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血に飢えしもの
東京が死に、人修羅が生まれた。半人半魔の彼が生き延びるには、マガツヒが必要だ。生きているだけで消耗していくそれを、何らかの手段で得続けなければならない。人修羅――間薙シンがマガツヒの理を理解するまでに、大した時間はかからなかった。
「はぁ、はあ……」
変わり果てた新宿衛生病院。悪魔の跋扈する巣窟を彷徨うシンは、猛烈な渇きに見舞われていた。シンは額から流れ落ちる汗を拭い、息をついた。
これまでシンは、何の変哲もない高校生だった。そんな彼が唐突に降ってわいた異常事態を生き残るには、自らの拳で敵を殴り飛ばすしかなかった。格闘の心得などない普通の少年だった彼は、悪魔と戦うたびにこれまでにない体力の消耗を感じていた。
シンの目の前に倒れ伏しているのは、異様に膨れた腹部を持つ悪魔、ガキ。何の見境もなく襲ってくる彼らを何とか退けたが、喉が乾いた。病院内の自販機はどれも動かないし、水分といえば……シンの頭に異常な考えが浮かびつつあった。人間に残された最後の尊厳を自ら捨てるような気がして避けていたが、さすがに限界だった。
シンは地面に這いつくばりガキの骸に噛み付いた。欲に突っ張った悪魔の皮に犬歯が食い込み、ぷつりと破った。皮が破れた先にある死肉、さらにその向こうに血脈を感じた。死んだばかりの肉は温かく、歯に纏わりつく血液も生温かい。夢中で牙を奥に突き刺すと、血脈に傷をつけ口の中に血が溢れた。血と悪魔の全身を巡っていたマガツヒを舐め取り啜った。
不味い。
血はどうしようもなく不味かったが、マガツヒを補給することで狂おしいほどの渇きが癒されていく。ぐじゅぐじゅと音を立てながら四つん這いで血を啜る姿は犬のようだ、なんて思ったがシンは止めなかった。気が済むまでマガツヒを啜り、全身を焦がす渇望を満たさなければ生きていけない。
ごくり。
ようやく腹と喉が満たされ、シンは口元を手で拭った。悪魔の血はどす黒く、拳が乾きかけた血液でべったりと汚れた。
当初は悪魔の血を啜ることに吐き気を催したものだが、だんだんとシンの感覚は麻痺していった。何しろ血を吸わなければシンの生命活動が停止してしまう、嫌々ながらでも生きるためにせねばならなかった。
最近は血の味の違いがわかるようになってきた。妖精の血はふわふわと甘め、幽鬼の血は黒く不味い、天使は味が薄い。できれば妖精を狩れたらいい、などと血の味で考え始めるほどになっていた。あくまでも相対的な話であり、決して悪魔の血は美味ではないのが悲しいところである。
今宵殴り殺したのは鬼女ダツエバ。細い針金のような体は見るからに血が少なそうで、あまり収穫はなさそうだと嘆きながらもシンは死体に噛み付いた。四つん這いで血を啜る姿は獣そのものだが、もはや取り繕うつもりは毛頭ない。吸血に特化した犬歯が悪魔の体に食い込み、滲んだ血を一滴残らず舐め取った。思っていたとおり不味いが、幽鬼の血よりはマシだった。黒ずんだ血が犬歯の先端から滴り落ち、不穏な血痕がシブヤの床に残った。
マガツヒ補給完了だ。舌の上に残る味の余韻は気持ち悪いが、体は新鮮なマガツヒを吸収し悦びに満ちていた。こんなことを続けていたら、いつか自分も魑魅魍魎どもと同じ身にやつしてしまうのだろう。もはや人間には戻れぬ身、それもありだろうか。シンは唇を舐めながら自嘲した。
「あれ、間薙くん?」
