You're my……
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「本日、任務に同行する七海です。よろしくお願いします」
私の挨拶に対して二人の学生が姿勢を正し、深々と一礼した。
彼女達と初めて出会ったのは、私がまだ呪術師として出戻ったばかりの頃で、クラスメイトの猪野君と共に向けられる無垢な視線が酷く眩しかったように思う。
昔こそ五年制だった高専は現在は四年制となって居り、けれどその内容は然程変わりがないのかカリキュラムの三年目は比較的座学より実技が多くなる。
私が在籍して居た頃よりも自由度も高まり、明確な展望を抱いて入学する人間もいればスカウトされるがまま、若しくは任務の背後にチラつく報酬を目当てにする人間も居るらしい。
それ自体は悪いことではないだろう。
人間どうしても生きることには金が掛かる。
より己の生活を潤沢なものにするにあたって仕事上のリスクはある意味避けては通れない。
それは一般社会に於いても同じ事が言えるし、嘗ては私も己の時間と精神を引き換えにその世界に身を投じて居た。
ただほんの少し、溌剌とした笑顔を見る度にそれを愛らしいと思う反面、羨んでいた己が居た事を自覚せざるを得なかった。
己の高専の三年目を言えばたった一人のクラスメイトを亡くし、尊敬して居た先輩の離反を体験したばかりで私の生活も、周囲の雰囲気も荒んだものと言っても過言では無かったからだ。
けれどまるで尻尾を振る子犬のように私の元へ駆け寄ってくれる姿は存外気分の悪いものではなく、彼らの青春が少しでも明るく眩いものであってくれるようにと人知れず願ってやまなかった。
「七海サン!今日は宜しくお願いします」
「此方こそ宜しくお願いします。出来る事なら定時で上がりましょう」
「はいっ!!じゃあその後飯なんてどうですか?この前良い店見つけたんですよ」
「ええ、ではその様に」
そんな出会いから数経っても彼らの態度は変わる事なく、卒業を期に猪野君に関しては共に任務に出かけた際には食事も共にする程になった。
相変わらず猪野君と如月さんは卒業後も仲が良く、その殆どを一緒に過ごして居る姿をよく目にする。
恋仲なのでは無いかと実しやかに補助監督の間では囁かれており、それが本当だと言うのならば呪術師と言う苦境の中に身を置きながらも自身の思いに素直な彼らには感心せざるを得ない。
私自身、青い春と呼ぶべき輝いた時期に色恋とは余り縁がなかったように思う。
それは在籍して居た先輩達の奔放さも相まってか、クラスメイトだった唯一の親友が無垢な存在だったからか。
はたまた唯一在籍して居た年の近い異性が到底そう言った対象で見れる人物ではなかったからかは定かではない。
一般企業に就職してからは少なからずそう言った縁には恵まれたものの、それは己が見出した恋というものではなく、私の持つものに惹かれてやってくる気まぐれな蝶の様な女性ばかり。
当然長続きするわけでも無く、情熱を伴うような恋愛とはこうも縁遠いものなのかと一時は己に対して失望しかけた気もする。
「如月さんは来ないのですか?アナタ方いつも一緒に居るでしょう」
「えっ。あ、真那は今日も補助で一日缶詰らしいっすよ。ほら、アイツの術式って前線で使えるもんじゃないけど俺ら見たいなタイプの呪術師とは相性が良いから。この時期になるといつも俺以上に忙しいんすよね」
「そうですね。彼女の様な呪術師がいれば我々は心強い」
自ら猪野君に彼女と常に共にいる事を示唆しながらもこの時私は何処か己の胸に違和感を覚えて居た気がする。
それはまだ芽吹いたばかりの小さなもので、私にすら自覚がなく、けれどすくすくと育まれていく恋情という蕾に少なからずこの先苦労させられることになるなど、この時の私は露程にも思って居なかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
思えばそれは今から丁度一年前の出来事だったか。
繁忙期に差し掛かる頃の、曇天が広がる少し陰鬱な日だったように思う。
連日続く任務の多さに私は既に知って居た筈であっても呪術師の多忙さに溜息を溢さざるを得なかった。
祓っても祓っても際限がなく、この時期になれば寝る間すら移動中の車内が一番快適な空間となる。
一級になってからと言うもの、余程の事が無ければ初夏からはこんな日々が続くばかりで疲弊するなと言う方が無理があるだろう。
「今日の任務はこれで終わりですね」
「えっ!?あ、はい。その様です。本日はお疲れ様でした」
開口一番、この後の任務の有無を確認した私は溜息と共にネクタイを緩めた。
帰りまでの時間を考えたら少しは休める時間が有るだろうか。
確か明日は遠出の任務が何件か入っており、休めるなら少しでも休んで置くに越したことはない。
読めないまま積み重なった本が眠る自室を思い浮かべ、コーヒー片手にゆるりと休日を取れる日が果たしてやって来るのだろうかと突如不安の様なものにさえ襲われるのはこの時期にはよくある事だ。
そうでなくても出戻ってからと言うもの、何かと五条家さんに捕まっては面倒な案件ばかりを押し付けられる日々にそろそろ溜まった有給を纏めて消化してやりたいと叶いもしない願望が脳裏を占めて居る。
少しばかり纏う空気がピリついた事を気取ったのか。
補助監督が私の視線に肩を揺らす。
その視線に申し訳なさを覚えつつも帰路を頼むと運転を任せた刹那。
私の安眠を妨げるであろう着信が無常に車内に木霊し、私はその会話に耳を傾けて居た。
端々に聞こえる会話から近くの任務地に赴いた呪術師の戦況が芳しく無いのだろうか。
人命が関わり、応援要請が出されたとなれば当然向かうしか無く、休めるのはまだ先になるのだろうと左腕の時計に視線を向けながらも、私は最短で帰れる事を願うしかなかった。
「七海さん。申し訳ありません……」
「いえ。大体の事態は予想がついて居ます。速やかに現場までお願いします」
「助かります。よろしくお願いします」
エンジンの掛かったばかりの車が足早に今日最後となる筈だった現場を後にする。
向かうのは当然高専への帰路ではなく、反対方向へと向かい始めた車はおよそ数十分の道程を経ると同じ黒塗りの車と出会した。
私達の到着を首を長く待って居たであろう人物は始終帳が上がっている筈の現場と此方に視線を彷徨わせ、いっそ現状の判断を仰いでいる様にも見える。
私自身がその顔に覚えがない事から、恐らく今年配属されたばかりの新米補助監督なのだろう。
私と同行して居た補助監督に縋り付く様にして狼狽する姿を見る限り場数もそう多く踏んでいる訳ではなく、緊急時に対するマニュアルもきっと頭には入って居ても応用がまるで効かない。
呪術師にとって万一の可能性と言うのは常に付き纏うものだ。
各々それを理解した上で任務に赴き、補助監督とて危険度は下がるもののそれは同義。
それに加えて端的に言ってしまえば己が危機に瀕した時、いち早くその現状を察知し対応してくれる補助監督で無ければ私達の生存率というのは格段に下がる。
今回に限っては組んだ相手が些か悪かったと言わざるを得ない。
「帳が上がってどれくらい経ちますか?」
「えっ…あの」
「報告は速やかに」
「はいっ!!帳が上がったのは自分が連絡を入れる十分程前です。戻られる気配もないので心配で……。中には呪術師が二人、如月二級術師と須藤二級術師です……」
その名前を聞いた瞬間、己の身体から血の気が引いていくのが分かった。
数回だけであっても自分に言える事は如月さん自身の術式は明らかに戦闘に向いて居ないと言う事。
彼女自身に祓除が出来ない訳ではないが、持ち合わせるものは各個人の能力を底上げする様な術式であり、恐らく今回の任務に関しても補佐として同行している筈。
この繁忙期の時期には特に、単独の任務を任せるより少し階級が高くても補佐をさせて任務に就かせた方が効率がいい。
それ程に、彼女の術式は前線を担う者にとっては貴重であり、生命線にも近いものと言える。
無意識の内に私の脚が一歩脚を踏み出す。
一度大地を踏み締めるとそれは雪崩の様に留まることを知らず、全力で駆け出そうとした私に気がついたのだろう。
補助監督が慌て私を呼び止めたと同時に私の脚も止まりはしたものの、気持ちは逸るばかりだった。
「様子を探ってきます。十分経っても戻らなければ高専に連絡を」
「了解しました。お願いします」
自責の念に駆られる同僚を宥めながら私と共に来た補助監督が力強く頷いた。
直様駆け出した私の胸を締めるのは不安、苛立ち。
否、いっそ恐怖にも近い感情だった気がする。
彼女が学生時代からその術式の戦闘能力の低さに悩み、人知れず努力した事を知って居る。
万一の事はない筈だと己に言い聞かせて見ても、ここに来てやっとこの焦燥の正体が恋情から来るものかと自覚した瞬間。
その恐怖は嘗てクラスメイトを亡くした時のものと重なり合った。
大切なものが己の手からこぼれ落ちていく瞬間の畏れと絶望。
それはその後の己の人生を左右するほどに大きな衝撃であり、心的外傷と言っても過言ではない。
私は五条さんの様に強い人間ではない。
呪術師としても、人間としても。
強い皮を被っただけの愚かな人間であるからこそ一度はこの道から逃げたのだ。
