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レイニーデイから恋が始まる(2/2)
「はい、月森さん」
翌日、放課後。あのグラウンドの外れにあるベンチで、ヒイラギが掌を差し出した。レモンイエローが鮮烈なリボン。昨日の約束どおり、持ってきてくれたらしい。ミコトはぱっと顔を輝かせ、
「わ、ありがとう!」
そっと受け取った。受け取るときヒイラギの指とミコトの指がわずかに触れ少し心臓が騒いだが、刹那の感情だった。すぐに受け取ったリボンの可愛らしさに心奪われる。
「リボンって、どう使うの?」
「ん?そうだねー……例えば……」
ミコトは鞄から小さなソーイングセットを取り出した。何色かの糸、小さな針、鋏が入っている。さらにポケットから学生寮の部屋の鍵も取り出して見せる。ヒイラギはこれから一体何が始まるのか、と不思議そうな顔でミコトを見つめていた。
「こういう鍵って、このままだと小さくて持ちにくいでしょ?」
リボンを適当な長さに切る。鍵の持ち手部分の穴に通したキーリング、その輪の中にリボンを通し、くるりと回して結んでやる。質素な銀色のキーリングと鍵に、レモンイエローの花が咲いたように見える。
「リボンを通すと持ちやすくなるし、可愛いよね」
ヒイラギに見えるように鍵を揺らすと、ヒイラギがおおー、と小さく声を上げた。
「へえ、そういう使い方をするんだね。勉強になるな」
「百合川くんもしてほしかったらするけど……百合川くんが持つには可愛すぎるかな?」
「うーん、そうだね。ちょっと恥ずかしいかも。でも、すごいね。可愛いし簡単だし」
「うん。色々使い道があるから、可愛いのがもらえて嬉しいな。ありがとう、百合川くん」
「どういたしまして」
微笑むヒイラギに笑いかけてふと視線を落とすと、ベンチに紺色の傘が立てかけられていることに気がついた。昨日はなかったから、おそらくはヒイラギのものだろう。
「あれ、今日雨降るの?」
「夕方から雨が降るって天気予報では言ってたよ。月森さんは傘、持ってないの?」
「あー……今日、寝坊しちゃって……急いでたから、天気予報見てなくて……」
何だか気恥ずかしくなって、ミコトはヒイラギから空へと視線を移した。確かに改めて空を見上げると、灰色の不穏な雲で埋め尽くされている。雨が降ってきてもおかしくない空模様だ。急いでいたから折り畳み傘も持っていない。もし雨が降ったら濡れるしかないなと息をつくと、ヒイラギがふふ、と笑っていた。
「大丈夫だよ。もし雨が降ってきたら、また相合傘しようか」
そう言って、ヒイラギは傘を指さす。相合傘と言われ、昨日のからかいを思い出した。今日はさすがに一日経ったこともあって、ごちゃごちゃ言われることはほぼなかったが、友人たちがにやにやと笑ってこちらを見ている気がして、どうにも落ち着かなかった。
「どうしたの?」
いつの間にか俯いていたらしく、ヒイラギが顔を覗き込んでいた。黒い髪が揺れ、翡翠の輝きがミコトを見つめている。
「あ、え、と」
いきなり視界に飛び込んできた美しい顔貌に、一瞬呼吸が止まる。反射的に距離を取ろうとして身構え、ミコトは背中をベンチにぶつけた。
「大丈夫?体調悪い?」
「あ、違うの、体調が悪いんじゃなくて」
慌てて笑みを返しながら両手を振った。ヒイラギは納得していなさそうな顔でミコトを覗き込んでいるまま。
「昨日、友達に相合傘のこと色々言われたの、思い出して……百合川くんは何か言われなかった?」
「相合傘のこと?あー、やっぱり僕と月森さんが付き合ってるとか、そういう噂になってるのかな?」
