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悪魔の花嫁
『先日ナホビノ様より花嫁様が無事見つかったとの声明がありました。お二人は来年春頃ご結婚予定とのことです』
ある春の朝、月森家のリビングに朝のニュースが流れた。朝食を食べながらミコトはぼんやりテレビを眺めていた。
数多の人々が暮らす都市東京、日本の首都はこの世に「悪魔」が存在することを知っている。日本国内閣総理大臣越水ハヤオが天津神ツクヨミであることは有名な話であり、彼のように人間界に溶け込む悪魔がいることを誰もが知っていた。人間界に舞い降りた悪魔たちは時折人間の中から「花嫁」を選ぶことがある、ということもまた周知の事実であった。
数ある悪魔の中でもナホビノは古来の神の力を正しく受け継ぎ強い霊力を持つ家系で、悪魔のみならず人間に対しても強大な権力を持つ。ナホビノなら花嫁が見つかっただけでニュースになるんだ、と思いながらミコトはもぐもぐと口を動かしていた。
「本当に悪魔の花嫁さんに選ばれる人がいるのねえ。ナホビノ様の花嫁さんなんて大変そうねえ」
しみじみとした母の言葉に、
「そうだねー。悪魔の花嫁かぁ、私の周りにはいないなー」
ミコトもあっさりと返した。
ナホビノのニュースはほんの数秒で終わり、次のニュースに移る。テレビ画面の隅に表示された時刻を見、ミコトは慌てて立ち上がった。学生カバンを肩にかける。
「やっば、遅刻する!行ってきます!」
「行ってらっしゃい、気をつけるのよ」
母親の声を背に駆け抜ける街は、心地よい春の空気に満ちていた。
「ふー、セーフセーフ。間に合った〜」
ミコトは月光館学園二年F組の教室に滑り込んだ。息を切らせて席についた瞬間、担任が教室に入ってきた。
「はーい、みんなおはよう。今日から新学年ねー、気を引き締めるのよー。それで、今日は転入生がいまーす。はい、自己紹介してー」
担任が入り口に目を向けると、入り口に待機していた男子生徒が教壇までやってくる。青い髪で右目を隠した少年だった。整った顔立ちをしており背が高く、教室内、特に女子たちの中でざわめきが起こっていた。
「結城理です。よろしく」
彼は教室を一瞥し、気のない一言を投げかけた。ミコトが何ともなしに彼を見つめていると理と目が合い、じっと凝視される。睨まれていると感じるほど視線が刺さり、ミコトが不思議に思っていると、
「えーっと結城の席は……」
「ここが空いてる」
理は担任の言葉を丸っきり無視して歩き、ミコトの隣の席に座った。空席ではあるが、該当生徒が体調不良でたまたま欠席しているだけである。担任が困った様子で頬をかいた。
「そこは空いてる席じゃ」
「空いてる」
食い気味で担任の言葉を否定した理は深く椅子に腰掛け、てこでも動かない強い意思を感じさせた。担任が深いため息をつき、諦めた顔でホームルームを始める。なんだか変わった人が来たなあ、とミコトが隣に座る理に目をやると、
「よろしく」
ミコトにしか聞こえない声で彼は囁いた。
高校二年生の初日は朝こそ衝撃的な出会いがあったものの、それ以降はごく普通に授業を受け過ぎていった。そうして迎えた放課後、ミコトが大きく背伸びをしていると隣の席から手が伸び、指先でトントンと机を叩かれた。思わず手が伸びてきた方に目を向けると、あの転入生が青い目でミコトを見つめていた。
「月森、ちょっと二人で話したいことがあるんだけど。人が来ない静かなところ、知らない?」
「えっ?」
突然の提案にミコトは硬直した。出会ったばかりの転入生がいきなり二人きりをご所望?そういえば自己紹介のときにじっと見つめられたが……ミコトはめまぐるしく脳を回転させつつも、
「えっと……じゃあ屋上とかどうかな?」
と無難な案を出し、承諾した彼を連れて屋上へ向かう。新年度を迎えたばかりの月光館学園は新鮮な空気に溢れ、廊下を歩く二人に気怠くも明るい雰囲気が纏わり付く。ふと校舎の外に目をやると、満開の桜が薄桃色の花びらを散らして春の穏やかさを醸し出していた。ミコトが緊張のあまりややぎこちなく歩く中、理はポケットに両手を突っ込んだまま、ただ前方だけを見つめて歩いていた。
――話ってなんだろうな……。
そう思いながらミコトは屋上の扉を開けた。景色のいい屋上には幸いにも誰もいなかった。ぽつぽつと点在する円形のベンチに彼を案内し、二人で腰掛けた。
「結城くん……だったよね。話って何?」
「一目見てわかった、君が俺の花嫁だ。今日から俺と暮らそう」
彼が口にしたのは日本語、難なく理解できる内容のはずだったが、
「え?」
ミコトは思わず聞き返してしまった。何度も瞬きをして理を見つめ返してしまう。彼はきょとんとした顔でかすかに首を傾げた。
「ん?聞こえなかった?」
「あ、いや!聞こえた!聞こえたんだけど、花嫁……って……」
花嫁と聞くと朝のニュースを思い出す。ミコトはまじまじと理を観察した。彼はどこからどう見ても人間にしか見えないが、
「結城くんって悪魔なの?」
反射的に尋ねたミコトに理はこくりと頷いた。
