You're my……
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「本日、任務に同行する七海です。よろしくお願いします」
その人と出会ったのは私と同級生の猪野琢真が高専の三年生の時で、繁忙期に差し掛かった憂鬱な時期の事だった。
その当時、二年と少しを高専で過ごしたと言っても私達の思考はまだ子供と言っても差し支えがなく、呪術師にはなる事に対しても何処か判然とした展望しか抱いて居なかったように思う。
ただその日、たまたま任務に同行する事になった七海さんが自分達と同じ二級だと言われた事には耳を疑い、圧倒的なその存在感に唖然とした記憶がある。
呪術師と言うには些か似つかわしくない動きにくそうなスーツを身に纏い、その出立ちはまるで仕事の出来る商社マン。
けれど任務地に赴いた瞬間、その眼光は呪霊を前にすると獲物を見据えた獣の如く鋭く光り、此処は私が、そう言い残して駆け抜ける姿はまるで一陣の風を思わせる。
私よりも琢真よりも遥かに大きな身体からは想像も付かない程、その動きは柔軟であり俊敏で。
復帰したばかりの肩慣らしだからと念の為に同行した私達には当然の如く出番など有りはしなかった。
聞けば七海さんは学生時代は高専に籍を置き、最強の代名詞である五条さんの後輩なのだと言う。
訳あって一度は別の道を選んだものの、思うところでもあったのか、この道を再び選んだらしい。
自身をデンマークのクォーターだと言う日本人離れした容姿は人の目を惹き、稲穂の様な髪も、サングラス越しに垣間見る色素の薄い翠眼も私達の目を奪った。
まだ子供だった私と琢真からしてみたら七海さんは絵に描いたような大人の男性であり、理想と言っても過言ではなかったのだろう。
「ねぇ、琢真。あの人ヤバくない?」
「おう……なんか、かっこいいよなぁ」
帳が上がり、帰りましょうと促された背中を見つめて私達はその大きさに感嘆の溜息を溢すばかりだった。
後に続く私達はこの時、目指すべき目標を見つけたのと同時にまるで幼子がヒーローを見つけたような。
そんな心持ちだった気がする。
呪術師には変人が多い。
人の負の感情から生まれる呪いと対峙し、命のやり取りをする人間なんて何処かしらイカれて居なければ務まるはずもない。
同じ世界にいる私でもそう認識しているし私自身も変わり者の自覚はある。
少なからずこの世界と関わって居る人間はどこかしらイカれてるというのは周知の事実であり、その事に関して意を唱える者はほとんど居ない。
それは呪術師のみならず補助監督や窓も同じで、呪いを視認しながらもこの世の中を生きて居る事自体が何よりの証拠と言えるだろう。
そんな中で、七海さんの大人びた雰囲気、常識を持ち合わせた態度、仕事に対するストイックさ、其れに反する労働はクソだと言う言葉は当時の私達には衝撃であり、その瞬間に七海さんは私達にとって憧れとなった。
それまで決して慢心していたわけでは無いけれどそれ以来私達は己の術式を磨く為に我武者羅に邁進する。
それは一重にこの人に認められる呪術師になりたいと、その一心からだったようにも思う。
初めこそ二級だったのは卒業時にその階級だったと言うだけの事で、あっという間に一級術師として前線に立つ様になった七海さんは今日も今日とて、労働はクソだと嘯きながらも人を助けるために奔走する。
あの日から既に三年。
未だ憧れである七海さんの背中を追いかける私達も高専を卒業して呪術師となり、けれどあの日の憧憬は今もずっと瞼に焼き付いて離れる事はなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
呪術高専に身を置いて数年になるけれど、私の家系は代々伝わる呪術師と言う訳ではない。
しかしその血筋からはこれまでに何人かの呪術師を輩出しており、呪術師に関して無知な訳でも、理解がないと言う訳でもなかった。
私が術式を自覚してからは身内の誰かしらがその扱い方を教えてくれたし、呪術師になるか否かの選択肢すら与えてくれて。
呪術師となるべき道、ならざるべき道を示し、説いてくれた。
要は私は恐ろしく周りに、環境に恵まれて居たのだろう。
五条さんの様な大層な家に産まれ雁字搦めにされる立場でもなく、非術師の家系にぽっと出で産まれてしまい理解のない親元で育つわけでもなく、常に私には自由という選択肢が残されて居たのだから。
呪術師になろうと思った切っ掛けすらあやふやな状態だった私にとって七海さんの様な呪術師になる事が目標となって以来、まるで世界に色がついた様に目にするものすべてが新しいものに見えていった気がする。
それは琢真も同様であり、一級の推薦を貰うならば七海さんからだと言う拘りを持ち続け、既に準一級になっても不思議ではない実力を備えながらも二級に甘んじて居る。
琢真とは高専に入学してからの付き合いになるけれどお互い異性と言う事を考えないほどに私達は仲が良い。
それは双方の性格も有るのだろうけれど、兎に角一緒にいて楽なのだ。
もし前世があるのだとしたら同じ親から産まれたか双子だったのでは無いかと思える程に趣味嗜好も似て居て、卒業しても尚その関係は変わる事なく暇さえあれば一緒にいる事が当たり前。
琢真となら世間でよく言われる男女間で友情は成立するか云々の話も肯定的な意味で捉えられる。
その会話の内容も最近では専ら互いの憧れである七海さんの事ばかりとなり、共に居る姿を見て恋人だと誤解される事も少なくは無いが天地がひっくり返ったとしても其れは無いと言い切れる。
そんなただの七海さん親衛隊だった私に変化が訪れたのは今から一年前だっただろうか。
私は階級こそ二級となって居るけれどその術式自体は七海さんや琢真のような攻撃タイプのものではない。
どちらかと言えば京都の庵さんのような補助の役割を果たす事が多く、単独任務で討伐できる呪霊は知れている。
ただ、誰に対しても効果を発揮できる術式は頻用性が高い。
故にそこそこ等級の高い任務に同行する事もしばしばなのだけれど、その日は明らかに私達の手に負える案件では無かった任務先で重傷を負い、死を覚悟した。
「……もう少しだから、頑張って……!!」
返事のない自分よりも大きな身体を引きずり、文字通り血反吐を吐く思いをしながら私が言葉を絞り出す。
同行して居た主戦力である呪術師は瀕死。
何とか対象だった呪霊こそ討伐できたものの、残りの雑魚が今にも私達に襲い掛からんばかりの気配を感じさせて居た。
だらりと垂れ下がる手がその猶予のなさを物語る。
最早一刻も早い離脱が急務であり、いつ私自身も倒れるかすら定かではなかった。
けれど己の身体に鞭を打ち、共に離脱を試みたものの自身も満身創痍の身体は思う様に動いてはくれず。
せめて今日の相棒となったこの人を帳の外へ逃さなければと躍起になって居た時、近くの現場に居合わせて居た七海さんに助けてもらい、私と相棒だった呪術師は一命を取り留めた。
私達を連れ立った補助監督は一足先に高専に戻る事になり、私は応急処置を施され、七海さんと共に別の車で高専の帰路に着くことになる。
その際、歩く事すら儘ならなかった私は七海さんによって横抱きにされ、衣服が裂けて血と共に外気に晒された肌は七海さんの上着によって隠され終始気遣う言葉を掛けられ私はきっと常識を司る頭のネジが三本程抜け落ちてしまったのだろう。
「如月さん、大丈夫ですか?」
「七海さんに抱っこされてる走馬灯が見えてます……」
「しっかりしなさい。走馬灯では無くこれは現実です。それに、アナタに何かあれば猪野君が悲しみます」
「……そう、ですね。さっきの人は、大丈夫……ですか?」
「心配ありません。高専に着き次第家入さんが治療してくれます。勿論アナタも。本当に、よく頑張りました」
元々、七海さんは私が憧れて居た理想の人だ。
ただそれは例えるならばアイドルや芸能人に憧れる様な感覚に近く、謂わば推しと言っても過言ではない。
琢真は時折食事に行ったりするらしいけれどそう言う時に限って私は別件の任務で駆り出されて居る事が殆どで。
これまで碌に機会には恵まれず、琢真からの話を聞いては羨むばかり。
かと言って自分一人で話しかける度胸もなければ食事だなんて恐れ多くて誘う事すらできなかった。
そんな相手が自分に触れて、あまつさえ悲しげな瞳で私を見つめ、優しい言葉を掛けてくれる。
もう大丈夫だとあやすようにして私の頑張りを誉めてくれた。
……これがどうしたら恋をせずに居られるのだろうか。
落ち着いた優しい声にこれまで感じたことのない程に胸を締め付けられた。
ドクドクと脈打つ己の鼓動と触れられた箇所から熱を帯びる肌。
痛みと羞恥がないまぜになった胸中は混乱しか齎らしてはくれず、意図せず瞳には涙が滲む。
それを死にかけた恐怖からと勘違いしたであろう七海さんは私を抱き抱えたまま車に乗り込み、移動中の車の中でただ私の手を握りしめ、辛いならば自身の肩にもたれる様にと私の肩を抱き寄せた。
間近で感じる七海さんの香り、自分と違う無骨な手の感触、微かに触れる肩の大きさは己のものとは明らかに違い、常に一緒にいる琢真のものとも違う、男の人のものだった
胸を張って断言できる。
この時、私の頭のネジは更に五本ほど抜け落ちたに違いない。
それ以来、ただ遠くで見て居られるだけで満足して居たはずの私の想いは急速に膨れ上がり、捻れに捻れ、限界まで拗れた挙句、迷惑極まりない形となって誰にも止めようの無い程の暴走を繰り広げていく事になる。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
あの日から一年。
それは推しとも言える憧れの人にガチ恋して一年の歳月が流れたと言うことになる。
その間に私の身に起こったことと言えばズボラだった私生活が少しばかり改善された事だろうか。
部屋が綺麗になり、いつ七海さんが私のプライベートな空間に訪れてもいい様にと気を配るようになった。
身形にも気を配り、元々動きやすい服装重視な所は変わって居ないけれどナチュラルメイクを施すようになると伸ばしっぱなしだった髪もちゃんと手入れをしてパーマをかけた毛先が胸元で揺れている。
女らしくなったと評される事も多くなり、本当にごく稀にだけれど異性の補助監督や呪術師から食事に誘われたりするようにもなった気がする。
尤も、碌に知りもしない相手と食事に行く気も無いのでのらりくらりと躱しては琢真との時間を共有しているのだけれど、それは七海さんの情報が欲しいからに他ならない。
