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レイニーデイにリボンを結ぶ
6月に入り、梅雨の気配が濃くなってきた。縄印学園は6月から衣替えしてもよいと決まっており、あまりの暑さに夏服を着ている生徒の方が多い。月森ミコトも湿度の高い暑さに嫌気がさして、半袖のブラウスにスカートを着ていた。
ミコトは教師の声だけが響く授業中、ついと視線を窓の外に向けた。朝は綺麗な晴天だったが、放課後が近くなるにつれ急激に空の色が変わっていった。重そうな灰色の雲で埋め尽くされた、雨催いの空。天気予報では夕方遅くから雨が降ると言っていたが、少し予定が早まったらしい。もういつ雨粒が落ちてきてもおかしくない雰囲気が漂っている。
放課後のチャイムが鳴り、生徒が思い思いに散っていく頃、ついに空から涙が落ちてきた。それも大粒の、落ちていく雫が線になって見えるくらいの雨量。傘があっても足元が濡れてしまうような雨だ。朝は晴れていただけに傘を持っていない生徒が多いらしく、ところどころで雨を嘆く声が聞こえる。ミコトは何だか嫌な予感がして、傘を持ってきていた。廊下で雨に足止めを食らっている生徒たちの前を通り過ぎていく。特に学園に残る用事はないので普段どおり下駄箱に向かい、靴を履き替える。正門に向かおうとした足が、一人の生徒を見つけて止まった。
百合川ヒイラギが立っていた。気怠げに柱にもたれて、雨が降り続ける外を眺めている。傘は持っていないようだ。雨が止むか、もう少し弱まるまで待っているのだろう。すらりとした体躯、艶のある黒髪、鼻筋の通った横顔はあまりにも絵になる。雨宿りという日常動作ですら美しい絵画になってしまうのだから、彼の美貌にミコトの視線が縫いつけられるのも無理もない。ため息のひとつも零れるというもの。彼も夏服を着ており、半袖の白いカッターシャツから伸びる腕が白く浮かび上がっている。学ランを着ているイメージが強い彼なので、上半身が白くなるとずいぶんと印象が違う。曇天により薄暗い放課後の中、彼の白いカッターシャツと細い腕は眩いほどに目を引いた。
ミコトはぎゅっと傘を握りしめ、つかつかとヒイラギに向かって歩いた。彼との距離が縮まるその一歩ごとに、心臓が跳ねる気がした。
「百合川くん!」
思っていたよりも大きな声が出た。ヒイラギはびくっと肩を竦め、ミコトを見た。まさか誰かに呼びかけられるなど、夢にも思っていなかったという顔だ。驚いた顔ですら麗しい。大きく見開いた彼の瞳は、雨粒のように透き通って見えた。
「これ、使って!」
ミコトは持っていた傘を突き出した。ヒイラギは呆然とした顔でミコトと傘をまじまじと見つめ、
「……えっ?」
たった一言、口にした。意図は伝わっていると思うが、ヒイラギが傘を受け取る気配がない。だから無理矢理傘を押しつけて、
「それじゃ!傘はそのうち返してくれたらいいから!」
俯いて彼の視線から逃げながら、正門に向けて駆け出した。校舎という覆いがなくなった瞬間、容赦のない雨がミコトの体に降り注いだ。当然ながらミコトが持っていた傘は1本だけ、その1本をヒイラギに渡してしまえば濡れるしかない。6月の雨はまだ冷たい。湿りきった不快な空気と雨に存分に浸りながら、学生寮まで一直線に走った。学生寮に辿り着いた頃には全身びしょ濡れ、体の芯まで冷えそうだが頬だけは熱かった。ミコトは急いで自室に戻り、火照った頬を両手で軽く叩き、ぶるぶると頭を振った。
――ああああ、変なことしちゃった。そんな慟哭が脳内に響いた。
どうして百合川ヒイラギに傘を押しつけたのか、自分でもわからなかった。困っていると思しき彼を見たら、自然と体が動いて言葉を発し、傘を押しつけていた。彼はちゃんと使ってくれただろうか。代わりに自分が濡れ鼠になってしまったが、それはもう自業自得だろう。
――百合川くんに変な子って思われなかったかなあ。
もう今更ではあるが、それだけが気がかりだった。濡れて風邪を引くかもしれないという、卑近なことよりも。
「……」
