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希死念慮コラプス
飛び降りようと決意した日はこれ以上ないほどの晴天だった。月森ミコトは放課後の訪れとともに屋上に向かった。放課後ということもあり学園はざわざわと喧騒に満ち、どこか浮かれた雰囲気が漂っている。学生カバンを片手にミコトは粛々と歩く。少し俯き気味に歩き続ける様は彷徨う霊魂のようだった。
屋上の扉を開けると眩しい夕日が目に飛び込み、ミコトは目元を覆うように手をかざした。幸いにも屋上には誰もいないようだった。真っ平なコンクリートの床を歩けばあっという間に端に辿り着く。転落防止の手すりにもたれかかり、少し身を乗り出した。見下ろした地面は遠く、ここから飛び降りれば頭と地面が強烈な口付けを交わして死ねるだろう。ミコトはふうと息をつき、空を眺めた。夕暮れ時の橙が広がり、雲は茜色に染まりながらたなびいている。陸上部が練習をする声が遠く聞こえる。何ということのない日常が穏やかに流れている――ミコトが飛び降りたところで日常は変わりなく続く。そう確信した。
ミコトは手すりに手をかけ、乗り越えようと力を入れた。その瞬間、背後から忙しない足音が接近してくるのが聞こえ、
「待って」
思いきり腕を掴まれた。ミコトが振り返ると、そこには男子生徒が立っていた。青い髪で右目を隠した見知らぬ生徒、露出した左目は茜色の哀愁を纏いながらもミコトを睨むように真っ直ぐ見据えている。
「えっと……離してくれない?」
振り向いた不自然な姿勢のままミコトは呟いた。男子生徒はじっと心の奥底を覗く眼差しを向けている。
「君が手すりの向こうに行かないなら」
「……」
男子生徒はミコトの意図を正しく理解しているようだった。しばし彼と見つめ合った。状況だけを見れば別れ際を惜しむ恋人同士のようだったが、二人の間に流れるのは緊張感。甘さは欠片もない。ただ沈黙の時間が流れる。男子生徒は離してくれない。ミコトは脱力した。
「……わかった。行かないって約束するから、離してくれる?」
男子生徒の目を見てはっきり伝えると、彼は頷き手を離してくれた。今日はもう帰ろう。ミコトが歩き出そうとしたとき、
「今日暇?君さえよければ、これから俺とコーヒーでも飲まない?俺が奢るから」
さらりとお誘いを受けた。ミコトは立ち止まり、男子生徒をまじまじと見つめた。彼はポケットに両手を突っ込み、じっとミコトの返事を待っている。どうにも無下にできずミコトが頷くと、男子生徒の口元がかすかに綻んだ気がした。
ミコトは見知らぬ男子生徒と喫茶シャガールに腰を落ち着けることになった。彼は宣言どおりコーヒーを奢ってくれ、向かい合う二人の前にはそれぞれ湯気の立つコーヒーが置かれている。男子生徒は優雅にコーヒーを一口飲むと、カップをソーサーに置いた。程よい雑音に満ちた店内で、その音は心地よく響いた。
「俺は結城理。君は月森、で合ってるかな」
「どうして私を知ってるの」
「クラスメイトだから」
男子生徒――結城理はあっさりと答えた。クラスメイトということはミコトも知っていておかしくないのだが、全く記憶になかった。窓際の席で窓の外を見ることにばかり注力していたから、クラスメイトの顔など誰一人として覚えていなかった。
「ここに来るのは初めて?」
コーヒーに手をつけないミコトに尋ねてくる。ミコトはこくりと頷いた。じっと見つめるコーヒーの水面から苦味を想起させる香りが漂ってくる。黒い水面には神妙な顔で凝視するミコトが映り、揺らめいていた。
「そう。ここ、なかなかいいところだと思わない?うるさすぎず、静かすぎず……放課後ボーッとするにはうってつけだ」
「……あの」
コーヒーの揺らぎを見つめていたミコトは顔を上げた。理の美しい青い瞳と目が合う。深い海にも広い空にも似た蠱惑的な瞳だった。
「どうして私を止めたの」
