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天使に愛を伝えたい
「すっかり遅くなったな」
結城理が巌戸台駅に辿り着いたのは、深夜十二時を少し過ぎた頃だった。終電に近い時間のためか人の姿はまばらでホームは静けさで満ちていた。
「巖戸台分寮……こっちか」
独りごちつつ駅を出ると、しんとした静寂が肌を刺した。タバコの吸い殻や何かのゴミが落ちているやや汚い駅前、闇色の棺がところどころ置かれている。どこからか怪しい緑色の靄のようなものが満ち、駅前は「緑色の闇」が支配する不気味な空間になっていた。辺りを見回すが理以外誰もおらず、ぽつぽつと思い出したように棺が点在しているのみ。
「なんだ……?」
纏わりつくような違和感の中理は歩き、ようやく巖戸台分寮に辿り着いた。理は思わず立ち止まりぼんやりと見上げた。今日から理はこの寮で高校生活を送ることになる。まさかとは思うが、駅前からここまで続く緑色の闇や棺がこの中にもあるのだろうか。少しの緊張感を背に理は巌戸台分寮に入った。
謎の少年に促されるまま署名をし、改めて寮の中を観察する。ソファーやテレビ、テーブルが置かれたいわゆるラウンジといったところか。当たり前のように電気はついておらず、ラウンジは深い濃紺の闇に閉ざされている。窓から差し込む月の光が陰影を生みかえって恐怖を煽るが、ここまで来る途中で見た棺はなくホッと息をついた。あれは、新生活に対する入り混じる感情と疲れが見せた幻覚だったのかもしれない。
奥にある階段がパッと明るく照らされ、パタパタと足音が聞こえた。誰かが出迎えてくれるのだろうか、さっきの少年は自分の部屋の場所を教えてくれなかったから非常に助かる。階段に近付くと、二階から誰かが下りてきた。
「あっ、あなたが今日からここに住むっていう、転校生くん?」
一階に下りてきたのは少女だった。ゆったりとした丈の長いワンピースの裾が揺れる。階段の灯りを反射し彼女の髪が艶々と輝き、白い素肌は闇夜の中浮かび上がるように美しかった。濃紺の闇の中現れた彼女は、終末の世界に舞い降りた天使に見えた。理はポケットに両手を突っ込んだまま茫然と立ち尽くしてしまった。彼女を見つめたまま視線が固定される。少女は首を傾げ心配そうに顔を歪めた。
「えっと、大丈夫?」
「え、あ、ごめん。誰かいると思ってなくて」
「ううん、こちらこそごめんね」
少女は気まずそうに笑った。
「ゆかりちゃんがあなたを案内するはずだったんだけど、忘れちゃってるみたい。私が案内するね」
「ありがとう」
ゆっくりと歩き始める彼女の後をついていく。二階に上ると、彼女は廊下の奥を指差した。
「二階の一番奥があなたのお部屋。今日はもう遅いし、休んだ方がいいよ。明日学校だし」
無意識に自室へと歩き出した理は、ドアノブに手をかけて立ち止まった。少女はにこにこと笑いながら見届けてくれるが、少し気になることがある。だから理は自然と口にした。
「君はもう寝るの?」
「私はラウンジでハーブティーでも飲もうかなと思って」
「そう。……それ、俺の分もあったりする?」
尋ねると、少女は一瞬驚いた表情を見せたがすぐに笑った。
「飲みたいなら淹れるよ。荷物置いたらまた下に来てくれる?」
パタパタと足音が階下に遠ざかっていく。理は少女を見送り、部屋に入った。ベッドを見た瞬間今すぐ倒れ込みたくなったが、ぐっと我慢。学生カバンをベッドに放り、理は一階に下りた。相変わらず電気はついていないが、夜の暗さに目が慣れてきた。窓から差し込む月明かりに照らされたテーブル、そこに二つのティーカップと少女がいる。
「俺の分、ありがとう」
「いいよ。一緒に飲もっか」
ティーカップが向かい合う席に置かれていることを残念に思いつつ、理は少女の対面に座った。ティーカップを手に取ると、清々しい花の香りが鼻をくすぐった。一口口に含むと舌の上に花畑が広がり、喉の奥に流し込んだ後味は少し苦い。初めて味わうものだったが、理は不快感を覚えることなく飲み進めた。向かい側にいる彼女は月光を浴び、白く浮かび上がる部分と深い影を落とす部分の陰影が神秘的で、理は言葉を失った。彼女の口元に浮かぶ微笑みすらも美しく、理は目を逸らすことができなかった。
「私は月森ミコト、ここの寮生なの。あなたは?」
「結城理」
「私も二年生なんだ。よろしくね、結城くん。もしかしたら同じクラスになっちゃうかも」
ティーカップを両手で持ち肘をつく彼女はお行儀が悪いはずだが、可愛らしい笑顔で全てを帳消しにしていた。疲れ切った体にハーブティーが沁みる。喉の奥から胃、さらに全身に優しいあたたかさが広がっていく。理が吐き出した息は花の香りで満ちていた。
「月森、明日一緒に学校に行ってくれない?」
意を決した言葉にミコトは柔らかな笑みで返した。
「いいよ。登校初日なんて緊張しちゃうよね」
「緊張はしてない」
「そうなの?結城くんって意外と胆っ玉なんだね」
そうしてハーブティーがなくなった頃、二人はラウンジを離れた。二階に上がったとき、ミコトは柔らかく手を振ってくれた。
「女子の部屋は三階なの。おやすみ、結城くん」
そう言って三階に消える彼女を、名残惜しく理は見送った。彼女がいなくなっても、闇に浮かぶ天使の笑顔が網膜に焼き付いていた。
「……これが月光館学園の制服か」
魅惑の天使と別れ泥のように眠り、あっという間に朝が訪れる。結城理は今日から通い始める学園の制服に袖を通した。自室の鏡の前でおかしなところがないか最終確認。寝癖よし、着こなしよし。理は落ち着きなく前髪を弄りながら昨晩の天使を思い出していた。月森ミコト、巖戸台分寮の寮生。彼女とは一緒に学園まで向かう約束をしている。月光館学園の女子の制服ってどんなだっけ、と思い出そうとしたがどうにも思い浮かばなかった。あれこれ考えるより見た方が早い、そろそろ時間だ。理は学生カバンを引っ掴み、ラウンジへと下りた。
昨晩暗闇に沈んでいたラウンジは明るい朝日に包まれ、爽やかな明るさを纏っていた。ラウンジのソファーには黒い制服を着た彼女、月森ミコトが座っていた。
「あ、おはよう結城くん。行こっか」
にこりと笑ってくれた彼女が立ち上がった。ミコトは黒いジャケットのボタンをぴっちりと留め、プリーツスカートは折らずに膝丈、赤いリボンも丁寧に美しく結んでいる。清楚できっちりとした着こなしだった。
――俺もちゃんと着た方がいいかも?
