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ホワイトナイトに守られたい
縄印学園高等科三年生月森ミコト、ただいま全力で困惑しております。
「えーっと……ここどこ……?」
とりあえず辺りを見回す。どこを見ても砂、砂、砂。なんでかわからないけど、私は今砂漠のど真ん中にいる。うろうろ歩いてみたけれど、ずーっと砂漠が続いていて、どこをどう歩いているのかよくわからない。誰もいないし、建物とか目印になりそうなものもない。むやみに歩き回ると疲れちゃうかも。ひとまず立ち止まってこめかみの辺りを指先でトントン叩きながら、私はこうなるまでの経緯を思い返した。
今日は平日だから、いつもどおり寮から学園に行って、授業を受けて。今日はちょっと野暮用があったから、放課後高輪トンネルの向こうに行こうとして歩いていた。高輪トンネルは暗いし歩きにくいけど、何度も通った普通のトンネル。高輪トンネルを通っても今まで何もなかったけど、今日は高輪トンネルを抜けたらこのとおり、いつの間にか砂漠のど真ん中に突っ立っていた。砂漠に着いたとき後ろを見たけどトンネルなんか綺麗になくなっていたし、どこか知らないところにワープしてきた、という感じなのかな。……ここがどこかわからないし、どうやって帰ればいいかもわからないし、ものすごく困る。風が吹くと細かい砂が飛んできて目が痛い。砂漠だけど暑くはないのが唯一の救いだろうか。
「うーん……」
空を見上げてみた。晴れ渡る空。太陽が大きく輝いている。雲一つない晴天だけど、何にも手がかりはない。いや当然なんだけど、ちょっと何かないかなとか思っただけだ。
「歩くしかないかなあ……」
ここでぼーっと突っ立っていても何もなさそうだし、何かあると信じて歩いた方がまだ建設的な気がする。歩いて歩いて何もなかったらそれは絶望なんだけど、希望があるかどうかもやってみないとわからない。ときどき吹く風に目を細めながら、私は歩き始めた。どこを見ても同じ砂だらけの景色だから方角なんてわからないけど、とりあえず歩いていく。
どれくらい歩いただろう?振り返ると、私が歩いた足跡が残っている。体力的にはまだ問題ないけど、こんなに何もないと困るなあ……そう思いながら前を向いて歩こうとしたとき、
「……え!?」
何か宙に浮くものが見えた。細い体に蝙蝠のような羽根、両手に小さな槍を持っている。どう見ても人間じゃないよくわからない何かが三体、私を不気味な目で見ている。私を狙っている。殺される。直感的にそう思った。逃げなきゃ……!!今すぐ背を向けて逃げたかったけど、足が震えて動けない。むしろ力が入らなくて、その場に座り込んでしまった。ばさばさと羽根がうごめく音がする。私を品定めするように見ていた一体がふわりと高く浮いて、槍を私に向けて急降下してきたのが見えた。
――私、こんなよくわからない砂漠で死んじゃうんだ。
目を閉じることもできなくて槍を凝視していると、突然私の前に誰かが立った。バキン!と鋭い音が響いた。半分に折れた槍が砂の上に落ちる。
「……へ、ぇえ……?」
とんでもなく間抜けな声が出た。私を庇うように現れた人は、全身白っぽい不思議な服を着ていて髪が青い。右手の先から白く輝く剣みたいなものが出ている。その人は私に背中を向けて立っていて、ちらりと私を見た。
「間に合ったようだ」
「間に合う……?」
「君を守る。悪魔を殲滅する」
機械じみた平坦な声が聞こえたと思った瞬間、その人は右手の先の剣で私を狙っていた三体に斬りかかった。つむじ風が吹き、剣の一振りで三体が綺麗に横真っ二つに斬れる。砂の上に落ちた死体には目もくれず、その人は振り返り私を見た。
「手を取れ」
座り込んでいる私に手が差し伸べられる。白い手袋?に包まれた大きな掌。思わずその人の顔と手を二度見してしまった。その人は金色の目で私をじっと見ている。硬直する私に気を悪くした風もなく、手を差し伸べたまま待ってくれる。……無表情で冷たい人みたいに見えるけど、意外と優しい人なのかな。
「あ、ありがとうございます……」
差し伸べられた掌に手を置き、立ちあがろうとする。まだ足に力が入りきらなくてふらつき倒れそうになったところを、白い人に抱き止められる。腰に彼の手が回り、ごく自然に抱き寄せられた。
「!?」
「立てるか」
急に初対面の男の人と体が密着して声が出なくなった。彼は背が高くて胸板も厚くて腕も逞しくて、大人でもなかなか見かけない体格の人。そんな人にほぼ抱きしめられている体勢だからどぎまぎもする。彼の整った顔をすぐ近くで見て、顔が熱くなっていくのを感じた。
「急激な体温の上昇を感知。体調不良ではないか」
「え?あ、あああそんなんじゃないです!大丈夫です!」
慌てて首を振って否定しても、まだ顔は熱いしこの人を直視できない。彼はじっと私を見下ろしていて、慌てふためく私の一部始終を見られてしまって恥ずかしい。とりあえずようやく普段どおりに立てるようになったから彼の腕を握り、
「あの、もう大丈夫です、立てます」
