幼なじみと王子様が私を離してくれない
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#10 幼なじみは愛を紡ぐ
マナが王城から戻ってくる日の朝、シンは勢いよく飛び起きた。
――ヒイラギに何か言われて滞在期間が延びたりしない……よな?
真っ先に浮かんだ思考が不安そのもので、シンは頭を抱えた。全身に纏わりつく雑念を振り払うように起き上がり、黙々と身支度を始めた。マナはいつ頃戻ってくるだろうか。「美味い飯を作る」と約束したのは記憶に新しい、今日は腕によりをかけなくては。
村唯一のモンクであるシンの元には、治療を求める患者たちがひっきりなしにやって来る。シンは的確に治療を施しながらも、脳内にマナの姿がこびり付いて離れなかった。重い荷物を運んでいて腰を痛めてしまったという女性の治療をしている際、
「そういえばシン、今日マナちゃんが帰ってくる日じゃなかったかしら?」
と尋ねられた際には胸がざわつくのを感じた。このときばかりは、噂がすぐに広まる小さな村に暮らすことを煩わしく思った。
「ああ、そうだ。……無事に帰ってくるといいけど」
「マナちゃんも大変ね、王城と村を行ったり来たりするなんて。それに聞いたわよシン。マナちゃん、シバの王子様から結婚を申し込まれてるんですって?」
「なんでそんなことまで知ってるんだ」
「王子様から直接聞いたのよ!ほら、少し前に王子様がいらっしゃったでしょ?」
「ああ……」
シンはち、と小さく舌打ちした。海上都市シバの王子、ヒイラギ。優雅で世間知らずないかにもな王族ながら、知らないところで外堀を埋めていたということか。
「とりあえず痛みは気功で取り除いたし、痛みの原因である筋肉の損傷も回復したはずだ。だが無理をするとまたぶり返すから、しばらくは安静にしてくれ」
「わかったわ、ありがとう、シン。ああ、そうそう。シン、いいことを教えてあげるわ」
治療が終わり立ち上がった女性はにっこりと笑い、シンの肩をぽんぽんと叩いた。
「シン、結婚は勢いがなきゃできないわよ?いくらマナちゃんと付き合いの長いシンでも、あの王子様が相手で黙ってたら負けちゃうわよ!」
「……何の話だ……」
「人生の先輩からのアドバイスってやつよ!なんかもうじれったいのよねぇ、マナちゃんとシンを見てると!シンにその気がないならいいけど、その気なら早くいかないと攫われちゃうわよ!」
「……」
ありがとうと言いながら治療費を払い去っていく女性を見送り、シンは深いため息をついた。女性が去り一人きりの自宅になってしまうと、脳裏に女性の言葉が何度も蘇る。……残念ながら全くもってそのとおりと言わざるを得ない。再度長く深いため息をついた。
シンがふと窓に目を向けると、差し込む陽光に橙色が混ざり始めていた。もうそんな時間かと思いつつ、外の空気が恋しくなってきた。シンは大きく伸びをすると家の外に出た。見慣れた村が哀愁漂う夕日に染まっている。遠くから馬車がやってくるのが見えた。間違いなくマナだと確信したシンは、駆け寄りたくなるのを抑え到着を待った。馬車はマナの家の前で立ち止まり、中から会いたくてたまらなかった少女が降りてきた。シンは迷わず駆け寄り、声をかける。
「マナ!」
「シン!迎えに来てくれたの?」
茜色の空の下明るく笑うマナは輝いて見えた。彼女とは一応王城でも会ったはずなのに、懐かしい思いすら抱いてしまう。シンの目にうっすらと涙が浮かんだ。
「シン、どうしたの?泣いてる?」
「あ。……いや」
マナに言われて涙に気付き、シンは乱暴に目元を拭った。それでも涙が滲む。シンはぶるぶると頭を振り、マナに苦笑いを見せた。
「お前が帰ってきてくれて嬉しかっただけだ。やっと会えた」
「王城でも会ったのに。シンってば大袈裟なんだから」
「今日はもう遅いな。明日、うちに来てくれるか。美味い飯、作ってやる」
そう言うと、マナはぱぁっと顔を輝かせた。
「わ、ほんと!?ありがとう。シン、また明日ね」
手を振る彼女に手を振り返すと、マナが家に入っていき扉が閉まる音が響いた。マナがいなくなっても、シンはしばらくその場に立ちすくんでいた。