背後から声が聞こえ、シンは緊張感をもって振り向いた。振り向いた先には、少女が立っていた。悪魔が纏う不気味な気配を感じない、見るからにか弱い人間の少女。シンは彼女に見覚えがあった。クラスメイトの月森ミコトだ。彼女も受胎に巻き込まれ彷徨っているのだろうか。
「どうした?」
「それはこっちのセリフだよ!どうしたの、その格好」
「ああ……」
シンはすっかり疑問を抱かなくなっていたが、上半身裸で体の至るところに黒と緑の幾何学模様が走っている。普通の人間には見えない、異質な見た目だ。
「色々あって戦う力を得て、こうなった。月森はどうしてここに?」
「誰かいないかなって探してたの。やっと知り合いに会えてほっとしてるところ」
言いながら本当に胸を撫で下ろすミコトから、ふわりと甘い匂いが漂ってきた。少女特有の香りなのか、それとも彼女の全身を巡るマガツヒの匂いか。
「間薙くん、もしよければ私も一緒に行ってもいい?」
いい匂い。彼女が一歩踏み出すと、頭がくらくらするような魅惑の香りが強くなる。こんな匂いを纏った彼女の血は、どんな味がするのだろう。
「間薙くん、聞いてる?」
ずい、とミコトが身を乗り出し、ほんの少し目をつり上げていた。それでようやくシンは思考の沼に嵌っていたことに気が付き我に返ったが、
「え、あ、ああ」
心ここに在らずといった返事しかできなかった。こんな匂いのする少女、絶対に手放したくない。
「私も一緒に行っていいかな?」
シンは言葉を返す前に頷いていた。
月森ミコトと行動をともにするようになってからも、シンは吸血を続けていた。一応不審がられぬように必要性を説明したものの、いざ戦闘が終わるとミコトにどう思われるかを考えている余裕はなかった。戦闘で消耗したマガツヒを吸収しなければ、シンが死んでしまう。
妖鬼の血も不味い。人間として生きるなら全くもって不要な経験則がどんどん増えていく。隣に吸血をしないミコトがいるからこそ自身の異常性を強く認識してしまい、シンは舌打ちした。
「間薙くん、大丈夫?」
「何がだ」
吸血が終わった後、ミコトは心配そうに駆け寄ってきた。シンの不機嫌な声にも構わず、彼女は彼の顔を覗き込んでくる。
「いつも血を吸った後、間薙くん苦しそうにしてるから……」
「苦しいわけじゃない。血が不味いだけだ」
「そう、なんだ……」
自分がどのような表情なのか窺い知ることはできないが、毎回ミコトに心配されるのも申し訳ない。そう思っていると、近くにいるミコトからあの魅惑的な香りが漂ってきた。嗅覚を弄びシンの思考を麻痺させる、甘い香り。何も考えずにその香りに浸っていられたらどれだけ幸せなことか。そう考えていたシンは、
「間薙くん!!危ない!!」
ミコトの叫びが聞こえるまで呆けていた。彼女にぐいと引っ張られたと思った瞬間、彼女の体にオニの剣が直撃した。
血。赤い鮮血が飛び散る。顔を上げたシンが見たのは、彼岸花のように咲き誇る赤い噴水だった。鼻を覆い尽くし頭を揺らす、甘ったるい匂いが充満する。血飛沫の向こうにいるオニを見て何とか我に返り、シンは素早く駆けた。幾度となく悪魔を退けてきた拳をオニに叩きつける。土手っ腹に容赦ない拳を受けたオニは一目散に逃げていった。シンとの実力差を瞬時に悟った、賢明な判断だ。シンは拳を握りしめ、ミコトに駆け寄った。
「月森!!」
「間薙くん、無事……?」
肩を押さえたミコトが膝をついていた。右肩に赤く大きな染みができ、そこからたらりたらりと血液が垂れている。シンの鼻をくすぐるのは、芳醇な香り。
「オレは無事だ。止血しないと……」
――その血、今すぐ飲み干したい。