きっと彼はミコトが何をするつもりだったのか知っている。単刀直入な疑問に、彼は不思議そうな顔をした。
「俺の目の前でクラスメイトが飛び降りるところなんて、見たくなかったから」
「……私が死んでも、あなたには何の関係もないじゃない」
「関係ある」
理はきっぱりと言い切った。意外な言葉で、今度はミコトが怪訝な顔をすることになる。
「俺の気分がよくない」
「……」
体の力が抜けたミコトは深いため息をつき、ソファー席の背もたれに思いきりもたれかかった。ああ、今日は心底運が悪かった。いや、よかったのか?もはやどう判断していいのかわからない。そんなミコトを、コーヒーを飲みながら理が見つめている。相変わらずその青い瞳は吸い込まれそうで、目を合わせるのが怖かった。
「明日も止めに行くから」
カップをソーサーに置いた理は、さらりと口にした。様々な言葉が省略された文章だったが、ミコトにはどのような意味かはっきりわかった。ミコトはムッと口を尖らせる。
「どうして?」
「俺の知らないところでクラスメイトが死ぬなんて嫌だ」
「……」
不思議な人だ。眼差しからも声からも引き留めたいという強い情熱を感じないものの、本当に明日も来るだろうなと思わせる力があった。ミコトは半ば諦めに似た気持ちでコーヒーを啜った。当たり前のように苦い。砂糖かミルクが欲しい。
「……変な人」
思わずぼそりと呟きつつ、ミコトはミルクをコーヒーに混ぜた。白い渦が生まれ、スプーンで混ぜると茶色い液体に変わっていく。苦い香りにほんの少し脂っこさが加わり親しみやすくなる。理は虚を突かれたと言わんばかりの顔で言った。
「変な人?俺が?」
「うん。……ただのクラスメイトにこんな、するなんて」
「当たり前だと思うけど」
「……やっぱり変な人」
一息つくために飲んだミルクコーヒーはもったりと苦く、ミコトの舌を刺激した。対する彼はブラックコーヒーをのんびりと口にしている。あまりに落ち着いた彼にミコトは疑問をぶつけた。
「どうして、とか聞かないんだね」
理はかすかに首を傾げた。
「聞いてほしい?」
ミコトは首を横に振った。話したいとは思わない。ただ、彼が何も聞かないのが奇妙だっただけだ。人一人の身投げを止めておいて普段とあまり変わらない態度だろう彼に尋ねてみたくなった。ミコトは口を開く。
「あなたは死にたいとか、思わないの」
「思ったことない」
即答だった。彼が否定する仕草に合わせて青い髪がさらさらと揺れる。梢を彩る葉が揺れるかのような繊細な動き、首を振る動作すら絵になる。
「じゃあどうして生きていたいって思うの」
その問いに、理は斜め上に視線を泳がせ一瞬考えている様子だった。コーヒーを一口飲み、ほろ苦い息を吐くと彼は言った。
「死んだらシャガールのコーヒーが飲めなくなる」
あまりにもあっさりとした答えにミコトは拍子抜けした。と同時、心に張り詰めていた糸がぷつぷつと切れていくのを感じた。ぷっと彼女は吹き出すように笑った。その様子を見た理は青い瞳を柔らかく細めた。
「月森の笑ったところ、初めて見た」
「え?」
「今、笑ってた。自覚ない?」
「え?……うん」
ミコトの顔から笑みが消え、唇を真一文字に結ぶ。俯きがちだった視線が理と目を合わせる高さに変わった。理は口元に優美な笑みを浮かべ、身を乗り出した。彼の青い瞳に覗き込まれる形になる。その瞳は深淵よりも深く、覗き込むと彼の中へ落ちていきそうだった。
「月森は笑ってる方がいい」
「笑ってる方がいい……?」
「そう」
彼の手が伸び、ミコトの頬と髪の間に差し込まれた。顔がよく見えるように髪を手の甲に流す、麗しい所作だった。
「屋上にいたときよりいい顔してる」
「屋上にいたとき、どんな顔してたの」
「死にそうな顔してた」
「……まぁ、死のうとしてたからね……」