理はジャケットのボタンを留めてみたが、首からぶら下がった音楽プレイヤーのせいでどうにも締まりが悪い。結局ジャケットを羽織っただけの着こなしに落ち着き、彼女と学園に向かった。
月光館学園に着くと、生徒たちが掲示板に群がっていた。何やら声を上げて一喜一憂している様が見える。
「あ、そういえば今日クラス分けが貼り出されてるんだった。見に行こうか」
ミコトに促され、二人で人だかりをかき分けて見に行く。
――俺は……F組か。月森は……。
彼女の名前を探したが同じクラスには見当たらない。彼女の方を見るとミコトはE組の欄を指差していた。
「私はE組だったよ。結城くんは?」
「F組」
「残念、違うクラスだったね。でもお隣さんだね」
そう言って笑う彼女が隣の教室に吸い込まれていくのを最後まで見届け、理は自身の教室に入っていった。
転校初日、無事に授業が終わり初めての放課後を迎えた。理がふうと一息ついていると、野球帽を被ったクラスメイトが馴れ馴れしく声をかけてきた。
「おーい転校生、オマエここに来たばっかりだろ?オレが案内してやるよ!」
「俺、予定があるから」
理はにべもなく言い放ち、席を立った。クラスメイトを睨みつけると「お、おう……」と若干引き気味ながらも道を空けてくれた。他のものなど目もくれず、理は二年E組の教室に入った。放課後の浮かれた空気の漂う教室を一瞥する。いた。理は真っ直ぐミコトの元へ歩いた。
「月森」
声をかけると、身支度をしていたミコトが顔を上げた。少しばかり驚いている様子だった。
「あ、結城くん。どうしたの?」
「一緒に帰ろう」
「うん、いいよ」
断られる可能性も考えないわけではなかったが、賭けには勝てたようだ。立ち上がったミコトと放課後の校内を突っ切っていく。校門を出たとき、ミコトはうーんと言いながら立ち止まった。
「そういえば結城くんって、昨日ここに来たばかりなんだよね。真っ直ぐ帰ってもいいけど、せっかくだからポロニアンモールに寄っていかない?」
「ポロニアンモール?」
「学園の近くにお店が集まったモールがあるの。せっかくだから案内するよ」
「じゃあよろしく」
まさか彼女の方から提案されるとは、断る理由などどこにもない。頷いた理は少し得意げなミコトの隣を歩いた。
初めて訪れたポロニアンモールは、気怠い時間帯の空気を裂き人々の活気が満ち溢れる賑やかな場所だった。月光館学園の生徒もいれば、おしゃべり好きな主婦や仕事終わりのサラリーマンもいる。学園のざわめきとはまた違う喧騒に、理は興味深く視線を動かした。隣でミコトの楽しそうな声が聞こえた。
「カラオケとかゲームセンターとかCD屋さんとかがあって、色々遊んだり買い物できたりする感じだね。放課後はここで遊んで帰るっていう子がたくさんいるよ」
「月森のおすすめは?」
「私はやっぱり、シャガールかな」
そう言って彼女が指差した先を見ると、落ち着いた雰囲気の喫茶店があった。二人でのんびり腰を落ち着けるにふさわしいと言える。
「じゃあ行こう」
理の言葉にミコトは頷いてくれた。
喫茶店シャガールの扉を開けた瞬間、理の嗅覚はコーヒーの香りに支配された。ゆったりとした喫茶店らしい曲が流れ、おしゃべりする声がふわふわと漂う。メニューを見ると「フェロモン珈琲」の文字が目についた。おすすめ!と大きな文字で書かれている。何を頼むか考える時間も惜しく、理はフェロモン珈琲を注文した。
ミコトにソファー席を譲り、理は椅子に腰掛けた。ミコトはケーキセットを頼んでおり、綺麗なケーキに頬が緩んでいた。可愛い。
「あ、結城くんはフェロモン珈琲頼んだんだ。さすが結城くん、お目が高いね」
「お目が高いってどういうこと?」
「シャガールの名物なの。なんでも飲むとフェロモンが溢れて魅力的になっちゃうんだって」
ふむ、なるほど。では今すぐに飲み干すべきだろう。理はぐっとカップを持ち、意気揚々と一口。苦い。舌の上を強烈な苦い波が駆け抜けていった。一気に飲み干したいところだったが無理だ。大人しく砂糖とミルクを追加する。いくぶんまろやかになったコーヒーを飲み干し、理は尋ねた。
「今の俺、フェロモン溢れてる?」
ミコトは苦笑いしつつ、ケーキにフォークを刺した。
「うーん、私にはよくわからないかな」
「……」
コーヒー一杯で異性が振り向くなら誰も苦労しない。が、少しくらいプラシーボ効果があってもよいではないか。気落ちする理を慰めるミコトの声が響く。
「でも結城くんってもともと綺麗なお顔をしてるから、フェロモンが溢れちゃったら大変だね。女の子が群がってきそう」
「綺麗?俺が?」
「うん、とっても綺麗だよ。今日だけでクラスメイトの女の子の心を射止めちゃったかもよ」
理は首の後ろをさすりながら照れくさそうに目を逸らした。綺麗だなんて初めて言われた。
「俺は女子に好かれるとかどうでもいい」
「あれ、そうなの?今まで告白とかたくさんされてそうだなって思ってた」
「俺は月森にさえ好かれてれば、それでいいんだけど」
ミコトを直視してはっきりと告げた。ミコトはふふ、とおかしそうに笑った。
「もう、結城くん。そういうの、女の子にさらっと言うと誤解されちゃうよ」
「誤解もへったくれもないんだけど」
作戦失敗。これ以上ないほど直接的な言葉だったと思うのだが、彼女の琴線に響くことはなかったらしい。ならばと理は口を開いた。
「じゃあ教えてほしいんだけど、月森ってどういうヤツがタイプ?」
「タイプ……タイプ……?」
顎に手を当て、ミコトはうーんと唸った。珍しく考え込んだ彼女は天井をぼんやり見つめていたが、理に視線を戻すと苦笑した。
「これまで恋愛経験がないから、よくわからないの」
「へぇ……誰かを好きになったこともない?」
