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七海さんと恋人という関係になって早一ヶ月。
その日の内に私の身柄は宣言通り七海さんに確保され、漸く夢にまで見た一緒に食事をするという願望が叶った。
ただ、予約してくれた雰囲気の良いお店、目の前には最愛の推し、おまけに個室という密閉空間。
そんな極限状態で食べた料理は美味しかったはずなのに全く味を感じられず、非常に惜しい思いをした事を密かに悔いて居る。
七海さんはお酒が好きだった筈なのにその日はアルコール類には一切手を出さなかった。
私が翌日休みだと言っても適当な時間になるとちゃんと高専まで送り届け、狼にもなる事なく私の頬に手を添えておやすみなさいとだけ告げて去って行く姿は絵に描いたような完璧な紳士と言える。
ただ、これは余談だけれど実際にされたら狼狽る所の話では無いと解るのに、全く手を出されなかった事が残念だと思わなくもない乙女心は誰でも良いから少しばかり理解してもらいたい。
それからと言うもの、連絡先を交換してからはその日の出来事や取り止めのないやり取りを交わす様になった。
携帯の通知が七海さんだと分かった瞬間、例え屋外だろうが車内だろうがその場で正座して固唾を飲みながら画面を開く姿を目撃した人は一人や二人ではない筈だ。
いつも私が任務で怪我をしなかったかと気遣い、出張になればお土産は何が良いかと尋ねてくれる。
それなのに、その度に無事に帰ってきてくれる事がお土産だと我儘一つ言えない自分は少し可愛げが無いかもしれないと不安が過る。
繁忙期はやっと終わりの兆しが見え始めてきたものの、七海さんは一級術師。
私とは抱えている案件の大きさも数も段違いで、休みの日は勿論互いに把握して居るのだけれど此処一ヶ月、全く休みが合わないと言うのが悲しい現実だった。
しかし、私としてみれば会えないという事に肩を落としながらも、そのおかげで命が永らえているような気もする。
端的に言ってしまえばそれ程に推しと恋人になるという事はある意味、己の生命の存続すら危ぶまれる行為なのだ。
「なぁ、真那。最近七海サンとどうなんだよ」
「よくぞ聞いてくれた琢真!!毎日が尊い。想像でも妊娠できる。寧ろ今すぐ産める。情緒は秒刻みで乱れまくり」
「いや、待て。早まるな。ちゃんと段階を踏んでくれ」
久しぶりに顔を合わせた嘗てのクラスメイト兼、親友と共に食堂の片隅で談笑を交わせるくらいのゆとりが出来たのはほんの最近の話だ。
やっと私達二級術師には束の間の平穏が訪れたけれど、今日も今日とて七海さんは朝から任務に忙殺されて不在らしい。
その予定の一部は恋人と言う関係になってからは七海さんの口添えのおかげで伊地知さんから聞く事ができるのだけれど、やはり七海さんのスケジュールは常にパンパンと言っても良いもので。
これこそが労働はクソだと声高に宣言する所以なのだろう。
琢真にお付き合いの進捗を尋ねられ、私は此処一ヶ月の記憶を辿りながら溜息を漏らす。
はっきり言って仕舞えば初っ端に食事に行ったきり、恋人らしい事をしたかと尋ねられたら答えは否でしか無いからだ。
勿論、高専内で顔を合わせる機会ならば少なからずあるし、その度に七海さんは私の様子を尋ね、優しく目を細めてくれるけれど。
私の考える恋人同士のそれと現状は少し離れている様に思う。
憧れて憧れて。
少しでもお近づきになりたい、あわよくば結婚したい、認知されなくても良いから子供を産みたいと暇さえあれば口走って居た日々が遠い昔の出来事の様に思えるのは、例え甘い時間を過ごすことが無くとも直近の私の日常がドキドキハラハラジェットコースターと言っても過言ではないだろう。
しかし、推しが恋人になると言うのは一見夢の様に思えるものの、何かと気苦労が多い事を最近は痛感している。
先ずは自分自身に幻滅されないかと常に不安が付き纏うし一挙一動に気が抜けない。
これまで遠目に眺めてほくそ笑んでいるだけで幸せだったのに、目の前に推しがいると思うだけで血圧が上がるし挙動不審となる。
自分に向けて笑みを浮かべられたら私の心臓はいつ爆発してもおかしくないと思える程には心拍が上がりっぱなしとなり、甘い言葉を囁かれたらアドレナリンすら出っ放しとなって呪霊の群れにすら突撃しそうな衝動を抱えてしまう。
因みにそれら一連の私の暴走を止めるのは勿論琢真となる訳で。
その度に私達の馬鹿な言動は七海さんの絶対零度の視線を浴びる羽目になるのだが、縮み上がる琢真とは対照的にその視線すらもかっこいいので私には眼福でしかない。
もし仮に直近で私が突然死したのなら死因は心不全だと言い切れる。
更に言えば次の健康診断では不整脈で引っかかるであろう確固たる自信がある。
それほどに私の推し兼恋人は尊く、安定のイケメンで紳士だ。
すれ違えば仄かに香る香水の匂いに引き寄せられてしまうし、声を聞けば耳が孕むと思えるほどに低音の良い声が自分の名前を呼ぶだなんて最早天国でしか無くて。
いつ死んでもこの人生に悔いはないと嘯く度に困った様に眉根を寄せながら抱き竦められる私は、常々推しを持つ女の中で叫ばれている尊死というものに一番近い人間と言えるのかもしれない。
けれど全く手を出されないと言う事実が私の中で時折鉛の様に重くのし掛かり、実際そんな状況になったとしたのなら恐れ慄き悲鳴をあげると分かりきっているのに、ちょっとばかり迫られてみたいなんて欲望が最近になって垣間見えるようになってしまった。
「ねぇ、琢真。キスした事ってある?」
「は?まぁ、一応あるっちゃあるけど。……え、待てよ。真那、まだ七海サンとしてないのか?」
「してたら私は多分生きてないよ」
「まぁ、そりゃそうだな。つか、意外と奥手……いや、七海サン大人だもんな。そんながっついたりしないか」
テーブルに置かれた缶コーヒーを飲み干しながら、私は空になった皮の縁を指でなぞる。
何の気なしに聞いてみた質問だったけれど、私の期待とは裏腹に琢真でも一応男の子をしているらしい事に若干裏切られた様な気分にもなった。
七海さんや周囲が勘違いする程には常に一緒にいた私達ではあるものの、こう言った恋愛相談的なものはこれまでした事は無い。
それは一重に私が推しである七海さんに夢中で妄言しか吐かなかったのと、これまでの人生の中でそう言った経験とは縁が無かったからなのだろう。
故に恋愛に関してどうしても憧れと幻想を抱きがちになっている節は否めないし自覚もある。
少女漫画は好んで読む方ではなかったけれど今になってそんなシュチュエーションに憧れさえ抱く辺り、私の頭の中は至極単純なお花畑だ。
机に突っ伏しながら先程交わした七海さんとの会話を眺めてまた一つ溜息が溢れる。
相手が同年代だったのならこんなにも頭を悩ませることもなかったのかも知れないけれど、七海さんは絵に描いたような大人であり、紳士であり、私の理想で憧れだ。
幻滅されたくは無いし、我儘なんてもっての外。
そもそも私に好意を抱いてくれている事自体が奇跡の様な出来事であり、釣り合いなんてどう見たって取れているはずが無いのだからこれは贅沢なな悩みと言ってもいいだろう。
「そもそも会えて無いんだよね。連絡はマメにくれるし、電話もするけどさぁ。たまに付き合ってるのが幻覚だったのかと思う時がある!寧ろその方が納得がいく。
因みに、私は七海さんが奥手だろうが狼だろうがドMだろうがドSだろうが両手広げて大歓迎だ」
「聞いてねぇよ。まぁ、それはなぁ。俺達と七海サンじゃ忙しさの度合いが違うって言うかな」
「本当それ。お互いの予定は教え合ってるけど休みが全く被らないんだよね。折角食事に誘ってくれても疲れてるよなって遠慮しちゃうし。と言うか電話の時点で耳が破裂しそうになってるから御尊顔を目にしたら私、灰になる」
「安心しろ、ちゃんと掃いてまとめてやる」
通話も連絡も、時間を見つけては寄越してくれるのはいつも七海さんからで私はこれまで自分から発信する事が出来て居ない。
二級の私でさえ繁忙期には忙殺されて帰宅すれば泥の様に眠ってしまうと言うのに、七海さんの任務の数を見ればきっと殆どの呪術師が悲鳴をあげて青褪めるに違いないからだ。
幾ら恋人と言っても節度は弁えなければならない。
行き過ぎた行為は相手にとって負担にしかならないし、だからこそ遠目に見て欲望を膨らませるだけの生活をこれまで全力で楽しんできたと言うのに、思わぬ形で急に距離も関係も変わってしまって。
今の私は己の立ち位置を見失いそうにすらなって居た。
連絡を取り合える様になっただけで飛び上がる程に歓喜している。
けれど少しずつじわじわと言いようのない感覚に浸食され始めている様な気もして。
恋愛における適切な距離感と言うものがあやふやなまま、ここ最近は私の心を蝕んでいる。
「相変わらず重症だよな。少しっ位甘えてみても良いんじゃねぇの?女はそれくらいの方が可愛いって聞くけどな」
「……言えないよぉ。七海さんの貴重な休みを私で潰してしまうなんて申し訳なさすぎて全七海さんファンの前でスライディング土下座しても足りない」
「で、本音は?」
その言葉を聞いた瞬間に強火同担拒否女としての本能が爆発したと言っても良い。
だらしなくテーブルに寝そべって居た身体は起き上がり両肘をテーブルに突くと手を口元で組み合わせた。
こんな事、七海さんに知られたらドン引きされるに違いない。
だからこそ直接言えないし七海さん好みになろうと日々努力を続けて居るのだけれど、琢真の前でなら何ら遠慮することは無いのだから私が溢れんばかりの煩悩を口走ってしまうのも致し方ないと言うものだ。
「……願わくばお家デートしたい。七海さんのプライベート空間に埋もれたい。寧ろ七海さんを全力で吸いたい。お触りしたいなんて贅沢言わない。しかし、出来ることなら二十四時間体制で七海さんを見守る壁になりたい!!!」
「欲望ダダ漏れじゃねぇか」
「欲望なだけで実行はしないから。会いたいよ?会いたいけどさ。私、こんなんだし絶対挙動不審になるじゃん。七海さんはプライベート大事にする人だし、忙しいのは分かりきってるんだから休める時は休んで貰いたいって言うか。
……彼女ヅラするのもなんかなぁって」
「いや、彼女だろ。しかも割と大事にされてる」
「その響きだけでご飯いけるからもっと言って」
至極真面目な顔でおかわりを要求すると、琢真すらも呆れた様に溜息を溢してコーヒーに手を伸ばした。
未だ半信半疑な七海さんの彼女と言う己の現実は改めて人に言われる事で漸く自覚出来る程のもので。
要は私自身、全く自分に自信がないのだ。
大人の中の大人と評される七海さんがどんな恋愛をこれまでしてきたのかと気になって仕方ないと言うのに、そんな事を聞く勇気もないし話してくれたとしてもあまり聞きたくない。
拗らせ過ぎた憧れの感情は七海さんの言動一つで晴天にも曇天にも変わり、私に関しては大概発狂しそうなほどに歓喜するのが毎度の事となるのだけれど。
そもそも七海さんが私の何処にそんな魅力を見出してくれたのかすら知りもしないのだから、現状に後ろ向きになってしまうのも当然と言える。
再びテーブルに突っ伏した私を眺めながら琢真が携帯を弄っていた。
会いたい、しかし負担にはなりたくないと葛藤を繰り返す私はテーブルの下でさして長くもない脚をばたつかせ、時折つま先が琢真の脚にコツンとぶつかる。
それを気に留める訳でもなく、真剣に携帯画面を眺める琢真は余程重要な案件でも抱えているのだろうか。
悩ましげな表情を浮かべ、トレードマークのニット帽に手を押し当てる様に私も自分の携帯を一瞥する。
しかし、昼過ぎに来た連絡を最後に私の元には何の連絡も届いては居らず、此処に来て何度目かも分からない溜息が溢れた。
確か、明日は七海さんは休みの筈だ。
けれど私の休みは明後日で、明日は簡単ではあるものの何件か単独の任務が入って居る。
いっそ伊地知さんに相談してみれば一日くらいは調整してもらえるのでは無いかと考えた事は何回もある。
けれど仕事は仕事で、私情を持ち込むなんて七海さんが最も嫌う事だ。
ただでさえ少ない休みを私に使わせてしまうのも申し訳ないと思うのに、やはり一緒に過ごしてみたいと言う欲が払拭し切れず、私の今の中は煩悩と理性が絶えずおしくらまんじゅうをして居り、一向に決着がつかない。
「なぁ、真那。今日はもう任務無いよな?明日も午後から単独が二件だっけ?」
「うん。繁忙期終わったし今は軽めの単独任務が少し入るくらいだよ。今年は忙しかったから」
「だよなぁ。俺より働いてただろ。あ、お疲れ様です、七海さん」
不意に琢真が携帯を耳に押し当て通話を始めるとその後に出てきた名前に咄嗟に私は身体を起こし姿勢を正した。
実際目の前にいるわけでは無いのにその気配を感じるだけで引き締まるのは最早習性と言えるだろう。
特段聞かれて困る様な内容では無いのか琢真は席を外す様子もなく、盗み聞きするわけでは無いけれどその会話に自然と耳が傾いてしまう。
耳を済ませれば会話の琢真が此方に視線を向けて、静かさの中に七海さんの声が僅かに聞こえた気がした。
それだけでバクバクと心臓は鳴り響くし、今何をして居るのか知りたくて堪らなくなる。
けれど幾ら相手が琢真といえどそんな不躾な事を聞いてくれと頼むわけにもいかないし、聞かれてまずい話では無いのだろうけれど男同士で話す事だってある筈だ。
仮に今が出先からだとすれば高専に戻ってきた時には少しくらい話が出来るかと期待して居る自分は咄嗟に鏡で今の姿を確認するくらいには浮かれ切って居て、そよ風にさえかき消されてしまいそうな程の七海さんの声に全神経が集中している。
チラチラと琢真の視線が己に向く度、少しでも長く会話が続くことを願って止まなかった。
それと同時に同じ推しと話している状況だと言うのに何故琢真は平静を保って居られるのかと不思議でならない。
しかし、私の願いも虚しく要件と僅かな雑談のみで終わってしまった会話に肩を落とすと、ポンと琢真が私の叩く。
「七海サン、今からこっち来るってさ」
「え!?は!?ちょ、待って。待って!!!
