悪魔の花嫁を愛したい
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#2 春、黒髪少年の躍動
「この前見たときから気づいてたけど、今日会って間違いないって思った。君は僕の花嫁さんだ。僕と結婚してほしい」
転入生、百合川ヒイラギが口にした言葉は衝撃的だった。ヒナタのみならず教室内の全員が硬直した。あのいつも冷静な結城理でさえも。
日本には悪魔が息づいており、彼らは時折人間の中から「花嫁」を選ぶ。有名な例が日本国内閣総理大臣越水ハヤオが国津神ツクヨミであり、人間の女性を「花嫁」としていることだ。また越水ハヤオのように人間に擬態した悪魔がいることも公然の事実であった。
「えっ……と……花嫁って……あの……」
「ふふ、花嫁さんは花嫁さんだよ。っと……何だか注目を集めてしまったな」
爆弾発言を投下した本人は静まり返った教室内を見渡すと、ヒナタににっこりと笑いかけた。
「ねえ、今日は天気もいいし屋上にでも行こうか。ほら」
「え、ええ?」
ヒイラギに手を取られ、ぐいぐいと引っ張られていく。教室から出る前にちらりと見た理は、驚いているように見えた。
それにしても百合川ヒイラギ、中性的な見た目に反し意外と力が強い。ヒナタは引きずられるようにして彼と歩いていた。もう完全に頭と体が追いついておらず、ヒナタは困惑のまま屋上に辿り着いた。春の陽気に満ちた屋上は心地よく、ベンチに座ると眠気を誘われるようだった。
「あ、あの、百合川くん。花嫁ってどういうこと?百合川くんって悪魔なの?」
眠くなるような陽気であっても素通りできないことがある。ヒナタは頭の中で巡っていた疑問を隣に座る彼にそのまま伝えた。百合川ヒイラギ、見た目はごく普通の青年にしか見えないが……。
「そうだよ、僕はナホビノ。名前くらい聞いたことがあるかな?」
「ナホビノ……ナホビノ!?」
ナホビノとは数ある悪魔の中でも「原始の神」が持つ強大な力を有する悪魔とされ、悪魔の中で最上位の者とされている。その影響力は強く、悪魔のみならず政界や経済界等、人間にまで及ぶ。ヒナタは思わず縮こまってしまい、
「じゃ、じゃあ……百合川様、って呼んだ方がいいのかな」
「ヒイラギって呼んでほしいな」
「ヒイラギ様?」
思わず様をつけると、ヒイラギはため息をついた。
「ヒイラギ」
「……ヒイラギくん」
「よくできました」
彼にご褒美と言わんばかりに頭を撫でられた。線の細い彼だが思ったより手が大きく、安心感があった。ヒナタを撫でたヒイラギは、ごく自然に尋ねた。
「ところで、この学園にはたくさん部活があるみたいだね。君は部活に入ってるの?」
「うん。陸上部のマネージャーやってる」
「ふうん……陸上部かあ……」
ヒイラギは顎に手を当て、少しばかり目線を宙に浮かせ何事かを思案する様子だった。数秒考えた後、ヒナタをまっすぐ見つめてくる。
「じゃあ今日から僕も陸上部だね。入部手続きってどうしたらいいのかな?」
そう笑顔で言われ、さすがのヒナタも面食らってしまった。
「よーし、今日も練習を始めるぞー。その前に、新入部員の紹介だ」
放課後、陸上部員とマネージャーがグラウンドに集まったところ、見慣れない男子生徒が顧問の教師の隣にいた。
「百合川ヒイラギです。今日から陸上部所属になります。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げた彼は、黒髪麗しいあの転入生だった。陸上部員の間にどよめきが走る。理だけが澄ました顔でヒイラギを見つめていた。
「新入部員も入ってきたことだし、今日はちょっと抑えめに練習してくれ。頼んだぞ!」
「は、はい」