伝えると彼がそっと離れた。ようやく一息ついてさっきまで私を抱き止めていた人をまじまじと見る。背が高くてがっしりした男の人。整った綺麗な顔をしているけど、金色の目は鋭くて威圧感がある。見たことのない白っぽいボディスーツみたいな服を着ている。こんなよくわからない場所で会った人ということもあって、よく考えたら得体の知れない人だ。
「あの……助けてくれて、ありがとうございました」
見た目がちょっと変わっていても、私を助けてくれたことには変わらないから頭を下げた。
「礼を言われることではない。人類をサポートするのが私の役目だ」
じ、人類?いきなり大きな話になった。確かに私も人類だけど……。と一瞬変なことを考えたがそれどころじゃない。せっかく会えた人なんだから、聞きたいことなんて山ほどある。
「あの、ここどこですか?いきなり変なところに来ちゃって……」
「ここは魔界だ」
「ま、まかい?えっ、東京……じゃなくて?」
「かつては東京と呼ばれていた場所だが、君の言っている『東京』とは異なる。ここは先程君を襲った悪魔が蔓延る場所だ」
一瞬冗談を言われてるのかと思ったけど、目の前の彼は真顔……というより無表情。声もとても冗談を言っている感じじゃない、すごく平坦な声だ。さっきよくわからない何かに襲われたけど、それが悪魔なのか。だとしたら悪魔に襲われたし、ここが悪魔のいる魔界というのは本当のことなんだろう。……私、どうやったら帰れるんだろう。
「東京に帰りたいんです。どうしたら帰れますか?」
「君のように東京から魔界にやって来る人間を何人か見た。皆転移装置を用いて元の世界に帰還した。転移装置のある場所まで君を送り届けよう」
「あ、ありがとうございます!」
死ぬかもしれないと思っただけに、帰れるうえに送り届けてくれる人を見つけて涙が出そうになった。彼は私を助けてくれた人だし信用してもいいと思う。……というより、信用できる人間が物理的に私とこの人しかいないわけだが。
「あの、あなたは」
「私は神造魔人アオガミ。君の名前は?」
「月森ミコトです」
「了解。この先も悪魔が現れるだろう。君は私が守る。私のそばにいることを推奨」
「は、はい……」
なんだか聞き慣れない言葉を聞いた気がしたけど、もう気にしないことにした。この人はアオガミさん、私を守ってくれる人。それがわかれば十分だ。だから私はアオガミさんの斜め後ろを歩いていく。一歩踏み出したら思いのほか砂の奥深くまで足が沈んで転びそうになる。アオガミさんは素早く振り返って私の手を取ってくれた。
「ありがとうございます」
見上げると、相変わらず彼は無表情。にこりとも笑わないし心配している風でもないけど、助けてくれる。私一人で歩いているよりよっぽどいい。この人に会えてよかったと涙が出そうになった。
人間の少女と出会った。魔界で人間と出会うのは彼女で五人目だ。皆唐突にこの世界に現れる。彼らが元いた世界のどこかに魔界に通じる穴があると思われるが、アオガミにはあくまで推測することしかできなかった。
アオガミの記憶は一部欠落している。何故自分が魔界にいるのか、という至極重要な部分に関する記憶が抜け落ちていた。彼の記憶に深く刻まれているのは「人類をあらゆる面からサポートする」ということ。ゆえにこれまで出会った四人の人間を守り抜き、転移装置から元の世界に帰した。今回の少女も同じ道を辿ることになるだろう。人間はあまりに脆弱、アオガミが守ってやらねば悪魔に襲われすぐに死ぬ。自らの力にかけて少女を守り抜かねばならない。アオガミは此度も脳内に自然に浮かんだ行動方針に基づいて行動する。
「あ、あの、アオガミさん」
どれくらい歩いただろうか。アオガミが思い浮かべている転移装置まではまだまだ遠いが、少女――月森ミコトの声が背後から聞こえ、アオガミは足を止めた。
「ごめんなさい、アオガミさん。私、眠くて……どこかでちょっと寝てもいいですか」
「了解」
アオガミは周囲を見回した。一面砂漠、その中にかつての人間の営みの跡である廃墟と化したビルが点々とある。砂漠のど真ん中で仮眠を取るのは現実的ではないだろう。アオガミは物陰になりそうなビルの一角を指差した。
「あの場所で仮眠をとることを推奨」
「わかりました」
ミコトが頷いたのを確認し、彼女の様子を横目に注視しながら歩く。言われてみればミコトの足取りはやや重く、このまま歩き続けるには支障があるだろうと結論付けた。異変に気付くのが遅れたことに注意力不足を感じるものの、アオガミは顔には出さず淡々と歩いていく。自らの使命を遂行することが何よりも重要で、今は自省している場合ではない。
指差した場所に辿り着くと、ミコトはビル内部に入り、壁にもたれて座り込んだ。座り込んだ彼女の口から大きな息が漏れる。
「すみません、アオガミさん……ちょっと、寝ます……」
「了解。君が寝ている間、番は私が行う」
「あの……」
アオガミがミコトに背を向けようとした瞬間呼び止められる。座って両膝を抱えた彼女は、アオガミを上目遣いで見上げていた。何かを懇願する目だ。
「アオガミさん、隣に座っててくれませんか?」
「何故だ」
万が一悪魔が襲ってきたとき、座った状態だと反応が遅れる恐れがある。よほどの理由がなければ避けたいが、
「安心したいんです。アオガミさんが隣にいてくれた方が、よく眠れる気がして」
