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赤い永
「……あ」
じゃきん、と鋏の刃が合わさる音がして、はらはらと前髪の一部が落ちていく。ミコトの呆けた声を聞きつけて、ヒイラギは彼女のもとを訪れた。畳の部屋に正座したミコトが、鏡台の前で呆然としている。
「どうしたの」
ヒイラギもそばに座った。彼の青く長い豊かな髪が畳に不規則な弧を描く。
「前髪、切りすぎちゃった」
振り返ったミコトは確かに前髪の一部が短くなっていた。前髪が斜め一直線に短くなっていき左右非対称。その輪郭はまるで、
「僕の前髪と似てるね」
ヒイラギは自らの左右非対称の前髪を触りながら、ミコトに笑いかけた。そっとミコトの前髪の簾に触れる。
「言われてみれば、そうかも……」
「気になる?前髪」
金色の瞳を細めてミコトを見つめると、彼女の顔から不満げな色が消えていく。
「ううん、百合川くんと一緒だったらそれでいいかな」
「そうだね。ちょっと雰囲気の違う君も綺麗だよ」
前髪の簾から彼女の頬をなぞり、顎をついと持ち上げてやると、ミコトは恥ずかしそうに笑った。
「もう、調子がいいんだから……」
「本心だよ。ああ、そうだ」
ヒイラギは彼女に髪留めを差し出した。青い鈴に赤い組紐を組み合わせた、小さいが雅な髪留め。
「君につけてほしいと思って。どうかな」
「綺麗だね、ほんとにもらっていいの?」
「いいよ」
ミコトは嬉しそうに破顔しながら、髪留めを受け取り耳元に留めた。彼女の髪色に、控えめな青い鈴と鮮烈な赤い組紐が映える。頭を揺らすと微かに鈴が鳴る。
「ありがとう、百合川くん」
思ったとおりの風雅な姿に、ヒイラギは薄く笑みを浮かべた。可愛らしい彼女を見ていると口元が緩んでしまう。
ふとヒイラギは立ち上がり、襖を開けた。冴えた月明かりを浴びる縁側が神秘的に光っている。彼女の肩を叩き、縁側を指差して見せる。意図が伝わったらしく、ミコトは縁側に腰掛けた。ヒイラギもその隣に腰掛け、ごく自然に彼女の肩を抱いた。ヒイラギの肩にミコトの頭が置かれ、突然の動きに髪留めの鈴がちりんと音を鳴らす。二人見上げたのは裏色の夜空。散りばめられた星を従えて白く月が輝いている。月は丸く、はるか高みでやや冷たい明かりを灯している。月明かりに照らされたミコトの顔は儚く美しく、その姿を見られるだけでも神域に彼女を連れてきてよかったと心から思う。
「月が綺麗だね」
ヒイラギの唇から零れ落ちた言葉に、ミコトは笑った。
「うん。……ひょっとして、文字通り以外の意味もある?」
「さあね。君がそう思うなら、あるかもよ」
とぼけたヒイラギにミコトは微かに肩を震わせて笑い、
「あるって思っておくね。……月が綺麗ね」
意味深な響きをもって言葉を返した。こちらには明確な含みがあるような気がしたが、ヒイラギは深く考えないことにした。肩を抱く彼女は、魅入られたように月を見つめている。彼女は竹から生まれた姫君ではないが、月にそのまま吸い込まれそうなほどじっと凝視している。
「ねえ、百合川くん。私、一体いつからここにいるのかな」
たまに彼女は、神域に住まうことに対する疑問をぶつけてくる。
「ずっと昔からだよ」
「ずっと昔から……?」
頭痛でもするのか、ミコトは眉を顰めている。もしやと思うが、彼女はいまだに現世に引きずられているのだろうか。神域で暮らし始めてからそれなりに時間は経ち、すっかり馴染んだと思っていたが。
「百合川くん」
「どうしたの?」
「私、何だか眠たくて……もう寝てもいいかな」
「いいよ。今日は休もうか」
ヒイラギがミコトを軽々と横抱きしてやると、ミコトは目を見開きながらも首に両腕を回してしがみついてきた。そう。そうやって神に縋ればいい。僕はいつでも君のそばにいる。
二人の寝室に向かい、ミコトを布団の上に下ろした。ガラスを扱うように丁重に。神が執着してやまない姫君は、緊張した面持ちでヒイラギを見上げていた。
「あ、あの、急にそういうことされると照れるから……」
「そろそろ慣れてもらって構わないんだよ。ま、でも」
ヒイラギは二つ並べた布団に座り、ミコトの頬に口付けて柔らかく笑んだ。
「いつまでも慣れなくてドキドキしてる月森さん、可愛いから大好きだけどね?」
素直な感想を述べるとミコトは耳まで顔を赤くする。
「だから、そういうところが……」
恥じらうミコトの両肩を優しく押して、布団に押し倒した。覆い被さると彼女の体は小さく儚い。脆く崩れ去りそうな線の細さ、いつまでも手離したくないと独占欲が慟哭する。
「眠たいんでしょ?もう眠ってもいいよ、月森さん」
「この体勢で……?寝かせる気ないでしょ、百合川くん」
「ふふ、そうだね。もう少し君を抱きしめていたいかな」
