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青い鈴
月森ミコトは平々凡々と日々を過ごすごく普通の女子高生である。今日も縄印学園での授業を終え、帰路に着く。
特に山も谷もない人生。大学入試等、将来に対しぼんやりとした不安があるが、高校3年生が抱える不安としてはごく一般的なものだろう。
「あ、そうだ」
当たり前のように学生寮に向かおうとして、ふと足を止める。そういえば参考書を買おうと思っていた。近辺には大きな書店がなく、少し足を伸ばして買いに行こうと思っていた。踵を返し、新たな目的地に歩き出す。
通常の下校時とは異なる景色を見ながら歩く。学生靴の乾いた音を鳴らしながら歩みを進めていると、不意に耳鳴りがした。ミコトの脳内にだけ響く、鋭い音。思わず立ち止まって耳鳴りが止むのを待つ。数秒経って止んだ頃、声が聞こえた。
「……月森さん」
「えっ?」
聞き覚えのない声が名前を呼ぶ。思わず周りを見渡したが、各々目的地へ急ぐ通行人が通り過ぎるばかりで、ミコトを呼ぶ者など見当たらない。
「月森さん」
声が聞こえる。先程よりも少しはっきりと。しかしいくら見回しても人の群れが歩いていくばかりである。
「……?」
ずっとミコトを呼ぶ声が聞こえる。よく耳を澄ましてみると、少し先にある高輪トンネルから聞こえている気がする。高輪トンネル。天井が低く、お化けが出るとか出ないとか、不穏な噂がある場所だ。
ミコトは肩にかけた学生鞄をぎゅっと握りしめると、意を決して高輪トンネルに向かって歩き始めた。もうすっかり参考書のことは頭から抜け落ちており、謎の声に名前を呼ばれ続けているという怪現象を解き明かしたい気持ちに囚われていた。高輪トンネルの目前まで近づく。奥が見えない筒状の暗闇が広がっている。おそらくは誰もいないだろう静かな空間。その間にも、ミコトの耳には声が届いている。目の前のトンネルに誘い込むように、声がミコトの鼓膜を震わせ続けていた。
「………」
さすがに覚悟が必要だ。ミコトは大きく深呼吸をして心を落ち着けると、一歩を踏み出した。四方を囲まれた狭い空間に、靴音がうるさく反響する。だが月森さん、と呼びかける声は耳元で、あるいは脳内で谺しているのではないかと思うほど鮮明に聞こえる。天井に頭をぶつけないよう屈んで歩き続ける。確かに不気味な雰囲気ではあるが、ただのトンネルのようだ。等間隔で設置された白い灯りがじりじりと点滅しながら闇を白く浮かび上がらせる。
声は奥に進めば進むほど明瞭に聞こえるが、肝心の声の主が見当たらない。まさか幻聴が聞こえているのだろうかと少し不安になった頃合い、トンネルの出口に辿り着く。結局誰もいなかった。単なる気のせいだったかと思いながら眩しい外の世界に出ようと一歩踏み出した瞬間、
「……!?」
世界が鮮やかに塗り替えられる。視界が明るく開け、一歩前とは異なる世界が広がっていた。
足元の硬い大地に薄く水が張っている。地平線がどこまでもまっすぐ続き、透き通った水面は鏡となり、視界いっぱいに広がる蒼天を大地に映していた。広く深く冴え渡る蒼穹、空を彩る白い雲が雅にたなびき、地平線の彼方に上下対称の空を作り出している。先程まで通っていたはずの高輪トンネルも東京のビル群も綺麗さっぱりなくなっている。思わず後ろを振り返ったが、終わりの見えない地平線と上下に鏡映の空が続くばかりであった。
「え…?何ここ…」
幻想的で美しい景色ではあるが、周りに誰もおらず何もないこの状況下、困惑せずにはいられなかった。昨今流行りの転生ものか何かで、うっかり別の世界に転生したかと思ったが、月森ミコトは月森ミコトのままのようだ。縄印学園の学生服も、学生鞄も変わらない。ただ周囲の景色だけが綺麗に変わってしまった。書き割りをすげ替えたような、あまりにも突然の変化だった。
誰かいないか、何かないかと辺りを見回すが誰もいないし何もない。途方に暮れそうになるが、とにかくここに留まり続けていても何も起こらなさそうだ。高輪トンネルを歩いていてここに辿り着いたのだから、歩いていれば高輪トンネルに繋がる出口を見つけられるだろう。高輪トンネルよりこの空間の方がよほど不気味だ、なんてくだらない愚痴を吐きながら、ミコトは再び歩き始めた。歩くたびに足元に波紋が広がり、水鏡に映る景色が不規則に歪む。
「……あれ?」
しばし変わらない景色を見ながら歩いていたところ、突然、それこそ地面から生えてきたかのように突然、視界の先に鳥居が現れた。大きく立派な鳥居だ。空の青と雲の白に染まった景色の中、青と白のキャンバスに朱色の線を引いたように鮮烈な丹塗りが一際目を引く。これまで見えなかったものが見えれば、引き寄せられるのが人の常だ。ミコトも例に漏れず鳥居に自然と吸い寄せられていった。これまで方角もなくでたらめに歩いていたが、明確な目的地ができると足取りも確かなものになる。水を蹴り上げて小さな飛沫と音を散らしながら、確固たる足取りで歩いていく。
ちりん、と鈴の音がした。唐突に鳴る、足音以外の音。ミコトは足を止め、再びきょろきょろと顔を動かした。誰もいない―――そう思って鳥居の方へ向き直ると、
「やあ、こんにちは」
数秒前まで誰もいなかった前方に人影がいた。そして声をかけられる。高輪トンネルで聞いた声と同じ声だ。鈴を転がすような、耳に心地よい声。
「こ……こんにち、は?」
酷く狼狽した声が出た。今にも思考が限界を迎えそうなミコトとは正反対に、目の前の人物は穏やかな笑みを浮かべてミコトを見つめている。
目の前の人物も紺碧の空の如く青かった。ゆらゆらと揺らめく長い瑠璃色の髪が目を引く。黒と青を基調としたボディスーツのような服を纏う肢体はすらりと筋肉質で、中性的な顔立ちだがおそらくは男性だろうと予想がつく。柔和に細められた瞳は黄金に輝き、瞳を縁取る睫毛の長さに惚れ惚れしてしまう。
「よく来てくれたね」
天つ空に涼やかな声が響く。やはり高輪トンネルから聞こえていたあの声だ。美しい、おそらくは青年であろうが、そもそも彼は一体何者なのか。穏やかに笑っているが、普通に話して問題ない相手なのか。ミコトは思わず身構えていた。