ミコトの言葉をよくよく噛み締めて解釈する。ミコトは戦闘能力を持たない、寝ている間に悪魔に狙われればひとたまりもない。そのような状況下であるから、唯一戦えるアオガミが近くにいた方がよいということか。神造魔人の役目は人類をサポートすること。その中には精神的なものも含まれると理解している。では彼女の要望に応えるべきである。アオガミはそう結論付けると、ミコトの右隣に座った。アオガミが彼女に視線をやると、ミコトは少し顔を赤らめて笑い、アオガミにもたれかかり目を閉じた。目を閉じて数分後には呼吸音が規則正しい寝息に変わる。
体の左側にミコトが密着している。そこから感じ取れる体温、聞こえる吐息に何ら不審な点はない。彼女は通常の人間と比べて顔が赤い時間が長い気がするが、もともと病弱なのだろうか。だとすれば、通常の人間よりきめ細やかな配慮が必要だろう。もう少し歩く速度を落とした方がよいかもしれないし、場合によっては抱えて移動することも考えるべきだろう。神に近しいものとして造られたアオガミには疲労、空腹、睡魔といった人間であれば足枷になる制限はない。アオガミ自身は実感できないからこそ、彼女の様子をよく観察する必要がある。
アオガミはミコトから真っ直ぐ前に視線を向けた。崩れたビルの向こう側に砂漠が見える。東京タワーに辿り着けばひとまず中間地点といったところか。そこから転移装置があるトウキョウ議事堂まではそれなりに遠い。アオガミの足なら何の苦もない距離だが、これまでの人間たちは砂の中を歩くことに苦戦していたようだった。アオガミが思っているより時間がかかるだろう。それにこの少女が耐えられるかどうか……いや、耐えられるようにせねばなるまい。アオガミはミコトを起こさぬよう、微動だにせずに彼女の体温と呼吸音を感じていた。
「う……ん……」
体に風が当たったような気がして、私は目を覚ました。アオガミさんにもたれかかって寝ていたはずだけど、ビルの床に寝転んでいた。体を起こすと私を守ように背中を向けてアオガミさんが立っていて、右手に白い剣が見えた。何かが地面に落ちる音が聞こえる。たぶんアオガミさんが悪魔を倒したんだろう。私が呆然と大きな背中を見ていると、アオガミさんが横目で私を見た。
「起こしてしまったようだ」
「あ、いえ……」
アオガミさんは振り返り、私に近寄った。金色の目に見下ろされていると思ったら、アオガミさんが私の脇の下と膝の裏を両腕で抱えた。いわゆるお姫様抱っこの体勢。
「すまない。先程の戦闘で悪魔が周辺に集まり始めている。ここを離れる。私の首に掴まることを推奨」
「え、え?ええぇっ!?」
突然の体勢に慌てながらも、落ちないようにアオガミさんの首に両腕を回すとアオガミさんは走った。とんでもない速度で、ちゃんと掴まっていないと振り落とされてしまう。悪魔がいたような影のそばを通り過ぎて盛り上がった砂漠の丘をジャンプして乗り越えていく。安全装置のないジェットコースターに乗っているような気分だ。アオガミさんがどこをどう走っていくか私にはまるでわからないからヒヤヒヤする。制服のスカートが風にはためいてパンツが見えるとか思ったけどそれどころじゃない。今アオガミさんの首から手を離したら確実に落ちる。スカートの中身が見えちゃうなんて恥ずかしい以外のなにものでもないが、恥なんて捨てないといけない瞬間があるみたいだ。
やがてアオガミさんが速度を緩め、自然に立ち止まる。急ブレーキをかけるような止まり方じゃなくて安心した。止まってもまだ走っているような気がして両腕が震えた。アオガミさんがゆっくり地面に下ろしてくれる。
「ここまで来れば問題ないだろう。立てるか」
座り込んで砂についた両腕がぷるぷる震えていて力が出ない。アオガミさんが差し出してくれた手を取って何とか立ち上がる。風で逆立つように乱れた髪を手で整えた。
「ありがとうございます、アオガミさん」
「君に何事もなかったようだ。礼を言われることではない」
アオガミさんは相変わらず全く動かない無表情で私を見つめ、ふと後ろを振り向いた。つられて私もアオガミさんが見ている方向に目をやると、
「東京タワー?」
赤い塔が見えた。見慣れた東京のシンボル。周りは砂だらけの砂漠で、悪魔とかいう不気味なものもいるけれど、それでも見慣れたものがあるとちょっとだけ安心する。
「東京タワーを越えてさらに進むと、君が元いた世界に戻れる転移装置がある」
アオガミさんは言いながら私に向き直る。彼の鋭い金色の目に見つめられるとドキドキする。
「今までは君についてきてもらったが、先程のように私が君を抱えて移動すれば、もっと早く転移装置まで辿り着ける。君が望む場合はそのような方法もある」
「……えと……」
どうするか選べということだろう。確かにさっきのお姫様抱っこは速かった。早く帰りたいのならそれ一択だろう。だけど、でも……そうするとアオガミさんと過ごす時間が短くなってしまう。最初は早く帰りたくて仕方なかったけど、……。
「アオガミさんが迷惑じゃなければ、ついていきたいです」
「了解。君の体調に合わせる。都度状態を報告してくれ」
「わかりました」
