幼なじみと王子様が私を離してくれない
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#9 王子様も甘えたい
「あ、あの、ヒイラギ様」
ヒイラギはシンを追い払うと、マナを抱き抱えたまま迷いなく自室へと向かった。見覚えのある豪奢な部屋、天蓋付きのベッドにふわりと下ろされ、マナは恐る恐るヒイラギを見上げた。彼はマナの隣に座ると、強く引き寄せぎゅっと抱きしめた。
「マナ……マナ、無事でよかった」
「え……えっと、あの」
困惑するマナは押し潰されそうなほど強く抱きしめられ、身動きが取れなくなってしまった。ヒイラギの腕がマナの背中や後頭部に回り、彼の息遣いすら聞こえる密着した状態に顔が赤らむ。抵抗もできずされるがままになっていると、ヒイラギの体が細かく震えていることに気がついた。耳元でかすかな嗚咽も聞こえる。
「ヒイラギ様、大丈夫ですか?」
思わず尋ねると、ヒイラギは少しだけ抱きしめる力を緩めてくれた。彼と至近距離で向かい合う。金色の瞳には涙が滲んでいた。
「ああ、ごめん……格好悪いところを見せたね」
「ヒイラギ様、どうしたのですか?何だか変な感じで……とても心配です」
ヒイラギは涙を乱暴に拭うと口元を緩めた。いかにも無理をしていますといった苦しそうな微笑みだった。
「あの村であんなことが起こるなんて思っていなかったんだ。君が殺されるかもしれないって思ったら、震えが止まらないよ」
「私もびっくりしました。あんなの、初めてで……」
「僕がいけないんだ」
ヒイラギはゆっくりと首を横に振った。マナを抱きしめる手に力がこもる。
「君が人質に取られたとき、僕は何もできなかった……あのときシンがいなければ、助けられなかったかもしれない。こんな風にしか君を守ることができなくて……」
ヒイラギの全身に微細な震えが走る。彼の唇から言葉が零れ落ちるたび、黄金の瞳からぽろぽろと雫が垂れ落ちていく。穏やかで優美な王族の彼からは想像もつかない、儚く弱々しい姿だった。マナはヒイラギの背中に手を添え、そっと撫でてやった。青い髪とともに撫でると、彼は涙を浮かべつつも笑った。
「ありがとう、マナ。君は優しいね。……僕が無理矢理連れてきちゃったから、村に帰るなら送るよ」
「いいえ」
マナはゆるりと否定し、ヒイラギに笑いかけた。
「今のヒイラギ様、心配です……だから少なくとも今日は帰りません。ヒイラギ様、ここにいてもよろしいですか?」
そう言ったときのヒイラギは心の底から嬉しそうに笑い、マナに思いきり抱きついてきた。
女王にマナを滞在させることをヒイラギが説明すると、彼女は何かを察した様子で了承してくれた。女王やヒイラギとの食事を終え、用意された来客用の部屋に向かおうとしたところ、ヒイラギに腕を掴まれた。
「どうされたのですか、ヒイラギ様」
「今夜だけでもいいから、僕の部屋にいてほしい」
マナを見据えるヒイラギの瞳は真剣で、少し潤んだ双眸が星のきらめきのようで美しかった。声音も軽いものではなく、冗談を言っているようには聞こえなかった。切迫した懇願を肌で感じたマナは、思わず頷いていた。
そうして二人は再びヒイラギの部屋に腰を落ち着ける。テーブルには食後の紅茶が用意され、二人は紅茶のぬくもりを感じながら見つめ合う格好になる。
「あんなことがあったからかな、マナが僕の目の届かないところに行ってしまうのが嫌なんだ。……王城の中だっていうのに、変だよね」
ヒイラギは自嘲しながらもさすがは王族、茶を嗜む姿は優雅そのものだった。マナもそっとティーカップに触れる。
「ヒイラギ様が気にかけてくださるなんて、ありがたいことです。本当にありがとうございます」
「ううん、僕はただ心配しているだけだよ。……シンみたいに、僕も君を守りたいのに」
「ヒイラギ様……」
ティーカップをソーサーに置いたヒイラギは、悔しそうに顔を歪めていた。海上都市シバの王族に生まれ、およそ手に入らないものはなかったであろう彼がこんな顔をするなどと、誰が想像できようか。マナは彼の珍しい姿に心がざわつくのを感じた。
「マナ。君をお嫁さんにしたいって言ったの、覚えてるかな」
「あ、は、はい」
顔を上げたヒイラギの、あまりに真っ直ぐな視線が刺さる。マナの背筋が無意識に伸びた。
「今でも僕の気持ちは変わらないよ。村であんなことがあった後だし、安全な王城でずっと暮らして、僕の隣にいてほしい」
「……ヒイラギ様のお気持ちは、とてもありがたいのですが……」
マナの脳裏に浮かぶのは生まれ育った村の景色。優しい父と暮らし、隣の家には気心の知れた幼なじみがいる。村で恐ろしい思いをしたことは事実だが、あの場所に思い出と思い入れがあるのも事実だ。
「……そんなすぐにお返事などできません。一度村にも帰らないといけないですし」
「……そうだよね。君はずっとあの村で生まれ育ったものね」
紅茶の吐息を吐いたヒイラギは、昼間見た彼よりいくらか落ち着いたように見えた。しかし金色の瞳はいまだ不安定な光を放っており、マナの心をくすぐる。