部屋を見れば七海さんは綺麗にしてますねと褒めてくれるし、髪型を変えれば同様によく似合ってますと褒めてくれる。
照れた私が顔を俯かせたらこちらを見て下さいと頬に手を添え、その後には鋭い翠眼が優しげに少しだけ細まっていき、次第に距離が近づくと唇が重なる。
因みにこれらは全て私の妄想の中の七海さんであり、私の願望でしかない。
相変わらず私と七海さんの接点は琢真を通じたものしかないし、認知はされいても任務以外では個人的に会話をすることすら稀だ。
日々脳内の七海さんとあんな事やこんな事を繰り広げるようになった私は口にこそしないものの見事に痛々しい女へと成長し、今日も今日とて、共に任務に赴いた琢真とテーブルに向かい合うと七海さんへの思いの丈を互いに語り続けて居た。
「ねぇ、琢真。結婚したい」
「は?誰とだよ」
「決まってるでしょ。……はぁ、七海さんの子供が産みたい。きっと可愛い、天使でしか無い。なんであんなにかっこいいの?もう存在そのものが尊い」
「真那、それただの痛い女だからな」
「わかってるけど。七海さんが私なんて相手にするはずも無いし?あの人の隣に立つなら完璧な人であって欲しいし。でも七海さんが誰かに愛を囁くだなんて許せない……!!」
ここ一年で私の口は琢真といる時に限り、暇さえあれば結婚したい、子供を産みたいとそんな夢物語ばかりを語るようになった。
この状況を例えるならば強火同担拒否女とでも言えばいいのだろうか。
万が一にも自分がそう言った対象にならない事は理解している。
しているからこそ拗れた妄想が止まらず、日々七海さんに愛を囁かれる妄想を繰り広げては表情筋を緩めるしか無く、一緒に任務に赴ける琢真が羨ましいやら妬ましいやら。
いっそ手元が狂って目の前の友にうっかり目潰しをしてしまいたくなる。
食堂のテーブルに勢いよく突っ伏すと、買ってきたばかりのコーヒーが大きく揺れる。
幸い溢れることこそなかったものの、こんな私の状況を常に見ている琢真は、また始まったと言わんばかりの溜息を溢していた。
「重症だなぁ。ま、真那より俺の方が七海サンの事分かってるし好きだけどな」
「子供産めないくせにっ!!幸せならいいんだけどね!?七海さんが幸せなら私はそれで良いんだけども!!でもできる事なら私が幸せにしてあげたい。あの笑顔、私が守りたい……っ!!」
「笑ってるところなんて滅多に見ないけどな。つか食おうぜ。腹減った」
普段なら共に任務に赴けばその辺の店舗で夕食まで取った後、琢真の部屋でオールでゲームをする事が当たり前の私達は今日はコンビニで買ってきた軽食を平らげ、このまま恒例の七海さんについて語り合う会が始まる。
その内容といえば毒にも薬にもならないようなものばかりで、七海さん本人の意志など微塵も尊重されていない、題して「七海さんとデートするなら何処がいいか」ゲームと言うもの。
それはただ単に自分自身が七海さんと行きたいところを挙げ連ねるだけのものなのだけれど、相手が琢真となるとこれが物凄く盛り上がる。
先日など夜通しそのデートプランについて語り合い、けれど誘えないのならば行くだけ行ってみようと弾丸ツアーまで企画してしまった程だ。
こうして琢真が私の荒ぶる恋心に自制を強いるどころか自身までノリノリになってしまうから私の暴走が止まらなくなる。
それを差し置いたとしても、七海さんに関する事となればオンかブーストしか存在しない夢みがちな恋心は本人には言えないものの猪突猛進と言っても過言では無く、その制御の仕方は最早私自身にすら理解が及ばないものへとなりつつあった。
「で、今日のお題は?」
「お互い休みの一日。七海サンと何をする?」
「え、先ずはベッドでおはようから始まって……」
「ちょいちょい!!いきなり夜一緒に過ごしました感出す?ここはさぁ、待ち合わせデートが定番だろ」
「うわー!!デートっ!待ち合わせ!?それ、いい……っ!私服姿が見られるって事でしょ?絶対かっこいいじゃん!!待ち合わせの三時間前から待てるやつじゃん」
「いや、それじゃただのストーカーだろ。ちゃんと時間に来いよ。でも確かに、私服姿は良いよなぁ。ハイブランドもサラッと着こなしてそうだし、いろんな店知ってそうだもんな。んじゃ、試しに今度やってみるか?」
「よし!やろう!!」
ダンとテーブルを叩きつけながら立ち上がった私は、琢真と硬く握手を交わす。
こうなれば次の休みのスケジュールは埋まったも同然で、互いに今後の休みの予定を照らし合わせながらも妄想が止まる事はない。
相手は結局琢真なのだからこれは琢真とデートということになってしまうのだろうけれど、私の脳内変換機能を持ってすれば隣にいるのが七海さんに変わるし、本人とデートしている気分に浸りながら七海さんの話をし放題というまるで夢のような現象が起こり始めるのは言うまでも無い。
私達の盛り上がる会話の最中、夜食を取りに来た補助監督が私達の会話を見聞きして微笑ましい視線を送る。
それがどう言う意味合いで取られているかなど知る由もない私達はただただ、七海さんと出かけたい場所を並べ立て、盛り上がっていく会話は既に満開のお花畑状態と言ってもいいだろう。
「映画デートとかも良いよね。あ、でもお家で映画とかもいいなぁ……。もし一緒に行くならデパートとかで香水選んであげたり……私に似合いそうなやつとか選んでもらいたいなぁ」
「良いねぇ。真那が普段つけてる香水もいい感じだけどさ。相手の好みのものってのはまた格別だよなぁ」
ほんの少し距離を詰めた琢真が私から仄かに香る香水を確かめながら首を何度も縦に振る。
それもそのはず、この香水は七海さんの愛用しているものに見合うよう使っているものを聞いてから吟味に吟味を重ねて選んだものだ。
そして現在、恋人同士のじゃれ合いとも取れる距離に琢真が居ようとも互いの頬はまるで赤らむことなどなく、ただただお互いの頭の中は七海さんの事しかない。
流石琢真は私の胸中をよく理解してくれる。
七海さんの事に関してはいっそ自分の分身では無いかと思える程に考えが一致し過ぎていっそ怖い。
不毛だと思えるこの恋も一応は応援してくれて居り、時折私の話題を出してくれたりもするらしい。
けれど自分の方が七海さんを好きだと言う一点については譲るつもりは無いらしく、現状一番近い場所にいる琢真が正直言って妬ましくなる時もある。
同性だから踏み込める領域というのは存在するし、異性だから成し得る関係もある。
けれど私に関しては七海さんとどうこうなれる可能性など微塵もない事は理解出来るだけの頭はあって。
こんなことになってしまうくらいならばいっそ雲の上の人のまま、手の届かない憧れた存在であってくれた楽だったとも思うのに。
七海さんの事を考えるだけで楽しくて、嬉しくて、姿を見る事が出来ただけでその日一日浮かれて過ごせるおめでたい頭が憎らしい。
手にしたサンドイッチを齧りながらも思う事は一緒にお勧めのカスクートが食べてみたいだなんて妄想ばかりで。
先日見つけた良い感じのお店の味を是非にも七海さんにお伝えしたいと思う反面、いざ目の前に七海さんが居ると思うと私はしどろもどろになり、口数も普段の半分以下となってしまう。
「琢真が羨ましいなぁ……」
「そうだろ。七海サンに一番近いポジションに居る自覚はあるからな。まぁ、そう落ち込むなって。今度飯誘ってやるから。真那はさ、黙ってりゃイケると思うんだよな。うん、黙ってりゃ」
「いや、望めないでしょ。せめて冥さんや家入さんくらいの美女でなきゃ七海さんとは釣り合わない。寧ろそうでなければ私が許さない」
「七海サンの好みは無視かよ」
「七海さんの幸せは!!私が守る!!」
高らかにそう宣言しながら飲み干したコーヒーのカップをビール瓶の如く叩きつけてみてもイマイチ迫力には欠ける。
しかし、どうかその意気込みだけは伝わっている事を願いたい。
まるで絡み酒でもするかの如く管を巻く私に対しても面倒臭がらず付き合ってくれる琢真は本当に良いやつだ。
けれどそこから恋愛云々という話に発展する事はなく、後輩力が高い琢真は面倒見が良く、存外先輩としても有能なのだろう。
先程まではちらほらと見受けられていた補助監督の姿もいつのまにかすっかり姿を消し去り、話し込んでいるうちに時計の針はてっぺんを回ろうとしている。
流石に食堂で七海さんの事に関して談義を続けるのはいつ御本人の耳に届くかも判らずリスクが大きい。
場所を琢真の部屋に移した私達は夜通しテレビの前で一狩りし続けながらもずっと七海さんの事について語り、気がついた時には朝日がカーテンの隙間から差し込むまでになっていた。
「良い時間を過ごせた……。充実し過ぎてた。寝不足なのに肌艶が増した気がする」
「真那、色々ヒートアップしすぎだろ。最後らへん激し過ぎて俺もちょっとビビったわ」
朝日がやけに目に染みるのに、七海さんの事を考えているだけで私の脳内ではセロトニンもオキシトシンもドーパミンも出まくっている。
要は幸せホルモン全開な状態と言っても良い。
話のテンポが合う人間と共通の好きなことに関して語らう時間は有意義でしか無いし、ストレス発散にも打ってつけだ。
例えば数日後には最近しつこく言い寄られている少し苦手な呪術師と組む任務があろうとも、今の会話を思い出すだけでその苦痛も和らぐと言うもので。
今から仮眠を取ったとしてもきっと良い夢を見る事ができるに違いない。
「あ、そうだ。琢真一つ頼み事があるんだけど」
「どうした?」
「七海さんの誕生日近いから、今度会った時にプレゼントなら何が嬉しいか探ってみてくれない?」
少し早い時間とは言えど日が登り始めれば補助監督が動き出す気配を感じる。
食堂では大っぴらに七海さんについて語り合ったものの、それが七海さんへのプレゼントとなると誰かに聞かれてしまうのは少し気恥ずかしくて。
琢真に近寄りながら耳打ちすると私の勇気を讃えるように琢真は白い歯を見せながら自身の胸を大きく叩く。
受け取ってもらえるかどうかすら定かではない。
けれど琢真情報によれば今は特定の相手は存在しないらしいし、日頃のお礼と称して仕舞えば断られる事も無いだろうと期待が過る。
持つべきものは後輩力の高い異性の友人だ。
琢真ならそう言った話題もきっと会話の中でサラッと聞いてくれるだろうし、その後私にもちゃんと包み隠さず教えてくれる。
大きく背伸びをすると急に眠気が襲ってくる気がして欠伸を噛み殺す。
お願いねと念を押すようにして、私は手を振りながら別れの挨拶を交わした。