翌朝、マナは数日ぶりに自身のベッドで目を覚ました。王城のベッドとは比べるまでもなく質が悪いのだが、慣れたベッドは不思議と寝心地がよかった。いつもの天井を見ながら目を覚ます、マナは爽やかな気分で一階に下りた。
「マナ、王城との取引は私が行ってくる。シンのところに行ってやりなさい」
父の言葉にマナは目を丸くした。
「えっ、でも私がいない間、お父さんがずっと一人で仕事してたでしょ?帰ってきたんだから私もやらなきゃ」
「シンはお前をずっと心配していたよ。農作業も私がやるから、今日はシンといてやりなさい。何やら張り切っている様子だったから」
「……そっか、そこまで言うなら甘えちゃおうかな。ありがとう、お父さん」
マナは父の笑顔に背を押され、隣のシンの家に向かった。きらきらと陽光が輝くいい日和だった。マナはコンコンとシンの家のドアをノックした。
「シン、私だよ!おはよう!」
明るく呼びかけると数秒して扉が開いた。シンがひょこっと扉から顔を出す。
「ああ、おはよう、マナ。入ってくれ」
シンに促され入った家の中には、食欲をそそるいい匂いが立ち込めていた。テーブルには水玉模様の可愛らしいテーブルクロスが引かれ、食器が並んでいた。シンが料理をテーブルに並べ始める。新鮮な野菜を使ったサラダや手間をかけたであろうシチューや網目模様が美しいアップルパイ等、普段の食事よりも手の込んだものがいくつも並んでいた。
「わ、これシンが作ったの?美味しそう!」
「帰ってきたら美味い飯を、って言ってただろ。普段なら作らないものを作ってみた」
「シン、ありがとう!」
二人は対面に座り、ゆったりと食事を始めた。食卓に並ぶ料理はどれも繊細な味付けで、シンの料理の腕を感じさせる。王城で食べる料理とはまた違う美味しさにマナは舌鼓を打った。満足げに食べ進めるマナをシンは口元を緩めて眺めていた。
食事を終え二人でお茶を飲み始めた頃、シンが口を開いた。
「そういえば、ヒイラギはもう村には来ないのか?マナ一人で帰ってきたから少し驚いた」
「女王様の意向なんだって。やっぱり村であんなことがあったから、ヒイラギ様一人を村に行かせるのはやめたみたい」
「そうか」
飲み慣れた村のお茶に一息ついていると、シンはティーカップを置きマナをじっと見据えた。金色の瞳は真剣で、射抜かれるような目力を感じた。つられてマナもティーカップを置いた。
「マナ。いい機会だ、伝えたいことがある」
「う、うん。何?」
尋ねると、シンはぐっと口をつぐんだ。喉の奥に言葉がつっかえているような仕草だった。何だろうとマナが待っていると、シンは身を乗り出し組んだ両手をテーブルの上に置き、言葉を紡いだ。
「オレはずっとお前のことが好きだ。だから……オレと結婚してほしい」
「えっ」
はっきり告げられた言葉は意外で、マナは呆然としてしまった。戸惑うマナにシンは続ける。
「ヒイラギがお前に求婚したって聞いて、お前が結婚するかもしれないと気が気じゃなかった。王城に連れ去られたときは、お前がもう帰ってこないんじゃないかって思った。このままオレが何も言わなかったらお前には何も伝わらない……だから言う。オレと結婚してくれ」
シンの金色の双眸は力強く、声色も明瞭でマナの心に突き刺さる心地がした。この村で生まれ育ち、ずっと仲良く暮らしてきたお隣さん。その関係が大きく変わろうとしている。
マナの脳裏にヒイラギがよぎった。彼もマナを真っ直ぐ見つめて結婚してほしい、と愛を囁いた。彼に明確な返事をしていない中、さらにシンにまで求愛されるとは思っていなかった。頭は事態を整理できず沸騰している。言葉が口から出てこなかった。
「急に言われて驚くのはわかる。すぐに返事しろなんて言わない。ヒイラギにどう答えるかも考えないといけないだろうからな」
シンはそっと立ち上がりマナのそばにやってくると、座ったままのマナを後ろから抱きしめた。突然の抱擁にマナの体は急激に熱を持つ。マナの肩にシンの顔がもたれかかった。
「オレ、ヒイラギがいなかったらお前に好きだって言えなかったかもしれない。だから……そこだけはヒイラギに感謝してる。お前のことが好きだってようやく自覚できた」
「シン……」
