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神の花嫁
たくさんの人々が暮らす首都東京。この世界には悪魔や天使、神……様々な超常的な力を持つ存在がいる。彼らの中には人間の世界に馴染んだ者もいて、日本国内閣総理大臣越水ハヤオが天津神ツクヨミであることは日本に暮らす者なら誰でも知っている。そして圧倒的な力を持つ彼らは、将来の伴侶として人間を花嫁に選ぶことがある。彼らの花嫁に選ばれた者は人の中でもより大切にされ、何より伴侶の悪魔たちに蝶よ花よと溺愛される。私の妹は天使に選ばれた人間だった。妹が天使の花嫁となってから、私の家庭内の立場は地の底まで落ちた。
「ミコト、何をぼんやりしているの!早く夕飯を作りなさい!」
母の刺々しい声が響く。……いつものことだ。最初は反抗もしていたが、もうやめた。どうせ私が何を言ったって父も母も聞いてくれないから。私はため息をつきながら、料理を作り始めた。
妹が天使の花嫁となったのは十年前のこと。まだ私も妹もランドセルを背負っている年頃だった。悪魔たちは自分の花嫁が「匂い」でわかるらしく、天使はすぐに妹を指差して花嫁だと告げた。妹が天使を伴って帰ってきたときの両親の驚きよう、喜びようは今でも覚えている。天使側にとっても花嫁は大切な存在なようで、花嫁の親である父と母に惜しみない援助をしているらしい。だから両親の視線は自然と妹に注がれることになった。私という姉がいることは、両親にとっても妹にとってもお荷物でしかないらしい。いつもどおり妹と両親のためのご飯を作りながら、ぼんやり物思いに耽る。
「さあ、みんなで食べましょうね」
母の声で父と妹がテーブルにつき、ご飯を食べ始める。私はそれをずっと見つめて、終わったら残り物を食べる係。最初私の分も作ったら、
「花嫁でないお前に食べさせる食事はない」
と父に言われ、流しに捨てられた。だからそれ以降は作ってない。今日はどれくらい残り物があるかな。結構美味しいものを作ったと思うんだけど、みんな絶対残すんだよね。私への情けという側面もあるかもしれないけど、大半は嫌味だろう。
三人の家族団欒を突っ立って眺めながら、虚しくなってきた。私はいつまでこんな毎日を過ごさなきゃいけないんだろう。高校を卒業したらすぐに就職して、こんな家さっさと出ていくんだ。今の私はそれだけを頼りに生きている。
三人が食べ終わってテーブルを立つのを見届けて、ようやく私の食事の時間だ。長かった。突っ立っているのも疲れる。テーブルに座り三人分の残り物を集めていると、妹がにやにやと笑いながら私の顔を覗き込んできた。
「おねえちゃん、おねえちゃんって彼氏はいないの?」
「……いるわけないでしょ」
「あー、やっぱりそうなの?」
妹の方を見もしないで淡々と返すと、妹はけらけらと笑った。意地の悪い笑顔だが、妹は顔が整っているから一瞬可憐な笑顔に見えてしまう。
「そうだよねえ。おねえちゃんみたいなネクラ、だーれも愛してくれないよねえ!」
「……」
「私は天使の花嫁だから、仮におねえちゃんに人間の彼氏がいたって私には遠く及ばないんだけど……でも、愛してくれる人もいないのね!」
両親の愛。天使の愛。妹は愛に満ち溢れた生活を送っている。だから私を見下して馬鹿にしてくる。でも、もうどうでもいい。聞き飽きた。いつものくだらない自慢話。
「かわいそうなおねえちゃん。私、おねえちゃんに素敵な人が現れるの待ってるからね!」
言葉だけを聞けば、姉を心配する健気な妹。その言い方に棘があるのを私は知っている。私は無言で妹を一瞥してから食事を始めた。……冷めてて美味しくない。もっと美味しいはずなのに。
「ねえお父さんお母さん!おねえちゃん、私の話聞いてくれないの!」
……始まった。妹が両親に縋りついている。私が無視するといつもこうだ。ほんとは「気遣ってくれてありがとう」って言わなきゃいけなかったけど、お腹空いてたし面倒で言わなかった。やってしまった。
「ミコト!」
父が私のそばに立ち、何も聞かずに頬をビンタした。男の人の容赦のない力に、私は椅子から転げ落ちる。握っていたお箸が落ちて転がる。
「妹の話を聞かない姉がいるか!」
「ごめんなさい。私が悪かったです」
顔を上げて謝ると、真っ赤な顔をした父とその後ろで嗤っている妹。私ってシンデレラか何かだったっけ?継母に虐められるってこういう気分なのかな、継母じゃなくて全員と血が繋がってるけど。
「おねえちゃん、私よく聞こえなかったの。もう一回謝って?」
「ごめんなさい。気遣ってくれてありがとう」
妹を見ながら口にすると妹は満足したようで、もういいよお父さん、とか言いながら離れていく。お箸落としちゃった……ちゃんと洗わないと……頬が痛い。立ち上がってもテーブルには誰もいない。気を取り直してもう一度食べ始めて、頬が痛くて噛みにくくて辛かった。せめてご飯だけでも、落ち着いて食べたかった。
妹はこのあたりでは有名な縄印学園に通っている。百合の花が描かれた制服が綺麗で目を引く、私立の進学校だ。私は公立の高校に通っている。天使の花嫁にはふさわしい教育の場を、私にはお金のかからない公立を。わかりやすいが、私は妹と同じ学校に通うなんて死んでも嫌だったから、不幸中の幸いではあった。
放課後、鞄を持って教室を出る。靴を履き替えて校舎を離れ、家に帰ろうとして足が止まった。またあの家に帰るのかと思うと気が滅入る。いつも学校を出ると少し立ち止まってしまう。家に帰るのが楽しみだったのは、妹が花嫁に選ばれるまでの数年間だけだった。今はもう、足が重くて仕方がない。目を閉じ大きく息を吸って吐いて、重く濁った心を吐き出すと少し落ち着いた。帰ろう。……帰りたくないけど。
きゃああ、と甲高い悲鳴が後ろから聞こえた。振り返るとカラスの胴体と羽根にライオンの頭がついたような悪魔、アンズーが私に向かって飛んできた。
「ッ!!」
アンズーの両足の爪が私の右肩から左脇腹にかけて斜めに引き裂いた。血が噴き出る。痛い……!!昨日のビンタなんか比じゃないくらい痛い!たまに通り魔のようなタチの悪い悪魔がいて襲われることがある、とニュースで聞いたことはあった。まさか私が襲われるなんて思ってもみなかった。あまりの痛みにうずくまる私に、宙を舞うアンズーが急降下してくる。ねえ神様、どうして私なの?私なんて誰にも愛されることなく死んでも構わないって、そういうことなの?私が覚悟を決めてぎゅっと目を閉じた瞬間、
「大丈夫?」
声が聞こえた。鈴を転がすような透き通った声。恐る恐る目を開けると、目の前に青い髪の男の人が立っていた。金色の満月のような瞳が私を見つめている。後ろでひらひらと黒いカラスの羽根が舞い、彼の足元には胴体がふたつに分かれたアンズーが転がっていた。
「え?あ、えと……」
「怪我してるね」
言い淀んでいると彼は私のそばにしゃがみこみ、心配そうな目を向けてきた。誰かに心配されている。久しぶりの感覚に喜んでいると、引き裂かれた傷がずきずき痛む。右肩から左脇腹にかけて斜めに切り裂かれて血が滲み、制服が破れていた。
「少し待ってね」
彼は安心させるように私に笑いかけると、手をかざした。淡い光が私を包んで体が少しあたたかくなったと思ったら、傷がみるみるうちに塞がっていく。痛みもなくなり、制服だけが切り裂かれた状態になっていた。
「もうこれで痛くないと思うけど、どう?」
「あ、はい……痛くないです。ありがとうございます」
「どういたしまして。僕の花嫁さん」
彼は柔らかく笑んで、そんなことを言った。……ん?花嫁?