「ほんっと、楽しかったわ。良い夢見れそう。じゃ、またね」
「おうっ。またな」
扉数枚向こうの自室。
そこに辿り着けば泥のように眠れる予感しかしなかった。
けれどいつ会えるかも分からない七海さんとの遭遇に備えてメイクは落としたい。
シャワーは後回しにしたとしてもスキンケアだってちゃんとしたいし、二十代前半という若さに胡座をかいてはいけないとずぼらを絵に描いたような人間だった私が三代欲求に抗うだけの思考を持ち合わせるようになった事は賞賛に値するだろう。
それもこれも七海さんへの恋心故なのだけれど、生憎これが報われるかと問われたら可能性は極めて低い。
それでもやめられないのはきっと少しでも憧れの人の記憶に自分を残したいと言う無垢なようで打算的な思いからだ。
メイクを落とし、洗顔まで済ませて愛用している化粧水を肌に馴染ませながら鼻歌混じでベッドに寝転ぶ私は、きっと数日後にはやってくるであろう琢真からの情報が既に待ち遠しくて堪らない。
深夜の食堂で琢真と七海さんとのデートプランを語り合っていた事が補助監督の誤解を招いているなど知る事もなく。
先程の光景を徹夜明けの私達の姿を七海さんが目撃していたなんて思うはずも無く。
例え社交辞令のお礼であっても自らの贈り物を手に取ってくれる様を想像し、ベッドで脚をばたつかせながらも次第に私の意識が沈んでいった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日は、七海さんの誕生日まで残すところ一週間と迫った時で、煩わしかった梅雨も明けて清々しい青空が一面に広がっていた。
連日補助の任務ばかりが続いて居り、琢真と語り合う時間も取れず鬱憤は溜まる一方。
しつこい先輩呪術師からの口説き文句に愛想笑いをしながらも何とか食事の誘いを断り、逃げ出すように渡り廊下を駆けて居た際の事だった。
あまりのしつこさに追いかけて来ないかと背後に気を取られて居たせいか。
ちょうど曲がり角に差し掛かった時、ドンと何かにぶつかるとその拍子に私は尻餅をつき、すかさず差し伸べられた手に思考が一瞬停止する。
北欧の血が混じっているからか自分のものより白いと思える肌。
切り揃えられた綺麗な爪先と肌とは対照的な無骨だとさえ思える指は間違いなく焦がれた人のもの。
恐る恐る顔を上げると差し込む日差しに煌めいた髪がいっそ神々しくも思え、サングラス越しに絡んだ視線に身体が硬直したのも束の間で。
己に向けて掛けられた声のあまりの良さに耳だけで妊娠は可能なのかと至極くだらない事に考えを巡らせて居た。
「すみません。大丈夫でしたか?」
「……えっ、いや、あの。はい。私の方こそすみません……。よそ見してて」
手を借りて立ち上がると怪我の心配までされてしまい、状況が把握できないまま私は頷いたり
ハプニングとは言えこんな形で七海さんに触れる機会に恵まれた事に動揺を隠しきれない。
今日のメイクはどうだったか。
髪は乱れて居ないだろうか。
そもそもジャケットに思い切り顔を突っ込んでしまって、もし汚してしまって居たら目の前に御尊顔があったとしても合わせる顔がなく、何より近くで感じた七海さんの香りに既に理性が飛びそうだった。
顔に熱が籠る。
それすらも体調が良くないのかと労わる気遣いに胸を鷲掴まれたような感覚に陥り、大丈夫だと必死に首を縦に振り続けて居ると救世主とばかりに背後から顔を覗かせた琢真の姿に涙さえ浮かびそうになってしまった。
「真那か?どうしたんだよ、そんな慌てて」
「……あ。琢真もいたんだ。ちょっとね。あのさ、後ろから誰もついてきてないよね?」
互いに隠し事など無いに等しい琢真には直ぐその理由に気づいてくれたらしく、私の背後に視線を向けると人の気配がないことを確認してくれた。
大丈夫だと伝えるように肩を叩かれると途端に安堵の溜息が溢れる。
毎回体のいい断り文句を探すのにもそろそろ限界が見え始めて居り、だからと言って琢真を利用してしまうのは気が引けてしまい、いっそ架空の彼氏を作り上げてしまおうかとも考えるのに。
私の交友関係を知り尽くされて居るのかその手は使えそうにない事に毎度頭を悩ませている。
意図せず溜息ばかりを漏らす私に二人の眉根が寄っていく気がした。
覇気の無い笑みを浮かべると琢真は私の頭に手を置き、慰めるように再び背後に視線を向けて居た。
「また例の先輩か?そろそろきっぱり断れよ」
「そうなんだけどさ、任務で組む事も多いから言いづらくって」
「俺から言ってやろうか?脈なしなの分かっててもめげないよなぁ」
「悪いよ。それにもし琢真に彼女が出来た時、変に誤解しちゃうでしょ」
双方に恋人が出来た場合、仲の良さは変わらずともその距離感は少し改めなければならないというのは常々思って居た事だ。
仮に私ならば、彼氏が友達だからと女を部屋に連れ込むのは許せないし、例え健全な仲だとしても嫉妬の念は抱く。
自分がされて嫌な事は相手にもしては行けないと言うのは親から常に言い聞かせられてきた言葉であり、我が親ながらいい教育をしてくれたと思う。
だからこそ自分が好意のない人間に言い寄られて困惑するのだから私に好意を向けられたら七海さんも同じ感情を抱くのだろうとこの恋に積極的になれないのだけれど。
それ自体、元々脈なしだと思って居るのだからせめて妄想くらいは許してもらいたい。
私達の会話を聞く七海さんはほんの一瞬その雰囲気が強張ったものに変わったようにも思えた。
けれど一度咳払いをすると私達の視線は当然七海さんに向かい、改まった様子で口にした言葉に目が点になるしかなかった。
「つかぬ事を聞きますが……二人は恋仲という訳ではないのですか?」
「はい?」
「七海サン?」
「ですから、如月さんと猪野君は恋人同士ではないのですか?」
その瞬間、私と琢真場合七海さんの言葉に理解が追いつかず互いの顔を見合わせて居た。
確かに仲は良い。
いつも一緒にいるし、楽しいし、琢真以上に馬の合う友人は高専の外にすら存在しないと思って居る。
ただ私達はどうやらその姿を他人が見たらどう思うかという事を失念して居たらしく、私達の姿を目撃する補助監督達の中では私と琢真が付き合って居る事が確定して居り、度々見かける私と琢真の仲の睦まじさに目尻を下げて居たらしい。
まさか預かり知らぬ所でそんな誤解を招いて居たとは知る由もなく、何より七海さんに誤解されてしまった事に私は身振り手振りで必死に否定を訴えて続けた。
「七海サン、そりゃないっすよ。真那は気の合うダチで、家族みたいなもんっすから。大体、暇さえあれば俺ん所でオールでゲームやって腹出して寝こける様な奴なんですよ?
それに俺も真那も昔っから七海さん一筋です。真那なんてガチ恋って言っても過言じゃ……」
「琢真ぁあぁぁ!!!!」
私が叫び声を上げるのと同時に琢真が口を滑らせたとばかりに自身の口元を押さえた。
しかし時はすでに遅し。
はっきりと音になって伝わってしまった己の積年の想いはよりにもよって他人の口によって想い人に露呈する事になり、私は思わずその場で顔を覆い隠して蹲る。
告げるかどうかすら定かではなかった。
もう少し自分に自信ができたら、もう少し接点が増えたらと、そうやってなぁなぁにしながら先延ばしにするだけしてきて、結果玉砕覚悟で体当たりする事を恐れて居た私はただ一方的な片思いして居る今がとても楽しかったのだろう。
仮に告白して振られて仕舞えば諦めなければならない。
そう思うからこそこれまでずっと伝えずに居たのに、私はこの先一体何を生きがいにして生きていけば良いのかとまるで路頭に迷うような心境だったに違いない。
無言が気まずさに拍車を掛けた。
しかし、断りの文句はいつまで経ってもやってくる事はなく、琢真だけが項垂れる私と七海さんの表情を知って居るのか。
ある意味、驚愕にも似た声をあげて居た。
「……えっ?えぇ!?まじっすか……?」
「如月さん」
落ち着いたトーンの低音が鼓膜を撫でた瞬間、身体が強張るのを自覚する。
走馬灯のように脳裏を巡るこれまでの七海さんの姿は思い出のアルバムのどのページを開いてみてもやはりかっこいい。
きっとこの後に続くのはすみませんという謝罪の言葉で、私の煩悩塗れの恋は終わりを迎えてしまうのだろう。
ただ想うだけなので許して下さいとそんな図々しい事が面と向かって言えるメンタルは持ち合わせて居ない。
だかと言ってこの想いを一時でも否定してしまう事は出来なくて。
挙動不審となった私ができる事はこの場から速やかに離脱する事だけだった。
「……ご、ごめんなさいぃっ!!!」
「おいっ!真那!?」
七海さんの顔を見ることすら出来ず、文字通り逃げるようにその場から駆け出した私に慌てた琢真が呼び止めるような声を上げるのに、今はそれどころではなかった。
先程の先輩と遭遇するリスクより、七海さんに不快な思いをさせてしまう方が耐え難い。
更にはこんな痛い妄想を繰り広げて居た事を知られたら私は自ら今にも変態を遂げそうな受胎の群れの中にでも身を投じてでもこれまでの非礼を詫びなければならないだろう。
構内を全力で走り抜ける私に何人もの補助監督が驚いた顔をして居た気がする。
否、厳密には私の背後から迫る七海さんに驚いて居たのだろうけれど、そんな事知る由も無い私は行き先も考えずにただ走り続け、やがて腕を掴まれると壁に押し付けられた背中に痛みが走り、目の前には息を切らした七海さんが真剣な表情で私を見据えて居た。
「何故逃げる」
「な、なな七海さん?いや、追いかけられたら逃げると言いますか……」
「その前に逃げ出したのはアナタです。いや、今はそれは良い。一つ確認したい。先程の猪野君の言葉に偽りはありませんか?」
綺麗に整えられた髪の一筋が額に流れる。
そんな様すらかっこいいと見惚れそうになるのに、七海さんの纏う雰囲気がそれを許してはくれなかった。
追い詰めた私を逃さぬよう七海さんの両腕が私の顔の横に置かれる。
所謂壁ドン状態となった私は至近距離で見つめる端正な顔に困惑するしか無い。
七海さんの片手が私の頬を撫でた。
その手つきの優しさはこれまで脳裏に思い描いたもの以上に優しく、けれどその感触は男の人のものを思わせるもので、今の私は心臓が口からいつ飛び出してもおかしくは無いとさえ考えてしまう。
「……今一度アナタに問います。アナタが想いを寄せているのは誰ですか?」
「……い、言えません」
「でしたら、その気になるまでこのままで」
「ひっ。な、なな……七海さん!?」
こつん、と私と七海さんの額が重なった。