どうして抱える方を選ばなかったのか聞かれるかと思ったけど、特に何も言われなかった。心の底から安心していた。まだアオガミさんと一緒にいられることがわかって、鼓動が速くなるのを感じていた。
それからアオガミさんについて歩き続けた。この砂漠ではいくら歩いても朝、昼、夜といった変化がないから、どれくらい歩いたのかわからないけど、結構な時間をアオガミさんの隣で過ごした。彼は無口で、私も何を話したらいいのかわからなかったからほとんどお互い無言だったが、私が眠くなったり疲れたら休ませてくれて、気を遣ってくれた。悪魔が現れたら守ってくれたし、アオガミさんのおかげで私は無傷でこの砂漠を歩いてこられた。
ずっと砂漠を歩いていたら、大きな建物にぶち当たった。他のビルみたいに崩れたり壊れたりしていない、綺麗な建物。アオガミさんは躊躇いなく入っていく。だから私も中に入った。
静かな場所だった。落ち着いた雰囲気で悪魔がいる気配もない。私がきょろきょろ見回していると、アオガミさんは私に向き直った。
「ここはトウキョウ議事堂だ。この奥に転移装置がある。装置に触り、君がいた場所を思い描けば元いた世界に戻れるはずだ」
この奥、とアオガミさんが指差す先には長い廊下が続いていて、突き当たりに扉がある。やっと帰れるんだ。でも、思っていたよりも喜びは少なかった。むしろ悲しい。
「ここは安全だ。悪魔の気配がない。君は真っ直ぐ進み、装置から戻ればいい」
「…………はい」
アオガミさんは私をじっと見つめている。何も言われないけど、行ってこいと暗に言われているような気がする。それはそうだ。私は東京に帰りたいんだから、あとはあの扉を開けて、装置を使うだけ。そう。それはわかってる。わかってる、けど……。
「アオガミさん」
私はアオガミさんの手を取った。体温があまり感じられない、白い何かに覆われた掌。私の手よりずっと大きくて、私の手の方が飲み込まれてしまいそうだけど、握っていると不思議と安心する。
「不安です……ちゃんと装置のところまで来てください」
「了解」
アオガミさんは私に手を握られたまま、一緒に歩いてくれる。不安なのは本当だ。転移装置なんて使ったことないし、ちゃんと東京に帰れるのか心配でもある。でも、それよりも……アオガミさんと一緒にいる時間を少しでものばしたい。
「あの、アオガミさんは装置を使わないんですか?」
「使わない。私は君のような人間が魔界に迷い込んだとき、元いた世界に帰す使命がある」
思っていたとおりの答えが返ってきて、何だか変な笑いが込み上げた。どんなときでも変わらない口調はアオガミさんらしくていいけど、少し寂しい。
「私が迷い込んだ最後の一人かもしれないですよ?」
ついに廊下の突き当たりに着いてしまい、扉を開いた。明かりのない暗い部屋の中に、筒みたいな形をしたよくわからない装置が置いてある。筒の表面には白い見たことのない文字が浮かんでいる。たぶんこれが、アオガミさんが言っていた転移装置だろう。隣を見た。アオガミさんはぼんやり光っている転移装置に照らされている。その顔はやっぱり無表情。私と別れることに何の感情も持ってなさそうな顔だった。
「この転移装置から帰っていったのは君で五人目だ。六人目、七人目が現れる可能性は十分にある」
「……そう、かもしれないですけど……私と一緒に東京に来てください。私、アオガミさんと一緒にいたいです」
今までアオガミさんは私の希望を叶えてくれたから、もしかしたら……なんて思っていた。
「それはできない。私にはまだここでやるべきことがある」
「…………」
アオガミさんが首を振ったのを見て確信した。私が何をどう言っても一緒には来てくれないのだと。アオガミさんはここまで私を送り届けてくれた。それで彼の仕事は終わりで、これ以上私と一緒にいる必要はないのだから当然なんだけど。
「……わかりました。ごめんなさい。よく知りもしないで変なこと言って」
急に恥ずかしくなった。ほしいものを買ってもらえなくて駄々をこねる子供みたいだった。アオガミさんは全く変わらない無表情で私を見ていて、私に対して何も思うところはないみたい。きっと私だけだ。アオガミさんと過ごした時間に何かを思っているのは。アオガミさんの鋭い金色の目を見ていると、温度差をはっきり感じて辛くなる。
「ありがとうございました、アオガミさん。守ってくれて、ここまで連れてきてくれて」
「礼には及ばない」
「ありがとうございました。……どうかお元気で」
アオガミさんに手を振った。でも彼は頷くだけで、振り返してくれない。そっか……もう帰ろう。私は淡く光っている装置に触れ、目を閉じて学園を思い描いた。何だか少しずつ意識が遠くなっていく。
「……」
ふっと意識が完全に途切れた後、すぐに現実に戻ってくる。目を開けると、縄印学園の校門前にいた。放課後みたいで、ぞろぞろと校門から帰っていく人たちが見える。私も帰ろう。何か用事があったような気がするけど、詳細を思い出せないからどうでもよくなってきた。必要ならきっと明日思い出すだろう。
胸がちくりと痛む。青い髪、白い服の人を思い出したけど、もう二度と会えないような気がして。いつかどこかで、また会えないだろうか。明日もう一度、高輪トンネルに行ったら、また会えたりしないかな。もしそうなったら、彼になんて言われるだろう。そんなことを考えながら、私は品川駅に向かって歩いていった。