顧問に言われ、ヒナタは結子とともに頷かざるを得なかった。そんなヒナタをヒイラギはにこにこと涼しい笑顔で見つめている。ヒナタはユニフォームを着て走る気満々のヒイラギに耳打ちした。
「ヒイラギくん、大丈夫?うちの部って全国大会目指してるくらいハードなんだよ。見学もなしに入部して本当に大丈夫なの?」
「ありがとう、心配してくれるんだね。きっと大丈夫だよ」
ヒイラギはさらりと笑うと、ヒナタにひらひらと手を振り他の部員たちと合流した。結子とヒナタの号令に合わせて走り込みやトレーニングを始めていく。ヒナタがテントの下でスポーツドリンクやタオルの準備をしていると、結子に話しかけられた。
「ヒナタ、百合川くんのこと名前で呼ぶくらい仲良くなったの?」
「違うの、百合川……じゃなかった、ヒイラギくんからそう呼んでって言われて……」
「そういえばヒナタ、聞いたよ!百合川くんに花嫁って言われたんだって?」
「えぇ……もう話が回ってるの……?」
「転入生自体珍しいし、その転入生が悪魔でしかも花嫁に選ばれるなんて、そんな話なかなかないよ!」
「まぁ……確かにそうだね……」
悪魔の花嫁に選ばれるという話はヒナタも滅多に聞いたことがなく、身近なところでは生徒会長の桐条美鶴が悪魔の名家の花嫁に選ばれているというくらいしか知らない。まさか自分に降って湧いてくる話だとは思っていなかった。結子も同じような感覚でそこだけは安心した。
「あ!」
ヒナタが部員たちに目を向けたとき、走っていた百合川ヒイラギが膝をつき倒れ込んだのが見えた。結子とすぐに駆け寄ると、ヒイラギはぐったりと倒れて気を失っているようだった。
走っていた理がヒイラギに駆け寄り、ヒイラギの肩に腕を回して立ち上がった。男子生徒を一人担いでいるも同然だというのに、理は涼しい顔をしていた。
「俺は百合川を保健室に連れていく」
「あっ、じゃあ私もついていくよ。結子ちゃん、ごめんだけど部活はお願い!」
「任せて!」
親指を立てて明るく笑う結子を背に、ヒナタは理の後を追った。理はヒイラギを担ぎながらも平然と歩いている。
「結城くん、ありがとう。ヒイラギくん、突然倒れたの?」
「途中から百合川の顔色が悪くなってきて、休んだらって声かけたけど、それでも走るっていうからそのままにしてたらこうなった」
「え、そうなんだ。ごめんね、マネージャーの私たちが気が付かなくて。ちゃんと見ておくべきだったね」
「マネージャーは全員見なきゃいけないから大変だろ。俺がもっと気を付けてればよかったんだ」
二人は保健室に辿り着いた。教師に事情を説明し、ヒイラギをベッドに寝かせる。ベッドに寝ている彼は規則正しい呼吸をしていて、ヒナタはホッと一息ついた。しばらくしたら目を覚ましそうだ。
「結城くん、ありがとう。私が見ておくから、結城くんはグラウンドに戻ってて」
「え、でも……本当に大丈夫か?」
「うん。保健室の先生もいるし、大丈夫だよ。私は何かあったらいけないから、ここにいるね。悪いけどみんなにもそう言ってもらえるかな」
そう言うと理はこくりと頷き、
「わかった。ありがとう、赤羽。みんなには伝えておくから」
保健室を出て行った。ヒナタはヒイラギを心配しながらも、ほんの少しだけでも理と二人でいられたことに胸が高鳴っていた。
「う……んん……」
保健室でヒイラギの様子を見守っていると、ヒイラギが声を上げゆっくりと目を開けた。ヒナタはベッドそばの椅子から立ち上がり、
「あ、ヒイラギくん。起きた?」
「う……ええと……君は……」
眩しそうに目を細める彼ににっこりと微笑んだ。
「部活中に倒れちゃったの。ヒイラギくん、体は大丈夫?起きられる?」
「僕……ああ、そっか、走ってるうちに体調が悪くなって……」
ヒイラギははぁ、と深い息をつきながら額に手を当てると、半身を起こした。乱れた黒い髪を手櫛で整え、ヒナタに笑いかける。