百合川ヒイラギは呆然としていた。雨宿りをしていたら、突然知らない女生徒に傘を押しつけられた。ヒイラギは反射的に傘を受け取り、呆然としていた。知らない顔だった。傘はそのうち返してくれたらいいから、と言われたがそもそも君はどこのクラスの誰なんだと疑問が湧いた。ヒイラギは傘を持ったまま、女生徒が走り去っていった正門を見つめた。雨は止まず、降り続く軌跡を残しながら雨音を立てている。彼女はヒイラギに傘を渡したが、もう1本傘を持っているようには見えなかったし、無防備な状態で走っていった。1本しかない傘をわざわざヒイラギに渡すなど、彼女の行動は不可解だ。雨に濡れたい、ちょっと変な子だったのだろうか。
名前も知らない女生徒から受け取った傘を使うのもどうかと思うが、雨止みの気配はない。このまま待っていたとして、止むかどうかは不確定だ。ヒイラギは意を決して歩き始めた。正門に出る一歩手前、傘を開く。基本は紺色、露先から数センチ上の部分に白いラインが入った、比較的落ち着いた色合いの傘だった。女性向けの傘としてはやや大きめだが、かえってヒイラギにはちょうどいい大きさだった。可愛らしすぎない、ヒイラギが持っていてもそこまで違和感はないデザインで助かった。唯一気になるとしたら、傘の持ち手の部分にサテン生地のベージュのリボンが蝶の形に結ばれている。女性っぽさがあって少し恥ずかしい気もするが、この際贅沢は言えまい。本当はリボンの部分を手で隠したいが、さすがに借り物の傘の飾りを潰すようなことはできず、リボンより上部分を恐る恐る持った。
差し慣れない傘を差して校舎を出た。その瞬間、雨が勢いよく傘に当たり、開いた形に沿って雫が忙しなく流れていく。露先から落ちた雫がアスファルトに跳ねて冷たい。スラックスの裾が濡れて冷えていく。歩いている以上靴の裏で水滴が跳ねるし、多少の水溜まりも踏まざるをえない。傘を差していてもそれなりに濡れる雨にうんざりしながら、ヒイラギは帰路を歩いた。学生寮に辿り着き、屋根の下で傘を振って雫を落としながら、ふとヒイラギは傘を押しつけてきた彼女のことを思い出した。ヒイラギは多少濡れる程度で済んだが、この雨の中、彼女は無事……ではないだろう。唐突だったとはいえ傘を貸してもらったことだし、きちんと乾かして返す必要がある。一言でいいから礼も言いたい。だが彼女の姿と声を思い描き、何とか名前とクラスがわからないかと記憶を辿ったが、どうしてもわからなかった。少なくとも同じクラスの生徒ではなさそうだ。
「……せめて、名前を教えてくれたらな」
ぽつりと呟いた声は降り止まない雨の音にかき消されて、ヒイラギ本人にしか聞こえなかった。
「えー……」
百合川ヒイラギに傘を押しつけてから数日。そろそろ傘を買いに行かなきゃと思っていた矢先、放課後になった瞬間狙い澄ましたように雨が降り出した。雨が降るのは夜遅くと予報では言っていたから、折り畳み傘すら持っていなかった。下駄箱で靴を履き替えている間に雨音が聞こえ、嫌な予感がして正門の方を見たら、雨の線が綺麗に見えている。乾いていたアスファルトが全面濡れて光り、ちらほら水溜りができ始めている。
「あぁ……」
一応正門を出る直前まで歩いてきて、一歩先を見て絶望した。雨の軌跡がカーテンのように隙間なく降り注ぎ、傘がなければ一瞬で全身濡れ鼠になることが予想できた。さすがにこんな雨の中駆け出して帰っていく勇気はない。雨が少しでも落ち着くことを期待して、待ってみようか。ふうとため息をついて学生鞄を持ち直したとき、
「ねえ」
声をかけられた。雨音は決して小さくないのだが、自分を呼んでいると思しき声はよく聞こえた。
振り返る。百合川ヒイラギが立っていた。手には傘。数日前彼に差し出した、ミコトの傘だった。
「百合川くん」
声をかけながら彼に駆け寄った。彼は少し首を傾げながら、ミコトの傘を差し出してきた。
「傘、貸してくれてありがとう。返す機会があってよかったよ」
「ありがとう」
彼の手から傘を受け取り、ミコトはほっとした。示し合わせたかのようなタイミング、非常に助かる。この雨の中でも帰れそうだ。そう思ってミコトは踵を返そうとしたが、手ぶらのヒイラギを見てはたと思い至った。彼は傘を1本しか持っていなかった。このままでは、彼が濡れて帰る羽目になる。
「百合川くん!」
ミコトから離れようとするヒイラギの腕を掴んだ。半袖の露わになった彼の腕。見た目は細いが、思ったよりもしなやかで力強い腕だった。ヒイラギは突然腕を掴まれて呆然としている。
「なに?」
「百合川くん、傘は?」
「持ってないよ」
「百合川くんさえよければ、相合傘して帰ろう!」
「……は?」
ヒイラギの綺麗で大きな瞳が、見開いてミコトを見つめていた。
