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Gone Angels
十二月二十六日。クリスマスが終わり、年の瀬に向けて世の中が忙しなくなる頃。今日は冬休み前最後の登校日だった。俺は到底授業を真面目に聞く気になれず、シャーペンを回しながら上の空で過ごしていた。周りは間近に迫った冬休みの話で持ちきりで、二年F組の教室どころか学園全体がそわそわと楽しそうな雰囲気だった。俺だけ取り残されている。そう思いながら毎日を過ごすのが辛かった。
「理くん、一緒に帰ろ!」
放課後、ミコトがいつものようにやってきた。彼女はいつも――こんな状況でも明るくて、俺は曖昧な笑みを浮かべつつ手を取った。ミコトの手を握っていると、彼女の隣にいると、もういくつ寝た後に重い決断をしなければならないという現実を忘れられる。……忘れてはいけないのだけれど、忘れる時間が欲しかった。
ミコトとゲーセンやカラオケで遊んだ後、食事を済ませて帰る。巌戸台分寮に着いた頃にはすっかり夜だった。普段ならここでミコトと別れ寝るまで自由に過ごすところだが、俺は三階に上っていくミコトの手首を掴んだ。彼女は不思議そうな顔をする。
「ちょっと話したい。屋上に来てくれない?」
「うん、いいよ。ちょっと荷物だけ置かせてね」
そう言って階段を駆け上がっていく彼女の後ろ姿に不安を覚えた。各々部屋に戻りカバンを置いて屋上で合流する、離れ離れになっている時間なんてほんの少しなのに、その「ほんの少し」が耐えられなかった。俺は部屋に走りカバンをベッドに放り投げ、急いで屋上に向かった。
屋上は冷え切っていた。扉を開けた瞬間、顔に夜の冷気がぶち当たる。息をするたび肺につんと冷えた空気が流れ込み、不安に満ちた体を凍らせていく気がした。俺は両手に息を吹きかけ擦り合わせながら屋上を歩いた。カツカツと硬い足音が響く。
「理くん、ごめんね!お待たせ!」
背後で扉が開き、駆け寄ってくる足音が聞こえた。振り返ると白い息を吐くミコトがいた。鼻の奥がじんと熱くなり、俺は気付いたらミコトを抱きしめていた。
「え、あ、理くん?」
「寒いから」
寒いのは本当だ。でもそれだけじゃない。凍えた心が溶けていく気がする。今日、本当は学園なんて行きたくなかった。ミコトとずっとこうしていたかった。ミコトの首筋に顔を埋めていると、彼女が頭を撫でてくれた。俺が何を考えているか何となく察しているのかもしれない。
そっとミコトを離すと、彼女は屋上の端に向かい転落防止の柵にもたれかかった。夜空を見上げる彼女は月に照らされ、床に長い影を伸ばしている。俺も隣に立ち空を見上げた。澄んだ冬の夜空は高く、半月が世界を照らしている。
「明日から冬休みだね。こんな状況じゃなかったら、色々遊ぶ計画とか立てたのにね」
ミコトは俺を見つめて苦笑いを漏らした。俺も深いため息を吐く。細く長く白い息はタバコの煙に似ていた。
「本当に。……大晦日まであと数日だ」
この一ヶ月間、十二月三十一日が頭にこびり付いて離れなかった。綾時が決めた最後の日は刻一刻と迫っている。特別課外活動部の面々は覚悟を決めたらしいが、正直俺はまだ悩んでいた。世界の終わりに抗うか従うかなんて、そうそう簡単に決められるものじゃない。みんな俺に言う。これまで戦ってきたリーダーだし、綾時をずっと宿してきたのだからお前が決めろと。……リーダーになったのだって成り行きみたいなもので、綾時を封印していたのも俺のせいじゃないのに。
「ミコトはどうするか決めた?」
端的に尋ねると、ミコトはふと目を逸らした。大きく背伸びをして月を見上げる。その横顔は月光に照らされて神秘的だった。すごく、綺麗だった。
「みんなの前じゃ言えないんだけど、私は綾時くんを殺すのもありだと思うの」
ミコトの声は普段より控えめな抑えたものだったが、静かな屋上に響き渡るようだった。正直意外な言葉で、俺は固まってしまった。
「みんな戦うつもりみたいだけど、勝てないって綾時くんが言うくらいだし、本当に勝てるのかなって思っちゃって……それならこれまでの記憶を消して、最後くらい穏やかに暮らすのもありじゃない?だってさ」
ミコトは体ごと俺の方を向くと、ポケットに突っ込んだ俺の手を取り両手で包むように握った。夜気に晒されたミコトの手は冷たかったが、それが逆に心地よかった。
「影時間に関わる記憶は消えちゃっても、理くんと二人で楽しんだこととか幸せだった気持ちって消えないんでしょ?ならそれもいいかなって」
ミコトの言葉は予想外だったが、俺の心の弱いところに確実に突き刺さった。目の奥が急激に熱くなり涙が溢れる。俺はミコトの手を振りほどき拳で涙を拭った。それでも涙が溢れ、屋上にぼたぼたと零れた。俯く俺の肩にミコトの手が触れる。どうしようもなくなった俺はミコトを抱き寄せていた。彼女の髪にぽつぽつと雨が降る。俺は嗚咽とともに喉の奥から声を絞り出した。
「戦わなくていいって初めて言われた」
「うん」
ミコトの手が俺の背中を撫でる。彼女の首筋に甘える俺は涙が止まらなかった。今までずっと心の奥底に閉じ込めていた言葉が溢れ出る。
