打ち上げ花火の恋の行方
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その人、如月真那さんの第一印象といえば大凡「平凡」が似合うと言うものだった気がする。
自分や灰原と同じく一般家庭の出身。
けれどその育ち方はだいぶ違い、よく言えば理解があり、悪く言えば放任主義。
呪霊が見える事にすら彼女の両親は特に不審がる様子も気味悪がる様子も無かったらしく、人助けがしたいのならばとその意思を尊重された入学だったと聞いて居る。
そんな両親の元、すくすくと育ったであろう一つ上の先輩は他の先輩と比べるとその実力も容姿も「普通」であり、ゆくゆくは呪術界を牽引するであろう原石だのと持て囃される先輩たちの中で明らかに浮いて居た。
ただ一つの違和感といえば、その原石の一人であり最強の片割れである夏油傑。
彼と彼女はとても仲が良かったと言う事だろうか。
中学時代からの顔見知りという事も相まってか、男女の差など諸共せず常に一緒にいる姿を見掛け、夏油さんに懐いて居たクラスメイトのお陰か自分もいつしか彼女と関わりを持つ様になる。
相手を知る内に思う様になった事はやはり全てに置いて人並みであり、けれど時折覗かせる笑顔や些細な機微に気付ける優しさに目を向ける様になっていった。
皆には敵わないからと口にしながらも決して腐る事もなく、努力を怠る姿は健気にも思えて眩しい程だった。
楽しい時には屈託なく笑い、悲しい時には堪える事もせずに涙を流せる。
その存在は本当に等身大の十代の少女そのもので。
普通と言う理から外れた高専の中では、その普通こそが自分たちの憧れたものだと思い知る事になるのは、今思えば必然だったのかも知れない。
「でね、七海。この前夏油さんが……」
「灰原。その話、既に三回は聞いて居る」
「あれ?そうだっけ」
それは夏も終わりの兆しを見せ始め、繁忙期という学生にすら多忙を強いるクソみたいな日々がやっと落ち着きを取り戻したばかりの事。
いつもの様に放課後の空き時間を有意義に過ごそうと本に視線を向けると自分の事など気にもせず、灰原が延々と夏油さんの凄さについて語って居た。
灰原が何故夏油さんにそこまで懐くのかはまるで理解できないが、凄い人なのは認めざるを得ない。
術式も体術も、それこそ女性の扱いさえも手慣れた様子すら見せる一つ上の先輩に、自分が胸を張って張り合えるものなど何一つない。
だからこそ、自分ではどうしようもない感情が行き場を無くして胸の内で轟続けて居るのだから。
「七海、灰原。いる?」
そんな時、珍しく一人でふらりと一年の教室に如月さんが顔を覗かせた。
その瞬間に此方に視線を向けながら頑張れとでもいう様に笑みを浮かべた灰原が彼女を自分達の元へと誘う。
灰原は一見鈍そうに見えて、自分が如月さんに抱いて居る淡い感情を本人より先に指摘する程には感情に敏い。
入学して以来、少しずつ大きくなり始めたこの感情を理解しつつ、どうにかしてサポートしようと何かと世話を焼いてくれる様になっていた。
「遊びに来ちゃった。今大丈夫?」
「はいっ、先輩お疲れ様です。今日は他の先輩達と一緒じゃないんですね」
「白黒コンビは任務で硝子は医務室に缶詰なんだって。私は今日任務なくて。一人で居ても退屈だったから」
「そうなんですね。僕、さっき夏油さんの話を七海にしてたんですよ。あ、じゃあ折角だから先輩達が帰ってくるまで一緒に話しましょう。僕、何か飲み物買ってきますね!!いってきます!」
「おい、灰原……!」
「うわぁ、早いねぇ」
視線だけで二人きりにしてやるから後は頑張れと。
そう言われた気がした。
人の好意に関して敏いクラスメイトはどうやら空気は読んではくれなかったらしい。
此方の声にすら耳を貸さず、鉄砲玉の様に自販機へ向かう背中を見送ると、そのあまりの速さに唖然としながら如月さんは廊下を眺め、肩を竦めながらも灰原の席を陣取っていった。
空が茜色になるにはまだ早い。
そんな昼下がりの時間は想いを寄せる異性と二人きりで過ごすには些か爽やか過ぎて。
自分の顔を覗き込んで首を傾げた如月さんの姿に一度鼓動が大きく跳ねた。
「ねぇ、七海ってどんな子がタイプなの?」
「……は?」
「あ、この前灰原がたくさん食べる子がタイプだって言っててね。灰原らしいねって話になったんだけど、七海はどうなのかなって」
「ご想像にお任せします」
しかし、あまりにも藪から棒な質問に思わず手元が狂いかける。
折角読んだはずの小説の内容が根こそぎ何処かへ飛んでいきそうになった。
思わず己の眉間に皺が寄った事を灰原同様に目敏いこの人ならばきっと見逃すはずはない。
自分はこんな会話一つにさえ心を大きく乱され、満足に顔すら見れなくなって居るというのに。
この人からすればこんな会話はただの暇つぶしと同義であり、その場を凌ぐためのネタでしか無いのだろう。
意図せず溜息が溢れる。
不毛な恋をして居る自覚はあるものの距離の詰め方が分からないなんて情け無い方極まりないのに、なけなしのプライドが誰かにこの胸の内を曝け出す事を躊躇わせ、出て来るのは誰に聞いても可愛げが無いと言うであろう返事ばかりだ。
「あれ、七海。指のところ怪我してる?」
「ああ、さっき本で切りました」
「折角買った本なのに。血、ついちゃうよ。私、確か絆創膏持ってるから」
「……ありがとうございます」
彼女らしいと言うべきか。
自分の照れ隠し故の素っ気ない態度には既に慣れて居るとでも言う様に、話題を変えた如月さんが己の手元に視線を向けつつ制服のポケットの中を漁り始める。
取り出したのは人気のキャラクターの描かれる自分には似つかわしく無い絆創膏で。
一瞬これを自分がつけるのかと眉を顰めたものの、躊躇いがち触れた指先がその思考すらも彼方へと追いやった。
「利き手だからやりにくいでしょ?巻いてあげるね」
「……お願いします」
この時、きっぱりと断る事が出来なかったのは少なからず触れる機会が欲しいと言う下心があったからなのだろうか。
自分の指に触れた少し長めの整えられた爪には先日、家入先輩に施してもらったと言うネイルが彩られ、控えめでありながら優しい色合いが如月さんそのものを思わせる。
身体の末端同士の接触しかして居ないと言うのにこんなにも鼓動が跳ねるのは、最早否定のしようのないこの淡い思いのせいなのだろうか。
綺麗に整えられた、自分とは違う濡羽が揺れるたびに花の様な香りが鼻を擽っていく。
しかし、ほんの僅かな触れ合いは呆気なく終わりを迎え、それとほぼ同時に灰原が飲み物を抱えて戻って来るとその隣には彼女の隣を常に陣取る先輩の姿があった。