ヒイラギはミコトの唇に人差し指で触れて笑みを落とすと、彼女の隣に寝転がり、細い腕を引いて抱き寄せた。体格のよいナホビノの腕の中にぴったりと収まる。抱きしめて頭を撫でると、先ほどヒイラギが贈った髪留めが目に留まる。指先で触れると鈴が揺れて涼やかな音が鳴る。
「百合川くん。ちょっとお話、聞いてくれる?」
「うん、いいよ。なに?」
「私……」
腕の中のミコトが顔を上げる。お互い見つめ合う至近距離。夜の影が落ちたミコトはどこか不安そうな表情。ヒイラギの胸に縋りつく小さな手が少しだけ震えている。
「私、さっきみたいに、いつからここにいるんだろうとか、本当はここじゃないどこかにいた気がするとか、そんな風に思うことがあって……私、おかしくなっちゃったのかな?百合川くんと一緒にいて、幸せなのに」
聞き逃せない言葉を聞き、ヒイラギは眉を顰めた。思案を巡らせる小難しい顔を彼女に見せる必要はない。ヒイラギはミコトに触れるだけのキスをして、彼女の震える背中を撫でながら、ゆっくりと穏やかに子守唄を唄った。神の力が宿った眠りの唄を聴いて、ただの人間であるミコトが意識を保てるはずもなく、ミコトはあっという間に深い眠りに落ちていく。瞳を閉じて規則的な寝息を立てるミコトを抱きしめて、ヒイラギは思考に沈んだ。
由々しき事態だ。ここはヒイラギの神域、神たる力が最も強くなる場所。ヒイラギの指先一つで如何様にも変容させられる空間、それはミコトにも適用されるはずだった。しかしながらミコトは神域にいてヒイラギの干渉を受けてなお、その干渉を揺らがせる強い霊力の持ち主のようだ。神の庇護下で幸福に暮らすためには全くもって不要な力だが、彼女自身力を持つことに自覚がなくうまく操れておらず、不安定な状態である。だが自覚しない強すぎる力は時に予想もしない結果をもたらす。情念を込めた青い鈴と赤い組紐の髪留めを渡し、その音と気配で彼女をすぐに追えるようにしたが、そもそも彼女が神域を離れること自体あってはならない。彼女は現世の人間だったが、今は神域でヒイラギとともに暮らす運命にある。その運命から逸れるなど神は赦しはしない。ヒイラギの手の中にミコトを確実に置いておくためにはどうすればよいか。珍しくヒイラギは焦燥に駆られ、奥歯を噛み締めた。
眠れない。月森ミコトは夜の帳が下り月が踊る深夜、ぱっちりと目を開けていた。普段であればたとえ眠くなくとも布団に潜り込んで目を閉じるところだったが、今夜はそういう気分ではなかった。体を起こして枕元の髪留めを手に取る。たとえわずかな時間であっても、起きている間は髪留めをしていないと落ち着かない。耳元に青い鈴を鳴らして、赤い組紐を揺らす。ミコトはふと、すぐ隣に敷いてある布団に目を落とした。
百合川ヒイラギが眠っていた。青くうねる長い髪が、蛇のように弧を描く。金色の蠱惑的な輝きを放つ双眸は眠りにつき閉ざされ、夜の中でただただ青い髪が目立つ。あまりに美しく神々しい彼であるが、寝顔は意外にも無防備で、寝床で安眠を貪る猫のように穏やかだ。ミコトはヒイラギの頭に手を置き、ゆっくりと撫でた。起こしてしまうかもしれないとも思ったが、その青い髪を指先で感じたかった。さらさらと流れる川のように引っかかりのない滑らかな髪は、ミコトに安心感を与えてくれる。
「う……ん……月森さん……」
わずかに身じろぎ名前を呼ばれ、ミコトは反射的に体をすくめたが、すぐにヒイラギはまた深い眠りについたらしく、穏やかな寝息が聞こえてきた。寝言だったらしい。何か夢でも見ているのだろうか。明日彼が覚えていたら、夢の内容をぜひ聞いてみたいものだ。
ミコトはヒイラギの頭を撫でながら、襖に目をやった。閉じられた襖に、月の丸く神秘的な輝きが灯っている。普段なら綺麗だ、くらいの感想で終わるところだが、今夜は妙に気になってしまう。少しだけ外の空気を吸うのも悪くないだろう。ミコトはもう一度眠っているヒイラギの髪を撫でて、ゆっくり立ち上がった。揺れた青い鈴が控えめな音を鳴らす。
静かに襖を開くと、月明かりに濡れた縁側が出迎える。縁側の向こうには蒼黒の森が続いている。月明かりを浴びた木々が微かな風に揺れ、少し不穏なざわめきを生む。音のない夜には微かな自然のさざめきでさえも耳をつんざくようで、ミコトは何だか黒々とした不安に覆われていくのを感じた。どうしてだろう。百合川ヒイラギと暮らす穏やかな時間は、不安や恐れとは無縁の幸福に満ちているはずなのに。
「……?あれ?」
森の中に一条の道が伸びている。獣道にも似た人ひとり通れるくらいの道のはるか先に、この夜の中でも異様に目立つ丹塗りの色が見えた。よく目を凝らして見つめてみると、どうやら鳥居のようだ。ヒイラギと過ごすこの家の周辺には森がある。それは知っていたが、森の奥に鳥居などあっただろうか。鳥居。鳥居?
「鳥居……?」
どこかで見たことがあるような、そんな気がした。初めて見るもののはずなのに、既視感がある。あの鳥居をくぐってここに来たような……?