メイク崩れてない!?髪型大丈夫!?てか、今からシャワー浴びて化粧し直して一張羅に着替え直す時間ある!?」
「ねぇよ。そのままで大丈夫だって。ここで待機してろだってさ」
「……無理ぃぃぃ!!!」
七海さんとお付き合いしだしてからと言うもの、いつ遭遇しても良い様にとより一層身なりには気を使う様になったし、今日は帰り際になら会えるかと期待はしていたけれど、こんな突然となると些か心の準場が出来ていない。
そもそも今から来ると言う七海さんの現在地が定かでは無いし、明日は休み。
今日はこれで上がりとなればもしかしたら食事のお誘いがやってくるのでは無いかと半分期待しつつも内心は冷や汗ものだった。
これまではトークアプリや電話でお誘いされて居たから気遣う余裕があったのだ。
あの低音美ボイスと御尊顔を目の前にしてそんな事を言われたら私はきっとそんな余裕すら無くし二つ返事で犬の様に尻尾を振ってしまうに違いない。
おろおろと分かりやすい程に狼狽始めた私を琢真が宥めてくれるものの、気休めにもなりはしなかった。
不安気に何度も食堂の扉を見る私は側から見ても緊張し切っていて、その心境は今にも死刑宣告される囚人にも近い。
「あ、お疲れ様です。七海サン」
「ひいぃぃっ!!」
「おや、どうかしましたか?」
「あ、大丈夫っす。いつものやつなんで」
私の願いも虚しく一向に決まらない覚悟を決める前に現れた七海さんに琢真が眩しい程の笑顔を向け、私は悲鳴をあげた。
ゆったりとした動きでありながらもどんどん近づいてくるその姿はただ一言、相変わらず顔がいいとしか言いようがなく、肉声を聞くだけだその場に崩れ落ちそうな程の破壊力を伴う。
テーブルに倒れ込んだ私に向けて琢真がフォローを入れるとそれで納得してしまう辺り確実に七海さんは私の扱い方を心得始めている様に感じ、その適応能力の高さもまた恐ろしい。
ぽんと頭に手を置かれ、一瞬それがどちらの手なのか迷った。
しかし、琢真は最近七海さんの前では私に触れる事をしなくなったし、何より仄かに感じる香水の香りがその相手を明らかにしていく。
顔を見たいと思うのに、嬉しい思いと恥ずかしい気持ちがないまぜになってそれすらも儘ならなかった。
「如月さん、顔を見せてはくれませんか?」
「……おかえり、なさい」
「ええ。ただいま戻りました」
テーブルに広げた腕の隙間から少しだけ顔を覗かせると、思いの外至近距離だった七海さんの御尊顔を前にして私は一瞬硬直していた。
一気に顔に血液が集まったかの様な錯覚を抱く。
発火した様に熱を孕み、自分を見据えた視線から目が離せなくなるのと同時にすぐ目の前にある唇に意識が向く。
触れてみたいと思うのは、私だけなのだろうか。
今日の任務の事とか、明日の予定とか、疲れてないかとか、言いたいも聞きたい事もたくさんあった。
それなのに何一つ言葉が出てこなくて、金魚の様にはくはくと口を開けては開く私はを見て、七海さんが顔を綻ばせる。
滅多に見ることのない笑顔に心臓を鷲掴みにされた様な感覚に陥った。
ほんの少し感情が表に出ているだけなのに、その機微は己に向けられたものだと思うだけで今からフルマラソンしてきても笑顔で居られる気がする。
「私は今日はこのまま上がりますが如月さん、今夜は空いていますか?」
「……あ、えっと。それは……」
しかしキュンと胸がときめく様な雰囲気も束の間、七海さんが私の予定を尋ねると頭の中がパニックを起こす。
一緒に過せる時間を設けてもらって嬉しくない筈はない。
しかし、七海さんは穏やかな声とは裏腹に少し疲弊している様にも思えて、休んで欲しい気持ちと一緒に居たい気持ちがせめぎ合っている。
断って落胆させてしまうのは申し訳ない。
けれど休みたいであろう時間を割かせてしまうのはもっと申し訳ない。
上手い返し方が見つからず言葉に詰まった。
頭はずっとフル回転なのに思い浮かぶのは顔がいい、声がいい、少し疲れていてもかっこいい。
結論として今日も私の推し兼、恋人は美しく尊いと言う求める回答とはかけ離れたものばかりだった。
「真那、今日はもう上がりですよ。で、さっき送ったものが今日の会話です」
「……は?」
「了解です。助かりました。では、如月さん。今日は私の家で映画でも。料理は簡単なものですが用意しますので、このまま行きましょうか」
「……はい?」
私の予想の斜め上を行く琢真の回答にとてつもない殺意と困惑を覚えたのは言うまでも無いだろう。
仮に琢真の言葉が事実だとすれば、先程琢真が悩んで居たのは私の会話をどう伝えようかと考えあぐねていたと言うことになり、私の欲望は結果的に七海さんにダダ漏れとなっていたと言うことになる。
穴があったら入りたい所の騒ぎではなかった。
今すぐ素手で穴を掘って自らを生き埋めにしなければ耐えられない程の羞恥に唇は戦慄き、その場で琢真を睨みつける様にして立ち上がると片手で謝罪のポーズをしながらも七海さんを一瞥する様子からきっとこうなる事を仕向けられていたのだろう。
その謝罪が何に対してなのかは全く判然とせず、ただ今の私に逃げ場はないと言う事だけは唯一絶対、変わる事のないものらしい。
七海さんが安堵にも似た溜息を吐きながら私の手を取り、顔を覗き込む。
確認を取る様なその仕草が観念しろと言っている様に思えてならなかった。
「琢真……」
「悪い、真那。でもさ、七海さんとお家デートしたいって言ってただろ?ほら、この勢いで念願の朝チュンだって夢じゃ……」
「私の黒歴史を呼び起こすな!!!」
「良いじゃねぇか。推しのプライベート空間に埋もれたいって言ってただろ。七海サン、埒があかないんで、さっさと連れてってください」
七海さんに手を繋がれながらも私は全力で琢真に向けて威嚇を繰り返し、その姿はリードを限界まで引っ張りながら今にも噛み付かんばかりに歯を剥き出す犬にも似ている。
テーブルに広げた鏡やメイク直しの道具は手持ちのバッグに素早く押し込まれていく。
それが琢真によって七海さんの手に渡ると私には必要なものを揃えると言う猶予すら奪われ、手を振って私達を見送る琢真が今は悪魔にも見えた。
「ブルータス、お前もかぁ!!!」
「いや、誰だよ」
「おや、博識ですね。猪野君、この言葉はラテン語の詩的な格言ですよ。この状況を踏まえればなかなか的を得ていると思います。では如月さん、行きますよ」
「無理いぃぃぃ!!!」
人攫いよろしく、軽々と私を肩に担ぎ上げた七海さんに反抗出来る勇気は私には無かった。
広い背中、太い腕、ほんのり赤に染まった首筋は色香を纏い、七海さんの愛用の香水が鼻を擽ると目眩さえ起こしそうな錯覚を齎す。
今日の装いがスカートで無くてよかったと心底思った。
しかし、咄嗟に今日の下着の色を思い返そうとしている辺り、どうかその確認をするくらいの猶予が欲しいと言いかけたがそれでは期待してますと言っている様なもので、口を一文字に結ぶしかない。
車までの道すがらは地獄だった。
すれ違う補助監督は何事かと私達に視線を向けるものの相手が七海さんだからと誰も助けてはくれず、寧ろ見てはいけない物を見たかの如く一礼と共に視線を逸らす。
普段の行いに対する絶対的信頼はこの時の私にとっては弊害でしか無く、結局せめて顔だけでも隠しておこうと途中からは逆さまになった七海さんの広い背中をただ眺めるだけとなる。
高専所属の呪術師にしては珍しく、外に住居を構える七海さんは普段は自家用車での出勤となり、左ハンドルの車の中に押し込まれると直様走り出した車は真っ直ぐに七海さんの自宅へと向かっていく。
生きた心地がまるでしなかった。
けれど時折信号で車が停車する時、私の手に重ねられた七海さんの手が想像以上に熱くて。
視線だけは前を見据える七海さんの肌が赤い様に感じたのは、空が茜色に染まっているせいだけでは無いのだろう。
七海さんの御自宅は高専から車で数十分、立地の良いマンションの一室だった。
その見た目とイメージに違う事なくモデルルームかと思うほどの室内は兎に角おしゃれで、自炊が趣味だと言うだけあってキッチン周りの小物は整頓されながらも充実して居る。
まだ食事には早いだろうからとソファに促され、飲み物を用意してくれる七海さんの姿を眺めながらも私は借りてきた猫状態と言っても過言ではなくて。
夢にまで見た推しのプライベート空間だと言うのに喜びより困惑の方が遥かに上回っていた。
テーブルにコーヒーを置きながら七海さんが隣に腰掛ける。
近い様で遠い様な、触れられるのに敢えてそれを躊躇う様は今の私達の心境にも近い。
それなのに、私が少し遠ざかると同じだけ距離を詰めてくる七海さんは己の伸ばした腕が届く範囲にどうしても私を置いて居たいらしく、頑なにその距離が縮む事も開く事もなかった。
「こんな風に誘うのは、迷惑でしたか?」
「いえ!そんな事ないです。でも、七海さんは忙しいのに気を使わせて申し訳ないなぁ、と」
あはは、と軽く笑って誤魔化してみたけれどその表情が一層曇ったものに変わったのを認めると、この回答が間違いだったのだと数秒前の自分に向けて怒りが込み上げた。
誰よりも七海さんが大好きだと胸を張って言える。
それなのにいざ御本人を目の前にしてしまうと私の想いはいつも空回りを繰り返した挙句脱輪し、暴走機関車もいい所だ。
自分がもっと大人だったのなら、淑やかな女だったのなら。
こんなに悩むことも足掻くこともなく、順調なお付き合いと言うものを現実に出来ていたのではないかと思うと、やはり自分はこの人に相応しくないと思考がどんどんマイナスになっていく。
七海さんがテーブルのリモコンに手を伸ばしサブスクから最近流行りの恋愛映画を引っ張り出した。
これもきっと私の好みそうなものをリサーチして選んでくれたもので、その優しさが嬉しいのと同時に、ただただ申し訳なさが勝ってしまう。
流行りのありきたりな恋愛映画は己の現状とは程遠い。
どうしたら画面の向こうの様な恋愛模様が描ける様になるのだろうと、常に思考はそんなことばかりを考え、ガチガチに固まった状況では折角手ずから淹れてくれたコーヒーにすら手を出せず、沈黙を破ったのは七海さんの静かな声だった。
「強引だった事は反省しています。しかし、普段の連絡もアナタから来る事は無い。食事に誘っても余り乗り気では無い様ですし、この際ならばはっきり教えて欲しい。
アナタはどんな付き合いを望んでいますか?全てを叶えられるとは限りません。ですが、極力希望に添える様尽力はしたい」
ソファに置いた手が触れそうで触れない絶妙な距離を保っていた。
ほんの少し指先が触れただけでも今の私はきっと心臓が口から飛び出そうな程に狼狽え、恐らく玄関まで猛ダッシュするに違いない。
こんな自分に真摯に向き合ってくれようとして、私の望む形で交際を続けたいと言ってくれる七海さんはやはり大人で紳士だ。
それなのに困らせる様な真似ばかりしてしまう私はどんどん自分の不甲斐なさが情けなくて堪らなくなっていく。