「君が介抱してくれたの?」
「ここまで運んでくれたのは結城くんだよ。後でお礼を言わなきゃね」
「『結城くん』?」
さらりと口にした名に、ヒイラギは眉をひそめ見るからに不機嫌そうな顔をした。
「誰、結城くんって」
「同じ陸上部のクラスメイトだよ。ヒイラギくんが倒れたときいち早く気付いてくれて、保健室に運んでくれたの。後で一緒にお礼を言おうね」
「……うん」
ヒイラギはいまだに口を尖らせていた。綺麗な顔の彼がそんな子供っぽい表情をするとは思わず、ヒナタは少し呆気に取られていた。
「ヒイラギくん、今日体調悪かったの?急に倒れるなんて」
「走る前までは普通だったんだけど、思ったより練習が体に堪えてね。驚いたよ、全国大会を目指してるっていうのは伊達じゃないね」
「これからも今日くらいの練習が続くけど、本当に大丈夫?無理をしたら体を壊しちゃうよ」
本気で心配するヒナタに、ヒイラギは嬉しそうに笑った。
「ふふ、君にそんな心配されるなんて嬉しいな。じゃあ、僕のために練習メニューを考えてよ。僕だけのためのメニューをさ」
「え、えええ!?」
ヒナタは飛び上がりそうなほど驚いた。てっきり陸上部を諦める流れになるかと思いきや、まさかの特別待遇をご所望とは。一介のマネージャーにすぎないヒナタには当然そんな権限はなく、
「一人のためだけに特別待遇なんてできないよ。ヒイラギくん、やっぱり部活はちょっと考え直した方が……」
と告げたところ、黒髪の転入生はムッとした顔でヒナタを見つめていた。そんな目で見つめられてもどうすることもできないんだけどなあ、とヒナタは途方に暮れていた。
結局百合川ヒイラギは陸上部に在籍し続けることになり、ヒナタは顧問の教師から両手を合わせて乞われた。
「ナホビノ様がのびのびと陸上を楽しめるようにと学園の方からお達しがあってな。私が百合川用の練習メニューを組んでおいたから、彼だけはこれでやってもらうようにしてくれ」
「……えっと、それはいいんですけど、どうして私に言うんですか?」
ヒナタが尋ねると、顧問の教師ははっきりと告げた。
「百合川直々のご指名だ。赤羽に見てほしいんだと」
「はあ……でも私、陸上部のマネージャーであってヒイラギくんだけのマネージャーじゃないんですけど……」
「そこは頼む!他の部員たちは私や西脇が気を配るから!」
と顧問の教師に頼み込まれてしまい、陸上部の活動中ヒイラギの面倒を見ることになってしまった。ヒイラギが他の部員たちの邪魔にならないよう彼だけが走る専用レーンを設け、陸上部の活動を行っている。ヒナタはため息をつきつつもヒイラギが問題なく走れているか眺めていた。彼は一度部活中に倒れているだけに、目を離すことはできない。しかしそれでも、ヒナタの視線は時折理の方に向いていた。全国大会の上位入賞も狙える彼は、今日も颯爽と走り込みを続けている。青い髪が汗とともになびき、風のように走る姿は格好よいの一言。ヒナタは惚れ惚れと息をついていた。
「ヒナタ」
ストイックに走り続ける理を眺めていると、ヒイラギに声をかけられた。ハッと我に返り彼に目を遣ると、うっすらと汗をかいた彼がいた。練習メニューをこなしたらしい彼にタオルを渡すと、ヒイラギは不服そうに走る部員たちに目を向けた。
「なんだかぼーっとしてたね。誰を見てたの?」
「え?だ、誰も見てなんかないよ」
「嘘。じっと見てたよ」
追及の眼差しが刺さり、ヒナタはもはや隠すことなく理を見つめた。理はヒイラギやヒナタのことなど意に介さず、淡々とメニューをこなしている。その淡白な姿に惹かれてたまらない。
「……結城くんを見てるの」
「『結城くん』?ああ……この前僕を運んでくれた人だね」
「うん」