「うん。そういう結城くんは?結城くんって恋愛経験豊富そうだよね」
「それ、どういう意味」
もしや遊び人とでも思われているのだろうか。だとすれば心外だ、可及的速やかに誤解を解かねば。理は再度切り込むことにした。
「俺も恋愛経験なんてないよ。今好きな人がいるくらい」
「あ、そうなの?誰だろう、ゆかりちゃんとか?彼女、人気あるから」
ゆかり……同じクラスの岳羽ゆかりのことだろうか。残念ながら心の底からどうでもいい。理はきっぱり言い放つ。
「月森、君だよ」
「えー?またまたー」
ミコトはフォークを持ちゆらゆらと揺らした。
「結城くん、気をつけなよ。私だからいいけど、他の女の子にそんなことしたら一瞬で噂になっちゃうよ」
誠に遺憾ながら惨敗である。理はため息をつき、前髪に手を伸ばした。青い前髪が慰めるように指に絡みついてくる。ここまで言って通じないとは、どうすればよいのだろう。天使のように可愛らしい彼女の笑顔を見ながら、その微笑みをもってしても誤魔化せない苦い感情を理は飲み込んでいた。
月光館学園での日々が過ぎていき、初めての日曜日。今日は休日、どう過ごそうかと思いながら理はあくびを噛み殺した。携帯電話を確認するといくつかメールが届いているが、月森ミコトからの知らせはなかった。ならば何もなかったのと同じだ、理は携帯電話をしまった。
彼女は今日出かけるのだろうか。いや、本でも読んでいるかも?何事かが起こる気配を感じながら理は一階ラウンジに下りた。ソファーにもテーブルにも誰もいない。今日は皆外に出ているようだ。喉が渇いた。水でも飲むかとキッチンに向かうと、
「あ、結城くん。おはよう」
ワンピースにエプロン姿のミコトがいた。ワークトップに大きな買い物袋がどんと置いてあり、なかなかの存在感を放っている。
「おはよう、月森。どうしたの、その格好」
「料理しようと思って。あ、台所使う?」
「いや、俺は冷蔵庫に用があるだけ」
キンキンに冷えたミネラルウォーターを一口飲むと頭が冴えてきた。ミコトはごそごそと袋から材料を取り出している。新鮮な野菜が数種類と大きな塊肉、手の込んだ料理を作りそうな雰囲気だ。
「月森、手伝おうか」
「結城くんが?半日かかると思うけど、いいの?」
「いいよ」
ミコトとともに過ごすにあたり、「時間がかかる」はむしろ福音に等しい。理はこっそり唇の端がつり上がるのを感じた。
ミコトは壁にかかっていたエプロンを理に手渡した。エプロン……地味に着用するのは初めてかもしれない。もたもたと身につけ、手を洗いながら理は尋ねた。
「何作るの」
「ビーフシチュー。せっかくだから大鍋でね!」
にこにこと笑う彼女が取り出したのは寸胴鍋。小学校の給食以来の登場、なかなかのインパクトだ。理は圧倒されながらも、ミコトの指示に従い黙々と野菜を切っていく。彼女の方は塊肉をフライパンで焼いていた。休日の昼間に香ばしい匂いが広がっていく。
「月森は結構料理するの」
「ときどきってところかな。平日はどうしても外食とかコンビニご飯になっちゃうから、お休みの日くらい作ろうかなーって」
「料理ができる男ってどう思う?」
んー、と言いつつミコトは宙に視線を浮かせた。そしてにっこりと笑う。
「ちょっと憧れちゃうかも。料理を教えてもらったり、一緒にご飯作ったりっていいよね」
ふむ、なるほど。理は淡々と野菜を刻みつつ脳と心にミコトの言葉を刻み込んだ。これは早急にエプロンを購入し、料理の腕を上げる必要がありそうだ。理はこれまで学校の授業以外で料理をしたことがない、まずはとっつきやすそうなレシピ本を買い実践すべきか。休日にやるべきことが一つ増えた。
「あ、野菜切ってくれたんだね。ありがとう。じゃあ次はこれをバターで炒めて……」
ミコトに礼を言われると体の内側からほんのりと熱くなる。理はふぅと息をつき、引き続きミコトの指示に従った。
ビーフシチューは具材を炒め、煮込み、野菜等を裏漉しし、また煮込むという単純な料理だが手間と時間がかかる。最後の煮込みが終わり味を染み込ませている段階に至った時点で、夕方といっていい時間になっていた。手間をかけた分料理は応えてくれる、ラウンジ全体に食欲をそそる濃厚な香りが満ちていた。
「そろそろ味も染みたしお腹空いたよね、結城くん」
「ああ」
「じゃあ食べよっか。やっぱりビーフシチューにはパンだよね!」
二人はテーブルに温めたビーフシチューとバゲットを並べた。塊肉を贅沢に使ったビーフシチューはどこをすくっても大きな肉があり、立ち上る湯気は香ばしい匂いを纏っている。ミコトと作って食べるなど最高のひとときだ。理はミコトと向かい合って座り、食事を始めた。
「ん〜!時間はかかったけど美味しいね〜!」
「ああ、すごく美味しい」
ミコトの心底嬉しそうな声に理も笑顔で答えた。舌の上を流れていく野菜と肉の旨みが沁みたシチュー、柔らかく噛むたびに繊維がほどけていく肉、どこを口にしても「美味」以外の感想が出てこない。バゲットとの相性は言わずもがな。理はこれまで何度かビーフシチューを口にしたことがあるが、そのいずれをも蹴散らす勢いのとんでもない美味しさだった。食べ進める手が止まらない。寸胴鍋にはまだ十分な量が残っている、最高だ。そう思っていると玄関の扉が開き、
「おー、なんか二人で美味そうなモン食ってんな!オレっちの分もある?」
物欲しそうな顔で順平が二人を覗き込んだ。理は顔を上げ、闖入者を睨んだ。眼光の刃で順平を真っ二つにしかねない、凄まじい目付きだった。順平はびくっと大袈裟に縮こまり、
「そ、そんな目で見なくてもいいじゃんよ……」
逃げるように階段を上っていった。二人をじっと見守っていたミコトはきょとんとした顔。
「どうしたの結城くん、まだシチューは残ってるしあげてもよかったのに」