「戦いたくないなんて言い出せなかった……本当は全部投げ出したかった」
これまで積み重ねてきた記憶とともに「勝てない」と言われている相手に挑む、立派だ。漫画やゲームの主人公のようで勇ましい。でも俺は疲れ切っていた。影時間が消えると信じて戦った末騙されていたことがわかり、今度は避けられない滅びに抵抗するか受け入れるか選ばされるなんてあまりに重すぎる。ずっとそばにいてくれたミコトにも言い出せなかった。今やっと言えた。決断が迫る数日前になってようやく口にできた情けない思いに涙が止まらない。俺はなんで泣いているのだろう。
「理くん」
優しく名前を呼ばれる。顔を上げたミコトが俺の頬を両手で包み込んだ。あたたかく柔らかい手の感触に安心していると、彼女に唇を奪われた。溢れる思いを吸い取ってくれるようなあたたかいキスだった。キスが終わるとミコトはにっこりと笑っていた。月下美人の花のように美しかった。ミコトの目は星空のようにきらめいて、泣いてばかりの情けない俺でも受け入れてくれる気がした。
「ミコト」
「なに?」
「もう戦いなくないって言ったらどう思う?」
そう尋ねると、ミコトは頬を伝う涙を指で拭ってくれた。
「理くんが心からそう思うなら、私はそれでいいと思う。綾時くんを殺すときは私に言って。私がやるから」
「なんで。……俺がやるよ。一応、特別課外活動部のリーダーだから」
「理くんってリーダーリーダーってずっと言われてさ、何でもかんでも背負ってきたんだからさ……最後くらい、私に委ねてもいいんじゃない?」
頬に触れるミコトの手は少し震えていた。殺した記憶を失うとはいえ、その華奢な体に重荷を背負わせるわけにはいかない。俺は首を横に振った。
「俺がやる。だからミコトは何も心配することない」
決意の言葉は屋上にはっきりと響き、夜空に溶けていった。
十二月三十一日、大晦日。約束どおり綾時が学生寮を訪れ決断を迫った。俺の部屋に待機するということで、綾時の背中を見届ける。ついに決断するときがやってきた。一階ラウンジに集まったみんなは俺をじっと見つめていた。俺は視線を振り払うようにソファーから立ち上がり、
「行ってくる」
と言い残し部屋に向かった。二階の廊下に着いたとき、俺を追いかける足音が聞こえ振り返るとミコトが立っていた。
「理くん!……本当にいいの?私がやるよ」
そう言ったミコトは腰に差した召喚器に触れた。彼女の鋭い視線を受け止めながらも俺は首を横に振り、ミコトの肩に手を置いた。
「行ってくるから」
俺は自分の召喚器を手にし、部屋に入った。穏やかな顔の綾時と目が合う。物騒なものを持っている俺に何かを察したらしく、綾時は笑った。
「どうするかもう決まってるみたいだね。……よかった。大丈夫、僕はどのみち消えるんだ。殺すことに罪悪感を覚える必要なんてないからね」
「……そうか」
万が一覚悟が揺らいだらどうしようかと思ったが、俺は召喚器を迷いなく自分のこめかみに当てることができた。いつもどおり引き金を引き、目の前の相手を倒すだけ。何も変わらない、タルタロスで散々やってきたことだ。今更……今更、迷いなんてない。
「ペルソナ!」
引き金を引く。影を振り払うために振るってきた「力」が具現化し、綾時を貫いた。
血。綾時の体から血が溢れた。綾時は俺を見て笑っていた。膝をつき部屋に倒れ、彼の赤い血が床に広がっていく。綾時の血は生温かかった。
記憶。自分の中のページが次々と開く。記憶という名のページには様々なことが書かれているが、次から次へとページに書かれていた文字や絵が消えていくのを感じた。影時間の記載が消えた白いページはもう不要なもの、どんどん破られて自分という本から失われていく。もしかしたら大切なページだったのかもしれないが、「大切かもしれない」という気持ちごと破り取られ消えていく。あとにはきっと、「ページを破り捨てた」ことすら忘れた俺だけが残される――……。
「……?」
一瞬意識が飛んでいた。かくんと頭が揺れて俺はハッと現実に戻った。学生寮、自分の部屋だ。ぼーっと突っ立っていたが、俺、何をしてたんだ?窓の外に目を向けると真っ暗だった。ふとカレンダーを見ると今日は十二月三十一日、大晦日。机の上に置いた時計は二十三時五十八分を示している。もうすぐ新しい年が始まる。もう一年が経つのか、早いな。そんな風に思っていると、コンコンと部屋のドアをノックする音が響いた。
「理くん、起きてる?」
ミコトの声だった。ドアを開くと、恥ずかしそうに笑うミコトが立っていた。
「あ、よかった、起きてた。ほら、もうすぐ新しい年になるじゃない?新年の瞬間は一緒にいたいなー、なんて」
可愛い。俺はミコトの腕を引き、ぎゅっと抱きしめていた。抱きしめたままちらりと確認した時計は、ちょうど午前零時を示していた。
「あけましておめでとう。今年もよろしくね、理くん」
「ああ、よろしく」
新年早々初めて見たのがミコトの可愛い笑顔でよかった。今年もいい一年になりそうだ。