自然豊かな村で素朴な生活をともにしたシン、幼なじみ以外の何者でもないと思っていた。そんな彼から告げられた飾り気のない素直な言葉はマナを混乱させるものではあったが、心に優しいぬくもりをもたらすものでもあった。
シンの作ってくれた豪勢な料理は美味しくもあり今日一日の活力を満たすものでもあった。農作業をしなくてもいいと父親に言われていたが、シンの家で食事を終えたマナは半分夢見心地で農作業に挑んだ。数日作業から離れていたものの全身に染みついた習慣はそうそう薄れないもので、黙々と手を動かすことができた。
――オレはずっとお前のことが好きだ。だから……オレと結婚してほしい。
慣れた作業を繰り返す空っぽの脳に、朝聞いたばかりのシンの言葉がこだましていた。マナも結婚を視野に入れてもおかしくない年齢、村や海上都市シバで相手を見つけるといった現実的な選択が見えてくる頃だった。まさかシバの王族と隣に暮らす幼なじみから同時期に結婚を申し込まれるとは思っていなかった。人生において重大な選択を迫られることがあると理解はしていたものの、あまりに唐突すぎる。マナの頭の中でヒイラギとシンが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していた。
落ち着かない心地であっても作業は捗り時間は過ぎていく。高く昇っていた太陽が西に傾き始め、王城に行っていた父親が帰ってくるのが見えた。マナは額に浮かぶ汗を拭い、できるだけ平静を装って自宅に戻った。先に帰っていた父親がにっこりと笑った。
「マナ、農作業をしてくれたんだな、ありがとう。久しぶりに帰ってきたが、調子はどうだ?」
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
当たり障りのない返答をし、二人で夕食を摂ることにした。パンとスープ、少しの果物とベーコン。いたって標準的な村の食事だが、今のマナには逆にありがたかった。あたたかいスープを一口啜ると安心感が全身に沁みていった。
「マナ、何かあったのだろう。もしよければ話してみなさい」
対面に座る父が食事の手を止めて尋ねた。びく、とマナは肩をすくめた。
「え……な、何にもないよ?」
「もうその話し方が何かあったと言ってる。隠さないといけないようなことなのか?」
父の瞳は優しく、混乱するマナの心をゆっくりほぐしてくれるような気がした。マナはふう、と息を吐き曖昧に笑った。
「お父さんにはわかっちゃうんだ。……あのね、ヒイラギ様とシンから結婚してくれって言われてるの」
「シンはともかく、ヒイラギ様から?」
「うん。……シンから言われたのは意外じゃないの?」
「シンならいつか切り出すだろうと思っていたよ」
「あ、そうなんだ……」
父親の言葉は冷静で、マナは拍子抜けした。もう少し驚かれるかと思っていた。シンをただの幼なじみだと思っていたのはマナだけだったのだろうか。
「お前も結婚できる年だからな。いつかはそういう話がやってくるだろうとは思っていた。別に驚くようなことではないさ。ヒイラギ様に求婚されたのはさすがに驚いたが」
「あ、そこはさすがに驚くんだ」
ぽろりと零すと当然だろう、と父は笑った。マナも可笑しくなり笑みが零れた。ふとヒイラギは元気だろうかと頭をよぎった。彼を一人きりにしても問題なかったのだろうかと考え始めると切なくなる。
「結婚は大きな問題だ。私は助言をすることはできるが、お前の代わりに決めてやることはできない。シンもヒイラギ様も、軽い気持ちでお前に求婚していないはずだ。よく考えることだ、マナ」
「もし私がヒイラギ様のお嫁さんになったら王族になるし、簡単には会えなくなるかもだけど……それでもいいの?」
「マナが望むのなら私はどうこう言うつもりはないよ。私はただ、お前が幸せでいてくれたらそれでいい。仮にシンと結婚したとしても、私はあまり干渉しないつもりだ。結婚したからには違う家庭になるのだから」
「お父さん……」
マナよりも生きてきた時間が長いゆえの言葉には重みがあった。しかしただ重いだけの言葉ではなく、柔らかなぬくもりも纏っている。マナは自然と笑みを零した。
「ありがとう。私、どうするかよく考えるよ。シンにもヒイラギ様にもきちんと答えないといけないね」