「私は……。逆に七海さんがどんな恋愛をしてきたのか気になってます。知ったらきっと嫉妬してモヤモヤするのは分かり切ってますけど、七海さんなら大人の女の人と素敵な恋愛してきたんだろうなって思うし、そう言う人がお似合いだと思ってました。
それに、自分のいい所が全く分からないし……正直、自信がないんです。
色々と気を遣ってくれるのは嬉しいです。でも、無理をして欲しいわけじゃ無い。呪術師はキツい仕事だし、七海さんは私より遥かにその量も多くて、危険度も高い。私は馬鹿だし、子供だけど……それを聞き分けるくらいの頭はあるので、無理はしないで欲しいです」
「アナタは少し聞き分けが良すぎますね。私は、ほんの些細な事でもアナタに連絡する口実が欲しい。勿論、アナタから発信の連絡も欲しいと思います。仕事が早く終わったなら共に食事をしたいし、多少疲れていたとしても翌日どちらかが休みならば少しでも長く一緒にいたいと思います。子供じみていると思いますが、要はアナタを独り占めしたい」
互いに視線は内容の入って来ないテレビに向かい、互いの視線が絡み合う事は無かった。
その代わり、七海さんの指先が躊躇いがちに私の手に乗せられて、それは緊張からか車内で感じたものより余程熱く、汗ばんで居た様に思う。
ずっと無理をさせて居ると思っていた一連の行動は、どうやら七海さんが率先してやりたい事だったらしく、それには安堵したものの。
今度は七海さんの気持ちを無碍にしてしまった私はやはりスライディングで土下座しながら饂飩で首を吊っても足りない気がした。
しかし、こっそり盗み見た七海さんの顔は快適な室内にも関わらず少しばかり赤らんでいる様にも思えて、その胸中はもしかしたら私とあまり差異はないのかも知れない。
「七海さんでも、そんな事思うんですね」
「私を聖人君子と勘違いしないで下さい。特にアナタの前となれば滑稽な迄にただの男です。それと、出張の度に土産の話をするのは買ってきたからと、会いに行く口実が欲しいだけです。
アナタが私をどんな風に思い描いてくれているのか定かではありませんが、私はアナタが思う以上に不器用なんですよ」
「え、無理……可愛い。……尊い!!!」
溜息を溢しながら己の目元に手を押し当てた姿を見て、私の心の声がダダ漏れとなった。
完璧でストイックで、これまで素敵な恋愛を謳歌してきたと思われたキング・オブ・大人の七海さんが小娘との恋愛に悩み、顔を赤らめながら自分はそこまで器用ではないと弱さを吐露する姿はあるかどうかも定かではない私の母性を急速に育んだ気がする。
しかし、繋いだ手こそ離さないもののこんな状況なのだから抱きつけば良いと言うのに、七海さんとは反対方向のソファの肘掛けに突っ伏してしまうあたり、私の拗らせ具合も筋金入りと言えるだろう。
言葉にはせずとも少し不服そうな顔が一層私の胸を高鳴らせた。
けれど流石にまだ自らこの腕に飛び込む勇気は持てず、七海さんを存分に吸うチャンスだと言うのに私の腹の虫がくるくると空腹を訴え始めるとその間抜けた様に腹に呪具を突き立ててやりたい衝動にさえ駆られた。
「そろそろ食事にしましょう。少し待っていて下さい」
「……はい。お願いします」
忌々しいと己な腹を睨みつけた姿に肩を揺らしながら立ち上がった七海さんは私の頭を撫でるとキッチンへ向かっていった。
離れてしまった手元が突然無くした温もりに寂しさを訴える。
隅に置かれたクッションを抱き抱え、こっそり七海さんの居た位置を陣取った私は勿論その残り香を堪能したのだけれど、車に乗せられるまで抱き抱えられあまりにも強くその香りを感じてしまったからか何処か物足りなさを感じてしまう。
中途半端にしか見ていなかった映画はそこそこに。
どうしても七海さんの姿が気になってキッチンに視線を向けると、ジャケットを脱ぎネクタイを外し、腕枕をした推しがキッチンで手際よく料理を準備する様が実に眼福で尊く、危うく血圧が限界突破しかけたと言うのは内緒の話だ。
けれど私の視線に気がついたのか。
愛用のサングラスを外した状態で微笑まれると心臓に無数の矢を射られたような衝撃を受けて慌てふためきながら私はテレビに視線を戻す。
佳境に入り始めた映画はもうすぐ主人公達がくっつくかどうかの場面に差し掛かり、ほんの少し一ヶ月前の己と重なる様な気がした。
あの時、七海さんが私を追いかけて来てくれなかったら今日という日は無かっただろうし、そもそも琢真が口を滑らせていなければ私達はきっとお互いの気持ちすら知らずに焦がれるだけの関係だったに違いない。
そうなれば本気で目潰しをしてやろうと画策していた先日と今日の怒りも鳴りを潜め、今度何か奢ってやろうと寛大な心を持てる気もする。
導入なんてまるで見ていなかったのに、陳腐な恋愛映画でもクライマックスとなると目が離せなくなるから不思議なものだ。
涙ながらに想いを伝え合って抱き合う男女。
少しずつ近づいて重なる唇と影に、これがフィクションで演技だと分かっていても引き込まれてしまうのは、己にもそう言った願望があるからなのだろう。
無意識のうちに私は唇を重ねた男女の姿を眺めながらクッションを抱えていた片手を唇に押し当てる。
ファーストキスの味は様々だと言うけれど、先程意識してしまった七海さんの唇はどんな味がするのかとそんな不埒な事に意識を持って行かれて、準備が出来たと呼びに来てくれた七海さんの姿に更に気づいていなかった。
「……如月さん」
「うへっ!?は、はいっ!?」
もうすぐエンドロールに差し掛かるであろう映画は結果として大団円で終わりを迎えそうだった。
突然名前を呼ばれた事に肩を跳ねさせ、間抜けな返事と共に声の方を振り向くと、ソファの背凭れに手を置き、すぐ背後に七海さんの姿が見える。
驚きのあまり咄嗟に姿勢を正すのは最早習性としか言いようがない。
直様テーブルに誘われるかと思いきや、七海さんはテレビの画面を無言で眺め、何度目かになるかすら定かではないキスシーンが流れていた。
その刹那、私の眼前に影が落ちる。
瞬きする間にほんの僅か、唇に何かが触れた気がした。
あまりにも近すぎてピントがぼやけた視界でも美しい稲穂の様な金色がはっきりと見て取れて、押し当てられた柔らかい感触と共に私の思考が完全に停止していく。
直近で見た色素の薄い瞳は常々特別であり美しいと評される五条さんのそれとは違うけれど、ゆらゆらと静かに燃える焔を連想させるものだった。
「すみません、我慢が出来ませんでした」
「な、なな……七海、さん?今何を……?」
「あまりにも可愛らしかったので、アナタに口付けを」
熱の籠った視線と共に、形の良い唇から恐ろしく良い声ではっきりとそう言葉にされた瞬間。
発火したかの様に全身が熱くなったのを感じた。
パチパチと瞬きを繰り返しながら今し方唇に感じた柔らかい感触を反芻すると、あまりにも唐突な出来事に味まで理解できなかったことが悔やまれる。
今にも再び唇が重なりそうな距離に七海さんの御尊顔がある事が信じ難く、けれどこれは紛う事なき現実なのだろう。
己の頬を思い切りつねってみても痛みは確かに感じ、その後私が取った行動はクッションで己の顔を隠すと言う何とも馬鹿げたものだった。
「嫌、でしたか?すみません、先走り過ぎましたね。どうやら私はアナタが自宅にいると言う事に、これ以上ない程に浮かれて居るらしい。顔を見せてはくれませんか?」
七海さんが動く気配がして、恐る恐る少しだけクッションから顔を覗かせる。
私の正面に来る形で片膝を突きながら様子を窺う姿を一瞥すると、再度素早くクッションに埋もれた。
ふるふると首を振ったのは決して嫌では無かった事と、顔を見せたくはないと言う両方の思いから来たもので。
してみたいと願望は抱いていたけれど、こんなに早くやってくるとは思ってもいなかったからだ。
どんな顔をすれば良いのかも分からない。
なんでさっき映画で見ていた二人は恥ずかしげな顔をしながらも微笑み合うことが出来たのかと、演技でありながらもそのメンタルの強さに敬意の拍手を送りたいとさえ思う。
林檎の如く染まった耳元に七海さんの指先が触れた。
たったそれだけの事なのに、電流が走ったかの様な刺激に襲われて身体が大きく跳ね上がる。
呼吸の仕方さえ忘れてしまった様にも思えた。
膝を立て、無言を貫き丸くなる私に七海さんは何を言う訳でもなく。
ただクッションの隙間から覗く肌を愛でる様に撫でる指先に意識が向いて仕方がない。
突然当たりが暗くなったのは、縮こまる私を七海さんが抱きしめて居るからなのだろう。
どくどくと脈を打つ鼓動はどちらのものなのか判然としないのに、ただ唯一理解できるのはどちらの鼓動も早鐘の様に大きく鳴り響いて居ると言うことだけだった。
「……いや、じゃ……なかった、です」
やっとの思いで紡いだ言葉は、自分でも情けなくなる程に小さく弱々しいものだった。
腕の中でもぞもぞと身動ぎすると少し腕の力が緩み、顔半分を露わにした私に向けられる愛おしそうな視線に、この場で鼻血を出して失血死したら死因は間違いなく尊死だと確信を持てる。
右から左へ、定まらない視線が泳ぎ続けまるで回遊魚の様にも思えた。
恥ずかしさのあまり目には涙さえ浮かび始め、しゃくりあげた私を宥める様に大きな手のひらが背中を優しく撫でていく。
「……ごめん、なさい。びっくりして……」
「いえ、私が性急でした。まさか朝チュンを望むアナタがここまで初だとは思っていなかった」
「それ、忘れてくださいぃぃ……」
やっと少し顔の熱が引いたかと思えば本日二度目の黒歴史を引っ張り出され、私は半泣きになりながら再び亀の様に顔を隠すしか無かった。
この様子ではきっと七海さんはその意味までもちゃんと調べた上で言って居るに違いなく、盗み見た口角が僅かに上がって居る気もする。
自分から言い出した事とは言え、キスだけでこの様なのだからそこまで至るには途方もない時間がかかる事は目に見えて居る。
けれど七海さんはそれを咎める訳でもなく、わかって居ると言いたげに私の頭を撫で付けていた。
「何れその機会が来る事は望みますが、今はまだ早いですね。今日は食事をして、少しのんびりと過ごしたら送っていきます」
「……はい。あの、ごめんなさい……」
「謝ることではありませんよ。少しずつ、慣れていけば良い。さぁ、食事にしましょう。少し冷めてしまったかもしれませんが」
テーブルに視線を移すと簡単なものと言いながらも色鮮やかな食事が並び私の食指を動かした。
短時間でこれだけのものを作ってしまう辺り、さすが出来る男は要領も良いらしい。
緊張をほぐそうとしてくれて居るのか、雑談を交えながらの食卓は以前とは違い、ちゃんと味を感じる事も出来たしほんの少しではあるもののお互いの考えが理解できたからか。
私達にとってはこれ以上ない程に恋人らしく有意義な時間を過ごせた様に思う。