「だって、百合川くん傘持ってないでしょ?濡れちゃうから」
「うん、まあ、確かにそうなんだけど」
ヒイラギは戸惑っている。突然腕を掴まれて、大して仲良くもない相手から相合傘しようなんて言われたら、誰でもこんな反応になるかなあと妙に冷静に納得しながらも、ミコトは彼の腕を離そうとはしなかった。彼のこととなると、放っておけなくなる。
「……本当にいいの?」
ヒイラギは正門の向こう、曇天に篠突く雨とミコトを交互に見て、躊躇いながら問いかけた。眉根を寄せて苦笑いしながら、ヒイラギは言葉を続ける。
「何か変な噂になっちゃうかもよ」
彼の危惧するところはすぐにわかった。高校生の話題など種類が限られている。その中で相合傘をして帰る男子と女子を見たら、噂好きの間でどんな語り種になるか、容易に想像がつく。
「私は噂になったって気にしないよ。ヒイラギくんが嫌なら、無理にとは言わないけど」
「……そう?」
ヒイラギが首を傾げると、艶やかな黒髪が美しく揺れた。些細な仕草さえ麗しく映る彼に見惚れてしまう。
「じゃあ、お言葉に甘えてもいいかな?僕も濡れるの嫌だし」
「うん、わかった」
二人で並んで歩き、正門に着く。ミコトは傘を開いた。紺色に白いラインが入った、見慣れた傘。傘を開いてできたスペースに彼を招き入れる。そうしてひとつの傘を分け合いながら、二人は歩き始めた。女性向けにしては大きめの傘だが、二人分の体を覆うことは想定されていない。どうしても体が一部はみ出してしまう。ミコトは気づかれない程度に、ヒイラギの方に傘を傾けた。その瞬間、ヒイラギがこちらを向いて、ミコトの傘の持ち手を持った。
「僕の方が背が高いから、持つよ」
「え?でも……」
「だめかな?」
そう尋ねる彼は、重苦しい灰色の空を背景にしても沈まない、爽やかな美しさを放っていた。
「う、ううん……ありがとう」
そう聞かれると反対できなくなり、大人しく傘から手を離した。彼の関節が目立つ手と傘の持ち手を見て、初めて気がついた。他の傘との区別のために、ミコトが結んだベージュのリボン。その上に、もうひとつリボンが結ばれている。鮮やかなレモンイエローが眩しいリボンだった。
「……あ、もしかして、リボンのこと?」
見つめる視線に気づいたらしく、ヒイラギが尋ねてきた。聞かれて初めて凝視していたことを認識し、ミコトは慌てた。
「あ、ごめん、じっと見て……この黄色いリボン、見覚えなくて」
「見覚えなくて当然だよ。だって、僕がつけたから」
「え?」
よく理解できなくて、今度はヒイラギを凝視した。彼は穏やかな笑い声を上げる。彼が笑っているところを初めて見た。芸術品のように美しい彼に優しく微笑まれると、心臓がざわめくのを感じる。
「1本しかない傘を貸してくれたから、単に口でありがとうって言うだけじゃ足りない気がして……あとでリボン、見てくれたらいいよ。見た後は捨ててくれて構わないから」
「?うん」
今ちらりと見ただけだと単なるリボンにしか見えないが、何か仕掛けでもあるのだろうか。気にはなるが、傘はヒイラギが持っているし、歩きながらではよくわからない。
「ねえ、僕、君の名前も知らないんだ。教えてもらっていいかな?」
「え、百合川くん、私のこと知らなかったの!?」
「うん」
さらりと言われて驚愕した。ミコトは彼を知っていたから、てっきり彼も知っているだろうと思っていた。でも冷静に考えれば、彼と同じクラスになったこともないし、知らなくても仕方がないだろう。
「月森ミコトだよ」
「月森さん。月森さんだね。月森さん、傘、ありがとう。今も傘貸してもらってるから、頭が上がらないな」
「そんな大袈裟な……」
無意識に口から出た言葉は間違いなく本心だった。そんなに何度も礼を言われるようなことをした覚えはなくて、面映くなる。
「ねえ、月森さん。聞いてもいい?」
「なに?」
「月森さんはどうして僕のこと知ってるの?」
それは当然の疑問かもしれない。縄印学園の生徒数は同学年に限ってもそれなりにいる。部活が同じ等の接点がなければ、ずっと違うクラスの生徒の名前など、知る機会はないに等しい。
「あ…えっと……」
言い淀んだ。その間にもヒイラギの顔がこちらを向いていて、視線が惜しみなくミコトに注がれている。真っ直ぐ彼を見つめられない。同じ傘の中にいる者同士距離が近すぎて、視線を泳がせても肩や髪といった、ヒイラギの一部が視界に入る。