「俺は悪魔オルフェウス。ずっと花嫁を探してた。引っ越してきて正解だった、君が俺の花嫁だ。間違いない」
「は、はぁ……」
理の言葉は春の屋上に鋭く響いた。対するミコトはただ困惑するばかりである。悪魔とか花嫁とか、自分には無縁だと思っていたのに。
「おかしいな、花嫁側も番の悪魔と出会ったらなんとなくわかるらしいけど……月森、何か俺に感じることはない?」
隣に座っていた理が身を乗り出し、ミコトと距離を詰めてくる。整った容貌と美しい青空の瞳が迫り、ミコトは思わずのけ反った。理は無表情に近いものの、妙な目力があった。
「感じることと言われても……そもそも結城くん、悪魔に見えないし」
「内閣総理大臣だって人間の形してるけど悪魔だろ?それと同じ」
「そ、そっか……」
日本国内閣総理大臣越水ハヤオは神の一柱、つまりは悪魔であるが、理と同じくどう見ても人間にしか見えない。人間に擬態する悪魔がこんなに近くにいるとは思わなかった。
「月森、俺と一緒に暮らそう。悪魔が襲ってきても俺が守るから」
「ええ!?ちょ、ちょっと急すぎるし花嫁になるなんて一言も言ってないんですけど」
「そう……じゃあ」
理はどこからともなく竪琴を取り出し、戯れに爪弾いてみせた。そよ風に美しい音が響き、春の陽光を浴びた青い髪が繊細に揺れる。
「弾き語りでもしようか。俺の愛が伝わるように」
「待ってって!結城くんの言いたいことはわかったから!わかったから時間を!考える時間をちょうだいって!」
必死にかぶりを振ると、理は眉をぴくりと動かし唇を尖らせた。
結局どうしても家まで送ると言って聞かない理に家まで送ってもらい、その日は別れた。ミコトは普段どおり自宅で過ごし床についたわけだが、その間ずっと理の言葉がこびり付いて離れなかった。
――一目見てわかった、君が俺の花嫁だ。今日から俺と暮らそう。
ミコトは一般的な女子高校生、青春真っ只中で結婚など考えたこともなかったし、法律上も結婚できない年齢だ。彼氏もいないのに、突然大人の階段を壊す勢いで駆け上ってくる理には困惑の一言である。
――ちょっと大変な人と同じクラスになっちゃったかも。
そんな風に思いながら高校二年生の初日が終わり、ミコトは次の日の朝を迎えた。いつもどおり登校し教室に向かうと、隣の席に結城理が座っていた。何か言われるかと身構えていたが、クラスメイトらしく「おはよう」と挨拶を交わしたのみでホッとしていた。
放課後、一緒に遊びに行こうと約束していた伊織順平がミコトの前にやってきた。
「よおミコトッチ、ゲーセン行こうぜ!」
「あ、うん」
今日は二人で新しく入荷されたアーケードゲームを堪能しようと決めていた。ミコトは席を立ち順平と歩いていく。ミコトの背中に理の視線が突き刺さっていたが、当の本人は気付いていなかった。
順平と新作アーケードゲームをああだこうだ言いながらたっぷり楽しみ、お腹が空いたということでファストフード店に落ち着いた。席についた瞬間、順平が興味津々といった様子でミコトに尋ねた。
「そういえば、昨日転入生になんか声かけられて二人でどっか行ってたよな!告白でもされたか?」
「え?あ、あー、えーと……私が花嫁とか何とか言われた」
「花嫁ェ!?」
軽い調子だった順平は目を剥いて身を乗り出し、素っ頓狂な大声を上げた。ミコトが「しー!」と嗜めると、慌てた順平は声をひそめた。
「えっ、花嫁ってアレだろ?悪魔が花嫁を選ぶっていう、アレ?」
「そう、それ」
「えー、告白どころの話じゃねーじゃん!というか転入生、悪魔だったんだな。全然わかんなかった」
「いやもう、ほんと……」
順平も同様に驚いてくれて少し安心した。順平は視線をぶらぶらと宙に漂わせ、口を開いた。
「そういやぁミコトッチ、知ってるか?転入生のファンクラブができたらしいのよ」
「ファンクラブ?」
「そうそう。惚れ込んだ女子何人かが集まってファンクラブ結成!ってなったらしくてさ。羨ましいよなー、そういうの。オレっちにもファンクラブできたりしない?」
「順平くんはそういうタイプじゃないでしょ」
ミコトは結城理を思い浮かべた。片目を隠したミステリアスな見た目、転入生という話題性、端正な面立ちやスタイルの良さも相まってファンクラブができるのも納得ではあった。転入二日目で結成されている速さには驚きだが。
「えー、バッサリ言い過ぎだって!オレのこと気になってる内気なカノジョとか、どっかにいるだろ!」
へそを曲げる順平を尻目にミコトはポテトを一口。実は悪魔の転入生といい、その彼に花嫁に選ばれるといい、なかなか刺激的な春がやってきたなあとポテトの塩辛さを噛み締めた。
高校二年生の春、三日目の昼休み。購買部で買ったパンを食べるかとミコトがカバンに手を突っ込んだとき、ミコトの机の前に誰かが立った。ふと顔を上げると、冷たい目で理がミコトを見下ろしていた。
「月森、今日一緒にお昼食べない?天気がいいし、屋上で」
「え?あ、うん、いいけど」
特に断る理由もなく彼の後をついていく。昼休みの屋上は眠気を誘う心地よさで、二人の他にも何人か生徒がいた。理は目立たない隅のベンチにミコトを誘い、二人で腰掛けた。
「月森、昨日放課後一緒にいたのは誰?」
