修羅と雪
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#3 不穏
血生臭いカブキチョウ捕囚所を後にし、シンとミユキが訪れたアサクサの街は活気に満ちていた。これまでマントラ軍に搾取されていたマネカタたちが移り住み、各自復興に勤しんでいる。ところどころ通れない道がありまだ完全に復興がなされたものではないが、片付けを行っているマネカタたちの表情は明るかった。誰にも支配されない喜びを初めて謳歌するマネカタたちは、生き生きとしていた。ボルテクス界でこんな生気に満ちた街を見るのは初めてだ。隣を歩くミユキも表情が明るかった。
「すごいね。マネカタのみんな、頑張ってるみたい」
「そうだな」
平和で賑やかな街を歩いていると、実はミユキと和やかなお出かけの最中ではないかと錯覚しそうになる。シンはミユキの手を握った。突然のことにミユキは立ち止まり、やや赤い顔でシンを見た。
「間薙くん?どうしたの、急に」
「いや、その……カブキチョウではぐれて大変な目に遭っただろ。またあんなのがあったら困るから」
咄嗟にそれらしい言い訳が浮かび、シンは安堵した。ミユキも納得したようで、手を握り返してくれる。
「確かにそうだね。あのときはごめんね。迷惑をかけて」
「謝らなくていい。お前を責めたいわけじゃない。……ただ、あんなことはもうごめんだ」
悪魔と戦うとき以外では、手を離したくない。ミユキの笑顔を一瞥し、シンは決意を新たにした。
アサクサの街を歩いていると、不穏な声もちらほらと聞こえていた。同胞であるはずのマネカタを殺す不届者がいるらしい。やはりここはボルテクス界、一見穏やかな街にも不気味な気配が渦巻いているようだ。緊張感を滲ませながらミユキとアサクサ地下街を歩くと、
「……!おまえら……人間か?」
異質なマネカタと遭遇した。恨みがこもった低い声のマネカタは、じろりと二人を眺めた。辺りには動かぬマネカタが倒れ、血飛沫が通路を染めている。マネカタが両刃のナイフのようなものを持っているのを見た途端、シンは身構えた。この狭い通路で戦闘になれば、ミユキを巻き込みかねない。どうすれば、とシンが考えを巡らすうちに、マネカタは口を開いた。
「どっちも人間かと思ったが、男の方は違うようだな……悪魔が人間の女とつるんで何を企んでいる?マガツヒを貯めさせて後で奪うのか?」
「オレはお前とは違う。守るものがあるだけだ」
「ハッ!守るものだと?」
マネカタはつまらなさそうに吐き捨てた。
「ずいぶんと高尚なことを言う悪魔がいるもんだな……人間のマガツヒを奪わない悪魔なぞ、見たことがないがな。面白い。オレはサカハギ、いずれ悪魔を支配する者の名だ。覚えておくんだな……」
マネカタ殺し――サカハギは低く唸ると通路を駆け抜け去っていった。シンは握った拳をほどき、緊張を緩めた。戦闘にならなかったのは幸いだった。ミユキを見ると、血の気が引いていた。
「間薙くん……アサクサにもあんな人がいるんだね」
「ああ。やっぱりここも元の東京じゃない。離れるな、月島」
「うん」
もう一度繋いだミユキの手は、細かく震えていた。
ヒジリから情報を受け訪れたオベリスク。天高い塔の頂上に、高尾祐子はいた。彼女はふらふらとし不安定な言動が見受けられるものの、シンは無事を確認しホッと胸を撫で下ろした。隣にいるミユキも同様に安心した様子だった。
「私……シン君に助けられたのね。ありがとう。月島さんも無事で、よかったわ」
穏やかな口調は、東京受胎前の高尾祐子と何ら変わりなかった。シンは手を差し出したが、彼女は静かに首を横に振り、
「いいえ。私はあなたたちと一緒には行けないわ。私にはまだコトワリがないの。創世するためのコトワリを、きっと私の神が授けてくれるわ……」
と告げオベリスクを去っていった。かつての教え子に会ったというのに淡白な反応、シンは眉を顰めた。
――創世。
千晶も創世を目指すと言っていた。大いなる意思に導かれるように、シンとミユキはコトワリと創世を求める者たちの渦中に身を置いている。シンとてボルテクス界をこのままにしておけないのは感じている。こんな危険な世界――ミユキのためにもならない。