けれど不意に七海さんの唇に意識が向くと私は明からさまに挙動不審となり、その度に肩を竦めながらも七海さんは実に楽しげに目を細めていた。
食後にはデザート。
その後には再びコーヒーで一息付きながら映画を見る事になり、私の懇願により恋愛ものは避けられ、話題のアクション映画を見る最中。
背凭れに回されて居た七海さんの手が私の肩を少しだけ引き寄せる。
飾りの一部として置かれて居た筈のクッションは私が私物化してしまい、胸の辺りで抱き抱えたまま距離が少しずつ詰められていく。
その度に私の視線はテレビから隣に移り、悠々と寛ぐ七海さんが指の背で私の頬を撫でると言う行為が幾度も繰り返されて居た。
「そろそろ良い時間ですね。高専まで送ります。今日は帰りましょう。私が悪い大人になる前に」
「……あ、はい」
結局、ちゃんとテレビに向き合って居たはずなのに半分程しか内容が入ってこなかった映画は、この極限状態で半分も理解できたのなら万々歳だと言う斜め上の思考に切り替わった。
少しばかり名残惜しい気持ちがなくも無いけれど、このまま泊まる覚悟などある筈もない。
しかし、今回さえも琢真のお膳立てがあってやっとお家デートが実現したと言うのに、次はいつこんな機会に恵まれるのかと別れ際になって私が肩を落とすのも無理はないだろう。
あまりにもその様子が分かりやすかったのか、七海さんは愛猫を愛でるかの如く私の頭頂部に手を置いた。
すっかり心地良くなってしまったその手に擦り寄ると、恐らく私しか知らないであろう破顔した七海さんの表情が己に向けた行為を言葉なく伝えてくる。
「次はアナタの行きたい場所に行きましょう。休みが合わなくても、仕事が早く終わりそうならば連絡を」
「……良いんですか?」
「恥ずかしながら私も、恋人らしい事がしたいんですよ」
きっちり整えられて居た筈の髪は今はほんの少しばかり乱れ、一筋顔に掛かった前髪が煌めく。
車のキーを片手に私に差し伸べてくれた手を取ると、気恥ずかしくなって頷いた私の指を絡め取って私達は車へと向かった。
高専までの道程がもっと長ければ良かったたら今更ながらに思う。
数時間前までは断末魔にも似た声を上げながらガタブル震えて居た私は一転。
この短いドライブが終わってしまうことを名残惜しくも思い始めて居て、単純すぎる己の思考に呆れてしまう。
市街の明かりに照らされた横顔が惚れ惚れするほどに綺麗だった。
ハンドルを握る指も手も、私のものとはまるで違って居て。
それを意識し始めるだけで時限爆弾でも抱えたかの様に心臓が煩く鳴り響く。
徐々に景色が夜でも見慣れたものへと代わり、職員寮の目の前で車が停車する。
夢の様な時間はもう終わりを迎えて、明日からはまた次の逢瀬を楽しみにしながらも任務に勤しむ日々が待って居るのだろう。
「着きましたよ。今日は楽しかったです。明日はアナタからの連絡を待って居ます」
「……あ、ぅ。はい……頑張ります」
「そんなに気負わなくても、内容なんて何でも構いません。ですがくれぐれも任務で無茶はしない様に」
呪術師として生きて居る以上、常に命の危険が付き纏う。
もしかしたらこの逢瀬が最初で最後のものになってしまうかもしれないし、そうでないかもしれないと言う懸念は、考えない様に努めながらもお互い常に抱えて居る。
この時ばかりはずっと優しげに私に向けられて居た瞳が少し怯えを孕んでいた様にも思えた。
それは少なからず別れを繰り返してきた恐怖がそうさせるのだろう。
私とてクラスメイトの死に目にこそ遭って居ないものの仲の良かった補助監督や呪術師との別れは幾度も経験して居るし、私の術式が至らないばかりに命を落としてしまった呪術師も存在する。
その度に己の不甲斐なさに打ちひしがれ、我武者羅になって鍛え上げてもやはり底辺二級術師がやっとで。
目の前の憧れの存在は呪術師と言う点に置いては遥か遠く、一度はボロ雑巾の様な状態を見られて居るのだから七海さんが憂うのも無理はない。
後はお礼を述べて車を降りるだけとなるのに、その一言を言いたくないと思うのは、このまま別れてしまったら少なからず明日死んだとして悔いが残ると思ってしまうからなのだろうか。
否、私に至ってはたとえ呪いとなっても朝チュンを共にするまでは死ぬつもりはないのだけれど、それにしても何かお礼になる様な事がしたいと思うのに気の利いた言葉一つ出てこない。
ならば先ず行動で示せば良いのではないかと、羞恥が限界突破した頭がとんでもない事を思いつくと、一つ大きく深呼吸した私はシートベルトを外して七海さんの方に向き直る。
「あの、今日はその……ありがとうございました。色々びっくりしたけど、嬉しかったです」
「いえ、私も楽しかったです。アナタの色んな面が見れたので、それだけで充実したひと時を過ごせた」
「それで、大変恐縮なのですが、ちょっとだけ目閉じてもらえませんか?」
「こうですか?」
私の言葉を疑う事もなく七海さんが静かに翠眼を伏せた。
一見分かりずらいけれど髪と同じ金糸を思わせる長い睫毛が薄暗い中によく映える。
拳を握りしめ、覚悟を決める様に小さく喉が鳴った。
シートベルトを外し、僅かに腰を浮かせ、助手席との僅かな空間を埋める様に少しずつ距離を詰めると私は少しこけた頬に唇を押し当てた。
本当は唇にと思った。
思ったのだけれども、その後逃げる算段までを考えたら今の私にはこれが限界で。
刹那の静寂の後、驚きに目を開いてしまった七海さんと視線がかち合うと自身の頬に手を添えた姿を見て、振り切って居た筈の私の羞恥メーターは恐らくぶっ壊れた。
「……お、おやすみなさいっ!!!」
本来ならば送ってくれたのだから車が見えなくなるまでその場にいるのが筋だろう。
けれど今の私にそんな余裕もゆとりもなく、文字通り脱兎の如く車内を降りると振り返る事も出来ず一目散に職員寮へと駆け込んだ。
バタバタと騒がしい足音が静まり返った廊下に響き渡り、息を切らしながら自室に駆け込むとそのまま扉を乱雑に閉めた私はそのままずるずるとその場にへたり込む。
部屋の近い琢真が私が帰ってきた気配に気づき連絡をくれたものの、返す事すらできず。
七海さんの唇の感触を思い出し、自分にしては大胆すぎる行動を思い返して身悶えるしかない。
七海さんはちゃんと帰れたのだろうか。
あと少ししたら連絡をしてみても良いだろうか。
私からの連絡が欲しいと言われただけで、今別れたばかりだと言うのにすでに連絡をしたくて堪らない私は、果たして明日から平静を装って居られるのかすら怪しい状況と言える。
こっそり外を盗み見ると車のライトが見える事はなく、「おやすみなさい」とだけ文字を打った私は後少ししたらこのメッセージを送ろうと携帯を手元から離した。
自分の行きたい場所に行こうと言ってくれた七海さんとのデートに思いを馳せ、明日は七海さんに十分英気を養ってもらい、明後日の休みはデートに着て行く服を選ぶのだと既に頭の中はお花畑で浮かれ切って居る。
「真那、帰ってんのか?生きてるか?」
「半分死んでる」
返事をしなかったせいか。
私の生存確認の為にやって来たであろう琢真に今日の出来事をどう説明すれば良いのか頭を悩ませながらも、今度は七海さんの好む格好をリサーチしてもらおうと考えながら私は部屋の扉を開けた。
何となく状況を察して居るであろう琢真はさすがと言うべきか。
無言のまま肩を叩き、本日の七海さんの尊さについて語る私の興奮が収まる事はなく、日付が変わるまで井戸端会議が終わる事はなかった。
既に寝てしまったかと思ったけれど、私が就寝する前に送ったメッセージは直ぐに同様の言葉が返って来て、存外宵っ張りなのかと新たな一面を見つけた気もする。
実のところ、私が逃げる様に車から飛び出したその後には暫くハンドルに突っ伏したまま動けなくなって居る七海さんが居たなんて事、私が知る由もないのだから。
その日の内に私の身柄は宣言通り七海さんに確保され、漸く夢にまで見た一緒に食事をするという願望が叶った。
ただ、予約してくれた雰囲気の良いお店、目の前には最愛の推し、おまけに個室という密閉空間。
そんな極限状態で食べた料理は美味しかったはずなのに全く味を感じられず、非常に惜しい思いをした事を密かに悔いて居る。
七海さんはお酒が好きだった筈なのにその日はアルコール類には一切手を出さなかった。
私が翌日休みだと言っても適当な時間になるとちゃんと高専まで送り届け、狼にもなる事なく私の頬に手を添えておやすみなさいとだけ告げて去って行く姿は絵に描いたような完璧な紳士と言える。
ただ、これは余談だけれど実際にされたら狼狽る所の話では無いと解るのに、全く手を出されなかった事が残念だと思わなくもない乙女心は誰でも良いから少しばかり理解してもらいたい。
それからと言うもの、連絡先を交換してからはその日の出来事や取り止めのないやり取りを交わす様になった。
携帯の通知が七海さんだと分かった瞬間、例え屋外だろうが車内だろうがその場で正座して固唾を飲みながら画面を開く姿を目撃した人は一人や二人ではない筈だ。
いつも私が任務で怪我をしなかったかと気遣い、出張になればお土産は何が良いかと尋ねてくれる。
それなのに、その度に無事に帰ってきてくれる事がお土産だと我儘一つ言えない自分は少し可愛げが無いかもしれないと不安が過る。
繁忙期はやっと終わりの兆しが見え始めてきたものの、七海さんは一級術師。
私とは抱えている案件の大きさも数も段違いで、休みの日は勿論互いに把握して居るのだけれど此処一ヶ月、全く休みが合わないと言うのが悲しい現実だった。
しかし、私としてみれば会えないという事に肩を落としながらも、そのおかげで命が永らえているような気もする。
端的に言ってしまえばそれ程に推しと恋人になるという事はある意味、己の生命の存続すら危ぶまれる行為なのだ。
「なぁ、真那。最近七海サンとどうなんだよ」
「よくぞ聞いてくれた琢真!!毎日が尊い。想像でも妊娠できる。寧ろ今すぐ産める。情緒は秒刻みで乱れまくり」
「いや、待て。早まるな。ちゃんと段階を踏んでくれ」
久しぶりに顔を合わせた嘗てのクラスメイト兼、親友と共に食堂の片隅で談笑を交わせるくらいのゆとりが出来たのはほんの最近の話だ。
やっと私達二級術師には束の間の平穏が訪れたけれど、今日も今日とて七海さんは朝から任務に忙殺されて不在らしい。
その予定の一部は恋人と言う関係になってからは七海さんの口添えのおかげで伊地知さんから聞く事ができるのだけれど、やはり七海さんのスケジュールは常にパンパンと言っても良いもので。
これこそが労働はクソだと声高に宣言する所以なのだろう。
琢真にお付き合いの進捗を尋ねられ、私は此処一ヶ月の記憶を辿りながら溜息を漏らす。
はっきり言って仕舞えば初っ端に食事に行ったきり、恋人らしい事をしたかと尋ねられたら答えは否でしか無いからだ。
