修羅と雪
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#4 刃とぬくもり
「……君達はあのときの少年と少女か。まだ生きていたのか」
ぱちぱちと篝火が燃えるマントラ軍本拠地の前に氷川が立っていた。彼はゴズテンノウを失い急速に悪魔の気配が消えた哀れな塔を見上げた。
「マントラ軍からマガツヒを吸収し、十分なマガツヒを得た。ニヒロ機構が静寂の世界を興すのも時間の問題だ」
「静寂の世界?」
「そうだ」
シンの疑問に氷川は答えた。
「人間が持つ欲望……あまりにも大きくなりすぎた。世界を焼き尽くすほどに。人は世界を照らす信号であり、世界は変わらず静寂であるべきなのだ」
力を求める悪魔たちが撤退した沈黙のイケブクロに、氷川の声が冷たく響く。シンは眉を顰めた。
「せっかくここまで生き残ったのだ、君達も見届けるといい。シジマの世界が創られる様をな」
去っていく氷川の背中をシンは睨んだ。勇と千晶以外の創世を目指す者。彼らが目指す世界はそれぞれ違うものの、共通点がある。拳を握るシンにミユキが寄り添う。
「さっきの人、ニヒロ機構の……」
「ああ、氷川だ。あいつも創世を目指してるみたいだな。創世なんて、させない」
「え?」
不思議そうな顔のミユキを見、シンは力強く告げた。
「氷川も、勇も、千晶も……どの世界でも、お前と一緒にいられなくなる」
戦えない彼女は、ヨスガの世界では真っ先に切り捨てられる存在だろう。ムスビの世界は個人主義、シンとミユキがともにいられるとは思えない。シジマの世界では人は人らしい感情を持てないと思われる。ミユキのような「普通の人間」とごく普通に暮らしていける未来は、どのコトワリでも否定されているように見える。ミユキとともに生きる未来のためには、新たなコトワリを啓かなければならない。
「間薙くん……私も、間薙くんと一緒にいたい」
「オレもだ。新しい世界を創世しても、お前と一緒にいられるようにしたい。……月島」
見つめ合う二人は、自然と抱擁を交わしていた。互いの背中を抱きしめ合う、柔らかで優しい独占欲。シンの心に淡い欲望が灯った。近くで見ているその唇、奪ってしまいたい。
「間薙くん?」
その朱唇まであと数センチ、という距離で疑問を投げかけられる。シンは彼女を腕の中に閉じ込めたまま、口を開いた。
「月島。キス、したい」
「きっ……!?」
呟いた言葉は静かに響き、ミユキの困惑を呼び覚ました。張り詰めた静寂、他に誰もいないイケブクロだからこそ接吻に相応しい。シンは今すぐ唇を重ねたくなる衝動を奥歯を噛んで抑えながら、じっと彼女を見つめた。ミユキは頬に紅色を灯しながら目を泳がせていた。シンの顔付近をふらつく視線、目が合うようで合わない。
「その、キスって……口?」
「当たり前だろ」
「うっ……く、口はその、恥ずかしい……」
「なら頬とか額ならいいか?」
「う、うん」
ミユキは頷き、目を閉じた。その顔は口付けを待ついたいけなものだった。目を閉じているのをいいことに、こっそりと……と考えたが、やめた。シンは素直に頬と額に唇で挨拶をし、ぎゅっと抱きしめた。彼女の体は唐突に体温が上がり、火傷しそうなほど熱かった。
マネカタの予言者、フトミミの言う「ヨヨギ公園で芽吹く邪悪な力」。かつて惨殺事件が起こり封鎖され、勇や千晶と待ち合わせる予定だった場所。シンはミユキと二人でヨヨギ公園を訪れた。フトミミの言うとおり、禍々しい気のうねりを感じる。公園のはずれにいた高尾祐子も弱々しい様子で、何かよからぬことが起こる空気に満ちていた。
「間薙くん、ここ……何だか変な感じがするね。妖精たちの様子も何だか変だよ」
高尾祐子からもらった鍵で侵入した封鎖区域、その頭上には蝶に似た翅を持つ妖精、ピクシーとハイピクシーが忙しなく飛び交っていた。翅のざわめきが耳にうるさく、ミユキは落ち着きなく周囲を見回していた。