「ああ、そうしなさい。そうだ、マナ」
父親は何かを思い出した様子で懐から手紙を取り出した。赤い蝋封が鮮やかな封筒には、「ヒイラギ」の文字があった。
「ヒイラギ様から手紙を預かっていたんだった。マナ宛てだ。ちゃんと読んでおくように」
「うん」
封筒に書かれた文字は几帳面で、一文字ずつ丁寧に書いただろうことが読み取れる。後できちんと目を通そう。そう思いながら再びパンに手を伸ばす。少しばかり重かった心が柔らかく軽くなった気がした。
食事と入浴を済ませたマナは、リビングのソファーに座りヒイラギの手紙を手に取った。蝋封の下にペーパーナイフを滑らせ外し、手紙を取り出した。シンプルながら格調高い美しい便箋に繊細な文字が並んでいる。マナは目を滑らせ、静かに文字を追った。
『マナへ
この手紙が届く頃には君は村に帰っていると思う。数日間僕のそばにいてくれてありがとう。……でも本当は、ずっと王城にいてほしかったんだ。本当はね。シンが君のことを心配していたから、よろしく言ってくれると嬉しいな。
さて、以前僕がした舞踏会の話、マナは覚えているかな?他の王族や貴族たちと交流する場なのだけれど、友人や婚約者を紹介する場でもあるんだ。もうすぐ王城で舞踏会を開催することになっている。マナ、君を僕の婚約者として紹介したい。できればシンも友人として招待したいと思っているよ。
改めて伝える。マナ、僕と結婚してほしい。僕と結婚した暁には君を必ず守ってみせる。あまり村には顔を出せなくなると思うけれど、シンや君のお父上と交流できるよう取り計らうつもりだ。もし君が僕と結婚してくれるのなら、舞踏会に出席してほしい。君を婚約者として紹介するよ。結婚に踏み切れないのであれば、招待状は破り捨ててくれて構わない。
また後日、君宛に招待状を送るよ。君が来てくれることを祈ってる。
ヒイラギ』
「……」
読み終えたマナは呆然としていた。ヒイラギは本気でマナとの結婚を考え行動に移すつもりのようだ。舞踏会の招待状が届くまでに返事を決めねばならない。シンについてもあまり待たせるわけにもいかない。誠実な男性二人に対してどう答えるべきか、マナの心は揺れるばかりだった。
マナが王城から戻ってくる日の朝、シンは勢いよく飛び起きた。
――ヒイラギに何か言われて滞在期間が延びたりしない……よな?
真っ先に浮かんだ思考が不安そのもので、シンは頭を抱えた。全身に纏わりつく雑念を振り払うように起き上がり、黙々と身支度を始めた。マナはいつ頃戻ってくるだろうか。「美味い飯を作る」と約束したのは記憶に新しい、今日は腕によりをかけなくては。
村唯一のモンクであるシンの元には、治療を求める患者たちがひっきりなしにやって来る。シンは的確に治療を施しながらも、脳内にマナの姿がこびり付いて離れなかった。重い荷物を運んでいて腰を痛めてしまったという女性の治療をしている際、
「そういえばシン、今日マナちゃんが帰ってくる日じゃなかったかしら?」
と尋ねられた際には胸がざわつくのを感じた。このときばかりは、噂がすぐに広まる小さな村に暮らすことを煩わしく思った。
「ああ、そうだ。……無事に帰ってくるといいけど」
「マナちゃんも大変ね、王城と村を行ったり来たりするなんて。それに聞いたわよシン。マナちゃん、シバの王子様から結婚を申し込まれてるんですって?」
「なんでそんなことまで知ってるんだ」
「王子様から直接聞いたのよ!ほら、少し前に王子様がいらっしゃったでしょ?」
「ああ……」
シンはち、と小さく舌打ちした。海上都市シバの王子、ヒイラギ。優雅で世間知らずないかにもな王族ながら、知らないところで外堀を埋めていたということか。
「とりあえず痛みは気功で取り除いたし、痛みの原因である筋肉の損傷も回復したはずだ。だが無理をするとまたぶり返すから、しばらくは安静にしてくれ」
「わかったわ、ありがとう、シン。ああ、そうそう。シン、いいことを教えてあげるわ」
治療が終わり立ち上がった女性はにっこりと笑い、シンの肩をぽんぽんと叩いた。
「シン、結婚は勢いがなきゃできないわよ?いくらマナちゃんと付き合いの長いシンでも、あの王子様が相手で黙ってたら負けちゃうわよ!」