「ごめんね、急に。僕も色々不安になってしまっていたみたいだ」
そう言って少し気まずそうに笑う彼にマナも微笑みを返す。夜のティータイムを楽しんだ二人は、自然とベッドに行き着くことになる。ヒイラギの部屋のベッドで寝るのは二度目だが、前回よりも緊張している気がする。ヒイラギの隣に寝転ぶと、彼は穏やかに笑いマナを抱き寄せた。彼の腕の中に収まってしまい、マナの顔が一気に熱くなった。
「こうしていないと不安なんだ。君がどこかに行ってしまう気がする」
「大丈夫ですよ、今夜はヒイラギ様と一緒ですから」
「うん……」
広くゆとりのあるベッドに寝転んでいても、ヒイラギはマナを離そうとしなかった。安心した顔をしつつもマナの頭を撫で、密着した距離感を保ったままだった。
「マナ……」
名を呼ばれ顔を上げると、額にヒイラギの唇が挨拶をした。前髪をそっと手でどかされ、もう一度。シンともしたことのない触れ合いにマナは硬直してしまう。
「ヒイラギ様!?」
「本当は唇にしたいんだよ。でも恋人でもない女性にそんなことをしてはいけないと聞いているからね。だからおでこに少しだけ」
「と、突然そのようなことをするのはおやめください……すごくびっくりして……」
顔を赤らめていると、ヒイラギは至近距離で怪しい笑顔を見せた。何かを企む悪い顔だ。
「じゃあ、おでこにキスするよって言ってからなら構わないの?」
「あ、えーと、その、そういう意味では……!」
ぶんぶんと大袈裟に首を振るマナを見たヒイラギはくすくすと笑っていた。今日初めて見た、子供っぽい可愛らしい笑顔だった。王族であるヒイラギだが、硬い表情よりも悪戯っぽい顔の方が彼らしい気がする。
「ふふ、いい機会だから教えてあげる。マナ、僕にははっきり言わないと伝わらないよ」
そう言った彼が再び額に口付けてくる。彼の唇のしっとりした感触は、気怠い疲れに満ちた体には鮮烈だった。硬直したマナはヒイラギに熱く抱擁され、彼の胸板に顔が埋まる。マナの心をかき乱した罪深き王子は、一足先にすやすやと眠りの海に落ちていったようだった。
一人村に戻ったシンは、苛々と爪を噛んでいた。マナの父に顛末を報告し頭を下げたが、どうにも落ち着かない。
「シン、マナを心配してくれてありがとう。王城にいるのなら悪いようにはされないだろう。この件は私の方で対応する」
とマナの父から言われて食い下がりそうになったが、大人しく了承し家に戻った次第である。シンはマナと親交があるものの、あくまで幼なじみに過ぎない。彼女の身を案じるのは当然としても、単独で王族に物申せる関係とは言い難かった。
マナとヒイラギのいない夜は静寂に塗り潰され、シンは眠れなかった。それでも朝日が昇り、爽やかな朝が訪れる。普段ならマナが家にやってくるのに、今朝はそれもなく静かだ。駄目だ、どうしてもこのままにはしておけない。シンはマナの父を訪ねた。
「おはようございます」
「ああ、おはようシン。ちょうどよかった、王城から手紙が届いてね」
「……手紙?」
ぴくりとシンの眉が動いた。非礼を詫びる手紙でも届いたのだろうか。封筒にはヒイラギの名が記されている。
「読んでもいいですか」
「構わないよ」
マナの父から手紙を受け取り、シンは目を滑らせた。
『拝啓
マナのお父上へ
このたびは私の不手際で大切なお嬢様を危険な目に遭わせてしまい、大変申し訳ありません。彼女の身を案じてとはいえ、お父上の承諾もなくマナを王城に滞在させたことは大変不躾なことであると猛省しております。
私個人の希望ではありますが、お嬢様を三日間王城で歓待させていただきたく存じます。彼女も承諾の上でございます。こちらについても事後報告となってしまい申し訳ありませんが、ご承知のほどよろしくお願いします。
敬具』
「……!?マナがまだ王城に!?」
「ああ、そのようだ」
脳が沸騰する勢いのシンとは裏腹に、マナの父は落ち着いたものだった。シンは手紙を握りしめ、彼に食ってかかった。
「どうして村に帰ってこないのですか?もうあの男は憲兵に突き出したのに」
「マナが怖がって帰りたくないと言っているのかもしれない。こうして手紙を下さったのだし、明日には取引で王城に向かうから、そのときにマナの様子を確認しようと思っていたところだ」
「……明日、オレもついていっていいですか。マナが心配です」
「ああ、わかった。一緒に行こう。シンがついてきてくれたらマナも喜ぶだろうし」
シンはほっと安堵しつつも、今すぐにでも王城に乗り込みたい気持ちを宥めるのに必死だった。手紙ではああ書いているが、王族であることを利用してマナを無理矢理閉じ込めているかもしれない。もしもそうならすぐにでもマナを取り返さねば、とシンは拳を握っていた。
「マナ、本当にいいの?村に帰ってもいいんだよ」
尋ねるヒイラギに、マナはかぶりを振った。
「いいえ、いいんです。もう少し、ここにいさせてください」
そう告げると、ヒイラギは子供のように笑い抱きついてきた。彼の背中を撫でながら、マナはほんの少しだけ安心していた。