「うん……」
「そっか。まあ思ったとおりだけどね」
ヒイラギは苦笑するとミコトを覗き込むのをやめ、ベンチの背もたれにもたれかかった。ヒイラギがぼんやりと空を見上げた瞬間、
「あ、雨降ってきた」
「え?」
「今、顔に当たったんだよ」
雨かと少し憂鬱になっていると、ミコトの鼻先にもぽつりと天から落ちた雫が垂れた。
「降ってくるかも。月森さん、いったん校舎に行こうか」
「う、うん」
二人は揃って立ち上がり、足早に校舎へと向かった。その間にも雨粒がぽつりぽつりとグラウンドに点を作り、徐々に雨粒が落ちてくる頻度が増す。二人が校舎に着いた頃には、静かな雨の音が響いていた。
「ああ、降ってきちゃったね」
下駄箱で靴を履き替え、外を見つめるヒイラギが呟く。ミコトも彼の近くで呆然と外に視線を泳がせていた。ヒイラギが傘を持ち、にこりと笑いかけてくる。
「ねえ月森さん。今日、これから予定ある?」
「予定?特にないけど……」
「じゃあ、雨宿りも兼ねてお茶しない?」
「え」
予想もしていなかった提案が雨音を裂いて響き、ミコトは硬直した。彼は何も言わないが、きっと相合傘もセットだろう。一昨日彼と相合傘をしたばかりなのに今日も相合傘をして誰かに見られたらどうなるか、火を見るより明らかだった。だが雨は徐々に激しさを増しているし、この雨が単なる通り雨なのかミコトにはわからない。それに、ヒイラギとお茶をする――魅惑の響き。
「百合川くんはいいの?」
「なにが?」
ヒイラギはきょとんとした顔で首を傾げていた。本当に何を言っているのかわからない、という顔だ。
「噂になってるから……」
「ん?僕は気にしないよ。それより、月森さんが濡れる方が気になるな」
「あ……そ、そっか」
ヒイラギはごく自然に言葉を返してくれるのに、自分はどうしてこんなに挙動不審なのか。でも、心を決めた。
「じゃあ、お言葉に甘えていい?」
「もちろん」
ヒイラギの隣に寄り添い、彼の広げた傘の中に入る。ふと視線を斜め上に向けると、紺色のシンプルな傘が目に入る。ヒイラギらしい、装飾をとことんまで削ぎ落とした機能性の高いデザインだった。
「そういえば、どこに行くの?」
お茶をすると言われて一も二もなく頷いたが、行き先は聞いていなかった。尋ねると、
「品川駅の近くにいいところがあるんだ。落ち着けるところだよ」
「そうなんだ。私、たぶん知らないな。楽しみ」
微笑みとともに言葉が返ってくる。紺色の傘の中、露先から零れ落ちる雨の雫を背景に笑う彼は、落ち着いた輝きを放っていた。思わず見惚れて言葉を失うほどに。
それなりの広さがある喫茶店に辿り着き、二人して入った。店内に客は多く、ほどよいざわめきで満ちている。窓際、二人掛けの席に腰を落ち着けた。窓ガラスは雨の湿り気で曇り、窓の外はあまり見えない。降り続く雨の音、店内に流れるお洒落な音楽、人々のざわめき。この空間は心地よい音で満ちている。向かい側に座ったヒイラギは、頬杖をついてミコトを見つめていた。
「こんな喫茶店があったんだ。知らなかった」
店内を見回しながらミコトは思わず呟いた。店内はやや暗く、橙の落ち着いた灯りが柔らかく空間を照らしている。深い色の木目が美しいテーブル、座り心地のいい椅子、ずっと座ってぼんやりしていたくなる。
「隠れ家みたいでいいよね。ここ好きなんだ」
「うん、すごくいい雰囲気。百合川くんといると、色々知らないことを教えてもらえるね」
縄印学園の片隅にある快適な木陰のベンチ、品川駅近くの小洒落た喫茶店。どちらもヒイラギがいなければきっと知らなかったものだ。自分の世界が広がるのは単純に嬉しい。