シンの脳裏を素早く駆けていったのは、野蛮な本能だった。剣が刺さっただろう華奢な右肩に早く傷薬を。重々承知だ。犬歯が疼く。悪魔の血を啜ることに特化した血塗れの牙が、噴き出したばかりの血を求めて疼いている。
「少し沁みる。我慢してくれ」
シンは震える手で傷薬を取り出し、冷たい塗り薬を掌に広げた。そして遠慮なく彼女の右肩に触れる。薬を塗り込み、満遍なく傷を覆っていく。
「う……」
ミコトは呻いたが、シンの手は止まらない。理性を溶かす甘い香りが充満する中、シンは何とか手当を終えた。悪魔の傷すらたちどころに治してしまう薬、人間にも同様の効能があるようだ。右肩の鋭い傷はあっさり塞がった。
シンの右手は鮮血でべったりと濡れていた。右掌から芳しい香りが立ち上る。鼻腔をくすぐり喉の奥まで流し込まれる、蠱惑の匂い。怪我人の手当は行ったのだ、少しくらいおこぼれに預かってもいいだろう。シンは右掌に思いきり吸い付いた。乾きかけていた血がシンの唾液で水分を取り戻し、赤く鮮烈な色に戻っていく。
「……!!」
舌に乗るミコトの血は、甘くとろけるまろやかな味だった。悪魔たちの血とは決定的に異なる、優美な味。喉奥に飲み込んだ瞬間からマガツヒが全身に巡り、体力が回復していく。止まらなかった。ミコトに凝視されてなお、シンは血塗れの右手に舌を這わせるのを止めなかった。この血がいけない。こんなに美味そうな匂いを振りまき、事実美味い血がいけない。
右手にこびりついた最後の一滴まで舐め啜り唾液とともに飲み下したシンは、恍惚の息を吐いた。そこでようやく、ミコトがそばにいることを思い出した。ふと見た彼女は、強張った顔でシンを凝視していた。
「あ、あの、間薙、くん」
「ああ、悪い……」
同行者が突然掌についた血を舐め取り始めたら、そんな反応にもなるだろうか。シンの脳、理性を司る部分は冷静に告げているが、本能に染まる部分は全く違うことを考えている。シンはふらりとミコトに一歩踏み出した。その歩みは水を求める放浪者に似ている。ミコトはびくりと体を強張らせた。シンはミコトと向かい合い、彼女の両肩に手を置いた。その肩は細く、右肩の傷は塞がっているが服にこびりついた血から強烈な匂いがする。
「間薙くん……?」
ミコトが上目遣いで恐る恐るシンと目を合わせた。怯えたその視線、シンの狩猟の本能が燃え上がった。今すぐ欲しい。
「きゃ!?」
イケブクロの冷たい床にミコトを押し倒した。細く白いミコトの首にシンは顔を近付けた。皮膚から漂うミコトの香りは甘く、シンを酔わせる。シンの脳は真っ赤な本能に塗りつぶされ、真っ当な理性はどこかに放棄されてしまった。シンは大きく口を開ける。白く光る歯のエナメル質は唾液を纏い、血を求めて濡れていた。
「間薙くん!?いたっ……!」
組み伏せたミコトの首筋に噛み付く。牙に思いきり力を込めそうになったが、ひとかけらの理性で何とか踏み留まった。ぷつ、と犬歯の先端が薄い皮膚を傷つけ血が滲む。血、血、血!血だ!甘い甘い魅惑の香りが充満し、シンの嗅覚は狂喜に震えた。
「まな、ぎ……くん……!」
ミコトの両手が弱々しくシンの腕を掴んだ。引き剥がそうとしているようだが、悪魔すら殴り倒すシンをたかだか人間の少女がどうこうできるはずもない。むしろ弱者の抵抗は強者の嗜虐心を強めるばかりだ。抵抗の末に得た血こそ、最高の美味だ。
シンの犬歯がやわやわと皮膚を破り、柔らかな少女の肉に食い込む。瑞々しい肉の向こうに血脈があるはずだ。探るように沈めた牙が、ミコトの水脈に辿り着く。ああ、ここだ。白い犬歯が赤い泉に少しずつ浸っていく。じゅうう、と強く吸い付くと口内にとろける血液が満ちた。