「それは嫌だ。月森がいいなら、残ってるヤツ全部欲しい」
「え!そんなに気に入ったの、このシチュー」
理の皿は空っぽになっていたが、まだ足りない。しれっと二回おかわりを平らげ、理は残ったシチューをタッパーに小分けにし、冷蔵庫に保管した。「絶対に取らないように 結城理」と書いた付箋を添えて。
結城理はほとんどの時間をミコトとともに過ごしていた。一緒に帰ろうと言ってもどこかに出かけようと言っても断られることはない、ともに楽しい時間を過ごせる。しかしこの進展のなさはなんだ。単純接触効果は理にしか適用されていないらしい。ある休日に起き上がった理は、深いため息をつき頭を抱えた。あまりにも直接的な物言いは風情がないと思っていたが、そろそろ考え直す頃合いだろうか。理は回らない頭で考えながら携帯電話を手に取った。相変わらずいくつかメールが来ているが、彼女からのメールはない。
とりあえず私服に着替え部屋を出る。二階の本棚と簡素なテーブルがある小さなラウンジに目当ての人物がいた。一人静かに本を読んでいる。
「おはよう、月森」
「あ、おはよう、結城くん」
顔を上げたミコトがにこりと笑ってくれる。朝日が差し込む窓際で読書をする彼女は、眩い陽光に照らされ天使にしか見えなかった。理はごく自然に彼女の隣に座った。ミコトの顔がすぐ近くにある。ふっくらした頬はほんのりと色付き柔らかそうで、艶々と赤い唇にどうしても目が止まる。本を持つ手は理よりも小さく、ぎゅっと握れば包み込んでしまえそうだった。理は何事かを口にしようとして唇を動かしたが、何も言葉が出てこなかった。代わりに勝手に体が動き、ミコトを押し倒していた。
「えっ!?結城くん……!?」
とさりと本が床に落ちた。理は身を捻り、ミコトをじっと見下ろす。困惑する彼女を朝日が照らし、神々しいほどだった。ここが学生寮の二階で、誰かが通りかかることもあると頭からすっぽり抜け落ちていた。
「おわっ!?」
背後で順平の声がした。理は振り向くことすら惜しく、横目で声のした方を睨みつけた。二階に漂うただならぬ空気を察したのか、理と目が合った順平は目を逸らし階段を駆け下りていった。理はため息をついた。せっかくの二人の時間に横槍が入るなど言語道断。理はミコトの手を引き自室へ連れ込んだ。されるがままの彼女をベッドに押し倒す。
「あ、あの、結城くん?」
彼女は目を丸くして覆い被さる理を見つめていた。普段は一人のベッドにミコトがいる。嗅いだことのない柔らかな香りが鼻をくすぐり、理の理性をふわふわと溶かしていくようだった。
「月森、俺の気持ちに気付いてない?」
「結城くんの気持ち?」
はてなんのことですか、と言わんばかりの首の傾げ方に理は深いため息をついた。ダメだ、彼女は本気で理解していないらしい。ならばもう飾ることなく伝えるよりなかろう。理はもう少しで唇同士が触れ合いそうな距離まで顔を近付け、口を開いた。
「俺は君が好きだ。最初会ったときからずっと」
言葉は狭いワンルームに響き、ミコトにも間違いなく届いたはずだ。彼女は黙って目を見開いていたが、
「え、えっと、冗談……なんだよね?」
と切り出す。これには理もため息をつかざるを得なかった。頭を抱え、かぶりを振る。しかし沈黙を肯定と受け取られても困る、理は決意をもって言葉を紡ぐ。
「冗談じゃない。冗談でこんな勘違いされるようなこと言わない」
「え、えっ……そうなの」
「好きじゃなかったら放課後わざわざ隣のクラスの君に声なんてかけないし、休日君と一緒にいたりしない。好きだから、少しでも君と一緒にいたかった。今だってそうだ」
理は堪えきれずミコトの頬に触れた。ふっくらと柔らかな頬はほんのり熱い。ミコトは驚いているものの振り解かれることはない、理はひっそりと安堵した。
「ここまでしないと俺の言葉を本気だと受け取ってくれない?天使どころか天邪鬼?」
「天使?」
「あの日、真っ暗な寮の中で見た君は天使だった。すごく綺麗だった。今も俺にとっては天使だ」
「は……え……?」
口にするのも躊躇うような甘い本音がするりと口から零れ落ちていく。ミコトは珍しく赤面していた。いつも真っ直ぐ理を見つめる可憐な瞳はふよふよと泳いでいる。そんな様子も可愛らしくて、理はくすくすと笑った。
「それで、月森は俺のことどう思ってるわけ」
「え……えっと……同じ二年生だなあとしか……」
「友達ですらないってことか……」
あまりに淡白な言葉に頭をぶん殴られた気分だった。しかし彼女の正直な気持ちが聞けたのは重要だ。今ようやくスタートラインに立った気がする。
「じゃあ友達から始めたいんだけど」
渾身の言葉に少しの間沈黙が満ちたが、ようやくミコトが笑ってくれた。
「うん。じゃあ、お友達から」
世の「友達」は果たしてこんな体勢になるだろうかと思いつつ、理は苦笑した。ここまで踏み込んでようやく友達、理が思い描くような関係に到達するにはどれだけの時間がかかるだろうか。
「月森、今日はどうする?俺は君と一緒にいたい」
「あ、えっと、じゃあ……一緒に本でも読む?」
「いいね」
理は笑い、ミコトの手を優しく引き彼女を起こした。初めて触れた彼女の手はふわふわと柔らかく、ぎゅっと握りしめたくなった。
「すっかり遅くなったな」
結城理が巌戸台駅に辿り着いたのは、深夜十二時を少し過ぎた頃だった。終電に近い時間のためか人の姿はまばらでホームは静けさで満ちていた。
「巖戸台分寮……こっちか」
独りごちつつ駅を出ると、しんとした静寂が肌を刺した。タバコの吸い殻や何かのゴミが落ちているやや汚い駅前、闇色の棺がところどころ置かれている。どこからか怪しい緑色の靄のようなものが満ち、駅前は「緑色の闇」が支配する不気味な空間になっていた。辺りを見回すが理以外誰もおらず、ぽつぽつと思い出したように棺が点在しているのみ。