縄印学園高等科三年生月森ミコト、ただいま全力で困惑しております。
「えーっと……ここどこ……?」
とりあえず辺りを見回す。どこを見ても砂、砂、砂。なんでかわからないけど、私は今砂漠のど真ん中にいる。うろうろ歩いてみたけれど、ずーっと砂漠が続いていて、どこをどう歩いているのかよくわからない。誰もいないし、建物とか目印になりそうなものもない。むやみに歩き回ると疲れちゃうかも。ひとまず立ち止まってこめかみの辺りを指先でトントン叩きながら、私はこうなるまでの経緯を思い返した。
今日は平日だから、いつもどおり寮から学園に行って、授業を受けて。今日はちょっと野暮用があったから、放課後高輪トンネルの向こうに行こうとして歩いていた。高輪トンネルは暗いし歩きにくいけど、何度も通った普通のトンネル。高輪トンネルを通っても今まで何もなかったけど、今日は高輪トンネルを抜けたらこのとおり、いつの間にか砂漠のど真ん中に突っ立っていた。砂漠に着いたとき後ろを見たけどトンネルなんか綺麗になくなっていたし、どこか知らないところにワープしてきた、という感じなのかな。……ここがどこかわからないし、どうやって帰ればいいかもわからないし、ものすごく困る。風が吹くと細かい砂が飛んできて目が痛い。砂漠だけど暑くはないのが唯一の救いだろうか。
「うーん……」
空を見上げてみた。晴れ渡る空。太陽が大きく輝いている。雲一つない晴天だけど、何にも手がかりはない。いや当然なんだけど、ちょっと何かないかなとか思っただけだ。
「歩くしかないかなあ……」
ここでぼーっと突っ立っていても何もなさそうだし、何かあると信じて歩いた方がまだ建設的な気がする。歩いて歩いて何もなかったらそれは絶望なんだけど、希望があるかどうかもやってみないとわからない。ときどき吹く風に目を細めながら、私は歩き始めた。どこを見ても同じ砂だらけの景色だから方角なんてわからないけど、とりあえず歩いていく。
どれくらい歩いただろう?振り返ると、私が歩いた足跡が残っている。体力的にはまだ問題ないけど、こんなに何もないと困るなあ……そう思いながら前を向いて歩こうとしたとき、
「……え!?」
何か宙に浮くものが見えた。細い体に蝙蝠のような羽根、両手に小さな槍を持っている。どう見ても人間じゃないよくわからない何かが三体、私を不気味な目で見ている。私を狙っている。殺される。直感的にそう思った。逃げなきゃ……!!今すぐ背を向けて逃げたかったけど、足が震えて動けない。むしろ力が入らなくて、その場に座り込んでしまった。ばさばさと羽根がうごめく音がする。私を品定めするように見ていた一体がふわりと高く浮いて、槍を私に向けて急降下してきたのが見えた。
――私、こんなよくわからない砂漠で死んじゃうんだ。
目を閉じることもできなくて槍を凝視していると、突然私の前に誰かが立った。バキン!と鋭い音が響いた。半分に折れた槍が砂の上に落ちる。
「……へ、ぇえ……?」
とんでもなく間抜けな声が出た。私を庇うように現れた人は、全身白っぽい不思議な服を着ていて髪が青い。右手の先から白く輝く剣みたいなものが出ている。その人は私に背中を向けて立っていて、ちらりと私を見た。
「間に合ったようだ」
「間に合う……?」
「君を守る。悪魔を殲滅する」
機械じみた平坦な声が聞こえたと思った瞬間、その人は右手の先の剣で私を狙っていた三体に斬りかかった。つむじ風が吹き、剣の一振りで三体が綺麗に横真っ二つに斬れる。砂の上に落ちた死体には目もくれず、その人は振り返り私を見た。
「手を取れ」
座り込んでいる私に手が差し伸べられる。白い手袋?に包まれた大きな掌。思わずその人の顔と手を二度見してしまった。その人は金色の目で私をじっと見ている。硬直する私に気を悪くした風もなく、手を差し伸べたまま待ってくれる。……無表情で冷たい人みたいに見えるけど、意外と優しい人なのかな。
「あ、ありがとうございます……」
差し伸べられた掌に手を置き、立ちあがろうとする。まだ足に力が入りきらなくてふらつき倒れそうになったところを、白い人に抱き止められる。腰に彼の手が回り、ごく自然に抱き寄せられた。
「!?」
「立てるか」
急に初対面の男の人と体が密着して声が出なくなった。彼は背が高くて胸板も厚くて腕も逞しくて、大人でもなかなか見かけない体格の人。そんな人にほぼ抱きしめられている体勢だからどぎまぎもする。彼の整った顔をすぐ近くで見て、顔が熱くなっていくのを感じた。
「急激な体温の上昇を感知。体調不良ではないか」
「え?あ、あああそんなんじゃないです!大丈夫です!」
慌てて首を振って否定しても、まだ顔は熱いしこの人を直視できない。彼はじっと私を見下ろしていて、慌てふためく私の一部始終を見られてしまって恥ずかしい。とりあえずようやく普段どおりに立てるようになったから彼の腕を握り、
「あの、もう大丈夫です、立てます」
伝えると彼がそっと離れた。ようやく一息ついてさっきまで私を抱き止めていた人をまじまじと見る。背が高くてがっしりした男の人。整った綺麗な顔をしているけど、金色の目は鋭くて威圧感がある。見たことのない白っぽいボディスーツみたいな服を着ている。こんなよくわからない場所で会った人ということもあって、よく考えたら得体の知れない人だ。