残穢がこびりつく獣道を必死に走った。
けれど私の予想に反して車の停車した場所から程なくして見えた人影に私の脚がいっそう回転を早めていく。
彼女は周囲に長身な女性が多い中、呪術師にしては珍しく猪野君と並んでいたとしてもその小ささが際立つ程には小柄な女性だ。
そんな彼女が歯を食い縛り、細身とは言え猪野君より遥かに上背のある成人男性を担ぎながら血を流して居た。
口元からも腹部からも夥しい赤が彼女の衣服も肌も染め上げる。
その様は私を震え上がらせるには十分過ぎて、駆け寄った私を見た時の彼女の安堵した顔はきっとこの先忘れる事は出来ないだろう。
「な、なみ……さん」
「二人とも無事ですね?帳が上がっても此処は呪霊の気配が濃い。速やかに離脱します。彼は私が。アナタは一先ず私に捕まり歩けますか?」
私の本音は、今すぐにでも彼女を抱えてでも補助監督の元へ戻りたいと言う私欲に塗れたものだっただろう。
しかし、それをして仕舞えば彼女がここまで頑張ってきた苦労を台無しにしてしまう事になる。
担ぎ上げた呪術師の身体は力なく、身動ぎすらないものの脈は確かに感じ取れた。
しかし、その命はまだ確かに繋ぎ止める事が出来るだろう。
私に縋り付く様にして頷く彼女の瞳が一縷の希望を見出したかの様に輝いて見えた。
周囲の呪霊に警戒しながらも来たばかりの道を戻ると私達の影に気づいた補助監督が駆けつけ、意識のない彼を託した私は直様彼女を抱き上げる。
驚きに僅かな身動ぎをしたもののその身体は想像して居た以上に華奢で、先程まで己より遥かに大きな男を担ぎ上げて居たのは所謂火事場の馬鹿力と言う奴なのだろう。
その顔色の悪さは出血の多さを物語っているのか、私の中に焦りが滲む。
先に送り出した彼も猶予は無かったが、彼女に関してもそれは同じだと端末を使い家入さんに連絡すると「すぐに連れてこいの」一文字に幾分か救われる思いだった。
車に彼女を乗せて、隣に座り込むと恐縮した様子で如月さんは私とは反対の扉に凭れながらも大きく肩を揺らす。
その呼吸の荒さに相当な苦痛を伴っている事が見て取れ、細い肩を抱き寄せると不躾かとは思ったものの小さな事で手に己の手を重ねた。
そうでなければ今にも消えてしまいそうな恐怖すら覚えたからだ。
痛みからかその後目尻に溜まった涙を拭ってやれたらと願うものの、そこまでしてしまう事が躊躇われる関係性なのがもどかしい。
……ただ無事で良かったと。
現状にはその一言に尽きるものの、恐らく報われない己の感情と今後どう向き合っていけば良いのかとゆっくり瞼を下ろした如月さんの姿を眺めながら、僅かに緩んだ私の口元からは悩ましげな溜息ばかりが溢れて居く。
状況を芳しくないと判断した補助監督の采配で思うよりも早く高専に辿り着いた事は僥倖だった。
既に顔を青白くさせ、ぐったりとして私に凭れ掛かる身体を抱き上げると、私は極力負担をかけない様家入さんの元へと足早に向かっていった。
「傷は問題ない。ただ、痕は残るぞ」
ベッドに横たえられた身体。
仕切られたカーテンから治療を終えた家入さんが顔を出すと、告げられた言葉に私の胸が抉られる。
ひと足先に辿り着いた呪術師より、彼女の方が余程重症だったのは火を見るよりも明らかであり、こんな小さな身体で良くそこまで頑張ったものだと家入さんさえも感嘆の声を漏らす。
ほんの僅か、隙間から覗く彼女の腕は動く気配を見せず、投与された薬が効いているのか。
耳を澄ますと規則的な呼吸音が微かに聞こえて、やっと安堵に胸を撫で下ろせた気がする。
けれど腹部を大きく抉られた傷跡は今となってはその姿を潜めたものの、彼女の身体には生涯消えることのない大きな痕をその身に刻まれてしまったことになる。
幾ら呪術師と言っても彼女はうら若き二十代の女性だ。
今後この傷が悔いにならなければ良いと願いながらも私は歯を食いしばるしかない。
コーヒー片手に私の元へやって来た家入さんがその一つを私に差し出すとソファに視線を向ける。
思えば高専に戻って以来、先輩だった彼女とゆっくり話す機会も減って居たと私が腰を下ろすと、向いに腰掛けた家入さんがゆるりとした手つきでカップを手に取った。
「幸い臓器には異常は見られない。じきに目も覚ますだろう。起きるまで付き添うか?」
「ええ、彼女が目を覚ますまでは側に居ようかと」
「……随分絆されてるな。如月と七海はあまり接点はなかった様に思うが」
「揶揄わないで下さい。猪野君も如月さんも私が出戻って以来何かと気に掛けてくれた子達ですから。二人とも、可愛い後輩です」
目が覚めた時、彼女ならばきっと真っ先に同行した呪術師の安否を気遣うだろう。
自身の傷跡に関しては例え気に病んだとしても表面上は笑って誤魔化すに違いない。
その際に猪野君に連絡を取るならば家入さんより自分の方が適任だとも思うし、何より今は無事に目が覚める姿まで確認しなければどうにも落ち着けそうもなかった。
意図せず視線が仕切られたカーテンに向かう。
私のそんな様子に家入さんは肩を竦めると誰に告げる訳でもない様な独り言にも似た言葉をこぼして居た。
「どちらかと言えば如月に関しては可愛い後輩の域を超えている様にも見えるけどな」
「……わからないんですよ。高専時代は恋愛には無縁でしたから。幸い、一般社会に出てからは少なからず縁はあった。けれどそれは今抱いている感情とは大凡掛け離れたもので、この感情に明確な名前が付かない。抑、私と彼女では歳が離れ過ぎている。
世間から見て二十歳を過ぎたばかりの女性からすれば、私は立派なおじさんです」
「七海の口からそんな言葉が出るとはな。そっち方面は随分消極的なんだな」
同じ呪術師と言う職業にに就きながらも年齢、立場、育って来た環境やこれまでの経緯と私達の相違点を挙げ連ねたらきりが無い。
いっそ猪野君が羨ましいとさえ思えてしまうこの感情は最早恋としか言いようがないのに、どうにもそう言った事柄に置いて私は酷く臆病らしい。
彼女の術式を考えれば今後任務で組む可能性は大いにある。
さして親しくも無い年上の男からの恋情は困惑させるだけであり、いっそ迷惑になるのでは無いかと考えるのも無理はないだろう。
呪術界は狭い世界だ。
一方的な想いが歯止めを失った場合、双方の今後すらも左右しかねないとまで考えてしまうのは、ただ単に予防線という保険が欲しいに過ぎないのかも知れないが。
噂が噂を呼んで彼女の立場まで危ぶまれる様な事態は避けたい。
それに加えて私達には常に命の危険が伴う。
たった一人の大切な人を作る事を躊躇う人間は少なくないし、喪失の痛みを抱えながら他人を助けると言うことに挫けてしまう人間もまた然り。
故にこれ迄は恋愛に真摯に向き合う事が出来なかったのだろう。
一般社会に逃げても尚、私の呪霊の見える世界は変わる事が無く、疲弊した日常で色恋に現を抜かせる状況ではなかった事もある。
それだと言うのに彼女に関してはどこまでも己の心が制御できない。
項垂れた私の姿に家入さんが肩を竦める。
未だ手付かずのコーヒーにやっと手を伸ばす気になると、その時を待ち兼ねたかの様に口を開き、私はただ目を瞬かせるばかりだった。
「……憧れ、らしいぞ」
「は?」
「七海に認められる呪術師になりたい。それがこの子や猪野の頑張る理由だそうだ。如月に関しては術式そのものが戦闘向きじゃないからな。一時期は結構な無茶をして居たよ。傷も今に始まった事じゃない。その度に治してやってた私が言うんだから間違いないよ。多分今回も笑って流す筈だ。
それに、この子ならきっと目の前で仲間に死なれるくらいなら傷の一つくらい背負うと言い切る気概は持ってるさ。問題はその後、オマエが丸ごと受け止めてやれるかだろうな」
「……残念ながら、その選択権は私には有りませんよ」
「それはどうだろうな」
意味ありげに口角を上げた家入さんの真意は私の知るところでは無い。
眉間の皺が幾分か深くなった気がする。
こんな事になるのならばいっそ彼女を抱えてでもこの場から離れた方が良かったのでは無いかとあるまじき考えすら頭を下げて擡げた。
しかし、悩ましげな私の態度を見ながらも家入さんは揶揄い半分喜び半分と言った様子で、何処か憎めないその態度に怒る気力すら湧いてはこなかった。
「今日はやけに突っかかりますね。彼女から何か聞いているのかも知れないですが、あまり期待を持たせないで下さい。恋愛に関して私は初心者も同然なんですよ」
「その想いが恋だと自覚できただけ今日の収穫なんじゃないか?なに、事と次第によるが五条には黙っててやるさ」
クイと盃を煽る仕草を見せた瞬間、先程のほんの僅かな感謝の念は彼方へ吹き飛んだ様に思う。
良くも悪くもこの人は嘗て最強と言われた二人のクラスメイトだ。
五条さんの傍若無人ぶりに頭を悩ませているのは常だが、あの二人と渡り合って来たのだからこの人とて一癖も二癖もあると言う事をどうやら失念して居たらしい。
それはそれは深い溜息と共に温くなったコーヒーを飲み干す。
けれど後まで尾を引くかと思われた苦味は存外感じられず、いっそ胸の辺りは僅かながらにすっきりとした様な気もして居た。
「……次の出張任務先で良い地酒を探しておきます」