彼の手が引っ込み、理はすとんと椅子に座り直した。彼の両手が定位置のポケットに収まる。二人のカップは底が見えていた。ふと外を見ると、宵闇が近付く頃だった。仕事終わりのサラリーマンや夜遊びに繰り出す月光館学園の生徒たちが歩いている。
「月森、俺と約束して」
「約束?」
店外を見ていた眼差しを理に向けると、彼は少し鋭い目でミコトを見つめていた。
「明日もまた、俺と一緒にコーヒー飲もう」
それはつまり、明日も生きるということ。ミコトは逡巡したが小さく頷いた。理は満足そうに笑うと立ち上がる。
「今日は途中まで一緒に帰ろう」
確かにそろそろ帰る時間か。ミコトも席を立つと、彼に手を取られた。驚き彼を見ると理は当然と言わんばかりの顔で、
「こうしてないとまた高いところに行くかもしれないから」
と言い、ミコトの手を引いて歩き始めた。当初はミコトより少し早足だったが、歩くうちにミコトの歩く速さに合わせてくれた。
彼とたわいもない話をしながら駅に向かい、帰る方向が違うからと駅構内で別れた。繋いだ手が離れた瞬間彼は手を振り、
「じゃあ、また明日」
と告げ雑踏に消えていった。ミコトは手を振った体勢で硬直していた。彼女の周囲を人々が足早に通り過ぎていく。
「また明日、か……」
今日で全て幕引きだと思っていたが、予想に反し未来が続いてしまった。彼の別れの言葉が頭の中で何度もこだましている。ミコトは大人しく帰ることにした。どこか高いところを目指すことも電車に身を投げることもなく、ただ黙々と自宅を目指した。
月森ミコトは当たり前のように朝を迎え、学園に向かった。いつもどおり授業を受け、あっという間に時間が過ぎる。放課後カバンに荷物を詰めていると、誰かが前に立った。背の高い影が落ちる。見上げると、青い髪で片目を隠した彼が立っていた。彼は右手をポケットからそっと差し出す。
「月森、行こう」
どこへ?なんて野暮な質問はしなかった。ミコトは彼の手を取り立ち上がる。青い髪を揺らして歩く彼からは、ほろ苦いコーヒーの香りが漂ってくるようだった。
飛び降りようと決意した日はこれ以上ないほどの晴天だった。月森ミコトは放課後の訪れとともに屋上に向かった。放課後ということもあり学園はざわざわと喧騒に満ち、どこか浮かれた雰囲気が漂っている。学生カバンを片手にミコトは粛々と歩く。少し俯き気味に歩き続ける様は彷徨う霊魂のようだった。
屋上の扉を開けると眩しい夕日が目に飛び込み、ミコトは目元を覆うように手をかざした。幸いにも屋上には誰もいないようだった。真っ平なコンクリートの床を歩けばあっという間に端に辿り着く。転落防止の手すりにもたれかかり、少し身を乗り出した。見下ろした地面は遠く、ここから飛び降りれば頭と地面が強烈な口付けを交わして死ねるだろう。ミコトはふうと息をつき、空を眺めた。夕暮れ時の橙が広がり、雲は茜色に染まりながらたなびいている。陸上部が練習をする声が遠く聞こえる。何ということのない日常が穏やかに流れている――ミコトが飛び降りたところで日常は変わりなく続く。そう確信した。
ミコトは手すりに手をかけ、乗り越えようと力を入れた。その瞬間、背後から忙しない足音が接近してくるのが聞こえ、
「待って」
思いきり腕を掴まれた。ミコトが振り返ると、そこには男子生徒が立っていた。青い髪で右目を隠した見知らぬ生徒、露出した左目は茜色の哀愁を纏いながらもミコトを睨むように真っ直ぐ見据えている。
「えっと……離してくれない?」
振り向いた不自然な姿勢のままミコトは呟いた。男子生徒はじっと心の奥底を覗く眼差しを向けている。
「君が手すりの向こうに行かないなら」
「……」
男子生徒はミコトの意図を正しく理解しているようだった。しばし彼と見つめ合った。状況だけを見れば別れ際を惜しむ恋人同士のようだったが、二人の間に流れるのは緊張感。甘さは欠片もない。ただ沈黙の時間が流れる。男子生徒は離してくれない。ミコトは脱力した。
「……わかった。行かないって約束するから、離してくれる?」