「あの……助けてくれて、ありがとうございました」
見た目がちょっと変わっていても、私を助けてくれたことには変わらないから頭を下げた。
「礼を言われることではない。人類をサポートするのが私の役目だ」
じ、人類?いきなり大きな話になった。確かに私も人類だけど……。と一瞬変なことを考えたがそれどころじゃない。せっかく会えた人なんだから、聞きたいことなんて山ほどある。
「あの、ここどこですか?いきなり変なところに来ちゃって……」
「ここは魔界だ」
「ま、まかい?えっ、東京……じゃなくて?」
「かつては東京と呼ばれていた場所だが、君の言っている『東京』とは異なる。ここは先程君を襲った悪魔が蔓延る場所だ」
一瞬冗談を言われてるのかと思ったけど、目の前の彼は真顔……というより無表情。声もとても冗談を言っている感じじゃない、すごく平坦な声だ。さっきよくわからない何かに襲われたけど、それが悪魔なのか。だとしたら悪魔に襲われたし、ここが悪魔のいる魔界というのは本当のことなんだろう。……私、どうやったら帰れるんだろう。
「東京に帰りたいんです。どうしたら帰れますか?」
「君のように東京から魔界にやって来る人間を何人か見た。皆転移装置を用いて元の世界に帰還した。転移装置のある場所まで君を送り届けよう」
「あ、ありがとうございます!」
死ぬかもしれないと思っただけに、帰れるうえに送り届けてくれる人を見つけて涙が出そうになった。彼は私を助けてくれた人だし信用してもいいと思う。……というより、信用できる人間が物理的に私とこの人しかいないわけだが。
「あの、あなたは」
「私は神造魔人アオガミ。君の名前は?」
「月森ミコトです」
「了解。この先も悪魔が現れるだろう。君は私が守る。私のそばにいることを推奨」
「は、はい……」
なんだか聞き慣れない言葉を聞いた気がしたけど、もう気にしないことにした。この人はアオガミさん、私を守ってくれる人。それがわかれば十分だ。だから私はアオガミさんの斜め後ろを歩いていく。一歩踏み出したら思いのほか砂の奥深くまで足が沈んで転びそうになる。アオガミさんは素早く振り返って私の手を取ってくれた。
「ありがとうございます」
見上げると、相変わらず彼は無表情。にこりとも笑わないし心配している風でもないけど、助けてくれる。私一人で歩いているよりよっぽどいい。この人に会えてよかったと涙が出そうになった。
人間の少女と出会った。魔界で人間と出会うのは彼女で五人目だ。皆唐突にこの世界に現れる。彼らが元いた世界のどこかに魔界に通じる穴があると思われるが、アオガミにはあくまで推測することしかできなかった。
アオガミの記憶は一部欠落している。何故自分が魔界にいるのか、という至極重要な部分に関する記憶が抜け落ちていた。彼の記憶に深く刻まれているのは「人類をあらゆる面からサポートする」ということ。ゆえにこれまで出会った四人の人間を守り抜き、転移装置から元の世界に帰した。今回の少女も同じ道を辿ることになるだろう。人間はあまりに脆弱、アオガミが守ってやらねば悪魔に襲われすぐに死ぬ。自らの力にかけて少女を守り抜かねばならない。アオガミは此度も脳内に自然に浮かんだ行動方針に基づいて行動する。
「あ、あの、アオガミさん」
どれくらい歩いただろうか。アオガミが思い浮かべている転移装置まではまだまだ遠いが、少女――月森ミコトの声が背後から聞こえ、アオガミは足を止めた。
「ごめんなさい、アオガミさん。私、眠くて……どこかでちょっと寝てもいいですか」
「了解」
アオガミは周囲を見回した。一面砂漠、その中にかつての人間の営みの跡である廃墟と化したビルが点々とある。砂漠のど真ん中で仮眠を取るのは現実的ではないだろう。アオガミは物陰になりそうなビルの一角を指差した。
「あの場所で仮眠をとることを推奨」
「わかりました」
ミコトが頷いたのを確認し、彼女の様子を横目に注視しながら歩く。言われてみればミコトの足取りはやや重く、このまま歩き続けるには支障があるだろうと結論付けた。異変に気付くのが遅れたことに注意力不足を感じるものの、アオガミは顔には出さず淡々と歩いていく。自らの使命を遂行することが何よりも重要で、今は自省している場合ではない。
指差した場所に辿り着くと、ミコトはビル内部に入り、壁にもたれて座り込んだ。座り込んだ彼女の口から大きな息が漏れる。
「すみません、アオガミさん……ちょっと、寝ます……」
「了解。君が寝ている間、番は私が行う」
「あの……」
アオガミがミコトに背を向けようとした瞬間呼び止められる。座って両膝を抱えた彼女は、アオガミを上目遣いで見上げていた。何かを懇願する目だ。
「アオガミさん、隣に座っててくれませんか?」
「何故だ」
万が一悪魔が襲ってきたとき、座った状態だと反応が遅れる恐れがある。よほどの理由がなければ避けたいが、
「安心したいんです。アオガミさんが隣にいてくれた方が、よく眠れる気がして」