「……間薙くん?どうしたの?」
「月島、お前は創世したいと思うか。コトワリを啓くのは人間にしかできないらしい。オレは半分悪魔みたいなものだ、オレじゃできないかもしれない」
「え……私が、創世を?」
ミユキは困惑していた。シンに守られここまでやって来た彼女も、創世とは無関係ではない。彼女がもしコトワリを啓くというなら、シンにはそれを守り支える力がある。
「私はコトワリとか、全然思い浮かばないよ。ここまで来るだけで手一杯で、今どうしたいとか、そういうのはなくて……間薙くんは?」
「オレも正直わからない。気がついたら創世とかコトワリとか、大きな話になってきて驚いてるくらいだ」
「そう、だよね……」
ミユキの瞳は揺れている。頼りない蝋燭のような灯火が、周囲から押し寄せる荒波に消え失せそうだった。シンはミユキの手を握った。
「月島、オレはお前のそばにいる。心配するな、何があってもオレが守ってみせる」
「間薙くん……ありがとう。間薙くんがいてくれてよかった。……あのね、間薙くん」
「ん?」
「今言うの、変なんだろうけど……」
シンの手を握ったまま、ミユキはもじもじと言いにくそうに視線を泳がせていた。ミユキと目を合わそうとしても逸らされる。彼女の頬は健康的な薄桃色に染まっていた。
「ここに来るまでに、間薙くんを、その、じょ……情夫として飼ってやる、とか言ってる人、いたよね」
「ん?ああ……あの三人組の悪魔か」
氷川の息がかかったオベリスク。運命の糸を紡ぎ人間の一生を支配するモイライの三姉妹がシンの前に立ちはだかったが、シンの拳の前にあえなく散っていった。その三姉妹はあろうことかシンに「お前を情夫として飼っておいてやろう」などと不遜なことを言った。シンは何をふざけたことを、としか思わなかったが、ミユキには妙にこびりついた言葉だったのかもしれない。
「その……怖くなったの。悪魔には綺麗な女の人も結構いるから、間薙くんが誘惑されたらどうしようって」
か細い声で呟く彼女は、どうしようもなく愛おしかった。シンは彼女の腕を引き、熱い抱擁で出迎えた。彼女の頭を撫で胸に押し付ける。
「間薙くん?」
「オレが何か言うより、こっちの方が安心できるかと思って」
「……うん」
強張っていた彼女の体から力が抜け、シンに寄りかかってくる。少し遠慮がちな柔い頼り方にシンは苦笑した。全身預けてもいいのに。
「こうしてると、安心する。ありがとう、間薙くん」
ぽつりと零れたミユキの声は、シンの胸に溶けて消えていった。
アマラ経絡。シンが訪れるのは二回目だがミユキはどうやら初めてらしく、マガツヒが溢れ漂う空間を見回していた。どこまでも無機質で思念体の気配が濃い不安定な空間、シンはミユキの手を強く握った。ミユキは眉根を寄せた不安げな顔でシンを見つめた。
「こんなところに新田くんがいるの?何だか怖いところだね」
「そうらしいな。アマラ経絡は不安定な場所が多い、手を握ってろ」
ターミナルでアマラ経絡を調べるヒジリから、新田勇が経絡に篭っていると聞いた。ボルテクス界はどこにいようと不穏であるが、中でもアマラ経絡はどこに繋がるかわからない安定しない場所、そこにたった一人で人間を置いておくのは忍びない。シンはミユキの手を握ったまま歩いていった。二人分の足音が冷徹に響く。
外敵を拒む思念体により迷宮と化したアマラ経絡を進み、ようやく勇と思しき人影に出会った。シンが声をかけるより早く、人影――新田勇が鬱陶しそうな視線を向けてきた。
「あぁ……シンと……月島か?お前ら、何しにきた?」
勇の声は刺々しく、見た目も大きく変わっていた。上半身には衣服を纏っておらず、代わりに不気味に脈動する人の顔面のようなものをいくつか貼り付けている。その灰色の瞳は据わっており、シンやミユキと目が合っているようで合っていない。どこか遠く、虚空を見つめている。人間であるはずだが人ならざる異様な空気を纏った様子に、シンのみならずミユキも体を強張らせた。勇はボルテクス界を彷徨う同志だったはずだが、そうではなくなったと判断せざるを得なかった。うっすらと決別の気配が漂う。