座った瞬間理のやや刺々しい声が刺さり、ミコトは身を竦めた。じっとりと追及する青い眼差しに見つめられ、ミコトは何かいけないことでもしたかと怖くなった。
「え、順平くんのこと?」
「ふーん、あいつ順平っていうんだ。で、そいつとはどういう関係なわけ」
「友達だよ」
「ふーん……友達……」
理は焼きそばパンを取り出し、乱暴な手付きでビニールを剥いでいた。豪快に焼きそばパンを頬張った彼は口を動かしながら責めるような目でミコトを見つめていた。ごくんとパンを飲み込んだ彼が口を開く。
「月森、じゃあ今日……というか今日から毎日、放課後俺と一緒に過ごそう」
「え?毎日?なんで?」
「君はどうも俺の花嫁っていう実感がないみたいだし、俺のことを知って好きになってほしいから」
「……」
じっとミコトを見据える理の瞳は真剣そのもので、冗談やからかいの意図はひとかけらも見当たらなかった。
「私にも予定があるから毎日は無理だけど、一緒に帰ったり遊んだりするのはいいよ」
そう答えると、理は拳を握り控えめなガッツポーズを見せた。
理に「放課後一緒に過ごそう」と言われてからというもの、彼は宣言どおり毎日ホームルームが終わった瞬間ミコトのもとに来るようになった。何なら昼休みも一緒にご飯を食べようと誘われることもある。予定があり断った際には無表情ながらも彼の眉尻が下がる瞬間を目撃することになり、その度にミコトは少しばかり後ろめたい気持ちになるものだった。
転入生だった結城理が学園に馴染み始めた五月頃、ミコトがいつもどおり昼休みの教室でパンを食べようとしていたところ、
「月森さん」
ミコトの机を取り囲むように女子が数人やってきた。特に友人でもない、名前を知っている程度の女子たちだった。彼女らのミコトを見下ろす眼差しは一様に鋭く、異様な空気を纏っていた。
「今日は私たちとご一緒してくれないかしら」
「聞きたいことがあるの」
「え?聞きたいことがあるならここでいいよね。何?」
パンを食べながら尋ねると、女子らははぁー、と深いため息をついた。女子たちの一人に腕を掴まれ、ミコトは無理矢理立たされた。
「いいからこっちに来て!ほら!」
語気強く言われ腕を引っ張られ、ミコトは屋上に連れていかれた。屋上に着いた途端ミコトは塔屋に背中を押し付けられ、女子数人に詰め寄られる事態となった。女子たちは皆恨みがましい目を向けており、事情がわからないミコトは目が点になりながらもお腹空いたなあ、と間抜けなことを考えていた。
「ねえ月森さん、あなた最近ずっと結城くんと一緒にいるわね。まさかとは思うけど、結城くんとお付き合いしてるの?」
腕を組んだボス格の女子から凄まれた。嘘をつく必要もないミコトは正直に答える。
「付き合ってなんかないけど」
「じゃあどうして毎日毎日結城くんと一緒にいるの!あなたも結城くんが好きなんじゃないでしょうね!」
「結城くんを好きになる気持ちもわかるわ。でもだからこそ、皆で結城くんを見守るべきなのよ!抜け駆けは許さないわ!」
よくわからない言い分を聞きつつ、もしや順平が言っていた理のファンクラブとはこれか?とミコトは思い浮かべていた。どう答えたものかと考えていると、女子の一人にどんと肩を叩かれた。
「ねえ、聞いてるの!」
肩に痛みが走り屋上に剣呑な空気が漂い始めたとき、
「月森に何やってるの。離れてくれない?」
沈黙を切り裂く理の声が聞こえた。全員が声のした方を振り返る。そこにはポケットに両手を突っ込んだ理がいた。気怠げではあるものの、前髪から覗く左目は鋭い眼光を放っていた。
「結城くん!私たちは月森さんに聞きたいことがあってお話していただけなの」
先ほどより一オクターブほど高い声でボス格の女子が言い、他数名もこくこくと頷く。理は首を傾げ、呆れた様子で息をついた。
「話をするならこんな大勢で詰める必要ないだろ。とりあえず邪魔だからどっか行ってくれる?俺は月森と話したい」
理の声は低く、女子たちが怯むほどの威圧感を漂わせていた。女子たちは何か察するところがあったのか、理に笑顔を振り撒きながら去っていった。ミコトが呆然としていると理が目の前に立ち、ミコトの顔のすぐ隣に手をついた。彼の青い髪が顔に触れそうな距離で見下ろされ、彼の青い瞳に自身が映り込んでいるのが見えた。
「大丈夫?なんか変なことされなかった?」
「う、うん、大丈夫……ちょっと肩を叩かれたくらい」
「そう」
理はミコトの肩に手をかざした。その瞬間淡い光が全身を巡り、叩かれた肩の痛みがスッと引いていった。
「癒しの魔法をかけたからもう大丈夫だと思うけど、万一また痛くなったら言って。もう一回魔法をかけるから」
「あ、ありがとう」
礼を伝えると彼はようやく口元を綻ばせたが、すぐにやや鋭い口調で尋ねた。
「さっきの奴ら、なに?なんか変な雰囲気だったけど」
「多分結城くんのファンクラブの人たちだと思うの。私と結城くんが一緒にいるのが面白くないみたい。抜け駆けは許さないとか言ってたし」
「ファンクラブ?」
「うん。結城くんを好きな子たちがファンクラブを作ったらしいよ」