「あ、あのね……百合川くん、結構噂になってるの、知らない……?」
「噂?僕が?」
ヒイラギはきょとんとした顔だった。いつも澄ました顔をしているように見える彼だったが、それなりに表情は豊かなようだ。
「うん」
「差し支えなければ、どんな噂か聞いていいかな?」
「……百合川くん、とっても綺麗だから、『とんでもなく綺麗な男子がいる』って噂になってるよ?」
「……えぇ?綺麗?僕が?」
彼は愕然としている。百合川ヒイラギが噂になるほど綺麗だなんて、誰に言われるまでもなく真理だと思うが、噂の張本人はそう思っていないらしい。
「……そうなの?ふうん……よくわからないな……」
「え?私も百合川くん、綺麗だと思うけど……百合川くんはそう思わないの?」
「鏡で毎日見る顔だからね。自分では全然わからないよ」
そういうものなのだろうか。ミコトは特別綺麗でも可愛くもないので、ヒイラギの気持ちは理解できそうにない。流れるような黒髪、大きな瞳、長い睫毛。女子でも憧れる見目麗しさを持っているのに、当の本人は自覚がないのか。勿体無い。
「それで」
ひとしきり驚いた様子を見せた後、ヒイラギはミコトを改めて見つめた。何か意味ありげな視線が刺さる。ミコトはどんな意図があるのかわからず、少し体を強張らせた。
「月森さんも、その噂を聞いて僕のことを知ったの?」
「う、うん」
「そっか」
ヒイラギは一度唇を閉じ、静かに歩いていた。傘の外で聞こえる雨の音が強くなり、二人の間で流れる静寂を強調する。少し気まずさを覚える沈黙を破ったのは、ヒイラギだった。
「ねえ。どうして月森さんは傘が1本しかないのに、僕に貸してくれたの?あのとき、結構雨降ってたよね」
彼に聞かれて、改めて思い返した。どうしてと聞かれても、理由など決まっている。
「百合川くんが困ってたから……渡してから、傘1本しかないやって気づいちゃった」
あはは、と笑ってみる。ヒイラギは不思議そうな顔をしていたが、数秒後には口元を綻ばせていた。
「そっか。月森さんって優しいんだね」
「え?そうかな」
「そうだよ」
二人で歩き続けていると、いつの間にか学生寮のすぐ近くまで来ていた。普段と同じ道を通って帰っていたはずなのに、あっという間に着いてしまった錯覚を覚えた。屋根の下に入り、丁寧に巻いた傘をヒイラギから返される。受け取りながら、名残惜しいと思ってしまった。
「月森さん」
ヒイラギの柔らかな声が響いた。気づくと、彼がスマートフォンの画面を突き出している。二次元コードが表示された画面、どういう意図なのか何となく理解はできた。
「せっかくだから、連絡先、交換しない?」
「あ、うん」
そのまま別れると思っていただけに驚いてしまったものの、断る理由はない。むしろミコトから提案してもよかったくらいだ。ミコトもスマートフォンを取り出し、スムーズに連絡先を交換する。連絡アプリにずらりと並んだ友達欄に、百合川ヒイラギの名前がある。見慣れないし落ち着かない文字列だが、妙に心が弾む。不思議な気分だった。
「今日はありがとう、月森さん。おかげであまり濡れずにすんだよ。月森さんも風邪とかひかないように、気をつけてね」
ひらひらと彼は手を振って、学生寮に入っていった。去っていく後ろ姿が小さくなるのが惜しくて、彼の姿が見えなくなってもしばらく立ち尽くしていた。降り止まない雨の音が耳にうるさく響くようになり、ミコトははっと我に返った。傘からはみ出ていた肩と片方の足元が濡れている。彼の言うとおり、早く部屋に戻った方がいいだろう。
「……あ」
ふと、手に持っている傘に目を落とした。傘の持ち手に結んだベージュのリボンに寄り添うように結ばれた、レモンイエローのリボン。そういえば、ヒイラギは後でリボンを見てほしいと言っていた。傘の持ち手が目線の高さに来るように持ち上げて、まじまじとリボンを観察した。
レモンイエローの蝶結び、結び目から下に伸びたリボンの端に、何か字が書いてある。黒い文字で、「ありがとう ヒイラギ」と書かれていた。それを見た瞬間、ミコトはふふ、と笑みを漏らした。口で言ってくれるだけで十分なのに、わざわざこんな一手間をかけたのか。彼がリボンを買ったり、リボンに字を書いたりしているところを想像すると可愛らしい。百合川ヒイラギ。どこか近寄り難い雰囲気があったが、意外とお茶目な人なのかもしれない。連絡先を交換したことだし、もう少し話してみようかな、と笑みを零しながら、ミコトは学生寮に入っていった。その足取りは、一部濡れているが軽いものだった。