「……何の話だ……」
「人生の先輩からのアドバイスってやつよ!なんかもうじれったいのよねぇ、マナちゃんとシンを見てると!シンにその気がないならいいけど、その気なら早くいかないと攫われちゃうわよ!」
「……」
ありがとうと言いながら治療費を払い去っていく女性を見送り、シンは深いため息をついた。女性が去り一人きりの自宅になってしまうと、脳裏に女性の言葉が何度も蘇る。……残念ながら全くもってそのとおりと言わざるを得ない。再度長く深いため息をついた。
シンがふと窓に目を向けると、差し込む陽光に橙色が混ざり始めていた。もうそんな時間かと思いつつ、外の空気が恋しくなってきた。シンは大きく伸びをすると家の外に出た。見慣れた村が哀愁漂う夕日に染まっている。遠くから馬車がやってくるのが見えた。間違いなくマナだと確信したシンは、駆け寄りたくなるのを抑え到着を待った。馬車はマナの家の前で立ち止まり、中から会いたくてたまらなかった少女が降りてきた。シンは迷わず駆け寄り、声をかける。
「マナ!」
「シン!迎えに来てくれたの?」
茜色の空の下明るく笑うマナは輝いて見えた。彼女とは一応王城でも会ったはずなのに、懐かしい思いすら抱いてしまう。シンの目にうっすらと涙が浮かんだ。
「シン、どうしたの?泣いてる?」
「あ。……いや」
マナに言われて涙に気付き、シンは乱暴に目元を拭った。それでも涙が滲む。シンはぶるぶると頭を振り、マナに苦笑いを見せた。
「お前が帰ってきてくれて嬉しかっただけだ。やっと会えた」
「王城でも会ったのに。シンってば大袈裟なんだから」
「今日はもう遅いな。明日、うちに来てくれるか。美味い飯、作ってやる」
そう言うと、マナはぱぁっと顔を輝かせた。
「わ、ほんと!?ありがとう。シン、また明日ね」
手を振る彼女に手を振り返すと、マナが家に入っていき扉が閉まる音が響いた。マナがいなくなっても、シンはしばらくその場に立ちすくんでいた。
翌朝、マナは数日ぶりに自身のベッドで目を覚ました。王城のベッドとは比べるまでもなく質が悪いのだが、慣れたベッドは不思議と寝心地がよかった。いつもの天井を見ながら目を覚ます、マナは爽やかな気分で一階に下りた。
「マナ、王城との取引は私が行ってくる。シンのところに行ってやりなさい」
父の言葉にマナは目を丸くした。
「えっ、でも私がいない間、お父さんがずっと一人で仕事してたでしょ?帰ってきたんだから私もやらなきゃ」
「シンはお前をずっと心配していたよ。農作業も私がやるから、今日はシンといてやりなさい。何やら張り切っている様子だったから」
「……そっか、そこまで言うなら甘えちゃおうかな。ありがとう、お父さん」
マナは父の笑顔に背を押され、隣のシンの家に向かった。きらきらと陽光が輝くいい日和だった。マナはコンコンとシンの家のドアをノックした。
「シン、私だよ!おはよう!」
明るく呼びかけると数秒して扉が開いた。シンがひょこっと扉から顔を出す。
「ああ、おはよう、マナ。入ってくれ」
シンに促され入った家の中には、食欲をそそるいい匂いが立ち込めていた。テーブルには水玉模様の可愛らしいテーブルクロスが引かれ、食器が並んでいた。シンが料理をテーブルに並べ始める。新鮮な野菜を使ったサラダや手間をかけたであろうシチューや網目模様が美しいアップルパイ等、普段の食事よりも手の込んだものがいくつも並んでいた。
「わ、これシンが作ったの?美味しそう!」
「帰ってきたら美味い飯を、って言ってただろ。普段なら作らないものを作ってみた」
「シン、ありがとう!」
二人は対面に座り、ゆったりと食事を始めた。食卓に並ぶ料理はどれも繊細な味付けで、シンの料理の腕を感じさせる。王城で食べる料理とはまた違う美味しさにマナは舌鼓を打った。満足げに食べ進めるマナをシンは口元を緩めて眺めていた。
食事を終え二人でお茶を飲み始めた頃、シンが口を開いた。
「そういえば、ヒイラギはもう村には来ないのか?マナ一人で帰ってきたから少し驚いた」
「女王様の意向なんだって。やっぱり村であんなことがあったから、ヒイラギ様一人を村に行かせるのはやめたみたい」
「そうか」