時間距離すぎて表情が窺えないのに、七海さんの唇にばかり視線が向いて、何度も思い浮かべたキスを反芻するだけで心臓が早鐘のように鳴り響く。
微かに肌を撫でる吐息がこれを現実だと訴えかけ、いっそここが私の墓場で今日が私の命日になるのでは無いかと。
そんな不穏な妄想を繰り広げて居ると焦りを滲ませたような七海さんの声が私を現実に引き戻していく。
頬を両手で包まれて顔を引き上げられる。
自分より遥かに高い位置の顔を見上げるのに首が痛くなりそうで、けれどそんな事を気にする余裕すらなく赤くなればいいのか青ざめればいいいのかわからない胸の内はパニック所の騒ぎではなくなって居た。
「それで、アナタが想う男の名前は?」
「……あの、その……それ、は」
「早く言いなさい。私はアナタが思うより気が長い方では無い」
「……七海、さん、です」
「宜しい」
その瞬間、七海さんの雰囲気が和らいだ気がする。
慣れた手つきで頬に添えた手が肌を滑り、顎を掬い上げると僅かだった距離が更に詰まる。
思わず身体を強張らせギュッと目を瞑った。
しかし、唇にやってくるかと思われた感触は頬に落ちて、その後には強く鼻を擽る七海さんの香りに包まれて居た。
「七海さん……?もしかして体調不良とか。あの、ご乱心ですか?もし死別した恋人と私を重ねてたりするなら多分容姿も頭の中身も私の方が残念なのは確実ですので……相手はきちんと選ぶべきかと」
「馬鹿な事を言わないで下さい。大体なん何ですかその言い草は。死別した恋人なんて居ませんし、誰かと重ねて居るわけでも無い。私も、アナタが好きなんですよ。ですが年も離れて居るし接点もあまり無い。ずっと猪野君とそういう仲かと思って何度も諦めようとして居ましたが、この際はっきりさせたい。
猪野君と恋仲でも無く、アナタが想う相手が私だと言うのなら。どうかアナタの恋人の席を私に下さい」
その瞳は真剣そのものだった。
詰まる所、私と七海さんはずっと両想いであったものの琢真と付き合って居ると勘違いした七海さんはこれまでずっとそれを見守り続けて居たらしい。
補助監督から私達の居る所を見たと聞いては肩を落とし、琢真に嫉妬の念すら抱いた事もあるのだとか。
俄には信じ難かった。
完璧だと思って居る七海さんの隣には完璧な女性が居るのが当然で、脳内お花畑な自分は決して釣り合うはずがないと勝手ではあるものの確信めいたものがあったから。
「……夢?まさか今の私はもしかしたら走馬灯を見てます?本体死にかけてるとか……?」
「以前も言ってましたが、走馬灯が随分好きなようですね。ですがこれは夢でも走馬灯でも無く、現実です。それで、アナタの答えは?」
詰め寄られると逃げ場を求めて視線が彷徨うのは恋の駆け引きとは無縁な証拠なのだろうか。
少しでも理想に近づきたくて努力も時間もお金だって惜しんではこなかった。
しかしそれら全ては自己満足であり、結局持って生まれた容姿はどうにもならないと諦め、七海さんにならどんな女性が見合うのだろうかと夢を膨らませ、結局現実に打ちひしがれて来たというのに。
己の理想とする男性が自分を好きなのだとその唇が形どるたびに狐に摘まれたような錯覚さえ抱く。
痺れを切らしたかのようにカウントを始めた七海さんはその言葉通り思った以上に気が短いらしい。
熱を帯びた瞳に見据えられ言葉に詰まる。
けれど私が口を開くまでこの天国のようで地獄の体勢が変わる事は無いと思うと私は口を開くしかなかった。
「……私、残念な女ですよ?妄想拗らせすぎてるし、七海さんとデート気分味わいたくて琢真とどんなデートがしたいかなんて話で盛り上がったプランを実行して浮かれてるような痛い奴です。
こっそり七海さんに誕生日プレゼント贈りたいからって琢真に探りを入れてもらったり、いつもご飯一緒に行ってる琢真がむかつくからちょっと目潰ししてやろうかとも考えた事あります」
「興味深い。それで、そのデートプランとは?」
「待ち合わせデートだったり、デパートで香水選んだり、映画行ったり……などなど。あ、私としては朝チュンで七海さんの寝顔を堪能してみたいです」
「……は?」
「あ゛……」
あまりの気迫に気押され、決して本人には伝えてはいかないであろう事までも口走ってしまった私は咄嗟に口元を押さえてみたもののそれら全ては後の祭り。
何故こんな夢にまで見た状況になってまで己の痴態を晒さなければならないのかと数分前の自分を殴りつけたい。
大きく息を吐き出した七海さんの胸中はどんなものなのだろうか。
ただただ気持ちが悪いと一蹴されてもおかしくは無いと思える私の言葉をどう受け止めたか定かで無いのに、期待に鼓動が煩いくらいに鳴り響く。
「分かりました。では今後の休みは逐一私に連絡するように」
「はい?」
「ああ、その前に食事から始めましょうか。それで、今夜の予定は?もう一つ欲を言えば明日の予定も知りたい所です」
「ありま、せん……。明日は、休みで……」
「宜しい。では、いい店を知って居るので予約しておきます。先程の呪術師には今後言い寄られた際には私が居ると報告を。それでも折れない様なら私が対処します。
それと誕生日に関しては少し早いですが欲しいものがあるのでそれを頂けたら」
うっとりと目を細めた紳士の破壊力と言ったら道ゆく人たちが倒れ込むレベルで凄まじい。
それは頭の中で幾度も思い描いて居たものより遥かに私の胸を鷲掴み、このまま悶え死んでもおかしくはないとさえ思える。
しかし、一級術師と二級術師の報酬は天と地ほどの差がある。
言ってしまえば大企業のエリートサラリーマンと中小企業のOLと言った所だろうか。
七海さんの欲しいというものならばリボ払いをしたとしても消費者金融からお金を借りたとしても闇金に手を出してソープに沈んだとしても悔いは残さないし与えてあげたいと思う。
しかし、今後の己の人生を考えたらやはりご利用は計画的にという文言が頭を過り、恐る恐る七海さんと視線を絡めるとやはり眩いばかりのご尊顔は私の目には毒すぎた。
「あの、あんまり高いものとか……無理ですよ?私二級だし、七海さんほど高級取りでもないので。頑張りますけど流石にソープに沈んだらここまで育ててくれた両親にも申し訳が立たないので……」
「言って居ることに脈絡が無さすぎて分かりかねますが金銭にまつわるものでは無いので問題はありません。寧ろ必要なのはアナタの覚悟のみです」
「えっと……七海、さん?」
不意に私の右手を取った七海さんは流れるような美しい所作でその手を私の顔の前に持ってくる。
吸い寄せられるように手の甲に唇が落とされ、愛らしいリップ音が響くとピシッと私の身体が硬直した。
女ならば一度は憧れるであろうシュチュエーション。
しかも憧れの異性から想いを打ち明けられた直後にこんな事をされてはキャパオーバーと言うもので、発火したように赤くなった顔が熱を帯び、夏本番前の緩い風すら今は涼しげなものに感じられた。
「手始めに、今晩の時間を。そして、ゆくゆくはアナタそのものを私に下さい。朝チュンとやらはその時に存分に堪能して頂ければ」
「ひぃぃぃぃっ!!!」
その刹那、断末魔のような私の叫び声が長い廊下に木霊した。
ずりずりと逃げ場を探して脚が何度も動き回るのに、壁を背中にした状態では行く先などあるはずも無く、虚しく脚元が空を切る。
長年拗らせた片思いが思わぬ形で身を結ぼうとして居るのは喜ばしい以外の何者でも無いのだけれど、一足飛びで関係が発展しようとして居ることに関しては喜びというより慄きの方が強く、今の私は捕食される直前の小動物と言っても過言ではないだろう
ゆっくりと弧を描いていく七海さんの口元から目が離せなくなった。
「あぁ、それともう一つありました」
「まだ……何かございましたか?そろそろ私の頭がオーバーヒートしそうなんですが……」
「その内嫌でも慣れます。猪野君との距離の近さは少し改めて頂けたらと。私も男なので想う女性が夜な夜な他の男の部屋に向かうのは看過できない。それに関してはこれから私が直接話をしに行こうと思うのですが、アナタの意見も聞いておきたい」
琢真にすら嫉妬の念を抱いて居たと溢した言葉は本当らしく、すかさずそこを指摘するあたりこの人の本気を垣間見た気がする。
将を射んとせば先ず馬を射よだなんて言葉がある通り、この際私を将、琢真を馬とするのならばその計略は大成功と言えるだろう。
そうでなくとも七海さんの手に掛かれば私達は従順を通り越して下僕に近く、七海さんの存在が最早神がかって居るのだから反論の余地もない。
「……改めます」
「良い子だ。では、善は急げです。行きましょう」
首振り人形宜しく何度も首を動かす私はやはり七海さんの言葉には弱く、満足げに目を細めた七海さんが私の手を取ると意気揚々と廊下を歩き始めていく。
事実に即し、己を律する。
それが自身だと公言する七海さんはその言葉通り感情の機微は分かりづらい。
けれど今はほんの少し、この状況に浮かれて居ることが伝わって来て恥ずかしいやら嬉しいやら。
やはり私の思考回路はショート寸前と言っても良い。
ただ握られた手は少しばかり汗ばんでいるようにも思えて、どうやらこの状況に緊張して居るのは私だけではないらしい。
ほんの少し視線をあげて七海さんの横顔を一瞥すると耳はほんのり赤く染まり、それはきっとこの暑さのせいでは無いのだろう。
その場で待つようにでも言われたのか。
私が走り去った筈の場所にはまだ琢真が佇んで居た。
それはまるで留守を預かった番犬さながらの姿で、七海さんを見つけると嬉しそうに顔を綻ばせた姿が己に重なる。
けれどその視線が直様私達の手元に向かうと硬く繋がれた手を見て目を見開いた琢真が私と七海さんの顔を交互に見つめ、見る見るうちにその瞳が潤むと片腕で目元を覆い隠す。
「……真那、良かったな!」
「琢真!!私今いつ死んでも良い!!」
「不穏な事を言うのは辞めてください。それと、すぐに抱きつこうとしない。アナタの抱きつく場所は今後此処以外は認めません」
感動の余り抱擁を交わそうとした私の首根っこを掴むと七海さんは即座に己の元へと引き寄せ、それは悪さをする子猫を嗜める母のようにも思えた。
大人びた雰囲気と常識を持ち合わせ、仕事にはストイックな七海さんでも、どうやら嫉妬はするしそれが私の親友とも言える琢真であっても例外ではない。
抱き寄せられた胸元に顔を埋めるとドクドクと私と同じくらい鼓動が脈を打って居る。
それはきっとこの状況に七海さんが胸を高鳴らせて居る何よりの証拠で。