何かを思い出そうとしている。脳内が途端にざわめき始める。心の奥底にしまい込んで蓋をした記憶が、溢れ出しそうになっているのを感じた。あまりよろしくない記憶のような気がして、必死に蓋を閉めたい思いに駆られる。でも、あの奥に佇む鳥居から目が離せない。
物理的に何かを吐き出しそうになって、口を押さえて目を逸らした。喉を焼く胃酸を無理矢理飲み込んで、ミコトは縁側に座り込んだ。呼吸が荒く、喉がざらつくように痛い。しばし深呼吸をしながら目を閉じていると落ち着いてきた。顔を上げ目を開け、再び夜の闇に沈む森に目を向けると、鳥居は跡形もなく消えていた。何度か瞬きをしてみても、鳥居は綺麗さっぱりなくなっている。
「気のせいかな……?」
それにしてはやけに鮮烈な色だったが、今いくら目を凝らしても鳥居などどこにも見えないのだから、気のせいだったのだろう。あるいは夢を見ていてちょっと混乱しているのかもしれない。夢は己の感情に左右されるという。ただちょっと不安になって、それで見える景色がおかしくなっているだけなのだ。
ミコトはそう自らを納得させて、寝床に戻る。二つ並んだ布団、そのひとつには変わらずヒイラギが眠っている。彼の青い髪の輝きを見ていると、心が落ち着く。先ほどまで心に立っていた波がゆっくりと引いていくのを感じる。それでも今夜はどこかに不安の火が燻っていて、このままだと安眠に至れないと本能的に察した。だからミコトはヒイラギの布団に潜り込み、向かい合って彼の体に密着した。ヒイラギがううん、と声をあげたが起きる気配はない。彼の体にぴったりくっついていると、彼の穏やかな心拍音と体温が五感に沁み渡っていく。ああ、やっぱり彼といると幸せだ。そう思いながら、ミコトは目を閉じた。
襖が眩い朝陽に輝き、その明るさにヒイラギが目を開けたとき、腕の中でミコトが丸まって眠っていることに気がついた。昨日眠りについたときには別々の布団で眠っていたはずだが、いつの間にやらこちらに転がり込んできたらしい。そういう予期せぬ事態は大歓迎で、ヒイラギはふと笑みを零しながら、甘えるように密着しているミコトを抱きしめた。あたたかく、柔らかい。彼女の柔らかさをじっくり感じ取れる朝が来るなんて、この世界は上々だ。
腕の中で眠るミコトを見つめる。さらさらと流れる髪、白く透き通った肌、穏やかな呼吸を紡ぐ健康的な唇。そのすべてがヒイラギを甘く焦がして魅了する。彼女をこんなに近くで感じられる日々を過ごしていることに、無上の喜びを噛み締める。神域に連れてくるまでに少しばかり手間がかかったが、そんなことはどうでもよかった。ミコトに漂う不安や苦しみを取り除き、ずっと二人で暮らせたら、ヒイラギはそれで十分だった。ずっと隣で、あるいは腕の中で、優しく笑っていてほしい。
「ん……百合川くん……?」
目を覚ましたようで、ミコトは弱々しい声でヒイラギを呼んだ。寝起き特有の隙だらけの顔は愛おしく、ヒイラギはミコトの頭をそっと撫でた。髪が指の間を流れていく感触が心地よい。
「おはよう、月森さん」
「おはよう……」
ぱちぱちと何度か転瞬し、ミコトは真っ直ぐヒイラギを見つめるようになった。明るく大きなその双眸にヒイラギが映り込んでいる、それがわかるほどの至近距離。
「どうしたの、月森さん。何だか浮かない顔だね?」
「うん……」
ミコトは一日の始まりには似つかわしくない、憂いを帯びた顔をしていた。単に寝覚めが悪い、眠れなかった、という身体的な理由ではなさそうだ。
「あまり眠れなかった?」
彼女の精神面は不安要素ではあるのだが、あまり不躾に尋ねて彼女が妙に意識してしまうのも愚策だ。あえて日常会話の範囲に留めるのも礼儀というもの。
「そうかも。昨日、途中で目が覚めちゃって」
「うん」
「何だか不安になっちゃって、百合川くんのところに行きたくなって……それで、百合川くんの布団にお邪魔しちゃった。ごめんね。狭かったよね」
上目遣いでこちらを見ながら言うミコトは、神の手中に収まる小動物。素直な物言いに恋慕が止まらなくなり、ヒイラギは強く彼女を抱きしめた。
「そう。僕に甘えてくれるんだね。いいよ。月森さんが甘えてくれるの、とっても嬉しいから」
「う、うん……」
腕の中で困惑しながらも笑っているミコトが愛おしくて、ヒイラギはその額に唇を寄せた。彼女がくすぐったそうに目を細めるのを見ると、ヒイラギの中に芽吹く愛のような何かが育っていくのを感じた。
ミコトと暮らす時間は穏やかで、彼女と戯れているとすぐに時間が過ぎる。甘く目を覚ました朝が過ぎ、昼になり、夜が来る。夜の暗闇に、ヒイラギは現世で蠢く反乱分子の気配を読み取った。ヒイラギが新たな宇宙を創世してしばらくの時が過ぎたが、未だにヒイラギを引きずり下ろそうとする動きを感じる。彼だけの神域に身の程を知らない反乱分子が辿り着けるとも思えぬが、万が一があれば、ミコトに危険が及ぶ。躾の行き届いていない獣は早々に排除するに限る。ヒイラギは時折そういった不穏な動きを感じ取り、ミコトが寝静まった夜に現世に降りたち、粛々と排除していた。彼女と蜜月を過ごす明るい時間をこんな馬鹿らしい者どもに奪われてはたまらない。
ヒイラギはミコトが眠りについたのを見届け、襖を開き月が上る縁側に降り立つ。右手を天に突き上げると、鳥居が現れる。あの日ミコトがくぐったものとよく似た、異世界同士を繋ぐ門。鳥居を介さずに直接現世に移動もできるのだが、やはりそういう形式は守った方が何かと都合がいい。ヒイラギが鳥居をくぐろうと一歩を踏み出したとき、