「なんだ……?」
纏わりつくような違和感の中理は歩き、ようやく巖戸台分寮に辿り着いた。理は思わず立ち止まりぼんやりと見上げた。今日から理はこの寮で高校生活を送ることになる。まさかとは思うが、駅前からここまで続く緑色の闇や棺がこの中にもあるのだろうか。少しの緊張感を背に理は巌戸台分寮に入った。
謎の少年に促されるまま署名をし、改めて寮の中を観察する。ソファーやテレビ、テーブルが置かれたいわゆるラウンジといったところか。当たり前のように電気はついておらず、ラウンジは深い濃紺の闇に閉ざされている。窓から差し込む月の光が陰影を生みかえって恐怖を煽るが、ここまで来る途中で見た棺はなくホッと息をついた。あれは、新生活に対する入り混じる感情と疲れが見せた幻覚だったのかもしれない。
奥にある階段がパッと明るく照らされ、パタパタと足音が聞こえた。誰かが出迎えてくれるのだろうか、さっきの少年は自分の部屋の場所を教えてくれなかったから非常に助かる。階段に近付くと、二階から誰かが下りてきた。
「あっ、あなたが今日からここに住むっていう、転校生くん?」
一階に下りてきたのは少女だった。ゆったりとした丈の長いワンピースの裾が揺れる。階段の灯りを反射し彼女の髪が艶々と輝き、白い素肌は闇夜の中浮かび上がるように美しかった。濃紺の闇の中現れた彼女は、終末の世界に舞い降りた天使に見えた。理はポケットに両手を突っ込んだまま茫然と立ち尽くしてしまった。彼女を見つめたまま視線が固定される。少女は首を傾げ心配そうに顔を歪めた。
「えっと、大丈夫?」
「え、あ、ごめん。誰かいると思ってなくて」
「ううん、こちらこそごめんね」
少女は気まずそうに笑った。
「ゆかりちゃんがあなたを案内するはずだったんだけど、忘れちゃってるみたい。私が案内するね」
「ありがとう」
ゆっくりと歩き始める彼女の後をついていく。二階に上ると、彼女は廊下の奥を指差した。
「二階の一番奥があなたのお部屋。今日はもう遅いし、休んだ方がいいよ。明日学校だし」
無意識に自室へと歩き出した理は、ドアノブに手をかけて立ち止まった。少女はにこにこと笑いながら見届けてくれるが、少し気になることがある。だから理は自然と口にした。
「君はもう寝るの?」
「私はラウンジでハーブティーでも飲もうかなと思って」
「そう。……それ、俺の分もあったりする?」
尋ねると、少女は一瞬驚いた表情を見せたがすぐに笑った。
「飲みたいなら淹れるよ。荷物置いたらまた下に来てくれる?」
パタパタと足音が階下に遠ざかっていく。理は少女を見送り、部屋に入った。ベッドを見た瞬間今すぐ倒れ込みたくなったが、ぐっと我慢。学生カバンをベッドに放り、理は一階に下りた。相変わらず電気はついていないが、夜の暗さに目が慣れてきた。窓から差し込む月明かりに照らされたテーブル、そこに二つのティーカップと少女がいる。
「俺の分、ありがとう」
「いいよ。一緒に飲もっか」
ティーカップが向かい合う席に置かれていることを残念に思いつつ、理は少女の対面に座った。ティーカップを手に取ると、清々しい花の香りが鼻をくすぐった。一口口に含むと舌の上に花畑が広がり、喉の奥に流し込んだ後味は少し苦い。初めて味わうものだったが、理は不快感を覚えることなく飲み進めた。向かい側にいる彼女は月光を浴び、白く浮かび上がる部分と深い影を落とす部分の陰影が神秘的で、理は言葉を失った。彼女の口元に浮かぶ微笑みすらも美しく、理は目を逸らすことができなかった。
「私は月森ミコト、ここの寮生なの。あなたは?」
「結城理」
「私も二年生なんだ。よろしくね、結城くん。もしかしたら同じクラスになっちゃうかも」
ティーカップを両手で持ち肘をつく彼女はお行儀が悪いはずだが、可愛らしい笑顔で全てを帳消しにしていた。疲れ切った体にハーブティーが沁みる。喉の奥から胃、さらに全身に優しいあたたかさが広がっていく。理が吐き出した息は花の香りで満ちていた。
「月森、明日一緒に学校に行ってくれない?」
意を決した言葉にミコトは柔らかな笑みで返した。
「いいよ。登校初日なんて緊張しちゃうよね」
「緊張はしてない」
「そうなの?結城くんって意外と胆っ玉なんだね」
そうしてハーブティーがなくなった頃、二人はラウンジを離れた。二階に上がったとき、ミコトは柔らかく手を振ってくれた。
「女子の部屋は三階なの。おやすみ、結城くん」
そう言って三階に消える彼女を、名残惜しく理は見送った。彼女がいなくなっても、闇に浮かぶ天使の笑顔が網膜に焼き付いていた。
「……これが月光館学園の制服か」
魅惑の天使と別れ泥のように眠り、あっという間に朝が訪れる。結城理は今日から通い始める学園の制服に袖を通した。自室の鏡の前でおかしなところがないか最終確認。寝癖よし、着こなしよし。理は落ち着きなく前髪を弄りながら昨晩の天使を思い出していた。月森ミコト、巖戸台分寮の寮生。彼女とは一緒に学園まで向かう約束をしている。月光館学園の女子の制服ってどんなだっけ、と思い出そうとしたがどうにも思い浮かばなかった。あれこれ考えるより見た方が早い、そろそろ時間だ。理は学生カバンを引っ掴み、ラウンジへと下りた。
昨晩暗闇に沈んでいたラウンジは明るい朝日に包まれ、爽やかな明るさを纏っていた。ラウンジのソファーには黒い制服を着た彼女、月森ミコトが座っていた。
「あ、おはよう結城くん。行こっか」
にこりと笑ってくれた彼女が立ち上がった。ミコトは黒いジャケットのボタンをぴっちりと留め、プリーツスカートは折らずに膝丈、赤いリボンも丁寧に美しく結んでいる。清楚できっちりとした着こなしだった。
――俺もちゃんと着た方がいいかも?
