話ひとつない。あれはもしかしたら精神的疲労が限界に達して見た白昼夢だったのかもしれない。……もし本当にそうなら、病院に行くべきかもしれない。ミコトはそんな風に思いながらいつもどおり出勤した。何だかオフィス内がざわついている。何だろうと思いながらデスクに鞄を置き隣を見た。例の先輩のデスク――妙に片付いている。この時間なら先輩は職場に来ているはずなのに、電車に乗り遅れたんだろうか。そんな風に思っていると、同僚がミコトに近寄ってきた。
「月森さん、メール見た?」
「メール?何かあったの?」
「××先輩、今日付けで異動だって!」
「……えっ?」
突然のことに驚きメールを確認すると、「人事異動のお知らせ」と題する新着メール。中身は先ほど同僚が言ったとおりの内容だった。まだ異動の時期ではないし、唐突すぎる。ミコトは眉を顰めた。
「本当だ……。そんな話、部長からあったっけ?」
「ないない!もう今朝はこの話でもちきり!相当ヤバいことをやらかしたんじゃないかって噂だよ〜。怖いね〜」
ぶるる、とわざとらしく体を震わせる同僚をよそに、ミコトにはひとつ思い当たる節があった。
「僕に任せて。助けてあげるからね」
数日前に聞いた心地よい声が蘇る。まさか……?いや、ただの偶然だろう。ミコトは首を振った。彼はただの少年にしか見えなかったし、ミコトの職場に関わりのある人間でもないだろう。それにこの数日で何ができるというのか。先輩は何か重大な不正を働いていたとかで処分を受けただけだろう。単にミコトが知らなかっただけだ。職場の全てを知っているわけじゃなし、そう考えるのが自然だ。そう。きっとそうだ。このときのミコトはそう結論づけた。
そうして隣のデスクの先輩がいなくなり、ミコトは久しぶりに快適な職場環境を享受していた。あとは外に出ているときにほぼ百パーセント後ろをつけてくる元カレさえ何とか解決できれば……そう思いながら迎えたある夜。仕事を終えたミコトは自宅に帰り、夕食を食べながらぼんやりとテレビを見ていた。
『では次のニュースです。◯◯区在住の二十代男性宅に侵入し殺害したとして、◯◯区在住の自称会社員が逮捕されました』
誰かが殺されるなど痛ましいが、自分には関係のないニュース。そう思った。……被害者として元カレの写真がテレビに映るまでは。
「……えっ?」
思わず硬直した。運転免許証に使われるような、青い背景の真正面から撮影された写真。淡々と原稿を読み上げるアナウンサーの声が左右の耳を震わせる。何があったのかは知らないが、何者かに元カレが殺されたらしい。ぞわりと背筋が冷たくなった。都合よく、実にタイミングよく元カレが死んだ。これでもう二度と背後を気にする必要がなくなったが、ミコトは硬直して動けなかった。
あの教祖と囁く麗しい少年に助けを求めてから数日、ミコトの悩みの種が物理的に消え去った。先輩だけなら偶然といえるだろうが元カレもとなると、あの少年が何か手を回したのではないかと一瞬考えてしまう。……いや、何を言ってるんだ。たまたまだ。自分に都合のいいことが近い時期に重なることも、たまにはあるだろう。あの少年に一体何ができるというのだろう。そう。これは偶然。ミコトは自らに言い聞かせながら食事を続けた。少し前まで美味しいと思っていたものに、何の味も感じられなかった。
ミコトは白百合の少年と出会った教会の前に立っていた。相変わらず外観はごく普通の教会に見え、とても蝋燭の光しかない暗い空間に続いているようには見えない。
職場の隣にいた先輩は異動し、ミコトの後ろをつけていた元カレは死んだ。それらが少年によるものなのか、ただの偶然なのか確かめなければならない。ずっとどちらなのかと考えて気もそぞろだった。ミコトはごくりと唾を飲み、一歩踏み出した。重苦しい木の扉を押す。