男子生徒の目を見てはっきり伝えると、彼は頷き手を離してくれた。今日はもう帰ろう。ミコトが歩き出そうとしたとき、
「今日暇?君さえよければ、これから俺とコーヒーでも飲まない?俺が奢るから」
さらりとお誘いを受けた。ミコトは立ち止まり、男子生徒をまじまじと見つめた。彼はポケットに両手を突っ込み、じっとミコトの返事を待っている。どうにも無下にできずミコトが頷くと、男子生徒の口元がかすかに綻んだ気がした。
ミコトは見知らぬ男子生徒と喫茶シャガールに腰を落ち着けることになった。彼は宣言どおりコーヒーを奢ってくれ、向かい合う二人の前にはそれぞれ湯気の立つコーヒーが置かれている。男子生徒は優雅にコーヒーを一口飲むと、カップをソーサーに置いた。程よい雑音に満ちた店内で、その音は心地よく響いた。
「俺は結城理。君は月森、で合ってるかな」
「どうして私を知ってるの」
「クラスメイトだから」
男子生徒――結城理はあっさりと答えた。クラスメイトということはミコトも知っていておかしくないのだが、全く記憶になかった。窓際の席で窓の外を見ることにばかり注力していたから、クラスメイトの顔など誰一人として覚えていなかった。
「ここに来るのは初めて?」
コーヒーに手をつけないミコトに尋ねてくる。ミコトはこくりと頷いた。じっと見つめるコーヒーの水面から苦味を想起させる香りが漂ってくる。黒い水面には神妙な顔で凝視するミコトが映り、揺らめいていた。
「そう。ここ、なかなかいいところだと思わない?うるさすぎず、静かすぎず……放課後ボーッとするにはうってつけだ」
「……あの」
コーヒーの揺らぎを見つめていたミコトは顔を上げた。理の美しい青い瞳と目が合う。深い海にも広い空にも似た蠱惑的な瞳だった。
「どうして私を止めたの」
きっと彼はミコトが何をするつもりだったのか知っている。単刀直入な疑問に、彼は不思議そうな顔をした。
「俺の目の前でクラスメイトが飛び降りるところなんて、見たくなかったから」
「……私が死んでも、あなたには何の関係もないじゃない」
「関係ある」
理はきっぱりと言い切った。意外な言葉で、今度はミコトが怪訝な顔をすることになる。
「俺の気分がよくない」
「……」
体の力が抜けたミコトは深いため息をつき、ソファー席の背もたれに思いきりもたれかかった。ああ、今日は心底運が悪かった。いや、よかったのか?もはやどう判断していいのかわからない。そんなミコトを、コーヒーを飲みながら理が見つめている。相変わらずその青い瞳は吸い込まれそうで、目を合わせるのが怖かった。
「明日も止めに行くから」
カップをソーサーに置いた理は、さらりと口にした。様々な言葉が省略された文章だったが、ミコトにはどのような意味かはっきりわかった。ミコトはムッと口を尖らせる。
「どうして?」
「俺の知らないところでクラスメイトが死ぬなんて嫌だ」
「……」
不思議な人だ。眼差しからも声からも引き留めたいという強い情熱を感じないものの、本当に明日も来るだろうなと思わせる力があった。ミコトは半ば諦めに似た気持ちでコーヒーを啜った。当たり前のように苦い。砂糖かミルクが欲しい。
「……変な人」
思わずぼそりと呟きつつ、ミコトはミルクをコーヒーに混ぜた。白い渦が生まれ、スプーンで混ぜると茶色い液体に変わっていく。苦い香りにほんの少し脂っこさが加わり親しみやすくなる。理は虚を突かれたと言わんばかりの顔で言った。
「変な人?俺が?」
「うん。……ただのクラスメイトにこんな、するなんて」
「当たり前だと思うけど」
「……やっぱり変な人」
一息つくために飲んだミルクコーヒーはもったりと苦く、ミコトの舌を刺激した。対する彼はブラックコーヒーをのんびりと口にしている。あまりに落ち着いた彼にミコトは疑問をぶつけた。
「どうして、とか聞かないんだね」
理はかすかに首を傾げた。
「聞いてほしい?」