一月一日の長鳴神社にはそこそこ参拝客がいた。俺はミコトの手をぎゅっと握り、二人で敷地内に足を踏み入れた。冬の昼間は穏やかな陽光に包まれ、白い息を吐きながらもうららかで和やかだった。隣にいるミコトは楽しそうに笑っていた。
「小さな神社だと思ってたけど、結構人が来るんだね。何をお願いしよっかな〜。やっぱり学業成就が無難かな?」
「そういえば四月から三年生か。ミコトは進学するつもり?」
「うん、そのつもり。理くんは?」
「俺もどっちかといえば進学かな。大学がどんなところか気になるから」
たわいもないことを言いながら参拝客の列に並び、賽銭箱の前に来るのを待つ。やっとお参りできるようになり、俺は財布から五円玉を取り出した。信心深いとまではいかないが、こういうのは地味に気になるところだ。ぽいと五円玉を投げ入れ、目を閉じる。
――ミコトとずっと仲良くいられますように。
真っ先に願ったのはやはり隣の彼女との仲について。破局なんてありえないけれど、神様に祈るならやっぱりこれだ。あとはついでに成績がよくなりますようにと祈り、礼をしてその場を離れた。
「あ、理くん!」
先にお参りを済ませたミコトがおみくじの前で手を振っていた。その仕草と表情は「おみくじを引きたい」と全力で主張している。俺はふふっと笑った。
「おみくじ引こうか。いい結果だといいな」
「凶とか大凶以外ならなんでもいいよ〜!」
なんて言い合いながらおみくじを引く。折り畳まれたくじを広げると、「大吉」の字が見えた。ざっと目を通すと全体的にいい感じのことが書いてあり、「今ある幸せに感謝し毎日を過ごすこと」の一文が目を引いた。くじから顔を上げると、ミコトはじっと自分のくじを眺めている。俺は隣に立ち覗き込んだ。
「なんて書いてある?」
「わ、理くん!?びっくりした」
ミコトがびくっとしたのも一瞬、すぐに顔を寄せて俺にもくじを見せてくれる。
「末吉だって。健康面があんまりよくないみたい、体に気をつけなきゃね。理くんはどうだった?」
「大吉だった」
「わ、ほんと!?見せて見せて!」
興奮した様子のミコトと互いのくじを交換し眺めてみた。ミコトのくじは末吉、「頑張ればなんとかなる」といった記載が多い。一年の始まりに見るくじとしてはちょっとテンションが下がるかもしれない。中でも健康の欄には「体調を崩しやすい、養生すべし」と書いてあり少し心配になる。
「じゃあおみくじ結んでいこっか」
「そうだな」
ひととおり互いのくじを見た俺たちは、白い縄にくじを結んだ。すでにたくさんのくじが結ばれていたが、ミコトと俺で隣り合うように結んだくじがどこにあるかは不思議とよくわかった。
徐々に気温が上がり過ごしやすくなってきた三月五日。この日は卒業式だった。春らしい心地いい空気を感じながら、俺はいつもどおりミコトと学園に向かう。
「今日は卒業式だね。三年生の人たちがいなくなっちゃうと、次は私たちが三年生なんだーって実感するよね」
ミコトの言葉に「そうだな」と頷きながら歩く。学園に植えられた桜並木はまだつぼみすらつけていない。来月の今頃には満開の桜が見られるだろう。
「?」
ふと視線を感じ、俺は立ち止まった。辺りを見回すと、金髪の女子が俺たちをじっと見つめていた。何か言いたそうにしているがこっちには来ないし声もかけてこない。
「理くん、どうしたの?」
立ち止まったミコトが俺を見上げる。俺の関心はあっさりとミコトに移り、
「ん?いや、なんでもない。行こうか」
見つめられていたことすら忘れて俺は教室へ歩いていった。
卒業式はつつがなく終了し、放課後を迎えた俺はミコトとワックでのんびりだべっていた。ミコトは携帯を取り出し、俺に見せてきた。画面に映っているのはニュースサイト、「無気力になってしまう原因不明の病が蔓延か!?」と見出しには書かれていた。
「理くん知ってる?最近無気力になって何もできなくなる人が増えてるんだって」
「知らなかった。精神的な病気か何か?」
「さあ……最近ぽつぽつ出てきた症状らしいから詳しいことは全然わかってなくて、とりあえず『無気力症』って呼んでるみたい」
「ふーん」
単なる世間話に「ふーん」以外の相槌が浮かばない。俺は黙々とポテトを口にする。ミコトもただの話題の一つくらいにしか捉えていないようで、口調はいつもどおりであまり深刻な雰囲気ではない。
「この辺で出始めた病気みたい。もしかしたら理くんや私も無気力症になっちゃうかも?」
「予防策とか治療法とかは?」
「うーん……全然わかんないみたい。無気力症になった人はご飯食べたりお風呂入ったりも難しくなっちゃうから、誰かにお世話してもらわないといけないみたいだね」
「そう。でも俺やミコトがそんな風になるとは思えないけどな」
「なんで?」
尋ねてくるミコトにはっきり告げた。
「なんとなく。根拠なんて必要ないだろ」
そう言うとミコトは「そうだねー」なんて笑っていた。無気力症なんて俺の知らないどこかで起こっていることだと思っていた。新聞の片隅に載っている死亡事故の文章を見ているような、そんな気分だった。