擦り寄って居た顔を僅かに上げると頬を染めながらも優しく目を細めて居る大好きな人と視線が絡み合って居た。
その人と出会ったのは私と同級生の猪野琢真が高専の三年生の時で、繁忙期に差し掛かった憂鬱な時期の事だった。
その当時、二年と少しを高専で過ごしたと言っても私達の思考はまだ子供と言っても差し支えがなく、呪術師にはなる事に対しても何処か判然とした展望しか抱いて居なかったように思う。
ただその日、たまたま任務に同行する事になった七海さんが自分達と同じ二級だと言われた事には耳を疑い、圧倒的なその存在感に唖然とした記憶がある。
呪術師と言うには些か似つかわしくない動きにくそうなスーツを身に纏い、その出立ちはまるで仕事の出来る商社マン。
けれど任務地に赴いた瞬間、その眼光は呪霊を前にすると獲物を見据えた獣の如く鋭く光り、此処は私が、そう言い残して駆け抜ける姿はまるで一陣の風を思わせる。
私よりも琢真よりも遥かに大きな身体からは想像も付かない程、その動きは柔軟であり俊敏で。
復帰したばかりの肩慣らしだからと念の為に同行した私達には当然の如く出番など有りはしなかった。
聞けば七海さんは学生時代は高専に籍を置き、最強の代名詞である五条さんの後輩なのだと言う。
訳あって一度は別の道を選んだものの、思うところでもあったのか、この道を再び選んだらしい。
自身をデンマークのクォーターだと言う日本人離れした容姿は人の目を惹き、稲穂の様な髪も、サングラス越しに垣間見る色素の薄い翠眼も私達の目を奪った。
まだ子供だった私と琢真からしてみたら七海さんは絵に描いたような大人の男性であり、理想と言っても過言ではなかったのだろう。
「ねぇ、琢真。あの人ヤバくない?」
「おう……なんか、かっこいいよなぁ」
帳が上がり、帰りましょうと促された背中を見つめて私達はその大きさに感嘆の溜息を溢すばかりだった。
後に続く私達はこの時、目指すべき目標を見つけたのと同時にまるで幼子がヒーローを見つけたような。
そんな心持ちだった気がする。
呪術師には変人が多い。
人の負の感情から生まれる呪いと対峙し、命のやり取りをする人間なんて何処かしらイカれて居なければ務まるはずもない。
同じ世界にいる私でもそう認識しているし私自身も変わり者の自覚はある。
少なからずこの世界と関わって居る人間はどこかしらイカれてるというのは周知の事実であり、その事に関して意を唱える者はほとんど居ない。
それは呪術師のみならず補助監督や窓も同じで、呪いを視認しながらもこの世の中を生きて居る事自体が何よりの証拠と言えるだろう。
そんな中で、七海さんの大人びた雰囲気、常識を持ち合わせた態度、仕事に対するストイックさ、其れに反する労働はクソだと言う言葉は当時の私達には衝撃であり、その瞬間に七海さんは私達にとって憧れとなった。
それまで決して慢心していたわけでは無いけれどそれ以来私達は己の術式を磨く為に我武者羅に邁進する。
それは一重にこの人に認められる呪術師になりたいと、その一心からだったようにも思う。
初めこそ二級だったのは卒業時にその階級だったと言うだけの事で、あっという間に一級術師として前線に立つ様になった七海さんは今日も今日とて、労働はクソだと嘯きながらも人を助けるために奔走する。
あの日から既に三年。
未だ憧れである七海さんの背中を追いかける私達も高専を卒業して呪術師となり、けれどあの日の憧憬は今もずっと瞼に焼き付いて離れる事はなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
呪術高専に身を置いて数年になるけれど、私の家系は代々伝わる呪術師と言う訳ではない。
しかしその血筋からはこれまでに何人かの呪術師を輩出しており、呪術師に関して無知な訳でも、理解がないと言う訳でもなかった。
私が術式を自覚してからは身内の誰かしらがその扱い方を教えてくれたし、呪術師になるか否かの選択肢すら与えてくれて。
呪術師となるべき道、ならざるべき道を示し、説いてくれた。
要は私は恐ろしく周りに、環境に恵まれて居たのだろう。
五条さんの様な大層な家に産まれ雁字搦めにされる立場でもなく、非術師の家系にぽっと出で産まれてしまい理解のない親元で育つわけでもなく、常に私には自由という選択肢が残されて居たのだから。
呪術師になろうと思った切っ掛けすらあやふやな状態だった私にとって七海さんの様な呪術師になる事が目標となって以来、まるで世界に色がついた様に目にするものすべてが新しいものに見えていった気がする。
それは琢真も同様であり、一級の推薦を貰うならば七海さんからだと言う拘りを持ち続け、既に準一級になっても不思議ではない実力を備えながらも二級に甘んじて居る。
琢真とは高専に入学してからの付き合いになるけれどお互い異性と言う事を考えないほどに私達は仲が良い。
それは双方の性格も有るのだろうけれど、兎に角一緒にいて楽なのだ。
もし前世があるのだとしたら同じ親から産まれたか双子だったのでは無いかと思える程に趣味嗜好も似て居て、卒業しても尚その関係は変わる事なく暇さえあれば一緒にいる事が当たり前。
琢真となら世間でよく言われる男女間で友情は成立するか云々の話も肯定的な意味で捉えられる。
その会話の内容も最近では専ら互いの憧れである七海さんの事ばかりとなり、共に居る姿を見て恋人だと誤解される事も少なくは無いが天地がひっくり返ったとしても其れは無いと言い切れる。
そんなただの七海さん親衛隊だった私に変化が訪れたのは今から一年前だっただろうか。
私は階級こそ二級となって居るけれどその術式自体は七海さんや琢真のような攻撃タイプのものではない。
どちらかと言えば京都の庵さんのような補助の役割を果たす事が多く、単独任務で討伐できる呪霊は知れている。
ただ、誰に対しても効果を発揮できる術式は頻用性が高い。
故にそこそこ等級の高い任務に同行する事もしばしばなのだけれど、その日は明らかに私達の手に負える案件では無かった任務先で重傷を負い、死を覚悟した。
「……もう少しだから、頑張って……!!」
返事のない自分よりも大きな身体を引きずり、文字通り血反吐を吐く思いをしながら私が言葉を絞り出す。
同行して居た主戦力である呪術師は瀕死。
何とか対象だった呪霊こそ討伐できたものの、残りの雑魚が今にも私達に襲い掛からんばかりの気配を感じさせて居た。
だらりと垂れ下がる手がその猶予のなさを物語る。
最早一刻も早い離脱が急務であり、いつ私自身も倒れるかすら定かではなかった。
けれど己の身体に鞭を打ち、共に離脱を試みたものの自身も満身創痍の身体は思う様に動いてはくれず。
せめて今日の相棒となったこの人を帳の外へ逃さなければと躍起になって居た時、近くの現場に居合わせて居た七海さんに助けてもらい、私と相棒だった呪術師は一命を取り留めた。
私達を連れ立った補助監督は一足先に高専に戻る事になり、私は応急処置を施され、七海さんと共に別の車で高専の帰路に着くことになる。
その際、歩く事すら儘ならなかった私は七海さんによって横抱きにされ、衣服が裂けて血と共に外気に晒された肌は七海さんの上着によって隠され終始気遣う言葉を掛けられ私はきっと常識を司る頭のネジが三本程抜け落ちてしまったのだろう。
「如月さん、大丈夫ですか?」
「七海さんに抱っこされてる走馬灯が見えてます……」
「しっかりしなさい。走馬灯では無くこれは現実です。それに、アナタに何かあれば猪野君が悲しみます」
「……そう、ですね。さっきの人は、大丈夫……ですか?」
「心配ありません。高専に着き次第家入さんが治療してくれます。勿論アナタも。本当に、よく頑張りました」
元々、七海さんは私が憧れて居た理想の人だ。
ただそれは例えるならばアイドルや芸能人に憧れる様な感覚に近く、謂わば推しと言っても過言ではない。
琢真は時折食事に行ったりするらしいけれどそう言う時に限って私は別件の任務で駆り出されて居る事が殆どで。
これまで碌に機会には恵まれず、琢真からの話を聞いては羨むばかり。
かと言って自分一人で話しかける度胸もなければ食事だなんて恐れ多くて誘う事すらできなかった。
そんな相手が自分に触れて、あまつさえ悲しげな瞳で私を見つめ、優しい言葉を掛けてくれる。
もう大丈夫だとあやすようにして私の頑張りを誉めてくれた。
……これがどうしたら恋をせずに居られるのだろうか。
落ち着いた優しい声にこれまで感じたことのない程に胸を締め付けられた。
ドクドクと脈打つ己の鼓動と触れられた箇所から熱を帯びる肌。
痛みと羞恥がないまぜになった胸中は混乱しか齎らしてはくれず、意図せず瞳には涙が滲む。
それを死にかけた恐怖からと勘違いしたであろう七海さんは私を抱き抱えたまま車に乗り込み、移動中の車の中でただ私の手を握りしめ、辛いならば自身の肩にもたれる様にと私の肩を抱き寄せた。
間近で感じる七海さんの香り、自分と違う無骨な手の感触、微かに触れる肩の大きさは己のものとは明らかに違い、常に一緒にいる琢真のものとも違う、男の人のものだった
胸を張って断言できる。
この時、私の頭のネジは更に五本ほど抜け落ちたに違いない。
それ以来、ただ遠くで見て居られるだけで満足して居たはずの私の想いは急速に膨れ上がり、捻れに捻れ、限界まで拗れた挙句、迷惑極まりない形となって誰にも止めようの無い程の暴走を繰り広げていく事になる。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
あの日から一年。
それは推しとも言える憧れの人にガチ恋して一年の歳月が流れたと言うことになる。
その間に私の身に起こったことと言えばズボラだった私生活が少しばかり改善された事だろうか。
部屋が綺麗になり、いつ七海さんが私のプライベートな空間に訪れてもいい様にと気を配るようになった。
身形にも気を配り、元々動きやすい服装重視な所は変わって居ないけれどナチュラルメイクを施すようになると伸ばしっぱなしだった髪もちゃんと手入れをしてパーマをかけた毛先が胸元で揺れている。
女らしくなったと評される事も多くなり、本当にごく稀にだけれど異性の補助監督や呪術師から食事に誘われたりするようにもなった気がする。
尤も、碌に知りもしない相手と食事に行く気も無いのでのらりくらりと躱しては琢真との時間を共有しているのだけれど、それは七海さんの情報が欲しいからに他ならない。
部屋を見れば七海さんは綺麗にしてますねと褒めてくれるし、髪型を変えれば同様によく似合ってますと褒めてくれる。