ミコトは首を横に振った。話したいとは思わない。ただ、彼が何も聞かないのが奇妙だっただけだ。人一人の身投げを止めておいて普段とあまり変わらない態度だろう彼に尋ねてみたくなった。ミコトは口を開く。
「あなたは死にたいとか、思わないの」
「思ったことない」
即答だった。彼が否定する仕草に合わせて青い髪がさらさらと揺れる。梢を彩る葉が揺れるかのような繊細な動き、首を振る動作すら絵になる。
「じゃあどうして生きていたいって思うの」
その問いに、理は斜め上に視線を泳がせ一瞬考えている様子だった。コーヒーを一口飲み、ほろ苦い息を吐くと彼は言った。
「死んだらシャガールのコーヒーが飲めなくなる」
あまりにもあっさりとした答えにミコトは拍子抜けした。と同時、心に張り詰めていた糸がぷつぷつと切れていくのを感じた。ぷっと彼女は吹き出すように笑った。その様子を見た理は青い瞳を柔らかく細めた。
「月森の笑ったところ、初めて見た」
「え?」
「今、笑ってた。自覚ない?」
「え?……うん」
ミコトの顔から笑みが消え、唇を真一文字に結ぶ。俯きがちだった視線が理と目を合わせる高さに変わった。理は口元に優美な笑みを浮かべ、身を乗り出した。彼の青い瞳に覗き込まれる形になる。その瞳は深淵よりも深く、覗き込むと彼の中へ落ちていきそうだった。
「月森は笑ってる方がいい」
「笑ってる方がいい……?」
「そう」
彼の手が伸び、ミコトの頬と髪の間に差し込まれた。顔がよく見えるように髪を手の甲に流す、麗しい所作だった。
「屋上にいたときよりいい顔してる」
「屋上にいたとき、どんな顔してたの」
「死にそうな顔してた」
「……まぁ、死のうとしてたからね……」
彼の手が引っ込み、理はすとんと椅子に座り直した。彼の両手が定位置のポケットに収まる。二人のカップは底が見えていた。ふと外を見ると、宵闇が近付く頃だった。仕事終わりのサラリーマンや夜遊びに繰り出す月光館学園の生徒たちが歩いている。
「月森、俺と約束して」
「約束?」
店外を見ていた眼差しを理に向けると、彼は少し鋭い目でミコトを見つめていた。
「明日もまた、俺と一緒にコーヒー飲もう」
それはつまり、明日も生きるということ。ミコトは逡巡したが小さく頷いた。理は満足そうに笑うと立ち上がる。
「今日は途中まで一緒に帰ろう」
確かにそろそろ帰る時間か。ミコトも席を立つと、彼に手を取られた。驚き彼を見ると理は当然と言わんばかりの顔で、
「こうしてないとまた高いところに行くかもしれないから」
と言い、ミコトの手を引いて歩き始めた。当初はミコトより少し早足だったが、歩くうちにミコトの歩く速さに合わせてくれた。
彼とたわいもない話をしながら駅に向かい、帰る方向が違うからと駅構内で別れた。繋いだ手が離れた瞬間彼は手を振り、
「じゃあ、また明日」
と告げ雑踏に消えていった。ミコトは手を振った体勢で硬直していた。彼女の周囲を人々が足早に通り過ぎていく。
「また明日、か……」
今日で全て幕引きだと思っていたが、予想に反し未来が続いてしまった。彼の別れの言葉が頭の中で何度もこだましている。ミコトは大人しく帰ることにした。どこか高いところを目指すことも電車に身を投げることもなく、ただ黙々と自宅を目指した。
月森ミコトは当たり前のように朝を迎え、学園に向かった。いつもどおり授業を受け、あっという間に時間が過ぎる。放課後カバンに荷物を詰めていると、誰かが前に立った。背の高い影が落ちる。見上げると、青い髪で片目を隠した彼が立っていた。彼は右手をポケットからそっと差し出す。
「月森、行こう」
どこへ?なんて野暮な質問はしなかった。ミコトは彼の手を取り立ち上がる。青い髪を揺らして歩く彼からは、ほろ苦いコーヒーの香りが漂ってくるようだった。
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