「あ!アイツ!」
上空を飛んでいたハイピクシーがぴたりと頭上で止まり、二人を指差した。妖精たちの声は鋭く、友好的な空気はかけらも感じられない。
「ウワサの人修羅だよ!」
「人修羅が人間を連れてるってホントウだったんだ!」
「連れて行かなきゃ!」
ハイピクシーが数人、勢いよくミユキに襲いかかり、ふっと妖しい吐息を吹きかけた。その刹那ミユキの体から力が抜け、深い眠りに落ちてしまう。シンと固く繋いでいた手がするりと抜け落ち、彼女はその場に崩れ落ちてしまった。シンが反応するより早くハイピクシーはミユキの体に群がり、抱えて飛び去っていった。
「月島!くそ、ピクシー!」
シンは頼れる妖精ピクシーを召喚した。翅を羽ばたかせふわりとシンに従う。
「あいつらの後を追ってオレに知らせろ!オレも追いかける!」
「りょーかーい」
呑気な声で答えながら、ピクシーはミユキを連れ去った妖精たちを追って飛んで行った。羽ばたいた後にキラキラと鱗粉が落ちた。
「ん……あれ……」
ミユキは少しの頭痛を覚えながら半身を起こそうとし、両手が後ろで縛られていることに気付いた。うまく身を起こせず、もぞもぞと地を這うみっともない動作をしていると、冷たい視線を感じた。
「目が覚めたようだな」
声のした方を見ると、人の顔の皮をいくつも貼り付けたマネカタに見下ろされていた。手には両刃のナイフを握っている。アサクサで出会った同族殺しのマネカタ、サカハギだ。ミユキの背筋が凍った。ナイフの刃が冷たい輝きを放っている。まさか自分も殺されてしまうのだろうか。
「あ、あなたはアサクサの」
「覚えていたか。そうだ、サカハギだ」
サカハギは見慣れない四角錐の石を弄びながら、ミユキを見下ろしていた。ヤヒロノヒモロギ――高尾祐子が求める、マガツヒを多く含む霊石。彼が手にしているものがきっとその霊石だろう。人間のミユキですら、ただならぬ力が滲んでいるのがわかった。それにしても渡るべきではない相手に渡ったものだ。フトミミの予言はおそらくこのことを言っていたのだろう。
「私をどうするつもりなの」
「安心しろ、殺しはしない。人質として生かしておく」
サカハギはミユキを蔑む眼差しを向け、吐き捨てるように言った。
「あの人修羅とやらはこのヤヒロノヒモロギを奪いに来るだろう。そのときにお前は切り札になる」
サカハギがヤヒロノヒモロギを握りしめた瞬間、地底を揺らす地響きとともに巨大な青い象が現れた。一つ目で剣を持つ、見るからに強大な悪魔だ。ミユキなど一捻りで殺せてしまう、そんな威圧感を漂わせている。ミユキは息を呑んだ。これまで数多の敵を葬ってきたシンだが、果たしてこの邪悪な悪魔に勝てるだろうか。それも、ミユキを人質に取るような姑息な相手に。サカハギに胸倉を掴まれ無理矢理立たされ、ミユキの思考は中断した。
「そろそろ来るだろう。お前はここにいろ」
サカハギに後ろから羽交い締めにされ、首筋にナイフを突きつけられた。ほんの少しでも動くと刃が首を掠める危険な体勢。さすがのミユキも冷や汗が背中を伝っていくのを感じた。何とか逃げ出せないか考えを巡らせるが、仮にサカハギから逃れられてもあの象の悪魔に阻まれる。後ろ手に拘束された両手が震えた。
ガタン、と扉が開く音がした。サカハギはチッと舌打ちした。
「もう来たらしいな。全く、もう少しちんたらしてもいいだろうに」
「月島!」
開いた扉の先には、シンとピクシーがいた。シンはサカハギとミユキを見、険しい顔をした。特に何を言われずとも、サカハギの意図を察したのだろう。ち、とシンが舌打ちする音が聞こえた。
「ギリメカラ!」
サカハギの声に呼応し、青い一つ目の象、ギリメカラが咆哮を上げた。冴えた空気をびりびりと震わせ、ギリメカラはシンに刀を振り下ろす。