勿論、高専内で顔を合わせる機会ならば少なからずあるし、その度に七海さんは私の様子を尋ね、優しく目を細めてくれるけれど。
私の考える恋人同士のそれと現状は少し離れている様に思う。
憧れて憧れて。
少しでもお近づきになりたい、あわよくば結婚したい、認知されなくても良いから子供を産みたいと暇さえあれば口走って居た日々が遠い昔の出来事の様に思えるのは、例え甘い時間を過ごすことが無くとも直近の私の日常がドキドキハラハラジェットコースターと言っても過言ではないだろう。
しかし、推しが恋人になると言うのは一見夢の様に思えるものの、何かと気苦労が多い事を最近は痛感している。
先ずは自分自身に幻滅されないかと常に不安が付き纏うし一挙一動に気が抜けない。
これまで遠目に眺めてほくそ笑んでいるだけで幸せだったのに、目の前に推しがいると思うだけで血圧が上がるし挙動不審となる。
自分に向けて笑みを浮かべられたら私の心臓はいつ爆発してもおかしくないと思える程には心拍が上がりっぱなしとなり、甘い言葉を囁かれたらアドレナリンすら出っ放しとなって呪霊の群れにすら突撃しそうな衝動を抱えてしまう。
因みにそれら一連の私の暴走を止めるのは勿論琢真となる訳で。
その度に私達の馬鹿な言動は七海さんの絶対零度の視線を浴びる羽目になるのだが、縮み上がる琢真とは対照的にその視線すらもかっこいいので私には眼福でしかない。
もし仮に直近で私が突然死したのなら死因は心不全だと言い切れる。
更に言えば次の健康診断では不整脈で引っかかるであろう確固たる自信がある。
それほどに私の推し兼恋人は尊く、安定のイケメンで紳士だ。
すれ違えば仄かに香る香水の匂いに引き寄せられてしまうし、声を聞けば耳が孕むと思えるほどに低音の良い声が自分の名前を呼ぶだなんて最早天国でしか無くて。
いつ死んでもこの人生に悔いはないと嘯く度に困った様に眉根を寄せながら抱き竦められる私は、常々推しを持つ女の中で叫ばれている尊死というものに一番近い人間と言えるのかもしれない。
けれど全く手を出されないと言う事実が私の中で時折鉛の様に重くのし掛かり、実際そんな状況になったとしたのなら恐れ慄き悲鳴をあげると分かりきっているのに、ちょっとばかり迫られてみたいなんて欲望が最近になって垣間見えるようになってしまった。
「ねぇ、琢真。キスした事ってある?」
「は?まぁ、一応あるっちゃあるけど。……え、待てよ。真那、まだ七海サンとしてないのか?」
「してたら私は多分生きてないよ」
「まぁ、そりゃそうだな。つか、意外と奥手……いや、七海サン大人だもんな。そんながっついたりしないか」
テーブルに置かれた缶コーヒーを飲み干しながら、私は空になった皮の縁を指でなぞる。
何の気なしに聞いてみた質問だったけれど、私の期待とは裏腹に琢真でも一応男の子をしているらしい事に若干裏切られた様な気分にもなった。
七海さんや周囲が勘違いする程には常に一緒にいた私達ではあるものの、こう言った恋愛相談的なものはこれまでした事は無い。
それは一重に私が推しである七海さんに夢中で妄言しか吐かなかったのと、これまでの人生の中でそう言った経験とは縁が無かったからなのだろう。
故に恋愛に関してどうしても憧れと幻想を抱きがちになっている節は否めないし自覚もある。
少女漫画は好んで読む方ではなかったけれど今になってそんなシュチュエーションに憧れさえ抱く辺り、私の頭の中は至極単純なお花畑だ。
机に突っ伏しながら先程交わした七海さんとの会話を眺めてまた一つ溜息が溢れる。
相手が同年代だったのならこんなにも頭を悩ませることもなかったのかも知れないけれど、七海さんは絵に描いたような大人であり、紳士であり、私の理想で憧れだ。
幻滅されたくは無いし、我儘なんてもっての外。
そもそも私に好意を抱いてくれている事自体が奇跡の様な出来事であり、釣り合いなんてどう見たって取れているはずが無いのだからこれは贅沢なな悩みと言ってもいいだろう。
「そもそも会えて無いんだよね。連絡はマメにくれるし、電話もするけどさぁ。たまに付き合ってるのが幻覚だったのかと思う時がある!寧ろその方が納得がいく。
因みに、私は七海さんが奥手だろうが狼だろうがドMだろうがドSだろうが両手広げて大歓迎だ」
「聞いてねぇよ。まぁ、それはなぁ。俺達と七海サンじゃ忙しさの度合いが違うって言うかな」
「本当それ。お互いの予定は教え合ってるけど休みが全く被らないんだよね。折角食事に誘ってくれても疲れてるよなって遠慮しちゃうし。と言うか電話の時点で耳が破裂しそうになってるから御尊顔を目にしたら私、灰になる」
「安心しろ、ちゃんと掃いてまとめてやる」
通話も連絡も、時間を見つけては寄越してくれるのはいつも七海さんからで私はこれまで自分から発信する事が出来て居ない。
二級の私でさえ繁忙期には忙殺されて帰宅すれば泥の様に眠ってしまうと言うのに、七海さんの任務の数を見ればきっと殆どの呪術師が悲鳴をあげて青褪めるに違いないからだ。
幾ら恋人と言っても節度は弁えなければならない。
行き過ぎた行為は相手にとって負担にしかならないし、だからこそ遠目に見て欲望を膨らませるだけの生活をこれまで全力で楽しんできたと言うのに、思わぬ形で急に距離も関係も変わってしまって。
今の私は己の立ち位置を見失いそうにすらなって居た。
連絡を取り合える様になっただけで飛び上がる程に歓喜している。
けれど少しずつじわじわと言いようのない感覚に浸食され始めている様な気もして。
恋愛における適切な距離感と言うものがあやふやなまま、ここ最近は私の心を蝕んでいる。
「相変わらず重症だよな。少しっ位甘えてみても良いんじゃねぇの?女はそれくらいの方が可愛いって聞くけどな」
「……言えないよぉ。七海さんの貴重な休みを私で潰してしまうなんて申し訳なさすぎて全七海さんファンの前でスライディング土下座しても足りない」
「で、本音は?」
その言葉を聞いた瞬間に強火同担拒否女としての本能が爆発したと言っても良い。
だらしなくテーブルに寝そべって居た身体は起き上がり両肘をテーブルに突くと手を口元で組み合わせた。
こんな事、七海さんに知られたらドン引きされるに違いない。
だからこそ直接言えないし七海さん好みになろうと日々努力を続けて居るのだけれど、琢真の前でなら何ら遠慮することは無いのだから私が溢れんばかりの煩悩を口走ってしまうのも致し方ないと言うものだ。
「……願わくばお家デートしたい。七海さんのプライベート空間に埋もれたい。寧ろ七海さんを全力で吸いたい。お触りしたいなんて贅沢言わない。しかし、出来ることなら二十四時間体制で七海さんを見守る壁になりたい!!!」
「欲望ダダ漏れじゃねぇか」
「欲望なだけで実行はしないから。会いたいよ?会いたいけどさ。私、こんなんだし絶対挙動不審になるじゃん。七海さんはプライベート大事にする人だし、忙しいのは分かりきってるんだから休める時は休んで貰いたいって言うか。
……彼女ヅラするのもなんかなぁって」
「いや、彼女だろ。しかも割と大事にされてる」
「その響きだけでご飯いけるからもっと言って」
至極真面目な顔でおかわりを要求すると、琢真すらも呆れた様に溜息を溢してコーヒーに手を伸ばした。
未だ半信半疑な七海さんの彼女と言う己の現実は改めて人に言われる事で漸く自覚出来る程のもので。
要は私自身、全く自分に自信がないのだ。
大人の中の大人と評される七海さんがどんな恋愛をこれまでしてきたのかと気になって仕方ないと言うのに、そんな事を聞く勇気もないし話してくれたとしてもあまり聞きたくない。
拗らせ過ぎた憧れの感情は七海さんの言動一つで晴天にも曇天にも変わり、私に関しては大概発狂しそうなほどに歓喜するのが毎度の事となるのだけれど。
そもそも七海さんが私の何処にそんな魅力を見出してくれたのかすら知りもしないのだから、現状に後ろ向きになってしまうのも当然と言える。
再びテーブルに突っ伏した私を眺めながら琢真が携帯を弄っていた。
会いたい、しかし負担にはなりたくないと葛藤を繰り返す私はテーブルの下でさして長くもない脚をばたつかせ、時折つま先が琢真の脚にコツンとぶつかる。
それを気に留める訳でもなく、真剣に携帯画面を眺める琢真は余程重要な案件でも抱えているのだろうか。
悩ましげな表情を浮かべ、トレードマークのニット帽に手を押し当てる様に私も自分の携帯を一瞥する。
しかし、昼過ぎに来た連絡を最後に私の元には何の連絡も届いては居らず、此処に来て何度目かも分からない溜息が溢れた。
確か、明日は七海さんは休みの筈だ。
けれど私の休みは明後日で、明日は簡単ではあるものの何件か単独の任務が入って居る。
いっそ伊地知さんに相談してみれば一日くらいは調整してもらえるのでは無いかと考えた事は何回もある。
けれど仕事は仕事で、私情を持ち込むなんて七海さんが最も嫌う事だ。
ただでさえ少ない休みを私に使わせてしまうのも申し訳ないと思うのに、やはり一緒に過ごしてみたいと言う欲が払拭し切れず、私の今の中は煩悩と理性が絶えずおしくらまんじゅうをして居り、一向に決着がつかない。
「なぁ、真那。今日はもう任務無いよな?明日も午後から単独が二件だっけ?」
「うん。繁忙期終わったし今は軽めの単独任務が少し入るくらいだよ。今年は忙しかったから」
「だよなぁ。俺より働いてただろ。あ、お疲れ様です、七海さん」
不意に琢真が携帯を耳に押し当て通話を始めるとその後に出てきた名前に咄嗟に私は身体を起こし姿勢を正した。
実際目の前にいるわけでは無いのにその気配を感じるだけで引き締まるのは最早習性と言えるだろう。
特段聞かれて困る様な内容では無いのか琢真は席を外す様子もなく、盗み聞きするわけでは無いけれどその会話に自然と耳が傾いてしまう。
耳を済ませれば会話の琢真が此方に視線を向けて、静かさの中に七海さんの声が僅かに聞こえた気がした。
それだけでバクバクと心臓は鳴り響くし、今何をして居るのか知りたくて堪らなくなる。
けれど幾ら相手が琢真といえどそんな不躾な事を聞いてくれと頼むわけにもいかないし、聞かれてまずい話では無いのだろうけれど男同士で話す事だってある筈だ。
仮に今が出先からだとすれば高専に戻ってきた時には少しくらい話が出来るかと期待して居る自分は咄嗟に鏡で今の姿を確認するくらいには浮かれ切って居て、そよ風にさえかき消されてしまいそうな程の七海さんの声に全神経が集中している。
チラチラと琢真の視線が己に向く度、少しでも長く会話が続くことを願って止まなかった。
それと同時に同じ推しと話している状況だと言うのに何故琢真は平静を保って居られるのかと不思議でならない。
しかし、私の願いも虚しく要件と僅かな雑談のみで終わってしまった会話に肩を落とすと、ポンと琢真が私の叩く。
「七海サン、今からこっち来るってさ」
「え!?は!?ちょ、待って。待って!!!