もはやヒナタの瞳はヒイラギを映していなかった。青い髪の彼をじっと観察し、その凛とした姿を捉えて離さない。隣に立っていたヒイラギがヒナタの真正面にやってきた。翡翠の瞳に顔を覗き込まれ、麗しの黒い髪がさらりと揺れる。
「ねえ、ヒナタ。今日部活が終わったら一緒にお茶でもしようよ」
「え?」
突然の提案にヒナタは思わず後ろにのけ反ってしまった。ヒイラギは悪戯っぽい笑顔を浮かべ、ヒナタをじっと見つめている。
「少し前の話になってしまうけど、悪魔から君を助けたお礼、してくれるんでしょ?」
「あ……そういえば、そんな話もあったね……」
青い髪をなびかせ、イヌガミから助けてくれたヒイラギ。確かに「お礼にお茶でも」と言った。すっかり忘れていたが、まさかしっかり返ってくるとは思わなかった。
「でも、確かにお礼するって言ってたもんね。ヒイラギくん、コーヒー飲める?シャガールでお茶しよっか」
そう答えたときのヒイラギは、とびきり嬉しそうな笑顔だった。
部活が終わりヒナタは帰っていく理の後ろ姿を切なく見つめた後、ヒイラギと喫茶シャガールに腰を落ち着けた。有閑マダムが多いゆったりとした雰囲気の喫茶店、二人で何か話したいというときにはぴったりだ。実はそこそこお手軽な値段なことも相まって、月光館学園の生徒たちの間では穴場になっている。
――結城くんと二人で来てみたいなあ。
ヒナタは対面に座るヒイラギを見ながらも、そんなことを思っていた。理は同じクラス、同じ部活ではあるが彼と過ごす時間は貴重だ。本当なら二人きりになりたいのは理の方だった。そうは思いつつも、ヒナタはヒイラギに頭を下げた。
「ヒイラギくん、悪魔から守ってくれてありがとう。あのときヒイラギくんがいなかったらと思うとぞっとするよ」
「花嫁さんを守るなんて当然だから、気にしないで。でも、あのとき居合わせることができてよかったよ。花嫁さんの匂いがするって思ってたからね」
「匂い?」
不思議な言葉に、ヒナタは思わずくんくんと鼻を鳴らし自身の体臭を確認した。が、特に変な匂いはしない。ヒイラギは可笑しそうに笑っていた。
「ふふ、悪魔にしかわからない匂いがあるんだ。花嫁さんは匂いでわかる。花嫁さん側も自分の番の悪魔と会ったら、何かわかるものがあるって聞いたけど……ヒナタ、僕を見ても何も感じない?」
そう言われ、ヒナタは改めてヒイラギを眺めた。黒髪に翡翠の瞳が美しい、芸術品のような青年。麗しいのは間違いないが、それ以上の感情を抱くことはなかった。むしろ理の方に運命めいたものを感じてしまう。……肝心の理はそう思っていないだろうことが悲しいが。
「うーん、ごめんね。正直私にはよくわからなくて」
「そうか……残念だけど、まあいいや。僕が君に感じた運命、僕が君を大切にしたいこと、これから時間をかけて伝えていけばいいよね」
ヒイラギはコーヒーを優雅に飲むと、にっこりと笑ってみせた。陸上部の練習後で少し乱れた黒髪も相まって、やや子供っぽい雰囲気を纏っている。目の前の彼は人間ではなく悪魔とのことだが見た目には違いがなく、むしろ人間臭いくらいだった。
「悪魔の花嫁ってあまり聞いたことがないんだけど、花嫁になったらどうなるの?」
ヒナタが素朴な疑問を口にすると、ヒイラギは身を乗り出した。
「少しは興味が湧いたかな?とは言っても、人間同士が結ぶ婚姻となんら変わらないよ。僕と結婚してずっと一緒に暮らす、それだけさ。君を襲う悪魔がいたら、僕が守る。本当なら君と一緒に暮らしたいんだけど……人間だとそれはまだ早いんでしょ?」
首を傾げて言われ、ヒナタは顔が真っ赤になった。ヒイラギと一緒に暮らす?思いもよらなかった言葉が出てくると赤面もする。
「大丈夫、僕はちゃんと順序を守ろうと思ってるから。君にも僕を好きになってほしいからね」
そう言った彼は優しい笑顔でヒナタを見つめていた。結城くんにもこんな顔で見つめてもらえたら……と思いつつも、ヒイラギの麗しさに少しばかり心も揺れてしまいそうだった。