ミコトの言葉をよくよく噛み締めて解釈する。ミコトは戦闘能力を持たない、寝ている間に悪魔に狙われればひとたまりもない。そのような状況下であるから、唯一戦えるアオガミが近くにいた方がよいということか。神造魔人の役目は人類をサポートすること。その中には精神的なものも含まれると理解している。では彼女の要望に応えるべきである。アオガミはそう結論付けると、ミコトの右隣に座った。アオガミが彼女に視線をやると、ミコトは少し顔を赤らめて笑い、アオガミにもたれかかり目を閉じた。目を閉じて数分後には呼吸音が規則正しい寝息に変わる。
体の左側にミコトが密着している。そこから感じ取れる体温、聞こえる吐息に何ら不審な点はない。彼女は通常の人間と比べて顔が赤い時間が長い気がするが、もともと病弱なのだろうか。だとすれば、通常の人間よりきめ細やかな配慮が必要だろう。もう少し歩く速度を落とした方がよいかもしれないし、場合によっては抱えて移動することも考えるべきだろう。神に近しいものとして造られたアオガミには疲労、空腹、睡魔といった人間であれば足枷になる制限はない。アオガミ自身は実感できないからこそ、彼女の様子をよく観察する必要がある。
アオガミはミコトから真っ直ぐ前に視線を向けた。崩れたビルの向こう側に砂漠が見える。東京タワーに辿り着けばひとまず中間地点といったところか。そこから転移装置があるトウキョウ議事堂まではそれなりに遠い。アオガミの足なら何の苦もない距離だが、これまでの人間たちは砂の中を歩くことに苦戦していたようだった。アオガミが思っているより時間がかかるだろう。それにこの少女が耐えられるかどうか……いや、耐えられるようにせねばなるまい。アオガミはミコトを起こさぬよう、微動だにせずに彼女の体温と呼吸音を感じていた。
「う……ん……」
体に風が当たったような気がして、私は目を覚ました。アオガミさんにもたれかかって寝ていたはずだけど、ビルの床に寝転んでいた。体を起こすと私を守ように背中を向けてアオガミさんが立っていて、右手に白い剣が見えた。何かが地面に落ちる音が聞こえる。たぶんアオガミさんが悪魔を倒したんだろう。私が呆然と大きな背中を見ていると、アオガミさんが横目で私を見た。
「起こしてしまったようだ」
「あ、いえ……」
アオガミさんは振り返り、私に近寄った。金色の目に見下ろされていると思ったら、アオガミさんが私の脇の下と膝の裏を両腕で抱えた。いわゆるお姫様抱っこの体勢。
「すまない。先程の戦闘で悪魔が周辺に集まり始めている。ここを離れる。私の首に掴まることを推奨」
「え、え?ええぇっ!?」
突然の体勢に慌てながらも、落ちないようにアオガミさんの首に両腕を回すとアオガミさんは走った。とんでもない速度で、ちゃんと掴まっていないと振り落とされてしまう。悪魔がいたような影のそばを通り過ぎて盛り上がった砂漠の丘をジャンプして乗り越えていく。安全装置のないジェットコースターに乗っているような気分だ。アオガミさんがどこをどう走っていくか私にはまるでわからないからヒヤヒヤする。制服のスカートが風にはためいてパンツが見えるとか思ったけどそれどころじゃない。今アオガミさんの首から手を離したら確実に落ちる。スカートの中身が見えちゃうなんて恥ずかしい以外のなにものでもないが、恥なんて捨てないといけない瞬間があるみたいだ。
やがてアオガミさんが速度を緩め、自然に立ち止まる。急ブレーキをかけるような止まり方じゃなくて安心した。止まってもまだ走っているような気がして両腕が震えた。アオガミさんがゆっくり地面に下ろしてくれる。
「ここまで来れば問題ないだろう。立てるか」
座り込んで砂についた両腕がぷるぷる震えていて力が出ない。アオガミさんが差し出してくれた手を取って何とか立ち上がる。風で逆立つように乱れた髪を手で整えた。
「ありがとうございます、アオガミさん」
「君に何事もなかったようだ。礼を言われることではない」
アオガミさんは相変わらず全く動かない無表情で私を見つめ、ふと後ろを振り向いた。つられて私もアオガミさんが見ている方向に目をやると、
「東京タワー?」
赤い塔が見えた。見慣れた東京のシンボル。周りは砂だらけの砂漠で、悪魔とかいう不気味なものもいるけれど、それでも見慣れたものがあるとちょっとだけ安心する。
「東京タワーを越えてさらに進むと、君が元いた世界に戻れる転移装置がある」
アオガミさんは言いながら私に向き直る。彼の鋭い金色の目に見つめられるとドキドキする。
「今までは君についてきてもらったが、先程のように私が君を抱えて移動すれば、もっと早く転移装置まで辿り着ける。君が望む場合はそのような方法もある」
「……えと……」
どうするか選べということだろう。確かにさっきのお姫様抱っこは速かった。早く帰りたいのならそれ一択だろう。だけど、でも……そうするとアオガミさんと過ごす時間が短くなってしまう。最初は早く帰りたくて仕方なかったけど、……。
「アオガミさんが迷惑じゃなければ、ついていきたいです」
「了解。君の体調に合わせる。都度状態を報告してくれ」
「わかりました」
どうして抱える方を選ばなかったのか聞かれるかと思ったけど、特に何も言われなかった。心の底から安心していた。まだアオガミさんと一緒にいられることがわかって、鼓動が速くなるのを感じていた。