「花嫁?私が?」
「うん。一目見てわかったよ、君が僕の花嫁さんだってね。僕は百合川ヒイラギ。君の名前は?」
「月森ミコトです」
何の疑問も持たずに名前を教えて、はっと我に返る。あれ、この人なんて言った?百合川ヒイラギ?
百合川の名前は日本に住むなら誰もが知る、ナホビノの家系。悪魔や神にも序列がある。ナホビノは古来の神の力を正しく受け継ぎ最も強大な力を持つとされていて、悪魔たちの中で頂点に立ち他の悪魔に対しても影響力が強い。ナホビノの花嫁?私が?
「ミコト、立てる?」
穏やかに笑う彼――ヒイラギさんの手が差し出される。掌を乗せると、優しく握られて立たせてくれた。少しふらついた私を抱き寄せて支えてくれる。見上げると彼の綺麗な顔がすぐ近くにあって、なんだか夢を見ているみたいだった。
「家に帰らないといけないよね。送っていくよ」
「家……」
ヒイラギさんは純粋な善意で言ってくれたと思うが、妹と両親が脳裏によぎって重苦しい気持ちになった。昨日妹に嫌味を言われ、父にビンタされたことを思い出してしまう。あの家には私の居場所がない。切り裂かれた制服を見ても、私のことには目もくれずにお金がかかるとぐちぐち言うだけだろう。
「どうしたの?家、帰りたくない?」
「…………はい」
「そっか。じゃあ、とりあえず今日は僕の家に来る?」
「え?」
驚いて彼を見ると、金色の目を細めて私を見つめていた。妹が天使の花嫁になる前、両親も私にこんな目を向けてくれていた気がする。
「君が落ち着くまで少し休んでいったらどうかな?」
「は……はい……ありがとうございます」
たった今知り合ったばかりの人に甘えるのはどうなんだ、と脳内で疑問も湧くけれど。ヒイラギさんの蜂蜜みたいな黄金の瞳が綺麗で、気がついたら私はそう答えていた。
「おいで」
手を握られて彼に連れられたのは、落ち着いた雰囲気の豪邸だった。うちはごく普通の家だから、あまりの大きさにため息が出る。玄関に入った瞬間お手伝いさんが出迎えてくれて変に緊張した。慣れない空気に戸惑う私にヒイラギさんは笑顔を向ける。甘く綺麗な優しい笑顔。リビングに通され、ヒイラギさんと向かい合ってテーブルに座る。改めて見ると、本当に綺麗な人だ。青い髪はさらさらで、澄んだ金色の瞳に長い睫毛。一目見たら忘れられなくなる、そんな見た目をしている。
「今日は突然だったけど、来てくれてありがとう。嬉しいよ。君のこと、聞かせてほしいな」
「あの、その前に……私が花嫁って、本当なんですか?」
「本当だよ。ずっと探してたんだ。花嫁さんは匂いでわかる。君を見てすぐにわかったよ」
「そうなんですか」
ヒイラギさんの言う「匂い」は私にはわからないけど、私も彼に何か運命めいたものを感じているのは確かだった。ただ単に綺麗な人というだけではない何かを私も感じ取っている。妹が天使に選ばれたとき、「私もそんな気がしてた」と言っていた。花嫁側も何か本能的に理解するものがあるらしい。
「僕は今すぐにでも君と一緒に暮らしたいけど、まあいきなりそういうわけにはいかないよね。誰かの伴侶になるってことはとても大事なことだから、君にも心構えが必要でしょ?」
「えっと、どういうことですか?」
「君に僕のことを知ってほしいんだ。君にも僕がいいって言ってほしいからね」
花嫁を見つけた悪魔たちは人間が非力なことを利用して、花嫁側にろくな説明もなく連れ去ってしまうことがあると聞く。それに比べればヒイラギさんは紳士的だった。悪魔たちの頂点に立つナホビノなら私を有無を言わさず連れ帰ることなんて簡単だろうけど、こうやってきちんと話をしてくれる。ありがたいことだと思う。襲われていた私を助けてくれたし、優しい人なんだろうなとすでに心が傾いているのを感じた。
「ねえ、ミコト」
ヒイラギさんが身を乗り出し手を伸ばしてきた。私の髪を一房すくって口付けると、ヒイラギさんは笑う。
「これから君の時間を少しだけ僕にくれないかな。僕と関わっていく中で、伴侶に相応しいか判断してほしい」
「え?」
「ミコトは学校に行ってるでしょ?放課後、少しだけ僕と会わない?君と過ごす時間がほしい」
「あ……」
放課後は憂鬱な時間だ。家に早く帰ってもどうせいいことは何もない。遅く帰ったら帰ったで小言を言われるが、どうせ小言を言われるならこの人と一緒にいたい。
「はい」
「ありがとう。嬉しいな」
私の言葉にヒイラギさんは純粋な笑みを零した。綺麗だけど可愛らしさもある、不思議な微笑みだった。
放課後、校門を出たところでヒイラギさんが待っていてくれるようになった。彼と会っている時間は一時間くらい。あまり遅くなると家の人に迷惑だよね、と言ってくれる彼は本当に気遣いができる人だった。ヒイラギさんの家でお茶をしたり、話をしながら散歩してみたり。他愛もないちょっとしたデートみたいなもの。私は彼氏がいたことがないから想像しかできないが、もし彼氏がいたらこういう感じだったのかなと思う。
今日はヒイラギさんの家で私が夕食を作ることになっていた。どうせ家に帰っても私はろくにご飯を食べられないし、ヒイラギさんと一緒に食べたかった。家族は私のご飯を美味しいとは言ってくれないが、もしかしたらという期待もあった。
「ミコト、本当にいいの?ご飯作るの大変でしょ?」
「いいんです。ヒイラギさんに食べてほしいんです」
「そっか、わかった。楽しみにしてるね」
ヒイラギさんは私の話をよく聞いてくれて、尊重してくれる。とても嬉しかった。私も久しぶりに冷めていない夕食を食べられそうだ。そう思うと腕が鳴る。ヒイラギさんの家のキッチンはとても広くて綺麗で、私なんかが使っていいのかとも思ったけど、お手伝いさんがニコニコしながら手伝ってくれて快適だった。いつもどおりご飯を作ってから、そういえば忘れてたけどヒイラギさんってナホビノだったと思い出す。こんな立派な家に住むような人だ、普段からいいものを食べているに違いない。ごく普通のハンバーグを作っちゃったけど本当に大丈夫だろうか、と不安になった。
