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Salt, Pepper, Bread, and Clumsy Love
パン屋の朝は早い。ミコトはまだ暗い朝三時に店に入り、黙々と仕込みをしていた。ハイ・ラガードの冒険者たちは夜明けと同時に迷宮へ出ていく、彼らの活力になるべくパン屋も合わせて動かねばならないのだ。
幾度となくこなした作業を進めていくと、小さなパン屋は焼きたてのパンの香ばしい香りを纏っていく。パンを焼き陳列しを繰り返していると、あっという間に日が昇り朝になる。ミコトは店の扉に掲げた「closed」の看板を「open」にひっくり返した。外には焼きたてのパンを求める常連たちが列をなしていた。
「あ、みなさんおはようございます。開店です!」
「お〜、待ってたぜ!」
ミコトの笑顔に呼応し並んでいた客が店内に入ってきた。ここからは戦争だ。てきぱきと客をさばき笑顔を振りまくと、客たちはほくほくとした笑顔で店を出ていく。きっと彼らは迷宮に入る前に簡単に食事を済ませ、今日も未知の迷宮に挑んでいくのだろう。冒険者たちがいるからこそハイ・ラガードの街は成り立っている、ミコトは彼らの役に立てていると思うと誇らしかった。
開店から一時間は目が回るほど忙しいが、そこを過ぎると昼までは客が少なくなる。第一波が終わり、ミコトはふうと息をついた。朝早くに焼きあげたパンはほぼ売り切れてしまった。適宜補充をしながら客の訪れを待っていると、静かに扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
挨拶をし顔を上げると、そこには黒い髪の青年がいた。最近冒険者になったようで、ここのところ連日店に来てくれる新たな常連さんだ。ミコトはにっこりと笑った。
「こんにちは、シンさん。今日は遅いですね。お寝坊さんですか?」
「ああ、ちょっと寝過ぎた」
青年――シンは淡々と返しトレイとトングを手に取った。補充したばかりのつやつやのパンを眺めている。こうして見ていると普通の青年のようだが、彼の腰には手入れの行き届いた銃がある。彼はたった一人で迷宮に挑み、毎日傷一つない綺麗な体で店にやってくる。年若く見えても実力者なのだろうな、とミコトは感心していた。
「これで頼む」
シンはトレイをカウンターに置いた。サンドイッチやプチドーナツの詰め合わせ等々、一人で食べるには多いのではないかと感じるほどの山盛りだった。デニッシュやドーナツといった甘いパンが少し多いあたり、実は甘党なのだろうか。ミコトは成長期の男の子っぽいなあ、と微笑ましく思いながら会計を済ませた。
「今日も迷宮に行くんですか?」
パンを袋に詰めながら何となしに尋ねてみる。シンは静かに頷き、
「ああ。キマイラを討伐してくれって言われてる」
さらりと答えた。このパン屋は冒険者がよく利用するため、冒険者ではないミコトでもキマイラの名前は聞いたことがあった。
「え、キマイラって五階にいるすごく強い魔物ですよね?そんなのを倒しに行くんですか?」
「ああ」
シンはさも当然のように頷いた。はぁ〜、とミコトは感嘆した。彼からは並々ならぬ風格のようなものを感じていたが、思い過ごしではないのかもしれない。
「そうなんですね、気をつけてください。キマイラには他の冒険者さんも苦戦してるって聞きましたよ」
「そうか、ありがとう」
パンを包み終え紙袋を手渡すと、シンはわずかに目を細め口角を上げた。それが彼なりの笑顔であることをミコトは知っていた。
――また明日も無事に来てくれますように。
シンは迷宮の入り口で紙袋からパンを取り出した。今日の朝食は……というより、今日の朝食「も」ミコトのパン屋で買ったサンドイッチだ。シンはがぶりと豪快に齧り付いた。新鮮なトマトやレタス、それらとともに溢れるベーコンの肉汁。美味い。朝の活力を得るには最適な味だ。
シンは最近冒険者になったばかりの新米で、ミコトのパン屋は鋼の棘魚亭のマスターから教えてもらった。ハイ・ラガードで一、二を争う味だと聞いていたが噂どおりの美味さで価格も良心的、すっかりシンは常連となっていた。
「……」
もぐもぐと口を動かしながら、シンはパンの香りとともに接客をするミコトを思い出していた。パンは当然として、シンにはもう一つ目当てがあった。
「あー……くそっ」
頭をかきながらサンドイッチの最後の一欠片を飲み込んだ。何度も店に通ったことが功を奏し、ようやく彼女に名前と顔を覚えてもらい世間話をできるようになった。これで他の客たちと大体同じ立場だ。ここから頭一つ抜きん出るためにはどうすればよいか。シンの頭にぽわんと浮ついた花が咲いていた。自分らしくないと思う瞬間もあるが、一度咲いてしまった花はどうすることもできない。シンはパンを食べながら一人赤面した。
「……よし、行くか」
朝食を食べたのならここからは冒険の時間。シンは少しの名残惜しさを感じながら迷宮へ足を踏み入れた。今日も今日とて冒険の始まりだ。
朝食を食べてから数時間が過ぎ、真昼の太陽が高く昇る頃にシンの腹が鳴った。もうそんな時間かとシンは足を止めた。迷宮第一層、新緑が鮮やかな迷路には魔物が蔓延っている。たった一人で突き進むシンにとって、少しの不調が命取りだ。どこかで腰を落ち着けて食事を摂るべきだ。シンは比較的魔物の気配が薄い場所を見つけ、木の根元に腰掛けた。頭上ではさわさわと木が揺れ、緑の葉がざわめく。