「……!ピクシー、そっちの相手は任せた!」
「はーい」
刃をかわしたシンは、ギリメカラと対峙するピクシーをよそにサカハギに駆けた。サカハギは鋭くシンを睨み、ナイフをミユキの首筋に浅く当てた。首の皮一枚が裂け、血が滲む。
「はぁっ!」
シンは勢いよく拳を地面に叩きつけた。その衝撃でサカハギの立つ地が揺れ、ナイフが数秒ミユキの首から離れた。そのわずかな隙をつき、シンは一気にサカハギの懐に潜り込み、その横っ腹に容赦のない回し蹴りを喰らわせた。
「っぐうぅ!」
サカハギの細い体が吹き飛び、ミユキはナイフの拘束から解き放たれた。彼女の腕を引き、シンは抱き寄せた。吹き飛んだサカハギは膝をつき、赤い唾を吐き捨てた。
「っち、オレ様の邪魔をするな!」
叫びとともにサカハギがシンに迫る。シンはミユキを後ろ手にかばい、右の拳をサカハギの顔面に叩き込んだ。躊躇のない暴力、悪魔も屈するその力にマネカタの身が耐えられるはずもなく、サカハギは仰向けに倒れ動かなくなった。気付くとギリメカラの気配も消えている、ピクシーの勝利に終わったようだ。狭い空間に満ちていた悪魔の禍々しい気配が消え去り、ミユキの足から力が抜けた。ぺたんと座り込んでしまう。
「月島、大丈夫か」
シンの手が両手の拘束を解いてくれたが、それでもミユキは足に力が入らなかった。
「間薙くん……ありがとう」
差し出されたシンの手を握り、ミユキは何とか大地に立った。シンの視線がミユキの一点、首元に集まっている。
「月島、怪我してるな」
「怪我?」
「ここ」
シンの手が伸び、うっすらと切り傷が走る首筋に触れた。触れられると妙に意識してしまい、鈍い痛みが走った。
「いたっ」
「悪い、オレが触ったからだな。ちょっと待ってろ」
言いながらシンは傷薬を取り出した。ミユキも見覚えのある塗り薬、シンの指でたっぷりと首筋に塗られる。
「ひゃ、く、くすぐったい」
「悪いが我慢してくれ」
後ろに飛び退きそうになるのを何とか堪え、薬を塗ってくれるシンを見つめた。真剣な表情で傷口を観察している彼の瞳に妥協はなく、丹念に薬を塗り込み様子を伺っている。灰色がかった彼の瞳は鋭いが優しく、心配されていることを具に感じる。
「よし、これで問題ないと思う。どうだ?痛くないか?」
「うん、もう痛くないよ。ありがとう」
ミユキが痛みを感じた付近に触れたがすっかり傷は塞がり、もはやどこに傷があったのかわからなくなっていた。シンは安堵の息をついた。
「よかった。ごめんな、月島」
笑い合ったと思っていたら抱きしめられ、彼の体温と密着する。彼に抱きしめられるのも何度目だろうか。彼の体温はミユキを安心させてくれる、まるで魔法のよう。
「オレと一緒にいるから、お前のことも悪魔たちに知られてるのかもしれないな」
「え?どういうこと?」
シンの手がミユキの頭を撫でた。髪と戯れ慰めるような手つきだった。
「オレは『人修羅』として悪魔たちに知られてるみたいだ。その人修羅のそばにいる人間……まあ、噂になってもおかしくないよな」
「……そう、なの?」
ミユキには理解が難しい話だった。確かにシンは強く頼れる存在だが、ミユキにとって彼は間薙シンという少年だ。「人修羅」という厳めしい名前と目の前の彼がうまく結びつかない。
「これからもオレと一緒にいると危険かもしれない。月島、それでもオレと一緒にいてくれるか?」
見つめ合った彼は、険しい顔をしながらもどこか寂しそうだった。ミユキの答えなど、たった一つに決まっている。
「間薙くんがいいなら、私も連れていって。一人は寂しいもの」
ぎゅ、と彼に抱きつき胸に顔を埋めた。その頭を彼は優しく撫でてくれた。