「ただいま!途中で夏油さんに会ったら飲み物奢って貰っちゃったよ」
「灰原、傑、おかえり。ねぇ、それなら勿論私の好きなの買ってきてくれたよね?」
「同然だろう?いつものミルクティーを買ってきてあるよ」
「やった!」
その言葉を聞いた瞬間、隣にあった香りが移ろいでいく。
夏油さんの元へと駆け寄った如月さんは目当ての飲み物を手にすると当然の如く嬉しそうに顔を綻ばせる。
二、三言葉を交わした後にはこそこそと耳打ちする様な素振りを見せており、その顔は少女らしくはにかんだ愛らしいもので胸がチクチクと痛みを訴える。
先日の任務でもそうだった。
寧ろ、それが切っ掛けだったのかもしれない。
低級のものではあったものの、その数が尋常ではないほどに多く、自分と如月さんの二人がアサインされた任務は昼過ぎに高専を発った筈なのに帰路に着く頃には日はとっぷりと暮れてしまった。
良いところを見せたいと自分が張り切り過ぎた節は否めない。
それに付き合って疲れ果てた如月さんが自分に寄り添う形となって眠りかけてしまい、緊張から手に汗握る思いをしながらも平静を保って居ると不意に彼女の口から紡がれた寝言は「傑」と言う一言で。
それが自分の胸に杭を打つ様な感覚を抱かせ、同時にこの想いの重さを知らしめるものとなった気がする。
もしも、その隣にいるのが自分だったのなら。
自分はどれほどの幸福を味わえるのだろう。
そう考えるだけでその位置を恣にする夏油さんに怒りにも似た感情を覚え、身を妬かれそうになる。
今し方、巻いてもらったばかりの絆創膏の傷口が痛む気さえすると意味ありげに此方を一瞥した夏油さんの視線が自分の指先に注がれていた。
「おや、七海。ずいぶん可愛い手当をされたんだね」
「あっ、本当だ。如月さんがやったんですか?」
「うん。指、怪我してたみたいだから。本に血がついちゃったら嫌でしょ?」
「……そう、ですね。夏油さん、これご馳走様です」
含みのある様な言い方に苛立ちを覚えるのは明らかに自分が嫉妬の念を抱いて居るからなのだろう。
如月さんの隣に夏油さんがいる。
そんな当たり前の光景を見る事が日毎苦しくなって居るのを感じ、賑やかになった筈の教室の中で仲睦まじい二人の姿を見せつけられる事は、自分だけが取り残されて居る様な錯覚さえ抱かせた。
呪術師は時に他者にその命を預け、他者の為に命すら投げ出す。
そう言った前提を差し置いても少ない人数の学生同士となれば必然的にその付き合いは深くなるし絆も強くなっていく。
そしてこの二人の絆はもっと深いものの様に見えてならない。
恋人だと明言された事はないが、口にしていないだけなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
どうすればその視線が己に向くのだろうかと、そんな思いばかりが強くなる。
飲まないのかと促され、最後まで取り残された紅茶はまるで自分自身の様にも思えて。
甘ったるい筈の紅茶の味は、味覚が麻痺してしまったかの様に苦いものにしか感じられなかった。
「それじゃ、私達はそろそろお暇するよ。またね」
「はいっ!ご馳走様でした」
「またね。二人とも」
どうやら五条さんも家入さんもやっとそれぞれの事に片が付いたらしく、夏油さんの携帯が鳴り響くと二人はひらひらと手を振りながら教室を後にする。
ほんの数十分前と同じ状況に戻っただけだと言うのに、その静かさが先程よりも重く感じるのは己の心の現れなのだろうか。
しかし、灰原はそんな此方の胸の内も察してはくれないらしく、嬉々としてやって来るとその目は期待に満ちた輝きを放っていた。
「七海、二人きりになって何か話せた?収穫あった?」
「話せるわけないだろう。そもそも、いきなり置いて行くな」
「あはは、ごめん。それにしても七海がこんな奥手だとは思わなかったなぁ」
「……余計なお世話だ」
自分でも眉間の皺が一層深くなったのを自覚すると、残っていた紅茶を一気に飲み干した。
悪びれる様子すら見せず、軽快な笑い声をあげるクラスメイトが少しばかり憎らしく思える。
きっとこれだけ人好きする人間ならばこんな悩みは抱えることもないのだろう。
それでも今し方あんな光景を見せつけられた後では何かしたいと気持ちが動くのは自然な事で。
それはいっそ、藁にも縋る様な思いだったのかも知れない。
「灰原なら、こう言う時はどうする?」
「ん?僕は多分すぐに告白しちゃうかな。だって、好きなんだから言いたくなっちゃうよ」
「……聞くんじゃなかった。参考にすらならない」
その答え通り、灰原ならばその好意を隠すことも小細工することもせず真っ向から相手と向かい合っていけるのだろう。
その誠実さと愚直さが正直羨ましくも思える。
しかし、羨ましいと思いつつも自分が実行出来るかと問われたら答えは否でしかない。
振られて残りの学生生活を気まずい思いをして過ごす事になるのは避けたい。
何より、誰よりも厄介な五条さんにバレた場合。
より一層面倒な事になるのは必至だ。
要は保身と言われたらそれまでとも言えるが、わざわざ負け戦に挑む程の果敢さを持ち合わせてはいなかった。
溜息を溢しながらふと机に視線を戻すと、先程貰った絆創膏の残りが机に置かれたままになって居り、自分の気持ちが揺らぐ。
「あれ。それ先輩の忘れもの?届けてあげなよ。そうしたらもう少し話せるかもしれないよ」
「そう、だな。行ってくる」
「うん!頑張れ!七海」
今追いかければ間に合うだろうか。
それ以前に少しでも話せる切っ掛けが欲しい。
何よりあの人はそそっかしい面があるから無くては困るのではないか。
ただ忘れ物を届ける為に追いかける理由を探すのでさえこの有様だ。
しかし、早く行ってあげなよと灰原に促され、教室を飛び出したすぐ先で自分の見た光景は奥手と評された自分に衝撃を与えるには十分過ぎて。
届けようと思っていた筈の絆創膏も、彼女に向けた恋心も丸めた紙屑の様にぐしゃぐしゃになっていく気がした。
それはしっかりの己の眼に焼きついていく。
人気の少ない廊下の中央で、恥じらう素振りを見せながら自分と同じくらいの大きさの夏油さんの手に如月さんの小さな手が触れる。
その後には指先が絡み合い、所謂恋人繋ぎと言われる形となるとその手を見つめる如月さんの視線は限りなく少女では無く、女性と呼ぶに相応しいものだった。
夏油さんに向ける視線は恋をして居る自分のものと全く同じで。
その後に浮かび上がる弾けんばかりの笑顔を自分はただ横から遠目に眺めるだけ。