四月六日、三年生の始まりを告げる日がやってきた。俺はいつもどおりミコトと一緒に巌戸台分寮を出て学園に向かった。寮にはかつての三年生、生徒会長と真田がいたが彼らはもういない。風の噂では二人ともいい大学に進学したそうだ。俺もあと一年でこの寮を出ると思うと今から感慨深かった。
新しい年度は心地いい快晴で始まり、歩くたびにどこからか桜の花びらが舞い落ちてきた。隣にいるミコトも浮かれた楽しそうな顔をしている。
「春っていいね。あったかくて桜が綺麗でさ。今年も同じクラスになれたらいいね」
そう言って笑うミコトと一緒に校門をくぐると、
「いよっお二人さん、朝っぱらから仲がいいことですなあ!」
と順平に肩を叩かれ、
「もう順平、いい加減にしなさいよ」
岳羽が調子に乗った順平を諌める。去年は俺も含めたこの四人が同じクラスだった、こんなやり取りも見慣れたもの。今年は受験という大きなイベントがあるものの、それも些細なこと。今年も大きな盛り上がりはなくとも、ささやかな喜びが続くものだと思っていた。
高校三年生になって初めて迎えた日曜日、ミコトと出かける予定だった。待ち合わせ場所の一階ラウンジに向かうと、ソファーにミコトが座っていた。携帯をいじるでも本を読むでもなくただぼんやりとしている。俺は軽く手を上げ、
「ミコト、おはよう」
「……」
声をかけたが無反応だった。それどころか俺に目を合わせもしない。どこか一点を見つめているが、俺が顔を覗き込んでも目が合わない。焦点の合わない目というのはこのことを言うのだろう。
「ミコト?」
様子がおかしい。隣に座り肩を揺するがやっぱり何の反応もない。俺にされるがままで何も言わない姿に怖くなった。背中に寒気を感じたとき、バランスを崩したミコトが俺にもたれかかってきた。甘えているのかと一瞬思ったがそうじゃない。糸が切れた人形のようだった。事実ミコトは俺にもたれかかったまま何も言わないし何もしない。
まさかとは思うが、とミコトの口元に耳を寄せ手首を握った。息をする音、とくとくと脈打つのを感じる。生きてる。生きているのに、俺がいるのに何も反応を示さない。突然のことに混乱する俺の頭に思い浮かんだことがあった。
――最近無気力になっちゃって何もできなくなっちゃう人が増えてるんだって。
俺はミコトをソファーに座らせ、共用パソコンに向かった。「無気力症」で検索する。
――巌戸台を中心に広がりつつある謎の症状。生きることに無気力になり、何もできなくなる。治療法等詳しいことは不明。そもそも治るのかも不明……。
探しても探しても不穏な情報しかなく、探せば探すほど今のミコトは無気力症だろうという確信ばかりが深まっていく。もういい、これ以上調べる必要なんてない。俺は再度ミコトの隣に座った。相変わらずミコトはただソファーに座っているだけで、何の反応も示さない。生きている人形といって差し支えない状態だった。
「大丈夫。……俺がいるから」
ミコトをぎゅっと抱きしめ呟いた。俺の言葉をミコトはただ聞いているだけ……いや、聞いているかも怪しいが、それでもちゃんと伝えたかった。
ミコトが無気力症になった数日後、俺は真っ先に職員室に向かい、その場で休学届を提出した。名残の桜が舞う中、教室に向かう生徒たちとは逆方向に歩く。途中で順平と岳羽に会ったが、休学することを伝えると驚きつつもすぐに察してくれた。
校門のそばで立ち止まり、桜並木を見上げた。今は四月中旬、桜は満開を通り越し散り始め、鮮やかな緑の葉がところどころ姿を現していた。無気力症は治る見込みのないものだ、俺はこの学園に戻ってこられないかもしれない。それでもよかった。俺は視線を戻し、駅へ向かった。
巌戸台分寮に戻る。平日の昼間、寮生はみんな学園にいる。俺と、たった一人を除いて。
二階の自室に向かった。扉を開けると真っ先にベッドが視界に入り、そこにはうなだれて腰掛けるミコトがいた。ぐったりと無気力な姿は人形のようで、一瞬本当に死んでいるかもと毎回怖くなる。俺はミコトの前にしゃがみ、首筋に触れ顔を近付けた。脈拍を感じる、息をしてる。よかった、ミコトは生きている。
「ただいま、ミコト」
そう言ってミコトの額にキスをする。唇に触れた額はあたたかく、生きている人間のぬくもりを感じる。相変わらず反応はないが。
無気力症になったミコトは、放っておくとずっとひとところに留まり本当に何もしない。ただ息をするだけのミコトを見た俺は腹を括った。いつまでこの症状が続くかわからないし俺自身も無気力症になる可能性があるが、それでも俺が動けるうちは彼女の面倒を見ると決めた。
「休学することにしたんだ。ミコトが元に戻るまでずっと一緒だ。だから……ミコト、寂しくなんかないから」
返事なんか期待してない。きっと彼女は何も言わない。それでもミコトには話しかけるようにしていた。いつか俺の声が届くかもしれないから。
俯いていたミコトがほんの少し顔を上げた。思わず顔を覗き込むと、彼女の口元がちょっとだけ笑顔の形に変わった気がした。俺の願望が見せた幻かもしれない。けれど、だとしても嬉しかった。俺はミコトを抱きしめていた。さらさらの髪とあたたかく柔らかい体、ミコトは人形なんかじゃない、死んでなんかない。きっと、きっといつか元に戻ってくれるはずだ。根拠はないが、そう信じていた。