「百合川くん!」
静寂を裂く声が聞こえた。振り返ると、布団にいたはずのミコトが立っている。
「どこに行くの?それに、その鳥居……」
しまったとヒイラギは唇を噛み締めた。彼女の体に眠る霊力が、不相応なまでに大きく膨らんでいるのを感じる。この鳥居をくぐればどこに辿り着くのか、本能的に理解しているはずだ。彼女は現世に引きずられるところがあった、そこにこの鳥居を見れば、現世に対する思いは大きくなる。彼女が鳥居の向こうに行きたいと言い出すかもしれない。
「……月森さん」
ヒイラギは鳥居に背を向け、儚く佇むミコトに歩いていく。彼女は怯えた表情を見せている。ああ、可哀想に。人の身に余る霊力など捨てて、神に盲目になればいいのに。
「契りを、交わそうか」
「契り……?」
「そう。あの鳥居の先のことなんて、もう君は考えなくていいんだ。ここにずっといるっていう、契りを交わそう」
ヒイラギは呆然とするミコトの手を取り、金色の眼差しで鋭く見つめた。怯えた瞳を射抜き、神に逆らう霊力をねじ伏せて黙らせる強い眼差しを叩きつける。ミコトの瞳から輝きが失せ、虚空を見ているような、ヒイラギをぼんやりと見つめているような、曖昧な視線になる。意識をふわふわと雲の上に浮かせた、今なら何を言っても首肯する夢現の状態にミコトは陥っている。
ヒイラギは右手の指先に、針のように細く鋭い天色の刃を出現させる。夜の暗黒にその色は冷たく冴え渡る。ヒイラギはその針を躊躇なく自らの左手の小指の先に突き刺した。針は神の皮膚を貫き、赤い血液が滴り落ちる。その様子をミコトは物言わずぼんやりと見つめている。
「少し痛いけど、大丈夫だからね」
ヒイラギはミコトの左手を取り、その小指に再び針を刺した。柔い彼女の指先に針が沈み、小さな傷をつける。そこから赤い雫が浮き上がり、ぽつりぽつりと落ちていく。いきなり体を傷つけられても、ミコトは何の反応も示さない。
ヒイラギはミコトの左手の小指、その傷に唇をつけて血を吸った。血液は全身を循環する霊力の源である。そこに流れる、彼女には不釣り合いな霊力をすべて吸い上げる。これで彼女は神に抗う霊力を失い、間違いなくただの人間となった。
二人の左手の小指についた傷、それらを擦り合わせて血を混ぜ合わせる。ヒイラギは二人の血が混じり合った赤い糸を舐め上げて雫を口に含み、ミコトに口付けた。混ざった血の雫を彼女に分け与える。舌を彼女の口内に入れてもうひとつの舌を探り当てて絡めると、ミコトの口から甘い吐息が漏れる。二人分の鉄錆の味と、彼女の甘い唾液が混ざって甘露になる。
「ん……」
ぼんやりと虚空を見ながらも、少しの甘さを含んだミコトの瞳に、ヒイラギに燻る独占欲が熱く燃え上がった。
「月森さん」
ヒイラギは焦点の合わない彼女の耳元に唇を寄せ、囁いた。なるべく優しく、声の奥底に眠る獣を押し隠して。
「指切りしよう。君と僕の、契りの証として」
「うん……」
現に響くが夢の中で漂っているようなミコトの声を聞きながら、彼女の左手の小指に、自らの左手の小指を絡めた。まだ塞がらない傷口から赤い雫が滴り落ちていく。
「僕は君のもの。君は僕のもの。ずっとこの神域で、二人で暮らそう」
ヒイラギがミコトを見つめて囁いた瞬間、滴り落ちる二人の血液がするすると集まって1本の糸のようになり、分かれて二つの輪を作った。絡めた小指を離すと、ヒイラギの掌に赤い指輪が二つ、転がり落ちる。宝石の飾りなど何もない、簡素な血赤色の指輪は、月の光を浴びて硬質な輝きを放つ。ヒイラギはひとつを自らの左手の薬指にはめ、もうひとつをミコトの左手の薬指に通した。二人の指に光る妖しい血の色に、ヒイラギは笑みを浮かべた。彼女の小指の傷を柔らかな霊力の光で治した瞬間、ミコトの瞳に急速に光が戻った。
「百合川くん」
「ん?なに?」
甘く微笑むと、ミコトは穏やかに笑みを返した。左右非対称に崩れた彼女の前髪が揺れる。切り過ぎた前髪は彼女の双眸を遮るに至らない。霊力を失い、神の愛をただ受け取り続ける、あえかな瞳を真っ直ぐ見つめることができる。
「今夜は一緒に、いて?」
「今夜も、でしょ?」
あの鳥居の向こうに行ってしまうのではないかと、不安になったのだろう。ミコトが縋りつくように抱きついてくる。ヒイラギはミコトの頭を撫でながら、腰に腕を回して抱きしめた。彼女の体はナホビノと異なり柔く、脆い。守ってやらねばと本能的な部分が叫んでいる。鳥居の向こうから不穏なざわめきが聞こえるのは確かだが、今夜は彼女と契りを交わした大切な夜だ。その余韻を自ら壊しに行く必要もあるまい。聞こえるざわめきも所詮は虫の羽音、明日にでも完膚なきまでに叩き潰せばよい。今夜は、今夜だけは特別だった。
ヒイラギは彼女の両手に自らの両手を這わせ、指を絡めた。二人の左手の薬指に、鈍く赤い輝きが宿る。
「どうしたい?もう少しお話する?布団に入ってもいいよ?」
「もう少し、このままでいさせて」
柔く尋ねると、ミコトはヒイラギの胸に頬を擦り寄せてきた。同じ赤い指輪を身につけているヒイラギが、甘えるべき相手だとすぐに理解したらしい。神たる自分こそ、か弱い人間にすぎないミコトの帰る場所。彼女が甘えてくるのなら、そのまま受け止めて満足するまで甘やかしてやりたい。