「へぇ……花嫁が悪魔に狙われるっていうのは聞いたことがあるけど、人間から嫌がらせされることもあるんだな」
理は独りごつとふと視線を空に移し、再度ミコトを見据えた。何やら決意を感じる強い眼差しだった。
「これからは君のそばを離れない。君は俺が守る」
壁を背にし間近で見つめられながらの言葉に、ミコトの心臓がとくんと小さく音を立てた気がした。
屋上の一件があって以降、理は片時もミコトのそばを離れなくなった。昼休みも放課後も彼と過ごし、二年F組の生徒たちの間でほんのりと噂が流れているのも察していたが、ミコトは彼を拒否することなく過ごしていた。ミコト自身、理を見ていると少し変な感情が湧いてくるのを感じる。ミコトは胸に手を当てながら、心の奥底に滲み始めた感情が何なのか考えるようになった。
「月森、どうした?具合でも悪い?」
放課後二人で立ち寄った喫茶店、対面にいる彼に呼ばれミコトはハッと我に返った。焦点が合っていなかった視界に理の青い髪が鮮やかで、ミコトは少し目を逸らした。彼を見つめていると頬が熱くなる。
「ちょっとぼーっとしてただけ」
「そう、ならいいんだけど。そろそろ出ようか?」
「うん」
二人ともコーヒーを飲み終わったところ、そろそろ退店のタイミングだ。二人が喫茶店を出ると、甲高い悲鳴が聞こえた。何事かと辺りを見回すと、緑色の巨大な軟体生物が複数体街を闊歩し、道ゆく通行人に襲いかかっていた。悪魔スライム。低位の悪魔であるが、人間にとっては群れをなす脅威である。事実都会の一角に現れたスライムたちに立ち向かえる者はおらず、逃げ惑う人々の悲痛な声が響き渡っていた。
「マガツヒ、ヨコセ!」
立ち竦んでいたミコトに向かってスライム二体が飛びかかってくる。硬直する彼女の前に理が立ちはだかり、右手をスライムに突き出した。
「マハラギオン」
理が聞き慣れない単語を呟いた瞬間、熱風が吹き赤い炎がスライムたちを焼き払った。この一角を混乱に陥れた邪悪なものたちは灰燼に帰したが、ミコトは気が抜けてその場に座り込んでしまった。炎の名残の熱い空気を纏いながら理は振り返り、
「大丈夫?立てる?」
そっと手を差し伸べてくれた。その手を握りゆっくり立ち上がったがまだ完全に力が入らず、ふらりとよろめく。よろめいたミコトを理は抱き止めてくれた。思わず理に目を向けると、彼は青い瞳で真っ直ぐ見つめ返してくれる。
「ありがとう、結城くん」
「花嫁を守るなんて当然だけど、お礼を言われると嬉しいな」
彼に抱きしめられ穏やかな体温に包まれていると心臓の鼓動が速くなる。彼の腕の中から解放されてもまだぬくもりが残っている気がした。理は腑抜けたミコトに力強く宣言した。
「まだ悪魔がいるかもしれない。家まで送る」
「あ、うん……ありがとう」
背を向け歩き出す彼にミコトは手を伸ばし、腕を掴んだ。
「手、繋いじゃダメ?」
口から零れた本音に理は一瞬目を丸くしたが、ミコトの掌に掌を合わせぎゅっと指を絡めた。
「いいよ。こんな感じ?」
「うん」
都会の中を二人で歩き、やがて閑静な住宅街に辿り着く。人の気配が少なくなってきた頃、ミコトはぴたりと立ち止まった。理もつられて立ち止まり、ミコトを不思議そうに見つめていた。
「結城くん。あの……ファンクラブの人たちから助けてくれたり、悪魔から守ってくれたり……ありがとう」
「ん?急になに?」
隣にいる彼の青い瞳を見つめ返す。少し首を傾げた理の前髪が揺れ、隙間から右目が覗く。彼の純粋な疑問に満ちた眼差しを感じた。
「……花嫁とか、そういうのはよくわからないけど……私、結城くんのことを好きになっちゃったみたい」
橙色を纏い始めた空にミコトの呟きが響いた。理の端正な顔に柔らかな微笑みが咲く。
「だから、その……私と付き合ってほしいな、って」
続きの言葉を口にした途端、理に真正面から抱きしめられていた。彼の胸に顔が埋まり、背中を強く抱きしめられる。
「やっと俺を選んでくれた?嬉しい。すごく嬉しい。ああもう、今日から俺の家で暮らそう」
「だ、だから一緒に暮らすとかは早いって!まだ結婚とかそういう感じじゃないから!」
「えぇ」
理の不機嫌そうな声を初めて聞いた気がする。理の頬はうっすら赤く、青い髪との対比で目立つ。悪魔も顔色とか変わるんだとどこか間抜けな感想を抱きつつ、ミコトはくすっと笑った。
「付き合うって要は恋人同士ってことだろ?じゃあ一緒に暮らしても何も変じゃないはずだけど……あぁそうか、人間は『結婚』の前に『親への挨拶』とかいう儀式が必要とも聞いたことあるし、じゃあ今日これから挨拶する?月森の家に送っていくからちょうどいいか」
「あああ!だから!早いって!そういうのは段階を踏むものなの!」
早口でまくし立てる理を嗜めると、彼は納得していなさそうなため息をついた。綺麗な唇が少し尖っている。ミコトがぽんぽんと彼の背中を叩くと、理は苦笑いを見せた。
「俺、人間の常識とか結構理解してたつもりだけど、まだわかってないことがある?この際だから色々教えてほしい」
「やっぱり結城くんって悪魔なんだなあ」
二人は顔を見合わせ笑いながら、手を繋いで歩き始めた。ミコトの家まで徒歩数分、その数分が永遠に続けばいいのにとミコトは名残惜しかった。