王城に保護され一日が過ぎた。ヒイラギは普段どおり接してくれてはいるものの、どこか不安定な様子でマナから離れようとしない。優雅な彼の奥から滲み出る不穏な気配をマナは放っておくことができなかった。滞在期間はヒイラギと相談した結果、三日間になった。村にはヒイラギから手紙を出すとのことで、早ければもう届いている頃合いだった。
「マナ、今日は剣の稽古があるんだ。見ていてくれないかな」
「わかりました」
広い庭園にヒイラギと剣の師匠が向かい合い、互いに真剣な表情で訓練を行っていた。ヒイラギが踏み込んだり斬り込んだりするたびに青い髪がなびき、陽光を受け美しい輝きを残した。マナは剣術のことは何もわからないが、鬼気迫るヒイラギの様子に圧倒されていた。とてもただの稽古には見えない――師匠ではなく敵を睨みつけるような眼光に、はたで見ているだけのマナも縮こまる思いだった。
ふとマナはシンを思い出した。人質に取られた際、助けてくれたのはシンだった。王城にマナが残ることに激昂した彼は王城に乗り込んでくる勢いだったが、意外にも彼の姿はない。マナの父も心配しているだろうか、と考え始めた頃稽古が終わり、汗ばんだ様子のヒイラギがそっとマナの元にやってきた。
「どうしたの、マナ。何か考え事かな?」
「あ、はい。シンや父はどうしてるかなってふと思ったんです」
そう言うと、ヒイラギは顔を曇らせた。ふぅと深いため息をつく。
「手紙を出しはしたけれど、罵られても仕方ないことをしたからね……明日、取引の日なんだ。お父上がいらっしゃると思うから、そのときにお話するといいよ」
「はい、ありがとうございます」
マナが小さく頭を下げると、ヒイラギは微笑んだ。
「僕からもきちんとお話しないとね。マナ、ありがとう。そばにいてくれて」
「はい……あの、ヒイラギ様」
マナはヒイラギの手を取った。稽古の後の手は熱を持ち、マナよりも大きな手は逞しい。ヒイラギは首を傾げていた。
「あまりご自分を責めないでください。ヒイラギ様は何も悪くないのですから」
一瞬目を見開いたヒイラギは、たまらずマナを抱きしめた。突然の抱擁に戸惑うマナは、見た目よりも筋肉質な彼の腕の中に閉じ込められる。
「ありがとう。僕のためにそう言ってくれるのは嬉しいよ。でも」
ヒイラギはマナを真っ直ぐ見つめ、黄金の瞳を細めた。
「もっと強くなりたいんだ。君を一人で守れるくらいにね」
マナが王城に保護され二日経ち、シンは取引に向かうマナの父に同行することとした。白いシャツに袖を通すと緊張感が全身を駆け抜けていく。身なりを整えたシンは深く息をついた。正直なところヒイラギを一目見ただけで殴り飛ばしそうな気がする、邪気を吐息に乗せて吐き出した。
マナの父と馬車に乗り、王城には問題なく辿り着いた。マナの父は女王と今後の取引について交渉するとのことで、シンはヒイラギの部屋に通されることになった。彼の部屋に赴くのは二度目だが、全身にぴりつく電流が纏わり付き落ち着かなかった。
「やあ、シン。よく来てくれたね」
「……!」
ヒイラギはテーブルにお茶を用意して待ち構えており、その笑顔は憎たらしいほど余裕に満ちていた。シンの血液が一気に沸騰し爪が食い込むほど拳を握りしめたが、なんとか深呼吸をして落ち着かせた。
「僕にたくさん言いたいことがあるのはわかる。とりあえず座って」
「……ああ」
お茶やお菓子で可愛らしいテーブルにつく。誘惑するような甘い香りも、今はシンの苛立ちを強める効果しかなかった。シンは鋭くヒイラギを睨む。
「手紙を読んだ。マナはどうした、王城にいるはずだろ」
「マナならメイドたちとお茶をしているところだよ。大丈夫、後でマナともお話できるようにしてるから」
「どうして三人で話さないんだ」
刺々しい口調を隠さないシンに、ヒイラギは申し訳なさそうに眉を下げた。
「こんな風に険悪な雰囲気になるってわかりきってたからね。マナには余計な心配をかけたくないんだ」
「……」
彼の言い分にも一理ある。シンは黙り込んだが、ヒイラギを見つめる眼差しは鋭く尖っていた。
「手紙にも書いたとおり、マナはもう少しここにいてもらうことになった。彼女も了承の上だよ。最初こそ無理矢理だったのは申し訳なかったと思ってる。だからマナのお父上にもきちんと説明する。シンにも余計な心配をさせたね」
「なんで王城に連れてきたんだ。怪しいヤツは憲兵に突き出したし、村に帰ったって問題ないはずだ」
「頭では理解できるけどね。……でも、大切な人が傷ついた場所に帰したくないって思うのは当然でしょ?」
そう首を傾げるヒイラギに、シンはぎりぎりと奥歯を噛みしめた。火照った頭を冷ますために紅茶を一口啜る。シンの舌に穏やかな渋味と苦味が広がっていく、少し落ち着けと言われている気がした。
「そうだ、シン。ちゃんと僕の口から伝えたいことがあって」
ヒイラギは立ち上がり、深々と頭を下げた。青い髪が感情とともに垂れ下がる。
「ありがとう。あのとき、君がいなかったらマナを助けることができなかった。今僕がマナと一緒にいられるのは君のおかげだ」
「やめろ。……座れ」
シンの低い声にヒイラギは神妙な顔で再び椅子に座った。シンは腕を組み鋭く目を細めた。