十二月二十六日。クリスマスが終わり、年の瀬に向けて世の中が忙しなくなる頃。今日は冬休み前最後の登校日だった。俺は到底授業を真面目に聞く気になれず、シャーペンを回しながら上の空で過ごしていた。周りは間近に迫った冬休みの話で持ちきりで、二年F組の教室どころか学園全体がそわそわと楽しそうな雰囲気だった。俺だけ取り残されている。そう思いながら毎日を過ごすのが辛かった。
「理くん、一緒に帰ろ!」
放課後、ミコトがいつものようにやってきた。彼女はいつも――こんな状況でも明るくて、俺は曖昧な笑みを浮かべつつ手を取った。ミコトの手を握っていると、彼女の隣にいると、もういくつ寝た後に重い決断をしなければならないという現実を忘れられる。……忘れてはいけないのだけれど、忘れる時間が欲しかった。
ミコトとゲーセンやカラオケで遊んだ後、食事を済ませて帰る。巌戸台分寮に着いた頃にはすっかり夜だった。普段ならここでミコトと別れ寝るまで自由に過ごすところだが、俺は三階に上っていくミコトの手首を掴んだ。彼女は不思議そうな顔をする。
「ちょっと話したい。屋上に来てくれない?」
「うん、いいよ。ちょっと荷物だけ置かせてね」
そう言って階段を駆け上がっていく彼女の後ろ姿に不安を覚えた。各々部屋に戻りカバンを置いて屋上で合流する、離れ離れになっている時間なんてほんの少しなのに、その「ほんの少し」が耐えられなかった。俺は部屋に走りカバンをベッドに放り投げ、急いで屋上に向かった。
屋上は冷え切っていた。扉を開けた瞬間、顔に夜の冷気がぶち当たる。息をするたび肺につんと冷えた空気が流れ込み、不安に満ちた体を凍らせていく気がした。俺は両手に息を吹きかけ擦り合わせながら屋上を歩いた。カツカツと硬い足音が響く。
「理くん、ごめんね!お待たせ!」
背後で扉が開き、駆け寄ってくる足音が聞こえた。振り返ると白い息を吐くミコトがいた。鼻の奥がじんと熱くなり、俺は気付いたらミコトを抱きしめていた。
「え、あ、理くん?」
「寒いから」
寒いのは本当だ。でもそれだけじゃない。凍えた心が溶けていく気がする。今日、本当は学園なんて行きたくなかった。ミコトとずっとこうしていたかった。ミコトの首筋に顔を埋めていると、彼女が頭を撫でてくれた。俺が何を考えているか何となく察しているのかもしれない。
そっとミコトを離すと、彼女は屋上の端に向かい転落防止の柵にもたれかかった。夜空を見上げる彼女は月に照らされ、床に長い影を伸ばしている。俺も隣に立ち空を見上げた。澄んだ冬の夜空は高く、半月が世界を照らしている。
「明日から冬休みだね。こんな状況じゃなかったら、色々遊ぶ計画とか立てたのにね」
ミコトは俺を見つめて苦笑いを漏らした。俺も深いため息を吐く。細く長く白い息はタバコの煙に似ていた。
「本当に。……大晦日まであと数日だ」
この一ヶ月間、十二月三十一日が頭にこびり付いて離れなかった。綾時が決めた最後の日は刻一刻と迫っている。特別課外活動部の面々は覚悟を決めたらしいが、正直俺はまだ悩んでいた。世界の終わりに抗うか従うかなんて、そうそう簡単に決められるものじゃない。みんな俺に言う。これまで戦ってきたリーダーだし、綾時をずっと宿してきたのだからお前が決めろと。……リーダーになったのだって成り行きみたいなもので、綾時を封印していたのも俺のせいじゃないのに。
「ミコトはどうするか決めた?」
端的に尋ねると、ミコトはふと目を逸らした。大きく背伸びをして月を見上げる。その横顔は月光に照らされて神秘的だった。すごく、綺麗だった。
「みんなの前じゃ言えないんだけど、私は綾時くんを殺すのもありだと思うの」
ミコトの声は普段より控えめな抑えたものだったが、静かな屋上に響き渡るようだった。正直意外な言葉で、俺は固まってしまった。
「みんな戦うつもりみたいだけど、勝てないって綾時くんが言うくらいだし、本当に勝てるのかなって思っちゃって……それならこれまでの記憶を消して、最後くらい穏やかに暮らすのもありじゃない?だってさ」
ミコトは体ごと俺の方を向くと、ポケットに突っ込んだ俺の手を取り両手で包むように握った。夜気に晒されたミコトの手は冷たかったが、それが逆に心地よかった。
「影時間に関わる記憶は消えちゃっても、理くんと二人で楽しんだこととか幸せだった気持ちって消えないんでしょ?ならそれもいいかなって」
ミコトの言葉は予想外だったが、俺の心の弱いところに確実に突き刺さった。目の奥が急激に熱くなり涙が溢れる。俺はミコトの手を振りほどき拳で涙を拭った。それでも涙が溢れ、屋上にぼたぼたと零れた。俯く俺の肩にミコトの手が触れる。どうしようもなくなった俺はミコトを抱き寄せていた。彼女の髪にぽつぽつと雨が降る。俺は嗚咽とともに喉の奥から声を絞り出した。
「戦わなくていいって初めて言われた」
「うん」
ミコトの手が俺の背中を撫でる。彼女の首筋に甘える俺は涙が止まらなかった。今までずっと心の奥底に閉じ込めていた言葉が溢れ出る。