懐から取り出したのはパンの入った紙袋。昼食も合わせて買っていた。小さなドーナツの詰め合わせとバゲット等々、楽しみにしていた品々を取り出す。シンの口元は自然と綻んでいた。
迷宮の中孤独に進める食事も、ミコトのパンを味わうなら侘しくない。彼女の人柄を感じさせる素朴な味わいは疲れた体に沁みる。特に砂糖で化粧をしたドーナツは美味の一言。優しい甘みが疲労回復を促進し、錆びつつあった集中力が研ぎ澄まされていくのを感じる。
シンの脳裏には明るい笑顔を浮かべるミコトがいた。彼女はシンと同じく、たった一人であのパン屋を切り盛りしているようだ。冒険者のシンには計り知れない苦労があるだろう。彼女の手はいつも少しかさついているように見えた。
――メディカ……は色気がなさすぎるよな。ハンドクリーム……匂いがついたやつとか色々あるけど、どれがいいのかわからない。
シンの中でぐるぐると思考が巡る。ただの顔見知りからもう一つ上の段階に行くためには、やはり贈り物だろう。そんな風に思っても男シン、女性に何を贈ればいいのかわからない。ここ数日ずっと悩み続けているが答えが出なかった。鋼の棘魚亭のマスターやフロースの宿の女将に聞けば有用な答えが返ってくるだろうか。シンはうーん、と独りごちつつ最後のパンを食べた。
反射的に紙袋に手を突っ込んで、もうパンがないことにがっかりしてしまった。ミコトのパンを買うといつもこうだ、ぼんやり考え事をしているうちに食べきってしまう。シンは舌打ちをしつつ丸めた紙袋をハーフパンツのポケットに突っ込んだ。
昼食を終え、シンは大きな伸びをした。腹ごしらえも終え、これから強敵との戦いに入る。シンは両手で頬を叩き、気合いを入れた。ここからが本番だ。
「はっ!」
迷宮第一層五階の主、キマイラはシンの精密な射撃を受けついに倒れた。シンはぴくりとも動かなくなったキマイラに銃口を向けながら慎重に近寄る。素材を得ようと倒れた魔物に近付いて逆に狩られる、というのは冒険者のよくある死因だ。油断はできない。抜き足差し足で忍び寄り、呼吸を確認する。止まっている。キマイラの首に触れた。脈も感じない。
「……ふう、やっと倒せたみたいだな」
シンは一息つくと、銃を腰のホルスターにしまった。キマイラの向こうには六階に続く階段があるが、さすがに今日はここで切り上げた方が良さそうだ。シンはキマイラの羽や毛といった素材を採取し、アリアドネの糸を取り出した。ふと階段近くに目をやると、シンの興味を惹くものがあった。
「ん?」
見たことのない花が咲いている。キラキラと輝くような花びらを持ち、よい香りが漂う。もしかすると貴重な素材ではないか、そう思いながらシンは花を手折った。鼻をくすぐる甘い香り、美しい花びらはシトト交易所に持ち込むには勿体無い気もする。シンの脳裏に朗らかなミコトが浮かんだ。女性に花を贈る、ベタすぎるシチュエーションではあるのだが、気の利かないシンにはこれが精一杯かもしれない。
「……?」
唐突に体が重くなった気がした。強敵との激闘を終えた直後だからだろう、早く休んだ方がいい。シンはアリアドネの糸をほどいた。シンの体は迷宮を離れ、ハイ・ラガードへ戻っていく。
花を渡すなら早いうちがいい。それはわかっているのだが、どうにも体がだるい。少し一眠りするか。シンは宿の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。そのままシンの意識は深い眠りの中に誘われていった。
「う……」
シンは意識の深海から急激に浮かび上がるように目を覚ました。眠る前は明るい時間帯だったが、目を覚ましても似たような明るさに包まれている。今何時だ?シンが壁の時計を確認すると、いつもミコトのパン屋に向かう時間だった。夕方から朝まで寝ていたのか。シンは慌てて飛び起きた。
ベッド脇の小さなテーブルでは、迷宮で手に入れた花が萎れていた。あれほど美しかった花弁は瑞々しさを失い、芳しい香りも消え失せている。ああ、やってしまった。せっかく取ってきたのに。シンは残念に思いながら半身を起こした。ベッドから降りようとして、床に足がつかないことに気付く。妙だ。いつもならベッドの縁に座っても床に足がつくのに。ふと自らの手を見ると妙に小さかった。まるで子供の手のようだ。
おかしい。何かがおかしい。シンはぴょいとベッドから飛び起きると姿見の前に立った。
「!?」
鏡に映る自分は明らかに幼くなっていた。低い背、短い手足、丸くふっくらとした顔。およそ十歳になるかならないかくらいの子供になっていた。
「なんでこんな……」
思わず漏れた声も、変声期前の高い声だった。鏡に映った子供が自分だと考えたくもないが、ベッドに座ると足がつかなかったこと、声の高さ、手の小ささ、そう認めざるを得ない。しかし何故?一体何が……シンは昨日のことを思い出した。
朝目を覚まし、ミコトの店でパンを買い、迷宮へ出かけた。パンを食べて探索して、キマイラを倒して……。
「もしかして」
シンは萎れた花を手に取った。見たことのない花で、嗅いだことのない香りがした。にわかには信じがたいが、普段との違いはこの花の有無。少し調べてみる必要があるだろう。そう思った瞬間、
――ぐうう。
腹の虫が豪快な音を立てた。体が縮んでも食欲は同じ、食べたいものも同じ。シンはため息をつきつつも、通い慣れたパン屋に向かった。