「オレはもう今までのオレとは違う……新たな世界の創世者となるんだ」
勇の声はどこか現実味がなく、空に向かって語りかけているような不安定さがあった。シンは眉をぴくりと動かした。創世。幾度も聞いた言葉だ。
「創世……お前も目指してるのか」
「お前『も』?オレ以外にも創世を企むヤツがいるのか?じゃあうかうかしてられないな」
くくく、と勇は笑った。ボルテクス界にやってきた当初の、頼りなげで流される浮草の彼はもうどこにもいなかった。勇は可笑しそうに笑いながら、シンとミユキに目をやった。
「それにしても、驚いたぜ。シンが女の子を守るなんてさ。お前、そんなヤツじゃなかったろ?」
「月島は戦えない。戦えるオレが守るのは当然だろ」
「へえー、そりゃ結構なことで。他人なんかどうでもいいオレにはできないことだな」
小馬鹿にする不愉快な笑みを浮かべ、勇はミユキを指差した。
「ちょうどいい。マガツヒを集める礎が欲しかったんだ。誰でもいい……それこそ、月島でもな!」
「え?」
ミユキが困惑した刹那、シンと繋いでいた手が強烈な力で引っ張られ、無理矢理引き剥がされた。ミユキの体は磁石のように勇に引き寄せられ、肩を馴れ馴れしく抱かれた。
「やっ……!?新田くん、離して!」
「ああもう、うるさい。寝てろ」
勇が呟いた瞬間ミユキの体から力が抜け、がくりと項垂れた。勇の腕に抱き止められていた彼女はふわりと宙に浮き、赤いマガツヒの光が集まっていく。
シンの頭が沸騰した。勇が彼女をどうするつもりなのか正確にはわからないが、少なくとも何か得体の知れないことに利用される。そう理解した途端、シンは駆け出していた。真っ直ぐ勇に向かう。雄叫びとともに勇に殴りかかった。ひょいと飛び退き避けた勇は、おどけるように笑っていた。
「おいおい、どうした、シン?月島がそんなに大事か?」
「月島を返せ」
低く唸り、シンはそのへらへらと笑う横っ面を思いきり殴り飛ばした。拳には一切の容赦がなく、勇は後ろに吹き飛ばされた。膝をついた勇は唇から滲んだ血を手で擦り、不敵な笑みを浮かべた。
「っは、ずいぶんと入れ込むじゃないか。それこそ他人に興味ありません、ってツラしておきながらさ」
「月島はオレが守ると決めた。お前に利用なんてさせない。月島!」
不穏なマガツヒの流れを集めるミユキにシンは手を伸ばす。何とか放り出された彼女の手に触れた。ぐいと引っ張ると当たり前に重力が作用し、彼女の体がシンの両腕に収まった。ミユキは気を失っているのか、目を閉じたままだったが息はしている。シンはほっと安堵した。
「月島を礎にしたらオレの命がいくらあっても足りないな。オレは創世を果たすんだ、こんなところで死んでなんかいられない……シン、お前は月島を『守って』たらいいよ。オレはアマラに乗ってマガツヒを集めに行くからさ」
勇の言葉はシンにはよく聞こえてこなかった。ただミユキを取り戻せたことに胸が痺れていた。
「ん……んん……?」
月島ミユキは頭を撫でられる優しさに目を覚ました。目を開くとシンに見下ろされていた。頭に硬くしなやかな筋肉の感触、シンに膝枕をされていると悟ったのは数秒後だった。
「月島、目が覚めたか」
「うん……私、新田くんと会って……あれ……?」
「どこか変な感じがしたりしないか。マガツヒを吸われたかもしれない」
「ううん……言われてみれば、ちょっとだるい……かも」
意識を失う前のことがあまり思い出せない。アマラ経絡で異様な雰囲気の勇と会ったことは覚えているのだが。辺りを見回すと、どうやらアサクサの片隅のようだった。マネカタが遠巻きにこちらを見ている。
「そうか、しばらく休もう。アマラ経絡からは離れたし、ここに勇はいないから安心していい」
「うん……」
シンの言葉に、目覚めたばかりだというのに瞼が重くなる感覚があった。シンが頭を撫でる感触は穏やかで、何か不気味なものを見た不安が少しずつ薄れていく。
「間薙くん」
「なんだ?」
「ありがとう。何か、怖いことがあった気がするの。私を助けてくれたんだよね」
そう言ってシンに笑いかけると、彼は顔を赤らめ少しだけ目を逸らした。