「月森さん。月が、綺麗だよ」
ヒイラギは左手でミコトの髪を撫でて、優しく囁いた。その言葉に込めた思いを受け取ってほしい。ミコトは顔を上げ、月を見上げた。欠けるところのない望月が二人を照らしている。
「月が綺麗ね」
ミコトは面映いと言わんばかりの紅潮した頬で笑った。ヒイラギはその笑みに莞爾を返すと、彼女の赤く染まった頬に左手を添えた。穏やかな熱が掌に伝わってくる。少し、熱い。
「僕は君のものだから、これからも僕を頼って。僕はここにいるよ」
「うん」
ヒイラギの左手に、ミコトの左の掌が添えられる。血赤色の二つの指輪が近くで月の光を浴びて煌めく。夜空の下で交わした契りを証明するように。
「嬉しい。私、幸せだよ」
ミコトの掌、触れた頬は柔らかく美しく、ヒイラギの心をどこまでも捉えて離さなかった。今夜交わした契りに従い、ミコトは永遠にこの神域を離れないだろう。甘く幸福に浸る永の日々を、彼女とともに過ごしていく。それは、神たるヒイラギのささやかな願いだった。
「……あ」
じゃきん、と鋏の刃が合わさる音がして、はらはらと前髪の一部が落ちていく。ミコトの呆けた声を聞きつけて、ヒイラギは彼女のもとを訪れた。畳の部屋に正座したミコトが、鏡台の前で呆然としている。
「どうしたの」
ヒイラギもそばに座った。彼の青く長い豊かな髪が畳に不規則な弧を描く。
「前髪、切りすぎちゃった」
振り返ったミコトは確かに前髪の一部が短くなっていた。前髪が斜め一直線に短くなっていき左右非対称。その輪郭はまるで、
「僕の前髪と似てるね」
ヒイラギは自らの左右非対称の前髪を触りながら、ミコトに笑いかけた。そっとミコトの前髪の簾に触れる。
「言われてみれば、そうかも……」
「気になる?前髪」
金色の瞳を細めてミコトを見つめると、彼女の顔から不満げな色が消えていく。
「ううん、百合川くんと一緒だったらそれでいいかな」
「そうだね。ちょっと雰囲気の違う君も綺麗だよ」
前髪の簾から彼女の頬をなぞり、顎をついと持ち上げてやると、ミコトは恥ずかしそうに笑った。
「もう、調子がいいんだから……」
「本心だよ。ああ、そうだ」
ヒイラギは彼女に髪留めを差し出した。青い鈴に赤い組紐を組み合わせた、小さいが雅な髪留め。
「君につけてほしいと思って。どうかな」
「綺麗だね、ほんとにもらっていいの?」
「いいよ」
ミコトは嬉しそうに破顔しながら、髪留めを受け取り耳元に留めた。彼女の髪色に、控えめな青い鈴と鮮烈な赤い組紐が映える。頭を揺らすと微かに鈴が鳴る。
「ありがとう、百合川くん」
思ったとおりの風雅な姿に、ヒイラギは薄く笑みを浮かべた。可愛らしい彼女を見ていると口元が緩んでしまう。
ふとヒイラギは立ち上がり、襖を開けた。冴えた月明かりを浴びる縁側が神秘的に光っている。彼女の肩を叩き、縁側を指差して見せる。意図が伝わったらしく、ミコトは縁側に腰掛けた。ヒイラギもその隣に腰掛け、ごく自然に彼女の肩を抱いた。ヒイラギの肩にミコトの頭が置かれ、突然の動きに髪留めの鈴がちりんと音を鳴らす。二人見上げたのは裏色の夜空。散りばめられた星を従えて白く月が輝いている。月は丸く、はるか高みでやや冷たい明かりを灯している。月明かりに照らされたミコトの顔は儚く美しく、その姿を見られるだけでも神域に彼女を連れてきてよかったと心から思う。
「月が綺麗だね」
ヒイラギの唇から零れ落ちた言葉に、ミコトは笑った。
「うん。……ひょっとして、文字通り以外の意味もある?」
「さあね。君がそう思うなら、あるかもよ」
とぼけたヒイラギにミコトは微かに肩を震わせて笑い、
「あるって思っておくね。……月が綺麗ね」
意味深な響きをもって言葉を返した。こちらには明確な含みがあるような気がしたが、ヒイラギは深く考えないことにした。肩を抱く彼女は、魅入られたように月を見つめている。彼女は竹から生まれた姫君ではないが、月にそのまま吸い込まれそうなほどじっと凝視している。
「ねえ、百合川くん。私、一体いつからここにいるのかな」
たまに彼女は、神域に住まうことに対する疑問をぶつけてくる。
「ずっと昔からだよ」
「ずっと昔から……?」
頭痛でもするのか、ミコトは眉を顰めている。もしやと思うが、彼女はいまだに現世に引きずられているのだろうか。神域で暮らし始めてからそれなりに時間は経ち、すっかり馴染んだと思っていたが。
「百合川くん」
「どうしたの?」
「私、何だか眠たくて……もう寝てもいいかな」
「いいよ。今日は休もうか」
ヒイラギがミコトを軽々と横抱きしてやると、ミコトは目を見開きながらも首に両腕を回してしがみついてきた。そう。そうやって神に縋ればいい。僕はいつでも君のそばにいる。
二人の寝室に向かい、ミコトを布団の上に下ろした。ガラスを扱うように丁重に。神が執着してやまない姫君は、緊張した面持ちでヒイラギを見上げていた。
「あ、あの、急にそういうことされると照れるから……」
「そろそろ慣れてもらって構わないんだよ。ま、でも」
ヒイラギは二つ並べた布団に座り、ミコトの頬に口付けて柔らかく笑んだ。
「いつまでも慣れなくてドキドキしてる月森さん、可愛いから大好きだけどね?」
素直な感想を述べるとミコトは耳まで顔を赤くする。
「だから、そういうところが……」