「勘違いするな、お前のためにマナを助けたんじゃない」
「わかってるよ。それでも、きちんとお礼をしなきゃと思ってたんだ」
「……」
シンの眼光を受けながらも純粋に謝意を述べるヒイラギは眩しかった。苛立っている自分にこそ腹が立つ。シンは腕を組むのをやめ、小さく息をついた。
「……そろそろマナと会わせてもらえないか」
「うん、そうしようか。大丈夫、僕は席を外すから」
最後までヒイラギは王族らしい余裕に満ち、シンの心ばかりがすり減っていくようだった。
「マナ!」
来客用の部屋でマナがティータイムを楽しんでいたところ、扉が開いた。そこには数日振りのシンがおり、慌てた様子でマナの元に駆け寄ってくる。
「シン!どうしたの、そんなに慌てて」
思わず立ち上がると、向かい合ったシンは頭から足先までマナをじっと観察していた。ひととおり眺めた後ホッと安堵の息を漏らす。
「……とりあえず怪我はなさそうだし、悪いようにはされてないみたいだな」
「もちろんだよ!ヒイラギ様がそんなことするわけないじゃない」
いつもどおり笑って返すと、硬い表情のシンがようやく口元を緩めた。
「無理矢理王城に連れていかれたから、お前が嫌な思いをしていないか心配だった。大丈夫か、何か無理強いされたりしてないか」
「もう、シンってばお父さんみたい。大丈夫だよ、ヒイラギ様はよくしてくださってるよ」
「そうか……」
シンの手がマナに伸びたが空中でぴたりと止まる。何事かを考えるようにシンは目を逸らし、大きく息をついて手を下ろした。
「ヒイラギの手紙を読んだ。まだ王城にいるらしいな。ヒイラギに命令されたのか?」
「違うよ、私から言ったの。ヒイラギ様、見ていられない感じで心配だったから」
マナの言葉にシンはどうやら納得いかないようで、
「見ていられない感じ?とてもそうは見えなかったが」
と露骨に顔を顰めていた。そんなことない、とは言い出せなかった。シンの前では平静を装っていたのかもしれない、その努力を無下にはできない。マナが言い淀んでいると、シンはため息をついた。
「……マナは優しいな。王城には三日いるって聞いてる。明後日には帰ってくるんだよな?」
「うん。お父さんにも心配させちゃったし、あんまり長くいるのも悪いし」
「そうか。待ってるから、ちゃんと帰ってこいよ」
「うん。わざわざありがとう、シン。助けてもらったし、心配もしてくれて……シンには頭が上がらないね」
マナが小さく頭を下げるのを見たシンは、ゆるゆると首を振って否定した。
「大袈裟にするな。オレはやるべきことをしただけだ。明後日、美味い飯でも作れるようにしておく」
「ホント!?シンのご飯、また食べたいな。楽しみにしてるね!」
そう言うとシンは照れくさそうに笑ってくれた。
「マナ、ちょっといいかな」
シン、マナの父が村へと帰っていき、王城には静かな夜が訪れる。ヒイラギに呼ばれマナがついていくと、広い厨房に辿り着いた。夕食を済ませた時間帯、厨房は片付けも終わり誰もいなかった。
「マナに何かしてあげられることはないかと思って考えてたんだ。一つだけ思いついたことがあって」
言いながら彼が取り出したのは真っ赤なリンゴだった。艶々と瑞々しく、いかにも美味しそうである。
「シンに料理を教えてもらってたんだけど、どうにもうまくいかなくてさ……リンゴなら綺麗に剥けるようになったんだ、見ててくれるかな」
「わかりました」
ヒイラギの邪魔にならないよう少し離れた位置に立つと、彼は嬉しそうに笑い果物ナイフを手に取った。ややぎこちないながらも皮を剥き、くし形に切っていく。皿に並んだくし形のリンゴは少し歪に見えるが、十分に美味しそうだった。ヒイラギがフォークを手渡してくれる。
「一緒に食べよう。ちょっとしたデザートだよ」
「ありがとうございます」
リンゴにフォークを刺すとじんわりと果汁が滲み、甘酸っぱい香りが広がる。ヒイラギは美しい所作でリンゴを味わっていた。王族である彼と厨房で立ったままリンゴを食べる、もう二度とない経験のような気がする。
「マナの村に行って気付いたんだ。いつももてなすときに、誰かに用意してもらってばかりだなって。自分で用意しておもてなしするのも大切なことだよね」
「リンゴ、とっても美味しいです」
「よかった」
素朴に笑う彼と食べるリンゴは爽やかで、ついついもう一つと手が伸びる。ちょうどマナが半分食べたところ、ヒイラギはリンゴを一つ残してフォークを置いた。
「あれ、こちらはヒイラギ様の分ですよ」
「マナにあげる」
「いいのですか?」
「うん。よかったら食べて」
「ではお言葉に甘えちゃいますね」
ぺこりと頭を下げ、マナは最後のリンゴを口にした。心地よく弾む歯応え、噛むたびに溢れる果汁、美味しい。無邪気に楽しんでいると、柔らかな笑顔のヒイラギと目が合った。彼はマナが味わう様子を余すところなく見つめていた。
「マナは美味しそうに食べてくれるからとても嬉しいな。僕も料理ができたらなあ。毎日でもマナに食べてもらいたいのに」
飾り気のない笑みを浮かべるヒイラギを見ていると、マナも心があたたかくなる心地だった。