「お前が無事なら、それでいい。無理をするなよ、ちゃんと元気になってくれなきゃオレが困る」
血生臭いカブキチョウ捕囚所を後にし、シンとミユキが訪れたアサクサの街は活気に満ちていた。これまでマントラ軍に搾取されていたマネカタたちが移り住み、各自復興に勤しんでいる。ところどころ通れない道がありまだ完全に復興がなされたものではないが、片付けを行っているマネカタたちの表情は明るかった。誰にも支配されない喜びを初めて謳歌するマネカタたちは、生き生きとしていた。ボルテクス界でこんな生気に満ちた街を見るのは初めてだ。隣を歩くミユキも表情が明るかった。
「すごいね。マネカタのみんな、頑張ってるみたい」
「そうだな」
平和で賑やかな街を歩いていると、実はミユキと和やかなお出かけの最中ではないかと錯覚しそうになる。シンはミユキの手を握った。突然のことにミユキは立ち止まり、やや赤い顔でシンを見た。
「間薙くん?どうしたの、急に」
「いや、その……カブキチョウではぐれて大変な目に遭っただろ。またあんなのがあったら困るから」
咄嗟にそれらしい言い訳が浮かび、シンは安堵した。ミユキも納得したようで、手を握り返してくれる。
「確かにそうだね。あのときはごめんね。迷惑をかけて」
「謝らなくていい。お前を責めたいわけじゃない。……ただ、あんなことはもうごめんだ」
悪魔と戦うとき以外では、手を離したくない。ミユキの笑顔を一瞥し、シンは決意を新たにした。
アサクサの街を歩いていると、不穏な声もちらほらと聞こえていた。同胞であるはずのマネカタを殺す不届者がいるらしい。やはりここはボルテクス界、一見穏やかな街にも不気味な気配が渦巻いているようだ。緊張感を滲ませながらミユキとアサクサ地下街を歩くと、
「……!おまえら……人間か?」
異質なマネカタと遭遇した。恨みがこもった低い声のマネカタは、じろりと二人を眺めた。辺りには動かぬマネカタが倒れ、血飛沫が通路を染めている。マネカタが両刃のナイフのようなものを持っているのを見た途端、シンは身構えた。この狭い通路で戦闘になれば、ミユキを巻き込みかねない。どうすれば、とシンが考えを巡らすうちに、マネカタは口を開いた。
「どっちも人間かと思ったが、男の方は違うようだな……悪魔が人間の女とつるんで何を企んでいる?マガツヒを貯めさせて後で奪うのか?」
「オレはお前とは違う。守るものがあるだけだ」
「ハッ!守るものだと?」
マネカタはつまらなさそうに吐き捨てた。
「ずいぶんと高尚なことを言う悪魔がいるもんだな……人間のマガツヒを奪わない悪魔なぞ、見たことがないがな。面白い。オレはサカハギ、いずれ悪魔を支配する者の名だ。覚えておくんだな……」
マネカタ殺し――サカハギは低く唸ると通路を駆け抜け去っていった。シンは握った拳をほどき、緊張を緩めた。戦闘にならなかったのは幸いだった。ミユキを見ると、血の気が引いていた。
「間薙くん……アサクサにもあんな人がいるんだね」
「ああ。やっぱりここも元の東京じゃない。離れるな、月島」
「うん」
もう一度繋いだミユキの手は、細かく震えていた。
ヒジリから情報を受け訪れたオベリスク。天高い塔の頂上に、高尾祐子はいた。彼女はふらふらとし不安定な言動が見受けられるものの、シンは無事を確認しホッと胸を撫で下ろした。隣にいるミユキも同様に安心した様子だった。
「私……シン君に助けられたのね。ありがとう。月島さんも無事で、よかったわ」
穏やかな口調は、東京受胎前の高尾祐子と何ら変わりなかった。シンは手を差し出したが、彼女は静かに首を横に振り、
「いいえ。私はあなたたちと一緒には行けないわ。私にはまだコトワリがないの。創世するためのコトワリを、きっと私の神が授けてくれるわ……」
と告げオベリスクを去っていった。かつての教え子に会ったというのに淡白な反応、シンは眉を顰めた。
――創世。
千晶も創世を目指すと言っていた。大いなる意思に導かれるように、シンとミユキはコトワリと創世を求める者たちの渦中に身を置いている。シンとてボルテクス界をこのままにしておけないのは感じている。こんな危険な世界――ミユキのためにもならない。