理はジャケットのボタンを留めてみたが、首からぶら下がった音楽プレイヤーのせいでどうにも締まりが悪い。結局ジャケットを羽織っただけの着こなしに落ち着き、彼女と学園に向かった。
月光館学園に着くと、生徒たちが掲示板に群がっていた。何やら声を上げて一喜一憂している様が見える。
「あ、そういえば今日クラス分けが貼り出されてるんだった。見に行こうか」
ミコトに促され、二人で人だかりをかき分けて見に行く。
――俺は……F組か。月森は……。
彼女の名前を探したが同じクラスには見当たらない。彼女の方を見るとミコトはE組の欄を指差していた。
「私はE組だったよ。結城くんは?」
「F組」
「残念、違うクラスだったね。でもお隣さんだね」
そう言って笑う彼女が隣の教室に吸い込まれていくのを最後まで見届け、理は自身の教室に入っていった。
転校初日、無事に授業が終わり初めての放課後を迎えた。理がふうと一息ついていると、野球帽を被ったクラスメイトが馴れ馴れしく声をかけてきた。
「おーい転校生、オマエここに来たばっかりだろ?オレが案内してやるよ!」
「俺、予定があるから」
理はにべもなく言い放ち、席を立った。クラスメイトを睨みつけると「お、おう……」と若干引き気味ながらも道を空けてくれた。他のものなど目もくれず、理は二年E組の教室に入った。放課後の浮かれた空気の漂う教室を一瞥する。いた。理は真っ直ぐミコトの元へ歩いた。
「月森」
声をかけると、身支度をしていたミコトが顔を上げた。少しばかり驚いている様子だった。
「あ、結城くん。どうしたの?」
「一緒に帰ろう」
「うん、いいよ」
断られる可能性も考えないわけではなかったが、賭けには勝てたようだ。立ち上がったミコトと放課後の校内を突っ切っていく。校門を出たとき、ミコトはうーんと言いながら立ち止まった。
「そういえば結城くんって、昨日ここに来たばかりなんだよね。真っ直ぐ帰ってもいいけど、せっかくだからポロニアンモールに寄っていかない?」
「ポロニアンモール?」
「学園の近くにお店が集まったモールがあるの。せっかくだから案内するよ」
「じゃあよろしく」
まさか彼女の方から提案されるとは、断る理由などどこにもない。頷いた理は少し得意げなミコトの隣を歩いた。
初めて訪れたポロニアンモールは、気怠い時間帯の空気を裂き人々の活気が満ち溢れる賑やかな場所だった。月光館学園の生徒もいれば、おしゃべり好きな主婦や仕事終わりのサラリーマンもいる。学園のざわめきとはまた違う喧騒に、理は興味深く視線を動かした。隣でミコトの楽しそうな声が聞こえた。
「カラオケとかゲームセンターとかCD屋さんとかがあって、色々遊んだり買い物できたりする感じだね。放課後はここで遊んで帰るっていう子がたくさんいるよ」
「月森のおすすめは?」
「私はやっぱり、シャガールかな」
そう言って彼女が指差した先を見ると、落ち着いた雰囲気の喫茶店があった。二人でのんびり腰を落ち着けるにふさわしいと言える。
「じゃあ行こう」
理の言葉にミコトは頷いてくれた。
喫茶店シャガールの扉を開けた瞬間、理の嗅覚はコーヒーの香りに支配された。ゆったりとした喫茶店らしい曲が流れ、おしゃべりする声がふわふわと漂う。メニューを見ると「フェロモン珈琲」の文字が目についた。おすすめ!と大きな文字で書かれている。何を頼むか考える時間も惜しく、理はフェロモン珈琲を注文した。
ミコトにソファー席を譲り、理は椅子に腰掛けた。ミコトはケーキセットを頼んでおり、綺麗なケーキに頬が緩んでいた。可愛い。
「あ、結城くんはフェロモン珈琲頼んだんだ。さすが結城くん、お目が高いね」
「お目が高いってどういうこと?」
「シャガールの名物なの。なんでも飲むとフェロモンが溢れて魅力的になっちゃうんだって」
ふむ、なるほど。では今すぐに飲み干すべきだろう。理はぐっとカップを持ち、意気揚々と一口。苦い。舌の上を強烈な苦い波が駆け抜けていった。一気に飲み干したいところだったが無理だ。大人しく砂糖とミルクを追加する。いくぶんまろやかになったコーヒーを飲み干し、理は尋ねた。
「今の俺、フェロモン溢れてる?」
ミコトは苦笑いしつつ、ケーキにフォークを刺した。
「うーん、私にはよくわからないかな」
「……」
コーヒー一杯で異性が振り向くなら誰も苦労しない。が、少しくらいプラシーボ効果があってもよいではないか。気落ちする理を慰めるミコトの声が響く。
「でも結城くんってもともと綺麗なお顔をしてるから、フェロモンが溢れちゃったら大変だね。女の子が群がってきそう」
「綺麗?俺が?」
「うん、とっても綺麗だよ。今日だけでクラスメイトの女の子の心を射止めちゃったかもよ」
理は首の後ろをさすりながら照れくさそうに目を逸らした。綺麗だなんて初めて言われた。
「俺は女子に好かれるとかどうでもいい」
「あれ、そうなの?今まで告白とかたくさんされてそうだなって思ってた」
「俺は月森にさえ好かれてれば、それでいいんだけど」
ミコトを直視してはっきりと告げた。ミコトはふふ、とおかしそうに笑った。
「もう、結城くん。そういうの、女の子にさらっと言うと誤解されちゃうよ」
「誤解もへったくれもないんだけど」
作戦失敗。これ以上ないほど直接的な言葉だったと思うのだが、彼女の琴線に響くことはなかったらしい。ならばと理は口を開いた。
「じゃあ教えてほしいんだけど、月森ってどういうヤツがタイプ?」
「タイプ……タイプ……?」
顎に手を当て、ミコトはうーんと唸った。珍しく考え込んだ彼女は天井をぼんやり見つめていたが、理に視線を戻すと苦笑した。