高尾祐子に憑依した謎の神アラディアが宣うには、イケブクロで新たな創世の芽が現れたとのことだった。シンはミユキを伴いマントラ軍本拠地へ急ぐ。かつてニヒロ機構によりマガツヒを吸収され解体した力ある者の軍勢、てっきり空になったものと思われたが、怪しい天使たちの羽ばたきが聞こえていた。天使の翼は美しいが所詮は悪魔の一角、何かあれば牙を剥く存在であることに変わりない。シンはミユキの手を強く握り、天高い楼閣を登った。
塔の頂上、ゴズテンノウの玉座があった部屋から強烈な妖気を感じた。シンですら扉を開けるのを躊躇う不気味な気配。ミユキを見遣ると、彼女の顔は青っぽく見えた。
「月島、この扉の向こうから嫌な予感がする。ここで待ってるか?その方が安全かもしれない」
「ううん……行くよ。間薙くんに何かあったら嫌だもの」
頷き合った二人は、重い扉を開いた。空間を軋ませる不穏な音が響く。
ゴズテンノウがいた場所には、橘千晶が立っていた。尖った白い髪が伸び、右手が黒い異形の腕となった橘千晶は、見るからに「普通の人間」から逸脱していた。その瞳はシンとミユキを鋭く射抜き、不敵な笑みを浮かべる。
「ああ、シンくんと月島さんね。ふふ、どう?綺麗でしょう」
千晶は捩れた右腕を愛おしそうに見つめ、二人に話しかけた。無機質な足音とともに階段を下り、二人との距離を詰める。そしてミユキを忌々しげに見つめた。
「私は大いなる力を手に入れたの。これなら、力ある者だけの楽園を創れるわ」
千晶の呟きとともに、彼女の右腕が肥大し瞬時にミユキに伸びた。素早く伸びた黒い右腕は、ミユキの首を掴み宙に浮かせる。
「うぅ……!?」
ミユキは呻き、何とか逃れようともがき黒い腕を掴むが、か弱き人間の力ではどうにもできない。千晶の吐き捨てるような言葉が続いた。
「月島さん、あなたがいるからシンくんは惑わされるのね。なら、ここでヨスガの礎になってもいいんじゃないかしら……!」
ぎりぎりと首を絞める無慈悲な音が響く中、シンの頭は驚くほど冷静だった。右手に命を刈り取る光の刃を出現させ、千晶の右手首に向かって迷いなく振り下ろした。異形の手首が切り取られ、ミユキの体が解放される。シンがミユキを抱き止め千晶を睨むと、千晶は悔しそうに右腕を蠢かせた。ぼきぼきと耳障りな音を立てながら、右手首の切断面から新たな手が生える。
「どうして?どうしてなの、シンくん。魔界で生き抜いてきたあなたなら、強い者だけが生き残るべきだってわかるでしょう?月島さんのような弱い者に足を引っ張られる世界なんて、なくなるべきなのよ」
「お前の言い分はわからなくもない。だが、オレは月島を切り捨てたくない。それだけだ」
シンはミユキの肩を強く抱き、拳を握りしめ明瞭に答えた。狭い空間に反響し、誰の耳にもはっきり届く。
「オレは月島を守る。お前が月島を殺そうとするなら、オレはお前を殺す」
シンと千晶は睨み合った。二人はかつてのクラスメイト、高尾祐子の見舞いを約束するほどの友人だった。だが今は、理想を違えた敵だ。視線は交差していても、思惑や理想は交わり合わない。それをこの会話ではっきり理解した。
千晶は小馬鹿にしたように息をついた。理解できない、とでも言いたげな顔。
「わからないわ……どうしてシンくんがそういう風に考えてしまうのか。でも、仕方ないみたい。私はヨスガの世界を創るわ。それが嫌なら、私を止めてみせて」
「ああ。必ず止めてみせる」
シンの言葉を最後に、千晶は去っていった。後にはシンとミユキが残るのみ。
「間薙くん……本当にいいの?橘さんとは、友達だったんじゃないの?」
「ああ、確かに友達だった。『だった』んだ。お前を守ることの方が大事だ」
友人だった勇も今となっては千晶同様、排除すべき敵と化した。魔界では余計な情を持っていると死ぬ確率が上がるが、月島ミユキを守る情だけは最後まで持ち合わせていたい。シンは寂しそうに笑うミユキを抱きしめた。このぬくもりだけは、手放したくなかった。