「……間薙くん?どうしたの?」
「月島、お前は創世したいと思うか。コトワリを啓くのは人間にしかできないらしい。オレは半分悪魔みたいなものだ、オレじゃできないかもしれない」
「え……私が、創世を?」
ミユキは困惑していた。シンに守られここまでやって来た彼女も、創世とは無関係ではない。彼女がもしコトワリを啓くというなら、シンにはそれを守り支える力がある。
「私はコトワリとか、全然思い浮かばないよ。ここまで来るだけで手一杯で、今どうしたいとか、そういうのはなくて……間薙くんは?」
「オレも正直わからない。気がついたら創世とかコトワリとか、大きな話になってきて驚いてるくらいだ」
「そう、だよね……」
ミユキの瞳は揺れている。頼りない蝋燭のような灯火が、周囲から押し寄せる荒波に消え失せそうだった。シンはミユキの手を握った。
「月島、オレはお前のそばにいる。心配するな、何があってもオレが守ってみせる」
「間薙くん……ありがとう。間薙くんがいてくれてよかった。……あのね、間薙くん」
「ん?」
「今言うの、変なんだろうけど……」
シンの手を握ったまま、ミユキはもじもじと言いにくそうに視線を泳がせていた。ミユキと目を合わそうとしても逸らされる。彼女の頬は健康的な薄桃色に染まっていた。
「ここに来るまでに、間薙くんを、その、じょ……情夫として飼ってやる、とか言ってる人、いたよね」
「ん?ああ……あの三人組の悪魔か」
氷川の息がかかったオベリスク。運命の糸を紡ぎ人間の一生を支配するモイライの三姉妹がシンの前に立ちはだかったが、シンの拳の前にあえなく散っていった。その三姉妹はあろうことかシンに「お前を情夫として飼っておいてやろう」などと不遜なことを言った。シンは何をふざけたことを、としか思わなかったが、ミユキには妙にこびりついた言葉だったのかもしれない。
「その……怖くなったの。悪魔には綺麗な女の人も結構いるから、間薙くんが誘惑されたらどうしようって」
か細い声で呟く彼女は、どうしようもなく愛おしかった。シンは彼女の腕を引き、熱い抱擁で出迎えた。彼女の頭を撫で胸に押し付ける。
「間薙くん?」
「オレが何か言うより、こっちの方が安心できるかと思って」
「……うん」
強張っていた彼女の体から力が抜け、シンに寄りかかってくる。少し遠慮がちな柔い頼り方にシンは苦笑した。全身預けてもいいのに。
「こうしてると、安心する。ありがとう、間薙くん」
ぽつりと零れたミユキの声は、シンの胸に溶けて消えていった。
アマラ経絡。シンが訪れるのは二回目だがミユキはどうやら初めてらしく、マガツヒが溢れ漂う空間を見回していた。どこまでも無機質で思念体の気配が濃い不安定な空間、シンはミユキの手を強く握った。ミユキは眉根を寄せた不安げな顔でシンを見つめた。
「こんなところに新田くんがいるの?何だか怖いところだね」
「そうらしいな。アマラ経絡は不安定な場所が多い、手を握ってろ」
ターミナルでアマラ経絡を調べるヒジリから、新田勇が経絡に篭っていると聞いた。ボルテクス界はどこにいようと不穏であるが、中でもアマラ経絡はどこに繋がるかわからない安定しない場所、そこにたった一人で人間を置いておくのは忍びない。シンはミユキの手を握ったまま歩いていった。二人分の足音が冷徹に響く。
外敵を拒む思念体により迷宮と化したアマラ経絡を進み、ようやく勇と思しき人影に出会った。シンが声をかけるより早く、人影――新田勇が鬱陶しそうな視線を向けてきた。
「あぁ……シンと……月島か?お前ら、何しにきた?」
勇の声は刺々しく、見た目も大きく変わっていた。上半身には衣服を纏っておらず、代わりに不気味に脈動する人の顔面のようなものをいくつか貼り付けている。その灰色の瞳は据わっており、シンやミユキと目が合っているようで合っていない。どこか遠く、虚空を見つめている。人間であるはずだが人ならざる異様な空気を纏った様子に、シンのみならずミユキも体を強張らせた。勇はボルテクス界を彷徨う同志だったはずだが、そうではなくなったと判断せざるを得なかった。うっすらと決別の気配が漂う。
「オレはもう今までのオレとは違う……新たな世界の創世者となるんだ」