「楽しみにしてるよ。なぁ、七海。確かに呪術師にとって色恋は時に弊害しか及ぼさない。でも、私は悪いことばかりでも無いと思うよ」
「そうですね。ですが私の場合、相手が相手ですので」
「全ては眠り姫のみぞ知る、と言った所か」
カーテンの向こうから小さな声が響き、家入さんが様子を伺う為に席を立つ。
小声で繰り返される会話から恐らく如月さんは目を覚ましたのだろう。
私は携帯を取り出すと猪野君と連絡を取る為にメッセージアプリを開いた。
端的に状況を説明し、こちらを一瞥した家入さんに向けて無言のままに頭を下げる。
ひらひらと蝶の様に彼女の手が舞った。
その後には、まるで頑張れとでも言う様にその親指だけが立てられ、私は肩を竦めながら部屋を後にした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
あの日から一年。
私が恋を自覚してから既に四季が巡り、再びやって来た繁忙期に溜息をつかない日はない。
如月さんとの距離感は相変わらずだ。
お互い顔を合わせれば挨拶をする程度、その中に猪野君が居れば少しばかり深い話が出来るかどうかと言った所だろうか。
ここ一年を通して、彼女には少しばかり変化が見られた様に思う。
殆ど化粧などしなかった筈なのに少しばかりメイクを施す様になった。
酷い時には寝癖がピョンと跳ねて居た髪は綺麗に手入れされ、緩く弧を描く毛先が動くたびに軽快に揺れる。
元々、可愛らしい顔立ちはして居た。
年齢の割には少し幼くも思えたがそれが今となっては女性と少女の狭間の様な独特の雰囲気を醸し出し、異性の補助監督から度々名前を聞く機会も増えた様に思う。
焦燥がない訳では無い。
寧ろ「結婚したい」「子供が産みたい」などと呟いている時があると聞いた時にはまるで父親の如く相手は誰だと詰め寄りそうになった事すらあるし、その日は帰宅して酒に溺れ、数回壁に頭を打ちつけた気がする。
一度視界に映り込めば声を掛けたいと思うし、猪野君に向ける様な笑顔を見せてくれないものかと願っている自分が居る。
最近では特に猪野君と仲が良いらしく、私が猪野君と親しくしているからか。
話題の一つとして補助監督から二人が一緒にいる話を聞くたびに己の心が靴の底の様にすり減っていくのを感じて居た。
何より一番堪えるのは猪野君本人から彼女の話をされる事だ。
彼に悪意は無いし、良かれと思ってしている事は理解できても嫉妬の念がどうしても滲んでしまう。
表面上は平静を装ってられる事が唯一の救いではあるものの、胸の内は決して穏やかなものとは言い難い。
だらかと言って今更己をアピールなど出来るはずもなく、恋の駆け引きとはこうも難しいものかと頭を悩ませる日々が続いて居た。
そしてその日は、確か徹夜明けの任務の後だった様に思う。
朝一で報告書を提出したら速やかに帰宅して惰眠を貪ろうと、そう硬く胸に誓った夏の兆しが一層色濃くなった日の出来事だった。
少しの間の眠気覚ましにコーヒーでも買おうかと自販機に向かって歩いている途中だった気がする。
己の住処がある訳で話は無い職員寮の廊下を歩いている最中、自分の耳を打つ焦がれた音色に寝不足の私は脚を止めてその様子を伺って居た。
その距離から会話の内容を聞き取るまでには至らない。
けれど彼女は、早朝に少し眠気の残る瞼を瞬かせながら今確かに猪野君の部屋から出て来た。
後に続いた猪野君も同様に眠そうな姿をして居り、これまで散々聞き及んでいた噂が確信に変わった気がする。
それと同時に打ち砕かれた恋心が行き場を失い、胸にぽっかりと穴が空いた様な感覚さえ齎す。
頬を染め、猪野君に向けてこそこそと耳打ちするあどけない姿とその後に見せた恋する乙女の様な表情に私の視線が釘付けとなる。
それはまるで恋人との一夜を過ごし、その余韻に浸る様と言っても過言ではなく、どうやら私はまた酒に溺れなくては眠れそうに無い。
ズキズキと胸を苛む痛みはこれまでに感じた事の無い程のもので、二人に気取られる前にその場を離れる事がこの時の私には精一杯だった様に思う。
「……クソ」
どうやって辿り着いたかも定かでは無いのに、自販機に拳を叩きつけながら私は項垂れる。
その悪態は果たして誰に向けたものだったのか。
自分に想いを向けてくれない如月さんが悪いわけでは無い。
私が人知れず想う人と恋仲の猪野君が悪い訳では無い。
そうなれば必然的にこの呟きは二の足を踏んで何もしなかった己に向けたものでしかなく、叩きつけた拍子にボタンを押してしまったのか。
受け取れとばかりに取り出し口に顔を出したのは私が到底飲まない様な甘ったるいジュースだった。
帰路に至る道程すらあやふやだった気がする。
自宅の扉を開けると上着だけを脱ぎ捨て、ベッドに傾れ込んだ。
何もやる気にならず、食欲さえも湧く気がしない。
今日は何もせず眠ってしまおう。
もし仮に、二人がそう言う仲だと言うのなら、私は無理矢理笑みを貼り付けてでも祝福の言葉を述べてやらなければならないのだから。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
恋というのは時に恐ろしい程に思考力を低下させるものだと気がついたのはいつだっただろうか。
朝起きて、朝食を摂り、歯を磨き身支度を整える。
当たり前の朝を迎え、当たり前のルーティンをこなす中で想い人が今自分と同じような行動をしているのかと不意に考えてしまう現状は最早末期と言っても良いのかも知れない。
仕事に私情を挟むなどあるまじき行為だと思って居た私の脳裏はここ数日彼女の事で独占されている。
ふとカレンダーを眺めれば、祝う程の事でも無くなってしまった自身の誕生日まで後一週間程。
仮に義理であっても彼女がたった一言、おめでとうと告げてくれたのなら。
どれだけ喜ぶかは想像に容易いと言うのに、そんな事などあるはずが無いだろうと冷静な思考がその浮かれた想いを踏み潰していった。
高専に向かえばすかさず猪野君が私を見つけ、今日の予定を訪ねてくる。
二人で食事など既に数えきれない程して来たと言うのに未だ如月さんとは同席出来たことはなく、存外この子は自分の恋人になる女性には束縛が激しいのかと、そんな考えすら頭を擡げた。
多様な話題を振ってくれる彼に対して申し訳ないと思うものの、ありもしない空想を描いてしまったからか。
どうしても上の空になってしまった私は廊下の角に人の気配がある事すらも気付かぬまま、脚を進めてしまい身体に受けた衝撃と床に転がった小さな姿に思わず目を見開いた。
顔を顰めながら謝罪の言葉を口にするのはずっと脳裏に思い浮かべて居た人の姿で、私が手を差し出したのは本能的なものに近かったかも知れない。
庇護欲に駆られ、怪我のない事を確認したい気持ちを抑えつつ手を貸すとまるで私の胸中を読み取ったかの様に猪野君が彼女に声を掛ける。
「真那か?どうしたんだよ、そんな慌てて」
「……あ。琢真もいたんだ。ちょっとね。あのさ、後ろから誰もついてきてないよね?」
少し怯えた様な、それで居て疲弊した様な姿に私は威嚇する様に周囲の気配を探る。
しかし、人の気配は見当たらずそれを猪野君が告げると胸を撫で下ろした様に安堵の息を漏らして居た。
何か杞憂があるのだろうか。
手助けは出来ないのだろうか。
若い女性のプライベートに踏み込む事は如何なものかと考えもするが、憂いがあるのならば取り除いてやりたいと思うのにその手段が見つからない。
力なく笑みを浮かべる様子に、いっそ猪野君をこの場で嗜めるべきかとさえ考え始めていると二人の会話が耳を掠め、その中の琢真に彼女が出来たらのフレーズに思わず視線を二人に向けて居た。
今の言葉は己の聞き間違いか。
否、確かに如月さんは彼女が出来た時に誤解を招くと言って居た筈だ。
異性の友情が成立するかどうかと言うのは世間でも度々取り沙汰される問題ではあるものの詰まる所、この二人も同様なのでは無いかと言う可能性が一縷の光の様に私の中に差し込んでいく気がした。
改まった私の咳払いに二人の視線が一斉に此方に向く。
確かめるならば今しか無いとそう己に言い聞かせた私はこの時、手に汗握る様な思いだったに違いない。
「つかぬ事を聞きますが……二人は恋仲という訳ではないのですか?」
「はい?」
「七海サン?」
「ですから、如月さんと猪野君は恋人同士ではないのですか?」
意を決して口にした私の言葉に二人は顔を見合わせて目を瞬かせる。
恐らく二人には互いの距離の近さが他者から見た場合に誤解を生むなど、考えすら及んで居なかったのだろう。
時折言葉にされたとしてもその場限りの茶化しとでも捉え、流して来たツケは最早高専公認のカップルの代名詞となりつつあり私がこれまでに補助監督達から聞き及んできた話を説明すると真っ先にそれを否定したのは如月さんの方だった。
違う、誤解、ちゃんと話を。
如月さんの口からはそんなフレーズが羅列され、慌てふためく様はまるで浮気の現場を発見された有責者のそれを思わせる。
それがほんの少し、二人が恋人同士ではないと知ったばかりの私に期待を持たせた様な気がする。
「七海サン、そりゃないっすよ。真那は気の合うダチで、家族みたいなもんっすから。大体、暇さえあれば俺ん所でオールでゲームやって腹出して寝こける様な奴なんですよ?