「……君達はあのときの少年と少女か。まだ生きていたのか」
ぱちぱちと篝火が燃えるマントラ軍本拠地の前に氷川が立っていた。彼はゴズテンノウを失い急速に悪魔の気配が消えた哀れな塔を見上げた。
「マントラ軍からマガツヒを吸収し、十分なマガツヒを得た。ニヒロ機構が静寂の世界を興すのも時間の問題だ」
「静寂の世界?」
「そうだ」
シンの疑問に氷川は答えた。
「人間が持つ欲望……あまりにも大きくなりすぎた。世界を焼き尽くすほどに。人は世界を照らす信号であり、世界は変わらず静寂であるべきなのだ」
力を求める悪魔たちが撤退した沈黙のイケブクロに、氷川の声が冷たく響く。シンは眉を顰めた。
「せっかくここまで生き残ったのだ、君達も見届けるといい。シジマの世界が創られる様をな」
去っていく氷川の背中をシンは睨んだ。勇と千晶以外の創世を目指す者。彼らが目指す世界はそれぞれ違うものの、共通点がある。拳を握るシンにミユキが寄り添う。
「さっきの人、ニヒロ機構の……」
「ああ、氷川だ。あいつも創世を目指してるみたいだな。創世なんて、させない」
「え?」
不思議そうな顔のミユキを見、シンは力強く告げた。
「氷川も、勇も、千晶も……どの世界でも、お前と一緒にいられなくなる」
戦えない彼女は、ヨスガの世界では真っ先に切り捨てられる存在だろう。ムスビの世界は個人主義、シンとミユキがともにいられるとは思えない。シジマの世界では人は人らしい感情を持てないと思われる。ミユキのような「普通の人間」とごく普通に暮らしていける未来は、どのコトワリでも否定されているように見える。ミユキとともに生きる未来のためには、新たなコトワリを啓かなければならない。
「間薙くん……私も、間薙くんと一緒にいたい」
「オレもだ。新しい世界を創世しても、お前と一緒にいられるようにしたい。……月島」
見つめ合う二人は、自然と抱擁を交わしていた。互いの背中を抱きしめ合う、柔らかで優しい独占欲。シンの心に淡い欲望が灯った。近くで見ているその唇、奪ってしまいたい。
「間薙くん?」
その朱唇まであと数センチ、という距離で疑問を投げかけられる。シンは彼女を腕の中に閉じ込めたまま、口を開いた。
「月島。キス、したい」
「きっ……!?」
呟いた言葉は静かに響き、ミユキの困惑を呼び覚ました。張り詰めた静寂、他に誰もいないイケブクロだからこそ接吻に相応しい。シンは今すぐ唇を重ねたくなる衝動を奥歯を噛んで抑えながら、じっと彼女を見つめた。ミユキは頬に紅色を灯しながら目を泳がせていた。シンの顔付近をふらつく視線、目が合うようで合わない。
「その、キスって……口?」
「当たり前だろ」
「うっ……く、口はその、恥ずかしい……」
「なら頬とか額ならいいか?」
「う、うん」
ミユキは頷き、目を閉じた。その顔は口付けを待ついたいけなものだった。目を閉じているのをいいことに、こっそりと……と考えたが、やめた。シンは素直に頬と額に唇で挨拶をし、ぎゅっと抱きしめた。彼女の体は唐突に体温が上がり、火傷しそうなほど熱かった。
マネカタの予言者、フトミミの言う「ヨヨギ公園で芽吹く邪悪な力」。かつて惨殺事件が起こり封鎖され、勇や千晶と待ち合わせる予定だった場所。シンはミユキと二人でヨヨギ公園を訪れた。フトミミの言うとおり、禍々しい気のうねりを感じる。公園のはずれにいた高尾祐子も弱々しい様子で、何かよからぬことが起こる空気に満ちていた。
「間薙くん、ここ……何だか変な感じがするね。妖精たちの様子も何だか変だよ」
高尾祐子からもらった鍵で侵入した封鎖区域、その頭上には蝶に似た翅を持つ妖精、ピクシーとハイピクシーが忙しなく飛び交っていた。翅のざわめきが耳にうるさく、ミユキは落ち着きなく周囲を見回していた。