「あ、あの、ヒイラギ様」
ヒイラギはシンを追い払うと、マナを抱き抱えたまま迷いなく自室へと向かった。見覚えのある豪奢な部屋、天蓋付きのベッドにふわりと下ろされ、マナは恐る恐るヒイラギを見上げた。彼はマナの隣に座ると、強く引き寄せぎゅっと抱きしめた。
「マナ……マナ、無事でよかった」
「え……えっと、あの」
困惑するマナは押し潰されそうなほど強く抱きしめられ、身動きが取れなくなってしまった。ヒイラギの腕がマナの背中や後頭部に回り、彼の息遣いすら聞こえる密着した状態に顔が赤らむ。抵抗もできずされるがままになっていると、ヒイラギの体が細かく震えていることに気がついた。耳元でかすかな嗚咽も聞こえる。
「ヒイラギ様、大丈夫ですか?」
思わず尋ねると、ヒイラギは少しだけ抱きしめる力を緩めてくれた。彼と至近距離で向かい合う。金色の瞳には涙が滲んでいた。
「ああ、ごめん……格好悪いところを見せたね」
「ヒイラギ様、どうしたのですか?何だか変な感じで……とても心配です」
ヒイラギは涙を乱暴に拭うと口元を緩めた。いかにも無理をしていますといった苦しそうな微笑みだった。
「あの村であんなことが起こるなんて思っていなかったんだ。君が殺されるかもしれないって思ったら、震えが止まらないよ」
「私もびっくりしました。あんなの、初めてで……」
「僕がいけないんだ」
ヒイラギはゆっくりと首を横に振った。マナを抱きしめる手に力がこもる。
「君が人質に取られたとき、僕は何もできなかった……あのときシンがいなければ、助けられなかったかもしれない。こんな風にしか君を守ることができなくて……」
ヒイラギの全身に微細な震えが走る。彼の唇から言葉が零れ落ちるたび、黄金の瞳からぽろぽろと雫が垂れ落ちていく。穏やかで優美な王族の彼からは想像もつかない、儚く弱々しい姿だった。マナはヒイラギの背中に手を添え、そっと撫でてやった。青い髪とともに撫でると、彼は涙を浮かべつつも笑った。
「ありがとう、マナ。君は優しいね。……僕が無理矢理連れてきちゃったから、村に帰るなら送るよ」
「いいえ」
マナはゆるりと否定し、ヒイラギに笑いかけた。
「今のヒイラギ様、心配です……だから少なくとも今日は帰りません。ヒイラギ様、ここにいてもよろしいですか?」
そう言ったときのヒイラギは心の底から嬉しそうに笑い、マナに思いきり抱きついてきた。
女王にマナを滞在させることをヒイラギが説明すると、彼女は何かを察した様子で了承してくれた。女王やヒイラギとの食事を終え、用意された来客用の部屋に向かおうとしたところ、ヒイラギに腕を掴まれた。
「どうされたのですか、ヒイラギ様」
「今夜だけでもいいから、僕の部屋にいてほしい」
マナを見据えるヒイラギの瞳は真剣で、少し潤んだ双眸が星のきらめきのようで美しかった。声音も軽いものではなく、冗談を言っているようには聞こえなかった。切迫した懇願を肌で感じたマナは、思わず頷いていた。
そうして二人は再びヒイラギの部屋に腰を落ち着ける。テーブルには食後の紅茶が用意され、二人は紅茶のぬくもりを感じながら見つめ合う格好になる。
「あんなことがあったからかな、マナが僕の目の届かないところに行ってしまうのが嫌なんだ。……王城の中だっていうのに、変だよね」
ヒイラギは自嘲しながらもさすがは王族、茶を嗜む姿は優雅そのものだった。マナもそっとティーカップに触れる。
「ヒイラギ様が気にかけてくださるなんて、ありがたいことです。本当にありがとうございます」
「ううん、僕はただ心配しているだけだよ。……シンみたいに、僕も君を守りたいのに」
「ヒイラギ様……」
ティーカップをソーサーに置いたヒイラギは、悔しそうに顔を歪めていた。海上都市シバの王族に生まれ、およそ手に入らないものはなかったであろう彼がこんな顔をするなどと、誰が想像できようか。マナは彼の珍しい姿に心がざわつくのを感じた。
「マナ。君をお嫁さんにしたいって言ったの、覚えてるかな」
「あ、は、はい」
顔を上げたヒイラギの、あまりに真っ直ぐな視線が刺さる。マナの背筋が無意識に伸びた。
「今でも僕の気持ちは変わらないよ。村であんなことがあった後だし、安全な王城でずっと暮らして、僕の隣にいてほしい」
「……ヒイラギ様のお気持ちは、とてもありがたいのですが……」
マナの脳裏に浮かぶのは生まれ育った村の景色。優しい父と暮らし、隣の家には気心の知れた幼なじみがいる。村で恐ろしい思いをしたことは事実だが、あの場所に思い出と思い入れがあるのも事実だ。
「……そんなすぐにお返事などできません。一度村にも帰らないといけないですし」
「……そうだよね。君はずっとあの村で生まれ育ったものね」
紅茶の吐息を吐いたヒイラギは、昼間見た彼よりいくらか落ち着いたように見えた。しかし金色の瞳はいまだ不安定な光を放っており、マナの心をくすぐる。
「ごめんね、急に。僕も色々不安になってしまっていたみたいだ」