二人が頼んだ飲み物が運ばれてきた。ヒイラギはホットコーヒー、ミコトはクリームソーダ。緑色の炭酸にバニラアイス、シロップ漬けのさくらんぼ。想像したとおりのレトロな見た目に心が踊る。暗めの店内で鮮やかな緑色は目につく。
「クリームソーダ、久しぶりに見たな。美味しそう。僕も頼んだらよかったかな」
カトラリーボックスには細長いスプーンが二本入っている。店員が気を利かせてくれたらしい。ミコトは二本手に取り、そのうちの一本をヒイラギに差し出した。
「一口どう?」
「……」
ヒイラギは頬杖から少し顔を浮かせて、目をぱちぱちと瞬かせた。
「いいの?」
「いいよ。思ったより大きかったし、ちょっと手伝ってほしいくらい」
「でも最初は、せっかくだから月森さんが食べなよ。一口目はちょっと躊躇うな」
「そう?じゃあせっかくだから」
バニラアイスにスプーンの先を刺してすくい、ソーダに浸しながら口に含む。炭酸が口の中で弾け、さらりとアイスがとろけて甘い味とバニラの香りが広がる。降り続く雨すら吹き飛ばしそうな、明るく弾む味。
「美味しそうに食べるね、月森さんって」
「そう?」
「うん。その様子だと期待できるな」
笑いながらヒイラギも同じようにアイスをすくって口に入れる。子供っぽい笑みを浮かべた彼が向かい側にいた。
「美味しいね。ありがとう」
「うん。あ、好きに食べていいからね」
「ん?僕はもういいよ。あとは月森さんがどうぞ」
スプーンを置いた彼は、再び頬杖をついて見守るような笑顔を向けていた。クリームソーダに夢中になっていたミコトは、笑顔を向けられていることに気がつかない。
「月森さん。僕と月森さんが付き合ってるとか、そういう噂になってるって言ってたね?」
そう言われた瞬間、露骨にミコトの動きが緩慢になった。鮮烈な甘さに高揚していた思いが、一気に曇天に沈んでいく気がした。
「この話になると露骨に落ち込むね、月森さんは。……僕と付き合ってるって言われるの、そんなに嫌?」
「そうじゃないの!」
バニラアイスをぼんやりと見ていた視線を明確にヒイラギに向け、反論した。
「違うの、そうじゃなくて……昨日友達に散々からかわれたから、百合川くんもそういうので嫌な思いしてたら嫌だなって……」
「そっか。じゃあさ。僕と付き合ってるって言われること自体は、嫌じゃないの?」
「うん、それ自体は……しつこいのが嫌なだけ」
「そう」
ヒイラギが一旦言葉を区切った。向かい合う彼は、にこにこと意味ありげに笑っている。
「じゃあ、月森さん。噂、本当にしちゃう?」
ヒイラギは頬杖をつき、もう片方の人差し指でホットコーヒーのカップの縁をなぞりながら言った。ヒイラギの言葉が耳に入り脳に届いてから、一瞬思考が止まった。
「……えっ?」
数秒遅れてミコトの口から出てきたのは、間抜けにもほどがある一言だった。バニラアイスにスプーンを刺したままの不自然な姿勢で固まる。ヒイラギはミコトの様子を具に見つめ、ただ静かに微笑んでいた。
「僕、月森さんと一緒にいると楽しいなって思ってさ。月森さんさえよければ、本当に付き合ってもいいんじゃない?」
「え……え、はい……?」
呆然とヒイラギを見つめていたらスプーンが滑り、バニラアイスが勢いよくソーダに沈んだ。数秒後、ふわりと浮かび上がってくる。ミコトは所在なくバニラアイスをスプーンの先で突いて乳白色の球が浮き沈みするのを見つめながら、ぐるぐると巡る思考に混乱していた。
――え?噂を本当にする?付き合う?私と百合川くんが?確かに私彼氏いないし付き合えるけど、でも、ええ?