「いたい……!」
ミコトの訴えがシンの耳を震わせるが、シンには意味のある言葉に聞こえていなかった。何か心地いい音楽にしか聞こえなかった。それよりも血が欲しい。もっと飲みたい。口内を満たす芳醇な血の味、もっともっともっと、切実に求めて止まらない。マガツヒの摂取量は十分、むしろ過剰摂取になってしまうが、血を啜るのが止められない。
シンの腕を掴むミコトの指先が痙攣していた。吸血に夢中だったシンはふと我に返り、吸い付くのをやめた。白かった彼の歯列は鮮烈な赤色に染まり、口元には不穏な赤い染みが広がっている。シンが噛み付いた首筋は内出血でどす黒く変色し、赤い血痕を残していた。ミコトは顔色が真っ青で、文字どおり血の気が引いていた。
シンは震える彼女の傷痕を撫でた。犬歯が刺さった痕すらも愛おしい。ミコトは涙を流し、シンを無言で見つめていた。その眼差しを見るとシンの悪魔の心がわずかながら痛んだ。シンは傷薬を取り出し、彼女の首筋に塗り込んだ。先ほどよりも丁寧に、慈愛を込めて。物理的な傷はあっという間に塞がり、内出血すらも元通り、言われなければシンに血を吸われたなどとわからない外見に落ち着いた。
「間薙くん……最低……」
慄く彼女の唇は、シンを明瞭に非難した。そのとおりだ。前後不覚に陥り見境なく同行者の血を吸った。悪魔の血を吸い始めた頃から人間ではなくなったと思っていたが、最後に残された良心すらかなぐり捨ててしまった気がする。
「月森……悪かった。傷が治ったからいいとか、そういうことじゃないよな」
「……うん」
立ち上がり、彼女に手を差し出した。彼女は困惑と怯えが混ざった瞳でシンを見つめていた。ああ……そんな目で見るな。
――また、吸いたくなる。
東京が死に、人修羅が生まれた。半人半魔の彼が生き延びるには、マガツヒが必要だ。生きているだけで消耗していくそれを、何らかの手段で得続けなければならない。人修羅――間薙シンがマガツヒの理を理解するまでに、大した時間はかからなかった。
「はぁ、はあ……」
変わり果てた新宿衛生病院。悪魔の跋扈する巣窟を彷徨うシンは、猛烈な渇きに見舞われていた。シンは額から流れ落ちる汗を拭い、息をついた。
これまでシンは、何の変哲もない高校生だった。そんな彼が唐突に降ってわいた異常事態を生き残るには、自らの拳で敵を殴り飛ばすしかなかった。格闘の心得などない普通の少年だった彼は、悪魔と戦うたびにこれまでにない体力の消耗を感じていた。
シンの目の前に倒れ伏しているのは、異様に膨れた腹部を持つ悪魔、ガキ。何の見境もなく襲ってくる彼らを何とか退けたが、喉が乾いた。病院内の自販機はどれも動かないし、水分といえば……シンの頭に異常な考えが浮かびつつあった。人間に残された最後の尊厳を自ら捨てるような気がして避けていたが、さすがに限界だった。
シンは地面に這いつくばりガキの骸に噛み付いた。欲に突っ張った悪魔の皮に犬歯が食い込み、ぷつりと破った。皮が破れた先にある死肉、さらにその向こうに血脈を感じた。死んだばかりの肉は温かく、歯に纏わりつく血液も生温かい。夢中で牙を奥に突き刺すと、血脈に傷をつけ口の中に血が溢れた。血と悪魔の全身を巡っていたマガツヒを舐め取り啜った。
不味い。
血はどうしようもなく不味かったが、マガツヒを補給することで狂おしいほどの渇きが癒されていく。ぐじゅぐじゅと音を立てながら四つん這いで血を啜る姿は犬のようだ、なんて思ったがシンは止めなかった。気が済むまでマガツヒを啜り、全身を焦がす渇望を満たさなければ生きていけない。