「この前見たときから気づいてたけど、今日会って間違いないって思った。君は僕の花嫁さんだ。僕と結婚してほしい」
転入生、百合川ヒイラギが口にした言葉は衝撃的だった。ヒナタのみならず教室内の全員が硬直した。あのいつも冷静な結城理でさえも。
日本には悪魔が息づいており、彼らは時折人間の中から「花嫁」を選ぶ。有名な例が日本国内閣総理大臣越水ハヤオが国津神ツクヨミであり、人間の女性を「花嫁」としていることだ。また越水ハヤオのように人間に擬態した悪魔がいることも公然の事実であった。
「えっ……と……花嫁って……あの……」
「ふふ、花嫁さんは花嫁さんだよ。っと……何だか注目を集めてしまったな」
爆弾発言を投下した本人は静まり返った教室内を見渡すと、ヒナタににっこりと笑いかけた。
「ねえ、今日は天気もいいし屋上にでも行こうか。ほら」
「え、ええ?」
ヒイラギに手を取られ、ぐいぐいと引っ張られていく。教室から出る前にちらりと見た理は、驚いているように見えた。
それにしても百合川ヒイラギ、中性的な見た目に反し意外と力が強い。ヒナタは引きずられるようにして彼と歩いていた。もう完全に頭と体が追いついておらず、ヒナタは困惑のまま屋上に辿り着いた。春の陽気に満ちた屋上は心地よく、ベンチに座ると眠気を誘われるようだった。
「あ、あの、百合川くん。花嫁ってどういうこと?百合川くんって悪魔なの?」
眠くなるような陽気であっても素通りできないことがある。ヒナタは頭の中で巡っていた疑問を隣に座る彼にそのまま伝えた。百合川ヒイラギ、見た目はごく普通の青年にしか見えないが……。
「そうだよ、僕はナホビノ。名前くらい聞いたことがあるかな?」
「ナホビノ……ナホビノ!?」
ナホビノとは数ある悪魔の中でも「原始の神」が持つ強大な力を有する悪魔とされ、悪魔の中で最上位の者とされている。その影響力は強く、悪魔のみならず政界や経済界等、人間にまで及ぶ。ヒナタは思わず縮こまってしまい、
「じゃ、じゃあ……百合川様、って呼んだ方がいいのかな」
「ヒイラギって呼んでほしいな」
「ヒイラギ様?」
思わず様をつけると、ヒイラギはため息をついた。
「ヒイラギ」
「……ヒイラギくん」
「よくできました」
彼にご褒美と言わんばかりに頭を撫でられた。線の細い彼だが思ったより手が大きく、安心感があった。ヒナタを撫でたヒイラギは、ごく自然に尋ねた。
「ところで、この学園にはたくさん部活があるみたいだね。君は部活に入ってるの?」
「うん。陸上部のマネージャーやってる」
「ふうん……陸上部かあ……」
ヒイラギは顎に手を当て、少しばかり目線を宙に浮かせ何事かを思案する様子だった。数秒考えた後、ヒナタをまっすぐ見つめてくる。
「じゃあ今日から僕も陸上部だね。入部手続きってどうしたらいいのかな?」
そう笑顔で言われ、さすがのヒナタも面食らってしまった。
「よーし、今日も練習を始めるぞー。その前に、新入部員の紹介だ」
放課後、陸上部員とマネージャーがグラウンドに集まったところ、見慣れない男子生徒が顧問の教師の隣にいた。
「百合川ヒイラギです。今日から陸上部所属になります。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げた彼は、黒髪麗しいあの転入生だった。陸上部員の間にどよめきが走る。理だけが澄ました顔でヒイラギを見つめていた。
「新入部員も入ってきたことだし、今日はちょっと抑えめに練習してくれ。頼んだぞ!」
「は、はい」
顧問に言われ、ヒナタは結子とともに頷かざるを得なかった。そんなヒナタをヒイラギはにこにこと涼しい笑顔で見つめている。ヒナタはユニフォームを着て走る気満々のヒイラギに耳打ちした。