「そんなに固くならないで…僕の声、ちゃんと聞こえてたみたいでよかったよ」
「声……やっぱり、高輪トンネルで私を呼んでいたのは……」
「僕だよ。来てくれて嬉しいよ、月森さん」
彼が笑うたびに、瑠璃色の髪が重力に揺れて不規則な波を描く。そのたゆたう動きは緩やかな時の流れのようで、どこか非現実的だ。
「僕は百合川ヒイラギ。一応は君も知ってると思うんだけど」
「百合川…え?百合川?」
知らない名前ではなかった。むしろ知った名前だ。縄印学園3年生、百合川ヒイラギ。同級生だ。彼はこんな外見ではなかったと思うが、どういうことなのだろう。
「思い出してくれた?名前さえ知っていてくれたらそれでいいよ」
百合川ヒイラギが優しく笑みながら言葉を紡ぐ。そう言われると疑問の言葉が黄金の瞳に吸い込まれてしまい、何も言えなくなってしまう。
「月森さん」
ヒイラギが一歩こちらに近づいてきた。その歩幅は大きく、彼に見下ろされて影がかかる程度まで接近される。明るい蒼天を背負った金色の瞳が妖しく輝き、ミコトを見つめている。
「あの鳥居の向こう、気にならない?」
彼が指さす先には、先程よりも随分大きく見える鳥居がある。丹塗りの鳥居はただものも言わずそこにあり、この青い世界と青い人物の前では切り取られたように目立つ。彼は鳥居の向こう、と言ったが、鳥居をくぐったとて同じ景色が広がるだけのはずだ。それとも鳥居のずっと先に何かがあるという意味なのか。
「気にはなるけど…でも、あれ、何なの?」
「神域だよ」
「しんいき?」
うまく漢字に変換できない言葉を言われ、ミコトは首を傾げた。
「あの鳥居をくぐると神が―――僕が暮らす場所があるんだ」
「神?」
「うん」
ヒイラギはミコトを見下ろすと、顎に触れてくいとミコトの顔を上げさせた。彼の金色の双眸とすぐ近くで目が合う。じっと見つめていると渦潮を見つめているような気分になる。目を離せない―――……。
「僕と一緒にあの先で暮らそう?人の世の不安とお別れできるよ」
「不安と……」
彼の目を見ていると、頭がぼんやりする。明晰だった思考がかき混ぜられて極彩色の渦になる。その渦から意味のある見識を掬い出すことができない。意識が遠くなるような気がする。不安との別れ、もしそれが叶うなら願ってもみないことである。
「そう。僕と君だけでずっと暮らそう」
囁く声は甘く脳髄に響き、極彩色の思考の渦を塗りかえるように体に染み渡っていく。心地よい。穏やかで静かな、いい声だ。でも、何か、何か大切なことを忘れているような……。
はっと唐突にミコトは我に返った。ほぼ初対面に近い瑠璃色の青年に顎を掴まれているという異常な状況を認識し、ミコトは急激に頭が冷え、思わずその手を振り払って逃げ出した。一刻も早く離れなければならないと思った。あの鳥居も佇まいは神々しいが、くぐり抜けてはいけない気がする。走り続けて逃げられるのかはわからなかったが、とにかく駆けた。後ろを振り返ることはなかった。振り返って彼がすぐ近くにいたらと思うと怖くて仕方がなかった。
ちりんと涼やかな鈴の音が響き、その後一瞬全ての音が消えたと思った瞬間、ミコトは夢から覚めるようにばちっと目を開いた。気がつくと、高輪トンネルの入り口に立ち尽くしていた。放課後の東京に戻っている。通行人がすぐそばを通り過ぎていく。雑踏がミコトを避けて通っていく。ミコトは未だぼやけた頭で辺りを見回した。ごく普通の、昨日と何一つ変わらない東京の光景。
白昼夢を見たかとぶるぶると頭を振ったとき、右手に何かを握りしめていることに気がついた。掌を見ると、青い鈴がころりと転がっている。無論、ミコトの所持品ではない。揺らすと軽やかな音が鳴る。あの水面がどこまでも続く空間で聞いた鈴の音と、全く同じだ。
「夢じゃ、ない…?」
ミコトは青い鈴を握りしめ、無意識に呟いた。
月森ミコトの手を引こうとしたが、どうにもうまくいかなかった。逃げられてしまった。百合川ヒイラギは不服そうに唇を尖らせながら、誰もいない水面が広がる空間に佇んでいた。
百合川ヒイラギ。ただの高校生だったはずだが、どうやらこの宇宙に選ばれし者だったらしく、創世の座にて新たな宇宙を創世した。今の彼はもはや神に等しく、彼だけの神域を持ち、現世と神域の狭間にあるこの水面の通り道を生み出すことにも成功した。現世から神域に直接ミコトを招待できれば話が早かったのだが、どうやら人間を神域に招くためには通り道が必要らしかった。
彼の背後に佇む鳥居。この鳥居をくぐるとヒイラギだけの神域に辿り着く。悲しみも苦しみもない、真に幸福な空間があるというのに、ミコトは一歩を踏み出そうとしなかった。彼女は生まれてからこれまで現世に生きていたのだ、未練があって然るべきか。
ヒイラギは高く広がる蒼天に向かって息をつき、右手に持つ青い鈴を天高く放り投げた。青い直線を描きながら涼しい音を響かせ、あるところで空に吸い込まれて消える。おそらくミコトに手渡せたはずだ。ヒイラギの情念を宿した神の存在を想起させるものを持つこと、それは神の息吹を常に感じることと同義である。彼女の無意識の片隅にヒイラギが常に居続けるだろう。次はもっと容易くことを運べるはずだ。ヒイラギがいくら神といえど、その意に反してミコトを無理矢理連れていくことはできることなら避けたかった。ほんの少し彼女の心の隙間を突き、自ら神の世界に救いを求めるように仕向けたい。
一度彼女と接してみてわかったが、どうやら人間の心は不安定になったとき、より神に向かいやすいようだ。そうとわかれば対策も立てやすくなる。ヒイラギは彼女のもとに届けたものと同じ、青い鈴を掌で転がしながらくつくつと笑った。彼女を自分だけの領域に引きずりこむためなら、いくらでも待とう。幸いにして時間はいくらでもある。
そう思っていたところ、ミコトの持つ鈴の音が遠くから聞こえてきた。青い鈴に込めた情念に引きずられて、彼女がまたこの場所にやって来る。思っていたよりも早かった。人間の時間で言うところの1週間程度が経った頃だろうか。
「……あれ……?」