6月に入り、梅雨の気配が濃くなってきた。縄印学園は6月から衣替えしてもよいと決まっており、あまりの暑さに夏服を着ている生徒の方が多い。月森ミコトも湿度の高い暑さに嫌気がさして、半袖のブラウスにスカートを着ていた。
ミコトは教師の声だけが響く授業中、ついと視線を窓の外に向けた。朝は綺麗な晴天だったが、放課後が近くなるにつれ急激に空の色が変わっていった。重そうな灰色の雲で埋め尽くされた、雨催いの空。天気予報では夕方遅くから雨が降ると言っていたが、少し予定が早まったらしい。もういつ雨粒が落ちてきてもおかしくない雰囲気が漂っている。
放課後のチャイムが鳴り、生徒が思い思いに散っていく頃、ついに空から涙が落ちてきた。それも大粒の、落ちていく雫が線になって見えるくらいの雨量。傘があっても足元が濡れてしまうような雨だ。朝は晴れていただけに傘を持っていない生徒が多いらしく、ところどころで雨を嘆く声が聞こえる。ミコトは何だか嫌な予感がして、傘を持ってきていた。廊下で雨に足止めを食らっている生徒たちの前を通り過ぎていく。特に学園に残る用事はないので普段どおり下駄箱に向かい、靴を履き替える。正門に向かおうとした足が、一人の生徒を見つけて止まった。
百合川ヒイラギが立っていた。気怠げに柱にもたれて、雨が降り続ける外を眺めている。傘は持っていないようだ。雨が止むか、もう少し弱まるまで待っているのだろう。すらりとした体躯、艶のある黒髪、鼻筋の通った横顔はあまりにも絵になる。雨宿りという日常動作ですら美しい絵画になってしまうのだから、彼の美貌にミコトの視線が縫いつけられるのも無理もない。ため息のひとつも零れるというもの。彼も夏服を着ており、半袖の白いカッターシャツから伸びる腕が白く浮かび上がっている。学ランを着ているイメージが強い彼なので、上半身が白くなるとずいぶんと印象が違う。曇天により薄暗い放課後の中、彼の白いカッターシャツと細い腕は眩いほどに目を引いた。
ミコトはぎゅっと傘を握りしめ、つかつかとヒイラギに向かって歩いた。彼との距離が縮まるその一歩ごとに、心臓が跳ねる気がした。
「百合川くん!」
思っていたよりも大きな声が出た。ヒイラギはびくっと肩を竦め、ミコトを見た。まさか誰かに呼びかけられるなど、夢にも思っていなかったという顔だ。驚いた顔ですら麗しい。大きく見開いた彼の瞳は、雨粒のように透き通って見えた。
「これ、使って!」
ミコトは持っていた傘を突き出した。ヒイラギは呆然とした顔でミコトと傘をまじまじと見つめ、
「……えっ?」
たった一言、口にした。意図は伝わっていると思うが、ヒイラギが傘を受け取る気配がない。だから無理矢理傘を押しつけて、
「それじゃ!傘はそのうち返してくれたらいいから!」
俯いて彼の視線から逃げながら、正門に向けて駆け出した。校舎という覆いがなくなった瞬間、容赦のない雨がミコトの体に降り注いだ。当然ながらミコトが持っていた傘は1本だけ、その1本をヒイラギに渡してしまえば濡れるしかない。6月の雨はまだ冷たい。湿りきった不快な空気と雨に存分に浸りながら、学生寮まで一直線に走った。学生寮に辿り着いた頃には全身びしょ濡れ、体の芯まで冷えそうだが頬だけは熱かった。ミコトは急いで自室に戻り、火照った頬を両手で軽く叩き、ぶるぶると頭を振った。
――ああああ、変なことしちゃった。そんな慟哭が脳内に響いた。
どうして百合川ヒイラギに傘を押しつけたのか、自分でもわからなかった。困っていると思しき彼を見たら、自然と体が動いて言葉を発し、傘を押しつけていた。彼はちゃんと使ってくれただろうか。代わりに自分が濡れ鼠になってしまったが、それはもう自業自得だろう。
――百合川くんに変な子って思われなかったかなあ。
もう今更ではあるが、それだけが気がかりだった。濡れて風邪を引くかもしれないという、卑近なことよりも。
「……」
百合川ヒイラギは呆然としていた。雨宿りをしていたら、突然知らない女生徒に傘を押しつけられた。ヒイラギは反射的に傘を受け取り、呆然としていた。知らない顔だった。傘はそのうち返してくれたらいいから、と言われたがそもそも君はどこのクラスの誰なんだと疑問が湧いた。ヒイラギは傘を持ったまま、女生徒が走り去っていった正門を見つめた。雨は止まず、降り続く軌跡を残しながら雨音を立てている。彼女はヒイラギに傘を渡したが、もう1本傘を持っているようには見えなかったし、無防備な状態で走っていった。1本しかない傘をわざわざヒイラギに渡すなど、彼女の行動は不可解だ。雨に濡れたい、ちょっと変な子だったのだろうか。