ヒイラギさんとふたりで座ってご飯を食べる。私は彼の反応が気になって落ち着かなくて、美味しそうな匂いがするけれど手をつけられなかった。失礼だとは思っていても、ヒイラギさんをじっと見つめてしまった。ヒイラギさんはいただきます、と言いながら一口食べる。ゆっくり噛んで味わうと、私に笑いかけた。
「うん、美味しいよ。作ってくれてありがとう」
――美味しい。そう聞いた瞬間、鼻と目のあたりが熱くなって涙が零れてきた。止まらない。
「どうしたの?大丈夫?」
「大丈夫です、嬉しいだけですから」
「嬉しい?」
「はい……美味しいって言ってもらえるのが嬉しくて」
「そうなの?ふふ、とっても美味しいよ」
ヒイラギさんは身を乗り出して手を伸ばし、私の涙を拭い取る。それでもぼろぼろ涙が溢れてきて、鼻水まで出てきた。みっともないところを見せてしまう。恥ずかしい。しばらくして落ち着いた頃、もう一度向かい側に座るヒイラギさんを見ると穏やかな顔で私を見守っていた。
「落ち着いた?」
「はい、何とか」
「ミコトも食べなよ。美味しいよ」
「はい」
残飯じゃない、普通のご飯だ。ハンバーグを一口口に含んで噛み締めると、柔らかくて肉汁が溢れる。美味しい。温かくて美味しい。また泣きそうになった。泣き腫らした目でご飯を食べる私を、ヒイラギさんは微笑みながら見つめている。
「美味しいでしょ?」
「……はい。美味しいです」
「僕は幸せ者だな、こんな美味しいご飯が食べられて嬉しいよ」
「普通のご飯ですけど、これでよかったですか?」
「うん。ミコトが作ってくれたんだよ、美味しいに決まってるじゃない?」
「…………」
綺麗な瞳で見つめられながら言われると、赤面してしまう。でも嬉しかった。とても。今まで言われたどんな言葉より嬉しい。あの家では味わえない思いがここにあって、とてもあたたかい。ヒイラギさんと放課後会うようになって帰りが遅くなるから、あの家に帰るといつもお説教から始まる。そして料理をする。私は残り物しか食べられない。でもここではそんな悲しいことは二度と起こらない、そんな気がした。
「ヒイラギさん」
「ん?」
「あの……」
まだ食べ終えていないが、お箸をいったん置く。ヒイラギさんを真っ直ぐ見つめると、彼の柔らかな蜜の瞳が返ってくる。とろとろとろけそうな、魅惑の眼差し。
「ヒイラギさんと一緒にいたいです」
そう言うと、彼はぱっと無邪気な可愛らしい笑顔を浮かべた。
「ほんと?僕と一緒にいてくれる?」
「はい。ヒイラギさんと一緒にご飯を食べたいです」
「そっか、僕を選んでくれるんだね。ありがとう、ミコト」
ヒイラギさんは立ち上がり椅子に座る私の後ろに立つ。何だろうと思っていたら、ぎゅっと抱きしめられた。ヒイラギさんの青い髪がさらりと流れてくる。私の左肩のあたりに、ヒイラギさんの顔がある。彼の吐息が耳を掠めてドキドキする、とんでもなく距離が近い。
「ミコトが引っ越してくるならちゃんと部屋も綺麗にしなきゃいけないし、ミコトのご家族にも挨拶しないとね?」
「挨拶……」
ご家族、の言葉に両親と妹が浮かんだ。にやにやと意地悪な顔をしているか、厳しい目で私を睨んでいるか、そのどちらかしか思い浮かばない。私がヒイラギさんの花嫁になって家を出る、と言ったらあの人たちはどういう反応を示すだろうか。私なんかいらない子なんだし、何も言わずに了承するだろうか。
「ヒイラギさん」
「なに?」
「私の家族、なんて言ってくるか想像がつかないんです。ヒイラギさんが嫌な思いをしそうで……私から話します」
「面倒なご家族だとは聞いてるけど、大丈夫なの?僕に気を遣わなくていいんだよ」
「いえ……ヒイラギさんに甘えることになっちゃいますから、せめてちゃんと伝えたいです」
ヒイラギさんの金色の瞳を見据えて宣言すると、彼は頷いてくれた。
ミコトが僕を選んでくれてから数週間。僕らは地道に引越しの準備をしていた。ミコトの家に置いてある私物を少しずつ僕の家に持ってきたり、ミコトが学校に通い続けるための手続きを調べたり。考えなくてはならないこと、やらなきゃいけないことは意外にも多かったが、ミコトは粛々と作業をしてくれていた。その間、ミコトが家族の元に帰っていくのを見るのは心苦しかったけど、ぐっと堪えた。ミコトはたくさん我慢してくれて、僕と一緒に暮らしたいと言ってくれている。僕の花嫁さん。絶対に大切にする。
「ミコト」
僕の家、これからミコトが暮らしていく部屋。ベッド、机、ミコトが運んできた服や細々とした日用品で満たされ、今日からでもここに住めるようになった。荷物の整理を終えたミコトに声をかけると、ミコトは緊張した顔で僕を見ていた。
「今日家族に話をするって言ってたけど、もう大丈夫?」
「はい」
ミコトは顔を強張らせているが、決意は固いようだった。僕を見つめる視線は力強い。僕は頷いた。今日は大事な日だ。ミコトから話して何事もなければいいが、もし何かあったら僕が対処する。ミコトと二人で家を出た。慣れた足取りで歩くミコトについていく。
「ここです」
ミコトが立ち止まって言う。ごく普通の二階建ての家。ここにミコトを苦しめる人間たちがいると思うとはらわたが煮えくり返る。……いやいや、僕こそ落ち着かなきゃいけない。うっかりこの家をぶち壊さないように。
「ただいま」
ミコトが玄関を開け、声を上げながら家に入った。僕も続く。お邪魔します、と一応言っておく。たぶん僕にしか聞こえない声量だったが。
「ミコト、遅いわよ!ご飯を……って、あら?」
荒々しい足音とともに女性が歩いてくる。ミコトの母親だろう。目を三角にした恐ろしい顔が、僕を見てぽかんとする。
「お母さん、今日は大事な話があるの。みんないる?」