「あ、お姉さん。そろそろ来てくれるかなって思ってたよ」
入り口から続く臙脂色の絨毯の先に、玉座に座る少年がいた。神秘的な白いフードのついた衣服、組んだ足の上に置かれた優雅に組んだ手。神、王、教祖。どの言葉で形容してもふさわしい、思わず見惚れてしまう美しさだった。
ミコトは数秒彼の美貌に言葉を失っていたが、はっと我に返った。絨毯の上を歩き、座っている少年を見下ろす。少年は余裕のある笑顔を浮かべてミコトの視線を受け止めていた。
「あれはあなたがやったの?」
「あれってなに?」
「…………」
すっとぼけているようにしか見えない少年の態度に、ミコトはぐっと口をつぐんだ。この少年は何をどこまで知っているのだろうか。上目遣いで凝視してくる少年の瞳は、ミコトのことなど見透かしているような……。そんな得体の知れなさを感じさせる。
しばらくじっと見つめ合っていたところ、少年は肘掛けに腕を置き頬杖をついた。
「職場の先輩とか、元カレのことでしょ?解決してよかったよね、ねえ」
「……!」
少年のくすくす笑う声が聞こえる。気がつくと少年は立ち上がり、至近距離でミコトを観察するように見つめていた。彼はミコトよりも背が高い、今度は見下ろされている。顔を覗き込まれ麗しい顔貌がすぐそこにあり息を呑んだ。
「僕に助けを求めてよかったでしょ?」
少年の指がミコトの顎を這い、俯き気味の顔をくいと上げた。美しく浮かぶ金色の瞳。とても綺麗だ。吸い込まれそうになる……。
「お姉さん。僕の教団、入ってくれるよね」
「はい……」
朧げな意識の中で、ミコトは頷いた。すると少年は愉快そうに笑い、
「はい、これ。今度こそ受け取ってくれるでしょ?」
いつぞや見た白いハンカチを差し出してきた。震える手で受け取る。さらさらしたハンカチの感触に触れた瞬間、ぎゅっと少年に手を握られた。ハンカチに勝るとも劣らない、滑らかな人肌の柔らかさを感じた。
「ありがとう、お姉さん」
畏れ多くもミコトの近くで笑う少年の顔は、この世のものとは思えぬほど美しかった。
僕は成り行きで新たな宇宙を創世した神。創世の直後はとんでもない達成感があったが、がむしゃらに戦っていた僕は目的を見失ってしまった。絶望しそうになった。でも創世により得た神の力を実感するにつれ、僕はきっと何でもできてしまう、そう思った。
人間は愚かだ。ナホビノになる前は僕も人間だったし、大人は手の届かない存在だと思っていたが、どんな賢人も聖人もしょせんはただの人間。神の力を手にした僕の前にひれ伏すしかない。今や僕はこの世界の全てを見通す目を持っているし、目に見える運命の糸をほんの少し解いたり切ったりしてやれば、人間の人生や感情なんてすぐに操れてしまう。
ずっと創世そのものが目的で、創世してからどうするということは考えていなかった。でもようやくやりたいことを見つけた。
僕は新たな世界の神となる。神たる僕の名のもとに、人はすべからく跪くべきだ。
「ねえミコト、最近どう?」
土曜日の昼下がり、ほどよいざわめきに包まれた喫茶店。月森ミコトは昔からの友人とたわいもない話をしていた。互いに社会人になり会える時間は限られるが、定期的に会って雑談に花を咲かせていた。
「どう……って、特に変わったことはないかな。そっちは?」
「この前さ、職場にパワハラ上司がいるって話したじゃない?」
「言ってたね。それがどうかした?」
コーヒーを飲みながら尋ねると、友人はにんまりと嬉しそうに笑った。何か悪い話かもしれないと身構えたが、そうではないようだ。
「上司が異動になったの!もう本当に嬉しくて!」
「そうなんだ、よかったね。ずっとしんどいって言ってたよね」