照れた私が顔を俯かせたらこちらを見て下さいと頬に手を添え、その後には鋭い翠眼が優しげに少しだけ細まっていき、次第に距離が近づくと唇が重なる。
因みにこれらは全て私の妄想の中の七海さんであり、私の願望でしかない。
相変わらず私と七海さんの接点は琢真を通じたものしかないし、認知はされいても任務以外では個人的に会話をすることすら稀だ。
日々脳内の七海さんとあんな事やこんな事を繰り広げるようになった私は口にこそしないものの見事に痛々しい女へと成長し、今日も今日とて、共に任務に赴いた琢真とテーブルに向かい合うと七海さんへの思いの丈を互いに語り続けて居た。
「ねぇ、琢真。結婚したい」
「は?誰とだよ」
「決まってるでしょ。……はぁ、七海さんの子供が産みたい。きっと可愛い、天使でしか無い。なんであんなにかっこいいの?もう存在そのものが尊い」
「真那、それただの痛い女だからな」
「わかってるけど。七海さんが私なんて相手にするはずも無いし?あの人の隣に立つなら完璧な人であって欲しいし。でも七海さんが誰かに愛を囁くだなんて許せない……!!」
ここ一年で私の口は琢真といる時に限り、暇さえあれば結婚したい、子供を産みたいとそんな夢物語ばかりを語るようになった。
この状況を例えるならば強火同担拒否女とでも言えばいいのだろうか。
万が一にも自分がそう言った対象にならない事は理解している。
しているからこそ拗れた妄想が止まらず、日々七海さんに愛を囁かれる妄想を繰り広げては表情筋を緩めるしか無く、一緒に任務に赴ける琢真が羨ましいやら妬ましいやら。
いっそ手元が狂って目の前の友にうっかり目潰しをしてしまいたくなる。
食堂のテーブルに勢いよく突っ伏すと、買ってきたばかりのコーヒーが大きく揺れる。
幸い溢れることこそなかったものの、こんな私の状況を常に見ている琢真は、また始まったと言わんばかりの溜息を溢していた。
「重症だなぁ。ま、真那より俺の方が七海サンの事分かってるし好きだけどな」
「子供産めないくせにっ!!幸せならいいんだけどね!?七海さんが幸せなら私はそれで良いんだけども!!でもできる事なら私が幸せにしてあげたい。あの笑顔、私が守りたい……っ!!」
「笑ってるところなんて滅多に見ないけどな。つか食おうぜ。腹減った」
普段なら共に任務に赴けばその辺の店舗で夕食まで取った後、琢真の部屋でオールでゲームをする事が当たり前の私達は今日はコンビニで買ってきた軽食を平らげ、このまま恒例の七海さんについて語り合う会が始まる。
その内容といえば毒にも薬にもならないようなものばかりで、七海さん本人の意志など微塵も尊重されていない、題して「七海さんとデートするなら何処がいいか」ゲームと言うもの。
それはただ単に自分自身が七海さんと行きたいところを挙げ連ねるだけのものなのだけれど、相手が琢真となるとこれが物凄く盛り上がる。
先日など夜通しそのデートプランについて語り合い、けれど誘えないのならば行くだけ行ってみようと弾丸ツアーまで企画してしまった程だ。
こうして琢真が私の荒ぶる恋心に自制を強いるどころか自身までノリノリになってしまうから私の暴走が止まらなくなる。
それを差し置いたとしても、七海さんに関する事となればオンかブーストしか存在しない夢みがちな恋心は本人には言えないものの猪突猛進と言っても過言では無く、その制御の仕方は最早私自身にすら理解が及ばないものへとなりつつあった。
「で、今日のお題は?」
「お互い休みの一日。七海サンと何をする?」
「え、先ずはベッドでおはようから始まって……」
「ちょいちょい!!いきなり夜一緒に過ごしました感出す?ここはさぁ、待ち合わせデートが定番だろ」
「うわー!!デートっ!待ち合わせ!?それ、いい……っ!私服姿が見られるって事でしょ?絶対かっこいいじゃん!!待ち合わせの三時間前から待てるやつじゃん」
「いや、それじゃただのストーカーだろ。ちゃんと時間に来いよ。でも確かに、私服姿は良いよなぁ。ハイブランドもサラッと着こなしてそうだし、いろんな店知ってそうだもんな。んじゃ、試しに今度やってみるか?」
「よし!やろう!!」
ダンとテーブルを叩きつけながら立ち上がった私は、琢真と硬く握手を交わす。
こうなれば次の休みのスケジュールは埋まったも同然で、互いに今後の休みの予定を照らし合わせながらも妄想が止まる事はない。
相手は結局琢真なのだからこれは琢真とデートということになってしまうのだろうけれど、私の脳内変換機能を持ってすれば隣にいるのが七海さんに変わるし、本人とデートしている気分に浸りながら七海さんの話をし放題というまるで夢のような現象が起こり始めるのは言うまでも無い。
私達の盛り上がる会話の最中、夜食を取りに来た補助監督が私達の会話を見聞きして微笑ましい視線を送る。
それがどう言う意味合いで取られているかなど知る由もない私達はただただ、七海さんと出かけたい場所を並べ立て、盛り上がっていく会話は既に満開のお花畑状態と言ってもいいだろう。
「映画デートとかも良いよね。あ、でもお家で映画とかもいいなぁ……。もし一緒に行くならデパートとかで香水選んであげたり……私に似合いそうなやつとか選んでもらいたいなぁ」
「良いねぇ。真那が普段つけてる香水もいい感じだけどさ。相手の好みのものってのはまた格別だよなぁ」
ほんの少し距離を詰めた琢真が私から仄かに香る香水を確かめながら首を何度も縦に振る。
それもそのはず、この香水は七海さんの愛用しているものに見合うよう使っているものを聞いてから吟味に吟味を重ねて選んだものだ。
そして現在、恋人同士のじゃれ合いとも取れる距離に琢真が居ようとも互いの頬はまるで赤らむことなどなく、ただただお互いの頭の中は七海さんの事しかない。
流石琢真は私の胸中をよく理解してくれる。
七海さんの事に関してはいっそ自分の分身では無いかと思える程に考えが一致し過ぎていっそ怖い。
不毛だと思えるこの恋も一応は応援してくれて居り、時折私の話題を出してくれたりもするらしい。
けれど自分の方が七海さんを好きだと言う一点については譲るつもりは無いらしく、現状一番近い場所にいる琢真が正直言って妬ましくなる時もある。
同性だから踏み込める領域というのは存在するし、異性だから成し得る関係もある。
けれど私に関しては七海さんとどうこうなれる可能性など微塵もない事は理解出来るだけの頭はあって。
こんなことになってしまうくらいならばいっそ雲の上の人のまま、手の届かない憧れた存在であってくれた楽だったとも思うのに。
七海さんの事を考えるだけで楽しくて、嬉しくて、姿を見る事が出来ただけでその日一日浮かれて過ごせるおめでたい頭が憎らしい。
手にしたサンドイッチを齧りながらも思う事は一緒にお勧めのカスクートが食べてみたいだなんて妄想ばかりで。
先日見つけた良い感じのお店の味を是非にも七海さんにお伝えしたいと思う反面、いざ目の前に七海さんが居ると思うと私はしどろもどろになり、口数も普段の半分以下となってしまう。
「琢真が羨ましいなぁ……」
「そうだろ。七海サンに一番近いポジションに居る自覚はあるからな。まぁ、そう落ち込むなって。今度飯誘ってやるから。真那はさ、黙ってりゃイケると思うんだよな。うん、黙ってりゃ」
「いや、望めないでしょ。せめて冥さんや家入さんくらいの美女でなきゃ七海さんとは釣り合わない。寧ろそうでなければ私が許さない」
「七海サンの好みは無視かよ」
「七海さんの幸せは!!私が守る!!」
高らかにそう宣言しながら飲み干したコーヒーのカップをビール瓶の如く叩きつけてみてもイマイチ迫力には欠ける。
しかし、どうかその意気込みだけは伝わっている事を願いたい。
まるで絡み酒でもするかの如く管を巻く私に対しても面倒臭がらず付き合ってくれる琢真は本当に良いやつだ。
けれどそこから恋愛云々という話に発展する事はなく、後輩力が高い琢真は面倒見が良く、存外先輩としても有能なのだろう。
先程まではちらほらと見受けられていた補助監督の姿もいつのまにかすっかり姿を消し去り、話し込んでいるうちに時計の針はてっぺんを回ろうとしている。
流石に食堂で七海さんの事に関して談義を続けるのはいつ御本人の耳に届くかも判らずリスクが大きい。
場所を琢真の部屋に移した私達は夜通しテレビの前で一狩りし続けながらもずっと七海さんの事について語り、気がついた時には朝日がカーテンの隙間から差し込むまでになっていた。
「良い時間を過ごせた……。充実し過ぎてた。寝不足なのに肌艶が増した気がする」
「真那、色々ヒートアップしすぎだろ。最後らへん激し過ぎて俺もちょっとビビったわ」
朝日がやけに目に染みるのに、七海さんの事を考えているだけで私の脳内ではセロトニンもオキシトシンもドーパミンも出まくっている。
要は幸せホルモン全開な状態と言っても良い。
話のテンポが合う人間と共通の好きなことに関して語らう時間は有意義でしか無いし、ストレス発散にも打ってつけだ。
例えば数日後には最近しつこく言い寄られている少し苦手な呪術師と組む任務があろうとも、今の会話を思い出すだけでその苦痛も和らぐと言うもので。
今から仮眠を取ったとしてもきっと良い夢を見る事ができるに違いない。
「あ、そうだ。琢真一つ頼み事があるんだけど」
「どうした?」
「七海さんの誕生日近いから、今度会った時にプレゼントなら何が嬉しいか探ってみてくれない?」
少し早い時間とは言えど日が登り始めれば補助監督が動き出す気配を感じる。
食堂では大っぴらに七海さんについて語り合ったものの、それが七海さんへのプレゼントとなると誰かに聞かれてしまうのは少し気恥ずかしくて。
琢真に近寄りながら耳打ちすると私の勇気を讃えるように琢真は白い歯を見せながら自身の胸を大きく叩く。
受け取ってもらえるかどうかすら定かではない。
けれど琢真情報によれば今は特定の相手は存在しないらしいし、日頃のお礼と称して仕舞えば断られる事も無いだろうと期待が過る。
持つべきものは後輩力の高い異性の友人だ。
琢真ならそう言った話題もきっと会話の中でサラッと聞いてくれるだろうし、その後私にもちゃんと包み隠さず教えてくれる。
大きく背伸びをすると急に眠気が襲ってくる気がして欠伸を噛み殺す。
お願いねと念を押すようにして、私は手を振りながら別れの挨拶を交わした。
「ほんっと、楽しかったわ。良い夢見れそう。じゃ、またね」
「おうっ。またな」