「え?ええ、いるけど……」
「じゃあ、みんなリビングに呼んで」
ミコトはまだ事態を飲み込めていない母親を置いて歩いていく。僕を呆然と見ている母親に一応笑いかけながら後ろを歩く。特に変わったところのないリビング、四人がけのテーブルに男性がいて、近くのソファーに女の子が座っていた。あれが父親と妹か。僕が冷めた目線を二人に投げると、二人とも怪訝な顔で僕を見ていた。いきなり知らない人が家に入ってきたらまあそういう反応になるよねと納得しながらも、この家にいるミコト以外の三人に何だかいい印象を持てなかった。
「ミコト、この人はいったい……」
「この人は百合川ヒイラギさん。私はこの人の花嫁になる。だから今日で家を出るから」
リビングに入って早々疑問をぶつけてくる母親の言葉を遮って、ミコトははっきり言い放った。三人とも似たような顔で固まっていた。家族だからか、その顔はよく似ている。反吐が出るくらいに。
「初めまして。百合川ヒイラギです。ミコトさんは僕の大切な花嫁さんです。彼女も僕を選んでくれました。あとは彼女の言うとおりです」
恭しく礼をしながら、ちゃんと自己紹介。僕の大切な花嫁さんの家族だ、礼は尽くす必要がある。名乗った言った瞬間、三人の顔色が露骨に変わった。当然この三人は、百合川の名字を聞いて僕がどういう存在か理解しただろう。特に妹の方は目を吊り上げてミコトを睨んでいる。
「おねえちゃんがナホビノ様の!?そんなこと、あるわけないでしょ!?」
ソファーから立ち上がり、妹がミコトの胸ぐらを掴む勢いで詰め寄った。一気に不穏な空気が漂う。彼女は天使の花嫁だが、天使の序列は当然ながらナホビノより下。ミコトの方が序列が高い花嫁になるなんて受け入れ難いのだろう。
「ナホビノ様!おねえちゃんのどこがいいの!?私の方が花嫁にふさわし、」
「うるさい子だね」
僕を見てぎゃあぎゃあとうるさい妹を睨みつけた。少しばかり唇を霊力で縫い付けて黙ってもらう。突然口が動かなくなって焦っているのだろう、妹は身悶えている。僕はミコトの肩を抱き寄せた。
「僕はミコトがいいんだ。君のことは聞いてるよ、天使の花嫁さんでしょう?彼に失礼だよ」
「ナホビノ様、この家に住まわれてはいかがですか?ミコトも出ていく必要ないでしょう?」
母親の甘えたような声が聞こえる。ミコトは静かに首を振った。
「もう決めたことなの。私はヒイラギさんと暮らしたい」
「子供の分際で親に逆らう気か!」
今まで座って話を聞いていた父親が拳を振り上げて迫ってきた。やっぱり穏やかには終わらなかったみたい。残念だね。
ミコトに振り上げた父親の拳。二人の間に割って入り、父親の手首を掴んだ。少しばかり強く握ってやる。父親の顔が歪む。
「僕らはあなたたちにここを出ていきます、って言いにきただけなんだ。だから暴力なんて野蛮な真似はやめよう」
手首を掴んだまま、僕は父親に顔を近づけた。ミコトを殴ろうとした不届者を思いきり睨みつける。
「ね?僕が冷静なうちにやめた方がいいよ」
これ以上続けたら骨を砕いてしまいそうだから手を離した。父親は手首を押さえ、怯えきった顔。もうミコトを殴ろうなんて思わないだろう。
「三人とも、今までお世話になりました。どうかお元気で」
ミコトは深々と頭を下げ、硬直する三人を置いて踵を返した。二人で家を出る。家を出てから帰るまでミコトは無言だった。二人で暮らす家に着き玄関に入った瞬間、ミコトが抱きついてきた。ぎゅっと密着して僕に顔を擦りつけてくる。
「ありがとうございました」
そう言うミコトは少し震えている。あの場では凛とした態度だったが、やっぱり無理をしていたようだ。よくあれだけ自分の言葉で言えたと思う。僕は彼女の頭を撫でた。汗ばんだ髪の感触がした。
「うん。よく頑張ったね」
「はい」
「これからは一緒だよ。大丈夫。怖い人はもういないから」
あの家族はこの家がどこにあるか知らないと思うが、あの様子だと何か行動を起こすかもしれない。今日一度しか会っていない相手だが、ろくでもない奴らだということはよくわかった。僕にしがみついている彼女に、これからは安心して笑っていてほしい。僕もミコトを抱きしめた。驚いた顔のミコトが見上げてくるから笑いかけると、彼女も笑みを返してくれた。
たくさんの人々が暮らす首都東京。この世界には悪魔や天使、神……様々な超常的な力を持つ存在がいる。彼らの中には人間の世界に馴染んだ者もいて、日本国内閣総理大臣越水ハヤオが天津神ツクヨミであることは日本に暮らす者なら誰でも知っている。そして圧倒的な力を持つ彼らは、将来の伴侶として人間を花嫁に選ぶことがある。彼らの花嫁に選ばれた者は人の中でもより大切にされ、何より伴侶の悪魔たちに蝶よ花よと溺愛される。私の妹は天使に選ばれた人間だった。妹が天使の花嫁となってから、私の家庭内の立場は地の底まで落ちた。
「ミコト、何をぼんやりしているの!早く夕飯を作りなさい!」
母の刺々しい声が響く。……いつものことだ。最初は反抗もしていたが、もうやめた。どうせ私が何を言ったって父も母も聞いてくれないから。私はため息をつきながら、料理を作り始めた。
妹が天使の花嫁となったのは十年前のこと。まだ私も妹もランドセルを背負っている年頃だった。悪魔たちは自分の花嫁が「匂い」でわかるらしく、天使はすぐに妹を指差して花嫁だと告げた。妹が天使を伴って帰ってきたときの両親の驚きよう、喜びようは今でも覚えている。天使側にとっても花嫁は大切な存在なようで、花嫁の親である父と母に惜しみない援助をしているらしい。だから両親の視線は自然と妹に注がれることになった。私という姉がいることは、両親にとっても妹にとってもお荷物でしかないらしい。いつもどおり妹と両親のためのご飯を作りながら、ぼんやり物思いに耽る。
「さあ、みんなで食べましょうね」