「あ!アイツ!」
上空を飛んでいたハイピクシーがぴたりと頭上で止まり、二人を指差した。妖精たちの声は鋭く、友好的な空気はかけらも感じられない。
「ウワサの人修羅だよ!」
「人修羅が人間を連れてるってホントウだったんだ!」
「連れて行かなきゃ!」
ハイピクシーが数人、勢いよくミユキに襲いかかり、ふっと妖しい吐息を吹きかけた。その刹那ミユキの体から力が抜け、深い眠りに落ちてしまう。シンと固く繋いでいた手がするりと抜け落ち、彼女はその場に崩れ落ちてしまった。シンが反応するより早くハイピクシーはミユキの体に群がり、抱えて飛び去っていった。
「月島!くそ、ピクシー!」
シンは頼れる妖精ピクシーを召喚した。翅を羽ばたかせふわりとシンに従う。
「あいつらの後を追ってオレに知らせろ!オレも追いかける!」
「りょーかーい」
呑気な声で答えながら、ピクシーはミユキを連れ去った妖精たちを追って飛んで行った。羽ばたいた後にキラキラと鱗粉が落ちた。
「ん……あれ……」
ミユキは少しの頭痛を覚えながら半身を起こそうとし、両手が後ろで縛られていることに気付いた。うまく身を起こせず、もぞもぞと地を這うみっともない動作をしていると、冷たい視線を感じた。
「目が覚めたようだな」
声のした方を見ると、人の顔の皮をいくつも貼り付けたマネカタに見下ろされていた。手には両刃のナイフを握っている。アサクサで出会った同族殺しのマネカタ、サカハギだ。ミユキの背筋が凍った。ナイフの刃が冷たい輝きを放っている。まさか自分も殺されてしまうのだろうか。
「あ、あなたはアサクサの」
「覚えていたか。そうだ、サカハギだ」
サカハギは見慣れない四角錐の石を弄びながら、ミユキを見下ろしていた。ヤヒロノヒモロギ――高尾祐子が求める、マガツヒを多く含む霊石。彼が手にしているものがきっとその霊石だろう。人間のミユキですら、ただならぬ力が滲んでいるのがわかった。それにしても渡るべきではない相手に渡ったものだ。フトミミの予言はおそらくこのことを言っていたのだろう。
「私をどうするつもりなの」
「安心しろ、殺しはしない。人質として生かしておく」
サカハギはミユキを蔑む眼差しを向け、吐き捨てるように言った。
「あの人修羅とやらはこのヤヒロノヒモロギを奪いに来るだろう。そのときにお前は切り札になる」
サカハギがヤヒロノヒモロギを握りしめた瞬間、地底を揺らす地響きとともに巨大な青い象が現れた。一つ目で剣を持つ、見るからに強大な悪魔だ。ミユキなど一捻りで殺せてしまう、そんな威圧感を漂わせている。ミユキは息を呑んだ。これまで数多の敵を葬ってきたシンだが、果たしてこの邪悪な悪魔に勝てるだろうか。それも、ミユキを人質に取るような姑息な相手に。サカハギに胸倉を掴まれ無理矢理立たされ、ミユキの思考は中断した。
「そろそろ来るだろう。お前はここにいろ」
サカハギに後ろから羽交い締めにされ、首筋にナイフを突きつけられた。ほんの少しでも動くと刃が首を掠める危険な体勢。さすがのミユキも冷や汗が背中を伝っていくのを感じた。何とか逃げ出せないか考えを巡らせるが、仮にサカハギから逃れられてもあの象の悪魔に阻まれる。後ろ手に拘束された両手が震えた。
ガタン、と扉が開く音がした。サカハギはチッと舌打ちした。
「もう来たらしいな。全く、もう少しちんたらしてもいいだろうに」
「月島!」
開いた扉の先には、シンとピクシーがいた。シンはサカハギとミユキを見、険しい顔をした。特に何を言われずとも、サカハギの意図を察したのだろう。ち、とシンが舌打ちする音が聞こえた。
「ギリメカラ!」
サカハギの声に呼応し、青い一つ目の象、ギリメカラが咆哮を上げた。冴えた空気をびりびりと震わせ、ギリメカラはシンに刀を振り下ろす。