今日もいつもどおり日は昇り、朝がやってくる。ミコトは焼きたてのパンを店頭に並べ、時間どおり開店した。その瞬間、腹を空かせた客が雪崩れ込んでくる。元気よく挨拶を交わしながら接客をすること一時間半。朝のピークが過ぎ客がまばらになってきた頃、扉が開いた。そろそろシンが来る時間だし、きっと彼だろう。
「いらっしゃいませー」
反射的に声を出し店の入り口に目をやると、見慣れない子供がいた。短い黒い髪が一部外側に跳ねており、金色の瞳は子供らしく丸っこい。背がミコトの半分くらいしかなく、ふっくらとした顔の輪郭が可愛らしい子供だった。おつかいかな、とミコトは微笑ましく見守っていた。彼はトレイにひょいひょいとパンを取り、カウンターにやってきた。少し踵を浮かせてトレイを置く様が可愛らしく、ミコトの口元は自然と弛んだ。
「ふふ、ありがとうございます。お金、ぴったりです。ありがとう」
そう言ってみると、彼はぷくっと頬を膨らませた。子供扱いするなということだろうか。その背伸びした様子も可愛らしく、和んでしまう。ミコトは頬杖をつき彼の様子を眺めていた。
「あの」
子供はじっとミコトを見上げ、声をかけてきた。ん?とミコトが首を傾げると、彼は不思議なことを口にした。
「シンって冒険者、知ってるか」
「ええ。知ってますよ」
「そいつのこと、どう思う?」
「えっ?」
思いもよらぬ質問にミコトは驚いた。目の前にいる彼は、あのシンという冒険者と知り合いなのだろうか。そういえば黒髪で金色の瞳、体に黒と緑のタトゥーのような模様が入っているところといい、シンと似ている。
「シンさんのことですか?最近冒険者になったみたいですけど、もう五階の魔物を倒しに行くとかで、すごいなって思いますよ」
正直な感想を口にすると、子供の生真面目な表情が和らいだように見えた。少し嬉しそうに見える。
「そういえば、あなたはシンさんに似ていますね。弟さんですか?」
「弟?……ちがう」
子供はふるふると首を横に振った。そして不機嫌そうにふぅ、と息をつく。何だろう、この子は。不思議な子だなとミコトは思いながら紙袋に入れたパンを渡した。
「ありがとう。また来る」
子供はそう言ってパンを受け取り、そそくさと店を出て行った。ミコトはありがとうございました、と言いながら、今日はシンは来ないのだろうかと考えていた。
「……あった」
シトト交易所で本棚の前に立つシンは、ある本を見つけた。迷宮の植物について詳しく記載された図鑑だ。
「くっ……」
手を伸ばすが、絶妙に高い位置にあり手が届かない。背表紙の下端を少し撫でるに留まる。しばし格闘していると隣に交易所の娘が立ち、
「これですか?はい」
と目当ての本を手渡してくれた。彼女は通常であればシンより背が低いが、今は逆転している。彼女よりも幼くなってしまったのかとシンは歯噛みした。
「ありがとう」
礼を言うと、娘はくすくすと笑った。
「ふふ、おつかいですか?偉いですね」
「……おつかいじゃない。オレが読むんだ」
そう言うと、娘は感心したように笑った。
「そうなんですね!勉強熱心ですごいです!将来は冒険者さんですね!」
……彼女もミコトと同じく、現在の自分を「シン」とは別人の子供だと思っているようだ。正直なところ腹立たしい。が、人がある日突然幼くなるなどと普通は思わないし、ガラスのドアに映った自分はどこからどう見ても子供で、この態度も仕方がないかと気落ちしてしまう。
「ありがとうございましたー!重いので気をつけてくださいね」
代金を払い図鑑を手に持つと、ずしりと腕に重力を感じた。この程度の本なら片手で持てるはずだが、今のシンは両手で抱えなければならなかった。くそ、と舌打ちしそうになりつつ、シンは宿に戻りベッドの上で図鑑を広げた。
「……これだ」
ぺらぺらとページをめくること数十分。あの花の記述を見つけた。「甘く芳しい香りで外敵を弱らせその場で眠るように死に至らせ、その養分を啜る」と恐ろしい記載があった。寿命が短い魔物であれば抵抗する力もない生後直後にまで若返り、そのまま死んでしまうという。青年であるシンは子供の頃まで若返ってしまったということだろう。残念ながら解毒薬等はなく、自然治癒を待つしかないとのこと。
「はぁ……」
少し活字を読んだだけで疲れてしまった。シンは仰向けにベッドに倒れ、天井を見つめた。
ぐうう。
また腹が減った。シンはベッド脇のテーブルに置いた紙袋に手を伸ばした。ミコトの店で買ったパンは時間が経っても美味しい。腹が減ってはなんとやら、とりあえずパンを食べることにした。もぐもぐと口を動かしながら、シンは思考を巡らせた。
今日は小さくなったことを逆手に取り、ミコトに自分をどう思っているか聞いてみた。真っ先に出てくるのが冒険者という属性に関する感想なあたり、やはりというか関係の浅さを感じさせる。そうだ、この姿がしばらく続くようであれば好機ではないか。子供の純真さを道具に使うのは気が引けるが、気になる女性を知るためならば致し方ない。シンは冷めても美味しいパンを頬張りながら作戦を練っていた。
ここ数日、シンが来なくなった。ミコトはどうしたのだろう、と思いながら開店準備を進めていた。代わりによくやって来るのが、どことなくシンの面影のある子供だった。彼は毎日店にやって来て二言三言言葉を交わしてはパンを買っていく。冒険者は常に死と隣り合わせ、常連が来なくなったと思っていたら迷宮の栄養になっていた、というのはよく聞く話だ。シンもそうなってしまったのかと思ったが、迷宮で遺体は見つかっていないらしい。もしや病にかかって冒険に出られなくなった、といった特殊な事情だろうか。それなら他の客から情報が入ってこようものだが、そういった情報もない。ただある日を境にシンを見かけなくなった。