白百合が咲く制服に身を包んだ月森ミコトが呆然とした顔で現れた。青かった空は斜陽に赤く染まり、丹塗りの鳥居を強烈に照らしている。雀色時の物憂げな光に照らされたミコトはどこか頼りなく、神の前に立つ哀れな一輪の花だった。数秒視線を泳がせていたが、じっと見つめるヒイラギと目が合い、びくりと肩を竦めた。この姿で会うのは二度目なのだから、そう警戒しないでほしい。
「私…またここに…」
空の色が違っても以前訪れた通り道と同じだ、と言わずとも理解したようだ。物分かりがいいと話が早くて助かる。ヒイラギはミコトとの距離を詰めた。歩くたびに足元が波紋に揺れる。再び彼女を見下ろすと、ミコトが顔を上げた。事態をうまく飲み込めていない顔をしている。
「こんにちは、月森さん。ここに来てくれるのも二度目だね」
「う、うん……」
そわそわと落ち着きのない彼女は、不安そうな目でヒイラギを見つめた。
「あの、私…どうしてまたここに来ちゃったの?」
「来てしまったんじゃないよ。君が望んでここに来たんだよ。たとえ無意識でもね」
ヒイラギの言葉は半分正しく、半分間違っている。彼女の無意識にヒイラギが干渉しなければ、永遠に彼女がここを訪れることはなかっただろう。しかし彼女も無意識にとはいえ、望んでこの通り道にやって来たことに間違いはない。あの薄く水をたたえた場所に不安をかき消してくれる何かがある、と心のどこか、ミコト自身も認知できない小さな隙間に刻み込まれているのだから。
「そう…なの…?」
赤い空とたなびく雲、そして眼前にいるヒイラギを映すミコトの瞳を凝視する。金色の輝きをもって、彼女の奥底に眠っている厭世を呼び覚ます。
彼女の煌めく瞳を見つめること数秒、ミコトの表情が夢を見ているような、酷くぼんやりしたものに変わっていく。意識が朦朧としているだろうことが見て取れる。今の状態なら、少し触れても問題はないだろう。ヒイラギはミコトの頬にそっと手を添えた。触れた瞬間、反射的にミコトの体がぶるりと震えるが、それだけだった。手を払いのけられることはない。
「百合川…くん…?」
「ねえ、月森さん」
触れた頬は柔く、少し力を加えただけで脆く崩れ去りそうな儚さがある。ミコトの耳元に唇を寄せると、神は言葉を紡いだ。
「行ってみたいんでしょう?あの鳥居の向こう」
背後に佇む鳥居は神域の門。あの先に甘美な世界が待っている。ミコトの耳元でそれを教え込んでやる。彼女が自ら選び取れるように。
「鳥居…?」
ミコトの鸚鵡返しはふわふわと虚空に漂い、儚く消えていく。現実味のない、うわごとのような声だ。彼女の瞳はぼんやりと鳥居を見つめている。その眼差しに一片の憧憬が混じっているように見える。
「そう。覚えてる?人の世の不安とお別れできるって、話したよね?」
「不安……」
「そうだよ。今、君はとっても不安なんだ。だからここに辿り着いた。あの鳥居の先、行きたいよね」
「あ…わ、わたし……」
ミコトが何事かを呟こうと唇を動かしたとき、彼女の開いた手から青い鈴が転がり落ちた。硬い地面にぶつかり、りぃいん、とけたたましい音が鳴る。その瞬間、焦点の合っていなかったミコトの瞳に光が戻った。夢から覚めた、酷く現実的な顔でヒイラギを見返している。
「私、帰らなきゃ…!」
はっきりと透き通る明瞭な声でミコトは宣言し、踵を返して走り出した。なびいたミコトの髪がヒイラギの掌を撫でて通り過ぎていく。彼女はあのときと同じように、ヒイラギに背を向けて駆けていった。彼女が大地を踏みしめるたび波紋が生まれ、それぞれが干渉し合って大きな揺らぎになる。彼女の背中はすぐに小さくなり、やがて見えなくなっていく。
追おうと思えばいくらでも追えた。この空間はヒイラギが生み出したものだ、端と端を繋げて輪廻とし、ヒイラギのもとに戻って来させることもできる。だがそうはせず、大人しく小さくなる彼女の後ろ姿を凝視するに留めた。
「ふうん」
二度目で連れていけると思ったが、残念ながら実らなかった。彼女の現世に対する感情は思っていたよりも強いらしい。
ヒイラギは右手に青い鈴を生み出し、丸く輝く紅鏡に向かって放り投げた。最も高くまで上ったとき、鈴は忽然と姿を消す。現世に戻った彼女のもとに届いたことだろう。ヒイラギは鈴が消えたことを確認すると、足を組みゆるりと宙に浮かんだ。瑠璃色の髪が生き物のように美しくうねって輝く。
「三度目はないよ、月森さん」
その声は誰に聞かせる声でもなかったが、低く唸る獣のようだった。
いつからこの青い鈴を持っているのかわからないが、この鈴がもたらす軽やかな音はミコトの心を落ち着けていた。ミコトはここ数日、ふわふわと夢見心地だった。学園で授業を受けていても落ち着かない。青い鈴を見ていると頭の中で瑠璃色の髪が揺らめく景色が浮かぶ。
ふと我に返ると、ミコトは高輪トンネルの前に立っていた。まだ烈日が高く昇っている。本来なら授業を受けなければならない時間帯だが、体調が悪いと言い訳をして抜け出してしまった。今までこんなことはなかったのに。無遅刻無欠席、無論早退もしたことがない。そんなミコトがさしたる理由もないのにサボタージュの上高輪トンネルにいる。
「おいで、月森さん」
トンネルの向こうから声が聞こえる。青い鈴を転がした、耳にじんわりと沁みる優しい声。耳の奥底で波紋が広がる。全身に声が響いていく。ミコトはさも当然と言わんばかりに、高輪トンネルへと足を踏み入れた。ざり、と砂を踏み締めて進む。歩くたびにスカートのポケットで青い鈴が鳴り響く。トンネルの冥闇にところどころ白い斑らな灯りが灯っている。この先にあの美しい水面が待っている。ミコトは悠然と確かに歩みを進めていき、トンネルの端、明るい日差しが差し込む場所を踏み越えた。その瞬間、
「やあ、月森さん」
足元に水面が広がる。天球は夜。濃紺の夜空にきらきらと星が散りばめられている。遠くで輝く星のひとつやふたつ、掴み取れそうなほどの満天の星空。天を二つに裂く紫の星の帯はまるで宇宙のように煌めき、水鏡に揺らめく波紋を射るように紫の帯が突き刺さる。星影で空は明るく、どこまでも続く地平線はゆらゆらと煌めいている。丹塗りの鳥居は変わらず朱色に佇み、その前に百合川ヒイラギが鳥居を従えるかのように立っていた。瑠璃色の髪が天の川のように揺らめき、金色の双眸が月のように輝く。その立姿は神々しい。思わず見惚れて言葉を失うほどの美しさがある。