「ヒイラギくん、大丈夫?うちの部って全国大会目指してるくらいハードなんだよ。見学もなしに入部して本当に大丈夫なの?」
「ありがとう、心配してくれるんだね。きっと大丈夫だよ」
ヒイラギはさらりと笑うと、ヒナタにひらひらと手を振り他の部員たちと合流した。結子とヒナタの号令に合わせて走り込みやトレーニングを始めていく。ヒナタがテントの下でスポーツドリンクやタオルの準備をしていると、結子に話しかけられた。
「ヒナタ、百合川くんのこと名前で呼ぶくらい仲良くなったの?」
「違うの、百合川……じゃなかった、ヒイラギくんからそう呼んでって言われて……」
「そういえばヒナタ、聞いたよ!百合川くんに花嫁って言われたんだって?」
「えぇ……もう話が回ってるの……?」
「転入生自体珍しいし、その転入生が悪魔でしかも花嫁に選ばれるなんて、そんな話なかなかないよ!」
「まぁ……確かにそうだね……」
悪魔の花嫁に選ばれるという話はヒナタも滅多に聞いたことがなく、身近なところでは生徒会長の桐条美鶴が悪魔の名家の花嫁に選ばれているというくらいしか知らない。まさか自分に降って湧いてくる話だとは思っていなかった。結子も同じような感覚でそこだけは安心した。
「あ!」
ヒナタが部員たちに目を向けたとき、走っていた百合川ヒイラギが膝をつき倒れ込んだのが見えた。結子とすぐに駆け寄ると、ヒイラギはぐったりと倒れて気を失っているようだった。
走っていた理がヒイラギに駆け寄り、ヒイラギの肩に腕を回して立ち上がった。男子生徒を一人担いでいるも同然だというのに、理は涼しい顔をしていた。
「俺は百合川を保健室に連れていく」
「あっ、じゃあ私もついていくよ。結子ちゃん、ごめんだけど部活はお願い!」
「任せて!」
親指を立てて明るく笑う結子を背に、ヒナタは理の後を追った。理はヒイラギを担ぎながらも平然と歩いている。
「結城くん、ありがとう。ヒイラギくん、突然倒れたの?」
「途中から百合川の顔色が悪くなってきて、休んだらって声かけたけど、それでも走るっていうからそのままにしてたらこうなった」
「え、そうなんだ。ごめんね、マネージャーの私たちが気が付かなくて。ちゃんと見ておくべきだったね」
「マネージャーは全員見なきゃいけないから大変だろ。俺がもっと気を付けてればよかったんだ」
二人は保健室に辿り着いた。教師に事情を説明し、ヒイラギをベッドに寝かせる。ベッドに寝ている彼は規則正しい呼吸をしていて、ヒナタはホッと一息ついた。しばらくしたら目を覚ましそうだ。
「結城くん、ありがとう。私が見ておくから、結城くんはグラウンドに戻ってて」
「え、でも……本当に大丈夫か?」
「うん。保健室の先生もいるし、大丈夫だよ。私は何かあったらいけないから、ここにいるね。悪いけどみんなにもそう言ってもらえるかな」
そう言うと理はこくりと頷き、
「わかった。ありがとう、赤羽。みんなには伝えておくから」
保健室を出て行った。ヒナタはヒイラギを心配しながらも、ほんの少しだけでも理と二人でいられたことに胸が高鳴っていた。
「う……んん……」
保健室でヒイラギの様子を見守っていると、ヒイラギが声を上げゆっくりと目を開けた。ヒナタはベッドそばの椅子から立ち上がり、
「あ、ヒイラギくん。起きた?」
「う……ええと……君は……」
眩しそうに目を細める彼ににっこりと微笑んだ。
「部活中に倒れちゃったの。ヒイラギくん、体は大丈夫?起きられる?」
「僕……ああ、そっか、走ってるうちに体調が悪くなって……」
ヒイラギははぁ、と深い息をつきながら額に手を当てると、半身を起こした。乱れた黒い髪を手櫛で整え、ヒナタに笑いかける。
「君が介抱してくれたの?」
「ここまで運んでくれたのは結城くんだよ。後でお礼を言わなきゃね」