胸に懸念事項があっても、時間はいつもどおり流れるもの。日は高く昇り、開店時間を知らせる。普段と同じように店を開き、溢れかえる客の対応をする。一番混み合う時間帯が過ぎた直後、扉が開く。
「いらっしゃいませ。あっ」
あの子供だった。彼もすっかりこの店の常連だ。彼は甘いものが好きなのか、ドーナツやアップルパイのような甘いパンを少し多めに買っている。そういうところもシンに似ているなあ、とミコトはほのぼのと眺めていた。
「いつもありがとうございます」
山盛りのパンをトレイに乗せてやってきた彼に笑いかけると、彼はほんの少し顔を赤らめた。少し高いカウンターに何とかトレイを置く。その辿々しい仕草も微笑ましい。
「ミコト、聞いてもいいか」
「はーい、何ですか?」
彼は幼い見た目ながら、少しぶっきらぼうで大人びた話し方をする。背伸びをしたいお年頃なのだろう。ミコトも幼い頃はそうだったなと懐かしい思いに浸りながら、パンを紙袋に入れていく。
「もしもプレゼントをもらうとしたら、どんなものがいい?」
「プレゼント……ですか?」
不思議な質問だった。誕生日が近いわけでもなし、年齢的にはミコトから彼に何かあげたくなるようなところなのだが。しかし彼の金色の目は真面目にミコトを見据えており、真っ当な回答を望んでいるようだった。ミコトはうーん、と声を上げた。
「そうですねえ……」
パン屋の仕事に忙殺され何が欲しいあれが欲しいといった煩悩を隅に追いやっていたためか、パッと思いつくものがない。ミコトはふふ、と笑った。
「特別何かが欲しい、っていうのはないですね」
「……」
正直に返すと彼は意外そうに目を見開いた後、困ったような顔をした。ミコトは珍しく狼狽えた様子の彼に微笑む。
「ふふ、私に何かくれるんですか?」
「……ああ、その……もっとミコトと仲良くなりたいから」
「あら」
予想外の言葉にミコトは笑みを零した。そして自らの子供の頃を思い出していた。自分も彼くらいの年齢のときには、近所の年の離れたお兄さんに淡い恋心を抱いたものだ。彼もそんな微笑ましい思いを抱えているのだろうか。大人びた口調といい、子供らしい背伸びが見えて愛らしい。
「でも、結構ですよ。お金は大事ですから。うちのパンを買ってくれるだけで十分です」
「本当に欲しいものはないのか?」
無難な返しをしても、彼は爪先立ちをしてまでミコトをじっと見つめてくる。可愛らしい姿の奥に、何か覚悟のようなものが見えた。ミコトは苦笑いを零しつつ正直な気持ちを伝えた。
「そうですね……強いて言うなら、お休みの日にご飯に付き合ってくれる人がいてくれると嬉しいかもしれません。ほら、お店を一人でやってますし、みなさんとお休みが合わなくて」
一人暮らしが長い分一人での食事には慣れたものだが、時折寂しさを感じるときもある。だからこそ、パン屋での常連との触れ合いに重きを置いているのかもしれない。こんな子供との会話で見てみぬふりをしていた問題が炙り出されるなんて、とミコトは苦笑していた。
「そうか。わかった。ありがとう、教えてくれて」
子供はこくんと頷き、走り去っていった。まさか彼がどこか素敵な店に連れて行ってくれるのだろうか。まさかなとミコトは笑い、減ったパンの補充に向かった。
さらに数日が過ぎ、ミコトのパン屋は相変わらず繁盛していた。開店直後の戦争が終わり、一息ついた頃に扉が開く。あの子供がやって来るかと思ったら、
「いらっしゃいませ、シンさん!お久しぶりですね!」
しばらく振りのシンが現れた。よかった、迷宮に飲まれたのではなかったらしい。ミコトはほっと胸を撫で下ろした。
「ああ、久しぶりだな」
シンは淡々と答えながらトレイにぽいぽいとパンを積んでいく。甘いパンの方が少し多い相変わらずの選び方にミコトは笑った。
「これで頼む」
「はい、ありがとうございます。それにしてもしばらく振りですね。どうしたんですか、体調でも崩してたんですか」
「ああ、まあ……そんなところだ」
シンはミコトがパンを紙袋に入れていくのを落ち着かない様子で眺めていた。視線がふわふわと泳いでいる。久しぶりに店に来たから緊張しているのだろうか、彼も意外と繊細なようだ。
「はい、シンさん」
エンを受け取り、紙袋を手渡す。紙袋を受け取ったら彼はいつもすぐに出ていくが、今日はカウンターから一歩も動かなかった。ミコトが不思議に思っていると、彼が口を開く。
「……この店、知ってるか」
シンが一枚の紙を差し出した。最近開店したばかりの飲食店のチラシだった。
「ええ、知ってますよ。近くに開店したばかりなんですよね、少し気になっていたんです」
「今度、休みの日に一緒に行かないか」
ふらふらと泳いでいた彼の目がミコトに固定され、はっきりと告げられた。彼にどこか似ている子供と交わした言葉を思い出した。休みの日、誰かと一緒に食事をしてみたい。まさか唐突に降って湧いてくるとは思いもしなかった。
ミコトはシンをじっと観察した。わずかに赤らんだ頬、こちらをじっと見つめている金色の瞳、彼なりに勇気を出したことが伺えた。ミコトには直接聞けず、あの黒髪の子供を使って探っていたのだろうか。大人びた見た目とは真逆の言動を微笑ましく思ってしまった。
「お誘いありがとうございます。じゃあ、次のお休みのときに一緒に行きましょう。連れていってください」
そう答えたとき、シンの頬がさらに赤みを増した。