無意味な動作を繰り返しながら神妙な面持ちのミコトに、ヒイラギは優しく笑いかける。
「あはは、ごめんね。急に言われたら困るよね。でも」
ヒイラギは意図的な上目遣いでミコトを見上げてきた。甘えるような、蠱惑的な眼差し。
「僕は本気だよ?」
窓の外の雨音、人々の話し声。音に満ちた空間なのに、ヒイラギの声だけは耳の奥まで沁みてくる。ミコトはずっとバニラアイスを凝視していて、ヒイラギのことはぼんやり視界に入れるに留まっていたが、意を決して真正面から彼を見つめた。彼は魔性の笑みを浮かべている。
「百合川くん」
「なに?」
「私、彼氏いないから……付き合えるよ」
「じゃあ、僕と付き合ってみる?」
「うん」
ヒイラギとまともに言葉を交わしたのは一昨日が初めてで、彼のことなんて全然知らないけど。少なくとも今、彼の提案を断る理由はなかった。
「ふふ、嬉しいな。じゃあ、今日からよろしくね」
「うん」
ヒイラギに笑いかけられた後に食べたバニラアイスはソーダに半分溶けた甘い、とろける味。二人で他愛もないことを話していると、雨が止んだ。ちょうど飲み物もなくなった頃合いで、会計を済ませて店を出る。
雨上がりの濡れたコンクリートに一歩踏み出した瞬間、ヒイラギの右手がミコトの左手を握っていた。突然の体温と感触に戸惑う。思わずヒイラギを見ると、彼は悪戯っぽい笑みを浮かべ、
「付き合うっていったら、こうだよね?」
掌同士を重ねて指を絡める、恋人繋ぎをした。
「う……うん」
あまりにも唐突で驚いたが、不快ではない。だからミコトも自然と指を絡めた。ミコトよりも大きな手に触れていると、体が熱くなる。数分前とは異なる名前の関係になったことを嫌でも意識する。
「帰ろう」
彼に促されるままに、雲間から差し込む陽光を浴びながら歩き始める。彼のことはまだ何も知らない。これから様々なことを知っていくのだろう。彼が木陰のベンチと落ち着いた喫茶店を教えてくれたように。
「はい、月森さん」
翌日、放課後。あのグラウンドの外れにあるベンチで、ヒイラギが掌を差し出した。レモンイエローが鮮烈なリボン。昨日の約束どおり、持ってきてくれたらしい。ミコトはぱっと顔を輝かせ、
「わ、ありがとう!」
そっと受け取った。受け取るときヒイラギの指とミコトの指がわずかに触れ少し心臓が騒いだが、刹那の感情だった。すぐに受け取ったリボンの可愛らしさに心奪われる。
「リボンって、どう使うの?」
「ん?そうだねー……例えば……」
ミコトは鞄から小さなソーイングセットを取り出した。何色かの糸、小さな針、鋏が入っている。さらにポケットから学生寮の部屋の鍵も取り出して見せる。ヒイラギはこれから一体何が始まるのか、と不思議そうな顔でミコトを見つめていた。
「こういう鍵って、このままだと小さくて持ちにくいでしょ?」
リボンを適当な長さに切る。鍵の持ち手部分の穴に通したキーリング、その輪の中にリボンを通し、くるりと回して結んでやる。質素な銀色のキーリングと鍵に、レモンイエローの花が咲いたように見える。
「リボンを通すと持ちやすくなるし、可愛いよね」
ヒイラギに見えるように鍵を揺らすと、ヒイラギがおおー、と小さく声を上げた。
「へえ、そういう使い方をするんだね。勉強になるな」
「百合川くんもしてほしかったらするけど……百合川くんが持つには可愛すぎるかな?」
「うーん、そうだね。ちょっと恥ずかしいかも。でも、すごいね。可愛いし簡単だし」
「うん。色々使い道があるから、可愛いのがもらえて嬉しいな。ありがとう、百合川くん」
「どういたしまして」