「『結城くん』?」
さらりと口にした名に、ヒイラギは眉をひそめ見るからに不機嫌そうな顔をした。
「誰、結城くんって」
「同じ陸上部のクラスメイトだよ。ヒイラギくんが倒れたときいち早く気付いてくれて、保健室に運んでくれたの。後で一緒にお礼を言おうね」
「……うん」
ヒイラギはいまだに口を尖らせていた。綺麗な顔の彼がそんな子供っぽい表情をするとは思わず、ヒナタは少し呆気に取られていた。
「ヒイラギくん、今日体調悪かったの?急に倒れるなんて」
「走る前までは普通だったんだけど、思ったより練習が体に堪えてね。驚いたよ、全国大会を目指してるっていうのは伊達じゃないね」
「これからも今日くらいの練習が続くけど、本当に大丈夫?無理をしたら体を壊しちゃうよ」
本気で心配するヒナタに、ヒイラギは嬉しそうに笑った。
「ふふ、君にそんな心配されるなんて嬉しいな。じゃあ、僕のために練習メニューを考えてよ。僕だけのためのメニューをさ」
「え、えええ!?」
ヒナタは飛び上がりそうなほど驚いた。てっきり陸上部を諦める流れになるかと思いきや、まさかの特別待遇をご所望とは。一介のマネージャーにすぎないヒナタには当然そんな権限はなく、
「一人のためだけに特別待遇なんてできないよ。ヒイラギくん、やっぱり部活はちょっと考え直した方が……」
と告げたところ、黒髪の転入生はムッとした顔でヒナタを見つめていた。そんな目で見つめられてもどうすることもできないんだけどなあ、とヒナタは途方に暮れていた。
結局百合川ヒイラギは陸上部に在籍し続けることになり、ヒナタは顧問の教師から両手を合わせて乞われた。
「ナホビノ様がのびのびと陸上を楽しめるようにと学園の方からお達しがあってな。私が百合川用の練習メニューを組んでおいたから、彼だけはこれでやってもらうようにしてくれ」
「……えっと、それはいいんですけど、どうして私に言うんですか?」
ヒナタが尋ねると、顧問の教師ははっきりと告げた。
「百合川直々のご指名だ。赤羽に見てほしいんだと」
「はあ……でも私、陸上部のマネージャーであってヒイラギくんだけのマネージャーじゃないんですけど……」
「そこは頼む!他の部員たちは私や西脇が気を配るから!」
と顧問の教師に頼み込まれてしまい、陸上部の活動中ヒイラギの面倒を見ることになってしまった。ヒイラギが他の部員たちの邪魔にならないよう彼だけが走る専用レーンを設け、陸上部の活動を行っている。ヒナタはため息をつきつつもヒイラギが問題なく走れているか眺めていた。彼は一度部活中に倒れているだけに、目を離すことはできない。しかしそれでも、ヒナタの視線は時折理の方に向いていた。全国大会の上位入賞も狙える彼は、今日も颯爽と走り込みを続けている。青い髪が汗とともになびき、風のように走る姿は格好よいの一言。ヒナタは惚れ惚れと息をついていた。
「ヒナタ」
ストイックに走り続ける理を眺めていると、ヒイラギに声をかけられた。ハッと我に返り彼に目を遣ると、うっすらと汗をかいた彼がいた。練習メニューをこなしたらしい彼にタオルを渡すと、ヒイラギは不服そうに走る部員たちに目を向けた。
「なんだかぼーっとしてたね。誰を見てたの?」
「え?だ、誰も見てなんかないよ」
「嘘。じっと見てたよ」
追及の眼差しが刺さり、ヒナタはもはや隠すことなく理を見つめた。理はヒイラギやヒナタのことなど意に介さず、淡々とメニューをこなしている。その淡白な姿に惹かれてたまらない。
「……結城くんを見てるの」
「『結城くん』?ああ……この前僕を運んでくれた人だね」
「うん」
もはやヒナタの瞳はヒイラギを映していなかった。青い髪の彼をじっと観察し、その凛とした姿を捉えて離さない。隣に立っていたヒイラギがヒナタの真正面にやってきた。翡翠の瞳に顔を覗き込まれ、麗しの黒い髪がさらりと揺れる。