それに俺も真那も昔っから七海さん一筋です。真那なんてガチ恋って言っても過言じゃ……」
「琢真ぁあぁぁ!!!!」
そして次に猪野君が放った言葉に期待が確信に変わったのと同時に、如月さん本人の口からで無くとも自分一筋だと告げられた事実に身体中の血液が急速に体内を巡る感覚がした。
耳や首元まで肌を染め上げ、項垂れる姿に最早その好意は確信を持っても良いのだろう。
まるで彼女の熱が私にも飛び火したかの様だった。
やけに顔が火照り、汗が吹き出すのは喜びからなのか驚きからなのかすら判然とせず、口元を抑えて喜びを噛み締める様子に猪野君が狼狽え始めて居た。
家入さんはこの事を知ってあの時私に発破を掛けたのだろうか。
そうだとするならば一升瓶一本の土産では済みそうにない。
兎にも角にも、私自身がちゃんと言葉にしなければ膠着状態と言って良い現状から話は進展しない。
この想いをどう表現すれば良いのだろうかと辞書を引くかの如く私の頭が適切な言葉を探して考えを巡らせる。
やはり此処は片膝を付き愛の言葉を囁くべきかとやっと己の見解に納得が行き、改めて彼女の名前を呼んだ時。
まるで激しい叱咤を受ける子供の様に彼女の肩が大きく跳ねる。
次の瞬間、私が耳にしたのは断末魔の様な謝罪の言葉で、目にしたものは転がる様に逃げていく背中だけだった。
猪野君でさえもその唐突な行動に驚きを隠せない様子で、大声で彼女を呼び止めるもののその声にすら反応はしない。
これから想いを伝え、晴れて両想いとなる筈だったと言うのに、私は何故逃げられたのだろうか。
彼女に向けて伸ばしかけた手が行方を失い彷徨った。
徐々に小さくなっていく背中は既に私の翳した手の中に収まり切るほどの小さなものになり、私は無意識のうちにネクタイを緩めると片脚を一歩後ろに引きながら床を踏み締めた。
「……あの、七海サン?」
「如月さんを捕まえて来ます。アナタは此処で待機を」
それだけを言い残し、今度は私に向けて叫ぶ猪野君の声が聞こえた気がした。
例えるならばこの時の私は獲物を狙う狩人と様だっただろう。
私の視界から外れた瞬間に何処かの教室に投げ込んで仕舞えば或いは巻く事も可能だったかもしれないと言うのに、ただただ廊下を爆走する彼女の姿を捉えると私の脚がさらに回転を早めていった。
日本人男性の平均より遥かに大きい私と日本人女性の平均並みの彼女。
その歩幅の差は明らかであり、あっという間に追いついた如月さんの腕を取ると私は即座に逃げられない様に彼女を壁に追いやった。
それでも尚、如月さんの顔は右へ左へと視線を彷徨わせ、逃げ道を探す様な素振りは往生際が悪いと言うしないだろう。
普段ならば此処で逃してやれた筈だ。
寧ろ追いかけたかさえも怪しい。
しかし、己の願望が今にも叶いそうなこの状況でそんな選択肢を取れるはずもなく、言質を取るかの様に先ほどの言葉を反芻するとしどろもどろになりながら言葉を探して小さく呻く声が聞こえた。
「……今一度アナタに問います。アナタが想いを寄せているのは誰ですか?」
「……い、言えません」
「でしたら、その気になるまでこのままで」
「ひっ。な、なな……七海さん!?」
まるで愛おしい恋人に向けてするかの如く私の手が彼女の頬を撫でた。
額を合わせると吐息すら私の肌を撫でて、色づき微かに震える唇を塞いでやりたい衝動にすら駆られる。
私から先にこの想いを告げて仕舞えば事はもっと簡単だったのかも知れない。
しかし、どうしても彼女の口から誰が好きなのかと言う事を初めに聞きたいと願った私は存外子供なのだろう。
一向に言葉を紡がない彼女に痺れを切らし、ほんの少し脅す様な真似をすると彼女の可憐な唇がやっと小さな声でその答えを紡ぎ出す。
正に天にも昇る心地だった。
今朝の憂鬱な気持ちなど最早彼方へと消え去り、充足感が胸を満たした。
このまま口付けてしまっても良いだろうかと顎を掬い、吸い寄せられる様に距離を詰めるとふるふると震えた名前さんの表情が私の理性を呼び戻し、頬に留めた事は後に思い返しても賞賛に値するだろう。
私は確信が持てなければ行動に移すことすら出来なくなった臆病で狡い大人だ。
それなのにこの想いを諦めることすら叶わず拗らせ過ぎた感情が今にも暴発し掛けている。
抱き寄せる位ならば許してくれるだろうと如月さんの後頭部を引き寄せると愛らしい旋毛が視界に入ると同時に女性らしく甘い香りが鼻を擽った。
けれど時に信じ難い現実とはすんなり受け入れるには時間を要するらしい。
私とて如月さんを抱きしめていると言う事実が俄には信じ緊く何度もこれは夢ではないと己に言い聞かせて居るのだ。
彼女が疑うのも無理はない。
……アナタの恋人になりたい。
たった一言、そう告げるだけの事に随分苦労したかの様に思う。
やっと告げられた想いは言葉にした瞬間さらに大きなものへと変わり、けれどそれに対して如月さんの表情は喜びというより困惑に近いものだった様に思う。
うんもすんも無いと言うのはこうも居心地が悪くいっそ恐怖さえ抱かせるのもなのか。
私は如月さんを思って居て、彼女また私に好意を寄せてくれている。
特別な事情でも無い限りその関係は恋人と呼べるものに変わっても差し支えがない筈なのに口籠る様子は僅かな後ろめたささえ感じさせるものだった。
答えを急かす様に私の口がカウントを取り始める。
気が短いと脅すような真似をしてみたものの、どうやら私は自分でも思う以上に彼女に関しては余裕が無いらしい。
更に詰め寄れば口を割るしか無いだろうか。
まるで尋問をしている気分にすら思えた。
しかし、今更引ける訳もなく彼女の口から真意を聞くまでは到底納得など出来はしない。
「……私、残念な女ですよ?妄想拗らせすぎてるし、七海さんとデート気分味わいたくて琢真とどんなデートがしたいかなんて話で盛り上がったプランを実行して浮かれてるような痛い奴です。
こっそり七海さんに誕生日プレゼント贈りたいからって琢真に探りを入れてもらったり、いつもご飯一緒に行ってる琢真がむかつくからちょっと目潰ししてやろうかとも考えた事あります」
「興味深い。それで、そのデートプランとは?」
「待ち合わせデートだったり、デパートで香水選んだり、映画行ったり……などなど。あ、私としては朝チュンで七海さんの寝顔を堪能してみたいです」
「……は?」
「あ゛……」
その内容こそ、初めは可愛らしいものだった様に思う。
猪野君と絶えず話して居た話題も己の事なのだと知れば符号がいくのと同時に、もっと早く直接聞いてくれたら良かったものをと臆病な己を棚にさえあげて居た。
しかし言葉を重ねるごとにその内容は大胆なものへと変わり、朝チュンとやらは良くわからなかったものの寝顔を見たいと言われ期待しない男の方が珍しいだろう。
その浅慮な所さえも可愛らしくて堪らなかった。
いっそこのまま自宅に拉致されても仕方ないと思える程の愛らしさは兼ね備えており、けれど本人にその自覚はないのだろう。
何よりも成人はしたと言っても相手はまだほんの数年前まで無垢な少女だったのだ。
私とて女性を口説く手数が多い訳ではないが相手を知る意味でもゆっくりと距離を詰める必要がある。
手始めに今晩の予定を押さえ、今後の休みは逐一報告するように念を押す。
今後彼女に近づく不埒な輩が居れば速やかに排除する必要があるし、その為ならば多少煩わしくなったとしても五条さんや家入さんに助力を乞うことさえ厭わない。
それにしても誕生日を祝ってくれるつもりだったのかと先日見かけたショッキングな光景さえもその訳を知れば愛おしさに変わる辺り、存外私は単純らしい。
幸い金銭にまつわるもので不自由した覚えは無く、特に欲しいものはないが唯一あるとすれば彼女そのものと言った所だろう。
しかし、その事を伝えてみるとあからさまに狼狽えた如月さんが行き場もないのに後ずさる仕草を見せ始め、やはり時間を掛けて籠絡していくしない。
それに関しても今後は傾向と対策を練るべきか。
否、先ずは彼女にとって一番信頼の置ける人物に相談と牽制をしておくべきだと恥ずかしげも無く嫉妬を滲ませると今度は気恥ずかしそうにしながらも直様色良い返事が帰ってくる。
そうと決まれば善は急げだ。
猪野君には速やか事の委細を報告し、今後は逐一彼女の状況を報告してもらうに越した事はない。
繋いだ手を引きながら、さして離れて居ない猪野君の元へと向かう道程はまるで子供の様に浮かれたものだった気がする。
それを彼女も感じ取っているのか、幾度も私の方に向けられる視線は少しくすぐったく、こんな情けない私はきっと彼女の憧れ と言うには不釣り合いだろう。
私達が戻ると忠犬の如くその場で立ち尽くす猪野君が私達に視線を向ける。
繋がれた手を凝視し、双方の顔に視線を向けると彼女の積年の想いを知って居たからか。
その瞳には涙さえ滲んでいるように思えた。
「……真那、良かったな!」
「琢真!!私今いつ死んでも良い!!」
「不穏な事を言うのは辞めてください。それと、すぐに抱きつこうとしない。アナタの抱きつく場所は今後此処以外は認めません」
感動を分かち合うように無邪気に腕を広げた猪野君に今にも抱きつこうとする如月さんの首根っこを咄嗟に掴んだのは嫉妬以外の何者でもない。
胸板にぶつかった顔は私が押さえつけたからか暫く動く気配を見せなかった。