「ほんとに!あの上司がいなくなってから仕事が楽しくてさ!よかったー!」
憑き物が落ちた晴れやかな顔をしている友人を見て、ミコトは心底ホッとした。数ヶ月前に彼女と話したときは、上司からのパワハラが辛いと聞かされ心配していた。あのときの友人は表情も声も暗く心を病んでしまわないかと思ったものだが、大きく事態が好転したようでミコトは我がことのように喜んだ。
「そういえば、ミコトも職場のことで悩んでなかったっけ?」
「そうなのよ……」
友人の話を聞いて思い出してしまった。隣のデスクにいる先輩。何故かミコトを目の敵にし、日々細々とした嫌がらせをしてくる。嫌がらせ自体は筆記用具を隠される、先輩の些細なミスをミコトのせいにされる、雑用を押しつけられるといったモラハラ、パワハラとまでは言いづらいものだが、それが毎日となると地味に精神力を削られる。当初はただの気のせいかと流していたが、さすがに看過できなくなってきた。
「先輩が嫌がらせしてくるんだったよね。最近はどうなの?」
「今も変わらない。ずーっと小さい嫌がらせを続けてくるの。そろそろ上司に相談した方がいいかな……」
脳裏に先輩のにやにやした顔が浮かぶ。思い出しただけで憂鬱になる話題だ。ミコトが俯き気味に呟くと、
「ミコトにいい話があるの。ねえ、しんこうに興味はない?」
「しんこう……?」
爽やかな笑顔を浮かべた友人がミコトを期待の眼差しで見つめていた。この話の流れで「しんこう」の正しい漢字変換ができず、ミコトは困惑した。
「さっき上司が異動したって言ったでしょ?教祖様に相談してしばらくしたら異動になったの」
「きょ、教祖……?」
「教祖様は素晴らしいお方なの!ミコトも相談してみたらいいと思うの。きっとお力を貸してくれる」
友人はミコトではなく斜め上に視線を移し、恍惚とした顔をしていた。危ないクスリでもキメているのではないかと思うほどの豹変ぶりで、ミコトは訝しんだ。久しぶりに会った友人から高い壺を買わされそうになるとか聞いたことがあるが、まさか自分の身に降りかかることだったとは。
「そういえば元カレにストーカーされてるって言ってたでしょ?それも教祖様なら解決してくださるわ!」
「……」
どちらかといえば、先輩よりも元カレの方がよほど放っておけない問題だった。数ヶ月前、あまりのだらしなさに幻滅して別れた元カレ。刺激しないように別れたつもりだったが、職場からの帰り道や休日の外出時等、高頻度で元カレの姿を目にするようになった。別れてからずっと悩まされており気苦労は絶えない。警察に相談もしたが、直接の被害はないので相談だけで終わってしまった。もしも元カレのことが解決するならばありがたい話だが……よりによって怪しすぎる「教祖様」の言葉。あまり頼りたくない言葉だった。
「……ねえ、どうしたの急に。教祖様とか……宗教とか興味ないって言ってたじゃない」
「確かにそうだったの。でも、目を開く瞬間ってあるのよミコト!ミコトも教祖様にお会いすればわかるわ!」
目を大きく見開いて身を乗り出しながらまくし立てる友人に恐怖を覚えた。彼女の急激な変化は心配だが、それよりも怪しい信仰を押しつけられる方が恐ろしい。
「ごめん、体調悪くなってきた。お金は置いてくから!また埋め合わせはするから、ごめん!」
現金をテーブルに置き、ミコトは立ち上がり迷いなく出口に歩いていく。友人の声が後ろから聞こえるが振り返らない。咄嗟についた嘘だったが、何だか本当に気分が悪くなってきた。久しぶりに会った友人が危ない宗教にのめり込んでいるなんて……ミコトの口から重いため息が漏れた。
豹変した友人の様子に恐れ慄いた日から数週間。友人の記憶が薄れてきた頃、ミコトは休日の街を歩いていた。穏やかな昼下がりの快晴、心地よい散歩のはずだった。……十数メートル後ろに元カレがいなければ。