恥じらうミコトの両肩を優しく押して、布団に押し倒した。覆い被さると彼女の体は小さく儚い。脆く崩れ去りそうな線の細さ、いつまでも手離したくないと独占欲が慟哭する。
「眠たいんでしょ?もう眠ってもいいよ、月森さん」
「この体勢で……?寝かせる気ないでしょ、百合川くん」
「ふふ、そうだね。もう少し君を抱きしめていたいかな」
ヒイラギはミコトの唇に人差し指で触れて笑みを落とすと、彼女の隣に寝転がり、細い腕を引いて抱き寄せた。体格のよいナホビノの腕の中にぴったりと収まる。抱きしめて頭を撫でると、先ほどヒイラギが贈った髪留めが目に留まる。指先で触れると鈴が揺れて涼やかな音が鳴る。
「百合川くん。ちょっとお話、聞いてくれる?」
「うん、いいよ。なに?」
「私……」
腕の中のミコトが顔を上げる。お互い見つめ合う至近距離。夜の影が落ちたミコトはどこか不安そうな表情。ヒイラギの胸に縋りつく小さな手が少しだけ震えている。
「私、さっきみたいに、いつからここにいるんだろうとか、本当はここじゃないどこかにいた気がするとか、そんな風に思うことがあって……私、おかしくなっちゃったのかな?百合川くんと一緒にいて、幸せなのに」
聞き逃せない言葉を聞き、ヒイラギは眉を顰めた。思案を巡らせる小難しい顔を彼女に見せる必要はない。ヒイラギはミコトに触れるだけのキスをして、彼女の震える背中を撫でながら、ゆっくりと穏やかに子守唄を唄った。神の力が宿った眠りの唄を聴いて、ただの人間であるミコトが意識を保てるはずもなく、ミコトはあっという間に深い眠りに落ちていく。瞳を閉じて規則的な寝息を立てるミコトを抱きしめて、ヒイラギは思考に沈んだ。
由々しき事態だ。ここはヒイラギの神域、神たる力が最も強くなる場所。ヒイラギの指先一つで如何様にも変容させられる空間、それはミコトにも適用されるはずだった。しかしながらミコトは神域にいてヒイラギの干渉を受けてなお、その干渉を揺らがせる強い霊力の持ち主のようだ。神の庇護下で幸福に暮らすためには全くもって不要な力だが、彼女自身力を持つことに自覚がなくうまく操れておらず、不安定な状態である。だが自覚しない強すぎる力は時に予想もしない結果をもたらす。情念を込めた青い鈴と赤い組紐の髪留めを渡し、その音と気配で彼女をすぐに追えるようにしたが、そもそも彼女が神域を離れること自体あってはならない。彼女は現世の人間だったが、今は神域でヒイラギとともに暮らす運命にある。その運命から逸れるなど神は赦しはしない。ヒイラギの手の中にミコトを確実に置いておくためにはどうすればよいか。珍しくヒイラギは焦燥に駆られ、奥歯を噛み締めた。
眠れない。月森ミコトは夜の帳が下り月が踊る深夜、ぱっちりと目を開けていた。普段であればたとえ眠くなくとも布団に潜り込んで目を閉じるところだったが、今夜はそういう気分ではなかった。体を起こして枕元の髪留めを手に取る。たとえわずかな時間であっても、起きている間は髪留めをしていないと落ち着かない。耳元に青い鈴を鳴らして、赤い組紐を揺らす。ミコトはふと、すぐ隣に敷いてある布団に目を落とした。
百合川ヒイラギが眠っていた。青くうねる長い髪が、蛇のように弧を描く。金色の蠱惑的な輝きを放つ双眸は眠りにつき閉ざされ、夜の中でただただ青い髪が目立つ。あまりに美しく神々しい彼であるが、寝顔は意外にも無防備で、寝床で安眠を貪る猫のように穏やかだ。ミコトはヒイラギの頭に手を置き、ゆっくりと撫でた。起こしてしまうかもしれないとも思ったが、その青い髪を指先で感じたかった。さらさらと流れる川のように引っかかりのない滑らかな髪は、ミコトに安心感を与えてくれる。
「う……ん……月森さん……」
わずかに身じろぎ名前を呼ばれ、ミコトは反射的に体をすくめたが、すぐにヒイラギはまた深い眠りについたらしく、穏やかな寝息が聞こえてきた。寝言だったらしい。何か夢でも見ているのだろうか。明日彼が覚えていたら、夢の内容をぜひ聞いてみたいものだ。
ミコトはヒイラギの頭を撫でながら、襖に目をやった。閉じられた襖に、月の丸く神秘的な輝きが灯っている。普段なら綺麗だ、くらいの感想で終わるところだが、今夜は妙に気になってしまう。少しだけ外の空気を吸うのも悪くないだろう。ミコトはもう一度眠っているヒイラギの髪を撫でて、ゆっくり立ち上がった。揺れた青い鈴が控えめな音を鳴らす。
静かに襖を開くと、月明かりに濡れた縁側が出迎える。縁側の向こうには蒼黒の森が続いている。月明かりを浴びた木々が微かな風に揺れ、少し不穏なざわめきを生む。音のない夜には微かな自然のさざめきでさえも耳をつんざくようで、ミコトは何だか黒々とした不安に覆われていくのを感じた。どうしてだろう。百合川ヒイラギと暮らす穏やかな時間は、不安や恐れとは無縁の幸福に満ちているはずなのに。
「……?あれ?」
森の中に一条の道が伸びている。獣道にも似た人ひとり通れるくらいの道のはるか先に、この夜の中でも異様に目立つ丹塗りの色が見えた。よく目を凝らして見つめてみると、どうやら鳥居のようだ。ヒイラギと過ごすこの家の周辺には森がある。それは知っていたが、森の奥に鳥居などあっただろうか。鳥居。鳥居?
「鳥居……?」
どこかで見たことがあるような、そんな気がした。初めて見るもののはずなのに、既視感がある。あの鳥居をくぐってここに来たような……?