微笑むヒイラギに笑いかけてふと視線を落とすと、ベンチに紺色の傘が立てかけられていることに気がついた。昨日はなかったから、おそらくはヒイラギのものだろう。
「あれ、今日雨降るの?」
「夕方から雨が降るって天気予報では言ってたよ。月森さんは傘、持ってないの?」
「あー……今日、寝坊しちゃって……急いでたから、天気予報見てなくて……」
何だか気恥ずかしくなって、ミコトはヒイラギから空へと視線を移した。確かに改めて空を見上げると、灰色の不穏な雲で埋め尽くされている。雨が降ってきてもおかしくない空模様だ。急いでいたから折り畳み傘も持っていない。もし雨が降ったら濡れるしかないなと息をつくと、ヒイラギがふふ、と笑っていた。
「大丈夫だよ。もし雨が降ってきたら、また相合傘しようか」
そう言って、ヒイラギは傘を指さす。相合傘と言われ、昨日のからかいを思い出した。今日はさすがに一日経ったこともあって、ごちゃごちゃ言われることはほぼなかったが、友人たちがにやにやと笑ってこちらを見ている気がして、どうにも落ち着かなかった。
「どうしたの?」
いつの間にか俯いていたらしく、ヒイラギが顔を覗き込んでいた。黒い髪が揺れ、翡翠の輝きがミコトを見つめている。
「あ、え、と」
いきなり視界に飛び込んできた美しい顔貌に、一瞬呼吸が止まる。反射的に距離を取ろうとして身構え、ミコトは背中をベンチにぶつけた。
「大丈夫?体調悪い?」
「あ、違うの、体調が悪いんじゃなくて」
慌てて笑みを返しながら両手を振った。ヒイラギは納得していなさそうな顔でミコトを覗き込んでいるまま。
「昨日、友達に相合傘のこと色々言われたの、思い出して……百合川くんは何か言われなかった?」
「相合傘のこと?あー、やっぱり僕と月森さんが付き合ってるとか、そういう噂になってるのかな?」
「うん……」
「そっか。まあ思ったとおりだけどね」
ヒイラギは苦笑するとミコトを覗き込むのをやめ、ベンチの背もたれにもたれかかった。ヒイラギがぼんやりと空を見上げた瞬間、
「あ、雨降ってきた」
「え?」
「今、顔に当たったんだよ」
雨かと少し憂鬱になっていると、ミコトの鼻先にもぽつりと天から落ちた雫が垂れた。
「降ってくるかも。月森さん、いったん校舎に行こうか」
「う、うん」
二人は揃って立ち上がり、足早に校舎へと向かった。その間にも雨粒がぽつりぽつりとグラウンドに点を作り、徐々に雨粒が落ちてくる頻度が増す。二人が校舎に着いた頃には、静かな雨の音が響いていた。
「ああ、降ってきちゃったね」
下駄箱で靴を履き替え、外を見つめるヒイラギが呟く。ミコトも彼の近くで呆然と外に視線を泳がせていた。ヒイラギが傘を持ち、にこりと笑いかけてくる。
「ねえ月森さん。今日、これから予定ある?」
「予定?特にないけど……」
「じゃあ、雨宿りも兼ねてお茶しない?」
「え」
予想もしていなかった提案が雨音を裂いて響き、ミコトは硬直した。彼は何も言わないが、きっと相合傘もセットだろう。一昨日彼と相合傘をしたばかりなのに今日も相合傘をして誰かに見られたらどうなるか、火を見るより明らかだった。だが雨は徐々に激しさを増しているし、この雨が単なる通り雨なのかミコトにはわからない。それに、ヒイラギとお茶をする――魅惑の響き。
「百合川くんはいいの?」
「なにが?」
ヒイラギはきょとんとした顔で首を傾げていた。本当に何を言っているのかわからない、という顔だ。
「噂になってるから……」
「ん?僕は気にしないよ。それより、月森さんが濡れる方が気になるな」
「あ……そ、そっか」
ヒイラギはごく自然に言葉を返してくれるのに、自分はどうしてこんなに挙動不審なのか。でも、心を決めた。