扉数枚向こうの自室。
そこに辿り着けば泥のように眠れる予感しかしなかった。
けれどいつ会えるかも分からない七海さんとの遭遇に備えてメイクは落としたい。
シャワーは後回しにしたとしてもスキンケアだってちゃんとしたいし、二十代前半という若さに胡座をかいてはいけないとずぼらを絵に描いたような人間だった私が三代欲求に抗うだけの思考を持ち合わせるようになった事は賞賛に値するだろう。
それもこれも七海さんへの恋心故なのだけれど、生憎これが報われるかと問われたら可能性は極めて低い。
それでもやめられないのはきっと少しでも憧れの人の記憶に自分を残したいと言う無垢なようで打算的な思いからだ。
メイクを落とし、洗顔まで済ませて愛用している化粧水を肌に馴染ませながら鼻歌混じでベッドに寝転ぶ私は、きっと数日後にはやってくるであろう琢真からの情報が既に待ち遠しくて堪らない。
深夜の食堂で琢真と七海さんとのデートプランを語り合っていた事が補助監督の誤解を招いているなど知る事もなく。
先程の光景を徹夜明けの私達の姿を七海さんが目撃していたなんて思うはずも無く。
例え社交辞令のお礼であっても自らの贈り物を手に取ってくれる様を想像し、ベッドで脚をばたつかせながらも次第に私の意識が沈んでいった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日は、七海さんの誕生日まで残すところ一週間と迫った時で、煩わしかった梅雨も明けて清々しい青空が一面に広がっていた。
連日補助の任務ばかりが続いて居り、琢真と語り合う時間も取れず鬱憤は溜まる一方。
しつこい先輩呪術師からの口説き文句に愛想笑いをしながらも何とか食事の誘いを断り、逃げ出すように渡り廊下を駆けて居た際の事だった。
あまりのしつこさに追いかけて来ないかと背後に気を取られて居たせいか。
ちょうど曲がり角に差し掛かった時、ドンと何かにぶつかるとその拍子に私は尻餅をつき、すかさず差し伸べられた手に思考が一瞬停止する。
北欧の血が混じっているからか自分のものより白いと思える肌。
切り揃えられた綺麗な爪先と肌とは対照的な無骨だとさえ思える指は間違いなく焦がれた人のもの。
恐る恐る顔を上げると差し込む日差しに煌めいた髪がいっそ神々しくも思え、サングラス越しに絡んだ視線に身体が硬直したのも束の間で。
己に向けて掛けられた声のあまりの良さに耳だけで妊娠は可能なのかと至極くだらない事に考えを巡らせて居た。
「すみません。大丈夫でしたか?」
「……えっ、いや、あの。はい。私の方こそすみません……。よそ見してて」
手を借りて立ち上がると怪我の心配までされてしまい、状況が把握できないまま私は頷いたり
ハプニングとは言えこんな形で七海さんに触れる機会に恵まれた事に動揺を隠しきれない。
今日のメイクはどうだったか。
髪は乱れて居ないだろうか。
そもそもジャケットに思い切り顔を突っ込んでしまって、もし汚してしまって居たら目の前に御尊顔があったとしても合わせる顔がなく、何より近くで感じた七海さんの香りに既に理性が飛びそうだった。
顔に熱が籠る。
それすらも体調が良くないのかと労わる気遣いに胸を鷲掴まれたような感覚に陥り、大丈夫だと必死に首を縦に振り続けて居ると救世主とばかりに背後から顔を覗かせた琢真の姿に涙さえ浮かびそうになってしまった。
「真那か?どうしたんだよ、そんな慌てて」
「……あ。琢真もいたんだ。ちょっとね。あのさ、後ろから誰もついてきてないよね?」
互いに隠し事など無いに等しい琢真には直ぐその理由に気づいてくれたらしく、私の背後に視線を向けると人の気配がないことを確認してくれた。
大丈夫だと伝えるように肩を叩かれると途端に安堵の溜息が溢れる。
毎回体のいい断り文句を探すのにもそろそろ限界が見え始めて居り、だからと言って琢真を利用してしまうのは気が引けてしまい、いっそ架空の彼氏を作り上げてしまおうかとも考えるのに。
私の交友関係を知り尽くされて居るのかその手は使えそうにない事に毎度頭を悩ませている。
意図せず溜息ばかりを漏らす私に二人の眉根が寄っていく気がした。
覇気の無い笑みを浮かべると琢真は私の頭に手を置き、慰めるように再び背後に視線を向けて居た。
「また例の先輩か?そろそろきっぱり断れよ」
「そうなんだけどさ、任務で組む事も多いから言いづらくって」
「俺から言ってやろうか?脈なしなの分かっててもめげないよなぁ」
「悪いよ。それにもし琢真に彼女が出来た時、変に誤解しちゃうでしょ」
双方に恋人が出来た場合、仲の良さは変わらずともその距離感は少し改めなければならないというのは常々思って居た事だ。
仮に私ならば、彼氏が友達だからと女を部屋に連れ込むのは許せないし、例え健全な仲だとしても嫉妬の念は抱く。
自分がされて嫌な事は相手にもしては行けないと言うのは親から常に言い聞かせられてきた言葉であり、我が親ながらいい教育をしてくれたと思う。
だからこそ自分が好意のない人間に言い寄られて困惑するのだから私に好意を向けられたら七海さんも同じ感情を抱くのだろうとこの恋に積極的になれないのだけれど。
それ自体、元々脈なしだと思って居るのだからせめて妄想くらいは許してもらいたい。
私達の会話を聞く七海さんはほんの一瞬その雰囲気が強張ったものに変わったようにも思えた。
けれど一度咳払いをすると私達の視線は当然七海さんに向かい、改まった様子で口にした言葉に目が点になるしかなかった。
「つかぬ事を聞きますが……二人は恋仲という訳ではないのですか?」
「はい?」
「七海サン?」
「ですから、如月さんと猪野君は恋人同士ではないのですか?」
その瞬間、私と琢真場合七海さんの言葉に理解が追いつかず互いの顔を見合わせて居た。
確かに仲は良い。
いつも一緒にいるし、楽しいし、琢真以上に馬の合う友人は高専の外にすら存在しないと思って居る。
ただ私達はどうやらその姿を他人が見たらどう思うかという事を失念して居たらしく、私達の姿を目撃する補助監督達の中では私と琢真が付き合って居る事が確定して居り、度々見かける私と琢真の仲の睦まじさに目尻を下げて居たらしい。
まさか預かり知らぬ所でそんな誤解を招いて居たとは知る由もなく、何より七海さんに誤解されてしまった事に私は身振り手振りで必死に否定を訴えて続けた。
「七海サン、そりゃないっすよ。真那は気の合うダチで、家族みたいなもんっすから。大体、暇さえあれば俺ん所でオールでゲームやって腹出して寝こける様な奴なんですよ?
それに俺も真那も昔っから七海さん一筋です。真那なんてガチ恋って言っても過言じゃ……」
「琢真ぁあぁぁ!!!!」
私が叫び声を上げるのと同時に琢真が口を滑らせたとばかりに自身の口元を押さえた。
しかし時はすでに遅し。
はっきりと音になって伝わってしまった己の積年の想いはよりにもよって他人の口によって想い人に露呈する事になり、私は思わずその場で顔を覆い隠して蹲る。
告げるかどうかすら定かではなかった。
もう少し自分に自信ができたら、もう少し接点が増えたらと、そうやってなぁなぁにしながら先延ばしにするだけしてきて、結果玉砕覚悟で体当たりする事を恐れて居た私はただ一方的な片思いして居る今がとても楽しかったのだろう。
仮に告白して振られて仕舞えば諦めなければならない。
そう思うからこそこれまでずっと伝えずに居たのに、私はこの先一体何を生きがいにして生きていけば良いのかとまるで路頭に迷うような心境だったに違いない。
無言が気まずさに拍車を掛けた。
しかし、断りの文句はいつまで経ってもやってくる事はなく、琢真だけが項垂れる私と七海さんの表情を知って居るのか。
ある意味、驚愕にも似た声をあげて居た。
「……えっ?えぇ!?まじっすか……?」
「如月さん」
落ち着いたトーンの低音が鼓膜を撫でた瞬間、身体が強張るのを自覚する。
走馬灯のように脳裏を巡るこれまでの七海さんの姿は思い出のアルバムのどのページを開いてみてもやはりかっこいい。
きっとこの後に続くのはすみませんという謝罪の言葉で、私の煩悩塗れの恋は終わりを迎えてしまうのだろう。
ただ想うだけなので許して下さいとそんな図々しい事が面と向かって言えるメンタルは持ち合わせて居ない。
だかと言ってこの想いを一時でも否定してしまう事は出来なくて。
挙動不審となった私ができる事はこの場から速やかに離脱する事だけだった。
「……ご、ごめんなさいぃっ!!!」
「おいっ!真那!?」
七海さんの顔を見ることすら出来ず、文字通り逃げるようにその場から駆け出した私に慌てた琢真が呼び止めるような声を上げるのに、今はそれどころではなかった。
先程の先輩と遭遇するリスクより、七海さんに不快な思いをさせてしまう方が耐え難い。
更にはこんな痛い妄想を繰り広げて居た事を知られたら私は自ら今にも変態を遂げそうな受胎の群れの中にでも身を投じてでもこれまでの非礼を詫びなければならないだろう。
構内を全力で走り抜ける私に何人もの補助監督が驚いた顔をして居た気がする。
否、厳密には私の背後から迫る七海さんに驚いて居たのだろうけれど、そんな事知る由も無い私は行き先も考えずにただ走り続け、やがて腕を掴まれると壁に押し付けられた背中に痛みが走り、目の前には息を切らした七海さんが真剣な表情で私を見据えて居た。
「何故逃げる」
「な、なな七海さん?いや、追いかけられたら逃げると言いますか……」
「その前に逃げ出したのはアナタです。いや、今はそれは良い。一つ確認したい。先程の猪野君の言葉に偽りはありませんか?」
綺麗に整えられた髪の一筋が額に流れる。
そんな様すらかっこいいと見惚れそうになるのに、七海さんの纏う雰囲気がそれを許してはくれなかった。
追い詰めた私を逃さぬよう七海さんの両腕が私の顔の横に置かれる。
所謂壁ドン状態となった私は至近距離で見つめる端正な顔に困惑するしか無い。
七海さんの片手が私の頬を撫でた。
その手つきの優しさはこれまで脳裏に思い描いたもの以上に優しく、けれどその感触は男の人のものを思わせるもので、今の私は心臓が口からいつ飛び出してもおかしくは無いとさえ考えてしまう。
「……今一度アナタに問います。アナタが想いを寄せているのは誰ですか?」
「……い、言えません」
「でしたら、その気になるまでこのままで」
「ひっ。な、なな……七海さん!?」
こつん、と私と七海さんの額が重なった。
時間距離すぎて表情が窺えないのに、七海さんの唇にばかり視線が向いて、何度も思い浮かべたキスを反芻するだけで心臓が早鐘のように鳴り響く。