名前も知らない女生徒から受け取った傘を使うのもどうかと思うが、雨止みの気配はない。このまま待っていたとして、止むかどうかは不確定だ。ヒイラギは意を決して歩き始めた。正門に出る一歩手前、傘を開く。基本は紺色、露先から数センチ上の部分に白いラインが入った、比較的落ち着いた色合いの傘だった。女性向けの傘としてはやや大きめだが、かえってヒイラギにはちょうどいい大きさだった。可愛らしすぎない、ヒイラギが持っていてもそこまで違和感はないデザインで助かった。唯一気になるとしたら、傘の持ち手の部分にサテン生地のベージュのリボンが蝶の形に結ばれている。女性っぽさがあって少し恥ずかしい気もするが、この際贅沢は言えまい。本当はリボンの部分を手で隠したいが、さすがに借り物の傘の飾りを潰すようなことはできず、リボンより上部分を恐る恐る持った。
差し慣れない傘を差して校舎を出た。その瞬間、雨が勢いよく傘に当たり、開いた形に沿って雫が忙しなく流れていく。露先から落ちた雫がアスファルトに跳ねて冷たい。スラックスの裾が濡れて冷えていく。歩いている以上靴の裏で水滴が跳ねるし、多少の水溜まりも踏まざるをえない。傘を差していてもそれなりに濡れる雨にうんざりしながら、ヒイラギは帰路を歩いた。学生寮に辿り着き、屋根の下で傘を振って雫を落としながら、ふとヒイラギは傘を押しつけてきた彼女のことを思い出した。ヒイラギは多少濡れる程度で済んだが、この雨の中、彼女は無事……ではないだろう。唐突だったとはいえ傘を貸してもらったことだし、きちんと乾かして返す必要がある。一言でいいから礼も言いたい。だが彼女の姿と声を思い描き、何とか名前とクラスがわからないかと記憶を辿ったが、どうしてもわからなかった。少なくとも同じクラスの生徒ではなさそうだ。
「……せめて、名前を教えてくれたらな」
ぽつりと呟いた声は降り止まない雨の音にかき消されて、ヒイラギ本人にしか聞こえなかった。
「えー……」
百合川ヒイラギに傘を押しつけてから数日。そろそろ傘を買いに行かなきゃと思っていた矢先、放課後になった瞬間狙い澄ましたように雨が降り出した。雨が降るのは夜遅くと予報では言っていたから、折り畳み傘すら持っていなかった。下駄箱で靴を履き替えている間に雨音が聞こえ、嫌な予感がして正門の方を見たら、雨の線が綺麗に見えている。乾いていたアスファルトが全面濡れて光り、ちらほら水溜りができ始めている。
「あぁ……」
一応正門を出る直前まで歩いてきて、一歩先を見て絶望した。雨の軌跡がカーテンのように隙間なく降り注ぎ、傘がなければ一瞬で全身濡れ鼠になることが予想できた。さすがにこんな雨の中駆け出して帰っていく勇気はない。雨が少しでも落ち着くことを期待して、待ってみようか。ふうとため息をついて学生鞄を持ち直したとき、
「ねえ」
声をかけられた。雨音は決して小さくないのだが、自分を呼んでいると思しき声はよく聞こえた。
振り返る。百合川ヒイラギが立っていた。手には傘。数日前彼に差し出した、ミコトの傘だった。
「百合川くん」
声をかけながら彼に駆け寄った。彼は少し首を傾げながら、ミコトの傘を差し出してきた。
「傘、貸してくれてありがとう。返す機会があってよかったよ」
「ありがとう」
彼の手から傘を受け取り、ミコトはほっとした。示し合わせたかのようなタイミング、非常に助かる。この雨の中でも帰れそうだ。そう思ってミコトは踵を返そうとしたが、手ぶらのヒイラギを見てはたと思い至った。彼は傘を1本しか持っていなかった。このままでは、彼が濡れて帰る羽目になる。
「百合川くん!」
ミコトから離れようとするヒイラギの腕を掴んだ。半袖の露わになった彼の腕。見た目は細いが、思ったよりもしなやかで力強い腕だった。ヒイラギは突然腕を掴まれて呆然としている。
「なに?」
「百合川くん、傘は?」
「持ってないよ」
「百合川くんさえよければ、相合傘して帰ろう!」
「……は?」
ヒイラギの綺麗で大きな瞳が、見開いてミコトを見つめていた。
「だって、百合川くん傘持ってないでしょ?濡れちゃうから」
「うん、まあ、確かにそうなんだけど」