恋が破れるとはこんな感覚なのかと呆然と理解した気がする。
それと同時に告げずして振られる位ならば、灰原の言う様にすぐ告白してしまえば良かったと今更になって後悔が押し寄せる。
淡い筈だった恋心が報われないと知った瞬間に責苦を強いられた様に痛みを齎すのは、自分がこれ以外に恋というものを知らないからなのか。
成人した大人ならば、やけ酒でもして憂さを晴らせるのだろうに。
生憎未成年の自分にはその晴らし方さえ侭ならない。
密やかに踵を返すと向かった先は教室では無く、自室で。
部屋の扉を閉めた瞬間に重苦しい長い溜息が部屋の中を満たしていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
失恋とは初めの一週間から一ヶ月が一番きつい時期なのだと聞いた事がある。
その日以来、如月さんと夏油さんの姿を意図的に避け始めた様に思う。
情けない話ではあるが、そうでなければこの恋に見切りがつけられそうになかったからだ。
姿を見かけるだけで喜ばしく思えていた筈の胸は今となっては締め上げられる様な痛みを伴う。
その余りのよそよそしさに五条さんや家入さんにも苦言を呈され、それ以降は幾分かマシにはなったものの。
やはり以前より遥かに二人きりになる事を躊躇う自分が居る。
たかが恋、されど恋だ。
相手の一挙一動でここまで己が翻弄される事があるのかと俄かには信じ難くなるほどに時としてその感情は強く、そして儚い。
あの日の光景を見てから今日で丁度一週間。
先はまだ長く、この恋が風化するにはまだまだ時間は必要なのだろう。
奇しくもその日は以前先輩達が出かけようと提案してきた花火大会の日だった。
その年最後となるであろう夏のイベントは、少し前ならば浮かれてもおかしくなかったはずのものなのに。
今となっては任務である事が救いの様にも感じた。
五条さんの提案で浴衣を着て粧し込んで出かけると息巻いていた灰原は、任務に向かう前から夏油さんが居るのだから当然子供の様にはしゃいでおり、己の頭の中で浴衣の裾を翻す如月さんの姿を思い浮かべる。
見てみたかったと言う思いが無いわけではない。
寧ろ、隣に立てるのならばその権利を誰にも譲るつもりはない。
しかし、きっと彼女の隣にはまるで騎士か護衛の如く夏油さんが居る筈で。
その姿を目の当たりにするのは今の自分には苦行とも言える。
やっと任務を終えて、高専に戻った時には茜色の空が一面に広がっていた。
会場に行く気力は無いものの、ここからならば少しくらい夏の名残を感じられるかと教室の窓を開けて空を仰ぐと、不意に背後から聞き慣れた声が耳を掠め、一瞬身体が強張った。
「七海?」
「……如月、さん」
「お疲れ様。もしかして任務だったの?私もなんだけど。あのそっち、行っても良い?」
その返事を待たずして、小さな足音が少しずつ近づくたびに己の心臓が大きく脈を打つ音が鮮明に聞こえた。
横に視線を向けると自分の隣に並び、窓から外の景色を眺める横顔は少し寂しげな気もして。
それはやはり夏油さんが一緒では無いからなのだろうか。
考えれば考える程に深みに嵌っていく気がする。
今はこんなにも側にいると言うのに。
誰も居ない教室の静かさは嫌いではなかった筈なのに今はどうにも居心地が悪く、静寂を打ち破るかの様に鳴り響く鼓動が如月さんに伝わってしまうのではないかとさえ思えた。
「最近、私の事避けてるよね。私、もしかして七海に何かしちゃった……?」
「いえ、そう言う訳では……。花火、行かなくて良かったんですか?夏油さんは皆と会場に行ってると思いますよ」
「別に。傑と行きたかった訳じゃないから」
その刹那、此方を向いた如月さんが自分の制服の裾を小さく掴む。
一文字に唇を結ぶとそれはずっと何かを耐えて居る様にも思えて、僅かに視線が絡んだ後には俯いた顔に陰りが落ちていく。
その様は今にも泣き出しそうなものにも見えた。
けれど思い当たる節もなく、夏油さんとの恋愛相談などされた日には自分にしろと。
そう口走ってしまいそうな衝動にさえ駆られる。
しかし、彼女の口から放たれた言葉は自分の予想だにしないもので。
耳を疑うのと同時に夏の宵の中に空の花がパッと開いて消えていった。
「……ねぇ、七海。前にも聞いたけど、七海はどんな子がタイプ?どんな子なら好きになれる?想像してもね、全然浮かんでこないんだ。大人の女の人とか、アイドルみたいにすっごく可愛い女の子とか、硝子みたいなクールな美人とか。自分とはかけ離れ過ぎてる子ばっかりで、どれが正解かわからないよ」
「何を、言ってるんですか?」
「だって、理想になりたかったんだもん。一目惚れ、だったんだもん。誰が見たって私と七海じゃ不釣り合いな事はわかってるよ?七海は綺麗だしかっこいいから。それでも好きで、頑張ってアピールしてたつもりだったのに。突然避けられる様になっちゃって……。
私も、もっと美人なら良かったのになぁ。全部普通なんだもん。そうしたら自信も持てた。五条なんか色んなものたくさん持ってて、傑だって硝子だって美人で。私だけがずっとみにくいアヒルの子みたいで。それなのに成長したって白鳥になんてなれなくて。……神様は意地悪だね。ちょっとくらい恵んでくれたって良いのに」
それは、初めて聞いた彼女の泣き言にも思えた。
いつも屈託なく笑い、懸命に努力する傍らで感じていた劣等感はきっと自分が夏油さんに対して抱いたものと同じであり、きっと夏油さんすら知り得ない彼女の本心。
一層俯いていく顔から表情を窺うことは出来なかった。
それは無粋と言うもので、小さく揺れる肩がその歯痒さの全てを表して居る様にも思える。
一縷の期待が胸の中で急速に成長を遂げていく。
……抱きしめても良いのだろうか。
そう考えるより早く細い肩を抱き寄せると、あの日と同じ花の様な香りが悪戯に鼻を擽っていく。
「外見に、それ程重きは置きません。ただ自分が言えるのは此処では普通こそが特別で、とても尊いと言う事です」
「……七海?」
「けれどその尊さを理解できない輩はこんな場所でも一定数は居て、そんな言葉にめげる事なく直向きに努力する人が、好きです。
嬉しい時に笑い、悲しい時には涙する。肩肘を張らず等身大の姿で居られる人が好きです。
たかが指を切ってしまった位のほんの些細な事に気がつける優しさが、愛おしい。淡いピンクのネイルの似合う、ミルクティーの好きな人が、自分がずっと……好きな人です」
その言葉を言い終えるかどうか。
一斉に打ち上がる花火が空を彩り、暗がりの教室の中を照らしていく。
恐る恐る此方を向いた彼女の視線はやはり濡れたもので。