しかし微かに首を振る仕草を見せると顔を上げた彼女は子猫のように愛くるしい顔をしており私の目元も口元も自然と綻んでいく。
私はきっとアナタの憧れ にはなれはしない。
しかし、出来る事ならばアナタの憂いを祓う騎士ではありたいと願う。
さすればアナタは、私の唯一の女性となるのだから。
私の挨拶に対して二人の学生が姿勢を正し、深々と一礼した。
彼女達と初めて出会ったのは、私がまだ呪術師として出戻ったばかりの頃で、クラスメイトの猪野君と共に向けられる無垢な視線が酷く眩しかったように思う。
昔こそ五年制だった高専は現在は四年制となって居り、けれどその内容は然程変わりがないのかカリキュラムの三年目は比較的座学より実技が多くなる。
私が在籍して居た頃よりも自由度も高まり、明確な展望を抱いて入学する人間もいればスカウトされるがまま、若しくは任務の背後にチラつく報酬を目当てにする人間も居るらしい。
それ自体は悪いことではないだろう。
人間どうしても生きることには金が掛かる。
より己の生活を潤沢なものにするにあたって仕事上のリスクはある意味避けては通れない。
それは一般社会に於いても同じ事が言えるし、嘗ては私も己の時間と精神を引き換えにその世界に身を投じて居た。
ただほんの少し、溌剌とした笑顔を見る度にそれを愛らしいと思う反面、羨んでいた己が居た事を自覚せざるを得なかった。
己の高専の三年目を言えばたった一人のクラスメイトを亡くし、尊敬して居た先輩の離反を体験したばかりで私の生活も、周囲の雰囲気も荒んだものと言っても過言では無かったからだ。
けれどまるで尻尾を振る子犬のように私の元へ駆け寄ってくれる姿は存外気分の悪いものではなく、彼らの青春が少しでも明るく眩いものであってくれるようにと人知れず願ってやまなかった。
「七海サン!今日は宜しくお願いします」
「此方こそ宜しくお願いします。出来る事なら定時で上がりましょう」
「はいっ!!じゃあその後飯なんてどうですか?この前良い店見つけたんですよ」
「ええ、ではその様に」
そんな出会いから数経っても彼らの態度は変わる事なく、卒業を期に猪野君に関しては共に任務に出かけた際には食事も共にする程になった。
相変わらず猪野君と如月さんは卒業後も仲が良く、その殆どを一緒に過ごして居る姿をよく目にする。
恋仲なのでは無いかと実しやかに補助監督の間では囁かれており、それが本当だと言うのならば呪術師と言う苦境の中に身を置きながらも自身の思いに素直な彼らには感心せざるを得ない。
私自身、青い春と呼ぶべき輝いた時期に色恋とは余り縁がなかったように思う。
それは在籍して居た先輩達の奔放さも相まってか、クラスメイトだった唯一の親友が無垢な存在だったからか。
はたまた唯一在籍して居た年の近い異性が到底そう言った対象で見れる人物ではなかったからかは定かではない。
一般企業に就職してからは少なからずそう言った縁には恵まれたものの、それは己が見出した恋というものではなく、私の持つものに惹かれてやってくる気まぐれな蝶の様な女性ばかり。
当然長続きするわけでも無く、情熱を伴うような恋愛とはこうも縁遠いものなのかと一時は己に対して失望しかけた気もする。
「如月さんは来ないのですか?アナタ方いつも一緒に居るでしょう」
「えっ。あ、真那は今日も補助で一日缶詰らしいっすよ。ほら、アイツの術式って前線で使えるもんじゃないけど俺ら見たいなタイプの呪術師とは相性が良いから。この時期になるといつも俺以上に忙しいんすよね」
「そうですね。彼女の様な呪術師がいれば我々は心強い」
自ら猪野君に彼女と常に共にいる事を示唆しながらもこの時私は何処か己の胸に違和感を覚えて居た気がする。
それはまだ芽吹いたばかりの小さなもので、私にすら自覚がなく、けれどすくすくと育まれていく恋情という蕾に少なからずこの先苦労させられることになるなど、この時の私は露程にも思って居なかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
思えばそれは今から丁度一年前の出来事だったか。
繁忙期に差し掛かる頃の、曇天が広がる少し陰鬱な日だったように思う。
連日続く任務の多さに私は既に知って居た筈であっても呪術師の多忙さに溜息を溢さざるを得なかった。
祓っても祓っても際限がなく、この時期になれば寝る間すら移動中の車内が一番快適な空間となる。
一級になってからと言うもの、余程の事が無ければ初夏からはこんな日々が続くばかりで疲弊するなと言う方が無理があるだろう。
「今日の任務はこれで終わりですね」
「えっ!?あ、はい。その様です。本日はお疲れ様でした」
開口一番、この後の任務の有無を確認した私は溜息と共にネクタイを緩めた。
帰りまでの時間を考えたら少しは休める時間が有るだろうか。
確か明日は遠出の任務が何件か入っており、休めるなら少しでも休んで置くに越したことはない。
読めないまま積み重なった本が眠る自室を思い浮かべ、コーヒー片手にゆるりと休日を取れる日が果たしてやって来るのだろうかと突如不安の様なものにさえ襲われるのはこの時期にはよくある事だ。
そうでなくても出戻ってからと言うもの、何かと五条家さんに捕まっては面倒な案件ばかりを押し付けられる日々にそろそろ溜まった有給を纏めて消化してやりたいと叶いもしない願望が脳裏を占めて居る。
少しばかり纏う空気がピリついた事を気取ったのか。
補助監督が私の視線に肩を揺らす。
その視線に申し訳なさを覚えつつも帰路を頼むと運転を任せた刹那。
私の安眠を妨げるであろう着信が無常に車内に木霊し、私はその会話に耳を傾けて居た。
端々に聞こえる会話から近くの任務地に赴いた呪術師の戦況が芳しく無いのだろうか。
人命が関わり、応援要請が出されたとなれば当然向かうしか無く、休めるのはまだ先になるのだろうと左腕の時計に視線を向けながらも、私は最短で帰れる事を願うしかなかった。
「七海さん。申し訳ありません……」
「いえ。大体の事態は予想がついて居ます。速やかに現場までお願いします」
「助かります。よろしくお願いします」
エンジンの掛かったばかりの車が足早に今日最後となる筈だった現場を後にする。
向かうのは当然高専への帰路ではなく、反対方向へと向かい始めた車はおよそ数十分の道程を経ると同じ黒塗りの車と出会した。
私達の到着を首を長く待って居たであろう人物は始終帳が上がっている筈の現場と此方に視線を彷徨わせ、いっそ現状の判断を仰いでいる様にも見える。
私自身がその顔に覚えがない事から、恐らく今年配属されたばかりの新米補助監督なのだろう。
私と同行して居た補助監督に縋り付く様にして狼狽する姿を見る限り場数もそう多く踏んでいる訳ではなく、緊急時に対するマニュアルもきっと頭には入って居ても応用がまるで効かない。
呪術師にとって万一の可能性と言うのは常に付き纏うものだ。
各々それを理解した上で任務に赴き、補助監督とて危険度は下がるもののそれは同義。
それに加えて端的に言ってしまえば己が危機に瀕した時、いち早くその現状を察知し対応してくれる補助監督で無ければ私達の生存率というのは格段に下がる。
今回に限っては組んだ相手が些か悪かったと言わざるを得ない。
「帳が上がってどれくらい経ちますか?」
「えっ…あの」
「報告は速やかに」
「はいっ!!帳が上がったのは自分が連絡を入れる十分程前です。戻られる気配もないので心配で……。中には呪術師が二人、如月二級術師と須藤二級術師です……」
その名前を聞いた瞬間、己の身体から血の気が引いていくのが分かった。
数回だけであっても自分に言える事は如月さん自身の術式は明らかに戦闘に向いて居ないと言う事。
彼女自身に祓除が出来ない訳ではないが、持ち合わせるものは各個人の能力を底上げする様な術式であり、恐らく今回の任務に関しても補佐として同行している筈。
この繁忙期の時期には特に、単独の任務を任せるより少し階級が高くても補佐をさせて任務に就かせた方が効率がいい。
それ程に、彼女の術式は前線を担う者にとっては貴重であり、生命線にも近いものと言える。
無意識の内に私の脚が一歩脚を踏み出す。
一度大地を踏み締めるとそれは雪崩の様に留まることを知らず、全力で駆け出そうとした私に気がついたのだろう。
補助監督が慌て私を呼び止めたと同時に私の脚も止まりはしたものの、気持ちは逸るばかりだった。
「様子を探ってきます。十分経っても戻らなければ高専に連絡を」
「了解しました。お願いします」
自責の念に駆られる同僚を宥めながら私と共に来た補助監督が力強く頷いた。
直様駆け出した私の胸を締めるのは不安、苛立ち。
否、いっそ恐怖にも近い感情だった気がする。
彼女が学生時代からその術式の戦闘能力の低さに悩み、人知れず努力した事を知って居る。
万一の事はない筈だと己に言い聞かせて見ても、ここに来てやっとこの焦燥の正体が恋情から来るものかと自覚した瞬間。
その恐怖は嘗てクラスメイトを亡くした時のものと重なり合った。
大切なものが己の手からこぼれ落ちていく瞬間の畏れと絶望。
それはその後の己の人生を左右するほどに大きな衝撃であり、心的外傷と言っても過言ではない。
私は五条さんの様に強い人間ではない。