『先日ナホビノ様より花嫁様が無事見つかったとの声明がありました。お二人は来年春頃ご結婚予定とのことです』
ある春の朝、月森家のリビングに朝のニュースが流れた。朝食を食べながらミコトはぼんやりテレビを眺めていた。
数多の人々が暮らす都市東京、日本の首都はこの世に「悪魔」が存在することを知っている。日本国内閣総理大臣越水ハヤオが天津神ツクヨミであることは有名な話であり、彼のように人間界に溶け込む悪魔がいることを誰もが知っていた。人間界に舞い降りた悪魔たちは時折人間の中から「花嫁」を選ぶことがある、ということもまた周知の事実であった。
数ある悪魔の中でもナホビノは古来の神の力を正しく受け継ぎ強い霊力を持つ家系で、悪魔のみならず人間に対しても強大な権力を持つ。ナホビノなら花嫁が見つかっただけでニュースになるんだ、と思いながらミコトはもぐもぐと口を動かしていた。
「本当に悪魔の花嫁さんに選ばれる人がいるのねえ。ナホビノ様の花嫁さんなんて大変そうねえ」
しみじみとした母の言葉に、
「そうだねー。悪魔の花嫁かぁ、私の周りにはいないなー」
ミコトもあっさりと返した。
ナホビノのニュースはほんの数秒で終わり、次のニュースに移る。テレビ画面の隅に表示された時刻を見、ミコトは慌てて立ち上がった。学生カバンを肩にかける。
「やっば、遅刻する!行ってきます!」
「行ってらっしゃい、気をつけるのよ」
母親の声を背に駆け抜ける街は、心地よい春の空気に満ちていた。
「ふー、セーフセーフ。間に合った〜」
ミコトは月光館学園二年F組の教室に滑り込んだ。息を切らせて席についた瞬間、担任が教室に入ってきた。
「はーい、みんなおはよう。今日から新学年ねー、気を引き締めるのよー。それで、今日は転入生がいまーす。はい、自己紹介してー」
担任が入り口に目を向けると、入り口に待機していた男子生徒が教壇までやってくる。青い髪で右目を隠した少年だった。整った顔立ちをしており背が高く、教室内、特に女子たちの中でざわめきが起こっていた。
「結城理です。よろしく」
彼は教室を一瞥し、気のない一言を投げかけた。ミコトが何ともなしに彼を見つめていると理と目が合い、じっと凝視される。睨まれていると感じるほど視線が刺さり、ミコトが不思議に思っていると、
「えーっと結城の席は……」
「ここが空いてる」
理は担任の言葉を丸っきり無視して歩き、ミコトの隣の席に座った。空席ではあるが、該当生徒が体調不良でたまたま欠席しているだけである。担任が困った様子で頬をかいた。
「そこは空いてる席じゃ」
「空いてる」
食い気味で担任の言葉を否定した理は深く椅子に腰掛け、てこでも動かない強い意思を感じさせた。担任が深いため息をつき、諦めた顔でホームルームを始める。なんだか変わった人が来たなあ、とミコトが隣に座る理に目をやると、
「よろしく」
ミコトにしか聞こえない声で彼は囁いた。
高校二年生の初日は朝こそ衝撃的な出会いがあったものの、それ以降はごく普通に授業を受け過ぎていった。そうして迎えた放課後、ミコトが大きく背伸びをしていると隣の席から手が伸び、指先でトントンと机を叩かれた。思わず手が伸びてきた方に目を向けると、あの転入生が青い目でミコトを見つめていた。
「月森、ちょっと二人で話したいことがあるんだけど。人が来ない静かなところ、知らない?」
「えっ?」
突然の提案にミコトは硬直した。出会ったばかりの転入生がいきなり二人きりをご所望?そういえば自己紹介のときにじっと見つめられたが……ミコトはめまぐるしく脳を回転させつつも、
「えっと……じゃあ屋上とかどうかな?」
と無難な案を出し、承諾した彼を連れて屋上へ向かう。新年度を迎えたばかりの月光館学園は新鮮な空気に溢れ、廊下を歩く二人に気怠くも明るい雰囲気が纏わり付く。ふと校舎の外に目をやると、満開の桜が薄桃色の花びらを散らして春の穏やかさを醸し出していた。ミコトが緊張のあまりややぎこちなく歩く中、理はポケットに両手を突っ込んだまま、ただ前方だけを見つめて歩いていた。
――話ってなんだろうな……。
そう思いながらミコトは屋上の扉を開けた。景色のいい屋上には幸いにも誰もいなかった。ぽつぽつと点在する円形のベンチに彼を案内し、二人で腰掛けた。
「結城くん……だったよね。話って何?」
「一目見てわかった、君が俺の花嫁だ。今日から俺と暮らそう」
彼が口にしたのは日本語、難なく理解できる内容のはずだったが、
「え?」
ミコトは思わず聞き返してしまった。何度も瞬きをして理を見つめ返してしまう。彼はきょとんとした顔でかすかに首を傾げた。
「ん?聞こえなかった?」
「あ、いや!聞こえた!聞こえたんだけど、花嫁……って……」
花嫁と聞くと朝のニュースを思い出す。ミコトはまじまじと理を観察した。彼はどこからどう見ても人間にしか見えないが、
「結城くんって悪魔なの?」
反射的に尋ねたミコトに理はこくりと頷いた。
「俺は悪魔オルフェウス。ずっと花嫁を探してた。引っ越してきて正解だった、君が俺の花嫁だ。間違いない」