「これまで恋愛経験がないから、よくわからないの」
「へぇ……誰かを好きになったこともない?」
「うん。そういう結城くんは?結城くんって恋愛経験豊富そうだよね」
「それ、どういう意味」
もしや遊び人とでも思われているのだろうか。だとすれば心外だ、可及的速やかに誤解を解かねば。理は再度切り込むことにした。
「俺も恋愛経験なんてないよ。今好きな人がいるくらい」
「あ、そうなの?誰だろう、ゆかりちゃんとか?彼女、人気あるから」
ゆかり……同じクラスの岳羽ゆかりのことだろうか。残念ながら心の底からどうでもいい。理はきっぱり言い放つ。
「月森、君だよ」
「えー?またまたー」
ミコトはフォークを持ちゆらゆらと揺らした。
「結城くん、気をつけなよ。私だからいいけど、他の女の子にそんなことしたら一瞬で噂になっちゃうよ」
誠に遺憾ながら惨敗である。理はため息をつき、前髪に手を伸ばした。青い前髪が慰めるように指に絡みついてくる。ここまで言って通じないとは、どうすればよいのだろう。天使のように可愛らしい彼女の笑顔を見ながら、その微笑みをもってしても誤魔化せない苦い感情を理は飲み込んでいた。
月光館学園での日々が過ぎていき、初めての日曜日。今日は休日、どう過ごそうかと思いながら理はあくびを噛み殺した。携帯電話を確認するといくつかメールが届いているが、月森ミコトからの知らせはなかった。ならば何もなかったのと同じだ、理は携帯電話をしまった。
彼女は今日出かけるのだろうか。いや、本でも読んでいるかも?何事かが起こる気配を感じながら理は一階ラウンジに下りた。ソファーにもテーブルにも誰もいない。今日は皆外に出ているようだ。喉が渇いた。水でも飲むかとキッチンに向かうと、
「あ、結城くん。おはよう」
ワンピースにエプロン姿のミコトがいた。ワークトップに大きな買い物袋がどんと置いてあり、なかなかの存在感を放っている。
「おはよう、月森。どうしたの、その格好」
「料理しようと思って。あ、台所使う?」
「いや、俺は冷蔵庫に用があるだけ」
キンキンに冷えたミネラルウォーターを一口飲むと頭が冴えてきた。ミコトはごそごそと袋から材料を取り出している。新鮮な野菜が数種類と大きな塊肉、手の込んだ料理を作りそうな雰囲気だ。
「月森、手伝おうか」
「結城くんが?半日かかると思うけど、いいの?」
「いいよ」
ミコトとともに過ごすにあたり、「時間がかかる」はむしろ福音に等しい。理はこっそり唇の端がつり上がるのを感じた。
ミコトは壁にかかっていたエプロンを理に手渡した。エプロン……地味に着用するのは初めてかもしれない。もたもたと身につけ、手を洗いながら理は尋ねた。
「何作るの」
「ビーフシチュー。せっかくだから大鍋でね!」
にこにこと笑う彼女が取り出したのは寸胴鍋。小学校の給食以来の登場、なかなかのインパクトだ。理は圧倒されながらも、ミコトの指示に従い黙々と野菜を切っていく。彼女の方は塊肉をフライパンで焼いていた。休日の昼間に香ばしい匂いが広がっていく。
「月森は結構料理するの」
「ときどきってところかな。平日はどうしても外食とかコンビニご飯になっちゃうから、お休みの日くらい作ろうかなーって」
「料理ができる男ってどう思う?」
んー、と言いつつミコトは宙に視線を浮かせた。そしてにっこりと笑う。
「ちょっと憧れちゃうかも。料理を教えてもらったり、一緒にご飯作ったりっていいよね」
ふむ、なるほど。理は淡々と野菜を刻みつつ脳と心にミコトの言葉を刻み込んだ。これは早急にエプロンを購入し、料理の腕を上げる必要がありそうだ。理はこれまで学校の授業以外で料理をしたことがない、まずはとっつきやすそうなレシピ本を買い実践すべきか。休日にやるべきことが一つ増えた。
「あ、野菜切ってくれたんだね。ありがとう。じゃあ次はこれをバターで炒めて……」
ミコトに礼を言われると体の内側からほんのりと熱くなる。理はふぅと息をつき、引き続きミコトの指示に従った。
ビーフシチューは具材を炒め、煮込み、野菜等を裏漉しし、また煮込むという単純な料理だが手間と時間がかかる。最後の煮込みが終わり味を染み込ませている段階に至った時点で、夕方といっていい時間になっていた。手間をかけた分料理は応えてくれる、ラウンジ全体に食欲をそそる濃厚な香りが満ちていた。
「そろそろ味も染みたしお腹空いたよね、結城くん」
「ああ」
「じゃあ食べよっか。やっぱりビーフシチューにはパンだよね!」
二人はテーブルに温めたビーフシチューとバゲットを並べた。塊肉を贅沢に使ったビーフシチューはどこをすくっても大きな肉があり、立ち上る湯気は香ばしい匂いを纏っている。ミコトと作って食べるなど最高のひとときだ。理はミコトと向かい合って座り、食事を始めた。
「ん〜!時間はかかったけど美味しいね〜!」
「ああ、すごく美味しい」
ミコトの心底嬉しそうな声に理も笑顔で答えた。舌の上を流れていく野菜と肉の旨みが沁みたシチュー、柔らかく噛むたびに繊維がほどけていく肉、どこを口にしても「美味」以外の感想が出てこない。バゲットとの相性は言わずもがな。理はこれまで何度かビーフシチューを口にしたことがあるが、そのいずれをも蹴散らす勢いのとんでもない美味しさだった。食べ進める手が止まらない。寸胴鍋にはまだ十分な量が残っている、最高だ。そう思っていると玄関の扉が開き、
「おー、なんか二人で美味そうなモン食ってんな!オレっちの分もある?」