「待ってたよ」
足元に緩やかな波を立てながら、ヒイラギが歩いてくる。ミコトのすぐ目の前で立ち止まり、やはりというべきか、ミコトを見下ろしてくる。煌めく夜空の輝きを浴びてヒイラギの髪に輪を作る。ヒイラギは眦を下げてミコトの手を取った。紳士が淑女を誘う、余裕のある優雅な所作だった。
「あ……」
あまりにも美しい彼の眼と目が合う。宵闇に輝く望月の瞳は、一度視界に入れば魅入られてしまう。ミコトは当然のように手を取られていることに疑問を抱かぬまま、幻想的な空間でヒイラギと向かい合っていた。
「君を迎えに来た。さあ、今日こそあの向こうに行こう」
そう言ってヒイラギはミコトの手の甲に唇を寄せた。少し冷たい唇の感触がくすぐったい。ミコトは揺れる意識の中、それでも心のどこかで感じている疑念を口にした。
「私…どうしてあなたに誘われているの…?」
「何を言うかと思えば、ずいぶん野暮なことを聞くね。月森さん」
すり、と手の甲に唇を擦り付けながら、ヒイラギは不敵な視線を向けてきた。
「僕がどうして君を欲しているかなんて、今は必要ないことだよ。後でいくらでも教えてあげる。あの、鳥居の先でね」
「私は…あの向こうには、行けない…」
ゆらゆらとミコトの体が陽炎のように頼りなく揺れている。うまく思考がまとまらないが、ただ誘われるままにその手を取ることに恐れがあった。あの鳥居をくぐってしまえば、もう二度と戻って来れなくなるような、そんな気がする。あの鳥居は綺麗だ。あの先に何があるのか見てみたくはある。だが、今ある日常を手放してまで見たい景色かと言われると、首肯しかねる。ヒイラギも美しく穏やかだが、そのまま後ろをついていくことには抵抗がある。偉大なる好奇心と矮小なる変化を拒む意識がミコトの中で揺れている。その揺れは非常に繊細で、彼の指先で突かれるとすぐに瓦解しそうでもあった。瓦解した後に残るものがどちらなのか、ミコトにはわからない。
「……そう」
ヒイラギの唇が手の甲から離れた。代わりに、強く手を握られる。先程まで添えていただけのヒイラギの掌に、ミコトの手が飲み込まれる。それに本能的な恐怖を覚えた。ぞわりと背筋が粟立つ。
―――逃げなくては。
小動物の本能でもって手を振り払おうとしたが体が動かない。視線がヒイラギに固定され、両足が大地に縫い付けられている。
「月森さん、三度目だ。知ってる?仏の顔も三度ってさ。僕はちゃんと待ったよ」
冷たく冴えた瞳で見据えられ、ぐいとヒイラギに腕を引かれた。あれだけ動かなかった体がいとも簡単に引き寄せられ、腰を抱かれる。彼の息が顔をかすめる至近距離、じっと金色の月がミコトを捉えている。彼の瞳にミコトが映っているのが見えるほどの距離、そのわずかな隔たりは唇を奪われて零になる。
「んっ……!?」
初めての口付けを奪われた衝撃に固まっているところ、腰を強く抱き寄せられて後頭部に手が添えられ、完全にヒイラギの腕の中に収まって逃げられない。身を捩っても大して意味がなく、何度もヒイラギに口付けられる事実を覆せなかった。
「っ…!?」
密着するヒイラギの唇の隙間から、厚く艶かしい舌が這い出てくる。ミコトの歯列を舐めて無理矢理こじ開けると口内に入ってきた。舌を絡め取られ、舌同士が重なり合う濡れた音が耳元で響いている。ヒイラギの舌から漏れている甘い唾液を押し付けられ、籠の中に囚われたミコトは唾液を受け入れざるを得ず、喉が動いた。食道を通り全身に甘く広がっていく感触がある。ぞくぞくと体が痺れて立てなくなりそうだ。それを察したのかヒイラギが唇を離し、ふらつくミコトを抱き止める。
「あ……わたし……」
呆然と呟き見上げると、見た目よりも逞しい腕で抱きしめるヒイラギと目が合った。彼は柔らかく笑み、ミコトを見つめている。
「大丈夫?」
「だいじょうぶ……」
彼に抱きしめられて見つめられると、思考が溶ける。彼と触れている箇所が熱く優しい熱を帯び、心臓がやや大きく鼓動している。どうして私はここにいるんだっけ。ああそうか、目の前の彼に会うためか。霞がかかった脳内で導き出した結論は単純だった。
「月森さん」
甘く名前を呼ばれると、ヒイラギはそっと離れ、鳥居の前に佇んだ。彼の体温が離れていくことに強烈な不安を感じた。置いていかれるような気がした。
「おいで」
丹塗りの鳥居を背後に、ヒイラギは手を差し伸べた。星で飾りつけられた夜空も、宇宙を思わせる紫の帯も、朱く存在を主張する鳥居も、ヒイラギの美しさを際立たせるための背景に過ぎない。ゆらゆらと揺らめく髪の流れまでもが、ミコトを誘っている。
「掛けまくも畏き御空の神のもとに」
ヒイラギの言葉に導かれるままに、ミコトはふらりと歩き始めた。一歩進むたびに足元で水が跳ね、スカートのポケットに入れている青い鈴がりいぃん、と鳴る。彼女の歩みはさながら夢遊病患者のようだが、夜の灯りに吸い寄せられる虫の羽ばたきのように、明確な目的地を持っている。
ヒイラギの目の前で立ち止まり、一瞬逡巡して彼を見上げた。彼は手を差し出したまま、すべてを包み込む神の笑みを見せている。ミコトは意を決してその手を取った。
「ありがとう」
彼の声に安堵しながら、手を引かれて鳥居へ向かい、鳥居の先へ一歩踏み出した。その瞬間、背後で世界が割れる音が聞こえた。星で満ちた夜空に幾筋もの亀裂が入り、薄氷が踏み抜かれるように割れて崩壊していく。手を取る彼は背後を振り返らなかった。だからミコトも後ろを見ることはなかった。彼と鳥居の先に行く。それだけでいいのだから。
―――その日、一人の女子高生が東京から姿を消した。奇妙なことに彼女が突然いなくなっても、周囲は何の憂いもなかった。「彼女が東京で暮らしていた」という事実や記憶ごと消えてしまい、もはや誰も彼女のことを覚えておらず、認知することもできない。彼女が何処に生き、幸福を享受しているかはこの宇宙と、宇宙を創りし百合川ヒイラギしか知らないのである。