ごくり。
ようやく腹と喉が満たされ、シンは口元を手で拭った。悪魔の血はどす黒く、拳が乾きかけた血液でべったりと汚れた。
当初は悪魔の血を啜ることに吐き気を催したものだが、だんだんとシンの感覚は麻痺していった。何しろ血を吸わなければシンの生命活動が停止してしまう、嫌々ながらでも生きるためにせねばならなかった。
最近は血の味の違いがわかるようになってきた。妖精の血はふわふわと甘め、幽鬼の血は黒く不味い、天使は味が薄い。できれば妖精を狩れたらいい、などと血の味で考え始めるほどになっていた。あくまでも相対的な話であり、決して悪魔の血は美味ではないのが悲しいところである。
今宵殴り殺したのは鬼女ダツエバ。細い針金のような体は見るからに血が少なそうで、あまり収穫はなさそうだと嘆きながらもシンは死体に噛み付いた。四つん這いで血を啜る姿は獣そのものだが、もはや取り繕うつもりは毛頭ない。吸血に特化した犬歯が悪魔の体に食い込み、滲んだ血を一滴残らず舐め取った。思っていたとおり不味いが、幽鬼の血よりはマシだった。黒ずんだ血が犬歯の先端から滴り落ち、不穏な血痕がシブヤの床に残った。
マガツヒ補給完了だ。舌の上に残る味の余韻は気持ち悪いが、体は新鮮なマガツヒを吸収し悦びに満ちていた。こんなことを続けていたら、いつか自分も魑魅魍魎どもと同じ身にやつしてしまうのだろう。もはや人間には戻れぬ身、それもありだろうか。シンは唇を舐めながら自嘲した。
「あれ、間薙くん?」
背後から声が聞こえ、シンは緊張感をもって振り向いた。振り向いた先には、少女が立っていた。悪魔が纏う不気味な気配を感じない、見るからにか弱い人間の少女。シンは彼女に見覚えがあった。クラスメイトの月森ミコトだ。彼女も受胎に巻き込まれ彷徨っているのだろうか。
「どうした?」
「それはこっちのセリフだよ!どうしたの、その格好」
「ああ……」
シンはすっかり疑問を抱かなくなっていたが、上半身裸で体の至るところに黒と緑の幾何学模様が走っている。普通の人間には見えない、異質な見た目だ。
「色々あって戦う力を得て、こうなった。月森はどうしてここに?」
「誰かいないかなって探してたの。やっと知り合いに会えてほっとしてるところ」
言いながら本当に胸を撫で下ろすミコトから、ふわりと甘い匂いが漂ってきた。少女特有の香りなのか、それとも彼女の全身を巡るマガツヒの匂いか。
「間薙くん、もしよければ私も一緒に行ってもいい?」
いい匂い。彼女が一歩踏み出すと、頭がくらくらするような魅惑の香りが強くなる。こんな匂いを纏った彼女の血は、どんな味がするのだろう。
「間薙くん、聞いてる?」
ずい、とミコトが身を乗り出し、ほんの少し目をつり上げていた。それでようやくシンは思考の沼に嵌っていたことに気が付き我に返ったが、
「え、あ、ああ」
心ここに在らずといった返事しかできなかった。こんな匂いのする少女、絶対に手放したくない。
「私も一緒に行っていいかな?」
シンは言葉を返す前に頷いていた。
月森ミコトと行動をともにするようになってからも、シンは吸血を続けていた。一応不審がられぬように必要性を説明したものの、いざ戦闘が終わるとミコトにどう思われるかを考えている余裕はなかった。戦闘で消耗したマガツヒを吸収しなければ、シンが死んでしまう。
妖鬼の血も不味い。人間として生きるなら全くもって不要な経験則がどんどん増えていく。隣に吸血をしないミコトがいるからこそ自身の異常性を強く認識してしまい、シンは舌打ちした。