「戦いたくないなんて言い出せなかった……本当は全部投げ出したかった」
これまで積み重ねてきた記憶とともに「勝てない」と言われている相手に挑む、立派だ。漫画やゲームの主人公のようで勇ましい。でも俺は疲れ切っていた。影時間が消えると信じて戦った末騙されていたことがわかり、今度は避けられない滅びに抵抗するか受け入れるか選ばされるなんてあまりに重すぎる。ずっとそばにいてくれたミコトにも言い出せなかった。今やっと言えた。決断が迫る数日前になってようやく口にできた情けない思いに涙が止まらない。俺はなんで泣いているのだろう。
「理くん」
優しく名前を呼ばれる。顔を上げたミコトが俺の頬を両手で包み込んだ。あたたかく柔らかい手の感触に安心していると、彼女に唇を奪われた。溢れる思いを吸い取ってくれるようなあたたかいキスだった。キスが終わるとミコトはにっこりと笑っていた。月下美人の花のように美しかった。ミコトの目は星空のようにきらめいて、泣いてばかりの情けない俺でも受け入れてくれる気がした。
「ミコト」
「なに?」
「もう戦いなくないって言ったらどう思う?」
そう尋ねると、ミコトは頬を伝う涙を指で拭ってくれた。
「理くんが心からそう思うなら、私はそれでいいと思う。綾時くんを殺すときは私に言って。私がやるから」
「なんで。……俺がやるよ。一応、特別課外活動部のリーダーだから」
「理くんってリーダーリーダーってずっと言われてさ、何でもかんでも背負ってきたんだからさ……最後くらい、私に委ねてもいいんじゃない?」
頬に触れるミコトの手は少し震えていた。殺した記憶を失うとはいえ、その華奢な体に重荷を背負わせるわけにはいかない。俺は首を横に振った。
「俺がやる。だからミコトは何も心配することない」
決意の言葉は屋上にはっきりと響き、夜空に溶けていった。
十二月三十一日、大晦日。約束どおり綾時が学生寮を訪れ決断を迫った。俺の部屋に待機するということで、綾時の背中を見届ける。ついに決断するときがやってきた。一階ラウンジに集まったみんなは俺をじっと見つめていた。俺は視線を振り払うようにソファーから立ち上がり、
「行ってくる」
と言い残し部屋に向かった。二階の廊下に着いたとき、俺を追いかける足音が聞こえ振り返るとミコトが立っていた。
「理くん!……本当にいいの?私がやるよ」
そう言ったミコトは腰に差した召喚器に触れた。彼女の鋭い視線を受け止めながらも俺は首を横に振り、ミコトの肩に手を置いた。
「行ってくるから」
俺は自分の召喚器を手にし、部屋に入った。穏やかな顔の綾時と目が合う。物騒なものを持っている俺に何かを察したらしく、綾時は笑った。
「どうするかもう決まってるみたいだね。……よかった。大丈夫、僕はどのみち消えるんだ。殺すことに罪悪感を覚える必要なんてないからね」
「……そうか」
万が一覚悟が揺らいだらどうしようかと思ったが、俺は召喚器を迷いなく自分のこめかみに当てることができた。いつもどおり引き金を引き、目の前の相手を倒すだけ。何も変わらない、タルタロスで散々やってきたことだ。今更……今更、迷いなんてない。
「ペルソナ!」
引き金を引く。影を振り払うために振るってきた「力」が具現化し、綾時を貫いた。
血。綾時の体から血が溢れた。綾時は俺を見て笑っていた。膝をつき部屋に倒れ、彼の赤い血が床に広がっていく。綾時の血は生温かかった。
記憶。自分の中のページが次々と開く。記憶という名のページには様々なことが書かれているが、次から次へとページに書かれていた文字や絵が消えていくのを感じた。影時間の記載が消えた白いページはもう不要なもの、どんどん破られて自分という本から失われていく。もしかしたら大切なページだったのかもしれないが、「大切かもしれない」という気持ちごと破り取られ消えていく。あとにはきっと、「ページを破り捨てた」ことすら忘れた俺だけが残される――……。
「……?」
一瞬意識が飛んでいた。かくんと頭が揺れて俺はハッと現実に戻った。学生寮、自分の部屋だ。ぼーっと突っ立っていたが、俺、何をしてたんだ?窓の外に目を向けると真っ暗だった。ふとカレンダーを見ると今日は十二月三十一日、大晦日。机の上に置いた時計は二十三時五十八分を示している。もうすぐ新しい年が始まる。もう一年が経つのか、早いな。そんな風に思っていると、コンコンと部屋のドアをノックする音が響いた。
「理くん、起きてる?」
ミコトの声だった。ドアを開くと、恥ずかしそうに笑うミコトが立っていた。
「あ、よかった、起きてた。ほら、もうすぐ新しい年になるじゃない?新年の瞬間は一緒にいたいなー、なんて」
可愛い。俺はミコトの腕を引き、ぎゅっと抱きしめていた。抱きしめたままちらりと確認した時計は、ちょうど午前零時を示していた。
「あけましておめでとう。今年もよろしくね、理くん」
「ああ、よろしく」
新年早々初めて見たのがミコトの可愛い笑顔でよかった。今年もいい一年になりそうだ。
一月一日の長鳴神社にはそこそこ参拝客がいた。俺はミコトの手をぎゅっと握り、二人で敷地内に足を踏み入れた。冬の昼間は穏やかな陽光に包まれ、白い息を吐きながらもうららかで和やかだった。隣にいるミコトは楽しそうに笑っていた。