それは、ただ泣いているだけのものとは思えず自分の言葉を疑っているかの様に目を瞬かせるたびに頬に涙痕を刻んでいく。
その雫を指先で払うと視線が絡み、束の間の沈黙が生まれた。
僅かな期待を抱き、ほんの少しだけ顎に滑らせた指先を動かせば静かに如月さんの瞼に帷が降りて。
空で弾ける花火と共に、自分の唇を重ねていた。
それはまるで祝福でもされている様な錯覚さえ齎した。
不慣れすぎるお互い初めてであろう口付けは少し歯の当たる様な不格好なものであったものの、唇を離した後には如月さんの瞳に涙は浮かんでおらず。
林檎の如く赤くなった顔が嬉しさと恥ずかしさを滲ませた笑顔を向けていた。
「一つ、聞いても良いですか?」
「……何?」
「先日、夏油さんと手を繋いでいる所を見かけたんです。四人で教室で話したあの日、それを偶然見かけてしまって。
二人は公言はしていないもの普段から常に共に居るので、てっきりそう言う仲なのかと……」
「あ、あれは……」
「教えて下さい」
やはりまずい場面を見てしまった事には違いないのだろう。
視線を泳がせその声が尻すぼみにどんどん小さくなっていく。
けれど此処で引ける程今の自分には余裕も無ければ寛容な対応など出来るはずもない。
細い肩に手を置き、身を屈めると半ば脅す様に顔を近づけ詰め寄っていた。
言わなければもう一度キスをして、それでも駄目ならと頭の中が何としてでもその理由を知るための策を練っていると観念した様に如月さんが恥ずかしげに顔を背けて口を開く。
「七海と、手繋ぐにはどうしたら良いかなって相談してて……」
「……は?」
「あのね。その前に指の手当てしたでしょ?七海の指、綺麗だなって思ったの。どうしたら繋げるかなって。でもきっと手汗とか酷いから少しは慣れておきたくて、それで傑を、練習相手に……七海?」
思わず項垂れたのは安堵からか。
それとも自分に向けられた想いをこれまで気がつけなかった己の鈍さに呆れたからかは定かではなかった。
ただ、二人が恋愛関係ではない事。
そして彼女の気持ちが一途に自分に向いている事にこの上ない喜びを見出している。
心配そうに如月さんが自分の顔を覗き込もうと躍起になる姿さえ今は可愛らしく堪らなくなり、不意に彼女の小さな手が己の手に重なると一回りも二回りも小さな紅葉を両手で包み込んでいた。
「……あの時は確か。こう、でしたよね?」
「え、あの……汗っ!汗凄いから」
「問題ありません。自分も、相当酷い自覚があるので」
逃げようと身を引いた手首を掴むと今にも折れてしまいそうな程の細さに思わず力を緩めた。
けれど逃すつもりはなく、自分たちの視線がその手にのみ注がれいく。
小さな手のひらは傍目には女性らしさを窺わせるものの、日々の努力をまざまざと感じさせるまめの痕を残していた。
細い指先は握り潰してしまう事さえ容易いのではないかと錯覚させる程で、指の間をすり抜けて絡む手がその大きさの違いを浮き彫りにさせていく。
やはり互いの汗のせいか少しベタつく感覚は否めず、手のひら越しに互いの脈を聞いた気がした。
「やっぱり、大きいね。男の子の手だ」
「如月さんが小さいんでしょう」
「そうかな?でも、七海の手はやっぱり綺麗だね」
クスクスと笑い声を上げた如月さんは爪の形から指の長さまでを感嘆の声を上げながら眺めていた。
それを面白くないと思う自分は思った以上に嫉妬深く、それが己の身体のパーツであったとしても変わりはないらしい。
少しばかり繋いだ手を引くと、弾みでいっぱい踏み出した如月さんの身体が胸元にすっぽりと収まり、腰に腕を回すと何事かと此方を見上げた瞬間にその顔は影を帯びた。
少し涙の味がした一度目のキスは、その感触を堪能する事さえ出来ず、二度目に交わしたキスは如月さんの唇の柔らかさを己にこれでもかと訴えかける。
終盤に差し掛かった花火は一斉に窓枠越しに景色を彩り、空が唸った。
一度知って仕舞えば忘れられない蜜の様なキスを繰り返し、先程よりマシにはなったもののまだ赤らんだ如月さんの顔を見ているとどうにも己の表情も緩んでいく。
「来年は、一緒に花火を見に行きましょう。その時の浴衣は自分が選びます」
「うん。約束ね」
呪術界に於いて先の話を決めるほど無謀な事は無い。
それは学生である自分たちにも言える事と分かっていても、きっとこの約束を果たすためならば自分はどんな事でもやってのけるのだろう。
彼女の満面の笑みに釣られて自分の表情もいっそう柔らかいものへと変わっていた。
しかし、その空気を打ち破ったのは教室の扉の陰から押し合いを繰り返していたクラスメイトと先輩達で。
コントの様に雪崩れ込む音が互いを見つめていた双方の視線を其方へと向けさせる。
浴衣姿の先輩達とクラスメイトはその頭にはお面、片手には林檎飴と花火大会と言うよりもその副産物をおおいに堪能してきたらしく、きっと自分達が居ない事から出歯亀でもしに来たのだろう。
「あーあ。五条のせいでバレちゃったじゃないか」
「これは明らかに悟のせいだな」
「はぁ!?んな事知るかよ。そもそも、様子見に行こうって言い出したのは傑だろ」
「そうだったかな?」
まるで鏡持ちの様に積み重なった人の山を見るのは新鮮だった。
唖然とする此方の視線を諸共せず責任のなすりつけ合いを始めた先輩達の中で灰原だけが自分に向けて親指を立て、その結末を喜んでくれていた様に思う。
ポカンと口を開いたままの如月さんは自分と此方に視線を交互に向け、やがて小さく息を吐き出した後に腹部を抱えて笑い始める。
それはきっと自分というより彼女の恋の結末を見守りたいと皆が心を砕いたからに他ならず、やはり普通と言うほどに稀有なものは存在しないのだろう。
「良かったじゃないか。真那。七海、真那を頼むよ」
「うん。ありがとう、傑」
ずっと如月さんの恋を見守ってきたであろう夏油さんはその格好こそ情けないものの目を細めながら如月さんと視線を交え、その姿は我が子を見守る父のそれにも似ている様に思えた。
しかし、いくら仲がいいと言っても。
本人同士に恋愛感情が無いとしても。
自分としてはこの状況は些か面白く無いもので、繋いだ手に力が籠ると如月さんは此方に視線を向けながら照れくさそうに笑っていた。
まずは互いの名前の呼び方から変えていく必要があるだろうか。
少しずつ夏油さん離れを促し、ゆくゆくはその隣は完全に己のものにしなければならない。
一気に賑やかになった教室の中で、笑い声が絶えず響き渡る。
窓の外を眺めると夏の夜空に広がる星が、これからの日々を期待させるかの様に輝いて居た。