「……!ピクシー、そっちの相手は任せた!」
「はーい」
刃をかわしたシンは、ギリメカラと対峙するピクシーをよそにサカハギに駆けた。サカハギは鋭くシンを睨み、ナイフをミユキの首筋に浅く当てた。首の皮一枚が裂け、血が滲む。
「はぁっ!」
シンは勢いよく拳を地面に叩きつけた。その衝撃でサカハギの立つ地が揺れ、ナイフが数秒ミユキの首から離れた。そのわずかな隙をつき、シンは一気にサカハギの懐に潜り込み、その横っ腹に容赦のない回し蹴りを喰らわせた。
「っぐうぅ!」
サカハギの細い体が吹き飛び、ミユキはナイフの拘束から解き放たれた。彼女の腕を引き、シンは抱き寄せた。吹き飛んだサカハギは膝をつき、赤い唾を吐き捨てた。
「っち、オレ様の邪魔をするな!」
叫びとともにサカハギがシンに迫る。シンはミユキを後ろ手にかばい、右の拳をサカハギの顔面に叩き込んだ。躊躇のない暴力、悪魔も屈するその力にマネカタの身が耐えられるはずもなく、サカハギは仰向けに倒れ動かなくなった。気付くとギリメカラの気配も消えている、ピクシーの勝利に終わったようだ。狭い空間に満ちていた悪魔の禍々しい気配が消え去り、ミユキの足から力が抜けた。ぺたんと座り込んでしまう。
「月島、大丈夫か」
シンの手が両手の拘束を解いてくれたが、それでもミユキは足に力が入らなかった。
「間薙くん……ありがとう」
差し出されたシンの手を握り、ミユキは何とか大地に立った。シンの視線がミユキの一点、首元に集まっている。
「月島、怪我してるな」
「怪我?」
「ここ」
シンの手が伸び、うっすらと切り傷が走る首筋に触れた。触れられると妙に意識してしまい、鈍い痛みが走った。
「いたっ」
「悪い、オレが触ったからだな。ちょっと待ってろ」
言いながらシンは傷薬を取り出した。ミユキも見覚えのある塗り薬、シンの指でたっぷりと首筋に塗られる。
「ひゃ、く、くすぐったい」
「悪いが我慢してくれ」
後ろに飛び退きそうになるのを何とか堪え、薬を塗ってくれるシンを見つめた。真剣な表情で傷口を観察している彼の瞳に妥協はなく、丹念に薬を塗り込み様子を伺っている。灰色がかった彼の瞳は鋭いが優しく、心配されていることを具に感じる。
「よし、これで問題ないと思う。どうだ?痛くないか?」
「うん、もう痛くないよ。ありがとう」
ミユキが痛みを感じた付近に触れたがすっかり傷は塞がり、もはやどこに傷があったのかわからなくなっていた。シンは安堵の息をついた。
「よかった。ごめんな、月島」
笑い合ったと思っていたら抱きしめられ、彼の体温と密着する。彼に抱きしめられるのも何度目だろうか。彼の体温はミユキを安心させてくれる、まるで魔法のよう。
「オレと一緒にいるから、お前のことも悪魔たちに知られてるのかもしれないな」
「え?どういうこと?」
シンの手がミユキの頭を撫でた。髪と戯れ慰めるような手つきだった。
「オレは『人修羅』として悪魔たちに知られてるみたいだ。その人修羅のそばにいる人間……まあ、噂になってもおかしくないよな」
「……そう、なの?」
ミユキには理解が難しい話だった。確かにシンは強く頼れる存在だが、ミユキにとって彼は間薙シンという少年だ。「人修羅」という厳めしい名前と目の前の彼がうまく結びつかない。
「これからもオレと一緒にいると危険かもしれない。月島、それでもオレと一緒にいてくれるか?」
見つめ合った彼は、険しい顔をしながらもどこか寂しそうだった。ミユキの答えなど、たった一つに決まっている。
「間薙くんがいいなら、私も連れていって。一人は寂しいもの」
ぎゅ、と彼に抱きつき胸に顔を埋めた。その頭を彼は優しく撫でてくれた。