ヒイラギは戸惑っている。突然腕を掴まれて、大して仲良くもない相手から相合傘しようなんて言われたら、誰でもこんな反応になるかなあと妙に冷静に納得しながらも、ミコトは彼の腕を離そうとはしなかった。彼のこととなると、放っておけなくなる。
「……本当にいいの?」
ヒイラギは正門の向こう、曇天に篠突く雨とミコトを交互に見て、躊躇いながら問いかけた。眉根を寄せて苦笑いしながら、ヒイラギは言葉を続ける。
「何か変な噂になっちゃうかもよ」
彼の危惧するところはすぐにわかった。高校生の話題など種類が限られている。その中で相合傘をして帰る男子と女子を見たら、噂好きの間でどんな語り種になるか、容易に想像がつく。
「私は噂になったって気にしないよ。ヒイラギくんが嫌なら、無理にとは言わないけど」
「……そう?」
ヒイラギが首を傾げると、艶やかな黒髪が美しく揺れた。些細な仕草さえ麗しく映る彼に見惚れてしまう。
「じゃあ、お言葉に甘えてもいいかな?僕も濡れるの嫌だし」
「うん、わかった」
二人で並んで歩き、正門に着く。ミコトは傘を開いた。紺色に白いラインが入った、見慣れた傘。傘を開いてできたスペースに彼を招き入れる。そうしてひとつの傘を分け合いながら、二人は歩き始めた。女性向けにしては大きめの傘だが、二人分の体を覆うことは想定されていない。どうしても体が一部はみ出してしまう。ミコトは気づかれない程度に、ヒイラギの方に傘を傾けた。その瞬間、ヒイラギがこちらを向いて、ミコトの傘の持ち手を持った。
「僕の方が背が高いから、持つよ」
「え?でも……」
「だめかな?」
そう尋ねる彼は、重苦しい灰色の空を背景にしても沈まない、爽やかな美しさを放っていた。
「う、ううん……ありがとう」
そう聞かれると反対できなくなり、大人しく傘から手を離した。彼の関節が目立つ手と傘の持ち手を見て、初めて気がついた。他の傘との区別のために、ミコトが結んだベージュのリボン。その上に、もうひとつリボンが結ばれている。鮮やかなレモンイエローが眩しいリボンだった。
「……あ、もしかして、リボンのこと?」
見つめる視線に気づいたらしく、ヒイラギが尋ねてきた。聞かれて初めて凝視していたことを認識し、ミコトは慌てた。
「あ、ごめん、じっと見て……この黄色いリボン、見覚えなくて」
「見覚えなくて当然だよ。だって、僕がつけたから」
「え?」
よく理解できなくて、今度はヒイラギを凝視した。彼は穏やかな笑い声を上げる。彼が笑っているところを初めて見た。芸術品のように美しい彼に優しく微笑まれると、心臓がざわめくのを感じる。
「1本しかない傘を貸してくれたから、単に口でありがとうって言うだけじゃ足りない気がして……あとでリボン、見てくれたらいいよ。見た後は捨ててくれて構わないから」
「?うん」
今ちらりと見ただけだと単なるリボンにしか見えないが、何か仕掛けでもあるのだろうか。気にはなるが、傘はヒイラギが持っているし、歩きながらではよくわからない。
「ねえ、僕、君の名前も知らないんだ。教えてもらっていいかな?」
「え、百合川くん、私のこと知らなかったの!?」
「うん」
さらりと言われて驚愕した。ミコトは彼を知っていたから、てっきり彼も知っているだろうと思っていた。でも冷静に考えれば、彼と同じクラスになったこともないし、知らなくても仕方がないだろう。
「月森ミコトだよ」
「月森さん。月森さんだね。月森さん、傘、ありがとう。今も傘貸してもらってるから、頭が上がらないな」
「そんな大袈裟な……」
無意識に口から出た言葉は間違いなく本心だった。そんなに何度も礼を言われるようなことをした覚えはなくて、面映くなる。
「ねえ、月森さん。聞いてもいい?」
「なに?」
「月森さんはどうして僕のこと知ってるの?」
それは当然の疑問かもしれない。縄印学園の生徒数は同学年に限ってもそれなりにいる。部活が同じ等の接点がなければ、ずっと違うクラスの生徒の名前など、知る機会はないに等しい。
「あ…えっと……」
言い淀んだ。その間にもヒイラギの顔がこちらを向いていて、視線が惜しみなくミコトに注がれている。真っ直ぐ彼を見つめられない。同じ傘の中にいる者同士距離が近すぎて、視線を泳がせても肩や髪といった、ヒイラギの一部が視界に入る。
「あ、あのね……百合川くん、結構噂になってるの、知らない……?」
「噂?僕が?」