メイク崩れてない!?髪型大丈夫!?てか、今からシャワー浴びて化粧し直して一張羅に着替え直す時間ある!?」
「ねぇよ。そのままで大丈夫だって。ここで待機してろだってさ」
「……無理ぃぃぃ!!!」
七海さんとお付き合いしだしてからと言うもの、いつ遭遇しても良い様にとより一層身なりには気を使う様になったし、今日は帰り際になら会えるかと期待はしていたけれど、こんな突然となると些か心の準場が出来ていない。
そもそも今から来ると言う七海さんの現在地が定かでは無いし、明日は休み。
今日はこれで上がりとなればもしかしたら食事のお誘いがやってくるのでは無いかと半分期待しつつも内心は冷や汗ものだった。
これまではトークアプリや電話でお誘いされて居たから気遣う余裕があったのだ。
あの低音美ボイスと御尊顔を目の前にしてそんな事を言われたら私はきっとそんな余裕すら無くし二つ返事で犬の様に尻尾を振ってしまうに違いない。
おろおろと分かりやすい程に狼狽始めた私を琢真が宥めてくれるものの、気休めにもなりはしなかった。
不安気に何度も食堂の扉を見る私は側から見ても緊張し切っていて、その心境は今にも死刑宣告される囚人にも近い。
「あ、お疲れ様です。七海サン」
「ひいぃぃっ!!」
「おや、どうかしましたか?」
「あ、大丈夫っす。いつものやつなんで」
私の願いも虚しく一向に決まらない覚悟を決める前に現れた七海さんに琢真が眩しい程の笑顔を向け、私は悲鳴をあげた。
ゆったりとした動きでありながらもどんどん近づいてくるその姿はただ一言、相変わらず顔がいいとしか言いようがなく、肉声を聞くだけだその場に崩れ落ちそうな程の破壊力を伴う。
テーブルに倒れ込んだ私に向けて琢真がフォローを入れるとそれで納得してしまう辺り確実に七海さんは私の扱い方を心得始めている様に感じ、その適応能力の高さもまた恐ろしい。
ぽんと頭に手を置かれ、一瞬それがどちらの手なのか迷った。
しかし、琢真は最近七海さんの前では私に触れる事をしなくなったし、何より仄かに感じる香水の香りがその相手を明らかにしていく。
顔を見たいと思うのに、嬉しい思いと恥ずかしい気持ちがないまぜになってそれすらも儘ならなかった。
「如月さん、顔を見せてはくれませんか?」
「……おかえり、なさい」
「ええ。ただいま戻りました」
テーブルに広げた腕の隙間から少しだけ顔を覗かせると、思いの外至近距離だった七海さんの御尊顔を前にして私は一瞬硬直していた。
一気に顔に血液が集まったかの様な錯覚を抱く。
発火した様に熱を孕み、自分を見据えた視線から目が離せなくなるのと同時にすぐ目の前にある唇に意識が向く。
触れてみたいと思うのは、私だけなのだろうか。
今日の任務の事とか、明日の予定とか、疲れてないかとか、言いたいも聞きたい事もたくさんあった。
それなのに何一つ言葉が出てこなくて、金魚の様にはくはくと口を開けては開く私はを見て、七海さんが顔を綻ばせる。
滅多に見ることのない笑顔に心臓を鷲掴みにされた様な感覚に陥った。
ほんの少し感情が表に出ているだけなのに、その機微は己に向けられたものだと思うだけで今からフルマラソンしてきても笑顔で居られる気がする。
「私は今日はこのまま上がりますが如月さん、今夜は空いていますか?」
「……あ、えっと。それは……」
しかしキュンと胸がときめく様な雰囲気も束の間、七海さんが私の予定を尋ねると頭の中がパニックを起こす。
一緒に過せる時間を設けてもらって嬉しくない筈はない。
しかし、七海さんは穏やかな声とは裏腹に少し疲弊している様にも思えて、休んで欲しい気持ちと一緒に居たい気持ちがせめぎ合っている。
断って落胆させてしまうのは申し訳ない。
けれど休みたいであろう時間を割かせてしまうのはもっと申し訳ない。
上手い返し方が見つからず言葉に詰まった。
頭はずっとフル回転なのに思い浮かぶのは顔がいい、声がいい、少し疲れていてもかっこいい。
結論として今日も私の推し兼、恋人は美しく尊いと言う求める回答とはかけ離れたものばかりだった。
「真那、今日はもう上がりですよ。で、さっき送ったものが今日の会話です」
「……は?」
「了解です。助かりました。では、如月さん。今日は私の家で映画でも。料理は簡単なものですが用意しますので、このまま行きましょうか」
「……はい?」
私の予想の斜め上を行く琢真の回答にとてつもない殺意と困惑を覚えたのは言うまでも無いだろう。
仮に琢真の言葉が事実だとすれば、先程琢真が悩んで居たのは私の会話をどう伝えようかと考えあぐねていたと言うことになり、私の欲望は結果的に七海さんにダダ漏れとなっていたと言うことになる。
穴があったら入りたい所の騒ぎではなかった。
今すぐ素手で穴を掘って自らを生き埋めにしなければ耐えられない程の羞恥に唇は戦慄き、その場で琢真を睨みつける様にして立ち上がると片手で謝罪のポーズをしながらも七海さんを一瞥する様子からきっとこうなる事を仕向けられていたのだろう。
その謝罪が何に対してなのかは全く判然とせず、ただ今の私に逃げ場はないと言う事だけは唯一絶対、変わる事のないものらしい。
七海さんが安堵にも似た溜息を吐きながら私の手を取り、顔を覗き込む。
確認を取る様なその仕草が観念しろと言っている様に思えてならなかった。
「琢真……」
「悪い、真那。でもさ、七海さんとお家デートしたいって言ってただろ?ほら、この勢いで念願の朝チュンだって夢じゃ……」
「私の黒歴史を呼び起こすな!!!」
「良いじゃねぇか。推しのプライベート空間に埋もれたいって言ってただろ。七海サン、埒があかないんで、さっさと連れてってください」
七海さんに手を繋がれながらも私は全力で琢真に向けて威嚇を繰り返し、その姿はリードを限界まで引っ張りながら今にも噛み付かんばかりに歯を剥き出す犬にも似ている。
テーブルに広げた鏡やメイク直しの道具は手持ちのバッグに素早く押し込まれていく。
それが琢真によって七海さんの手に渡ると私には必要なものを揃えると言う猶予すら奪われ、手を振って私達を見送る琢真が今は悪魔にも見えた。
「ブルータス、お前もかぁ!!!」
「いや、誰だよ」
「おや、博識ですね。猪野君、この言葉はラテン語の詩的な格言ですよ。この状況を踏まえればなかなか的を得ていると思います。では如月さん、行きますよ」
「無理いぃぃぃ!!!」
人攫いよろしく、軽々と私を肩に担ぎ上げた七海さんに反抗出来る勇気は私には無かった。
広い背中、太い腕、ほんのり赤に染まった首筋は色香を纏い、七海さんの愛用の香水が鼻を擽ると目眩さえ起こしそうな錯覚を齎す。
今日の装いがスカートで無くてよかったと心底思った。
しかし、咄嗟に今日の下着の色を思い返そうとしている辺り、どうかその確認をするくらいの猶予が欲しいと言いかけたがそれでは期待してますと言っている様なもので、口を一文字に結ぶしかない。
車までの道すがらは地獄だった。
すれ違う補助監督は何事かと私達に視線を向けるものの相手が七海さんだからと誰も助けてはくれず、寧ろ見てはいけない物を見たかの如く一礼と共に視線を逸らす。
普段の行いに対する絶対的信頼はこの時の私にとっては弊害でしか無く、結局せめて顔だけでも隠しておこうと途中からは逆さまになった七海さんの広い背中をただ眺めるだけとなる。
高専所属の呪術師にしては珍しく、外に住居を構える七海さんは普段は自家用車での出勤となり、左ハンドルの車の中に押し込まれると直様走り出した車は真っ直ぐに七海さんの自宅へと向かっていく。
生きた心地がまるでしなかった。
けれど時折信号で車が停車する時、私の手に重ねられた七海さんの手が想像以上に熱くて。
視線だけは前を見据える七海さんの肌が赤い様に感じたのは、空が茜色に染まっているせいだけでは無いのだろう。
七海さんの御自宅は高専から車で数十分、立地の良いマンションの一室だった。
その見た目とイメージに違う事なくモデルルームかと思うほどの室内は兎に角おしゃれで、自炊が趣味だと言うだけあってキッチン周りの小物は整頓されながらも充実して居る。
まだ食事には早いだろうからとソファに促され、飲み物を用意してくれる七海さんの姿を眺めながらも私は借りてきた猫状態と言っても過言ではなくて。
夢にまで見た推しのプライベート空間だと言うのに喜びより困惑の方が遥かに上回っていた。
テーブルにコーヒーを置きながら七海さんが隣に腰掛ける。
近い様で遠い様な、触れられるのに敢えてそれを躊躇う様は今の私達の心境にも近い。
それなのに、私が少し遠ざかると同じだけ距離を詰めてくる七海さんは己の伸ばした腕が届く範囲にどうしても私を置いて居たいらしく、頑なにその距離が縮む事も開く事もなかった。
「こんな風に誘うのは、迷惑でしたか?」
「いえ!そんな事ないです。でも、七海さんは忙しいのに気を使わせて申し訳ないなぁ、と」
あはは、と軽く笑って誤魔化してみたけれどその表情が一層曇ったものに変わったのを認めると、この回答が間違いだったのだと数秒前の自分に向けて怒りが込み上げた。
誰よりも七海さんが大好きだと胸を張って言える。
それなのにいざ御本人を目の前にしてしまうと私の想いはいつも空回りを繰り返した挙句脱輪し、暴走機関車もいい所だ。
自分がもっと大人だったのなら、淑やかな女だったのなら。
こんなに悩むことも足掻くこともなく、順調なお付き合いと言うものを現実に出来ていたのではないかと思うと、やはり自分はこの人に相応しくないと思考がどんどんマイナスになっていく。
七海さんがテーブルのリモコンに手を伸ばしサブスクから最近流行りの恋愛映画を引っ張り出した。
これもきっと私の好みそうなものをリサーチして選んでくれたもので、その優しさが嬉しいのと同時に、ただただ申し訳なさが勝ってしまう。
流行りのありきたりな恋愛映画は己の現状とは程遠い。