「は、はぁ……」
理の言葉は春の屋上に鋭く響いた。対するミコトはただ困惑するばかりである。悪魔とか花嫁とか、自分には無縁だと思っていたのに。
「おかしいな、花嫁側も番の悪魔と出会ったらなんとなくわかるらしいけど……月森、何か俺に感じることはない?」
隣に座っていた理が身を乗り出し、ミコトと距離を詰めてくる。整った容貌と美しい青空の瞳が迫り、ミコトは思わずのけ反った。理は無表情に近いものの、妙な目力があった。
「感じることと言われても……そもそも結城くん、悪魔に見えないし」
「内閣総理大臣だって人間の形してるけど悪魔だろ?それと同じ」
「そ、そっか……」
日本国内閣総理大臣越水ハヤオは神の一柱、つまりは悪魔であるが、理と同じくどう見ても人間にしか見えない。人間に擬態する悪魔がこんなに近くにいるとは思わなかった。
「月森、俺と一緒に暮らそう。悪魔が襲ってきても俺が守るから」
「ええ!?ちょ、ちょっと急すぎるし花嫁になるなんて一言も言ってないんですけど」
「そう……じゃあ」
理はどこからともなく竪琴を取り出し、戯れに爪弾いてみせた。そよ風に美しい音が響き、春の陽光を浴びた青い髪が繊細に揺れる。
「弾き語りでもしようか。俺の愛が伝わるように」
「待ってって!結城くんの言いたいことはわかったから!わかったから時間を!考える時間をちょうだいって!」
必死にかぶりを振ると、理は眉をぴくりと動かし唇を尖らせた。
結局どうしても家まで送ると言って聞かない理に家まで送ってもらい、その日は別れた。ミコトは普段どおり自宅で過ごし床についたわけだが、その間ずっと理の言葉がこびり付いて離れなかった。
――一目見てわかった、君が俺の花嫁だ。今日から俺と暮らそう。
ミコトは一般的な女子高校生、青春真っ只中で結婚など考えたこともなかったし、法律上も結婚できない年齢だ。彼氏もいないのに、突然大人の階段を壊す勢いで駆け上ってくる理には困惑の一言である。
――ちょっと大変な人と同じクラスになっちゃったかも。
そんな風に思いながら高校二年生の初日が終わり、ミコトは次の日の朝を迎えた。いつもどおり登校し教室に向かうと、隣の席に結城理が座っていた。何か言われるかと身構えていたが、クラスメイトらしく「おはよう」と挨拶を交わしたのみでホッとしていた。
放課後、一緒に遊びに行こうと約束していた伊織順平がミコトの前にやってきた。
「よおミコトッチ、ゲーセン行こうぜ!」
「あ、うん」
今日は二人で新しく入荷されたアーケードゲームを堪能しようと決めていた。ミコトは席を立ち順平と歩いていく。ミコトの背中に理の視線が突き刺さっていたが、当の本人は気付いていなかった。
順平と新作アーケードゲームをああだこうだ言いながらたっぷり楽しみ、お腹が空いたということでファストフード店に落ち着いた。席についた瞬間、順平が興味津々といった様子でミコトに尋ねた。
「そういえば、昨日転入生になんか声かけられて二人でどっか行ってたよな!告白でもされたか?」
「え?あ、あー、えーと……私が花嫁とか何とか言われた」
「花嫁ェ!?」
軽い調子だった順平は目を剥いて身を乗り出し、素っ頓狂な大声を上げた。ミコトが「しー!」と嗜めると、慌てた順平は声をひそめた。
「えっ、花嫁ってアレだろ?悪魔が花嫁を選ぶっていう、アレ?」
「そう、それ」
「えー、告白どころの話じゃねーじゃん!というか転入生、悪魔だったんだな。全然わかんなかった」
「いやもう、ほんと……」
順平も同様に驚いてくれて少し安心した。順平は視線をぶらぶらと宙に漂わせ、口を開いた。
「そういやぁミコトッチ、知ってるか?転入生のファンクラブができたらしいのよ」
「ファンクラブ?」
「そうそう。惚れ込んだ女子何人かが集まってファンクラブ結成!ってなったらしくてさ。羨ましいよなー、そういうの。オレっちにもファンクラブできたりしない?」
「順平くんはそういうタイプじゃないでしょ」
ミコトは結城理を思い浮かべた。片目を隠したミステリアスな見た目、転入生という話題性、端正な面立ちやスタイルの良さも相まってファンクラブができるのも納得ではあった。転入二日目で結成されている速さには驚きだが。
「えー、バッサリ言い過ぎだって!オレのこと気になってる内気なカノジョとか、どっかにいるだろ!」
へそを曲げる順平を尻目にミコトはポテトを一口。実は悪魔の転入生といい、その彼に花嫁に選ばれるといい、なかなか刺激的な春がやってきたなあとポテトの塩辛さを噛み締めた。
高校二年生の春、三日目の昼休み。購買部で買ったパンを食べるかとミコトがカバンに手を突っ込んだとき、ミコトの机の前に誰かが立った。ふと顔を上げると、冷たい目で理がミコトを見下ろしていた。
「月森、今日一緒にお昼食べない?天気がいいし、屋上で」
「え?あ、うん、いいけど」
特に断る理由もなく彼の後をついていく。昼休みの屋上は眠気を誘う心地よさで、二人の他にも何人か生徒がいた。理は目立たない隅のベンチにミコトを誘い、二人で腰掛けた。
「月森、昨日放課後一緒にいたのは誰?」