明日からの日常は毎日が普通とも平凡とも言えるものではないけれど、誰もが一度は経験する様な愛おしいものになっていくに違いない。
自分や灰原と同じく一般家庭の出身。
けれどその育ち方はだいぶ違い、よく言えば理解があり、悪く言えば放任主義。
呪霊が見える事にすら彼女の両親は特に不審がる様子も気味悪がる様子も無かったらしく、人助けがしたいのならばとその意思を尊重された入学だったと聞いて居る。
そんな両親の元、すくすくと育ったであろう一つ上の先輩は他の先輩と比べるとその実力も容姿も「普通」であり、ゆくゆくは呪術界を牽引するであろう原石だのと持て囃される先輩たちの中で明らかに浮いて居た。
ただ一つの違和感といえば、その原石の一人であり最強の片割れである夏油傑。
彼と彼女はとても仲が良かったと言う事だろうか。
中学時代からの顔見知りという事も相まってか、男女の差など諸共せず常に一緒にいる姿を見掛け、夏油さんに懐いて居たクラスメイトのお陰か自分もいつしか彼女と関わりを持つ様になる。
相手を知る内に思う様になった事はやはり全てに置いて人並みであり、けれど時折覗かせる笑顔や些細な機微に気付ける優しさに目を向ける様になっていった。
皆には敵わないからと口にしながらも決して腐る事もなく、努力を怠る姿は健気にも思えて眩しい程だった。
楽しい時には屈託なく笑い、悲しい時には堪える事もせずに涙を流せる。
その存在は本当に等身大の十代の少女そのもので。
普通と言う理から外れた高専の中では、その普通こそが自分たちの憧れたものだと思い知る事になるのは、今思えば必然だったのかも知れない。
「でね、七海。この前夏油さんが……」
「灰原。その話、既に三回は聞いて居る」
「あれ?そうだっけ」
それは夏も終わりの兆しを見せ始め、繁忙期という学生にすら多忙を強いるクソみたいな日々がやっと落ち着きを取り戻したばかりの事。
いつもの様に放課後の空き時間を有意義に過ごそうと本に視線を向けると自分の事など気にもせず、灰原が延々と夏油さんの凄さについて語って居た。
灰原が何故夏油さんにそこまで懐くのかはまるで理解できないが、凄い人なのは認めざるを得ない。
術式も体術も、それこそ女性の扱いさえも手慣れた様子すら見せる一つ上の先輩に、自分が胸を張って張り合えるものなど何一つない。
だからこそ、自分ではどうしようもない感情が行き場を無くして胸の内で轟続けて居るのだから。
「七海、灰原。いる?」
そんな時、珍しく一人でふらりと一年の教室に如月さんが顔を覗かせた。
その瞬間に此方に視線を向けながら頑張れとでもいう様に笑みを浮かべた灰原が彼女を自分達の元へと誘う。
灰原は一見鈍そうに見えて、自分が如月さんに抱いて居る淡い感情を本人より先に指摘する程には感情に敏い。
入学して以来、少しずつ大きくなり始めたこの感情を理解しつつ、どうにかしてサポートしようと何かと世話を焼いてくれる様になっていた。
「遊びに来ちゃった。今大丈夫?」
「はいっ、先輩お疲れ様です。今日は他の先輩達と一緒じゃないんですね」
「白黒コンビは任務で硝子は医務室に缶詰なんだって。私は今日任務なくて。一人で居ても退屈だったから」
「そうなんですね。僕、さっき夏油さんの話を七海にしてたんですよ。あ、じゃあ折角だから先輩達が帰ってくるまで一緒に話しましょう。僕、何か飲み物買ってきますね!!いってきます!」
「おい、灰原……!」
「うわぁ、早いねぇ」
視線だけで二人きりにしてやるから後は頑張れと。
そう言われた気がした。
人の好意に関して敏いクラスメイトはどうやら空気は読んではくれなかったらしい。
此方の声にすら耳を貸さず、鉄砲玉の様に自販機へ向かう背中を見送ると、そのあまりの速さに唖然としながら如月さんは廊下を眺め、肩を竦めながらも灰原の席を陣取っていった。
空が茜色になるにはまだ早い。
そんな昼下がりの時間は想いを寄せる異性と二人きりで過ごすには些か爽やか過ぎて。
自分の顔を覗き込んで首を傾げた如月さんの姿に一度鼓動が大きく跳ねた。
「ねぇ、七海ってどんな子がタイプなの?」
「……は?」
「あ、この前灰原がたくさん食べる子がタイプだって言っててね。灰原らしいねって話になったんだけど、七海はどうなのかなって」
「ご想像にお任せします」
しかし、あまりにも藪から棒な質問に思わず手元が狂いかける。
折角読んだはずの小説の内容が根こそぎ何処かへ飛んでいきそうになった。
思わず己の眉間に皺が寄った事を灰原同様に目敏いこの人ならばきっと見逃すはずはない。
自分はこんな会話一つにさえ心を大きく乱され、満足に顔すら見れなくなって居るというのに。
この人からすればこんな会話はただの暇つぶしと同義であり、その場を凌ぐためのネタでしか無いのだろう。
意図せず溜息が溢れる。
不毛な恋をして居る自覚はあるものの距離の詰め方が分からないなんて情け無い方極まりないのに、なけなしのプライドが誰かにこの胸の内を曝け出す事を躊躇わせ、出て来るのは誰に聞いても可愛げが無いと言うであろう返事ばかりだ。
「あれ、七海。指のところ怪我してる?」
「ああ、さっき本で切りました」
「折角買った本なのに。血、ついちゃうよ。私、確か絆創膏持ってるから」
「……ありがとうございます」
彼女らしいと言うべきか。
自分の照れ隠し故の素っ気ない態度には既に慣れて居るとでも言う様に、話題を変えた如月さんが己の手元に視線を向けつつ制服のポケットの中を漁り始める。
取り出したのは人気のキャラクターの描かれる自分には似つかわしく無い絆創膏で。
一瞬これを自分がつけるのかと眉を顰めたものの、躊躇いがち触れた指先がその思考すらも彼方へと追いやった。
「利き手だからやりにくいでしょ?巻いてあげるね」
「……お願いします」
この時、きっぱりと断る事が出来なかったのは少なからず触れる機会が欲しいと言う下心があったからなのだろうか。
自分の指に触れた少し長めの整えられた爪には先日、家入先輩に施してもらったと言うネイルが彩られ、控えめでありながら優しい色合いが如月さんそのものを思わせる。
身体の末端同士の接触しかして居ないと言うのにこんなにも鼓動が跳ねるのは、最早否定のしようのないこの淡い思いのせいなのだろうか。
綺麗に整えられた、自分とは違う濡羽が揺れるたびに花の様な香りが鼻を擽っていく。
しかし、ほんの僅かな触れ合いは呆気なく終わりを迎え、それとほぼ同時に灰原が飲み物を抱えて戻って来るとその隣には彼女の隣を常に陣取る先輩の姿があった。
「ただいま!途中で夏油さんに会ったら飲み物奢って貰っちゃったよ」