月森ミコトは平々凡々と日々を過ごすごく普通の女子高生である。今日も縄印学園での授業を終え、帰路に着く。
特に山も谷もない人生。大学入試等、将来に対しぼんやりとした不安があるが、高校3年生が抱える不安としてはごく一般的なものだろう。
「あ、そうだ」
当たり前のように学生寮に向かおうとして、ふと足を止める。そういえば参考書を買おうと思っていた。近辺には大きな書店がなく、少し足を伸ばして買いに行こうと思っていた。踵を返し、新たな目的地に歩き出す。
通常の下校時とは異なる景色を見ながら歩く。学生靴の乾いた音を鳴らしながら歩みを進めていると、不意に耳鳴りがした。ミコトの脳内にだけ響く、鋭い音。思わず立ち止まって耳鳴りが止むのを待つ。数秒経って止んだ頃、声が聞こえた。
「……月森さん」
「えっ?」
聞き覚えのない声が名前を呼ぶ。思わず周りを見渡したが、各々目的地へ急ぐ通行人が通り過ぎるばかりで、ミコトを呼ぶ者など見当たらない。
「月森さん」
声が聞こえる。先程よりも少しはっきりと。しかしいくら見回しても人の群れが歩いていくばかりである。
「……?」
ずっとミコトを呼ぶ声が聞こえる。よく耳を澄ましてみると、少し先にある高輪トンネルから聞こえている気がする。高輪トンネル。天井が低く、お化けが出るとか出ないとか、不穏な噂がある場所だ。
ミコトは肩にかけた学生鞄をぎゅっと握りしめると、意を決して高輪トンネルに向かって歩き始めた。もうすっかり参考書のことは頭から抜け落ちており、謎の声に名前を呼ばれ続けているという怪現象を解き明かしたい気持ちに囚われていた。高輪トンネルの目前まで近づく。奥が見えない筒状の暗闇が広がっている。おそらくは誰もいないだろう静かな空間。その間にも、ミコトの耳には声が届いている。目の前のトンネルに誘い込むように、声がミコトの鼓膜を震わせ続けていた。
「………」
さすがに覚悟が必要だ。ミコトは大きく深呼吸をして心を落ち着けると、一歩を踏み出した。四方を囲まれた狭い空間に、靴音がうるさく反響する。だが月森さん、と呼びかける声は耳元で、あるいは脳内で谺しているのではないかと思うほど鮮明に聞こえる。天井に頭をぶつけないよう屈んで歩き続ける。確かに不気味な雰囲気ではあるが、ただのトンネルのようだ。等間隔で設置された白い灯りがじりじりと点滅しながら闇を白く浮かび上がらせる。
声は奥に進めば進むほど明瞭に聞こえるが、肝心の声の主が見当たらない。まさか幻聴が聞こえているのだろうかと少し不安になった頃合い、トンネルの出口に辿り着く。結局誰もいなかった。単なる気のせいだったかと思いながら眩しい外の世界に出ようと一歩踏み出した瞬間、
「……!?」
世界が鮮やかに塗り替えられる。視界が明るく開け、一歩前とは異なる世界が広がっていた。
足元の硬い大地に薄く水が張っている。地平線がどこまでもまっすぐ続き、透き通った水面は鏡となり、視界いっぱいに広がる蒼天を大地に映していた。広く深く冴え渡る蒼穹、空を彩る白い雲が雅にたなびき、地平線の彼方に上下対称の空を作り出している。先程まで通っていたはずの高輪トンネルも東京のビル群も綺麗さっぱりなくなっている。思わず後ろを振り返ったが、終わりの見えない地平線と上下に鏡映の空が続くばかりであった。
「え…?何ここ…」
幻想的で美しい景色ではあるが、周りに誰もおらず何もないこの状況下、困惑せずにはいられなかった。昨今流行りの転生ものか何かで、うっかり別の世界に転生したかと思ったが、月森ミコトは月森ミコトのままのようだ。縄印学園の学生服も、学生鞄も変わらない。ただ周囲の景色だけが綺麗に変わってしまった。書き割りをすげ替えたような、あまりにも突然の変化だった。
誰かいないか、何かないかと辺りを見回すが誰もいないし何もない。途方に暮れそうになるが、とにかくここに留まり続けていても何も起こらなさそうだ。高輪トンネルを歩いていてここに辿り着いたのだから、歩いていれば高輪トンネルに繋がる出口を見つけられるだろう。高輪トンネルよりこの空間の方がよほど不気味だ、なんてくだらない愚痴を吐きながら、ミコトは再び歩き始めた。歩くたびに足元に波紋が広がり、水鏡に映る景色が不規則に歪む。
「……あれ?」
しばし変わらない景色を見ながら歩いていたところ、突然、それこそ地面から生えてきたかのように突然、視界の先に鳥居が現れた。大きく立派な鳥居だ。空の青と雲の白に染まった景色の中、青と白のキャンバスに朱色の線を引いたように鮮烈な丹塗りが一際目を引く。これまで見えなかったものが見えれば、引き寄せられるのが人の常だ。ミコトも例に漏れず鳥居に自然と吸い寄せられていった。これまで方角もなくでたらめに歩いていたが、明確な目的地ができると足取りも確かなものになる。水を蹴り上げて小さな飛沫と音を散らしながら、確固たる足取りで歩いていく。
ちりん、と鈴の音がした。唐突に鳴る、足音以外の音。ミコトは足を止め、再びきょろきょろと顔を動かした。誰もいない―――そう思って鳥居の方へ向き直ると、
「やあ、こんにちは」
数秒前まで誰もいなかった前方に人影がいた。そして声をかけられる。高輪トンネルで聞いた声と同じ声だ。鈴を転がすような、耳に心地よい声。
「こ……こんにち、は?」
酷く狼狽した声が出た。今にも思考が限界を迎えそうなミコトとは正反対に、目の前の人物は穏やかな笑みを浮かべてミコトを見つめている。
目の前の人物も紺碧の空の如く青かった。ゆらゆらと揺らめく長い瑠璃色の髪が目を引く。黒と青を基調としたボディスーツのような服を纏う肢体はすらりと筋肉質で、中性的な顔立ちだがおそらくは男性だろうと予想がつく。柔和に細められた瞳は黄金に輝き、瞳を縁取る睫毛の長さに惚れ惚れしてしまう。
「よく来てくれたね」
天つ空に涼やかな声が響く。やはり高輪トンネルから聞こえていたあの声だ。美しい、おそらくは青年であろうが、そもそも彼は一体何者なのか。穏やかに笑っているが、普通に話して問題ない相手なのか。ミコトは思わず身構えていた。
「そんなに固くならないで…僕の声、ちゃんと聞こえてたみたいでよかったよ」