母の声で父と妹がテーブルにつき、ご飯を食べ始める。私はそれをずっと見つめて、終わったら残り物を食べる係。最初私の分も作ったら、
「花嫁でないお前に食べさせる食事はない」
と父に言われ、流しに捨てられた。だからそれ以降は作ってない。今日はどれくらい残り物があるかな。結構美味しいものを作ったと思うんだけど、みんな絶対残すんだよね。私への情けという側面もあるかもしれないけど、大半は嫌味だろう。
三人の家族団欒を突っ立って眺めながら、虚しくなってきた。私はいつまでこんな毎日を過ごさなきゃいけないんだろう。高校を卒業したらすぐに就職して、こんな家さっさと出ていくんだ。今の私はそれだけを頼りに生きている。
三人が食べ終わってテーブルを立つのを見届けて、ようやく私の食事の時間だ。長かった。突っ立っているのも疲れる。テーブルに座り三人分の残り物を集めていると、妹がにやにやと笑いながら私の顔を覗き込んできた。
「おねえちゃん、おねえちゃんって彼氏はいないの?」
「……いるわけないでしょ」
「あー、やっぱりそうなの?」
妹の方を見もしないで淡々と返すと、妹はけらけらと笑った。意地の悪い笑顔だが、妹は顔が整っているから一瞬可憐な笑顔に見えてしまう。
「そうだよねえ。おねえちゃんみたいなネクラ、だーれも愛してくれないよねえ!」
「……」
「私は天使の花嫁だから、仮におねえちゃんに人間の彼氏がいたって私には遠く及ばないんだけど……でも、愛してくれる人もいないのね!」
両親の愛。天使の愛。妹は愛に満ち溢れた生活を送っている。だから私を見下して馬鹿にしてくる。でも、もうどうでもいい。聞き飽きた。いつものくだらない自慢話。
「かわいそうなおねえちゃん。私、おねえちゃんに素敵な人が現れるの待ってるからね!」
言葉だけを聞けば、姉を心配する健気な妹。その言い方に棘があるのを私は知っている。私は無言で妹を一瞥してから食事を始めた。……冷めてて美味しくない。もっと美味しいはずなのに。
「ねえお父さんお母さん!おねえちゃん、私の話聞いてくれないの!」
……始まった。妹が両親に縋りついている。私が無視するといつもこうだ。ほんとは「気遣ってくれてありがとう」って言わなきゃいけなかったけど、お腹空いてたし面倒で言わなかった。やってしまった。
「ミコト!」
父が私のそばに立ち、何も聞かずに頬をビンタした。男の人の容赦のない力に、私は椅子から転げ落ちる。握っていたお箸が落ちて転がる。
「妹の話を聞かない姉がいるか!」
「ごめんなさい。私が悪かったです」
顔を上げて謝ると、真っ赤な顔をした父とその後ろで嗤っている妹。私ってシンデレラか何かだったっけ?継母に虐められるってこういう気分なのかな、継母じゃなくて全員と血が繋がってるけど。
「おねえちゃん、私よく聞こえなかったの。もう一回謝って?」
「ごめんなさい。気遣ってくれてありがとう」
妹を見ながら口にすると妹は満足したようで、もういいよお父さん、とか言いながら離れていく。お箸落としちゃった……ちゃんと洗わないと……頬が痛い。立ち上がってもテーブルには誰もいない。気を取り直してもう一度食べ始めて、頬が痛くて噛みにくくて辛かった。せめてご飯だけでも、落ち着いて食べたかった。
妹はこのあたりでは有名な縄印学園に通っている。百合の花が描かれた制服が綺麗で目を引く、私立の進学校だ。私は公立の高校に通っている。天使の花嫁にはふさわしい教育の場を、私にはお金のかからない公立を。わかりやすいが、私は妹と同じ学校に通うなんて死んでも嫌だったから、不幸中の幸いではあった。
放課後、鞄を持って教室を出る。靴を履き替えて校舎を離れ、家に帰ろうとして足が止まった。またあの家に帰るのかと思うと気が滅入る。いつも学校を出ると少し立ち止まってしまう。家に帰るのが楽しみだったのは、妹が花嫁に選ばれるまでの数年間だけだった。今はもう、足が重くて仕方がない。目を閉じ大きく息を吸って吐いて、重く濁った心を吐き出すと少し落ち着いた。帰ろう。……帰りたくないけど。
きゃああ、と甲高い悲鳴が後ろから聞こえた。振り返るとカラスの胴体と羽根にライオンの頭がついたような悪魔、アンズーが私に向かって飛んできた。
「ッ!!」
アンズーの両足の爪が私の右肩から左脇腹にかけて斜めに引き裂いた。血が噴き出る。痛い……!!昨日のビンタなんか比じゃないくらい痛い!たまに通り魔のようなタチの悪い悪魔がいて襲われることがある、とニュースで聞いたことはあった。まさか私が襲われるなんて思ってもみなかった。あまりの痛みにうずくまる私に、宙を舞うアンズーが急降下してくる。ねえ神様、どうして私なの?私なんて誰にも愛されることなく死んでも構わないって、そういうことなの?私が覚悟を決めてぎゅっと目を閉じた瞬間、
「大丈夫?」
声が聞こえた。鈴を転がすような透き通った声。恐る恐る目を開けると、目の前に青い髪の男の人が立っていた。金色の満月のような瞳が私を見つめている。後ろでひらひらと黒いカラスの羽根が舞い、彼の足元には胴体がふたつに分かれたアンズーが転がっていた。
「え?あ、えと……」
「怪我してるね」
言い淀んでいると彼は私のそばにしゃがみこみ、心配そうな目を向けてきた。誰かに心配されている。久しぶりの感覚に喜んでいると、引き裂かれた傷がずきずき痛む。右肩から左脇腹にかけて斜めに切り裂かれて血が滲み、制服が破れていた。
「少し待ってね」
彼は安心させるように私に笑いかけると、手をかざした。淡い光が私を包んで体が少しあたたかくなったと思ったら、傷がみるみるうちに塞がっていく。痛みもなくなり、制服だけが切り裂かれた状態になっていた。
「もうこれで痛くないと思うけど、どう?」
「あ、はい……痛くないです。ありがとうございます」
「どういたしまして。僕の花嫁さん」
彼は柔らかく笑んで、そんなことを言った。……ん?花嫁?