「灰原、傑、おかえり。ねぇ、それなら勿論私の好きなの買ってきてくれたよね?」
「同然だろう?いつものミルクティーを買ってきてあるよ」
「やった!」
その言葉を聞いた瞬間、隣にあった香りが移ろいでいく。
夏油さんの元へと駆け寄った如月さんは目当ての飲み物を手にすると当然の如く嬉しそうに顔を綻ばせる。
二、三言葉を交わした後にはこそこそと耳打ちする様な素振りを見せており、その顔は少女らしくはにかんだ愛らしいもので胸がチクチクと痛みを訴える。
先日の任務でもそうだった。
寧ろ、それが切っ掛けだったのかもしれない。
低級のものではあったものの、その数が尋常ではないほどに多く、自分と如月さんの二人がアサインされた任務は昼過ぎに高専を発った筈なのに帰路に着く頃には日はとっぷりと暮れてしまった。
良いところを見せたいと自分が張り切り過ぎた節は否めない。
それに付き合って疲れ果てた如月さんが自分に寄り添う形となって眠りかけてしまい、緊張から手に汗握る思いをしながらも平静を保って居ると不意に彼女の口から紡がれた寝言は「傑」と言う一言で。
それが自分の胸に杭を打つ様な感覚を抱かせ、同時にこの想いの重さを知らしめるものとなった気がする。
もしも、その隣にいるのが自分だったのなら。
自分はどれほどの幸福を味わえるのだろう。
そう考えるだけでその位置を恣にする夏油さんに怒りにも似た感情を覚え、身を妬かれそうになる。
今し方、巻いてもらったばかりの絆創膏の傷口が痛む気さえすると意味ありげに此方を一瞥した夏油さんの視線が自分の指先に注がれていた。
「おや、七海。ずいぶん可愛い手当をされたんだね」
「あっ、本当だ。如月さんがやったんですか?」
「うん。指、怪我してたみたいだから。本に血がついちゃったら嫌でしょ?」
「……そう、ですね。夏油さん、これご馳走様です」
含みのある様な言い方に苛立ちを覚えるのは明らかに自分が嫉妬の念を抱いて居るからなのだろう。
如月さんの隣に夏油さんがいる。
そんな当たり前の光景を見る事が日毎苦しくなって居るのを感じ、賑やかになった筈の教室の中で仲睦まじい二人の姿を見せつけられる事は、自分だけが取り残されて居る様な錯覚さえ抱かせた。
呪術師は時に他者にその命を預け、他者の為に命すら投げ出す。
そう言った前提を差し置いても少ない人数の学生同士となれば必然的にその付き合いは深くなるし絆も強くなっていく。
そしてこの二人の絆はもっと深いものの様に見えてならない。
恋人だと明言された事はないが、口にしていないだけなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
どうすればその視線が己に向くのだろうかと、そんな思いばかりが強くなる。
飲まないのかと促され、最後まで取り残された紅茶はまるで自分自身の様にも思えて。
甘ったるい筈の紅茶の味は、味覚が麻痺してしまったかの様に苦いものにしか感じられなかった。
「それじゃ、私達はそろそろお暇するよ。またね」
「はいっ!ご馳走様でした」
「またね。二人とも」
どうやら五条さんも家入さんもやっとそれぞれの事に片が付いたらしく、夏油さんの携帯が鳴り響くと二人はひらひらと手を振りながら教室を後にする。
ほんの数十分前と同じ状況に戻っただけだと言うのに、その静かさが先程よりも重く感じるのは己の心の現れなのだろうか。
しかし、灰原はそんな此方の胸の内も察してはくれないらしく、嬉々としてやって来るとその目は期待に満ちた輝きを放っていた。
「七海、二人きりになって何か話せた?収穫あった?」
「話せるわけないだろう。そもそも、いきなり置いて行くな」
「あはは、ごめん。それにしても七海がこんな奥手だとは思わなかったなぁ」
「……余計なお世話だ」
自分でも眉間の皺が一層深くなったのを自覚すると、残っていた紅茶を一気に飲み干した。
悪びれる様子すら見せず、軽快な笑い声をあげるクラスメイトが少しばかり憎らしく思える。
きっとこれだけ人好きする人間ならばこんな悩みは抱えることもないのだろう。
それでも今し方あんな光景を見せつけられた後では何かしたいと気持ちが動くのは自然な事で。
それはいっそ、藁にも縋る様な思いだったのかも知れない。
「灰原なら、こう言う時はどうする?」
「ん?僕は多分すぐに告白しちゃうかな。だって、好きなんだから言いたくなっちゃうよ」
「……聞くんじゃなかった。参考にすらならない」
その答え通り、灰原ならばその好意を隠すことも小細工することもせず真っ向から相手と向かい合っていけるのだろう。
その誠実さと愚直さが正直羨ましくも思える。
しかし、羨ましいと思いつつも自分が実行出来るかと問われたら答えは否でしかない。
振られて残りの学生生活を気まずい思いをして過ごす事になるのは避けたい。
何より、誰よりも厄介な五条さんにバレた場合。
より一層面倒な事になるのは必至だ。
要は保身と言われたらそれまでとも言えるが、わざわざ負け戦に挑む程の果敢さを持ち合わせてはいなかった。
溜息を溢しながらふと机に視線を戻すと、先程貰った絆創膏の残りが机に置かれたままになって居り、自分の気持ちが揺らぐ。
「あれ。それ先輩の忘れもの?届けてあげなよ。そうしたらもう少し話せるかもしれないよ」
「そう、だな。行ってくる」
「うん!頑張れ!七海」
今追いかければ間に合うだろうか。
それ以前に少しでも話せる切っ掛けが欲しい。
何よりあの人はそそっかしい面があるから無くては困るのではないか。
ただ忘れ物を届ける為に追いかける理由を探すのでさえこの有様だ。
しかし、早く行ってあげなよと灰原に促され、教室を飛び出したすぐ先で自分の見た光景は奥手と評された自分に衝撃を与えるには十分過ぎて。
届けようと思っていた筈の絆創膏も、彼女に向けた恋心も丸めた紙屑の様にぐしゃぐしゃになっていく気がした。
それはしっかりの己の眼に焼きついていく。
人気の少ない廊下の中央で、恥じらう素振りを見せながら自分と同じくらいの大きさの夏油さんの手に如月さんの小さな手が触れる。
その後には指先が絡み合い、所謂恋人繋ぎと言われる形となるとその手を見つめる如月さんの視線は限りなく少女では無く、女性と呼ぶに相応しいものだった。
夏油さんに向ける視線は恋をして居る自分のものと全く同じで。
その後に浮かび上がる弾けんばかりの笑顔を自分はただ横から遠目に眺めるだけ。
恋が破れるとはこんな感覚なのかと呆然と理解した気がする。
それと同時に告げずして振られる位ならば、灰原の言う様にすぐ告白してしまえば良かったと今更になって後悔が押し寄せる。