「声……やっぱり、高輪トンネルで私を呼んでいたのは……」
「僕だよ。来てくれて嬉しいよ、月森さん」
彼が笑うたびに、瑠璃色の髪が重力に揺れて不規則な波を描く。そのたゆたう動きは緩やかな時の流れのようで、どこか非現実的だ。
「僕は百合川ヒイラギ。一応は君も知ってると思うんだけど」
「百合川…え?百合川?」
知らない名前ではなかった。むしろ知った名前だ。縄印学園3年生、百合川ヒイラギ。同級生だ。彼はこんな外見ではなかったと思うが、どういうことなのだろう。
「思い出してくれた?名前さえ知っていてくれたらそれでいいよ」
百合川ヒイラギが優しく笑みながら言葉を紡ぐ。そう言われると疑問の言葉が黄金の瞳に吸い込まれてしまい、何も言えなくなってしまう。
「月森さん」
ヒイラギが一歩こちらに近づいてきた。その歩幅は大きく、彼に見下ろされて影がかかる程度まで接近される。明るい蒼天を背負った金色の瞳が妖しく輝き、ミコトを見つめている。
「あの鳥居の向こう、気にならない?」
彼が指さす先には、先程よりも随分大きく見える鳥居がある。丹塗りの鳥居はただものも言わずそこにあり、この青い世界と青い人物の前では切り取られたように目立つ。彼は鳥居の向こう、と言ったが、鳥居をくぐったとて同じ景色が広がるだけのはずだ。それとも鳥居のずっと先に何かがあるという意味なのか。
「気にはなるけど…でも、あれ、何なの?」
「神域だよ」
「しんいき?」
うまく漢字に変換できない言葉を言われ、ミコトは首を傾げた。
「あの鳥居をくぐると神が―――僕が暮らす場所があるんだ」
「神?」
「うん」
ヒイラギはミコトを見下ろすと、顎に触れてくいとミコトの顔を上げさせた。彼の金色の双眸とすぐ近くで目が合う。じっと見つめていると渦潮を見つめているような気分になる。目を離せない―――……。
「僕と一緒にあの先で暮らそう?人の世の不安とお別れできるよ」
「不安と……」
彼の目を見ていると、頭がぼんやりする。明晰だった思考がかき混ぜられて極彩色の渦になる。その渦から意味のある見識を掬い出すことができない。意識が遠くなるような気がする。不安との別れ、もしそれが叶うなら願ってもみないことである。
「そう。僕と君だけでずっと暮らそう」
囁く声は甘く脳髄に響き、極彩色の思考の渦を塗りかえるように体に染み渡っていく。心地よい。穏やかで静かな、いい声だ。でも、何か、何か大切なことを忘れているような……。
はっと唐突にミコトは我に返った。ほぼ初対面に近い瑠璃色の青年に顎を掴まれているという異常な状況を認識し、ミコトは急激に頭が冷え、思わずその手を振り払って逃げ出した。一刻も早く離れなければならないと思った。あの鳥居も佇まいは神々しいが、くぐり抜けてはいけない気がする。走り続けて逃げられるのかはわからなかったが、とにかく駆けた。後ろを振り返ることはなかった。振り返って彼がすぐ近くにいたらと思うと怖くて仕方がなかった。
ちりんと涼やかな鈴の音が響き、その後一瞬全ての音が消えたと思った瞬間、ミコトは夢から覚めるようにばちっと目を開いた。気がつくと、高輪トンネルの入り口に立ち尽くしていた。放課後の東京に戻っている。通行人がすぐそばを通り過ぎていく。雑踏がミコトを避けて通っていく。ミコトは未だぼやけた頭で辺りを見回した。ごく普通の、昨日と何一つ変わらない東京の光景。
白昼夢を見たかとぶるぶると頭を振ったとき、右手に何かを握りしめていることに気がついた。掌を見ると、青い鈴がころりと転がっている。無論、ミコトの所持品ではない。揺らすと軽やかな音が鳴る。あの水面がどこまでも続く空間で聞いた鈴の音と、全く同じだ。
「夢じゃ、ない…?」
ミコトは青い鈴を握りしめ、無意識に呟いた。
月森ミコトの手を引こうとしたが、どうにもうまくいかなかった。逃げられてしまった。百合川ヒイラギは不服そうに唇を尖らせながら、誰もいない水面が広がる空間に佇んでいた。
百合川ヒイラギ。ただの高校生だったはずだが、どうやらこの宇宙に選ばれし者だったらしく、創世の座にて新たな宇宙を創世した。今の彼はもはや神に等しく、彼だけの神域を持ち、現世と神域の狭間にあるこの水面の通り道を生み出すことにも成功した。現世から神域に直接ミコトを招待できれば話が早かったのだが、どうやら人間を神域に招くためには通り道が必要らしかった。
彼の背後に佇む鳥居。この鳥居をくぐるとヒイラギだけの神域に辿り着く。悲しみも苦しみもない、真に幸福な空間があるというのに、ミコトは一歩を踏み出そうとしなかった。彼女は生まれてからこれまで現世に生きていたのだ、未練があって然るべきか。
ヒイラギは高く広がる蒼天に向かって息をつき、右手に持つ青い鈴を天高く放り投げた。青い直線を描きながら涼しい音を響かせ、あるところで空に吸い込まれて消える。おそらくミコトに手渡せたはずだ。ヒイラギの情念を宿した神の存在を想起させるものを持つこと、それは神の息吹を常に感じることと同義である。彼女の無意識の片隅にヒイラギが常に居続けるだろう。次はもっと容易くことを運べるはずだ。ヒイラギがいくら神といえど、その意に反してミコトを無理矢理連れていくことはできることなら避けたかった。ほんの少し彼女の心の隙間を突き、自ら神の世界に救いを求めるように仕向けたい。
一度彼女と接してみてわかったが、どうやら人間の心は不安定になったとき、より神に向かいやすいようだ。そうとわかれば対策も立てやすくなる。ヒイラギは彼女のもとに届けたものと同じ、青い鈴を掌で転がしながらくつくつと笑った。彼女を自分だけの領域に引きずりこむためなら、いくらでも待とう。幸いにして時間はいくらでもある。
そう思っていたところ、ミコトの持つ鈴の音が遠くから聞こえてきた。青い鈴に込めた情念に引きずられて、彼女がまたこの場所にやって来る。思っていたよりも早かった。人間の時間で言うところの1週間程度が経った頃だろうか。
「……あれ……?」