呪術師としても、人間としても。
強い皮を被っただけの愚かな人間であるからこそ一度はこの道から逃げたのだ。
残穢がこびりつく獣道を必死に走った。
けれど私の予想に反して車の停車した場所から程なくして見えた人影に私の脚がいっそう回転を早めていく。
彼女は周囲に長身な女性が多い中、呪術師にしては珍しく猪野君と並んでいたとしてもその小ささが際立つ程には小柄な女性だ。
そんな彼女が歯を食い縛り、細身とは言え猪野君より遥かに上背のある成人男性を担ぎながら血を流して居た。
口元からも腹部からも夥しい赤が彼女の衣服も肌も染め上げる。
その様は私を震え上がらせるには十分過ぎて、駆け寄った私を見た時の彼女の安堵した顔はきっとこの先忘れる事は出来ないだろう。
「な、なみ……さん」
「二人とも無事ですね?帳が上がっても此処は呪霊の気配が濃い。速やかに離脱します。彼は私が。アナタは一先ず私に捕まり歩けますか?」
私の本音は、今すぐにでも彼女を抱えてでも補助監督の元へ戻りたいと言う私欲に塗れたものだっただろう。
しかし、それをして仕舞えば彼女がここまで頑張ってきた苦労を台無しにしてしまう事になる。
担ぎ上げた呪術師の身体は力なく、身動ぎすらないものの脈は確かに感じ取れた。
しかし、その命はまだ確かに繋ぎ止める事が出来るだろう。
私に縋り付く様にして頷く彼女の瞳が一縷の希望を見出したかの様に輝いて見えた。
周囲の呪霊に警戒しながらも来たばかりの道を戻ると私達の影に気づいた補助監督が駆けつけ、意識のない彼を託した私は直様彼女を抱き上げる。
驚きに僅かな身動ぎをしたもののその身体は想像して居た以上に華奢で、先程まで己より遥かに大きな男を担ぎ上げて居たのは所謂火事場の馬鹿力と言う奴なのだろう。
その顔色の悪さは出血の多さを物語っているのか、私の中に焦りが滲む。
先に送り出した彼も猶予は無かったが、彼女に関してもそれは同じだと端末を使い家入さんに連絡すると「すぐに連れてこいの」一文字に幾分か救われる思いだった。
車に彼女を乗せて、隣に座り込むと恐縮した様子で如月さんは私とは反対の扉に凭れながらも大きく肩を揺らす。
その呼吸の荒さに相当な苦痛を伴っている事が見て取れ、細い肩を抱き寄せると不躾かとは思ったものの小さな事で手に己の手を重ねた。
そうでなければ今にも消えてしまいそうな恐怖すら覚えたからだ。
痛みからかその後目尻に溜まった涙を拭ってやれたらと願うものの、そこまでしてしまう事が躊躇われる関係性なのがもどかしい。
……ただ無事で良かったと。
現状にはその一言に尽きるものの、恐らく報われない己の感情と今後どう向き合っていけば良いのかとゆっくり瞼を下ろした如月さんの姿を眺めながら、僅かに緩んだ私の口元からは悩ましげな溜息ばかりが溢れて居く。
状況を芳しくないと判断した補助監督の采配で思うよりも早く高専に辿り着いた事は僥倖だった。
既に顔を青白くさせ、ぐったりとして私に凭れ掛かる身体を抱き上げると、私は極力負担をかけない様家入さんの元へと足早に向かっていった。
「傷は問題ない。ただ、痕は残るぞ」
ベッドに横たえられた身体。
仕切られたカーテンから治療を終えた家入さんが顔を出すと、告げられた言葉に私の胸が抉られる。
ひと足先に辿り着いた呪術師より、彼女の方が余程重症だったのは火を見るよりも明らかであり、こんな小さな身体で良くそこまで頑張ったものだと家入さんさえも感嘆の声を漏らす。
ほんの僅か、隙間から覗く彼女の腕は動く気配を見せず、投与された薬が効いているのか。
耳を澄ますと規則的な呼吸音が微かに聞こえて、やっと安堵に胸を撫で下ろせた気がする。
けれど腹部を大きく抉られた傷跡は今となってはその姿を潜めたものの、彼女の身体には生涯消えることのない大きな痕をその身に刻まれてしまったことになる。
幾ら呪術師と言っても彼女はうら若き二十代の女性だ。
今後この傷が悔いにならなければ良いと願いながらも私は歯を食いしばるしかない。
コーヒー片手に私の元へやって来た家入さんがその一つを私に差し出すとソファに視線を向ける。
思えば高専に戻って以来、先輩だった彼女とゆっくり話す機会も減って居たと私が腰を下ろすと、向いに腰掛けた家入さんがゆるりとした手つきでカップを手に取った。
「幸い臓器には異常は見られない。じきに目も覚ますだろう。起きるまで付き添うか?」
「ええ、彼女が目を覚ますまでは側に居ようかと」
「……随分絆されてるな。如月と七海はあまり接点はなかった様に思うが」
「揶揄わないで下さい。猪野君も如月さんも私が出戻って以来何かと気に掛けてくれた子達ですから。二人とも、可愛い後輩です」
目が覚めた時、彼女ならばきっと真っ先に同行した呪術師の安否を気遣うだろう。
自身の傷跡に関しては例え気に病んだとしても表面上は笑って誤魔化すに違いない。
その際に猪野君に連絡を取るならば家入さんより自分の方が適任だとも思うし、何より今は無事に目が覚める姿まで確認しなければどうにも落ち着けそうもなかった。
意図せず視線が仕切られたカーテンに向かう。
私のそんな様子に家入さんは肩を竦めると誰に告げる訳でもない様な独り言にも似た言葉をこぼして居た。
「どちらかと言えば如月に関しては可愛い後輩の域を超えている様にも見えるけどな」
「……わからないんですよ。高専時代は恋愛には無縁でしたから。幸い、一般社会に出てからは少なからず縁はあった。けれどそれは今抱いている感情とは大凡掛け離れたもので、この感情に明確な名前が付かない。抑、私と彼女では歳が離れ過ぎている。
世間から見て二十歳を過ぎたばかりの女性からすれば、私は立派なおじさんです」
「七海の口からそんな言葉が出るとはな。そっち方面は随分消極的なんだな」
同じ呪術師と言う職業にに就きながらも年齢、立場、育って来た環境やこれまでの経緯と私達の相違点を挙げ連ねたらきりが無い。
いっそ猪野君が羨ましいとさえ思えてしまうこの感情は最早恋としか言いようがないのに、どうにもそう言った事柄に置いて私は酷く臆病らしい。
彼女の術式を考えれば今後任務で組む可能性は大いにある。
さして親しくも無い年上の男からの恋情は困惑させるだけであり、いっそ迷惑になるのでは無いかと考えるのも無理はないだろう。
呪術界は狭い世界だ。
一方的な想いが歯止めを失った場合、双方の今後すらも左右しかねないとまで考えてしまうのは、ただ単に予防線という保険が欲しいに過ぎないのかも知れないが。
噂が噂を呼んで彼女の立場まで危ぶまれる様な事態は避けたい。
それに加えて私達には常に命の危険が伴う。
たった一人の大切な人を作る事を躊躇う人間は少なくないし、喪失の痛みを抱えながら他人を助けると言うことに挫けてしまう人間もまた然り。
故にこれ迄は恋愛に真摯に向き合う事が出来なかったのだろう。
一般社会に逃げても尚、私の呪霊の見える世界は変わる事が無く、疲弊した日常で色恋に現を抜かせる状況ではなかった事もある。
それだと言うのに彼女に関してはどこまでも己の心が制御できない。
項垂れた私の姿に家入さんが肩を竦める。
未だ手付かずのコーヒーにやっと手を伸ばす気になると、その時を待ち兼ねたかの様に口を開き、私はただ目を瞬かせるばかりだった。
「……憧れ、らしいぞ」
「は?」
「七海に認められる呪術師になりたい。それがこの子や猪野の頑張る理由だそうだ。如月に関しては術式そのものが戦闘向きじゃないからな。一時期は結構な無茶をして居たよ。傷も今に始まった事じゃない。その度に治してやってた私が言うんだから間違いないよ。多分今回も笑って流す筈だ。
それに、この子ならきっと目の前で仲間に死なれるくらいなら傷の一つくらい背負うと言い切る気概は持ってるさ。問題はその後、オマエが丸ごと受け止めてやれるかだろうな」
「……残念ながら、その選択権は私には有りませんよ」
「それはどうだろうな」
意味ありげに口角を上げた家入さんの真意は私の知るところでは無い。
眉間の皺が幾分か深くなった気がする。
こんな事になるのならばいっそ彼女を抱えてでもこの場から離れた方が良かったのでは無いかとあるまじき考えすら頭を下げて擡げた。
しかし、悩ましげな私の態度を見ながらも家入さんは揶揄い半分喜び半分と言った様子で、何処か憎めないその態度に怒る気力すら湧いてはこなかった。
「今日はやけに突っかかりますね。彼女から何か聞いているのかも知れないですが、あまり期待を持たせないで下さい。恋愛に関して私は初心者も同然なんですよ」
「その想いが恋だと自覚できただけ今日の収穫なんじゃないか?なに、事と次第によるが五条には黙っててやるさ」
クイと盃を煽る仕草を見せた瞬間、先程のほんの僅かな感謝の念は彼方へ吹き飛んだ様に思う。
良くも悪くもこの人は嘗て最強と言われた二人のクラスメイトだ。
五条さんの傍若無人ぶりに頭を悩ませているのは常だが、あの二人と渡り合って来たのだからこの人とて一癖も二癖もあると言う事をどうやら失念して居たらしい。
それはそれは深い溜息と共に温くなったコーヒーを飲み干す。
けれど後まで尾を引くかと思われた苦味は存外感じられず、いっそ胸の辺りは僅かながらにすっきりとした様な気もして居た。
「……次の出張任務先で良い地酒を探しておきます」