元カレがつけてきていることには早い段階から気付いていた。走ったところでミコトの足では元カレを振り切れないし、ただただ後ろをついて歩いてくるだけなので実害はなく、無視を決め込むことにしていた。それでもつかず離れずの距離に不愉快な人物が張り付いていると思うと、精神をじわじわと蝕まれる。
背後に向いてしまう意識を何とか剥がしながら歩いていくと、見慣れない教会のような建物の前に立っている少年を見かけた。不安そうに周りをきょろきょろと見回している。見るからに困った様子の彼をミコトは放っておけなかった。
「どうしたの?」
ミコトが声をかけると、少年は一瞬肩を竦ませてミコトに視線を向けた。背が高く女性的な顔立ちの少年だった。白百合が描かれた学ランがよく似合う。よく見ると手に何かを握りしめていた。
「あ、ええと……落とし物を拾って……」
少年が見せたのはハンカチだった。眩いくらいに白く手触りのよさそうな代物で、それなりの値段がしそうな一品だった。
「そこの建物に入っていった人が落としていったんです。届けたいんですけど、知らない場所で怖くて……」
ミコトは少年が指差す建物を一瞥した。あまり大きくない白い壁の建物、三角の屋根の上に十字架に似た形のシンボルを掲げている。看板には礼拝等のスケジュールが書かれており、教会らしいことが伺える。教会の名前がどこにも書いていないが、小さい教会なら名前がないこともあるのだろうとミコトは納得し、
「不安なら、私も一緒に行こうか?」
少年に提案した。少年は目を丸くしつつも、
「え、いいんですか?」
「落とし物を届けるだけでしょ?大した時間はかからないし、それくらいいいよ」
「あ、ありがとうございます!」
大袈裟な所作でミコトに頭を下げた。ミコトはその様子を微笑ましく見つめていた。そんなにかしこまることではないのに。
「じゃあ、行こうか」
少年を視線で促し、ミコトは建物の扉の前に立った。濃い茶色の木製の扉。ぐっと押すと、ぎぎ……と重い音を立ててゆっくりと扉が開く。
扉を開けて入った先は暗い空間だった。一般的な教会と同じ縦長の礼拝堂のようなつくりだが、窓がなくとにかく暗い。入り口から奥まで臙脂色の絨毯が敷かれ、絨毯の左右両端、それぞれに一列に人が立ち並んでいる。皆一様に白いフードのついたゆったりした服で全身を覆い、俯き加減でフードを目深に被っており顔がよく見えない。彼らはそれぞれ燭台を持ち、その上で蝋燭の炎が揺らめき部屋を照らしている。蝋燭の灯りでかろうじて見える最奥には、玉座のような立派な椅子が置かれている。
「え……?」
異様だった。想像していた内装と違う。遅れて入ってきた少年がカツカツと足音を鳴らして奥に歩いていく。先ほどまでの不安げな様子はどこへやら、迷いのない歩み。咄嗟にミコトが後ろを振り返ると、扉の前に白いフードの人物が立ち退路を塞いでいた。
「お姉さん」
涼やかな声が響き振り返ると、部屋の最奥、玉座の前にあの少年が立っていた。近くにいたフードの人物から白いフードのついた服を受け取り、裾を大きく翻し身にまとう。白百合の学ランが白い服に覆われ、麗しい顔にフードの影がかかる。部屋の暗さ、フードの影が相まって少年の金色の瞳が月のように浮かび上がる。
「僕は迷える人の子を救う、神たる教祖。ようこそ、僕の『幸福の教団』へ。歓迎するよ」
胸に手を当てのたまう少年の言葉が終わると同時、一列に並んだフードの彼らが歓声を上げた。暗い空間に声がこだまし、不気味な熱狂が渦巻く。
「お姉さんは初めてだよね。じゃあまずは僕とお話しようか。お姉さんのこと、色々知りたいな」