白百合が咲く制服に身を包んだ月森ミコトが呆然とした顔で現れた。青かった空は斜陽に赤く染まり、丹塗りの鳥居を強烈に照らしている。雀色時の物憂げな光に照らされたミコトはどこか頼りなく、神の前に立つ哀れな一輪の花だった。数秒視線を泳がせていたが、じっと見つめるヒイラギと目が合い、びくりと肩を竦めた。この姿で会うのは二度目なのだから、そう警戒しないでほしい。
「私…またここに…」
空の色が違っても以前訪れた通り道と同じだ、と言わずとも理解したようだ。物分かりがいいと話が早くて助かる。ヒイラギはミコトとの距離を詰めた。歩くたびに足元が波紋に揺れる。再び彼女を見下ろすと、ミコトが顔を上げた。事態をうまく飲み込めていない顔をしている。
「こんにちは、月森さん。ここに来てくれるのも二度目だね」
「う、うん……」
そわそわと落ち着きのない彼女は、不安そうな目でヒイラギを見つめた。
「あの、私…どうしてまたここに来ちゃったの?」
「来てしまったんじゃないよ。君が望んでここに来たんだよ。たとえ無意識でもね」
ヒイラギの言葉は半分正しく、半分間違っている。彼女の無意識にヒイラギが干渉しなければ、永遠に彼女がここを訪れることはなかっただろう。しかし彼女も無意識にとはいえ、望んでこの通り道にやって来たことに間違いはない。あの薄く水をたたえた場所に不安をかき消してくれる何かがある、と心のどこか、ミコト自身も認知できない小さな隙間に刻み込まれているのだから。
「そう…なの…?」
赤い空とたなびく雲、そして眼前にいるヒイラギを映すミコトの瞳を凝視する。金色の輝きをもって、彼女の奥底に眠っている厭世を呼び覚ます。
彼女の煌めく瞳を見つめること数秒、ミコトの表情が夢を見ているような、酷くぼんやりしたものに変わっていく。意識が朦朧としているだろうことが見て取れる。今の状態なら、少し触れても問題はないだろう。ヒイラギはミコトの頬にそっと手を添えた。触れた瞬間、反射的にミコトの体がぶるりと震えるが、それだけだった。手を払いのけられることはない。
「百合川…くん…?」
「ねえ、月森さん」
触れた頬は柔く、少し力を加えただけで脆く崩れ去りそうな儚さがある。ミコトの耳元に唇を寄せると、神は言葉を紡いだ。
「行ってみたいんでしょう?あの鳥居の向こう」
背後に佇む鳥居は神域の門。あの先に甘美な世界が待っている。ミコトの耳元でそれを教え込んでやる。彼女が自ら選び取れるように。
「鳥居…?」
ミコトの鸚鵡返しはふわふわと虚空に漂い、儚く消えていく。現実味のない、うわごとのような声だ。彼女の瞳はぼんやりと鳥居を見つめている。その眼差しに一片の憧憬が混じっているように見える。
「そう。覚えてる?人の世の不安とお別れできるって、話したよね?」
「不安……」
「そうだよ。今、君はとっても不安なんだ。だからここに辿り着いた。あの鳥居の先、行きたいよね」
「あ…わ、わたし……」
ミコトが何事かを呟こうと唇を動かしたとき、彼女の開いた手から青い鈴が転がり落ちた。硬い地面にぶつかり、りぃいん、とけたたましい音が鳴る。その瞬間、焦点の合っていなかったミコトの瞳に光が戻った。夢から覚めた、酷く現実的な顔でヒイラギを見返している。
「私、帰らなきゃ…!」
はっきりと透き通る明瞭な声でミコトは宣言し、踵を返して走り出した。なびいたミコトの髪がヒイラギの掌を撫でて通り過ぎていく。彼女はあのときと同じように、ヒイラギに背を向けて駆けていった。彼女が大地を踏みしめるたび波紋が生まれ、それぞれが干渉し合って大きな揺らぎになる。彼女の背中はすぐに小さくなり、やがて見えなくなっていく。
追おうと思えばいくらでも追えた。この空間はヒイラギが生み出したものだ、端と端を繋げて輪廻とし、ヒイラギのもとに戻って来させることもできる。だがそうはせず、大人しく小さくなる彼女の後ろ姿を凝視するに留めた。
「ふうん」
二度目で連れていけると思ったが、残念ながら実らなかった。彼女の現世に対する感情は思っていたよりも強いらしい。
ヒイラギは右手に青い鈴を生み出し、丸く輝く紅鏡に向かって放り投げた。最も高くまで上ったとき、鈴は忽然と姿を消す。現世に戻った彼女のもとに届いたことだろう。ヒイラギは鈴が消えたことを確認すると、足を組みゆるりと宙に浮かんだ。瑠璃色の髪が生き物のように美しくうねって輝く。
「三度目はないよ、月森さん」
その声は誰に聞かせる声でもなかったが、低く唸る獣のようだった。
いつからこの青い鈴を持っているのかわからないが、この鈴がもたらす軽やかな音はミコトの心を落ち着けていた。ミコトはここ数日、ふわふわと夢見心地だった。学園で授業を受けていても落ち着かない。青い鈴を見ていると頭の中で瑠璃色の髪が揺らめく景色が浮かぶ。
ふと我に返ると、ミコトは高輪トンネルの前に立っていた。まだ烈日が高く昇っている。本来なら授業を受けなければならない時間帯だが、体調が悪いと言い訳をして抜け出してしまった。今までこんなことはなかったのに。無遅刻無欠席、無論早退もしたことがない。そんなミコトがさしたる理由もないのにサボタージュの上高輪トンネルにいる。
「おいで、月森さん」
トンネルの向こうから声が聞こえる。青い鈴を転がした、耳にじんわりと沁みる優しい声。耳の奥底で波紋が広がる。全身に声が響いていく。ミコトはさも当然と言わんばかりに、高輪トンネルへと足を踏み入れた。ざり、と砂を踏み締めて進む。歩くたびにスカートのポケットで青い鈴が鳴り響く。トンネルの冥闇にところどころ白い斑らな灯りが灯っている。この先にあの美しい水面が待っている。ミコトは悠然と確かに歩みを進めていき、トンネルの端、明るい日差しが差し込む場所を踏み越えた。その瞬間、
「やあ、月森さん」
足元に水面が広がる。天球は夜。濃紺の夜空にきらきらと星が散りばめられている。遠くで輝く星のひとつやふたつ、掴み取れそうなほどの満天の星空。天を二つに裂く紫の星の帯はまるで宇宙のように煌めき、水鏡に揺らめく波紋を射るように紫の帯が突き刺さる。星影で空は明るく、どこまでも続く地平線はゆらゆらと煌めいている。丹塗りの鳥居は変わらず朱色に佇み、その前に百合川ヒイラギが鳥居を従えるかのように立っていた。瑠璃色の髪が天の川のように揺らめき、金色の双眸が月のように輝く。その立姿は神々しい。思わず見惚れて言葉を失うほどの美しさがある。