「楽しみにしてるよ。なぁ、七海。確かに呪術師にとって色恋は時に弊害しか及ぼさない。でも、私は悪いことばかりでも無いと思うよ」
「そうですね。ですが私の場合、相手が相手ですので」
「全ては眠り姫のみぞ知る、と言った所か」
カーテンの向こうから小さな声が響き、家入さんが様子を伺う為に席を立つ。
小声で繰り返される会話から恐らく如月さんは目を覚ましたのだろう。
私は携帯を取り出すと猪野君と連絡を取る為にメッセージアプリを開いた。
端的に状況を説明し、こちらを一瞥した家入さんに向けて無言のままに頭を下げる。
ひらひらと蝶の様に彼女の手が舞った。
その後には、まるで頑張れとでも言う様にその親指だけが立てられ、私は肩を竦めながら部屋を後にした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
あの日から一年。
私が恋を自覚してから既に四季が巡り、再びやって来た繁忙期に溜息をつかない日はない。
如月さんとの距離感は相変わらずだ。
お互い顔を合わせれば挨拶をする程度、その中に猪野君が居れば少しばかり深い話が出来るかどうかと言った所だろうか。
ここ一年を通して、彼女には少しばかり変化が見られた様に思う。
殆ど化粧などしなかった筈なのに少しばかりメイクを施す様になった。
酷い時には寝癖がピョンと跳ねて居た髪は綺麗に手入れされ、緩く弧を描く毛先が動くたびに軽快に揺れる。
元々、可愛らしい顔立ちはして居た。
年齢の割には少し幼くも思えたがそれが今となっては女性と少女の狭間の様な独特の雰囲気を醸し出し、異性の補助監督から度々名前を聞く機会も増えた様に思う。
焦燥がない訳では無い。
寧ろ「結婚したい」「子供が産みたい」などと呟いている時があると聞いた時にはまるで父親の如く相手は誰だと詰め寄りそうになった事すらあるし、その日は帰宅して酒に溺れ、数回壁に頭を打ちつけた気がする。
一度視界に映り込めば声を掛けたいと思うし、猪野君に向ける様な笑顔を見せてくれないものかと願っている自分が居る。
最近では特に猪野君と仲が良いらしく、私が猪野君と親しくしているからか。
話題の一つとして補助監督から二人が一緒にいる話を聞くたびに己の心が靴の底の様にすり減っていくのを感じて居た。
何より一番堪えるのは猪野君本人から彼女の話をされる事だ。
彼に悪意は無いし、良かれと思ってしている事は理解できても嫉妬の念がどうしても滲んでしまう。
表面上は平静を装ってられる事が唯一の救いではあるものの、胸の内は決して穏やかなものとは言い難い。
だらかと言って今更己をアピールなど出来るはずもなく、恋の駆け引きとはこうも難しいものかと頭を悩ませる日々が続いて居た。
そしてその日は、確か徹夜明けの任務の後だった様に思う。
朝一で報告書を提出したら速やかに帰宅して惰眠を貪ろうと、そう硬く胸に誓った夏の兆しが一層色濃くなった日の出来事だった。
少しの間の眠気覚ましにコーヒーでも買おうかと自販機に向かって歩いている途中だった気がする。
己の住処がある訳で話は無い職員寮の廊下を歩いている最中、自分の耳を打つ焦がれた音色に寝不足の私は脚を止めてその様子を伺って居た。
その距離から会話の内容を聞き取るまでには至らない。
けれど彼女は、早朝に少し眠気の残る瞼を瞬かせながら今確かに猪野君の部屋から出て来た。
後に続いた猪野君も同様に眠そうな姿をして居り、これまで散々聞き及んでいた噂が確信に変わった気がする。
それと同時に打ち砕かれた恋心が行き場を失い、胸にぽっかりと穴が空いた様な感覚さえ齎す。
頬を染め、猪野君に向けてこそこそと耳打ちするあどけない姿とその後に見せた恋する乙女の様な表情に私の視線が釘付けとなる。
それはまるで恋人との一夜を過ごし、その余韻に浸る様と言っても過言ではなく、どうやら私はまた酒に溺れなくては眠れそうに無い。
ズキズキと胸を苛む痛みはこれまでに感じた事の無い程のもので、二人に気取られる前にその場を離れる事がこの時の私には精一杯だった様に思う。
「……クソ」
どうやって辿り着いたかも定かでは無いのに、自販機に拳を叩きつけながら私は項垂れる。
その悪態は果たして誰に向けたものだったのか。
自分に想いを向けてくれない如月さんが悪いわけでは無い。
私が人知れず想う人と恋仲の猪野君が悪い訳では無い。
そうなれば必然的にこの呟きは二の足を踏んで何もしなかった己に向けたものでしかなく、叩きつけた拍子にボタンを押してしまったのか。
受け取れとばかりに取り出し口に顔を出したのは私が到底飲まない様な甘ったるいジュースだった。
帰路に至る道程すらあやふやだった気がする。
自宅の扉を開けると上着だけを脱ぎ捨て、ベッドに傾れ込んだ。
何もやる気にならず、食欲さえも湧く気がしない。
今日は何もせず眠ってしまおう。
もし仮に、二人がそう言う仲だと言うのなら、私は無理矢理笑みを貼り付けてでも祝福の言葉を述べてやらなければならないのだから。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
恋というのは時に恐ろしい程に思考力を低下させるものだと気がついたのはいつだっただろうか。
朝起きて、朝食を摂り、歯を磨き身支度を整える。
当たり前の朝を迎え、当たり前のルーティンをこなす中で想い人が今自分と同じような行動をしているのかと不意に考えてしまう現状は最早末期と言っても良いのかも知れない。
仕事に私情を挟むなどあるまじき行為だと思って居た私の脳裏はここ数日彼女の事で独占されている。
ふとカレンダーを眺めれば、祝う程の事でも無くなってしまった自身の誕生日まで後一週間程。
仮に義理であっても彼女がたった一言、おめでとうと告げてくれたのなら。
どれだけ喜ぶかは想像に容易いと言うのに、そんな事などあるはずが無いだろうと冷静な思考がその浮かれた想いを踏み潰していった。
高専に向かえばすかさず猪野君が私を見つけ、今日の予定を訪ねてくる。
二人で食事など既に数えきれない程して来たと言うのに未だ如月さんとは同席出来たことはなく、存外この子は自分の恋人になる女性には束縛が激しいのかと、そんな考えすら頭を擡げた。
多様な話題を振ってくれる彼に対して申し訳ないと思うものの、ありもしない空想を描いてしまったからか。
どうしても上の空になってしまった私は廊下の角に人の気配がある事すらも気付かぬまま、脚を進めてしまい身体に受けた衝撃と床に転がった小さな姿に思わず目を見開いた。
顔を顰めながら謝罪の言葉を口にするのはずっと脳裏に思い浮かべて居た人の姿で、私が手を差し出したのは本能的なものに近かったかも知れない。
庇護欲に駆られ、怪我のない事を確認したい気持ちを抑えつつ手を貸すとまるで私の胸中を読み取ったかの様に猪野君が彼女に声を掛ける。
「真那か?どうしたんだよ、そんな慌てて」
「……あ。琢真もいたんだ。ちょっとね。あのさ、後ろから誰もついてきてないよね?」
少し怯えた様な、それで居て疲弊した様な姿に私は威嚇する様に周囲の気配を探る。
しかし、人の気配は見当たらずそれを猪野君が告げると胸を撫で下ろした様に安堵の息を漏らして居た。
何か杞憂があるのだろうか。
手助けは出来ないのだろうか。
若い女性のプライベートに踏み込む事は如何なものかと考えもするが、憂いがあるのならば取り除いてやりたいと思うのにその手段が見つからない。
力なく笑みを浮かべる様子に、いっそ猪野君をこの場で嗜めるべきかとさえ考え始めていると二人の会話が耳を掠め、その中の琢真に彼女が出来たらのフレーズに思わず視線を二人に向けて居た。
今の言葉は己の聞き間違いか。
否、確かに如月さんは彼女が出来た時に誤解を招くと言って居た筈だ。
異性の友情が成立するかどうかと言うのは世間でも度々取り沙汰される問題ではあるものの詰まる所、この二人も同様なのでは無いかと言う可能性が一縷の光の様に私の中に差し込んでいく気がした。
改まった私の咳払いに二人の視線が一斉に此方に向く。
確かめるならば今しか無いとそう己に言い聞かせた私はこの時、手に汗握る様な思いだったに違いない。
「つかぬ事を聞きますが……二人は恋仲という訳ではないのですか?」
「はい?」
「七海サン?」
「ですから、如月さんと猪野君は恋人同士ではないのですか?」
意を決して口にした私の言葉に二人は顔を見合わせて目を瞬かせる。
恐らく二人には互いの距離の近さが他者から見た場合に誤解を生むなど、考えすら及んで居なかったのだろう。
時折言葉にされたとしてもその場限りの茶化しとでも捉え、流して来たツケは最早高専公認のカップルの代名詞となりつつあり私がこれまでに補助監督達から聞き及んできた話を説明すると真っ先にそれを否定したのは如月さんの方だった。
違う、誤解、ちゃんと話を。
如月さんの口からはそんなフレーズが羅列され、慌てふためく様はまるで浮気の現場を発見された有責者のそれを思わせる。
それがほんの少し、二人が恋人同士ではないと知ったばかりの私に期待を持たせた様な気がする。
「七海サン、そりゃないっすよ。真那は気の合うダチで、家族みたいなもんっすから。大体、暇さえあれば俺ん所でオールでゲームやって腹出して寝こける様な奴なんですよ?