ヒイラギはきょとんとした顔だった。いつも澄ました顔をしているように見える彼だったが、それなりに表情は豊かなようだ。
「うん」
「差し支えなければ、どんな噂か聞いていいかな?」
「……百合川くん、とっても綺麗だから、『とんでもなく綺麗な男子がいる』って噂になってるよ?」
「……えぇ?綺麗?僕が?」
彼は愕然としている。百合川ヒイラギが噂になるほど綺麗だなんて、誰に言われるまでもなく真理だと思うが、噂の張本人はそう思っていないらしい。
「……そうなの?ふうん……よくわからないな……」
「え?私も百合川くん、綺麗だと思うけど……百合川くんはそう思わないの?」
「鏡で毎日見る顔だからね。自分では全然わからないよ」
そういうものなのだろうか。ミコトは特別綺麗でも可愛くもないので、ヒイラギの気持ちは理解できそうにない。流れるような黒髪、大きな瞳、長い睫毛。女子でも憧れる見目麗しさを持っているのに、当の本人は自覚がないのか。勿体無い。
「それで」
ひとしきり驚いた様子を見せた後、ヒイラギはミコトを改めて見つめた。何か意味ありげな視線が刺さる。ミコトはどんな意図があるのかわからず、少し体を強張らせた。
「月森さんも、その噂を聞いて僕のことを知ったの?」
「う、うん」
「そっか」
ヒイラギは一度唇を閉じ、静かに歩いていた。傘の外で聞こえる雨の音が強くなり、二人の間で流れる静寂を強調する。少し気まずさを覚える沈黙を破ったのは、ヒイラギだった。
「ねえ。どうして月森さんは傘が1本しかないのに、僕に貸してくれたの?あのとき、結構雨降ってたよね」
彼に聞かれて、改めて思い返した。どうしてと聞かれても、理由など決まっている。
「百合川くんが困ってたから……渡してから、傘1本しかないやって気づいちゃった」
あはは、と笑ってみる。ヒイラギは不思議そうな顔をしていたが、数秒後には口元を綻ばせていた。
「そっか。月森さんって優しいんだね」
「え?そうかな」
「そうだよ」
二人で歩き続けていると、いつの間にか学生寮のすぐ近くまで来ていた。普段と同じ道を通って帰っていたはずなのに、あっという間に着いてしまった錯覚を覚えた。屋根の下に入り、丁寧に巻いた傘をヒイラギから返される。受け取りながら、名残惜しいと思ってしまった。
「月森さん」
ヒイラギの柔らかな声が響いた。気づくと、彼がスマートフォンの画面を突き出している。二次元コードが表示された画面、どういう意図なのか何となく理解はできた。
「せっかくだから、連絡先、交換しない?」
「あ、うん」
そのまま別れると思っていただけに驚いてしまったものの、断る理由はない。むしろミコトから提案してもよかったくらいだ。ミコトもスマートフォンを取り出し、スムーズに連絡先を交換する。連絡アプリにずらりと並んだ友達欄に、百合川ヒイラギの名前がある。見慣れないし落ち着かない文字列だが、妙に心が弾む。不思議な気分だった。
「今日はありがとう、月森さん。おかげであまり濡れずにすんだよ。月森さんも風邪とかひかないように、気をつけてね」
ひらひらと彼は手を振って、学生寮に入っていった。去っていく後ろ姿が小さくなるのが惜しくて、彼の姿が見えなくなってもしばらく立ち尽くしていた。降り止まない雨の音が耳にうるさく響くようになり、ミコトははっと我に返った。傘からはみ出ていた肩と片方の足元が濡れている。彼の言うとおり、早く部屋に戻った方がいいだろう。
「……あ」
ふと、手に持っている傘に目を落とした。傘の持ち手に結んだベージュのリボンに寄り添うように結ばれた、レモンイエローのリボン。そういえば、ヒイラギは後でリボンを見てほしいと言っていた。傘の持ち手が目線の高さに来るように持ち上げて、まじまじとリボンを観察した。
レモンイエローの蝶結び、結び目から下に伸びたリボンの端に、何か字が書いてある。黒い文字で、「ありがとう ヒイラギ」と書かれていた。それを見た瞬間、ミコトはふふ、と笑みを漏らした。口で言ってくれるだけで十分なのに、わざわざこんな一手間をかけたのか。彼がリボンを買ったり、リボンに字を書いたりしているところを想像すると可愛らしい。百合川ヒイラギ。どこか近寄り難い雰囲気があったが、意外とお茶目な人なのかもしれない。連絡先を交換したことだし、もう少し話してみようかな、と笑みを零しながら、ミコトは学生寮に入っていった。その足取りは、一部濡れているが軽いものだった。