「間薙くん、大丈夫?」
「何がだ」
吸血が終わった後、ミコトは心配そうに駆け寄ってきた。シンの不機嫌な声にも構わず、彼女は彼の顔を覗き込んでくる。
「いつも血を吸った後、間薙くん苦しそうにしてるから……」
「苦しいわけじゃない。血が不味いだけだ」
「そう、なんだ……」
自分がどのような表情なのか窺い知ることはできないが、毎回ミコトに心配されるのも申し訳ない。そう思っていると、近くにいるミコトからあの魅惑的な香りが漂ってきた。嗅覚を弄びシンの思考を麻痺させる、甘い香り。何も考えずにその香りに浸っていられたらどれだけ幸せなことか。そう考えていたシンは、
「間薙くん!!危ない!!」
ミコトの叫びが聞こえるまで呆けていた。彼女にぐいと引っ張られたと思った瞬間、彼女の体にオニの剣が直撃した。
血。赤い鮮血が飛び散る。顔を上げたシンが見たのは、彼岸花のように咲き誇る赤い噴水だった。鼻を覆い尽くし頭を揺らす、甘ったるい匂いが充満する。血飛沫の向こうにいるオニを見て何とか我に返り、シンは素早く駆けた。幾度となく悪魔を退けてきた拳をオニに叩きつける。土手っ腹に容赦ない拳を受けたオニは一目散に逃げていった。シンとの実力差を瞬時に悟った、賢明な判断だ。シンは拳を握りしめ、ミコトに駆け寄った。
「月森!!」
「間薙くん、無事……?」
肩を押さえたミコトが膝をついていた。右肩に赤く大きな染みができ、そこからたらりたらりと血液が垂れている。シンの鼻をくすぐるのは、芳醇な香り。
「オレは無事だ。止血しないと……」
――その血、今すぐ飲み干したい。
シンの脳裏を素早く駆けていったのは、野蛮な本能だった。剣が刺さっただろう華奢な右肩に早く傷薬を。重々承知だ。犬歯が疼く。悪魔の血を啜ることに特化した血塗れの牙が、噴き出したばかりの血を求めて疼いている。
「少し沁みる。我慢してくれ」
シンは震える手で傷薬を取り出し、冷たい塗り薬を掌に広げた。そして遠慮なく彼女の右肩に触れる。薬を塗り込み、満遍なく傷を覆っていく。
「う……」
ミコトは呻いたが、シンの手は止まらない。理性を溶かす甘い香りが充満する中、シンは何とか手当を終えた。悪魔の傷すらたちどころに治してしまう薬、人間にも同様の効能があるようだ。右肩の鋭い傷はあっさり塞がった。
シンの右手は鮮血でべったりと濡れていた。右掌から芳しい香りが立ち上る。鼻腔をくすぐり喉の奥まで流し込まれる、蠱惑の匂い。怪我人の手当は行ったのだ、少しくらいおこぼれに預かってもいいだろう。シンは右掌に思いきり吸い付いた。乾きかけていた血がシンの唾液で水分を取り戻し、赤く鮮烈な色に戻っていく。
「……!!」
舌に乗るミコトの血は、甘くとろけるまろやかな味だった。悪魔たちの血とは決定的に異なる、優美な味。喉奥に飲み込んだ瞬間からマガツヒが全身に巡り、体力が回復していく。止まらなかった。ミコトに凝視されてなお、シンは血塗れの右手に舌を這わせるのを止めなかった。この血がいけない。こんなに美味そうな匂いを振りまき、事実美味い血がいけない。
右手にこびりついた最後の一滴まで舐め啜り唾液とともに飲み下したシンは、恍惚の息を吐いた。そこでようやく、ミコトがそばにいることを思い出した。ふと見た彼女は、強張った顔でシンを凝視していた。
「あ、あの、間薙、くん」
「ああ、悪い……」