高尾祐子に憑依した謎の神アラディアが宣うには、イケブクロで新たな創世の芽が現れたとのことだった。シンはミユキを伴いマントラ軍本拠地へ急ぐ。かつてニヒロ機構によりマガツヒを吸収され解体した力ある者の軍勢、てっきり空になったものと思われたが、怪しい天使たちの羽ばたきが聞こえていた。天使の翼は美しいが所詮は悪魔の一角、何かあれば牙を剥く存在であることに変わりない。シンはミユキの手を強く握り、天高い楼閣を登った。
塔の頂上、ゴズテンノウの玉座があった部屋から強烈な妖気を感じた。シンですら扉を開けるのを躊躇う不気味な気配。ミユキを見遣ると、彼女の顔は青っぽく見えた。
「月島、この扉の向こうから嫌な予感がする。ここで待ってるか?その方が安全かもしれない」
「ううん……行くよ。間薙くんに何かあったら嫌だもの」
頷き合った二人は、重い扉を開いた。空間を軋ませる不穏な音が響く。
ゴズテンノウがいた場所には、橘千晶が立っていた。尖った白い髪が伸び、右手が黒い異形の腕となった橘千晶は、見るからに「普通の人間」から逸脱していた。その瞳はシンとミユキを鋭く射抜き、不敵な笑みを浮かべる。
「ああ、シンくんと月島さんね。ふふ、どう?綺麗でしょう」
千晶は捩れた右腕を愛おしそうに見つめ、二人に話しかけた。無機質な足音とともに階段を下り、二人との距離を詰める。そしてミユキを忌々しげに見つめた。
「私は大いなる力を手に入れたの。これなら、力ある者だけの楽園を創れるわ」
千晶の呟きとともに、彼女の右腕が肥大し瞬時にミユキに伸びた。素早く伸びた黒い右腕は、ミユキの首を掴み宙に浮かせる。
「うぅ……!?」
ミユキは呻き、何とか逃れようともがき黒い腕を掴むが、か弱き人間の力ではどうにもできない。千晶の吐き捨てるような言葉が続いた。
「月島さん、あなたがいるからシンくんは惑わされるのね。なら、ここでヨスガの礎になってもいいんじゃないかしら……!」
ぎりぎりと首を絞める無慈悲な音が響く中、シンの頭は驚くほど冷静だった。右手に命を刈り取る光の刃を出現させ、千晶の右手首に向かって迷いなく振り下ろした。異形の手首が切り取られ、ミユキの体が解放される。シンがミユキを抱き止め千晶を睨むと、千晶は悔しそうに右腕を蠢かせた。ぼきぼきと耳障りな音を立てながら、右手首の切断面から新たな手が生える。
「どうして?どうしてなの、シンくん。魔界で生き抜いてきたあなたなら、強い者だけが生き残るべきだってわかるでしょう?月島さんのような弱い者に足を引っ張られる世界なんて、なくなるべきなのよ」
「お前の言い分はわからなくもない。だが、オレは月島を切り捨てたくない。それだけだ」
シンはミユキの肩を強く抱き、拳を握りしめ明瞭に答えた。狭い空間に反響し、誰の耳にもはっきり届く。
「オレは月島を守る。お前が月島を殺そうとするなら、オレはお前を殺す」
シンと千晶は睨み合った。二人はかつてのクラスメイト、高尾祐子の見舞いを約束するほどの友人だった。だが今は、理想を違えた敵だ。視線は交差していても、思惑や理想は交わり合わない。それをこの会話ではっきり理解した。
千晶は小馬鹿にしたように息をついた。理解できない、とでも言いたげな顔。
「わからないわ……どうしてシンくんがそういう風に考えてしまうのか。でも、仕方ないみたい。私はヨスガの世界を創るわ。それが嫌なら、私を止めてみせて」
「ああ。必ず止めてみせる」
シンの言葉を最後に、千晶は去っていった。後にはシンとミユキが残るのみ。
「間薙くん……本当にいいの?橘さんとは、友達だったんじゃないの?」
「ああ、確かに友達だった。『だった』んだ。お前を守ることの方が大事だ」
友人だった勇も今となっては千晶同様、排除すべき敵と化した。魔界では余計な情を持っていると死ぬ確率が上がるが、月島ミユキを守る情だけは最後まで持ち合わせていたい。シンは寂しそうに笑うミユキを抱きしめた。このぬくもりだけは、手放したくなかった。