何かを思い出そうとしている。脳内が途端にざわめき始める。心の奥底にしまい込んで蓋をした記憶が、溢れ出しそうになっているのを感じた。あまりよろしくない記憶のような気がして、必死に蓋を閉めたい思いに駆られる。でも、あの奥に佇む鳥居から目が離せない。
物理的に何かを吐き出しそうになって、口を押さえて目を逸らした。喉を焼く胃酸を無理矢理飲み込んで、ミコトは縁側に座り込んだ。呼吸が荒く、喉がざらつくように痛い。しばし深呼吸をしながら目を閉じていると落ち着いてきた。顔を上げ目を開け、再び夜の闇に沈む森に目を向けると、鳥居は跡形もなく消えていた。何度か瞬きをしてみても、鳥居は綺麗さっぱりなくなっている。
「気のせいかな……?」
それにしてはやけに鮮烈な色だったが、今いくら目を凝らしても鳥居などどこにも見えないのだから、気のせいだったのだろう。あるいは夢を見ていてちょっと混乱しているのかもしれない。夢は己の感情に左右されるという。ただちょっと不安になって、それで見える景色がおかしくなっているだけなのだ。
ミコトはそう自らを納得させて、寝床に戻る。二つ並んだ布団、そのひとつには変わらずヒイラギが眠っている。彼の青い髪の輝きを見ていると、心が落ち着く。先ほどまで心に立っていた波がゆっくりと引いていくのを感じる。それでも今夜はどこかに不安の火が燻っていて、このままだと安眠に至れないと本能的に察した。だからミコトはヒイラギの布団に潜り込み、向かい合って彼の体に密着した。ヒイラギがううん、と声をあげたが起きる気配はない。彼の体にぴったりくっついていると、彼の穏やかな心拍音と体温が五感に沁み渡っていく。ああ、やっぱり彼といると幸せだ。そう思いながら、ミコトは目を閉じた。
襖が眩い朝陽に輝き、その明るさにヒイラギが目を開けたとき、腕の中でミコトが丸まって眠っていることに気がついた。昨日眠りについたときには別々の布団で眠っていたはずだが、いつの間にやらこちらに転がり込んできたらしい。そういう予期せぬ事態は大歓迎で、ヒイラギはふと笑みを零しながら、甘えるように密着しているミコトを抱きしめた。あたたかく、柔らかい。彼女の柔らかさをじっくり感じ取れる朝が来るなんて、この世界は上々だ。
腕の中で眠るミコトを見つめる。さらさらと流れる髪、白く透き通った肌、穏やかな呼吸を紡ぐ健康的な唇。そのすべてがヒイラギを甘く焦がして魅了する。彼女をこんなに近くで感じられる日々を過ごしていることに、無上の喜びを噛み締める。神域に連れてくるまでに少しばかり手間がかかったが、そんなことはどうでもよかった。ミコトに漂う不安や苦しみを取り除き、ずっと二人で暮らせたら、ヒイラギはそれで十分だった。ずっと隣で、あるいは腕の中で、優しく笑っていてほしい。
「ん……百合川くん……?」
目を覚ましたようで、ミコトは弱々しい声でヒイラギを呼んだ。寝起き特有の隙だらけの顔は愛おしく、ヒイラギはミコトの頭をそっと撫でた。髪が指の間を流れていく感触が心地よい。
「おはよう、月森さん」
「おはよう……」
ぱちぱちと何度か転瞬し、ミコトは真っ直ぐヒイラギを見つめるようになった。明るく大きなその双眸にヒイラギが映り込んでいる、それがわかるほどの至近距離。
「どうしたの、月森さん。何だか浮かない顔だね?」
「うん……」
ミコトは一日の始まりには似つかわしくない、憂いを帯びた顔をしていた。単に寝覚めが悪い、眠れなかった、という身体的な理由ではなさそうだ。
「あまり眠れなかった?」
彼女の精神面は不安要素ではあるのだが、あまり不躾に尋ねて彼女が妙に意識してしまうのも愚策だ。あえて日常会話の範囲に留めるのも礼儀というもの。
「そうかも。昨日、途中で目が覚めちゃって」
「うん」
「何だか不安になっちゃって、百合川くんのところに行きたくなって……それで、百合川くんの布団にお邪魔しちゃった。ごめんね。狭かったよね」
上目遣いでこちらを見ながら言うミコトは、神の手中に収まる小動物。素直な物言いに恋慕が止まらなくなり、ヒイラギは強く彼女を抱きしめた。
「そう。僕に甘えてくれるんだね。いいよ。月森さんが甘えてくれるの、とっても嬉しいから」
「う、うん……」
腕の中で困惑しながらも笑っているミコトが愛おしくて、ヒイラギはその額に唇を寄せた。彼女がくすぐったそうに目を細めるのを見ると、ヒイラギの中に芽吹く愛のような何かが育っていくのを感じた。
ミコトと暮らす時間は穏やかで、彼女と戯れているとすぐに時間が過ぎる。甘く目を覚ました朝が過ぎ、昼になり、夜が来る。夜の暗闇に、ヒイラギは現世で蠢く反乱分子の気配を読み取った。ヒイラギが新たな宇宙を創世してしばらくの時が過ぎたが、未だにヒイラギを引きずり下ろそうとする動きを感じる。彼だけの神域に身の程を知らない反乱分子が辿り着けるとも思えぬが、万が一があれば、ミコトに危険が及ぶ。躾の行き届いていない獣は早々に排除するに限る。ヒイラギは時折そういった不穏な動きを感じ取り、ミコトが寝静まった夜に現世に降りたち、粛々と排除していた。彼女と蜜月を過ごす明るい時間をこんな馬鹿らしい者どもに奪われてはたまらない。
ヒイラギはミコトが眠りについたのを見届け、襖を開き月が上る縁側に降り立つ。右手を天に突き上げると、鳥居が現れる。あの日ミコトがくぐったものとよく似た、異世界同士を繋ぐ門。鳥居を介さずに直接現世に移動もできるのだが、やはりそういう形式は守った方が何かと都合がいい。ヒイラギが鳥居をくぐろうと一歩を踏み出したとき、
「百合川くん!」
静寂を裂く声が聞こえた。振り返ると、布団にいたはずのミコトが立っている。
「どこに行くの?それに、その鳥居……」
しまったとヒイラギは唇を噛み締めた。彼女の体に眠る霊力が、不相応なまでに大きく膨らんでいるのを感じる。この鳥居をくぐればどこに辿り着くのか、本能的に理解しているはずだ。彼女は現世に引きずられるところがあった、そこにこの鳥居を見れば、現世に対する思いは大きくなる。彼女が鳥居の向こうに行きたいと言い出すかもしれない。