「じゃあ、お言葉に甘えていい?」
「もちろん」
ヒイラギの隣に寄り添い、彼の広げた傘の中に入る。ふと視線を斜め上に向けると、紺色のシンプルな傘が目に入る。ヒイラギらしい、装飾をとことんまで削ぎ落とした機能性の高いデザインだった。
「そういえば、どこに行くの?」
お茶をすると言われて一も二もなく頷いたが、行き先は聞いていなかった。尋ねると、
「品川駅の近くにいいところがあるんだ。落ち着けるところだよ」
「そうなんだ。私、たぶん知らないな。楽しみ」
微笑みとともに言葉が返ってくる。紺色の傘の中、露先から零れ落ちる雨の雫を背景に笑う彼は、落ち着いた輝きを放っていた。思わず見惚れて言葉を失うほどに。
それなりの広さがある喫茶店に辿り着き、二人して入った。店内に客は多く、ほどよいざわめきで満ちている。窓際、二人掛けの席に腰を落ち着けた。窓ガラスは雨の湿り気で曇り、窓の外はあまり見えない。降り続く雨の音、店内に流れるお洒落な音楽、人々のざわめき。この空間は心地よい音で満ちている。向かい側に座ったヒイラギは、頬杖をついてミコトを見つめていた。
「こんな喫茶店があったんだ。知らなかった」
店内を見回しながらミコトは思わず呟いた。店内はやや暗く、橙の落ち着いた灯りが柔らかく空間を照らしている。深い色の木目が美しいテーブル、座り心地のいい椅子、ずっと座ってぼんやりしていたくなる。
「隠れ家みたいでいいよね。ここ好きなんだ」
「うん、すごくいい雰囲気。百合川くんといると、色々知らないことを教えてもらえるね」
縄印学園の片隅にある快適な木陰のベンチ、品川駅近くの小洒落た喫茶店。どちらもヒイラギがいなければきっと知らなかったものだ。自分の世界が広がるのは単純に嬉しい。
二人が頼んだ飲み物が運ばれてきた。ヒイラギはホットコーヒー、ミコトはクリームソーダ。緑色の炭酸にバニラアイス、シロップ漬けのさくらんぼ。想像したとおりのレトロな見た目に心が踊る。暗めの店内で鮮やかな緑色は目につく。
「クリームソーダ、久しぶりに見たな。美味しそう。僕も頼んだらよかったかな」
カトラリーボックスには細長いスプーンが二本入っている。店員が気を利かせてくれたらしい。ミコトは二本手に取り、そのうちの一本をヒイラギに差し出した。
「一口どう?」
「……」
ヒイラギは頬杖から少し顔を浮かせて、目をぱちぱちと瞬かせた。
「いいの?」
「いいよ。思ったより大きかったし、ちょっと手伝ってほしいくらい」
「でも最初は、せっかくだから月森さんが食べなよ。一口目はちょっと躊躇うな」
「そう?じゃあせっかくだから」
バニラアイスにスプーンの先を刺してすくい、ソーダに浸しながら口に含む。炭酸が口の中で弾け、さらりとアイスがとろけて甘い味とバニラの香りが広がる。降り続く雨すら吹き飛ばしそうな、明るく弾む味。
「美味しそうに食べるね、月森さんって」
「そう?」
「うん。その様子だと期待できるな」
笑いながらヒイラギも同じようにアイスをすくって口に入れる。子供っぽい笑みを浮かべた彼が向かい側にいた。
「美味しいね。ありがとう」
「うん。あ、好きに食べていいからね」
「ん?僕はもういいよ。あとは月森さんがどうぞ」
スプーンを置いた彼は、再び頬杖をついて見守るような笑顔を向けていた。クリームソーダに夢中になっていたミコトは、笑顔を向けられていることに気がつかない。
「月森さん。僕と月森さんが付き合ってるとか、そういう噂になってるって言ってたね?」
そう言われた瞬間、露骨にミコトの動きが緩慢になった。鮮烈な甘さに高揚していた思いが、一気に曇天に沈んでいく気がした。