そう言って少し気まずそうに笑う彼にマナも微笑みを返す。夜のティータイムを楽しんだ二人は、自然とベッドに行き着くことになる。ヒイラギの部屋のベッドで寝るのは二度目だが、前回よりも緊張している気がする。ヒイラギの隣に寝転ぶと、彼は穏やかに笑いマナを抱き寄せた。彼の腕の中に収まってしまい、マナの顔が一気に熱くなった。
「こうしていないと不安なんだ。君がどこかに行ってしまう気がする」
「大丈夫ですよ、今夜はヒイラギ様と一緒ですから」
「うん……」
広くゆとりのあるベッドに寝転んでいても、ヒイラギはマナを離そうとしなかった。安心した顔をしつつもマナの頭を撫で、密着した距離感を保ったままだった。
「マナ……」
名を呼ばれ顔を上げると、額にヒイラギの唇が挨拶をした。前髪をそっと手でどかされ、もう一度。シンともしたことのない触れ合いにマナは硬直してしまう。
「ヒイラギ様!?」
「本当は唇にしたいんだよ。でも恋人でもない女性にそんなことをしてはいけないと聞いているからね。だからおでこに少しだけ」
「と、突然そのようなことをするのはおやめください……すごくびっくりして……」
顔を赤らめていると、ヒイラギは至近距離で怪しい笑顔を見せた。何かを企む悪い顔だ。
「じゃあ、おでこにキスするよって言ってからなら構わないの?」
「あ、えーと、その、そういう意味では……!」
ぶんぶんと大袈裟に首を振るマナを見たヒイラギはくすくすと笑っていた。今日初めて見た、子供っぽい可愛らしい笑顔だった。王族であるヒイラギだが、硬い表情よりも悪戯っぽい顔の方が彼らしい気がする。
「ふふ、いい機会だから教えてあげる。マナ、僕にははっきり言わないと伝わらないよ」
そう言った彼が再び額に口付けてくる。彼の唇のしっとりした感触は、気怠い疲れに満ちた体には鮮烈だった。硬直したマナはヒイラギに熱く抱擁され、彼の胸板に顔が埋まる。マナの心をかき乱した罪深き王子は、一足先にすやすやと眠りの海に落ちていったようだった。
一人村に戻ったシンは、苛々と爪を噛んでいた。マナの父に顛末を報告し頭を下げたが、どうにも落ち着かない。
「シン、マナを心配してくれてありがとう。王城にいるのなら悪いようにはされないだろう。この件は私の方で対応する」
とマナの父から言われて食い下がりそうになったが、大人しく了承し家に戻った次第である。シンはマナと親交があるものの、あくまで幼なじみに過ぎない。彼女の身を案じるのは当然としても、単独で王族に物申せる関係とは言い難かった。
マナとヒイラギのいない夜は静寂に塗り潰され、シンは眠れなかった。それでも朝日が昇り、爽やかな朝が訪れる。普段ならマナが家にやってくるのに、今朝はそれもなく静かだ。駄目だ、どうしてもこのままにはしておけない。シンはマナの父を訪ねた。
「おはようございます」
「ああ、おはようシン。ちょうどよかった、王城から手紙が届いてね」
「……手紙?」
ぴくりとシンの眉が動いた。非礼を詫びる手紙でも届いたのだろうか。封筒にはヒイラギの名が記されている。
「読んでもいいですか」
「構わないよ」
マナの父から手紙を受け取り、シンは目を滑らせた。
『拝啓
マナのお父上へ
このたびは私の不手際で大切なお嬢様を危険な目に遭わせてしまい、大変申し訳ありません。彼女の身を案じてとはいえ、お父上の承諾もなくマナを王城に滞在させたことは大変不躾なことであると猛省しております。
私個人の希望ではありますが、お嬢様を三日間王城で歓待させていただきたく存じます。彼女も承諾の上でございます。こちらについても事後報告となってしまい申し訳ありませんが、ご承知のほどよろしくお願いします。
敬具』
「……!?マナがまだ王城に!?」
「ああ、そのようだ」
脳が沸騰する勢いのシンとは裏腹に、マナの父は落ち着いたものだった。シンは手紙を握りしめ、彼に食ってかかった。
「どうして村に帰ってこないのですか?もうあの男は憲兵に突き出したのに」
「マナが怖がって帰りたくないと言っているのかもしれない。こうして手紙を下さったのだし、明日には取引で王城に向かうから、そのときにマナの様子を確認しようと思っていたところだ」
「……明日、オレもついていっていいですか。マナが心配です」
「ああ、わかった。一緒に行こう。シンがついてきてくれたらマナも喜ぶだろうし」
シンはほっと安堵しつつも、今すぐにでも王城に乗り込みたい気持ちを宥めるのに必死だった。手紙ではああ書いているが、王族であることを利用してマナを無理矢理閉じ込めているかもしれない。もしもそうならすぐにでもマナを取り返さねば、とシンは拳を握っていた。
「マナ、本当にいいの?村に帰ってもいいんだよ」
尋ねるヒイラギに、マナはかぶりを振った。
「いいえ、いいんです。もう少し、ここにいさせてください」
そう告げると、ヒイラギは子供のように笑い抱きついてきた。彼の背中を撫でながら、マナはほんの少しだけ安心していた。
王城に保護され一日が過ぎた。ヒイラギは普段どおり接してくれてはいるものの、どこか不安定な様子でマナから離れようとしない。優雅な彼の奥から滲み出る不穏な気配をマナは放っておくことができなかった。滞在期間はヒイラギと相談した結果、三日間になった。村にはヒイラギから手紙を出すとのことで、早ければもう届いている頃合いだった。