少年はにっこり笑うと部屋の奥にある扉の向こうに消えていく。異様な空気に飲まれていたミコトだったが、我に返った。このままではいけない、どう考えても危ない集団の中にいる。そう思って踵を返そうとしたが、気がつくと両隣にフードの人間がひとりずつ立っており、両手をそれぞれ握られてしまう。
「離して!」
声を上げて振り払おうとしたが、
「静かにしてください」
「我らが教祖様があなたとのお話を所望です」
二人が顔を挟むように左右からミコトの耳元に迫り囁いた。ぎゅう、と手を握る力が強くなる。ぞわりと首筋が粟立ち硬直したミコトの手を引き、両脇の二人が歩き始める。それなりに強い力で手を引かれ、立ち止まる選択肢を奪われる。自分の意思に反して歩き続けるわずかな時間に、ミコトは冷や汗を流した。どうすればこの状況を脱することができるか混乱した頭で考えるが、答えは見つかりそうにない。
少年が消えた扉の先には、真っ直ぐ伸びる廊下。やはりというか窓がなく暗かった。等間隔に燭台が設置され不安定な蝋燭の炎が照らすのみ。この暗さは悪い感情を生み出す。ミコトは止まらない冷や汗と悪寒に何も言葉が出てこなかった。
「さあ」
「こちらです」
二人に手を取られ歩き続け、ある扉の前で立ち止まる。ごく普通の木製の扉。ひとりが扉を開いた。やはり室内は暗く、中の様子はよくわからない。二人の手が離れた途端背中を押され、よろめいた。
「……え?」
ふと後ろを振り返り隣にいたフードの人物を見ると、少し前に陶然とした顔で教祖を讃えていた友人だった。友人はミコトと目が合っても夢見心地の怪しい笑顔を浮かべているだけで何も言わない。まさかミコトだとわかっていないのだろうか?
「ほら、早く」
「お進みください」
友人を認識して硬直していたミコトの背中が再び押される。完全に室内に体が収まった瞬間、ぎぎぎ、と不穏な音がして扉が閉まった。慌てて押したり引いたりしたが開かない。
「お姉さん、待ってたよ」
声が聞こえる。弾かれたように振り返り部屋の奥に目をやると、丸い小さなテーブルに少年が座り、頬杖をついてミコトを見据えていた。金色の目を細めて柔和に笑っている。蝋燭の灯りしかない暗い部屋の中で、彼の金色の双眸は不気味なほど目立つ。
「まあ座ってよ。立ちっぱなしはしんどいでしょ?」
「……嫌。帰して」
「そっかあ。じゃあ僕がそっち行くね」
少年は立ち上がり、ミコトの前に立った。橙に揺らぐ蝋燭の灯りを受けて輝く金色の目は、美しいが不穏だ。
「ほら、これあげる。綺麗でしょ?」
少年の不自然なまでに白い手が差し伸べられ、掌には先ほどの白いハンカチ。到底受け取る気になれず、ミコトは少年を睨みつけた。
「お姉さん、そんな睨まないでよ」
「怪しい宗教だってわかってたら入らなかった。最初から引き込むつもりだったわけね」
「人聞きが悪いなあ。僕はお姉さんに悩みがあるのがわかったから、どうにかしてあげたいだけだよ」
少年は子供っぽく笑うと、銃の形にした右手をミコトの額に突きつけた。
「僕わかってるよ。お姉さん、職場のことで悩んでるね?あとは……そうだな、四六時中後ろをつけてくるストーカーとかいない?」
「……!なんで……」
「当たり、だね」
困惑するミコトだったが、少年はずっと笑顔を浮かべている。こんな場所とシチュエーションでなければ見惚れるほどの、麗しい笑み。
「僕は何でも知ってるよ?だって僕、神たる教祖だから」
少年は慈愛に満ちた眼差しをミコトに向けながら、両腕を広げた。聖母がこの世の全てを抱きしめようとしているかのような、神々しい所作だった。
「お姉さん、言ってみなよ。助けてくださいって。お姉さんのお友達みたいに、悩みを解決してあげるよ」