――定休日、前倒しにしちゃおうかしら。
ミコトの脳内に浮かんだのは珍しくもお茶目な考えだった。
パン屋の朝は早い。ミコトはまだ暗い朝三時に店に入り、黙々と仕込みをしていた。ハイ・ラガードの冒険者たちは夜明けと同時に迷宮へ出ていく、彼らの活力になるべくパン屋も合わせて動かねばならないのだ。
幾度となくこなした作業を進めていくと、小さなパン屋は焼きたてのパンの香ばしい香りを纏っていく。パンを焼き陳列しを繰り返していると、あっという間に日が昇り朝になる。ミコトは店の扉に掲げた「closed」の看板を「open」にひっくり返した。外には焼きたてのパンを求める常連たちが列をなしていた。
「あ、みなさんおはようございます。開店です!」
「お〜、待ってたぜ!」
ミコトの笑顔に呼応し並んでいた客が店内に入ってきた。ここからは戦争だ。てきぱきと客をさばき笑顔を振りまくと、客たちはほくほくとした笑顔で店を出ていく。きっと彼らは迷宮に入る前に簡単に食事を済ませ、今日も未知の迷宮に挑んでいくのだろう。冒険者たちがいるからこそハイ・ラガードの街は成り立っている、ミコトは彼らの役に立てていると思うと誇らしかった。
開店から一時間は目が回るほど忙しいが、そこを過ぎると昼までは客が少なくなる。第一波が終わり、ミコトはふうと息をついた。朝早くに焼きあげたパンはほぼ売り切れてしまった。適宜補充をしながら客の訪れを待っていると、静かに扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
挨拶をし顔を上げると、そこには黒い髪の青年がいた。最近冒険者になったようで、ここのところ連日店に来てくれる新たな常連さんだ。ミコトはにっこりと笑った。
「こんにちは、シンさん。今日は遅いですね。お寝坊さんですか?」
「ああ、ちょっと寝過ぎた」
青年――シンは淡々と返しトレイとトングを手に取った。補充したばかりのつやつやのパンを眺めている。こうして見ていると普通の青年のようだが、彼の腰には手入れの行き届いた銃がある。彼はたった一人で迷宮に挑み、毎日傷一つない綺麗な体で店にやってくる。年若く見えても実力者なのだろうな、とミコトは感心していた。
「これで頼む」
シンはトレイをカウンターに置いた。サンドイッチやプチドーナツの詰め合わせ等々、一人で食べるには多いのではないかと感じるほどの山盛りだった。デニッシュやドーナツといった甘いパンが少し多いあたり、実は甘党なのだろうか。ミコトは成長期の男の子っぽいなあ、と微笑ましく思いながら会計を済ませた。
「今日も迷宮に行くんですか?」
パンを袋に詰めながら何となしに尋ねてみる。シンは静かに頷き、
「ああ。キマイラを討伐してくれって言われてる」
さらりと答えた。このパン屋は冒険者がよく利用するため、冒険者ではないミコトでもキマイラの名前は聞いたことがあった。
「え、キマイラって五階にいるすごく強い魔物ですよね?そんなのを倒しに行くんですか?」
「ああ」
シンはさも当然のように頷いた。はぁ〜、とミコトは感嘆した。彼からは並々ならぬ風格のようなものを感じていたが、思い過ごしではないのかもしれない。
「そうなんですね、気をつけてください。キマイラには他の冒険者さんも苦戦してるって聞きましたよ」
「そうか、ありがとう」
パンを包み終え紙袋を手渡すと、シンはわずかに目を細め口角を上げた。それが彼なりの笑顔であることをミコトは知っていた。
――また明日も無事に来てくれますように。
シンは迷宮の入り口で紙袋からパンを取り出した。今日の朝食は……というより、今日の朝食「も」ミコトのパン屋で買ったサンドイッチだ。シンはがぶりと豪快に齧り付いた。新鮮なトマトやレタス、それらとともに溢れるベーコンの肉汁。美味い。朝の活力を得るには最適な味だ。
シンは最近冒険者になったばかりの新米で、ミコトのパン屋は鋼の棘魚亭のマスターから教えてもらった。ハイ・ラガードで一、二を争う味だと聞いていたが噂どおりの美味さで価格も良心的、すっかりシンは常連となっていた。
「……」
もぐもぐと口を動かしながら、シンはパンの香りとともに接客をするミコトを思い出していた。パンは当然として、シンにはもう一つ目当てがあった。
「あー……くそっ」
頭をかきながらサンドイッチの最後の一欠片を飲み込んだ。何度も店に通ったことが功を奏し、ようやく彼女に名前と顔を覚えてもらい世間話をできるようになった。これで他の客たちと大体同じ立場だ。ここから頭一つ抜きん出るためにはどうすればよいか。シンの頭にぽわんと浮ついた花が咲いていた。自分らしくないと思う瞬間もあるが、一度咲いてしまった花はどうすることもできない。シンはパンを食べながら一人赤面した。
「……よし、行くか」
朝食を食べたのならここからは冒険の時間。シンは少しの名残惜しさを感じながら迷宮へ足を踏み入れた。今日も今日とて冒険の始まりだ。
朝食を食べてから数時間が過ぎ、真昼の太陽が高く昇る頃にシンの腹が鳴った。もうそんな時間かとシンは足を止めた。迷宮第一層、新緑が鮮やかな迷路には魔物が蔓延っている。たった一人で突き進むシンにとって、少しの不調が命取りだ。どこかで腰を落ち着けて食事を摂るべきだ。シンは比較的魔物の気配が薄い場所を見つけ、木の根元に腰掛けた。頭上ではさわさわと木が揺れ、緑の葉がざわめく。
懐から取り出したのはパンの入った紙袋。昼食も合わせて買っていた。小さなドーナツの詰め合わせとバゲット等々、楽しみにしていた品々を取り出す。シンの口元は自然と綻んでいた。