「小さな神社だと思ってたけど、結構人が来るんだね。何をお願いしよっかな〜。やっぱり学業成就が無難かな?」
「そういえば四月から三年生か。ミコトは進学するつもり?」
「うん、そのつもり。理くんは?」
「俺もどっちかといえば進学かな。大学がどんなところか気になるから」
たわいもないことを言いながら参拝客の列に並び、賽銭箱の前に来るのを待つ。やっとお参りできるようになり、俺は財布から五円玉を取り出した。信心深いとまではいかないが、こういうのは地味に気になるところだ。ぽいと五円玉を投げ入れ、目を閉じる。
――ミコトとずっと仲良くいられますように。
真っ先に願ったのはやはり隣の彼女との仲について。破局なんてありえないけれど、神様に祈るならやっぱりこれだ。あとはついでに成績がよくなりますようにと祈り、礼をしてその場を離れた。
「あ、理くん!」
先にお参りを済ませたミコトがおみくじの前で手を振っていた。その仕草と表情は「おみくじを引きたい」と全力で主張している。俺はふふっと笑った。
「おみくじ引こうか。いい結果だといいな」
「凶とか大凶以外ならなんでもいいよ〜!」
なんて言い合いながらおみくじを引く。折り畳まれたくじを広げると、「大吉」の字が見えた。ざっと目を通すと全体的にいい感じのことが書いてあり、「今ある幸せに感謝し毎日を過ごすこと」の一文が目を引いた。くじから顔を上げると、ミコトはじっと自分のくじを眺めている。俺は隣に立ち覗き込んだ。
「なんて書いてある?」
「わ、理くん!?びっくりした」
ミコトがびくっとしたのも一瞬、すぐに顔を寄せて俺にもくじを見せてくれる。
「末吉だって。健康面があんまりよくないみたい、体に気をつけなきゃね。理くんはどうだった?」
「大吉だった」
「わ、ほんと!?見せて見せて!」
興奮した様子のミコトと互いのくじを交換し眺めてみた。ミコトのくじは末吉、「頑張ればなんとかなる」といった記載が多い。一年の始まりに見るくじとしてはちょっとテンションが下がるかもしれない。中でも健康の欄には「体調を崩しやすい、養生すべし」と書いてあり少し心配になる。
「じゃあおみくじ結んでいこっか」
「そうだな」
ひととおり互いのくじを見た俺たちは、白い縄にくじを結んだ。すでにたくさんのくじが結ばれていたが、ミコトと俺で隣り合うように結んだくじがどこにあるかは不思議とよくわかった。
徐々に気温が上がり過ごしやすくなってきた三月五日。この日は卒業式だった。春らしい心地いい空気を感じながら、俺はいつもどおりミコトと学園に向かう。
「今日は卒業式だね。三年生の人たちがいなくなっちゃうと、次は私たちが三年生なんだーって実感するよね」
ミコトの言葉に「そうだな」と頷きながら歩く。学園に植えられた桜並木はまだつぼみすらつけていない。来月の今頃には満開の桜が見られるだろう。
「?」
ふと視線を感じ、俺は立ち止まった。辺りを見回すと、金髪の女子が俺たちをじっと見つめていた。何か言いたそうにしているがこっちには来ないし声もかけてこない。
「理くん、どうしたの?」
立ち止まったミコトが俺を見上げる。俺の関心はあっさりとミコトに移り、
「ん?いや、なんでもない。行こうか」
見つめられていたことすら忘れて俺は教室へ歩いていった。
卒業式はつつがなく終了し、放課後を迎えた俺はミコトとワックでのんびりだべっていた。ミコトは携帯を取り出し、俺に見せてきた。画面に映っているのはニュースサイト、「無気力になってしまう原因不明の病が蔓延か!?」と見出しには書かれていた。
「理くん知ってる?最近無気力になって何もできなくなる人が増えてるんだって」
「知らなかった。精神的な病気か何か?」
「さあ……最近ぽつぽつ出てきた症状らしいから詳しいことは全然わかってなくて、とりあえず『無気力症』って呼んでるみたい」
「ふーん」
単なる世間話に「ふーん」以外の相槌が浮かばない。俺は黙々とポテトを口にする。ミコトもただの話題の一つくらいにしか捉えていないようで、口調はいつもどおりであまり深刻な雰囲気ではない。
「この辺で出始めた病気みたい。もしかしたら理くんや私も無気力症になっちゃうかも?」
「予防策とか治療法とかは?」
「うーん……全然わかんないみたい。無気力症になった人はご飯食べたりお風呂入ったりも難しくなっちゃうから、誰かにお世話してもらわないといけないみたいだね」
「そう。でも俺やミコトがそんな風になるとは思えないけどな」
「なんで?」
尋ねてくるミコトにはっきり告げた。
「なんとなく。根拠なんて必要ないだろ」
そう言うとミコトは「そうだねー」なんて笑っていた。無気力症なんて俺の知らないどこかで起こっていることだと思っていた。新聞の片隅に載っている死亡事故の文章を見ているような、そんな気分だった。
四月六日、三年生の始まりを告げる日がやってきた。俺はいつもどおりミコトと一緒に巌戸台分寮を出て学園に向かった。寮にはかつての三年生、生徒会長と真田がいたが彼らはもういない。風の噂では二人ともいい大学に進学したそうだ。俺もあと一年でこの寮を出ると思うと今から感慨深かった。