「マナ、今日は剣の稽古があるんだ。見ていてくれないかな」
「わかりました」
広い庭園にヒイラギと剣の師匠が向かい合い、互いに真剣な表情で訓練を行っていた。ヒイラギが踏み込んだり斬り込んだりするたびに青い髪がなびき、陽光を受け美しい輝きを残した。マナは剣術のことは何もわからないが、鬼気迫るヒイラギの様子に圧倒されていた。とてもただの稽古には見えない――師匠ではなく敵を睨みつけるような眼光に、はたで見ているだけのマナも縮こまる思いだった。
ふとマナはシンを思い出した。人質に取られた際、助けてくれたのはシンだった。王城にマナが残ることに激昂した彼は王城に乗り込んでくる勢いだったが、意外にも彼の姿はない。マナの父も心配しているだろうか、と考え始めた頃稽古が終わり、汗ばんだ様子のヒイラギがそっとマナの元にやってきた。
「どうしたの、マナ。何か考え事かな?」
「あ、はい。シンや父はどうしてるかなってふと思ったんです」
そう言うと、ヒイラギは顔を曇らせた。ふぅと深いため息をつく。
「手紙を出しはしたけれど、罵られても仕方ないことをしたからね……明日、取引の日なんだ。お父上がいらっしゃると思うから、そのときにお話するといいよ」
「はい、ありがとうございます」
マナが小さく頭を下げると、ヒイラギは微笑んだ。
「僕からもきちんとお話しないとね。マナ、ありがとう。そばにいてくれて」
「はい……あの、ヒイラギ様」
マナはヒイラギの手を取った。稽古の後の手は熱を持ち、マナよりも大きな手は逞しい。ヒイラギは首を傾げていた。
「あまりご自分を責めないでください。ヒイラギ様は何も悪くないのですから」
一瞬目を見開いたヒイラギは、たまらずマナを抱きしめた。突然の抱擁に戸惑うマナは、見た目よりも筋肉質な彼の腕の中に閉じ込められる。
「ありがとう。僕のためにそう言ってくれるのは嬉しいよ。でも」
ヒイラギはマナを真っ直ぐ見つめ、黄金の瞳を細めた。
「もっと強くなりたいんだ。君を一人で守れるくらいにね」
マナが王城に保護され二日経ち、シンは取引に向かうマナの父に同行することとした。白いシャツに袖を通すと緊張感が全身を駆け抜けていく。身なりを整えたシンは深く息をついた。正直なところヒイラギを一目見ただけで殴り飛ばしそうな気がする、邪気を吐息に乗せて吐き出した。
マナの父と馬車に乗り、王城には問題なく辿り着いた。マナの父は女王と今後の取引について交渉するとのことで、シンはヒイラギの部屋に通されることになった。彼の部屋に赴くのは二度目だが、全身にぴりつく電流が纏わり付き落ち着かなかった。
「やあ、シン。よく来てくれたね」
「……!」
ヒイラギはテーブルにお茶を用意して待ち構えており、その笑顔は憎たらしいほど余裕に満ちていた。シンの血液が一気に沸騰し爪が食い込むほど拳を握りしめたが、なんとか深呼吸をして落ち着かせた。
「僕にたくさん言いたいことがあるのはわかる。とりあえず座って」
「……ああ」
お茶やお菓子で可愛らしいテーブルにつく。誘惑するような甘い香りも、今はシンの苛立ちを強める効果しかなかった。シンは鋭くヒイラギを睨む。
「手紙を読んだ。マナはどうした、王城にいるはずだろ」
「マナならメイドたちとお茶をしているところだよ。大丈夫、後でマナともお話できるようにしてるから」
「どうして三人で話さないんだ」
刺々しい口調を隠さないシンに、ヒイラギは申し訳なさそうに眉を下げた。
「こんな風に険悪な雰囲気になるってわかりきってたからね。マナには余計な心配をかけたくないんだ」
「……」
彼の言い分にも一理ある。シンは黙り込んだが、ヒイラギを見つめる眼差しは鋭く尖っていた。
「手紙にも書いたとおり、マナはもう少しここにいてもらうことになった。彼女も了承の上だよ。最初こそ無理矢理だったのは申し訳なかったと思ってる。だからマナのお父上にもきちんと説明する。シンにも余計な心配をさせたね」
「なんで王城に連れてきたんだ。怪しいヤツは憲兵に突き出したし、村に帰ったって問題ないはずだ」
「頭では理解できるけどね。……でも、大切な人が傷ついた場所に帰したくないって思うのは当然でしょ?」
そう首を傾げるヒイラギに、シンはぎりぎりと奥歯を噛みしめた。火照った頭を冷ますために紅茶を一口啜る。シンの舌に穏やかな渋味と苦味が広がっていく、少し落ち着けと言われている気がした。
「そうだ、シン。ちゃんと僕の口から伝えたいことがあって」
ヒイラギは立ち上がり、深々と頭を下げた。青い髪が感情とともに垂れ下がる。
「ありがとう。あのとき、君がいなかったらマナを助けることができなかった。今僕がマナと一緒にいられるのは君のおかげだ」
「やめろ。……座れ」
シンの低い声にヒイラギは神妙な顔で再び椅子に座った。シンは腕を組み鋭く目を細めた。
「勘違いするな、お前のためにマナを助けたんじゃない」
「わかってるよ。それでも、きちんとお礼をしなきゃと思ってたんだ」