迷宮の中孤独に進める食事も、ミコトのパンを味わうなら侘しくない。彼女の人柄を感じさせる素朴な味わいは疲れた体に沁みる。特に砂糖で化粧をしたドーナツは美味の一言。優しい甘みが疲労回復を促進し、錆びつつあった集中力が研ぎ澄まされていくのを感じる。
シンの脳裏には明るい笑顔を浮かべるミコトがいた。彼女はシンと同じく、たった一人であのパン屋を切り盛りしているようだ。冒険者のシンには計り知れない苦労があるだろう。彼女の手はいつも少しかさついているように見えた。
――メディカ……は色気がなさすぎるよな。ハンドクリーム……匂いがついたやつとか色々あるけど、どれがいいのかわからない。
シンの中でぐるぐると思考が巡る。ただの顔見知りからもう一つ上の段階に行くためには、やはり贈り物だろう。そんな風に思っても男シン、女性に何を贈ればいいのかわからない。ここ数日ずっと悩み続けているが答えが出なかった。鋼の棘魚亭のマスターやフロースの宿の女将に聞けば有用な答えが返ってくるだろうか。シンはうーん、と独りごちつつ最後のパンを食べた。
反射的に紙袋に手を突っ込んで、もうパンがないことにがっかりしてしまった。ミコトのパンを買うといつもこうだ、ぼんやり考え事をしているうちに食べきってしまう。シンは舌打ちをしつつ丸めた紙袋をハーフパンツのポケットに突っ込んだ。
昼食を終え、シンは大きな伸びをした。腹ごしらえも終え、これから強敵との戦いに入る。シンは両手で頬を叩き、気合いを入れた。ここからが本番だ。
「はっ!」
迷宮第一層五階の主、キマイラはシンの精密な射撃を受けついに倒れた。シンはぴくりとも動かなくなったキマイラに銃口を向けながら慎重に近寄る。素材を得ようと倒れた魔物に近付いて逆に狩られる、というのは冒険者のよくある死因だ。油断はできない。抜き足差し足で忍び寄り、呼吸を確認する。止まっている。キマイラの首に触れた。脈も感じない。
「……ふう、やっと倒せたみたいだな」
シンは一息つくと、銃を腰のホルスターにしまった。キマイラの向こうには六階に続く階段があるが、さすがに今日はここで切り上げた方が良さそうだ。シンはキマイラの羽や毛といった素材を採取し、アリアドネの糸を取り出した。ふと階段近くに目をやると、シンの興味を惹くものがあった。
「ん?」
見たことのない花が咲いている。キラキラと輝くような花びらを持ち、よい香りが漂う。もしかすると貴重な素材ではないか、そう思いながらシンは花を手折った。鼻をくすぐる甘い香り、美しい花びらはシトト交易所に持ち込むには勿体無い気もする。シンの脳裏に朗らかなミコトが浮かんだ。女性に花を贈る、ベタすぎるシチュエーションではあるのだが、気の利かないシンにはこれが精一杯かもしれない。
「……?」
唐突に体が重くなった気がした。強敵との激闘を終えた直後だからだろう、早く休んだ方がいい。シンはアリアドネの糸をほどいた。シンの体は迷宮を離れ、ハイ・ラガードへ戻っていく。
花を渡すなら早いうちがいい。それはわかっているのだが、どうにも体がだるい。少し一眠りするか。シンは宿の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。そのままシンの意識は深い眠りの中に誘われていった。
「う……」
シンは意識の深海から急激に浮かび上がるように目を覚ました。眠る前は明るい時間帯だったが、目を覚ましても似たような明るさに包まれている。今何時だ?シンが壁の時計を確認すると、いつもミコトのパン屋に向かう時間だった。夕方から朝まで寝ていたのか。シンは慌てて飛び起きた。
ベッド脇の小さなテーブルでは、迷宮で手に入れた花が萎れていた。あれほど美しかった花弁は瑞々しさを失い、芳しい香りも消え失せている。ああ、やってしまった。せっかく取ってきたのに。シンは残念に思いながら半身を起こした。ベッドから降りようとして、床に足がつかないことに気付く。妙だ。いつもならベッドの縁に座っても床に足がつくのに。ふと自らの手を見ると妙に小さかった。まるで子供の手のようだ。
おかしい。何かがおかしい。シンはぴょいとベッドから飛び起きると姿見の前に立った。
「!?」
鏡に映る自分は明らかに幼くなっていた。低い背、短い手足、丸くふっくらとした顔。およそ十歳になるかならないかくらいの子供になっていた。
「なんでこんな……」
思わず漏れた声も、変声期前の高い声だった。鏡に映った子供が自分だと考えたくもないが、ベッドに座ると足がつかなかったこと、声の高さ、手の小ささ、そう認めざるを得ない。しかし何故?一体何が……シンは昨日のことを思い出した。
朝目を覚まし、ミコトの店でパンを買い、迷宮へ出かけた。パンを食べて探索して、キマイラを倒して……。
「もしかして」
シンは萎れた花を手に取った。見たことのない花で、嗅いだことのない香りがした。にわかには信じがたいが、普段との違いはこの花の有無。少し調べてみる必要があるだろう。そう思った瞬間、
――ぐうう。
腹の虫が豪快な音を立てた。体が縮んでも食欲は同じ、食べたいものも同じ。シンはため息をつきつつも、通い慣れたパン屋に向かった。
今日もいつもどおり日は昇り、朝がやってくる。ミコトは焼きたてのパンを店頭に並べ、時間どおり開店した。その瞬間、腹を空かせた客が雪崩れ込んでくる。元気よく挨拶を交わしながら接客をすること一時間半。朝のピークが過ぎ客がまばらになってきた頃、扉が開いた。そろそろシンが来る時間だし、きっと彼だろう。