どうしたら画面の向こうの様な恋愛模様が描ける様になるのだろうと、常に思考はそんなことばかりを考え、ガチガチに固まった状況では折角手ずから淹れてくれたコーヒーにすら手を出せず、沈黙を破ったのは七海さんの静かな声だった。
「強引だった事は反省しています。しかし、普段の連絡もアナタから来る事は無い。食事に誘っても余り乗り気では無い様ですし、この際ならばはっきり教えて欲しい。
アナタはどんな付き合いを望んでいますか?全てを叶えられるとは限りません。ですが、極力希望に添える様尽力はしたい」
ソファに置いた手が触れそうで触れない絶妙な距離を保っていた。
ほんの少し指先が触れただけでも今の私はきっと心臓が口から飛び出そうな程に狼狽え、恐らく玄関まで猛ダッシュするに違いない。
こんな自分に真摯に向き合ってくれようとして、私の望む形で交際を続けたいと言ってくれる七海さんはやはり大人で紳士だ。
それなのに困らせる様な真似ばかりしてしまう私はどんどん自分の不甲斐なさが情けなくて堪らなくなっていく。
「私は……。逆に七海さんがどんな恋愛をしてきたのか気になってます。知ったらきっと嫉妬してモヤモヤするのは分かり切ってますけど、七海さんなら大人の女の人と素敵な恋愛してきたんだろうなって思うし、そう言う人がお似合いだと思ってました。
それに、自分のいい所が全く分からないし……正直、自信がないんです。
色々と気を遣ってくれるのは嬉しいです。でも、無理をして欲しいわけじゃ無い。呪術師はキツい仕事だし、七海さんは私より遥かにその量も多くて、危険度も高い。私は馬鹿だし、子供だけど……それを聞き分けるくらいの頭はあるので、無理はしないで欲しいです」
「アナタは少し聞き分けが良すぎますね。私は、ほんの些細な事でもアナタに連絡する口実が欲しい。勿論、アナタから発信の連絡も欲しいと思います。仕事が早く終わったなら共に食事をしたいし、多少疲れていたとしても翌日どちらかが休みならば少しでも長く一緒にいたいと思います。子供じみていると思いますが、要はアナタを独り占めしたい」
互いに視線は内容の入って来ないテレビに向かい、互いの視線が絡み合う事は無かった。
その代わり、七海さんの指先が躊躇いがちに私の手に乗せられて、それは緊張からか車内で感じたものより余程熱く、汗ばんで居た様に思う。
ずっと無理をさせて居ると思っていた一連の行動は、どうやら七海さんが率先してやりたい事だったらしく、それには安堵したものの。
今度は七海さんの気持ちを無碍にしてしまった私はやはりスライディングで土下座しながら饂飩で首を吊っても足りない気がした。
しかし、こっそり盗み見た七海さんの顔は快適な室内にも関わらず少しばかり赤らんでいる様にも思えて、その胸中はもしかしたら私とあまり差異はないのかも知れない。
「七海さんでも、そんな事思うんですね」
「私を聖人君子と勘違いしないで下さい。特にアナタの前となれば滑稽な迄にただの男です。それと、出張の度に土産の話をするのは買ってきたからと、会いに行く口実が欲しいだけです。
アナタが私をどんな風に思い描いてくれているのか定かではありませんが、私はアナタが思う以上に不器用なんですよ」
「え、無理……可愛い。……尊い!!!」
溜息を溢しながら己の目元に手を押し当てた姿を見て、私の心の声がダダ漏れとなった。
完璧でストイックで、これまで素敵な恋愛を謳歌してきたと思われたキング・オブ・大人の七海さんが小娘との恋愛に悩み、顔を赤らめながら自分はそこまで器用ではないと弱さを吐露する姿はあるかどうかも定かではない私の母性を急速に育んだ気がする。
しかし、繋いだ手こそ離さないもののこんな状況なのだから抱きつけば良いと言うのに、七海さんとは反対方向のソファの肘掛けに突っ伏してしまうあたり、私の拗らせ具合も筋金入りと言えるだろう。
言葉にはせずとも少し不服そうな顔が一層私の胸を高鳴らせた。
けれど流石にまだ自らこの腕に飛び込む勇気は持てず、七海さんを存分に吸うチャンスだと言うのに私の腹の虫がくるくると空腹を訴え始めるとその間抜けた様に腹に呪具を突き立ててやりたい衝動にさえ駆られた。
「そろそろ食事にしましょう。少し待っていて下さい」
「……はい。お願いします」
忌々しいと己な腹を睨みつけた姿に肩を揺らしながら立ち上がった七海さんは私の頭を撫でるとキッチンへ向かっていった。
離れてしまった手元が突然無くした温もりに寂しさを訴える。
隅に置かれたクッションを抱き抱え、こっそり七海さんの居た位置を陣取った私は勿論その残り香を堪能したのだけれど、車に乗せられるまで抱き抱えられあまりにも強くその香りを感じてしまったからか何処か物足りなさを感じてしまう。
中途半端にしか見ていなかった映画はそこそこに。
どうしても七海さんの姿が気になってキッチンに視線を向けると、ジャケットを脱ぎネクタイを外し、腕枕をした推しがキッチンで手際よく料理を準備する様が実に眼福で尊く、危うく血圧が限界突破しかけたと言うのは内緒の話だ。
けれど私の視線に気がついたのか。
愛用のサングラスを外した状態で微笑まれると心臓に無数の矢を射られたような衝撃を受けて慌てふためきながら私はテレビに視線を戻す。
佳境に入り始めた映画はもうすぐ主人公達がくっつくかどうかの場面に差し掛かり、ほんの少し一ヶ月前の己と重なる様な気がした。
あの時、七海さんが私を追いかけて来てくれなかったら今日という日は無かっただろうし、そもそも琢真が口を滑らせていなければ私達はきっとお互いの気持ちすら知らずに焦がれるだけの関係だったに違いない。
そうなれば本気で目潰しをしてやろうと画策していた先日と今日の怒りも鳴りを潜め、今度何か奢ってやろうと寛大な心を持てる気もする。
導入なんてまるで見ていなかったのに、陳腐な恋愛映画でもクライマックスとなると目が離せなくなるから不思議なものだ。
涙ながらに想いを伝え合って抱き合う男女。
少しずつ近づいて重なる唇と影に、これがフィクションで演技だと分かっていても引き込まれてしまうのは、己にもそう言った願望があるからなのだろう。
無意識のうちに私は唇を重ねた男女の姿を眺めながらクッションを抱えていた片手を唇に押し当てる。
ファーストキスの味は様々だと言うけれど、先程意識してしまった七海さんの唇はどんな味がするのかとそんな不埒な事に意識を持って行かれて、準備が出来たと呼びに来てくれた七海さんの姿に更に気づいていなかった。
「……如月さん」
「うへっ!?は、はいっ!?」
もうすぐエンドロールに差し掛かるであろう映画は結果として大団円で終わりを迎えそうだった。
突然名前を呼ばれた事に肩を跳ねさせ、間抜けな返事と共に声の方を振り向くと、ソファの背凭れに手を置き、すぐ背後に七海さんの姿が見える。
驚きのあまり咄嗟に姿勢を正すのは最早習性としか言いようがない。
直様テーブルに誘われるかと思いきや、七海さんはテレビの画面を無言で眺め、何度目かになるかすら定かではないキスシーンが流れていた。
その刹那、私の眼前に影が落ちる。
瞬きする間にほんの僅か、唇に何かが触れた気がした。
あまりにも近すぎてピントがぼやけた視界でも美しい稲穂の様な金色がはっきりと見て取れて、押し当てられた柔らかい感触と共に私の思考が完全に停止していく。
直近で見た色素の薄い瞳は常々特別であり美しいと評される五条さんのそれとは違うけれど、ゆらゆらと静かに燃える焔を連想させるものだった。
「すみません、我慢が出来ませんでした」
「な、なな……七海、さん?今何を……?」
「あまりにも可愛らしかったので、アナタに口付けを」
熱の籠った視線と共に、形の良い唇から恐ろしく良い声ではっきりとそう言葉にされた瞬間。
発火したかの様に全身が熱くなったのを感じた。
パチパチと瞬きを繰り返しながら今し方唇に感じた柔らかい感触を反芻すると、あまりにも唐突な出来事に味まで理解できなかったことが悔やまれる。
今にも再び唇が重なりそうな距離に七海さんの御尊顔がある事が信じ難く、けれどこれは紛う事なき現実なのだろう。
己の頬を思い切りつねってみても痛みは確かに感じ、その後私が取った行動はクッションで己の顔を隠すと言う何とも馬鹿げたものだった。
「嫌、でしたか?すみません、先走り過ぎましたね。どうやら私はアナタが自宅にいると言う事に、これ以上ない程に浮かれて居るらしい。顔を見せてはくれませんか?」
七海さんが動く気配がして、恐る恐る少しだけクッションから顔を覗かせる。
私の正面に来る形で片膝を突きながら様子を窺う姿を一瞥すると、再度素早くクッションに埋もれた。
ふるふると首を振ったのは決して嫌では無かった事と、顔を見せたくはないと言う両方の思いから来たもので。
してみたいと願望は抱いていたけれど、こんなに早くやってくるとは思ってもいなかったからだ。
どんな顔をすれば良いのかも分からない。
なんでさっき映画で見ていた二人は恥ずかしげな顔をしながらも微笑み合うことが出来たのかと、演技でありながらもそのメンタルの強さに敬意の拍手を送りたいとさえ思う。
林檎の如く染まった耳元に七海さんの指先が触れた。
たったそれだけの事なのに、電流が走ったかの様な刺激に襲われて身体が大きく跳ね上がる。
呼吸の仕方さえ忘れてしまった様にも思えた。
膝を立て、無言を貫き丸くなる私に七海さんは何を言う訳でもなく。
ただクッションの隙間から覗く肌を愛でる様に撫でる指先に意識が向いて仕方がない。
突然当たりが暗くなったのは、縮こまる私を七海さんが抱きしめて居るからなのだろう。
どくどくと脈を打つ鼓動はどちらのものなのか判然としないのに、ただ唯一理解できるのはどちらの鼓動も早鐘の様に大きく鳴り響いて居ると言うことだけだった。
「……いや、じゃ……なかった、です」
やっとの思いで紡いだ言葉は、自分でも情けなくなる程に小さく弱々しいものだった。