ね?と小首を傾げながら少年がミコトの顔を覗き込んでくる。フードの影の中で爛々と輝く金色の眼差しがミコトを捉えていた。お姉さんのお友達――心当たりしかない。数週間前、教祖様に相談したら問題が解決したと言っていた。その教祖が、目の前にいる少年?少年は自分を神たる教祖とのたまう、ちょっと、いやかなり精神状態を疑ってしまうような人間だが……彼に一言助けを求めれば解決するのだろうか?本当に?些細な、しかし永続的な悪意を向けてくる職場の先輩や、実害はないが背後をつかず離れずの距離でついてくる、日常を蝕む元カレも?職場に相談するほどのことでもないし、きっと相談しても気のせいで一蹴される。警察にも相談したが実績作りで終わってしまった。目の前の少年は?……ミコト自身この建物に入ってから異様な空気に当てられ、思考が鈍っていた。
「何とか、できるの?」
「できるよ」
尋ねた言葉に即答。少年は得意げに微笑む。
「何とかしてほしい……」
藁にもすがる思いとはまさにこのこと。もうどうにでもなれと呟いた言葉に、少年は笑った。
「僕に任せて。助けてあげるからね」
熱に浮かされるように初対面の怪しい少年に助けを求めてから数日。月森ミコトは後悔していた。いくらあの場の雰囲気に飲まれたとはいえ、どう考えても怪しい宗教の教祖を名乗る人物に助けを求めるなどと。あの少年はすでにミコトのことを知っていたような口ぶりで友人にも顔を見られただろうから、金銭の要求でもされるのかと戦々恐々としていたが、あれから何の接触もなかった。特に友人からは何か言われるだろうと身構えていたが、メッセージひとつ、電話ひとつない。あれはもしかしたら精神的疲労が限界に達して見た白昼夢だったのかもしれない。……もし本当にそうなら、病院に行くべきかもしれない。ミコトはそんな風に思いながらいつもどおり出勤した。何だかオフィス内がざわついている。何だろうと思いながらデスクに鞄を置き隣を見た。例の先輩のデスク――妙に片付いている。この時間なら先輩は職場に来ているはずなのに、電車に乗り遅れたんだろうか。そんな風に思っていると、同僚がミコトに近寄ってきた。
「月森さん、メール見た?」
「メール?何かあったの?」
「××先輩、今日付けで異動だって!」
「……えっ?」
突然のことに驚きメールを確認すると、「人事異動のお知らせ」と題する新着メール。中身は先ほど同僚が言ったとおりの内容だった。まだ異動の時期ではないし、唐突すぎる。ミコトは眉を顰めた。
「本当だ……。そんな話、部長からあったっけ?」
「ないない!もう今朝はこの話でもちきり!相当ヤバいことをやらかしたんじゃないかって噂だよ〜。怖いね〜」
ぶるる、とわざとらしく体を震わせる同僚をよそに、ミコトにはひとつ思い当たる節があった。
「僕に任せて。助けてあげるからね」
数日前に聞いた心地よい声が蘇る。まさか……?いや、ただの偶然だろう。ミコトは首を振った。彼はただの少年にしか見えなかったし、ミコトの職場に関わりのある人間でもないだろう。それにこの数日で何ができるというのか。先輩は何か重大な不正を働いていたとかで処分を受けただけだろう。単にミコトが知らなかっただけだ。職場の全てを知っているわけじゃなし、そう考えるのが自然だ。そう。きっとそうだ。このときのミコトはそう結論づけた。
そうして隣のデスクの先輩がいなくなり、ミコトは久しぶりに快適な職場環境を享受していた。あとは外に出ているときにほぼ百パーセント後ろをつけてくる元カレさえ何とか解決できれば……そう思いながら迎えたある夜。仕事を終えたミコトは自宅に帰り、夕食を食べながらぼんやりとテレビを見ていた。
『では次のニュースです。◯◯区在住の二十代男性宅に侵入し殺害したとして、◯◯区在住の自称会社員が逮捕されました』