座った瞬間理のやや刺々しい声が刺さり、ミコトは身を竦めた。じっとりと追及する青い眼差しに見つめられ、ミコトは何かいけないことでもしたかと怖くなった。
「え、順平くんのこと?」
「ふーん、あいつ順平っていうんだ。で、そいつとはどういう関係なわけ」
「友達だよ」
「ふーん……友達……」
理は焼きそばパンを取り出し、乱暴な手付きでビニールを剥いでいた。豪快に焼きそばパンを頬張った彼は口を動かしながら責めるような目でミコトを見つめていた。ごくんとパンを飲み込んだ彼が口を開く。
「月森、じゃあ今日……というか今日から毎日、放課後俺と一緒に過ごそう」
「え?毎日?なんで?」
「君はどうも俺の花嫁っていう実感がないみたいだし、俺のことを知って好きになってほしいから」
「……」
じっとミコトを見据える理の瞳は真剣そのもので、冗談やからかいの意図はひとかけらも見当たらなかった。
「私にも予定があるから毎日は無理だけど、一緒に帰ったり遊んだりするのはいいよ」
そう答えると、理は拳を握り控えめなガッツポーズを見せた。
理に「放課後一緒に過ごそう」と言われてからというもの、彼は宣言どおり毎日ホームルームが終わった瞬間ミコトのもとに来るようになった。何なら昼休みも一緒にご飯を食べようと誘われることもある。予定があり断った際には無表情ながらも彼の眉尻が下がる瞬間を目撃することになり、その度にミコトは少しばかり後ろめたい気持ちになるものだった。
転入生だった結城理が学園に馴染み始めた五月頃、ミコトがいつもどおり昼休みの教室でパンを食べようとしていたところ、
「月森さん」
ミコトの机を取り囲むように女子が数人やってきた。特に友人でもない、名前を知っている程度の女子たちだった。彼女らのミコトを見下ろす眼差しは一様に鋭く、異様な空気を纏っていた。
「今日は私たちとご一緒してくれないかしら」
「聞きたいことがあるの」
「え?聞きたいことがあるならここでいいよね。何?」
パンを食べながら尋ねると、女子らははぁー、と深いため息をついた。女子たちの一人に腕を掴まれ、ミコトは無理矢理立たされた。
「いいからこっちに来て!ほら!」
語気強く言われ腕を引っ張られ、ミコトは屋上に連れていかれた。屋上に着いた途端ミコトは塔屋に背中を押し付けられ、女子数人に詰め寄られる事態となった。女子たちは皆恨みがましい目を向けており、事情がわからないミコトは目が点になりながらもお腹空いたなあ、と間抜けなことを考えていた。
「ねえ月森さん、あなた最近ずっと結城くんと一緒にいるわね。まさかとは思うけど、結城くんとお付き合いしてるの?」
腕を組んだボス格の女子から凄まれた。嘘をつく必要もないミコトは正直に答える。
「付き合ってなんかないけど」
「じゃあどうして毎日毎日結城くんと一緒にいるの!あなたも結城くんが好きなんじゃないでしょうね!」
「結城くんを好きになる気持ちもわかるわ。でもだからこそ、皆で結城くんを見守るべきなのよ!抜け駆けは許さないわ!」
よくわからない言い分を聞きつつ、もしや順平が言っていた理のファンクラブとはこれか?とミコトは思い浮かべていた。どう答えたものかと考えていると、女子の一人にどんと肩を叩かれた。
「ねえ、聞いてるの!」
肩に痛みが走り屋上に剣呑な空気が漂い始めたとき、
「月森に何やってるの。離れてくれない?」
沈黙を切り裂く理の声が聞こえた。全員が声のした方を振り返る。そこにはポケットに両手を突っ込んだ理がいた。気怠げではあるものの、前髪から覗く左目は鋭い眼光を放っていた。
「結城くん!私たちは月森さんに聞きたいことがあってお話していただけなの」
先ほどより一オクターブほど高い声でボス格の女子が言い、他数名もこくこくと頷く。理は首を傾げ、呆れた様子で息をついた。
「話をするならこんな大勢で詰める必要ないだろ。とりあえず邪魔だからどっか行ってくれる?俺は月森と話したい」
理の声は低く、女子たちが怯むほどの威圧感を漂わせていた。女子たちは何か察するところがあったのか、理に笑顔を振り撒きながら去っていった。ミコトが呆然としていると理が目の前に立ち、ミコトの顔のすぐ隣に手をついた。彼の青い髪が顔に触れそうな距離で見下ろされ、彼の青い瞳に自身が映り込んでいるのが見えた。
「大丈夫?なんか変なことされなかった?」
「う、うん、大丈夫……ちょっと肩を叩かれたくらい」
「そう」
理はミコトの肩に手をかざした。その瞬間淡い光が全身を巡り、叩かれた肩の痛みがスッと引いていった。
「癒しの魔法をかけたからもう大丈夫だと思うけど、万一また痛くなったら言って。もう一回魔法をかけるから」
「あ、ありがとう」
礼を伝えると彼はようやく口元を綻ばせたが、すぐにやや鋭い口調で尋ねた。
「さっきの奴ら、なに?なんか変な雰囲気だったけど」
「多分結城くんのファンクラブの人たちだと思うの。私と結城くんが一緒にいるのが面白くないみたい。抜け駆けは許さないとか言ってたし」
「ファンクラブ?」
「うん。結城くんを好きな子たちがファンクラブを作ったらしいよ」
「へぇ……花嫁が悪魔に狙われるっていうのは聞いたことがあるけど、人間から嫌がらせされることもあるんだな」