同行者が突然掌についた血を舐め取り始めたら、そんな反応にもなるだろうか。シンの脳、理性を司る部分は冷静に告げているが、本能に染まる部分は全く違うことを考えている。シンはふらりとミコトに一歩踏み出した。その歩みは水を求める放浪者に似ている。ミコトはびくりと体を強張らせた。シンはミコトと向かい合い、彼女の両肩に手を置いた。その肩は細く、右肩の傷は塞がっているが服にこびりついた血から強烈な匂いがする。
「間薙くん……?」
ミコトが上目遣いで恐る恐るシンと目を合わせた。怯えたその視線、シンの狩猟の本能が燃え上がった。今すぐ欲しい。
「きゃ!?」
イケブクロの冷たい床にミコトを押し倒した。細く白いミコトの首にシンは顔を近付けた。皮膚から漂うミコトの香りは甘く、シンを酔わせる。シンの脳は真っ赤な本能に塗りつぶされ、真っ当な理性はどこかに放棄されてしまった。シンは大きく口を開ける。白く光る歯のエナメル質は唾液を纏い、血を求めて濡れていた。
「間薙くん!?いたっ……!」
組み伏せたミコトの首筋に噛み付く。牙に思いきり力を込めそうになったが、ひとかけらの理性で何とか踏み留まった。ぷつ、と犬歯の先端が薄い皮膚を傷つけ血が滲む。血、血、血!血だ!甘い甘い魅惑の香りが充満し、シンの嗅覚は狂喜に震えた。
「まな、ぎ……くん……!」
ミコトの両手が弱々しくシンの腕を掴んだ。引き剥がそうとしているようだが、悪魔すら殴り倒すシンをたかだか人間の少女がどうこうできるはずもない。むしろ弱者の抵抗は強者の嗜虐心を強めるばかりだ。抵抗の末に得た血こそ、最高の美味だ。
シンの犬歯がやわやわと皮膚を破り、柔らかな少女の肉に食い込む。瑞々しい肉の向こうに血脈があるはずだ。探るように沈めた牙が、ミコトの水脈に辿り着く。ああ、ここだ。白い犬歯が赤い泉に少しずつ浸っていく。じゅうう、と強く吸い付くと口内にとろける血液が満ちた。
「いたい……!」
ミコトの訴えがシンの耳を震わせるが、シンには意味のある言葉に聞こえていなかった。何か心地いい音楽にしか聞こえなかった。それよりも血が欲しい。もっと飲みたい。口内を満たす芳醇な血の味、もっともっともっと、切実に求めて止まらない。マガツヒの摂取量は十分、むしろ過剰摂取になってしまうが、血を啜るのが止められない。
シンの腕を掴むミコトの指先が痙攣していた。吸血に夢中だったシンはふと我に返り、吸い付くのをやめた。白かった彼の歯列は鮮烈な赤色に染まり、口元には不穏な赤い染みが広がっている。シンが噛み付いた首筋は内出血でどす黒く変色し、赤い血痕を残していた。ミコトは顔色が真っ青で、文字どおり血の気が引いていた。
シンは震える彼女の傷痕を撫でた。犬歯が刺さった痕すらも愛おしい。ミコトは涙を流し、シンを無言で見つめていた。その眼差しを見るとシンの悪魔の心がわずかながら痛んだ。シンは傷薬を取り出し、彼女の首筋に塗り込んだ。先ほどよりも丁寧に、慈愛を込めて。物理的な傷はあっという間に塞がり、内出血すらも元通り、言われなければシンに血を吸われたなどとわからない外見に落ち着いた。
「間薙くん……最低……」
慄く彼女の唇は、シンを明瞭に非難した。そのとおりだ。前後不覚に陥り見境なく同行者の血を吸った。悪魔の血を吸い始めた頃から人間ではなくなったと思っていたが、最後に残された良心すらかなぐり捨ててしまった気がする。
「月森……悪かった。傷が治ったからいいとか、そういうことじゃないよな」
「……うん」
立ち上がり、彼女に手を差し出した。彼女は困惑と怯えが混ざった瞳でシンを見つめていた。ああ……そんな目で見るな。
――また、吸いたくなる。