腕の中でもぞもぞと身動ぎすると少し腕の力が緩み、顔半分を露わにした私に向けられる愛おしそうな視線に、この場で鼻血を出して失血死したら死因は間違いなく尊死だと確信を持てる。
右から左へ、定まらない視線が泳ぎ続けまるで回遊魚の様にも思えた。
恥ずかしさのあまり目には涙さえ浮かび始め、しゃくりあげた私を宥める様に大きな手のひらが背中を優しく撫でていく。
「……ごめん、なさい。びっくりして……」
「いえ、私が性急でした。まさか朝チュンを望むアナタがここまで初だとは思っていなかった」
「それ、忘れてくださいぃぃ……」
やっと少し顔の熱が引いたかと思えば本日二度目の黒歴史を引っ張り出され、私は半泣きになりながら再び亀の様に顔を隠すしか無かった。
この様子ではきっと七海さんはその意味までもちゃんと調べた上で言って居るに違いなく、盗み見た口角が僅かに上がって居る気もする。
自分から言い出した事とは言え、キスだけでこの様なのだからそこまで至るには途方もない時間がかかる事は目に見えて居る。
けれど七海さんはそれを咎める訳でもなく、わかって居ると言いたげに私の頭を撫で付けていた。
「何れその機会が来る事は望みますが、今はまだ早いですね。今日は食事をして、少しのんびりと過ごしたら送っていきます」
「……はい。あの、ごめんなさい……」
「謝ることではありませんよ。少しずつ、慣れていけば良い。さぁ、食事にしましょう。少し冷めてしまったかもしれませんが」
テーブルに視線を移すと簡単なものと言いながらも色鮮やかな食事が並び私の食指を動かした。
短時間でこれだけのものを作ってしまう辺り、さすが出来る男は要領も良いらしい。
緊張をほぐそうとしてくれて居るのか、雑談を交えながらの食卓は以前とは違い、ちゃんと味を感じる事も出来たしほんの少しではあるもののお互いの考えが理解できたからか。
私達にとってはこれ以上ない程に恋人らしく有意義な時間を過ごせた様に思う。
けれど不意に七海さんの唇に意識が向くと私は明からさまに挙動不審となり、その度に肩を竦めながらも七海さんは実に楽しげに目を細めていた。
食後にはデザート。
その後には再びコーヒーで一息付きながら映画を見る事になり、私の懇願により恋愛ものは避けられ、話題のアクション映画を見る最中。
背凭れに回されて居た七海さんの手が私の肩を少しだけ引き寄せる。
飾りの一部として置かれて居た筈のクッションは私が私物化してしまい、胸の辺りで抱き抱えたまま距離が少しずつ詰められていく。
その度に私の視線はテレビから隣に移り、悠々と寛ぐ七海さんが指の背で私の頬を撫でると言う行為が幾度も繰り返されて居た。
「そろそろ良い時間ですね。高専まで送ります。今日は帰りましょう。私が悪い大人になる前に」
「……あ、はい」
結局、ちゃんとテレビに向き合って居たはずなのに半分程しか内容が入ってこなかった映画は、この極限状態で半分も理解できたのなら万々歳だと言う斜め上の思考に切り替わった。
少しばかり名残惜しい気持ちがなくも無いけれど、このまま泊まる覚悟などある筈もない。
しかし、今回さえも琢真のお膳立てがあってやっとお家デートが実現したと言うのに、次はいつこんな機会に恵まれるのかと別れ際になって私が肩を落とすのも無理はないだろう。
あまりにもその様子が分かりやすかったのか、七海さんは愛猫を愛でるかの如く私の頭頂部に手を置いた。
すっかり心地良くなってしまったその手に擦り寄ると、恐らく私しか知らないであろう破顔した七海さんの表情が己に向けた行為を言葉なく伝えてくる。
「次はアナタの行きたい場所に行きましょう。休みが合わなくても、仕事が早く終わりそうならば連絡を」
「……良いんですか?」
「恥ずかしながら私も、恋人らしい事がしたいんですよ」
きっちり整えられて居た筈の髪は今はほんの少しばかり乱れ、一筋顔に掛かった前髪が煌めく。
車のキーを片手に私に差し伸べてくれた手を取ると、気恥ずかしくなって頷いた私の指を絡め取って私達は車へと向かった。
高専までの道程がもっと長ければ良かったたら今更ながらに思う。
数時間前までは断末魔にも似た声を上げながらガタブル震えて居た私は一転。
この短いドライブが終わってしまうことを名残惜しくも思い始めて居て、単純すぎる己の思考に呆れてしまう。
市街の明かりに照らされた横顔が惚れ惚れするほどに綺麗だった。
ハンドルを握る指も手も、私のものとはまるで違って居て。
それを意識し始めるだけで時限爆弾でも抱えたかの様に心臓が煩く鳴り響く。
徐々に景色が夜でも見慣れたものへと代わり、職員寮の目の前で車が停車する。
夢の様な時間はもう終わりを迎えて、明日からはまた次の逢瀬を楽しみにしながらも任務に勤しむ日々が待って居るのだろう。
「着きましたよ。今日は楽しかったです。明日はアナタからの連絡を待って居ます」
「……あ、ぅ。はい……頑張ります」
「そんなに気負わなくても、内容なんて何でも構いません。ですがくれぐれも任務で無茶はしない様に」
呪術師として生きて居る以上、常に命の危険が付き纏う。
もしかしたらこの逢瀬が最初で最後のものになってしまうかもしれないし、そうでないかもしれないと言う懸念は、考えない様に努めながらもお互い常に抱えて居る。
この時ばかりはずっと優しげに私に向けられて居た瞳が少し怯えを孕んでいた様にも思えた。
それは少なからず別れを繰り返してきた恐怖がそうさせるのだろう。
私とてクラスメイトの死に目にこそ遭って居ないものの仲の良かった補助監督や呪術師との別れは幾度も経験して居るし、私の術式が至らないばかりに命を落としてしまった呪術師も存在する。
その度に己の不甲斐なさに打ちひしがれ、我武者羅になって鍛え上げてもやはり底辺二級術師がやっとで。
目の前の憧れの存在は呪術師と言う点に置いては遥か遠く、一度はボロ雑巾の様な状態を見られて居るのだから七海さんが憂うのも無理はない。
後はお礼を述べて車を降りるだけとなるのに、その一言を言いたくないと思うのは、このまま別れてしまったら少なからず明日死んだとして悔いが残ると思ってしまうからなのだろうか。
否、私に至ってはたとえ呪いとなっても朝チュンを共にするまでは死ぬつもりはないのだけれど、それにしても何かお礼になる様な事がしたいと思うのに気の利いた言葉一つ出てこない。
ならば先ず行動で示せば良いのではないかと、羞恥が限界突破した頭がとんでもない事を思いつくと、一つ大きく深呼吸した私はシートベルトを外して七海さんの方に向き直る。
「あの、今日はその……ありがとうございました。色々びっくりしたけど、嬉しかったです」
「いえ、私も楽しかったです。アナタの色んな面が見れたので、それだけで充実したひと時を過ごせた」
「それで、大変恐縮なのですが、ちょっとだけ目閉じてもらえませんか?」
「こうですか?」
私の言葉を疑う事もなく七海さんが静かに翠眼を伏せた。
一見分かりずらいけれど髪と同じ金糸を思わせる長い睫毛が薄暗い中によく映える。
拳を握りしめ、覚悟を決める様に小さく喉が鳴った。
シートベルトを外し、僅かに腰を浮かせ、助手席との僅かな空間を埋める様に少しずつ距離を詰めると私は少しこけた頬に唇を押し当てた。
本当は唇にと思った。
思ったのだけれども、その後逃げる算段までを考えたら今の私にはこれが限界で。
刹那の静寂の後、驚きに目を開いてしまった七海さんと視線がかち合うと自身の頬に手を添えた姿を見て、振り切って居た筈の私の羞恥メーターは恐らくぶっ壊れた。
「……お、おやすみなさいっ!!!」
本来ならば送ってくれたのだから車が見えなくなるまでその場にいるのが筋だろう。
けれど今の私にそんな余裕もゆとりもなく、文字通り脱兎の如く車内を降りると振り返る事も出来ず一目散に職員寮へと駆け込んだ。
バタバタと騒がしい足音が静まり返った廊下に響き渡り、息を切らしながら自室に駆け込むとそのまま扉を乱雑に閉めた私はそのままずるずるとその場にへたり込む。
部屋の近い琢真が私が帰ってきた気配に気づき連絡をくれたものの、返す事すらできず。
七海さんの唇の感触を思い出し、自分にしては大胆すぎる行動を思い返して身悶えるしかない。
七海さんはちゃんと帰れたのだろうか。
あと少ししたら連絡をしてみても良いだろうか。
私からの連絡が欲しいと言われただけで、今別れたばかりだと言うのにすでに連絡をしたくて堪らない私は、果たして明日から平静を装って居られるのかすら怪しい状況と言える。
こっそり外を盗み見ると車のライトが見える事はなく、「おやすみなさい」とだけ文字を打った私は後少ししたらこのメッセージを送ろうと携帯を手元から離した。
自分の行きたい場所に行こうと言ってくれた七海さんとのデートに思いを馳せ、明日は七海さんに十分英気を養ってもらい、明後日の休みはデートに着て行く服を選ぶのだと既に頭の中はお花畑で浮かれ切って居る。
「真那、帰ってんのか?生きてるか?」
「半分死んでる」
返事をしなかったせいか。
私の生存確認の為にやって来たであろう琢真に今日の出来事をどう説明すれば良いのか頭を悩ませながらも、今度は七海さんの好む格好をリサーチしてもらおうと考えながら私は部屋の扉を開けた。
何となく状況を察して居るであろう琢真はさすがと言うべきか。
無言のまま肩を叩き、本日の七海さんの尊さについて語る私の興奮が収まる事はなく、日付が変わるまで井戸端会議が終わる事はなかった。
既に寝てしまったかと思ったけれど、私が就寝する前に送ったメッセージは直ぐに同様の言葉が返って来て、存外宵っ張りなのかと新たな一面を見つけた気もする。
実のところ、私が逃げる様に車から飛び出したその後には暫くハンドルに突っ伏したまま動けなくなって居る七海さんが居たなんて事、私が知る由もないのだから。
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