「いらっしゃいませー」
反射的に声を出し店の入り口に目をやると、見慣れない子供がいた。短い黒い髪が一部外側に跳ねており、金色の瞳は子供らしく丸っこい。背がミコトの半分くらいしかなく、ふっくらとした顔の輪郭が可愛らしい子供だった。おつかいかな、とミコトは微笑ましく見守っていた。彼はトレイにひょいひょいとパンを取り、カウンターにやってきた。少し踵を浮かせてトレイを置く様が可愛らしく、ミコトの口元は自然と弛んだ。
「ふふ、ありがとうございます。お金、ぴったりです。ありがとう」
そう言ってみると、彼はぷくっと頬を膨らませた。子供扱いするなということだろうか。その背伸びした様子も可愛らしく、和んでしまう。ミコトは頬杖をつき彼の様子を眺めていた。
「あの」
子供はじっとミコトを見上げ、声をかけてきた。ん?とミコトが首を傾げると、彼は不思議なことを口にした。
「シンって冒険者、知ってるか」
「ええ。知ってますよ」
「そいつのこと、どう思う?」
「えっ?」
思いもよらぬ質問にミコトは驚いた。目の前にいる彼は、あのシンという冒険者と知り合いなのだろうか。そういえば黒髪で金色の瞳、体に黒と緑のタトゥーのような模様が入っているところといい、シンと似ている。
「シンさんのことですか?最近冒険者になったみたいですけど、もう五階の魔物を倒しに行くとかで、すごいなって思いますよ」
正直な感想を口にすると、子供の生真面目な表情が和らいだように見えた。少し嬉しそうに見える。
「そういえば、あなたはシンさんに似ていますね。弟さんですか?」
「弟?……ちがう」
子供はふるふると首を横に振った。そして不機嫌そうにふぅ、と息をつく。何だろう、この子は。不思議な子だなとミコトは思いながら紙袋に入れたパンを渡した。
「ありがとう。また来る」
子供はそう言ってパンを受け取り、そそくさと店を出て行った。ミコトはありがとうございました、と言いながら、今日はシンは来ないのだろうかと考えていた。
「……あった」
シトト交易所で本棚の前に立つシンは、ある本を見つけた。迷宮の植物について詳しく記載された図鑑だ。
「くっ……」
手を伸ばすが、絶妙に高い位置にあり手が届かない。背表紙の下端を少し撫でるに留まる。しばし格闘していると隣に交易所の娘が立ち、
「これですか?はい」
と目当ての本を手渡してくれた。彼女は通常であればシンより背が低いが、今は逆転している。彼女よりも幼くなってしまったのかとシンは歯噛みした。
「ありがとう」
礼を言うと、娘はくすくすと笑った。
「ふふ、おつかいですか?偉いですね」
「……おつかいじゃない。オレが読むんだ」
そう言うと、娘は感心したように笑った。
「そうなんですね!勉強熱心ですごいです!将来は冒険者さんですね!」
……彼女もミコトと同じく、現在の自分を「シン」とは別人の子供だと思っているようだ。正直なところ腹立たしい。が、人がある日突然幼くなるなどと普通は思わないし、ガラスのドアに映った自分はどこからどう見ても子供で、この態度も仕方がないかと気落ちしてしまう。
「ありがとうございましたー!重いので気をつけてくださいね」
代金を払い図鑑を手に持つと、ずしりと腕に重力を感じた。この程度の本なら片手で持てるはずだが、今のシンは両手で抱えなければならなかった。くそ、と舌打ちしそうになりつつ、シンは宿に戻りベッドの上で図鑑を広げた。
「……これだ」
ぺらぺらとページをめくること数十分。あの花の記述を見つけた。「甘く芳しい香りで外敵を弱らせその場で眠るように死に至らせ、その養分を啜る」と恐ろしい記載があった。寿命が短い魔物であれば抵抗する力もない生後直後にまで若返り、そのまま死んでしまうという。青年であるシンは子供の頃まで若返ってしまったということだろう。残念ながら解毒薬等はなく、自然治癒を待つしかないとのこと。
「はぁ……」
少し活字を読んだだけで疲れてしまった。シンは仰向けにベッドに倒れ、天井を見つめた。
ぐうう。
また腹が減った。シンはベッド脇のテーブルに置いた紙袋に手を伸ばした。ミコトの店で買ったパンは時間が経っても美味しい。腹が減ってはなんとやら、とりあえずパンを食べることにした。もぐもぐと口を動かしながら、シンは思考を巡らせた。
今日は小さくなったことを逆手に取り、ミコトに自分をどう思っているか聞いてみた。真っ先に出てくるのが冒険者という属性に関する感想なあたり、やはりというか関係の浅さを感じさせる。そうだ、この姿がしばらく続くようであれば好機ではないか。子供の純真さを道具に使うのは気が引けるが、気になる女性を知るためならば致し方ない。シンは冷めても美味しいパンを頬張りながら作戦を練っていた。
ここ数日、シンが来なくなった。ミコトはどうしたのだろう、と思いながら開店準備を進めていた。代わりによくやって来るのが、どことなくシンの面影のある子供だった。彼は毎日店にやって来て二言三言言葉を交わしてはパンを買っていく。冒険者は常に死と隣り合わせ、常連が来なくなったと思っていたら迷宮の栄養になっていた、というのはよく聞く話だ。シンもそうなってしまったのかと思ったが、迷宮で遺体は見つかっていないらしい。もしや病にかかって冒険に出られなくなった、といった特殊な事情だろうか。それなら他の客から情報が入ってこようものだが、そういった情報もない。ただある日を境にシンを見かけなくなった。