勇の声はどこか現実味がなく、空に向かって語りかけているような不安定さがあった。シンは眉をぴくりと動かした。創世。幾度も聞いた言葉だ。
「創世……お前も目指してるのか」
「お前『も』?オレ以外にも創世を企むヤツがいるのか?じゃあうかうかしてられないな」
くくく、と勇は笑った。ボルテクス界にやってきた当初の、頼りなげで流される浮草の彼はもうどこにもいなかった。勇は可笑しそうに笑いながら、シンとミユキに目をやった。
「それにしても、驚いたぜ。シンが女の子を守るなんてさ。お前、そんなヤツじゃなかったろ?」
「月島は戦えない。戦えるオレが守るのは当然だろ」
「へえー、そりゃ結構なことで。他人なんかどうでもいいオレにはできないことだな」
小馬鹿にする不愉快な笑みを浮かべ、勇はミユキを指差した。
「ちょうどいい。マガツヒを集める礎が欲しかったんだ。誰でもいい……それこそ、月島でもな!」
「え?」
ミユキが困惑した刹那、シンと繋いでいた手が強烈な力で引っ張られ、無理矢理引き剥がされた。ミユキの体は磁石のように勇に引き寄せられ、肩を馴れ馴れしく抱かれた。
「やっ……!?新田くん、離して!」
「ああもう、うるさい。寝てろ」
勇が呟いた瞬間ミユキの体から力が抜け、がくりと項垂れた。勇の腕に抱き止められていた彼女はふわりと宙に浮き、赤いマガツヒの光が集まっていく。
シンの頭が沸騰した。勇が彼女をどうするつもりなのか正確にはわからないが、少なくとも何か得体の知れないことに利用される。そう理解した途端、シンは駆け出していた。真っ直ぐ勇に向かう。雄叫びとともに勇に殴りかかった。ひょいと飛び退き避けた勇は、おどけるように笑っていた。
「おいおい、どうした、シン?月島がそんなに大事か?」
「月島を返せ」
低く唸り、シンはそのへらへらと笑う横っ面を思いきり殴り飛ばした。拳には一切の容赦がなく、勇は後ろに吹き飛ばされた。膝をついた勇は唇から滲んだ血を手で擦り、不敵な笑みを浮かべた。
「っは、ずいぶんと入れ込むじゃないか。それこそ他人に興味ありません、ってツラしておきながらさ」
「月島はオレが守ると決めた。お前に利用なんてさせない。月島!」
不穏なマガツヒの流れを集めるミユキにシンは手を伸ばす。何とか放り出された彼女の手に触れた。ぐいと引っ張ると当たり前に重力が作用し、彼女の体がシンの両腕に収まった。ミユキは気を失っているのか、目を閉じたままだったが息はしている。シンはほっと安堵した。
「月島を礎にしたらオレの命がいくらあっても足りないな。オレは創世を果たすんだ、こんなところで死んでなんかいられない……シン、お前は月島を『守って』たらいいよ。オレはアマラに乗ってマガツヒを集めに行くからさ」
勇の言葉はシンにはよく聞こえてこなかった。ただミユキを取り戻せたことに胸が痺れていた。
「ん……んん……?」
月島ミユキは頭を撫でられる優しさに目を覚ました。目を開くとシンに見下ろされていた。頭に硬くしなやかな筋肉の感触、シンに膝枕をされていると悟ったのは数秒後だった。
「月島、目が覚めたか」
「うん……私、新田くんと会って……あれ……?」
「どこか変な感じがしたりしないか。マガツヒを吸われたかもしれない」
「ううん……言われてみれば、ちょっとだるい……かも」
意識を失う前のことがあまり思い出せない。アマラ経絡で異様な雰囲気の勇と会ったことは覚えているのだが。辺りを見回すと、どうやらアサクサの片隅のようだった。マネカタが遠巻きにこちらを見ている。
「そうか、しばらく休もう。アマラ経絡からは離れたし、ここに勇はいないから安心していい」
「うん……」
シンの言葉に、目覚めたばかりだというのに瞼が重くなる感覚があった。シンが頭を撫でる感触は穏やかで、何か不気味なものを見た不安が少しずつ薄れていく。
「間薙くん」
「なんだ?」
「ありがとう。何か、怖いことがあった気がするの。私を助けてくれたんだよね」
そう言ってシンに笑いかけると、彼は顔を赤らめ少しだけ目を逸らした。
「お前が無事なら、それでいい。無理をするなよ、ちゃんと元気になってくれなきゃオレが困る」