「花嫁?私が?」
「うん。一目見てわかったよ、君が僕の花嫁さんだってね。僕は百合川ヒイラギ。君の名前は?」
「月森ミコトです」
何の疑問も持たずに名前を教えて、はっと我に返る。あれ、この人なんて言った?百合川ヒイラギ?
百合川の名前は日本に住むなら誰もが知る、ナホビノの家系。悪魔や神にも序列がある。ナホビノは古来の神の力を正しく受け継ぎ最も強大な力を持つとされていて、悪魔たちの中で頂点に立ち他の悪魔に対しても影響力が強い。ナホビノの花嫁?私が?
「ミコト、立てる?」
穏やかに笑う彼――ヒイラギさんの手が差し出される。掌を乗せると、優しく握られて立たせてくれた。少しふらついた私を抱き寄せて支えてくれる。見上げると彼の綺麗な顔がすぐ近くにあって、なんだか夢を見ているみたいだった。
「家に帰らないといけないよね。送っていくよ」
「家……」
ヒイラギさんは純粋な善意で言ってくれたと思うが、妹と両親が脳裏によぎって重苦しい気持ちになった。昨日妹に嫌味を言われ、父にビンタされたことを思い出してしまう。あの家には私の居場所がない。切り裂かれた制服を見ても、私のことには目もくれずにお金がかかるとぐちぐち言うだけだろう。
「どうしたの?家、帰りたくない?」
「…………はい」
「そっか。じゃあ、とりあえず今日は僕の家に来る?」
「え?」
驚いて彼を見ると、金色の目を細めて私を見つめていた。妹が天使の花嫁になる前、両親も私にこんな目を向けてくれていた気がする。
「君が落ち着くまで少し休んでいったらどうかな?」
「は……はい……ありがとうございます」
たった今知り合ったばかりの人に甘えるのはどうなんだ、と脳内で疑問も湧くけれど。ヒイラギさんの蜂蜜みたいな黄金の瞳が綺麗で、気がついたら私はそう答えていた。
「おいで」
手を握られて彼に連れられたのは、落ち着いた雰囲気の豪邸だった。うちはごく普通の家だから、あまりの大きさにため息が出る。玄関に入った瞬間お手伝いさんが出迎えてくれて変に緊張した。慣れない空気に戸惑う私にヒイラギさんは笑顔を向ける。甘く綺麗な優しい笑顔。リビングに通され、ヒイラギさんと向かい合ってテーブルに座る。改めて見ると、本当に綺麗な人だ。青い髪はさらさらで、澄んだ金色の瞳に長い睫毛。一目見たら忘れられなくなる、そんな見た目をしている。
「今日は突然だったけど、来てくれてありがとう。嬉しいよ。君のこと、聞かせてほしいな」
「あの、その前に……私が花嫁って、本当なんですか?」
「本当だよ。ずっと探してたんだ。花嫁さんは匂いでわかる。君を見てすぐにわかったよ」
「そうなんですか」
ヒイラギさんの言う「匂い」は私にはわからないけど、私も彼に何か運命めいたものを感じているのは確かだった。ただ単に綺麗な人というだけではない何かを私も感じ取っている。妹が天使に選ばれたとき、「私もそんな気がしてた」と言っていた。花嫁側も何か本能的に理解するものがあるらしい。
「僕は今すぐにでも君と一緒に暮らしたいけど、まあいきなりそういうわけにはいかないよね。誰かの伴侶になるってことはとても大事なことだから、君にも心構えが必要でしょ?」
「えっと、どういうことですか?」
「君に僕のことを知ってほしいんだ。君にも僕がいいって言ってほしいからね」
花嫁を見つけた悪魔たちは人間が非力なことを利用して、花嫁側にろくな説明もなく連れ去ってしまうことがあると聞く。それに比べればヒイラギさんは紳士的だった。悪魔たちの頂点に立つナホビノなら私を有無を言わさず連れ帰ることなんて簡単だろうけど、こうやってきちんと話をしてくれる。ありがたいことだと思う。襲われていた私を助けてくれたし、優しい人なんだろうなとすでに心が傾いているのを感じた。
「ねえ、ミコト」
ヒイラギさんが身を乗り出し手を伸ばしてきた。私の髪を一房すくって口付けると、ヒイラギさんは笑う。
「これから君の時間を少しだけ僕にくれないかな。僕と関わっていく中で、伴侶に相応しいか判断してほしい」
「え?」
「ミコトは学校に行ってるでしょ?放課後、少しだけ僕と会わない?君と過ごす時間がほしい」
「あ……」
放課後は憂鬱な時間だ。家に早く帰ってもどうせいいことは何もない。遅く帰ったら帰ったで小言を言われるが、どうせ小言を言われるならこの人と一緒にいたい。
「はい」
「ありがとう。嬉しいな」
私の言葉にヒイラギさんは純粋な笑みを零した。綺麗だけど可愛らしさもある、不思議な微笑みだった。
放課後、校門を出たところでヒイラギさんが待っていてくれるようになった。彼と会っている時間は一時間くらい。あまり遅くなると家の人に迷惑だよね、と言ってくれる彼は本当に気遣いができる人だった。ヒイラギさんの家でお茶をしたり、話をしながら散歩してみたり。他愛もないちょっとしたデートみたいなもの。私は彼氏がいたことがないから想像しかできないが、もし彼氏がいたらこういう感じだったのかなと思う。
今日はヒイラギさんの家で私が夕食を作ることになっていた。どうせ家に帰っても私はろくにご飯を食べられないし、ヒイラギさんと一緒に食べたかった。家族は私のご飯を美味しいとは言ってくれないが、もしかしたらという期待もあった。
「ミコト、本当にいいの?ご飯作るの大変でしょ?」
「いいんです。ヒイラギさんに食べてほしいんです」