淡い筈だった恋心が報われないと知った瞬間に責苦を強いられた様に痛みを齎すのは、自分がこれ以外に恋というものを知らないからなのか。
成人した大人ならば、やけ酒でもして憂さを晴らせるのだろうに。
生憎未成年の自分にはその晴らし方さえ侭ならない。
密やかに踵を返すと向かった先は教室では無く、自室で。
部屋の扉を閉めた瞬間に重苦しい長い溜息が部屋の中を満たしていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
失恋とは初めの一週間から一ヶ月が一番きつい時期なのだと聞いた事がある。
その日以来、如月さんと夏油さんの姿を意図的に避け始めた様に思う。
情けない話ではあるが、そうでなければこの恋に見切りがつけられそうになかったからだ。
姿を見かけるだけで喜ばしく思えていた筈の胸は今となっては締め上げられる様な痛みを伴う。
その余りのよそよそしさに五条さんや家入さんにも苦言を呈され、それ以降は幾分かマシにはなったものの。
やはり以前より遥かに二人きりになる事を躊躇う自分が居る。
たかが恋、されど恋だ。
相手の一挙一動でここまで己が翻弄される事があるのかと俄かには信じ難くなるほどに時としてその感情は強く、そして儚い。
あの日の光景を見てから今日で丁度一週間。
先はまだ長く、この恋が風化するにはまだまだ時間は必要なのだろう。
奇しくもその日は以前先輩達が出かけようと提案してきた花火大会の日だった。
その年最後となるであろう夏のイベントは、少し前ならば浮かれてもおかしくなかったはずのものなのに。
今となっては任務である事が救いの様にも感じた。
五条さんの提案で浴衣を着て粧し込んで出かけると息巻いていた灰原は、任務に向かう前から夏油さんが居るのだから当然子供の様にはしゃいでおり、己の頭の中で浴衣の裾を翻す如月さんの姿を思い浮かべる。
見てみたかったと言う思いが無いわけではない。
寧ろ、隣に立てるのならばその権利を誰にも譲るつもりはない。
しかし、きっと彼女の隣にはまるで騎士か護衛の如く夏油さんが居る筈で。
その姿を目の当たりにするのは今の自分には苦行とも言える。
やっと任務を終えて、高専に戻った時には茜色の空が一面に広がっていた。
会場に行く気力は無いものの、ここからならば少しくらい夏の名残を感じられるかと教室の窓を開けて空を仰ぐと、不意に背後から聞き慣れた声が耳を掠め、一瞬身体が強張った。
「七海?」
「……如月、さん」
「お疲れ様。もしかして任務だったの?私もなんだけど。あのそっち、行っても良い?」
その返事を待たずして、小さな足音が少しずつ近づくたびに己の心臓が大きく脈を打つ音が鮮明に聞こえた。
横に視線を向けると自分の隣に並び、窓から外の景色を眺める横顔は少し寂しげな気もして。
それはやはり夏油さんが一緒では無いからなのだろうか。
考えれば考える程に深みに嵌っていく気がする。
今はこんなにも側にいると言うのに。
誰も居ない教室の静かさは嫌いではなかった筈なのに今はどうにも居心地が悪く、静寂を打ち破るかの様に鳴り響く鼓動が如月さんに伝わってしまうのではないかとさえ思えた。
「最近、私の事避けてるよね。私、もしかして七海に何かしちゃった……?」
「いえ、そう言う訳では……。花火、行かなくて良かったんですか?夏油さんは皆と会場に行ってると思いますよ」
「別に。傑と行きたかった訳じゃないから」
その刹那、此方を向いた如月さんが自分の制服の裾を小さく掴む。
一文字に唇を結ぶとそれはずっと何かを耐えて居る様にも思えて、僅かに視線が絡んだ後には俯いた顔に陰りが落ちていく。
その様は今にも泣き出しそうなものにも見えた。
けれど思い当たる節もなく、夏油さんとの恋愛相談などされた日には自分にしろと。
そう口走ってしまいそうな衝動にさえ駆られる。
しかし、彼女の口から放たれた言葉は自分の予想だにしないもので。
耳を疑うのと同時に夏の宵の中に空の花がパッと開いて消えていった。
「……ねぇ、七海。前にも聞いたけど、七海はどんな子がタイプ?どんな子なら好きになれる?想像してもね、全然浮かんでこないんだ。大人の女の人とか、アイドルみたいにすっごく可愛い女の子とか、硝子みたいなクールな美人とか。自分とはかけ離れ過ぎてる子ばっかりで、どれが正解かわからないよ」
「何を、言ってるんですか?」
「だって、理想になりたかったんだもん。一目惚れ、だったんだもん。誰が見たって私と七海じゃ不釣り合いな事はわかってるよ?七海は綺麗だしかっこいいから。それでも好きで、頑張ってアピールしてたつもりだったのに。突然避けられる様になっちゃって……。
私も、もっと美人なら良かったのになぁ。全部普通なんだもん。そうしたら自信も持てた。五条なんか色んなものたくさん持ってて、傑だって硝子だって美人で。私だけがずっとみにくいアヒルの子みたいで。それなのに成長したって白鳥になんてなれなくて。……神様は意地悪だね。ちょっとくらい恵んでくれたって良いのに」
それは、初めて聞いた彼女の泣き言にも思えた。
いつも屈託なく笑い、懸命に努力する傍らで感じていた劣等感はきっと自分が夏油さんに対して抱いたものと同じであり、きっと夏油さんすら知り得ない彼女の本心。
一層俯いていく顔から表情を窺うことは出来なかった。
それは無粋と言うもので、小さく揺れる肩がその歯痒さの全てを表して居る様にも思える。
一縷の期待が胸の中で急速に成長を遂げていく。
……抱きしめても良いのだろうか。
そう考えるより早く細い肩を抱き寄せると、あの日と同じ花の様な香りが悪戯に鼻を擽っていく。
「外見に、それ程重きは置きません。ただ自分が言えるのは此処では普通こそが特別で、とても尊いと言う事です」
「……七海?」
「けれどその尊さを理解できない輩はこんな場所でも一定数は居て、そんな言葉にめげる事なく直向きに努力する人が、好きです。
嬉しい時に笑い、悲しい時には涙する。肩肘を張らず等身大の姿で居られる人が好きです。
たかが指を切ってしまった位のほんの些細な事に気がつける優しさが、愛おしい。淡いピンクのネイルの似合う、ミルクティーの好きな人が、自分がずっと……好きな人です」
その言葉を言い終えるかどうか。
一斉に打ち上がる花火が空を彩り、暗がりの教室の中を照らしていく。
恐る恐る此方を向いた彼女の視線はやはり濡れたもので。
それは、ただ泣いているだけのものとは思えず自分の言葉を疑っているかの様に目を瞬かせるたびに頬に涙痕を刻んでいく。