「この話になると露骨に落ち込むね、月森さんは。……僕と付き合ってるって言われるの、そんなに嫌?」
「そうじゃないの!」
バニラアイスをぼんやりと見ていた視線を明確にヒイラギに向け、反論した。
「違うの、そうじゃなくて……昨日友達に散々からかわれたから、百合川くんもそういうので嫌な思いしてたら嫌だなって……」
「そっか。じゃあさ。僕と付き合ってるって言われること自体は、嫌じゃないの?」
「うん、それ自体は……しつこいのが嫌なだけ」
「そう」
ヒイラギが一旦言葉を区切った。向かい合う彼は、にこにこと意味ありげに笑っている。
「じゃあ、月森さん。噂、本当にしちゃう?」
ヒイラギは頬杖をつき、もう片方の人差し指でホットコーヒーのカップの縁をなぞりながら言った。ヒイラギの言葉が耳に入り脳に届いてから、一瞬思考が止まった。
「……えっ?」
数秒遅れてミコトの口から出てきたのは、間抜けにもほどがある一言だった。バニラアイスにスプーンを刺したままの不自然な姿勢で固まる。ヒイラギはミコトの様子を具に見つめ、ただ静かに微笑んでいた。
「僕、月森さんと一緒にいると楽しいなって思ってさ。月森さんさえよければ、本当に付き合ってもいいんじゃない?」
「え……え、はい……?」
呆然とヒイラギを見つめていたらスプーンが滑り、バニラアイスが勢いよくソーダに沈んだ。数秒後、ふわりと浮かび上がってくる。ミコトは所在なくバニラアイスをスプーンの先で突いて乳白色の球が浮き沈みするのを見つめながら、ぐるぐると巡る思考に混乱していた。
――え?噂を本当にする?付き合う?私と百合川くんが?確かに私彼氏いないし付き合えるけど、でも、ええ?
無意味な動作を繰り返しながら神妙な面持ちのミコトに、ヒイラギは優しく笑いかける。
「あはは、ごめんね。急に言われたら困るよね。でも」
ヒイラギは意図的な上目遣いでミコトを見上げてきた。甘えるような、蠱惑的な眼差し。
「僕は本気だよ?」
窓の外の雨音、人々の話し声。音に満ちた空間なのに、ヒイラギの声だけは耳の奥まで沁みてくる。ミコトはずっとバニラアイスを凝視していて、ヒイラギのことはぼんやり視界に入れるに留まっていたが、意を決して真正面から彼を見つめた。彼は魔性の笑みを浮かべている。
「百合川くん」
「なに?」
「私、彼氏いないから……付き合えるよ」
「じゃあ、僕と付き合ってみる?」
「うん」
ヒイラギとまともに言葉を交わしたのは一昨日が初めてで、彼のことなんて全然知らないけど。少なくとも今、彼の提案を断る理由はなかった。
「ふふ、嬉しいな。じゃあ、今日からよろしくね」
「うん」
ヒイラギに笑いかけられた後に食べたバニラアイスはソーダに半分溶けた甘い、とろける味。二人で他愛もないことを話していると、雨が止んだ。ちょうど飲み物もなくなった頃合いで、会計を済ませて店を出る。
雨上がりの濡れたコンクリートに一歩踏み出した瞬間、ヒイラギの右手がミコトの左手を握っていた。突然の体温と感触に戸惑う。思わずヒイラギを見ると、彼は悪戯っぽい笑みを浮かべ、
「付き合うっていったら、こうだよね?」
掌同士を重ねて指を絡める、恋人繋ぎをした。
「う……うん」
あまりにも唐突で驚いたが、不快ではない。だからミコトも自然と指を絡めた。ミコトよりも大きな手に触れていると、体が熱くなる。数分前とは異なる名前の関係になったことを嫌でも意識する。
「帰ろう」
彼に促されるままに、雲間から差し込む陽光を浴びながら歩き始める。彼のことはまだ何も知らない。これから様々なことを知っていくのだろう。彼が木陰のベンチと落ち着いた喫茶店を教えてくれたように。