「待ってたよ」
足元に緩やかな波を立てながら、ヒイラギが歩いてくる。ミコトのすぐ目の前で立ち止まり、やはりというべきか、ミコトを見下ろしてくる。煌めく夜空の輝きを浴びてヒイラギの髪に輪を作る。ヒイラギは眦を下げてミコトの手を取った。紳士が淑女を誘う、余裕のある優雅な所作だった。
「あ……」
あまりにも美しい彼の眼と目が合う。宵闇に輝く望月の瞳は、一度視界に入れば魅入られてしまう。ミコトは当然のように手を取られていることに疑問を抱かぬまま、幻想的な空間でヒイラギと向かい合っていた。
「君を迎えに来た。さあ、今日こそあの向こうに行こう」
そう言ってヒイラギはミコトの手の甲に唇を寄せた。少し冷たい唇の感触がくすぐったい。ミコトは揺れる意識の中、それでも心のどこかで感じている疑念を口にした。
「私…どうしてあなたに誘われているの…?」
「何を言うかと思えば、ずいぶん野暮なことを聞くね。月森さん」
すり、と手の甲に唇を擦り付けながら、ヒイラギは不敵な視線を向けてきた。
「僕がどうして君を欲しているかなんて、今は必要ないことだよ。後でいくらでも教えてあげる。あの、鳥居の先でね」
「私は…あの向こうには、行けない…」
ゆらゆらとミコトの体が陽炎のように頼りなく揺れている。うまく思考がまとまらないが、ただ誘われるままにその手を取ることに恐れがあった。あの鳥居をくぐってしまえば、もう二度と戻って来れなくなるような、そんな気がする。あの鳥居は綺麗だ。あの先に何があるのか見てみたくはある。だが、今ある日常を手放してまで見たい景色かと言われると、首肯しかねる。ヒイラギも美しく穏やかだが、そのまま後ろをついていくことには抵抗がある。偉大なる好奇心と矮小なる変化を拒む意識がミコトの中で揺れている。その揺れは非常に繊細で、彼の指先で突かれるとすぐに瓦解しそうでもあった。瓦解した後に残るものがどちらなのか、ミコトにはわからない。
「……そう」
ヒイラギの唇が手の甲から離れた。代わりに、強く手を握られる。先程まで添えていただけのヒイラギの掌に、ミコトの手が飲み込まれる。それに本能的な恐怖を覚えた。ぞわりと背筋が粟立つ。
―――逃げなくては。
小動物の本能でもって手を振り払おうとしたが体が動かない。視線がヒイラギに固定され、両足が大地に縫い付けられている。
「月森さん、三度目だ。知ってる?仏の顔も三度ってさ。僕はちゃんと待ったよ」
冷たく冴えた瞳で見据えられ、ぐいとヒイラギに腕を引かれた。あれだけ動かなかった体がいとも簡単に引き寄せられ、腰を抱かれる。彼の息が顔をかすめる至近距離、じっと金色の月がミコトを捉えている。彼の瞳にミコトが映っているのが見えるほどの距離、そのわずかな隔たりは唇を奪われて零になる。
「んっ……!?」
初めての口付けを奪われた衝撃に固まっているところ、腰を強く抱き寄せられて後頭部に手が添えられ、完全にヒイラギの腕の中に収まって逃げられない。身を捩っても大して意味がなく、何度もヒイラギに口付けられる事実を覆せなかった。
「っ…!?」
密着するヒイラギの唇の隙間から、厚く艶かしい舌が這い出てくる。ミコトの歯列を舐めて無理矢理こじ開けると口内に入ってきた。舌を絡め取られ、舌同士が重なり合う濡れた音が耳元で響いている。ヒイラギの舌から漏れている甘い唾液を押し付けられ、籠の中に囚われたミコトは唾液を受け入れざるを得ず、喉が動いた。食道を通り全身に甘く広がっていく感触がある。ぞくぞくと体が痺れて立てなくなりそうだ。それを察したのかヒイラギが唇を離し、ふらつくミコトを抱き止める。
「あ……わたし……」
呆然と呟き見上げると、見た目よりも逞しい腕で抱きしめるヒイラギと目が合った。彼は柔らかく笑み、ミコトを見つめている。
「大丈夫?」
「だいじょうぶ……」
彼に抱きしめられて見つめられると、思考が溶ける。彼と触れている箇所が熱く優しい熱を帯び、心臓がやや大きく鼓動している。どうして私はここにいるんだっけ。ああそうか、目の前の彼に会うためか。霞がかかった脳内で導き出した結論は単純だった。
「月森さん」
甘く名前を呼ばれると、ヒイラギはそっと離れ、鳥居の前に佇んだ。彼の体温が離れていくことに強烈な不安を感じた。置いていかれるような気がした。
「おいで」
丹塗りの鳥居を背後に、ヒイラギは手を差し伸べた。星で飾りつけられた夜空も、宇宙を思わせる紫の帯も、朱く存在を主張する鳥居も、ヒイラギの美しさを際立たせるための背景に過ぎない。ゆらゆらと揺らめく髪の流れまでもが、ミコトを誘っている。
「掛けまくも畏き御空の神のもとに」
ヒイラギの言葉に導かれるままに、ミコトはふらりと歩き始めた。一歩進むたびに足元で水が跳ね、スカートのポケットに入れている青い鈴がりいぃん、と鳴る。彼女の歩みはさながら夢遊病患者のようだが、夜の灯りに吸い寄せられる虫の羽ばたきのように、明確な目的地を持っている。
ヒイラギの目の前で立ち止まり、一瞬逡巡して彼を見上げた。彼は手を差し出したまま、すべてを包み込む神の笑みを見せている。ミコトは意を決してその手を取った。
「ありがとう」
彼の声に安堵しながら、手を引かれて鳥居へ向かい、鳥居の先へ一歩踏み出した。その瞬間、背後で世界が割れる音が聞こえた。星で満ちた夜空に幾筋もの亀裂が入り、薄氷が踏み抜かれるように割れて崩壊していく。手を取る彼は背後を振り返らなかった。だからミコトも後ろを見ることはなかった。彼と鳥居の先に行く。それだけでいいのだから。
―――その日、一人の女子高生が東京から姿を消した。奇妙なことに彼女が突然いなくなっても、周囲は何の憂いもなかった。「彼女が東京で暮らしていた」という事実や記憶ごと消えてしまい、もはや誰も彼女のことを覚えておらず、認知することもできない。彼女が何処に生き、幸福を享受しているかはこの宇宙と、宇宙を創りし百合川ヒイラギしか知らないのである。
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