「そっか、わかった。楽しみにしてるね」
ヒイラギさんは私の話をよく聞いてくれて、尊重してくれる。とても嬉しかった。私も久しぶりに冷めていない夕食を食べられそうだ。そう思うと腕が鳴る。ヒイラギさんの家のキッチンはとても広くて綺麗で、私なんかが使っていいのかとも思ったけど、お手伝いさんがニコニコしながら手伝ってくれて快適だった。いつもどおりご飯を作ってから、そういえば忘れてたけどヒイラギさんってナホビノだったと思い出す。こんな立派な家に住むような人だ、普段からいいものを食べているに違いない。ごく普通のハンバーグを作っちゃったけど本当に大丈夫だろうか、と不安になった。
ヒイラギさんとふたりで座ってご飯を食べる。私は彼の反応が気になって落ち着かなくて、美味しそうな匂いがするけれど手をつけられなかった。失礼だとは思っていても、ヒイラギさんをじっと見つめてしまった。ヒイラギさんはいただきます、と言いながら一口食べる。ゆっくり噛んで味わうと、私に笑いかけた。
「うん、美味しいよ。作ってくれてありがとう」
――美味しい。そう聞いた瞬間、鼻と目のあたりが熱くなって涙が零れてきた。止まらない。
「どうしたの?大丈夫?」
「大丈夫です、嬉しいだけですから」
「嬉しい?」
「はい……美味しいって言ってもらえるのが嬉しくて」
「そうなの?ふふ、とっても美味しいよ」
ヒイラギさんは身を乗り出して手を伸ばし、私の涙を拭い取る。それでもぼろぼろ涙が溢れてきて、鼻水まで出てきた。みっともないところを見せてしまう。恥ずかしい。しばらくして落ち着いた頃、もう一度向かい側に座るヒイラギさんを見ると穏やかな顔で私を見守っていた。
「落ち着いた?」
「はい、何とか」
「ミコトも食べなよ。美味しいよ」
「はい」
残飯じゃない、普通のご飯だ。ハンバーグを一口口に含んで噛み締めると、柔らかくて肉汁が溢れる。美味しい。温かくて美味しい。また泣きそうになった。泣き腫らした目でご飯を食べる私を、ヒイラギさんは微笑みながら見つめている。
「美味しいでしょ?」
「……はい。美味しいです」
「僕は幸せ者だな、こんな美味しいご飯が食べられて嬉しいよ」
「普通のご飯ですけど、これでよかったですか?」
「うん。ミコトが作ってくれたんだよ、美味しいに決まってるじゃない?」
「…………」
綺麗な瞳で見つめられながら言われると、赤面してしまう。でも嬉しかった。とても。今まで言われたどんな言葉より嬉しい。あの家では味わえない思いがここにあって、とてもあたたかい。ヒイラギさんと放課後会うようになって帰りが遅くなるから、あの家に帰るといつもお説教から始まる。そして料理をする。私は残り物しか食べられない。でもここではそんな悲しいことは二度と起こらない、そんな気がした。
「ヒイラギさん」
「ん?」
「あの……」
まだ食べ終えていないが、お箸をいったん置く。ヒイラギさんを真っ直ぐ見つめると、彼の柔らかな蜜の瞳が返ってくる。とろとろとろけそうな、魅惑の眼差し。
「ヒイラギさんと一緒にいたいです」
そう言うと、彼はぱっと無邪気な可愛らしい笑顔を浮かべた。
「ほんと?僕と一緒にいてくれる?」
「はい。ヒイラギさんと一緒にご飯を食べたいです」
「そっか、僕を選んでくれるんだね。ありがとう、ミコト」
ヒイラギさんは立ち上がり椅子に座る私の後ろに立つ。何だろうと思っていたら、ぎゅっと抱きしめられた。ヒイラギさんの青い髪がさらりと流れてくる。私の左肩のあたりに、ヒイラギさんの顔がある。彼の吐息が耳を掠めてドキドキする、とんでもなく距離が近い。
「ミコトが引っ越してくるならちゃんと部屋も綺麗にしなきゃいけないし、ミコトのご家族にも挨拶しないとね?」
「挨拶……」
ご家族、の言葉に両親と妹が浮かんだ。にやにやと意地悪な顔をしているか、厳しい目で私を睨んでいるか、そのどちらかしか思い浮かばない。私がヒイラギさんの花嫁になって家を出る、と言ったらあの人たちはどういう反応を示すだろうか。私なんかいらない子なんだし、何も言わずに了承するだろうか。
「ヒイラギさん」
「なに?」
「私の家族、なんて言ってくるか想像がつかないんです。ヒイラギさんが嫌な思いをしそうで……私から話します」
「面倒なご家族だとは聞いてるけど、大丈夫なの?僕に気を遣わなくていいんだよ」
「いえ……ヒイラギさんに甘えることになっちゃいますから、せめてちゃんと伝えたいです」
ヒイラギさんの金色の瞳を見据えて宣言すると、彼は頷いてくれた。
ミコトが僕を選んでくれてから数週間。僕らは地道に引越しの準備をしていた。ミコトの家に置いてある私物を少しずつ僕の家に持ってきたり、ミコトが学校に通い続けるための手続きを調べたり。考えなくてはならないこと、やらなきゃいけないことは意外にも多かったが、ミコトは粛々と作業をしてくれていた。その間、ミコトが家族の元に帰っていくのを見るのは心苦しかったけど、ぐっと堪えた。ミコトはたくさん我慢してくれて、僕と一緒に暮らしたいと言ってくれている。僕の花嫁さん。絶対に大切にする。
「ミコト」
僕の家、これからミコトが暮らしていく部屋。ベッド、机、ミコトが運んできた服や細々とした日用品で満たされ、今日からでもここに住めるようになった。荷物の整理を終えたミコトに声をかけると、ミコトは緊張した顔で僕を見ていた。