「……」
シンの眼光を受けながらも純粋に謝意を述べるヒイラギは眩しかった。苛立っている自分にこそ腹が立つ。シンは腕を組むのをやめ、小さく息をついた。
「……そろそろマナと会わせてもらえないか」
「うん、そうしようか。大丈夫、僕は席を外すから」
最後までヒイラギは王族らしい余裕に満ち、シンの心ばかりがすり減っていくようだった。
「マナ!」
来客用の部屋でマナがティータイムを楽しんでいたところ、扉が開いた。そこには数日振りのシンがおり、慌てた様子でマナの元に駆け寄ってくる。
「シン!どうしたの、そんなに慌てて」
思わず立ち上がると、向かい合ったシンは頭から足先までマナをじっと観察していた。ひととおり眺めた後ホッと安堵の息を漏らす。
「……とりあえず怪我はなさそうだし、悪いようにはされてないみたいだな」
「もちろんだよ!ヒイラギ様がそんなことするわけないじゃない」
いつもどおり笑って返すと、硬い表情のシンがようやく口元を緩めた。
「無理矢理王城に連れていかれたから、お前が嫌な思いをしていないか心配だった。大丈夫か、何か無理強いされたりしてないか」
「もう、シンってばお父さんみたい。大丈夫だよ、ヒイラギ様はよくしてくださってるよ」
「そうか……」
シンの手がマナに伸びたが空中でぴたりと止まる。何事かを考えるようにシンは目を逸らし、大きく息をついて手を下ろした。
「ヒイラギの手紙を読んだ。まだ王城にいるらしいな。ヒイラギに命令されたのか?」
「違うよ、私から言ったの。ヒイラギ様、見ていられない感じで心配だったから」
マナの言葉にシンはどうやら納得いかないようで、
「見ていられない感じ?とてもそうは見えなかったが」
と露骨に顔を顰めていた。そんなことない、とは言い出せなかった。シンの前では平静を装っていたのかもしれない、その努力を無下にはできない。マナが言い淀んでいると、シンはため息をついた。
「……マナは優しいな。王城には三日いるって聞いてる。明後日には帰ってくるんだよな?」
「うん。お父さんにも心配させちゃったし、あんまり長くいるのも悪いし」
「そうか。待ってるから、ちゃんと帰ってこいよ」
「うん。わざわざありがとう、シン。助けてもらったし、心配もしてくれて……シンには頭が上がらないね」
マナが小さく頭を下げるのを見たシンは、ゆるゆると首を振って否定した。
「大袈裟にするな。オレはやるべきことをしただけだ。明後日、美味い飯でも作れるようにしておく」
「ホント!?シンのご飯、また食べたいな。楽しみにしてるね!」
そう言うとシンは照れくさそうに笑ってくれた。
「マナ、ちょっといいかな」
シン、マナの父が村へと帰っていき、王城には静かな夜が訪れる。ヒイラギに呼ばれマナがついていくと、広い厨房に辿り着いた。夕食を済ませた時間帯、厨房は片付けも終わり誰もいなかった。
「マナに何かしてあげられることはないかと思って考えてたんだ。一つだけ思いついたことがあって」
言いながら彼が取り出したのは真っ赤なリンゴだった。艶々と瑞々しく、いかにも美味しそうである。
「シンに料理を教えてもらってたんだけど、どうにもうまくいかなくてさ……リンゴなら綺麗に剥けるようになったんだ、見ててくれるかな」
「わかりました」
ヒイラギの邪魔にならないよう少し離れた位置に立つと、彼は嬉しそうに笑い果物ナイフを手に取った。ややぎこちないながらも皮を剥き、くし形に切っていく。皿に並んだくし形のリンゴは少し歪に見えるが、十分に美味しそうだった。ヒイラギがフォークを手渡してくれる。
「一緒に食べよう。ちょっとしたデザートだよ」
「ありがとうございます」
リンゴにフォークを刺すとじんわりと果汁が滲み、甘酸っぱい香りが広がる。ヒイラギは美しい所作でリンゴを味わっていた。王族である彼と厨房で立ったままリンゴを食べる、もう二度とない経験のような気がする。
「マナの村に行って気付いたんだ。いつももてなすときに、誰かに用意してもらってばかりだなって。自分で用意しておもてなしするのも大切なことだよね」
「リンゴ、とっても美味しいです」
「よかった」
素朴に笑う彼と食べるリンゴは爽やかで、ついついもう一つと手が伸びる。ちょうどマナが半分食べたところ、ヒイラギはリンゴを一つ残してフォークを置いた。
「あれ、こちらはヒイラギ様の分ですよ」
「マナにあげる」
「いいのですか?」
「うん。よかったら食べて」
「ではお言葉に甘えちゃいますね」
ぺこりと頭を下げ、マナは最後のリンゴを口にした。心地よく弾む歯応え、噛むたびに溢れる果汁、美味しい。無邪気に楽しんでいると、柔らかな笑顔のヒイラギと目が合った。彼はマナが味わう様子を余すところなく見つめていた。
「マナは美味しそうに食べてくれるからとても嬉しいな。僕も料理ができたらなあ。毎日でもマナに食べてもらいたいのに」
飾り気のない笑みを浮かべるヒイラギを見ていると、マナも心があたたかくなる心地だった。
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