それからアオガミさんについて歩き続けた。この砂漠ではいくら歩いても朝、昼、夜といった変化がないから、どれくらい歩いたのかわからないけど、結構な時間をアオガミさんの隣で過ごした。彼は無口で、私も何を話したらいいのかわからなかったからほとんどお互い無言だったが、私が眠くなったり疲れたら休ませてくれて、気を遣ってくれた。悪魔が現れたら守ってくれたし、アオガミさんのおかげで私は無傷でこの砂漠を歩いてこられた。
ずっと砂漠を歩いていたら、大きな建物にぶち当たった。他のビルみたいに崩れたり壊れたりしていない、綺麗な建物。アオガミさんは躊躇いなく入っていく。だから私も中に入った。
静かな場所だった。落ち着いた雰囲気で悪魔がいる気配もない。私がきょろきょろ見回していると、アオガミさんは私に向き直った。
「ここはトウキョウ議事堂だ。この奥に転移装置がある。装置に触り、君がいた場所を思い描けば元いた世界に戻れるはずだ」
この奥、とアオガミさんが指差す先には長い廊下が続いていて、突き当たりに扉がある。やっと帰れるんだ。でも、思っていたよりも喜びは少なかった。むしろ悲しい。
「ここは安全だ。悪魔の気配がない。君は真っ直ぐ進み、装置から戻ればいい」
「…………はい」
アオガミさんは私をじっと見つめている。何も言われないけど、行ってこいと暗に言われているような気がする。それはそうだ。私は東京に帰りたいんだから、あとはあの扉を開けて、装置を使うだけ。そう。それはわかってる。わかってる、けど……。
「アオガミさん」
私はアオガミさんの手を取った。体温があまり感じられない、白い何かに覆われた掌。私の手よりずっと大きくて、私の手の方が飲み込まれてしまいそうだけど、握っていると不思議と安心する。
「不安です……ちゃんと装置のところまで来てください」
「了解」
アオガミさんは私に手を握られたまま、一緒に歩いてくれる。不安なのは本当だ。転移装置なんて使ったことないし、ちゃんと東京に帰れるのか心配でもある。でも、それよりも……アオガミさんと一緒にいる時間を少しでものばしたい。
「あの、アオガミさんは装置を使わないんですか?」
「使わない。私は君のような人間が魔界に迷い込んだとき、元いた世界に帰す使命がある」
思っていたとおりの答えが返ってきて、何だか変な笑いが込み上げた。どんなときでも変わらない口調はアオガミさんらしくていいけど、少し寂しい。
「私が迷い込んだ最後の一人かもしれないですよ?」
ついに廊下の突き当たりに着いてしまい、扉を開いた。明かりのない暗い部屋の中に、筒みたいな形をしたよくわからない装置が置いてある。筒の表面には白い見たことのない文字が浮かんでいる。たぶんこれが、アオガミさんが言っていた転移装置だろう。隣を見た。アオガミさんはぼんやり光っている転移装置に照らされている。その顔はやっぱり無表情。私と別れることに何の感情も持ってなさそうな顔だった。
「この転移装置から帰っていったのは君で五人目だ。六人目、七人目が現れる可能性は十分にある」
「……そう、かもしれないですけど……私と一緒に東京に来てください。私、アオガミさんと一緒にいたいです」
今までアオガミさんは私の希望を叶えてくれたから、もしかしたら……なんて思っていた。
「それはできない。私にはまだここでやるべきことがある」
「…………」
アオガミさんが首を振ったのを見て確信した。私が何をどう言っても一緒には来てくれないのだと。アオガミさんはここまで私を送り届けてくれた。それで彼の仕事は終わりで、これ以上私と一緒にいる必要はないのだから当然なんだけど。
「……わかりました。ごめんなさい。よく知りもしないで変なこと言って」
急に恥ずかしくなった。ほしいものを買ってもらえなくて駄々をこねる子供みたいだった。アオガミさんは全く変わらない無表情で私を見ていて、私に対して何も思うところはないみたい。きっと私だけだ。アオガミさんと過ごした時間に何かを思っているのは。アオガミさんの鋭い金色の目を見ていると、温度差をはっきり感じて辛くなる。
「ありがとうございました、アオガミさん。守ってくれて、ここまで連れてきてくれて」
「礼には及ばない」
「ありがとうございました。……どうかお元気で」
アオガミさんに手を振った。でも彼は頷くだけで、振り返してくれない。そっか……もう帰ろう。私は淡く光っている装置に触れ、目を閉じて学園を思い描いた。何だか少しずつ意識が遠くなっていく。
「……」
ふっと意識が完全に途切れた後、すぐに現実に戻ってくる。目を開けると、縄印学園の校門前にいた。放課後みたいで、ぞろぞろと校門から帰っていく人たちが見える。私も帰ろう。何か用事があったような気がするけど、詳細を思い出せないからどうでもよくなってきた。必要ならきっと明日思い出すだろう。
胸がちくりと痛む。青い髪、白い服の人を思い出したけど、もう二度と会えないような気がして。いつかどこかで、また会えないだろうか。明日もう一度、高輪トンネルに行ったら、また会えたりしないかな。もしそうなったら、彼になんて言われるだろう。そんなことを考えながら、私は品川駅に向かって歩いていった。