飲み慣れた村のお茶に一息ついていると、シンはティーカップを置きマナをじっと見据えた。金色の瞳は真剣で、射抜かれるような目力を感じた。つられてマナもティーカップを置いた。
「マナ。いい機会だ、伝えたいことがある」
「う、うん。何?」
尋ねると、シンはぐっと口をつぐんだ。喉の奥に言葉がつっかえているような仕草だった。何だろうとマナが待っていると、シンは身を乗り出し組んだ両手をテーブルの上に置き、言葉を紡いだ。
「オレはずっとお前のことが好きだ。だから……オレと結婚してほしい」
「えっ」
はっきり告げられた言葉は意外で、マナは呆然としてしまった。戸惑うマナにシンは続ける。
「ヒイラギがお前に求婚したって聞いて、お前が結婚するかもしれないと気が気じゃなかった。王城に連れ去られたときは、お前がもう帰ってこないんじゃないかって思った。このままオレが何も言わなかったらお前には何も伝わらない……だから言う。オレと結婚してくれ」
シンの金色の双眸は力強く、声色も明瞭でマナの心に突き刺さる心地がした。この村で生まれ育ち、ずっと仲良く暮らしてきたお隣さん。その関係が大きく変わろうとしている。
マナの脳裏にヒイラギがよぎった。彼もマナを真っ直ぐ見つめて結婚してほしい、と愛を囁いた。彼に明確な返事をしていない中、さらにシンにまで求愛されるとは思っていなかった。頭は事態を整理できず沸騰している。言葉が口から出てこなかった。
「急に言われて驚くのはわかる。すぐに返事しろなんて言わない。ヒイラギにどう答えるかも考えないといけないだろうからな」
シンはそっと立ち上がりマナのそばにやってくると、座ったままのマナを後ろから抱きしめた。突然の抱擁にマナの体は急激に熱を持つ。マナの肩にシンの顔がもたれかかった。
「オレ、ヒイラギがいなかったらお前に好きだって言えなかったかもしれない。だから……そこだけはヒイラギに感謝してる。お前のことが好きだってようやく自覚できた」
「シン……」
自然豊かな村で素朴な生活をともにしたシン、幼なじみ以外の何者でもないと思っていた。そんな彼から告げられた飾り気のない素直な言葉はマナを混乱させるものではあったが、心に優しいぬくもりをもたらすものでもあった。
シンの作ってくれた豪勢な料理は美味しくもあり今日一日の活力を満たすものでもあった。農作業をしなくてもいいと父親に言われていたが、シンの家で食事を終えたマナは半分夢見心地で農作業に挑んだ。数日作業から離れていたものの全身に染みついた習慣はそうそう薄れないもので、黙々と手を動かすことができた。
――オレはずっとお前のことが好きだ。だから……オレと結婚してほしい。
慣れた作業を繰り返す空っぽの脳に、朝聞いたばかりのシンの言葉がこだましていた。マナも結婚を視野に入れてもおかしくない年齢、村や海上都市シバで相手を見つけるといった現実的な選択が見えてくる頃だった。まさかシバの王族と隣に暮らす幼なじみから同時期に結婚を申し込まれるとは思っていなかった。人生において重大な選択を迫られることがあると理解はしていたものの、あまりに唐突すぎる。マナの頭の中でヒイラギとシンが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していた。
落ち着かない心地であっても作業は捗り時間は過ぎていく。高く昇っていた太陽が西に傾き始め、王城に行っていた父親が帰ってくるのが見えた。マナは額に浮かぶ汗を拭い、できるだけ平静を装って自宅に戻った。先に帰っていた父親がにっこりと笑った。
「マナ、農作業をしてくれたんだな、ありがとう。久しぶりに帰ってきたが、調子はどうだ?」
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
当たり障りのない返答をし、二人で夕食を摂ることにした。パンとスープ、少しの果物とベーコン。いたって標準的な村の食事だが、今のマナには逆にありがたかった。あたたかいスープを一口啜ると安心感が全身に沁みていった。
「マナ、何かあったのだろう。もしよければ話してみなさい」
対面に座る父が食事の手を止めて尋ねた。びく、とマナは肩をすくめた。
「え……な、何にもないよ?」