微かに肌を撫でる吐息がこれを現実だと訴えかけ、いっそここが私の墓場で今日が私の命日になるのでは無いかと。
そんな不穏な妄想を繰り広げて居ると焦りを滲ませたような七海さんの声が私を現実に引き戻していく。
頬を両手で包まれて顔を引き上げられる。
自分より遥かに高い位置の顔を見上げるのに首が痛くなりそうで、けれどそんな事を気にする余裕すらなく赤くなればいいのか青ざめればいいいのかわからない胸の内はパニック所の騒ぎではなくなって居た。
「それで、アナタが想う男の名前は?」
「……あの、その……それ、は」
「早く言いなさい。私はアナタが思うより気が長い方では無い」
「……七海、さん、です」
「宜しい」
その瞬間、七海さんの雰囲気が和らいだ気がする。
慣れた手つきで頬に添えた手が肌を滑り、顎を掬い上げると僅かだった距離が更に詰まる。
思わず身体を強張らせギュッと目を瞑った。
しかし、唇にやってくるかと思われた感触は頬に落ちて、その後には強く鼻を擽る七海さんの香りに包まれて居た。
「七海さん……?もしかして体調不良とか。あの、ご乱心ですか?もし死別した恋人と私を重ねてたりするなら多分容姿も頭の中身も私の方が残念なのは確実ですので……相手はきちんと選ぶべきかと」
「馬鹿な事を言わないで下さい。大体なん何ですかその言い草は。死別した恋人なんて居ませんし、誰かと重ねて居るわけでも無い。私も、アナタが好きなんですよ。ですが年も離れて居るし接点もあまり無い。ずっと猪野君とそういう仲かと思って何度も諦めようとして居ましたが、この際はっきりさせたい。
猪野君と恋仲でも無く、アナタが想う相手が私だと言うのなら。どうかアナタの恋人の席を私に下さい」
その瞳は真剣そのものだった。
詰まる所、私と七海さんはずっと両想いであったものの琢真と付き合って居ると勘違いした七海さんはこれまでずっとそれを見守り続けて居たらしい。
補助監督から私達の居る所を見たと聞いては肩を落とし、琢真に嫉妬の念すら抱いた事もあるのだとか。
俄には信じ難かった。
完璧だと思って居る七海さんの隣には完璧な女性が居るのが当然で、脳内お花畑な自分は決して釣り合うはずがないと勝手ではあるものの確信めいたものがあったから。
「……夢?まさか今の私はもしかしたら走馬灯を見てます?本体死にかけてるとか……?」
「以前も言ってましたが、走馬灯が随分好きなようですね。ですがこれは夢でも走馬灯でも無く、現実です。それで、アナタの答えは?」
詰め寄られると逃げ場を求めて視線が彷徨うのは恋の駆け引きとは無縁な証拠なのだろうか。
少しでも理想に近づきたくて努力も時間もお金だって惜しんではこなかった。
しかしそれら全ては自己満足であり、結局持って生まれた容姿はどうにもならないと諦め、七海さんにならどんな女性が見合うのだろうかと夢を膨らませ、結局現実に打ちひしがれて来たというのに。
己の理想とする男性が自分を好きなのだとその唇が形どるたびに狐に摘まれたような錯覚さえ抱く。
痺れを切らしたかのようにカウントを始めた七海さんはその言葉通り思った以上に気が短いらしい。
熱を帯びた瞳に見据えられ言葉に詰まる。
けれど私が口を開くまでこの天国のようで地獄の体勢が変わる事は無いと思うと私は口を開くしかなかった。
「……私、残念な女ですよ?妄想拗らせすぎてるし、七海さんとデート気分味わいたくて琢真とどんなデートがしたいかなんて話で盛り上がったプランを実行して浮かれてるような痛い奴です。
こっそり七海さんに誕生日プレゼント贈りたいからって琢真に探りを入れてもらったり、いつもご飯一緒に行ってる琢真がむかつくからちょっと目潰ししてやろうかとも考えた事あります」
「興味深い。それで、そのデートプランとは?」
「待ち合わせデートだったり、デパートで香水選んだり、映画行ったり……などなど。あ、私としては朝チュンで七海さんの寝顔を堪能してみたいです」
「……は?」
「あ゛……」
あまりの気迫に気押され、決して本人には伝えてはいかないであろう事までも口走ってしまった私は咄嗟に口元を押さえてみたもののそれら全ては後の祭り。
何故こんな夢にまで見た状況になってまで己の痴態を晒さなければならないのかと数分前の自分を殴りつけたい。
大きく息を吐き出した七海さんの胸中はどんなものなのだろうか。
ただただ気持ちが悪いと一蹴されてもおかしくは無いと思える私の言葉をどう受け止めたか定かで無いのに、期待に鼓動が煩いくらいに鳴り響く。
「分かりました。では今後の休みは逐一私に連絡するように」
「はい?」
「ああ、その前に食事から始めましょうか。それで、今夜の予定は?もう一つ欲を言えば明日の予定も知りたい所です」
「ありま、せん……。明日は、休みで……」
「宜しい。では、いい店を知って居るので予約しておきます。先程の呪術師には今後言い寄られた際には私が居ると報告を。それでも折れない様なら私が対処します。
それと誕生日に関しては少し早いですが欲しいものがあるのでそれを頂けたら」
うっとりと目を細めた紳士の破壊力と言ったら道ゆく人たちが倒れ込むレベルで凄まじい。
それは頭の中で幾度も思い描いて居たものより遥かに私の胸を鷲掴み、このまま悶え死んでもおかしくはないとさえ思える。
しかし、一級術師と二級術師の報酬は天と地ほどの差がある。
言ってしまえば大企業のエリートサラリーマンと中小企業のOLと言った所だろうか。
七海さんの欲しいというものならばリボ払いをしたとしても消費者金融からお金を借りたとしても闇金に手を出してソープに沈んだとしても悔いは残さないし与えてあげたいと思う。
しかし、今後の己の人生を考えたらやはりご利用は計画的にという文言が頭を過り、恐る恐る七海さんと視線を絡めるとやはり眩いばかりのご尊顔は私の目には毒すぎた。
「あの、あんまり高いものとか……無理ですよ?私二級だし、七海さんほど高級取りでもないので。頑張りますけど流石にソープに沈んだらここまで育ててくれた両親にも申し訳が立たないので……」
「言って居ることに脈絡が無さすぎて分かりかねますが金銭にまつわるものでは無いので問題はありません。寧ろ必要なのはアナタの覚悟のみです」
「えっと……七海、さん?」
不意に私の右手を取った七海さんは流れるような美しい所作でその手を私の顔の前に持ってくる。
吸い寄せられるように手の甲に唇が落とされ、愛らしいリップ音が響くとピシッと私の身体が硬直した。
女ならば一度は憧れるであろうシュチュエーション。
しかも憧れの異性から想いを打ち明けられた直後にこんな事をされてはキャパオーバーと言うもので、発火したように赤くなった顔が熱を帯び、夏本番前の緩い風すら今は涼しげなものに感じられた。
「手始めに、今晩の時間を。そして、ゆくゆくはアナタそのものを私に下さい。朝チュンとやらはその時に存分に堪能して頂ければ」
「ひぃぃぃぃっ!!!」
その刹那、断末魔のような私の叫び声が長い廊下に木霊した。
ずりずりと逃げ場を探して脚が何度も動き回るのに、壁を背中にした状態では行く先などあるはずも無く、虚しく脚元が空を切る。
長年拗らせた片思いが思わぬ形で身を結ぼうとして居るのは喜ばしい以外の何者でも無いのだけれど、一足飛びで関係が発展しようとして居ることに関しては喜びというより慄きの方が強く、今の私は捕食される直前の小動物と言っても過言ではないだろう
ゆっくりと弧を描いていく七海さんの口元から目が離せなくなった。
「あぁ、それともう一つありました」
「まだ……何かございましたか?そろそろ私の頭がオーバーヒートしそうなんですが……」
「その内嫌でも慣れます。猪野君との距離の近さは少し改めて頂けたらと。私も男なので想う女性が夜な夜な他の男の部屋に向かうのは看過できない。それに関してはこれから私が直接話をしに行こうと思うのですが、アナタの意見も聞いておきたい」
琢真にすら嫉妬の念を抱いて居たと溢した言葉は本当らしく、すかさずそこを指摘するあたりこの人の本気を垣間見た気がする。
将を射んとせば先ず馬を射よだなんて言葉がある通り、この際私を将、琢真を馬とするのならばその計略は大成功と言えるだろう。
そうでなくとも七海さんの手に掛かれば私達は従順を通り越して下僕に近く、七海さんの存在が最早神がかって居るのだから反論の余地もない。
「……改めます」
「良い子だ。では、善は急げです。行きましょう」
首振り人形宜しく何度も首を動かす私はやはり七海さんの言葉には弱く、満足げに目を細めた七海さんが私の手を取ると意気揚々と廊下を歩き始めていく。
事実に即し、己を律する。
それが自身だと公言する七海さんはその言葉通り感情の機微は分かりづらい。
けれど今はほんの少し、この状況に浮かれて居ることが伝わって来て恥ずかしいやら嬉しいやら。
やはり私の思考回路はショート寸前と言っても良い。
ただ握られた手は少しばかり汗ばんでいるようにも思えて、どうやらこの状況に緊張して居るのは私だけではないらしい。
ほんの少し視線をあげて七海さんの横顔を一瞥すると耳はほんのり赤く染まり、それはきっとこの暑さのせいでは無いのだろう。
その場で待つようにでも言われたのか。
私が走り去った筈の場所にはまだ琢真が佇んで居た。
それはまるで留守を預かった番犬さながらの姿で、七海さんを見つけると嬉しそうに顔を綻ばせた姿が己に重なる。
けれどその視線が直様私達の手元に向かうと硬く繋がれた手を見て目を見開いた琢真が私と七海さんの顔を交互に見つめ、見る見るうちにその瞳が潤むと片腕で目元を覆い隠す。
「……真那、良かったな!」
「琢真!!私今いつ死んでも良い!!」
「不穏な事を言うのは辞めてください。それと、すぐに抱きつこうとしない。アナタの抱きつく場所は今後此処以外は認めません」
感動の余り抱擁を交わそうとした私の首根っこを掴むと七海さんは即座に己の元へと引き寄せ、それは悪さをする子猫を嗜める母のようにも思えた。
大人びた雰囲気と常識を持ち合わせ、仕事にはストイックな七海さんでも、どうやら嫉妬はするしそれが私の親友とも言える琢真であっても例外ではない。
抱き寄せられた胸元に顔を埋めるとドクドクと私と同じくらい鼓動が脈を打って居る。
それはきっとこの状況に七海さんが胸を高鳴らせて居る何よりの証拠で。
擦り寄って居た顔を僅かに上げると頬を染めながらも優しく目を細めて居る大好きな人と視線が絡み合って居た。