その雫を指先で払うと視線が絡み、束の間の沈黙が生まれた。
僅かな期待を抱き、ほんの少しだけ顎に滑らせた指先を動かせば静かに如月さんの瞼に帷が降りて。
空で弾ける花火と共に、自分の唇を重ねていた。
それはまるで祝福でもされている様な錯覚さえ齎した。
不慣れすぎるお互い初めてであろう口付けは少し歯の当たる様な不格好なものであったものの、唇を離した後には如月さんの瞳に涙は浮かんでおらず。
林檎の如く赤くなった顔が嬉しさと恥ずかしさを滲ませた笑顔を向けていた。
「一つ、聞いても良いですか?」
「……何?」
「先日、夏油さんと手を繋いでいる所を見かけたんです。四人で教室で話したあの日、それを偶然見かけてしまって。
二人は公言はしていないもの普段から常に共に居るので、てっきりそう言う仲なのかと……」
「あ、あれは……」
「教えて下さい」
やはりまずい場面を見てしまった事には違いないのだろう。
視線を泳がせその声が尻すぼみにどんどん小さくなっていく。
けれど此処で引ける程今の自分には余裕も無ければ寛容な対応など出来るはずもない。
細い肩に手を置き、身を屈めると半ば脅す様に顔を近づけ詰め寄っていた。
言わなければもう一度キスをして、それでも駄目ならと頭の中が何としてでもその理由を知るための策を練っていると観念した様に如月さんが恥ずかしげに顔を背けて口を開く。
「七海と、手繋ぐにはどうしたら良いかなって相談してて……」
「……は?」
「あのね。その前に指の手当てしたでしょ?七海の指、綺麗だなって思ったの。どうしたら繋げるかなって。でもきっと手汗とか酷いから少しは慣れておきたくて、それで傑を、練習相手に……七海?」
思わず項垂れたのは安堵からか。
それとも自分に向けられた想いをこれまで気がつけなかった己の鈍さに呆れたからかは定かではなかった。
ただ、二人が恋愛関係ではない事。
そして彼女の気持ちが一途に自分に向いている事にこの上ない喜びを見出している。
心配そうに如月さんが自分の顔を覗き込もうと躍起になる姿さえ今は可愛らしく堪らなくなり、不意に彼女の小さな手が己の手に重なると一回りも二回りも小さな紅葉を両手で包み込んでいた。
「……あの時は確か。こう、でしたよね?」
「え、あの……汗っ!汗凄いから」
「問題ありません。自分も、相当酷い自覚があるので」
逃げようと身を引いた手首を掴むと今にも折れてしまいそうな程の細さに思わず力を緩めた。
けれど逃すつもりはなく、自分たちの視線がその手にのみ注がれいく。
小さな手のひらは傍目には女性らしさを窺わせるものの、日々の努力をまざまざと感じさせるまめの痕を残していた。
細い指先は握り潰してしまう事さえ容易いのではないかと錯覚させる程で、指の間をすり抜けて絡む手がその大きさの違いを浮き彫りにさせていく。
やはり互いの汗のせいか少しベタつく感覚は否めず、手のひら越しに互いの脈を聞いた気がした。
「やっぱり、大きいね。男の子の手だ」
「如月さんが小さいんでしょう」
「そうかな?でも、七海の手はやっぱり綺麗だね」
クスクスと笑い声を上げた如月さんは爪の形から指の長さまでを感嘆の声を上げながら眺めていた。
それを面白くないと思う自分は思った以上に嫉妬深く、それが己の身体のパーツであったとしても変わりはないらしい。
少しばかり繋いだ手を引くと、弾みでいっぱい踏み出した如月さんの身体が胸元にすっぽりと収まり、腰に腕を回すと何事かと此方を見上げた瞬間にその顔は影を帯びた。
少し涙の味がした一度目のキスは、その感触を堪能する事さえ出来ず、二度目に交わしたキスは如月さんの唇の柔らかさを己にこれでもかと訴えかける。
終盤に差し掛かった花火は一斉に窓枠越しに景色を彩り、空が唸った。
一度知って仕舞えば忘れられない蜜の様なキスを繰り返し、先程よりマシにはなったもののまだ赤らんだ如月さんの顔を見ているとどうにも己の表情も緩んでいく。
「来年は、一緒に花火を見に行きましょう。その時の浴衣は自分が選びます」
「うん。約束ね」
呪術界に於いて先の話を決めるほど無謀な事は無い。
それは学生である自分たちにも言える事と分かっていても、きっとこの約束を果たすためならば自分はどんな事でもやってのけるのだろう。
彼女の満面の笑みに釣られて自分の表情もいっそう柔らかいものへと変わっていた。
しかし、その空気を打ち破ったのは教室の扉の陰から押し合いを繰り返していたクラスメイトと先輩達で。
コントの様に雪崩れ込む音が互いを見つめていた双方の視線を其方へと向けさせる。
浴衣姿の先輩達とクラスメイトはその頭にはお面、片手には林檎飴と花火大会と言うよりもその副産物をおおいに堪能してきたらしく、きっと自分達が居ない事から出歯亀でもしに来たのだろう。
「あーあ。五条のせいでバレちゃったじゃないか」
「これは明らかに悟のせいだな」
「はぁ!?んな事知るかよ。そもそも、様子見に行こうって言い出したのは傑だろ」
「そうだったかな?」
まるで鏡持ちの様に積み重なった人の山を見るのは新鮮だった。
唖然とする此方の視線を諸共せず責任のなすりつけ合いを始めた先輩達の中で灰原だけが自分に向けて親指を立て、その結末を喜んでくれていた様に思う。
ポカンと口を開いたままの如月さんは自分と此方に視線を交互に向け、やがて小さく息を吐き出した後に腹部を抱えて笑い始める。
それはきっと自分というより彼女の恋の結末を見守りたいと皆が心を砕いたからに他ならず、やはり普通と言うほどに稀有なものは存在しないのだろう。
「良かったじゃないか。真那。七海、真那を頼むよ」
「うん。ありがとう、傑」
ずっと如月さんの恋を見守ってきたであろう夏油さんはその格好こそ情けないものの目を細めながら如月さんと視線を交え、その姿は我が子を見守る父のそれにも似ている様に思えた。
しかし、いくら仲がいいと言っても。
本人同士に恋愛感情が無いとしても。
自分としてはこの状況は些か面白く無いもので、繋いだ手に力が籠ると如月さんは此方に視線を向けながら照れくさそうに笑っていた。
まずは互いの名前の呼び方から変えていく必要があるだろうか。
少しずつ夏油さん離れを促し、ゆくゆくはその隣は完全に己のものにしなければならない。
一気に賑やかになった教室の中で、笑い声が絶えず響き渡る。
窓の外を眺めると夏の夜空に広がる星が、これからの日々を期待させるかの様に輝いて居た。
明日からの日常は毎日が普通とも平凡とも言えるものではないけれど、誰もが一度は経験する様な愛おしいものになっていくに違いない。