「もうその話し方が何かあったと言ってる。隠さないといけないようなことなのか?」
父の瞳は優しく、混乱するマナの心をゆっくりほぐしてくれるような気がした。マナはふう、と息を吐き曖昧に笑った。
「お父さんにはわかっちゃうんだ。……あのね、ヒイラギ様とシンから結婚してくれって言われてるの」
「シンはともかく、ヒイラギ様から?」
「うん。……シンから言われたのは意外じゃないの?」
「シンならいつか切り出すだろうと思っていたよ」
「あ、そうなんだ……」
父親の言葉は冷静で、マナは拍子抜けした。もう少し驚かれるかと思っていた。シンをただの幼なじみだと思っていたのはマナだけだったのだろうか。
「お前も結婚できる年だからな。いつかはそういう話がやってくるだろうとは思っていた。別に驚くようなことではないさ。ヒイラギ様に求婚されたのはさすがに驚いたが」
「あ、そこはさすがに驚くんだ」
ぽろりと零すと当然だろう、と父は笑った。マナも可笑しくなり笑みが零れた。ふとヒイラギは元気だろうかと頭をよぎった。彼を一人きりにしても問題なかったのだろうかと考え始めると切なくなる。
「結婚は大きな問題だ。私は助言をすることはできるが、お前の代わりに決めてやることはできない。シンもヒイラギ様も、軽い気持ちでお前に求婚していないはずだ。よく考えることだ、マナ」
「もし私がヒイラギ様のお嫁さんになったら王族になるし、簡単には会えなくなるかもだけど……それでもいいの?」
「マナが望むのなら私はどうこう言うつもりはないよ。私はただ、お前が幸せでいてくれたらそれでいい。仮にシンと結婚したとしても、私はあまり干渉しないつもりだ。結婚したからには違う家庭になるのだから」
「お父さん……」
マナよりも生きてきた時間が長いゆえの言葉には重みがあった。しかしただ重いだけの言葉ではなく、柔らかなぬくもりも纏っている。マナは自然と笑みを零した。
「ありがとう。私、どうするかよく考えるよ。シンにもヒイラギ様にもきちんと答えないといけないね」
「ああ、そうしなさい。そうだ、マナ」
父親は何かを思い出した様子で懐から手紙を取り出した。赤い蝋封が鮮やかな封筒には、「ヒイラギ」の文字があった。
「ヒイラギ様から手紙を預かっていたんだった。マナ宛てだ。ちゃんと読んでおくように」
「うん」
封筒に書かれた文字は几帳面で、一文字ずつ丁寧に書いただろうことが読み取れる。後できちんと目を通そう。そう思いながら再びパンに手を伸ばす。少しばかり重かった心が柔らかく軽くなった気がした。
食事と入浴を済ませたマナは、リビングのソファーに座りヒイラギの手紙を手に取った。蝋封の下にペーパーナイフを滑らせ外し、手紙を取り出した。シンプルながら格調高い美しい便箋に繊細な文字が並んでいる。マナは目を滑らせ、静かに文字を追った。
『マナへ
この手紙が届く頃には君は村に帰っていると思う。数日間僕のそばにいてくれてありがとう。……でも本当は、ずっと王城にいてほしかったんだ。本当はね。シンが君のことを心配していたから、よろしく言ってくれると嬉しいな。
さて、以前僕がした舞踏会の話、マナは覚えているかな?他の王族や貴族たちと交流する場なのだけれど、友人や婚約者を紹介する場でもあるんだ。もうすぐ王城で舞踏会を開催することになっている。マナ、君を僕の婚約者として紹介したい。できればシンも友人として招待したいと思っているよ。
改めて伝える。マナ、僕と結婚してほしい。僕と結婚した暁には君を必ず守ってみせる。あまり村には顔を出せなくなると思うけれど、シンや君のお父上と交流できるよう取り計らうつもりだ。もし君が僕と結婚してくれるのなら、舞踏会に出席してほしい。君を婚約者として紹介するよ。結婚に踏み切れないのであれば、招待状は破り捨ててくれて構わない。
また後日、君宛に招待状を送るよ。君が来てくれることを祈ってる。
ヒイラギ』
「……」
読み終えたマナは呆然としていた。ヒイラギは本気でマナとの結婚を考え行動に移すつもりのようだ。舞踏会の招待状が届くまでに返事を決めねばならない。シンについてもあまり待たせるわけにもいかない。誠実な男性二人に対してどう答えるべきか、マナの心は揺れるばかりだった。