「今日家族に話をするって言ってたけど、もう大丈夫?」
「はい」
ミコトは顔を強張らせているが、決意は固いようだった。僕を見つめる視線は力強い。僕は頷いた。今日は大事な日だ。ミコトから話して何事もなければいいが、もし何かあったら僕が対処する。ミコトと二人で家を出た。慣れた足取りで歩くミコトについていく。
「ここです」
ミコトが立ち止まって言う。ごく普通の二階建ての家。ここにミコトを苦しめる人間たちがいると思うとはらわたが煮えくり返る。……いやいや、僕こそ落ち着かなきゃいけない。うっかりこの家をぶち壊さないように。
「ただいま」
ミコトが玄関を開け、声を上げながら家に入った。僕も続く。お邪魔します、と一応言っておく。たぶん僕にしか聞こえない声量だったが。
「ミコト、遅いわよ!ご飯を……って、あら?」
荒々しい足音とともに女性が歩いてくる。ミコトの母親だろう。目を三角にした恐ろしい顔が、僕を見てぽかんとする。
「お母さん、今日は大事な話があるの。みんないる?」
「え?ええ、いるけど……」
「じゃあ、みんなリビングに呼んで」
ミコトはまだ事態を飲み込めていない母親を置いて歩いていく。僕を呆然と見ている母親に一応笑いかけながら後ろを歩く。特に変わったところのないリビング、四人がけのテーブルに男性がいて、近くのソファーに女の子が座っていた。あれが父親と妹か。僕が冷めた目線を二人に投げると、二人とも怪訝な顔で僕を見ていた。いきなり知らない人が家に入ってきたらまあそういう反応になるよねと納得しながらも、この家にいるミコト以外の三人に何だかいい印象を持てなかった。
「ミコト、この人はいったい……」
「この人は百合川ヒイラギさん。私はこの人の花嫁になる。だから今日で家を出るから」
リビングに入って早々疑問をぶつけてくる母親の言葉を遮って、ミコトははっきり言い放った。三人とも似たような顔で固まっていた。家族だからか、その顔はよく似ている。反吐が出るくらいに。
「初めまして。百合川ヒイラギです。ミコトさんは僕の大切な花嫁さんです。彼女も僕を選んでくれました。あとは彼女の言うとおりです」
恭しく礼をしながら、ちゃんと自己紹介。僕の大切な花嫁さんの家族だ、礼は尽くす必要がある。名乗った言った瞬間、三人の顔色が露骨に変わった。当然この三人は、百合川の名字を聞いて僕がどういう存在か理解しただろう。特に妹の方は目を吊り上げてミコトを睨んでいる。
「おねえちゃんがナホビノ様の!?そんなこと、あるわけないでしょ!?」
ソファーから立ち上がり、妹がミコトの胸ぐらを掴む勢いで詰め寄った。一気に不穏な空気が漂う。彼女は天使の花嫁だが、天使の序列は当然ながらナホビノより下。ミコトの方が序列が高い花嫁になるなんて受け入れ難いのだろう。
「ナホビノ様!おねえちゃんのどこがいいの!?私の方が花嫁にふさわし、」
「うるさい子だね」
僕を見てぎゃあぎゃあとうるさい妹を睨みつけた。少しばかり唇を霊力で縫い付けて黙ってもらう。突然口が動かなくなって焦っているのだろう、妹は身悶えている。僕はミコトの肩を抱き寄せた。
「僕はミコトがいいんだ。君のことは聞いてるよ、天使の花嫁さんでしょう?彼に失礼だよ」
「ナホビノ様、この家に住まわれてはいかがですか?ミコトも出ていく必要ないでしょう?」
母親の甘えたような声が聞こえる。ミコトは静かに首を振った。
「もう決めたことなの。私はヒイラギさんと暮らしたい」
「子供の分際で親に逆らう気か!」
今まで座って話を聞いていた父親が拳を振り上げて迫ってきた。やっぱり穏やかには終わらなかったみたい。残念だね。
ミコトに振り上げた父親の拳。二人の間に割って入り、父親の手首を掴んだ。少しばかり強く握ってやる。父親の顔が歪む。
「僕らはあなたたちにここを出ていきます、って言いにきただけなんだ。だから暴力なんて野蛮な真似はやめよう」
手首を掴んだまま、僕は父親に顔を近づけた。ミコトを殴ろうとした不届者を思いきり睨みつける。
「ね?僕が冷静なうちにやめた方がいいよ」
これ以上続けたら骨を砕いてしまいそうだから手を離した。父親は手首を押さえ、怯えきった顔。もうミコトを殴ろうなんて思わないだろう。
「三人とも、今までお世話になりました。どうかお元気で」
ミコトは深々と頭を下げ、硬直する三人を置いて踵を返した。二人で家を出る。家を出てから帰るまでミコトは無言だった。二人で暮らす家に着き玄関に入った瞬間、ミコトが抱きついてきた。ぎゅっと密着して僕に顔を擦りつけてくる。
「ありがとうございました」
そう言うミコトは少し震えている。あの場では凛とした態度だったが、やっぱり無理をしていたようだ。よくあれだけ自分の言葉で言えたと思う。僕は彼女の頭を撫でた。汗ばんだ髪の感触がした。
「うん。よく頑張ったね」
「はい」
「これからは一緒だよ。大丈夫。怖い人はもういないから」
あの家族はこの家がどこにあるか知らないと思うが、あの様子だと何か行動を起こすかもしれない。今日一度しか会っていない相手だが、ろくでもない奴らだということはよくわかった。僕にしがみついている彼女に、これからは安心して笑っていてほしい。僕もミコトを抱きしめた。驚いた顔のミコトが見上げてくるから笑いかけると、彼女も笑みを返してくれた。