誰かが殺されるなど痛ましいが、自分には関係のないニュース。そう思った。……被害者として元カレの写真がテレビに映るまでは。
「……えっ?」
思わず硬直した。運転免許証に使われるような、青い背景の真正面から撮影された写真。淡々と原稿を読み上げるアナウンサーの声が左右の耳を震わせる。何があったのかは知らないが、何者かに元カレが殺されたらしい。ぞわりと背筋が冷たくなった。都合よく、実にタイミングよく元カレが死んだ。これでもう二度と背後を気にする必要がなくなったが、ミコトは硬直して動けなかった。
あの教祖と囁く麗しい少年に助けを求めてから数日、ミコトの悩みの種が物理的に消え去った。先輩だけなら偶然といえるだろうが元カレもとなると、あの少年が何か手を回したのではないかと一瞬考えてしまう。……いや、何を言ってるんだ。たまたまだ。自分に都合のいいことが近い時期に重なることも、たまにはあるだろう。あの少年に一体何ができるというのだろう。そう。これは偶然。ミコトは自らに言い聞かせながら食事を続けた。少し前まで美味しいと思っていたものに、何の味も感じられなかった。
ミコトは白百合の少年と出会った教会の前に立っていた。相変わらず外観はごく普通の教会に見え、とても蝋燭の光しかない暗い空間に続いているようには見えない。
職場の隣にいた先輩は異動し、ミコトの後ろをつけていた元カレは死んだ。それらが少年によるものなのか、ただの偶然なのか確かめなければならない。ずっとどちらなのかと考えて気もそぞろだった。ミコトはごくりと唾を飲み、一歩踏み出した。重苦しい木の扉を押す。
「あ、お姉さん。そろそろ来てくれるかなって思ってたよ」
入り口から続く臙脂色の絨毯の先に、玉座に座る少年がいた。神秘的な白いフードのついた衣服、組んだ足の上に置かれた優雅に組んだ手。神、王、教祖。どの言葉で形容してもふさわしい、思わず見惚れてしまう美しさだった。
ミコトは数秒彼の美貌に言葉を失っていたが、はっと我に返った。絨毯の上を歩き、座っている少年を見下ろす。少年は余裕のある笑顔を浮かべてミコトの視線を受け止めていた。
「あれはあなたがやったの?」
「あれってなに?」
「…………」
すっとぼけているようにしか見えない少年の態度に、ミコトはぐっと口をつぐんだ。この少年は何をどこまで知っているのだろうか。上目遣いで凝視してくる少年の瞳は、ミコトのことなど見透かしているような……。そんな得体の知れなさを感じさせる。
しばらくじっと見つめ合っていたところ、少年は肘掛けに腕を置き頬杖をついた。
「職場の先輩とか、元カレのことでしょ?解決してよかったよね、ねえ」
「……!」
少年のくすくす笑う声が聞こえる。気がつくと少年は立ち上がり、至近距離でミコトを観察するように見つめていた。彼はミコトよりも背が高い、今度は見下ろされている。顔を覗き込まれ麗しい顔貌がすぐそこにあり息を呑んだ。
「僕に助けを求めてよかったでしょ?」
少年の指がミコトの顎を這い、俯き気味の顔をくいと上げた。美しく浮かぶ金色の瞳。とても綺麗だ。吸い込まれそうになる……。
「お姉さん。僕の教団、入ってくれるよね」
「はい……」
朧げな意識の中で、ミコトは頷いた。すると少年は愉快そうに笑い、
「はい、これ。今度こそ受け取ってくれるでしょ?」
いつぞや見た白いハンカチを差し出してきた。震える手で受け取る。さらさらしたハンカチの感触に触れた瞬間、ぎゅっと少年に手を握られた。ハンカチに勝るとも劣らない、滑らかな人肌の柔らかさを感じた。
「ありがとう、お姉さん」
畏れ多くもミコトの近くで笑う少年の顔は、この世のものとは思えぬほど美しかった。