新しい年度は心地いい快晴で始まり、歩くたびにどこからか桜の花びらが舞い落ちてきた。隣にいるミコトも浮かれた楽しそうな顔をしている。
「春っていいね。あったかくて桜が綺麗でさ。今年も同じクラスになれたらいいね」
そう言って笑うミコトと一緒に校門をくぐると、
「いよっお二人さん、朝っぱらから仲がいいことですなあ!」
と順平に肩を叩かれ、
「もう順平、いい加減にしなさいよ」
岳羽が調子に乗った順平を諌める。去年は俺も含めたこの四人が同じクラスだった、こんなやり取りも見慣れたもの。今年は受験という大きなイベントがあるものの、それも些細なこと。今年も大きな盛り上がりはなくとも、ささやかな喜びが続くものだと思っていた。
高校三年生になって初めて迎えた日曜日、ミコトと出かける予定だった。待ち合わせ場所の一階ラウンジに向かうと、ソファーにミコトが座っていた。携帯をいじるでも本を読むでもなくただぼんやりとしている。俺は軽く手を上げ、
「ミコト、おはよう」
「……」
声をかけたが無反応だった。それどころか俺に目を合わせもしない。どこか一点を見つめているが、俺が顔を覗き込んでも目が合わない。焦点の合わない目というのはこのことを言うのだろう。
「ミコト?」
様子がおかしい。隣に座り肩を揺するがやっぱり何の反応もない。俺にされるがままで何も言わない姿に怖くなった。背中に寒気を感じたとき、バランスを崩したミコトが俺にもたれかかってきた。甘えているのかと一瞬思ったがそうじゃない。糸が切れた人形のようだった。事実ミコトは俺にもたれかかったまま何も言わないし何もしない。
まさかとは思うが、とミコトの口元に耳を寄せ手首を握った。息をする音、とくとくと脈打つのを感じる。生きてる。生きているのに、俺がいるのに何も反応を示さない。突然のことに混乱する俺の頭に思い浮かんだことがあった。
――最近無気力になっちゃって何もできなくなっちゃう人が増えてるんだって。
俺はミコトをソファーに座らせ、共用パソコンに向かった。「無気力症」で検索する。
――巌戸台を中心に広がりつつある謎の症状。生きることに無気力になり、何もできなくなる。治療法等詳しいことは不明。そもそも治るのかも不明……。
探しても探しても不穏な情報しかなく、探せば探すほど今のミコトは無気力症だろうという確信ばかりが深まっていく。もういい、これ以上調べる必要なんてない。俺は再度ミコトの隣に座った。相変わらずミコトはただソファーに座っているだけで、何の反応も示さない。生きている人形といって差し支えない状態だった。
「大丈夫。……俺がいるから」
ミコトをぎゅっと抱きしめ呟いた。俺の言葉をミコトはただ聞いているだけ……いや、聞いているかも怪しいが、それでもちゃんと伝えたかった。
ミコトが無気力症になった数日後、俺は真っ先に職員室に向かい、その場で休学届を提出した。名残の桜が舞う中、教室に向かう生徒たちとは逆方向に歩く。途中で順平と岳羽に会ったが、休学することを伝えると驚きつつもすぐに察してくれた。
校門のそばで立ち止まり、桜並木を見上げた。今は四月中旬、桜は満開を通り越し散り始め、鮮やかな緑の葉がところどころ姿を現していた。無気力症は治る見込みのないものだ、俺はこの学園に戻ってこられないかもしれない。それでもよかった。俺は視線を戻し、駅へ向かった。
巌戸台分寮に戻る。平日の昼間、寮生はみんな学園にいる。俺と、たった一人を除いて。
二階の自室に向かった。扉を開けると真っ先にベッドが視界に入り、そこにはうなだれて腰掛けるミコトがいた。ぐったりと無気力な姿は人形のようで、一瞬本当に死んでいるかもと毎回怖くなる。俺はミコトの前にしゃがみ、首筋に触れ顔を近付けた。脈拍を感じる、息をしてる。よかった、ミコトは生きている。
「ただいま、ミコト」
そう言ってミコトの額にキスをする。唇に触れた額はあたたかく、生きている人間のぬくもりを感じる。相変わらず反応はないが。
無気力症になったミコトは、放っておくとずっとひとところに留まり本当に何もしない。ただ息をするだけのミコトを見た俺は腹を括った。いつまでこの症状が続くかわからないし俺自身も無気力症になる可能性があるが、それでも俺が動けるうちは彼女の面倒を見ると決めた。
「休学することにしたんだ。ミコトが元に戻るまでずっと一緒だ。だから……ミコト、寂しくなんかないから」
返事なんか期待してない。きっと彼女は何も言わない。それでもミコトには話しかけるようにしていた。いつか俺の声が届くかもしれないから。
俯いていたミコトがほんの少し顔を上げた。思わず顔を覗き込むと、彼女の口元がちょっとだけ笑顔の形に変わった気がした。俺の願望が見せた幻かもしれない。けれど、だとしても嬉しかった。俺はミコトを抱きしめていた。さらさらの髪とあたたかく柔らかい体、ミコトは人形なんかじゃない、死んでなんかない。きっと、きっといつか元に戻ってくれるはずだ。根拠はないが、そう信じていた。