胸に懸念事項があっても、時間はいつもどおり流れるもの。日は高く昇り、開店時間を知らせる。普段と同じように店を開き、溢れかえる客の対応をする。一番混み合う時間帯が過ぎた直後、扉が開く。
「いらっしゃいませ。あっ」
あの子供だった。彼もすっかりこの店の常連だ。彼は甘いものが好きなのか、ドーナツやアップルパイのような甘いパンを少し多めに買っている。そういうところもシンに似ているなあ、とミコトはほのぼのと眺めていた。
「いつもありがとうございます」
山盛りのパンをトレイに乗せてやってきた彼に笑いかけると、彼はほんの少し顔を赤らめた。少し高いカウンターに何とかトレイを置く。その辿々しい仕草も微笑ましい。
「ミコト、聞いてもいいか」
「はーい、何ですか?」
彼は幼い見た目ながら、少しぶっきらぼうで大人びた話し方をする。背伸びをしたいお年頃なのだろう。ミコトも幼い頃はそうだったなと懐かしい思いに浸りながら、パンを紙袋に入れていく。
「もしもプレゼントをもらうとしたら、どんなものがいい?」
「プレゼント……ですか?」
不思議な質問だった。誕生日が近いわけでもなし、年齢的にはミコトから彼に何かあげたくなるようなところなのだが。しかし彼の金色の目は真面目にミコトを見据えており、真っ当な回答を望んでいるようだった。ミコトはうーん、と声を上げた。
「そうですねえ……」
パン屋の仕事に忙殺され何が欲しいあれが欲しいといった煩悩を隅に追いやっていたためか、パッと思いつくものがない。ミコトはふふ、と笑った。
「特別何かが欲しい、っていうのはないですね」
「……」
正直に返すと彼は意外そうに目を見開いた後、困ったような顔をした。ミコトは珍しく狼狽えた様子の彼に微笑む。
「ふふ、私に何かくれるんですか?」
「……ああ、その……もっとミコトと仲良くなりたいから」
「あら」
予想外の言葉にミコトは笑みを零した。そして自らの子供の頃を思い出していた。自分も彼くらいの年齢のときには、近所の年の離れたお兄さんに淡い恋心を抱いたものだ。彼もそんな微笑ましい思いを抱えているのだろうか。大人びた口調といい、子供らしい背伸びが見えて愛らしい。
「でも、結構ですよ。お金は大事ですから。うちのパンを買ってくれるだけで十分です」
「本当に欲しいものはないのか?」
無難な返しをしても、彼は爪先立ちをしてまでミコトをじっと見つめてくる。可愛らしい姿の奥に、何か覚悟のようなものが見えた。ミコトは苦笑いを零しつつ正直な気持ちを伝えた。
「そうですね……強いて言うなら、お休みの日にご飯に付き合ってくれる人がいてくれると嬉しいかもしれません。ほら、お店を一人でやってますし、みなさんとお休みが合わなくて」
一人暮らしが長い分一人での食事には慣れたものだが、時折寂しさを感じるときもある。だからこそ、パン屋での常連との触れ合いに重きを置いているのかもしれない。こんな子供との会話で見てみぬふりをしていた問題が炙り出されるなんて、とミコトは苦笑していた。
「そうか。わかった。ありがとう、教えてくれて」
子供はこくんと頷き、走り去っていった。まさか彼がどこか素敵な店に連れて行ってくれるのだろうか。まさかなとミコトは笑い、減ったパンの補充に向かった。
さらに数日が過ぎ、ミコトのパン屋は相変わらず繁盛していた。開店直後の戦争が終わり、一息ついた頃に扉が開く。あの子供がやって来るかと思ったら、
「いらっしゃいませ、シンさん!お久しぶりですね!」
しばらく振りのシンが現れた。よかった、迷宮に飲まれたのではなかったらしい。ミコトはほっと胸を撫で下ろした。
「ああ、久しぶりだな」
シンは淡々と答えながらトレイにぽいぽいとパンを積んでいく。甘いパンの方が少し多い相変わらずの選び方にミコトは笑った。
「これで頼む」
「はい、ありがとうございます。それにしてもしばらく振りですね。どうしたんですか、体調でも崩してたんですか」
「ああ、まあ……そんなところだ」
シンはミコトがパンを紙袋に入れていくのを落ち着かない様子で眺めていた。視線がふわふわと泳いでいる。久しぶりに店に来たから緊張しているのだろうか、彼も意外と繊細なようだ。
「はい、シンさん」
エンを受け取り、紙袋を手渡す。紙袋を受け取ったら彼はいつもすぐに出ていくが、今日はカウンターから一歩も動かなかった。ミコトが不思議に思っていると、彼が口を開く。
「……この店、知ってるか」
シンが一枚の紙を差し出した。最近開店したばかりの飲食店のチラシだった。
「ええ、知ってますよ。近くに開店したばかりなんですよね、少し気になっていたんです」
「今度、休みの日に一緒に行かないか」
ふらふらと泳いでいた彼の目がミコトに固定され、はっきりと告げられた。彼にどこか似ている子供と交わした言葉を思い出した。休みの日、誰かと一緒に食事をしてみたい。まさか唐突に降って湧いてくるとは思いもしなかった。
ミコトはシンをじっと観察した。わずかに赤らんだ頬、こちらをじっと見つめている金色の瞳、彼なりに勇気を出したことが伺えた。ミコトには直接聞けず、あの黒髪の子供を使って探っていたのだろうか。大人びた見た目とは真逆の言動を微笑ましく思ってしまった。
「お誘いありがとうございます。じゃあ、次のお休みのときに一緒に行きましょう。連れていってください」
そう答えたとき、シンの頬がさらに赤みを増した。
――定休日、前倒しにしちゃおうかしら。
ミコトの脳内に浮かんだのは珍しくもお茶目な考えだった。