「……月森さん」
ヒイラギは鳥居に背を向け、儚く佇むミコトに歩いていく。彼女は怯えた表情を見せている。ああ、可哀想に。人の身に余る霊力など捨てて、神に盲目になればいいのに。
「契りを、交わそうか」
「契り……?」
「そう。あの鳥居の先のことなんて、もう君は考えなくていいんだ。ここにずっといるっていう、契りを交わそう」
ヒイラギは呆然とするミコトの手を取り、金色の眼差しで鋭く見つめた。怯えた瞳を射抜き、神に逆らう霊力をねじ伏せて黙らせる強い眼差しを叩きつける。ミコトの瞳から輝きが失せ、虚空を見ているような、ヒイラギをぼんやりと見つめているような、曖昧な視線になる。意識をふわふわと雲の上に浮かせた、今なら何を言っても首肯する夢現の状態にミコトは陥っている。
ヒイラギは右手の指先に、針のように細く鋭い天色の刃を出現させる。夜の暗黒にその色は冷たく冴え渡る。ヒイラギはその針を躊躇なく自らの左手の小指の先に突き刺した。針は神の皮膚を貫き、赤い血液が滴り落ちる。その様子をミコトは物言わずぼんやりと見つめている。
「少し痛いけど、大丈夫だからね」
ヒイラギはミコトの左手を取り、その小指に再び針を刺した。柔い彼女の指先に針が沈み、小さな傷をつける。そこから赤い雫が浮き上がり、ぽつりぽつりと落ちていく。いきなり体を傷つけられても、ミコトは何の反応も示さない。
ヒイラギはミコトの左手の小指、その傷に唇をつけて血を吸った。血液は全身を循環する霊力の源である。そこに流れる、彼女には不釣り合いな霊力をすべて吸い上げる。これで彼女は神に抗う霊力を失い、間違いなくただの人間となった。
二人の左手の小指についた傷、それらを擦り合わせて血を混ぜ合わせる。ヒイラギは二人の血が混じり合った赤い糸を舐め上げて雫を口に含み、ミコトに口付けた。混ざった血の雫を彼女に分け与える。舌を彼女の口内に入れてもうひとつの舌を探り当てて絡めると、ミコトの口から甘い吐息が漏れる。二人分の鉄錆の味と、彼女の甘い唾液が混ざって甘露になる。
「ん……」
ぼんやりと虚空を見ながらも、少しの甘さを含んだミコトの瞳に、ヒイラギに燻る独占欲が熱く燃え上がった。
「月森さん」
ヒイラギは焦点の合わない彼女の耳元に唇を寄せ、囁いた。なるべく優しく、声の奥底に眠る獣を押し隠して。
「指切りしよう。君と僕の、契りの証として」
「うん……」
現に響くが夢の中で漂っているようなミコトの声を聞きながら、彼女の左手の小指に、自らの左手の小指を絡めた。まだ塞がらない傷口から赤い雫が滴り落ちていく。
「僕は君のもの。君は僕のもの。ずっとこの神域で、二人で暮らそう」
ヒイラギがミコトを見つめて囁いた瞬間、滴り落ちる二人の血液がするすると集まって1本の糸のようになり、分かれて二つの輪を作った。絡めた小指を離すと、ヒイラギの掌に赤い指輪が二つ、転がり落ちる。宝石の飾りなど何もない、簡素な血赤色の指輪は、月の光を浴びて硬質な輝きを放つ。ヒイラギはひとつを自らの左手の薬指にはめ、もうひとつをミコトの左手の薬指に通した。二人の指に光る妖しい血の色に、ヒイラギは笑みを浮かべた。彼女の小指の傷を柔らかな霊力の光で治した瞬間、ミコトの瞳に急速に光が戻った。
「百合川くん」
「ん?なに?」
甘く微笑むと、ミコトは穏やかに笑みを返した。左右非対称に崩れた彼女の前髪が揺れる。切り過ぎた前髪は彼女の双眸を遮るに至らない。霊力を失い、神の愛をただ受け取り続ける、あえかな瞳を真っ直ぐ見つめることができる。
「今夜は一緒に、いて?」
「今夜も、でしょ?」
あの鳥居の向こうに行ってしまうのではないかと、不安になったのだろう。ミコトが縋りつくように抱きついてくる。ヒイラギはミコトの頭を撫でながら、腰に腕を回して抱きしめた。彼女の体はナホビノと異なり柔く、脆い。守ってやらねばと本能的な部分が叫んでいる。鳥居の向こうから不穏なざわめきが聞こえるのは確かだが、今夜は彼女と契りを交わした大切な夜だ。その余韻を自ら壊しに行く必要もあるまい。聞こえるざわめきも所詮は虫の羽音、明日にでも完膚なきまでに叩き潰せばよい。今夜は、今夜だけは特別だった。
ヒイラギは彼女の両手に自らの両手を這わせ、指を絡めた。二人の左手の薬指に、鈍く赤い輝きが宿る。
「どうしたい?もう少しお話する?布団に入ってもいいよ?」
「もう少し、このままでいさせて」
柔く尋ねると、ミコトはヒイラギの胸に頬を擦り寄せてきた。同じ赤い指輪を身につけているヒイラギが、甘えるべき相手だとすぐに理解したらしい。神たる自分こそ、か弱い人間にすぎないミコトの帰る場所。彼女が甘えてくるのなら、そのまま受け止めて満足するまで甘やかしてやりたい。
「月森さん。月が、綺麗だよ」
ヒイラギは左手でミコトの髪を撫でて、優しく囁いた。その言葉に込めた思いを受け取ってほしい。ミコトは顔を上げ、月を見上げた。欠けるところのない望月が二人を照らしている。
「月が綺麗ね」
ミコトは面映いと言わんばかりの紅潮した頬で笑った。ヒイラギはその笑みに莞爾を返すと、彼女の赤く染まった頬に左手を添えた。穏やかな熱が掌に伝わってくる。少し、熱い。
「僕は君のものだから、これからも僕を頼って。僕はここにいるよ」
「うん」
ヒイラギの左手に、ミコトの左の掌が添えられる。血赤色の二つの指輪が近くで月の光を浴びて煌めく。夜空の下で交わした契りを証明するように。
「嬉しい。私、幸せだよ」
ミコトの掌、触れた頬は柔らかく美しく、ヒイラギの心をどこまでも捉えて離さなかった。今夜交わした契りに従い、ミコトは永遠にこの神域を離れないだろう。甘く幸福に浸る永の日々を、彼女とともに過ごしていく。それは、神たるヒイラギのささやかな願いだった。