それに俺も真那も昔っから七海さん一筋です。真那なんてガチ恋って言っても過言じゃ……」
「琢真ぁあぁぁ!!!!」
そして次に猪野君が放った言葉に期待が確信に変わったのと同時に、如月さん本人の口からで無くとも自分一筋だと告げられた事実に身体中の血液が急速に体内を巡る感覚がした。
耳や首元まで肌を染め上げ、項垂れる姿に最早その好意は確信を持っても良いのだろう。
まるで彼女の熱が私にも飛び火したかの様だった。
やけに顔が火照り、汗が吹き出すのは喜びからなのか驚きからなのかすら判然とせず、口元を抑えて喜びを噛み締める様子に猪野君が狼狽え始めて居た。
家入さんはこの事を知ってあの時私に発破を掛けたのだろうか。
そうだとするならば一升瓶一本の土産では済みそうにない。
兎にも角にも、私自身がちゃんと言葉にしなければ膠着状態と言って良い現状から話は進展しない。
この想いをどう表現すれば良いのだろうかと辞書を引くかの如く私の頭が適切な言葉を探して考えを巡らせる。
やはり此処は片膝を付き愛の言葉を囁くべきかとやっと己の見解に納得が行き、改めて彼女の名前を呼んだ時。
まるで激しい叱咤を受ける子供の様に彼女の肩が大きく跳ねる。
次の瞬間、私が耳にしたのは断末魔の様な謝罪の言葉で、目にしたものは転がる様に逃げていく背中だけだった。
猪野君でさえもその唐突な行動に驚きを隠せない様子で、大声で彼女を呼び止めるもののその声にすら反応はしない。
これから想いを伝え、晴れて両想いとなる筈だったと言うのに、私は何故逃げられたのだろうか。
彼女に向けて伸ばしかけた手が行方を失い彷徨った。
徐々に小さくなっていく背中は既に私の翳した手の中に収まり切るほどの小さなものになり、私は無意識のうちにネクタイを緩めると片脚を一歩後ろに引きながら床を踏み締めた。
「……あの、七海サン?」
「如月さんを捕まえて来ます。アナタは此処で待機を」
それだけを言い残し、今度は私に向けて叫ぶ猪野君の声が聞こえた気がした。
例えるならばこの時の私は獲物を狙う狩人と様だっただろう。
私の視界から外れた瞬間に何処かの教室に投げ込んで仕舞えば或いは巻く事も可能だったかもしれないと言うのに、ただただ廊下を爆走する彼女の姿を捉えると私の脚がさらに回転を早めていった。
日本人男性の平均より遥かに大きい私と日本人女性の平均並みの彼女。
その歩幅の差は明らかであり、あっという間に追いついた如月さんの腕を取ると私は即座に逃げられない様に彼女を壁に追いやった。
それでも尚、如月さんの顔は右へ左へと視線を彷徨わせ、逃げ道を探す様な素振りは往生際が悪いと言うしないだろう。
普段ならば此処で逃してやれた筈だ。
寧ろ追いかけたかさえも怪しい。
しかし、己の願望が今にも叶いそうなこの状況でそんな選択肢を取れるはずもなく、言質を取るかの様に先ほどの言葉を反芻するとしどろもどろになりながら言葉を探して小さく呻く声が聞こえた。
「……今一度アナタに問います。アナタが想いを寄せているのは誰ですか?」
「……い、言えません」
「でしたら、その気になるまでこのままで」
「ひっ。な、なな……七海さん!?」
まるで愛おしい恋人に向けてするかの如く私の手が彼女の頬を撫でた。
額を合わせると吐息すら私の肌を撫でて、色づき微かに震える唇を塞いでやりたい衝動にすら駆られる。
私から先にこの想いを告げて仕舞えば事はもっと簡単だったのかも知れない。
しかし、どうしても彼女の口から誰が好きなのかと言う事を初めに聞きたいと願った私は存外子供なのだろう。
一向に言葉を紡がない彼女に痺れを切らし、ほんの少し脅す様な真似をすると彼女の可憐な唇がやっと小さな声でその答えを紡ぎ出す。
正に天にも昇る心地だった。
今朝の憂鬱な気持ちなど最早彼方へと消え去り、充足感が胸を満たした。
このまま口付けてしまっても良いだろうかと顎を掬い、吸い寄せられる様に距離を詰めるとふるふると震えた名前さんの表情が私の理性を呼び戻し、頬に留めた事は後に思い返しても賞賛に値するだろう。
私は確信が持てなければ行動に移すことすら出来なくなった臆病で狡い大人だ。
それなのにこの想いを諦めることすら叶わず拗らせ過ぎた感情が今にも暴発し掛けている。
抱き寄せる位ならば許してくれるだろうと如月さんの後頭部を引き寄せると愛らしい旋毛が視界に入ると同時に女性らしく甘い香りが鼻を擽った。
けれど時に信じ難い現実とはすんなり受け入れるには時間を要するらしい。
私とて如月さんを抱きしめていると言う事実が俄には信じ緊く何度もこれは夢ではないと己に言い聞かせて居るのだ。
彼女が疑うのも無理はない。
……アナタの恋人になりたい。
たった一言、そう告げるだけの事に随分苦労したかの様に思う。
やっと告げられた想いは言葉にした瞬間さらに大きなものへと変わり、けれどそれに対して如月さんの表情は喜びというより困惑に近いものだった様に思う。
うんもすんも無いと言うのはこうも居心地が悪くいっそ恐怖さえ抱かせるのもなのか。
私は如月さんを思って居て、彼女また私に好意を寄せてくれている。
特別な事情でも無い限りその関係は恋人と呼べるものに変わっても差し支えがない筈なのに口籠る様子は僅かな後ろめたささえ感じさせるものだった。
答えを急かす様に私の口がカウントを取り始める。
気が短いと脅すような真似をしてみたものの、どうやら私は自分でも思う以上に彼女に関しては余裕が無いらしい。
更に詰め寄れば口を割るしか無いだろうか。
まるで尋問をしている気分にすら思えた。
しかし、今更引ける訳もなく彼女の口から真意を聞くまでは到底納得など出来はしない。
「……私、残念な女ですよ?妄想拗らせすぎてるし、七海さんとデート気分味わいたくて琢真とどんなデートがしたいかなんて話で盛り上がったプランを実行して浮かれてるような痛い奴です。
こっそり七海さんに誕生日プレゼント贈りたいからって琢真に探りを入れてもらったり、いつもご飯一緒に行ってる琢真がむかつくからちょっと目潰ししてやろうかとも考えた事あります」
「興味深い。それで、そのデートプランとは?」
「待ち合わせデートだったり、デパートで香水選んだり、映画行ったり……などなど。あ、私としては朝チュンで七海さんの寝顔を堪能してみたいです」
「……は?」
「あ゛……」
その内容こそ、初めは可愛らしいものだった様に思う。
猪野君と絶えず話して居た話題も己の事なのだと知れば符号がいくのと同時に、もっと早く直接聞いてくれたら良かったものをと臆病な己を棚にさえあげて居た。
しかし言葉を重ねるごとにその内容は大胆なものへと変わり、朝チュンとやらは良くわからなかったものの寝顔を見たいと言われ期待しない男の方が珍しいだろう。
その浅慮な所さえも可愛らしくて堪らなかった。
いっそこのまま自宅に拉致されても仕方ないと思える程の愛らしさは兼ね備えており、けれど本人にその自覚はないのだろう。
何よりも成人はしたと言っても相手はまだほんの数年前まで無垢な少女だったのだ。
私とて女性を口説く手数が多い訳ではないが相手を知る意味でもゆっくりと距離を詰める必要がある。
手始めに今晩の予定を押さえ、今後の休みは逐一報告するように念を押す。
今後彼女に近づく不埒な輩が居れば速やかに排除する必要があるし、その為ならば多少煩わしくなったとしても五条さんや家入さんに助力を乞うことさえ厭わない。
それにしても誕生日を祝ってくれるつもりだったのかと先日見かけたショッキングな光景さえもその訳を知れば愛おしさに変わる辺り、存外私は単純らしい。
幸い金銭にまつわるもので不自由した覚えは無く、特に欲しいものはないが唯一あるとすれば彼女そのものと言った所だろう。
しかし、その事を伝えてみるとあからさまに狼狽えた如月さんが行き場もないのに後ずさる仕草を見せ始め、やはり時間を掛けて籠絡していくしない。
それに関しても今後は傾向と対策を練るべきか。
否、先ずは彼女にとって一番信頼の置ける人物に相談と牽制をしておくべきだと恥ずかしげも無く嫉妬を滲ませると今度は気恥ずかしそうにしながらも直様色良い返事が帰ってくる。
そうと決まれば善は急げだ。
猪野君には速やか事の委細を報告し、今後は逐一彼女の状況を報告してもらうに越した事はない。
繋いだ手を引きながら、さして離れて居ない猪野君の元へと向かう道程はまるで子供の様に浮かれたものだった気がする。
それを彼女も感じ取っているのか、幾度も私の方に向けられる視線は少しくすぐったく、こんな情けない私はきっと彼女の
私達が戻ると忠犬の如くその場で立ち尽くす猪野君が私達に視線を向ける。
繋がれた手を凝視し、双方の顔に視線を向けると彼女の積年の想いを知って居たからか。
その瞳には涙さえ滲んでいるように思えた。
「……真那、良かったな!」
「琢真!!私今いつ死んでも良い!!」
「不穏な事を言うのは辞めてください。それと、すぐに抱きつこうとしない。アナタの抱きつく場所は今後此処以外は認めません」
感動を分かち合うように無邪気に腕を広げた猪野君に今にも抱きつこうとする如月さんの首根っこを咄嗟に掴んだのは嫉妬以外の何者でもない。
胸板にぶつかった顔は私が押さえつけたからか暫く動く気配を見せなかった。
しかし微かに首を振る仕草を見せると顔を上げた彼女は子猫のように愛くるしい顔をしており私の目元も口元も自然と綻んでいく。
私はきっとアナタの
しかし、出来る事ならばアナタの憂いを祓う騎士ではありたいと願う。
さすればアナタは、私の唯一の女性となるのだから。