理は独りごつとふと視線を空に移し、再度ミコトを見据えた。何やら決意を感じる強い眼差しだった。
「これからは君のそばを離れない。君は俺が守る」
壁を背にし間近で見つめられながらの言葉に、ミコトの心臓がとくんと小さく音を立てた気がした。
屋上の一件があって以降、理は片時もミコトのそばを離れなくなった。昼休みも放課後も彼と過ごし、二年F組の生徒たちの間でほんのりと噂が流れているのも察していたが、ミコトは彼を拒否することなく過ごしていた。ミコト自身、理を見ていると少し変な感情が湧いてくるのを感じる。ミコトは胸に手を当てながら、心の奥底に滲み始めた感情が何なのか考えるようになった。
「月森、どうした?具合でも悪い?」
放課後二人で立ち寄った喫茶店、対面にいる彼に呼ばれミコトはハッと我に返った。焦点が合っていなかった視界に理の青い髪が鮮やかで、ミコトは少し目を逸らした。彼を見つめていると頬が熱くなる。
「ちょっとぼーっとしてただけ」
「そう、ならいいんだけど。そろそろ出ようか?」
「うん」
二人ともコーヒーを飲み終わったところ、そろそろ退店のタイミングだ。二人が喫茶店を出ると、甲高い悲鳴が聞こえた。何事かと辺りを見回すと、緑色の巨大な軟体生物が複数体街を闊歩し、道ゆく通行人に襲いかかっていた。悪魔スライム。低位の悪魔であるが、人間にとっては群れをなす脅威である。事実都会の一角に現れたスライムたちに立ち向かえる者はおらず、逃げ惑う人々の悲痛な声が響き渡っていた。
「マガツヒ、ヨコセ!」
立ち竦んでいたミコトに向かってスライム二体が飛びかかってくる。硬直する彼女の前に理が立ちはだかり、右手をスライムに突き出した。
「マハラギオン」
理が聞き慣れない単語を呟いた瞬間、熱風が吹き赤い炎がスライムたちを焼き払った。この一角を混乱に陥れた邪悪なものたちは灰燼に帰したが、ミコトは気が抜けてその場に座り込んでしまった。炎の名残の熱い空気を纏いながら理は振り返り、
「大丈夫?立てる?」
そっと手を差し伸べてくれた。その手を握りゆっくり立ち上がったがまだ完全に力が入らず、ふらりとよろめく。よろめいたミコトを理は抱き止めてくれた。思わず理に目を向けると、彼は青い瞳で真っ直ぐ見つめ返してくれる。
「ありがとう、結城くん」
「花嫁を守るなんて当然だけど、お礼を言われると嬉しいな」
彼に抱きしめられ穏やかな体温に包まれていると心臓の鼓動が速くなる。彼の腕の中から解放されてもまだぬくもりが残っている気がした。理は腑抜けたミコトに力強く宣言した。
「まだ悪魔がいるかもしれない。家まで送る」
「あ、うん……ありがとう」
背を向け歩き出す彼にミコトは手を伸ばし、腕を掴んだ。
「手、繋いじゃダメ?」
口から零れた本音に理は一瞬目を丸くしたが、ミコトの掌に掌を合わせぎゅっと指を絡めた。
「いいよ。こんな感じ?」
「うん」
都会の中を二人で歩き、やがて閑静な住宅街に辿り着く。人の気配が少なくなってきた頃、ミコトはぴたりと立ち止まった。理もつられて立ち止まり、ミコトを不思議そうに見つめていた。
「結城くん。あの……ファンクラブの人たちから助けてくれたり、悪魔から守ってくれたり……ありがとう」
「ん?急になに?」
隣にいる彼の青い瞳を見つめ返す。少し首を傾げた理の前髪が揺れ、隙間から右目が覗く。彼の純粋な疑問に満ちた眼差しを感じた。
「……花嫁とか、そういうのはよくわからないけど……私、結城くんのことを好きになっちゃったみたい」
橙色を纏い始めた空にミコトの呟きが響いた。理の端正な顔に柔らかな微笑みが咲く。
「だから、その……私と付き合ってほしいな、って」
続きの言葉を口にした途端、理に真正面から抱きしめられていた。彼の胸に顔が埋まり、背中を強く抱きしめられる。
「やっと俺を選んでくれた?嬉しい。すごく嬉しい。ああもう、今日から俺の家で暮らそう」
「だ、だから一緒に暮らすとかは早いって!まだ結婚とかそういう感じじゃないから!」
「えぇ」
理の不機嫌そうな声を初めて聞いた気がする。理の頬はうっすら赤く、青い髪との対比で目立つ。悪魔も顔色とか変わるんだとどこか間抜けな感想を抱きつつ、ミコトはくすっと笑った。
「付き合うって要は恋人同士ってことだろ?じゃあ一緒に暮らしても何も変じゃないはずだけど……あぁそうか、人間は『結婚』の前に『親への挨拶』とかいう儀式が必要とも聞いたことあるし、じゃあ今日これから挨拶する?月森の家に送っていくからちょうどいいか」
「あああ!だから!早いって!そういうのは段階を踏むものなの!」
早口でまくし立てる理を嗜めると、彼は納得していなさそうなため息をついた。綺麗な唇が少し尖っている。ミコトがぽんぽんと彼の背中を叩くと、理は苦笑いを見せた。
「俺、人間の常識とか結構理解してたつもりだけど、まだわかってないことがある?この際だから色々教えてほしい」
「やっぱり結城くんって悪魔なんだなあ」
二人は顔を見合わせ笑いながら、手を繋いで歩き始めた。ミコトの家まで徒歩数分、その数分が永遠に続けばいいのにとミコトは名残惜しかった。