「ねえ、ヒナタ。今日部活が終わったら一緒にお茶でもしようよ」
「え?」
突然の提案にヒナタは思わず後ろにのけ反ってしまった。ヒイラギは悪戯っぽい笑顔を浮かべ、ヒナタをじっと見つめている。
「少し前の話になってしまうけど、悪魔から君を助けたお礼、してくれるんでしょ?」
「あ……そういえば、そんな話もあったね……」
青い髪をなびかせ、イヌガミから助けてくれたヒイラギ。確かに「お礼にお茶でも」と言った。すっかり忘れていたが、まさかしっかり返ってくるとは思わなかった。
「でも、確かにお礼するって言ってたもんね。ヒイラギくん、コーヒー飲める?シャガールでお茶しよっか」
そう答えたときのヒイラギは、とびきり嬉しそうな笑顔だった。
部活が終わりヒナタは帰っていく理の後ろ姿を切なく見つめた後、ヒイラギと喫茶シャガールに腰を落ち着けた。有閑マダムが多いゆったりとした雰囲気の喫茶店、二人で何か話したいというときにはぴったりだ。実はそこそこお手軽な値段なことも相まって、月光館学園の生徒たちの間では穴場になっている。
――結城くんと二人で来てみたいなあ。
ヒナタは対面に座るヒイラギを見ながらも、そんなことを思っていた。理は同じクラス、同じ部活ではあるが彼と過ごす時間は貴重だ。本当なら二人きりになりたいのは理の方だった。そうは思いつつも、ヒナタはヒイラギに頭を下げた。
「ヒイラギくん、悪魔から守ってくれてありがとう。あのときヒイラギくんがいなかったらと思うとぞっとするよ」
「花嫁さんを守るなんて当然だから、気にしないで。でも、あのとき居合わせることができてよかったよ。花嫁さんの匂いがするって思ってたからね」
「匂い?」
不思議な言葉に、ヒナタは思わずくんくんと鼻を鳴らし自身の体臭を確認した。が、特に変な匂いはしない。ヒイラギは可笑しそうに笑っていた。
「ふふ、悪魔にしかわからない匂いがあるんだ。花嫁さんは匂いでわかる。花嫁さん側も自分の番の悪魔と会ったら、何かわかるものがあるって聞いたけど……ヒナタ、僕を見ても何も感じない?」
そう言われ、ヒナタは改めてヒイラギを眺めた。黒髪に翡翠の瞳が美しい、芸術品のような青年。麗しいのは間違いないが、それ以上の感情を抱くことはなかった。むしろ理の方に運命めいたものを感じてしまう。……肝心の理はそう思っていないだろうことが悲しいが。
「うーん、ごめんね。正直私にはよくわからなくて」
「そうか……残念だけど、まあいいや。僕が君に感じた運命、僕が君を大切にしたいこと、これから時間をかけて伝えていけばいいよね」
ヒイラギはコーヒーを優雅に飲むと、にっこりと笑ってみせた。陸上部の練習後で少し乱れた黒髪も相まって、やや子供っぽい雰囲気を纏っている。目の前の彼は人間ではなく悪魔とのことだが見た目には違いがなく、むしろ人間臭いくらいだった。
「悪魔の花嫁ってあまり聞いたことがないんだけど、花嫁になったらどうなるの?」
ヒナタが素朴な疑問を口にすると、ヒイラギは身を乗り出した。
「少しは興味が湧いたかな?とは言っても、人間同士が結ぶ婚姻となんら変わらないよ。僕と結婚してずっと一緒に暮らす、それだけさ。君を襲う悪魔がいたら、僕が守る。本当なら君と一緒に暮らしたいんだけど……人間だとそれはまだ早いんでしょ?」
首を傾げて言われ、ヒナタは顔が真っ赤になった。ヒイラギと一緒に暮らす?思いもよらなかった言葉が出てくると赤面もする。
「大丈夫、僕はちゃんと順序を守ろうと思ってるから。君にも僕を好きになってほしいからね」
そう言った彼は優しい笑顔でヒナタを見つめていた。結城くんにもこんな顔で見つめてもらえたら……と思いつつも、ヒイラギの麗しさに少しばかり心も揺れてしまいそうだった。