物欲しそうな顔で順平が二人を覗き込んだ。理は顔を上げ、闖入者を睨んだ。眼光の刃で順平を真っ二つにしかねない、凄まじい目付きだった。順平はびくっと大袈裟に縮こまり、
「そ、そんな目で見なくてもいいじゃんよ……」
逃げるように階段を上っていった。二人をじっと見守っていたミコトはきょとんとした顔。
「どうしたの結城くん、まだシチューは残ってるしあげてもよかったのに」
「それは嫌だ。月森がいいなら、残ってるヤツ全部欲しい」
「え!そんなに気に入ったの、このシチュー」
理の皿は空っぽになっていたが、まだ足りない。しれっと二回おかわりを平らげ、理は残ったシチューをタッパーに小分けにし、冷蔵庫に保管した。「絶対に取らないように 結城理」と書いた付箋を添えて。
結城理はほとんどの時間をミコトとともに過ごしていた。一緒に帰ろうと言ってもどこかに出かけようと言っても断られることはない、ともに楽しい時間を過ごせる。しかしこの進展のなさはなんだ。単純接触効果は理にしか適用されていないらしい。ある休日に起き上がった理は、深いため息をつき頭を抱えた。あまりにも直接的な物言いは風情がないと思っていたが、そろそろ考え直す頃合いだろうか。理は回らない頭で考えながら携帯電話を手に取った。相変わらずいくつかメールが来ているが、彼女からのメールはない。
とりあえず私服に着替え部屋を出る。二階の本棚と簡素なテーブルがある小さなラウンジに目当ての人物がいた。一人静かに本を読んでいる。
「おはよう、月森」
「あ、おはよう、結城くん」
顔を上げたミコトがにこりと笑ってくれる。朝日が差し込む窓際で読書をする彼女は、眩い陽光に照らされ天使にしか見えなかった。理はごく自然に彼女の隣に座った。ミコトの顔がすぐ近くにある。ふっくらした頬はほんのりと色付き柔らかそうで、艶々と赤い唇にどうしても目が止まる。本を持つ手は理よりも小さく、ぎゅっと握れば包み込んでしまえそうだった。理は何事かを口にしようとして唇を動かしたが、何も言葉が出てこなかった。代わりに勝手に体が動き、ミコトを押し倒していた。
「えっ!?結城くん……!?」
とさりと本が床に落ちた。理は身を捻り、ミコトをじっと見下ろす。困惑する彼女を朝日が照らし、神々しいほどだった。ここが学生寮の二階で、誰かが通りかかることもあると頭からすっぽり抜け落ちていた。
「おわっ!?」
背後で順平の声がした。理は振り向くことすら惜しく、横目で声のした方を睨みつけた。二階に漂うただならぬ空気を察したのか、理と目が合った順平は目を逸らし階段を駆け下りていった。理はため息をついた。せっかくの二人の時間に横槍が入るなど言語道断。理はミコトの手を引き自室へ連れ込んだ。されるがままの彼女をベッドに押し倒す。
「あ、あの、結城くん?」
彼女は目を丸くして覆い被さる理を見つめていた。普段は一人のベッドにミコトがいる。嗅いだことのない柔らかな香りが鼻をくすぐり、理の理性をふわふわと溶かしていくようだった。
「月森、俺の気持ちに気付いてない?」
「結城くんの気持ち?」
はてなんのことですか、と言わんばかりの首の傾げ方に理は深いため息をついた。ダメだ、彼女は本気で理解していないらしい。ならばもう飾ることなく伝えるよりなかろう。理はもう少しで唇同士が触れ合いそうな距離まで顔を近付け、口を開いた。
「俺は君が好きだ。最初会ったときからずっと」
言葉は狭いワンルームに響き、ミコトにも間違いなく届いたはずだ。彼女は黙って目を見開いていたが、
「え、えっと、冗談……なんだよね?」
と切り出す。これには理もため息をつかざるを得なかった。頭を抱え、かぶりを振る。しかし沈黙を肯定と受け取られても困る、理は決意をもって言葉を紡ぐ。
「冗談じゃない。冗談でこんな勘違いされるようなこと言わない」
「え、えっ……そうなの」
「好きじゃなかったら放課後わざわざ隣のクラスの君に声なんてかけないし、休日君と一緒にいたりしない。好きだから、少しでも君と一緒にいたかった。今だってそうだ」
理は堪えきれずミコトの頬に触れた。ふっくらと柔らかな頬はほんのり熱い。ミコトは驚いているものの振り解かれることはない、理はひっそりと安堵した。
「ここまでしないと俺の言葉を本気だと受け取ってくれない?天使どころか天邪鬼?」
「天使?」
「あの日、真っ暗な寮の中で見た君は天使だった。すごく綺麗だった。今も俺にとっては天使だ」
「は……え……?」
口にするのも躊躇うような甘い本音がするりと口から零れ落ちていく。ミコトは珍しく赤面していた。いつも真っ直ぐ理を見つめる可憐な瞳はふよふよと泳いでいる。そんな様子も可愛らしくて、理はくすくすと笑った。
「それで、月森は俺のことどう思ってるわけ」
「え……えっと……同じ二年生だなあとしか……」
「友達ですらないってことか……」
あまりに淡白な言葉に頭をぶん殴られた気分だった。しかし彼女の正直な気持ちが聞けたのは重要だ。今ようやくスタートラインに立った気がする。
「じゃあ友達から始めたいんだけど」
渾身の言葉に少しの間沈黙が満ちたが、ようやくミコトが笑ってくれた。
「うん。じゃあ、お友達から」
世の「友達」は果たしてこんな体勢になるだろうかと思いつつ、理は苦笑した。ここまで踏み込んでようやく友達、理が思い描くような関係に到達するにはどれだけの時間がかかるだろうか。
「月森、今日はどうする?俺は君と一緒にいたい」
「あ、えっと、じゃあ……一緒に本でも読む?」
「いいね」
理は笑い、ミコトの手を優しく引き彼女を起こした。初めて触れた彼女の手はふわふわと柔らかく、ぎゅっと握りしめたくなった。