おかえりの言葉と共に
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「卒業したら一般社会に行く。……呪術師になるつもりはない」
その言葉を聞いたのは卒業までに一年以上の猶予を残した、夏の日の事だった。
当時は丁度、昨年無くしたばかりの友の死を悼んだばかりで。
たった一人となってしまったクラスメイトからその言葉を聞いた時、やはりそうなのかと何処か納得した自分がいる。
確かな決意と共に語られた言葉に私が掛ける言葉など無く、引き留める事は疎か頑張っての一言すら口には出来なかった。
ただ、それが悩みに悩んだ末の結果なのだとしたらあの頃の私には受け入れるしかなくて。
分かった、と愛想の欠片も無い返事と共に踵を返した私は涙を堪えることしか出来なかったのだろう。
サヨナラは向こうから言った癖に。
私から離れて行ったのはそっちなのに。
振り返った際に私より泣きそうな顔をして居たことを、数年経った今でも時折……夢に見てしまう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「本日はお疲れ様でした」
「……はい、ありがとうございます」
疲れた、と声に出す事すら億劫になり気の抜けた言葉と共に補助監督の運転する車を降りた。
徹夜明けの足で大地を踏みしめると履きなれた靴の底がいつの間にかだいぶすり減っている様子に、まるで自分自身の今を垣間見た気がする。
日に日に己の身体に積み重なっていく疲労を栄養ドリンクで誤魔化すのも当たり前となり、今日もいつもの如く連日続く任務を無事に終えた事だけは自分を褒めてやりたい。
最後にまともに休んだ日はいつだったかとぼんやりと考えてみたものの、虚しくなるだけだとその思考を頭の隅の隅へと追いやる。
人の負の感情とは何故こうも際限がないのだろうかと考えずには居られなかった。
祓っても祓っても湧いてくる呪霊は時も場所も笑ってしまう程に選んではくれない。
その忙しさは繁忙期を迎えると一層顕著なものへと変わるのはいつもの事で、一週間を超えた辺りから何連勤目か数える事を放棄した。
次の休みまではまだ先は長く、それも考えただけで憂鬱な気持ちにしかならない。
この任務の報告書を纏めたら、明日からは少し遠方まで出張だった筈だ。
そうすれば道中くらいはゆっくりできる。
残る問題は今からどれだけ仮眠をとって、明日は何時に発てば次の任務がその日のうちに終えるだろうか言う一点のみ。
頭が懸命に時間の計算をするものの、回転の落ちた弱い頭ではすぐに答えに行き着くはずもなくて。
晴れ渡る青空が憎らしい程に清々しく、照りつける日差しが一層眩しく感じる。
けれどそんな空模様とは対照的に、通り慣れた長い廊下を亡霊の様に歩いていると真正面からひらひらと手を振りながら今回の元凶が颯爽と現れ、その後に続いた言葉に思わず私は逃げたら良かったと後悔せざるを得なかった。
「真那、良い知らせがあるよ」
「……何ですか」
「七海、帰ってくるってさ」
そんな言葉と共に軽薄を絵に描いたような腐れ縁の先輩が私の顔を見てほくそえんだ時、私の顔はきっと苦虫を噛み潰した様に歪んでいたに違いない。
そして、その良い知らせが自分のよく知る男が帰ってくるの事なのだと知った時、私の頭の中に浮かんだ言葉は「何故」の一言だった。
やっと梅雨が明け、初夏を感じさせる爽やかな青空が突如暗雲に包まれていく様な気配すら感じさせた。
此処は東京都立呪術専門高等学校。
其処が私の母校であり、現在の職場でもある。
卒業して以来呪術師として籍を置いている私は、およそ十年近い時間を此処で過ごして来た。
私の青い春はこの場所が全てで、限りなく普通とは言い難い世界の中に身を投じながらも、その輝きは当時を知る人間の誰に問いかけても眩いものだと答えるだろう。
ただ、それはいつしか誰も口にする事の無いものへと変わっていった。
切っ掛けは恐らく私達が高二の夏、クラスメイトの死が切っ掛けだった。
否、もっと前から予兆はあったのかも知れない。
もしかしたら無かったのかも知れない。
全ては結果論でしか無く、当時を知る者の誰に問いかけても、たらればの可能性をきっと示唆するに違いない。
ただ一つ言えるのは、透明な水の中にほんの一滴落とされた黒い闇は、少しずつその無色を侵食して取り返しがつかないものに変えてしまったと言う事。
クラスメイトの死、尊敬して居た先輩の離反。
……そして、片想いをして居た男の離脱。
その何も私にとってはこれまでの世界がひっくり返る程には衝撃的な出来事で。
卒業して以来、恋愛なんぞには目もくれず仕事を恋人として来た私は、気がつけば二級で打ち止めとなるだろうと揶揄されて居た周囲の予想を裏切り、現在は一級術師として前線に立つまでに至っている。
そんな私の元に七海が帰ってくるのだと、五条さんは至極楽しげに口元に笑みを浮かべて居た。
けれど私としてはその胸中は手放しで喜べるものとは到底言い難いものだった。
「あれ?長年の片思いの相手が帰ってくるのに、あんまり嬉しそうじゃないね」
「……今更ですから」
「そんな風には見えないけどねぇ」
含みのある五条さんの言葉にほんの少し、己の拳に力が籠る。
けれど一度は終わった恋なのだと、その時私は自分自身に必死に言い聞かせて居ただけなのだろう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「はいっ!こちら、今日から復帰する脱サラ呪術師の七海建人君でーす!!!そしてこちら!!二級打ち止めだと思ってたのに仕事を恋人にして一級に成り上がった如月真那ちゃんでーす!!!」
再会の日は七海が帰ってくると告げられてから数日後の事だった。
その日の私はいつも通り夜通し任務に当たり徹夜明けにも近い状態で、帰路に着いて早々に拉致されそうになったのを何とか阻止し、僅かな猶予だけを与えられるとそのまま職員の共有スペースへと連行される。
日毎濃くなる目の下の隈をメイクで誤魔化し、身形だけは整えたものの、私を取り巻く空気はどんよりと重く、その雰囲気はいっそ呪霊にも近い。
けれど補助監督やかつての後輩達なら避けて通ってくれるであろう今の私にあえて火種を投下してくるのが五条悟と言う人物であり、それこそが彼の真骨頂と言える。
そして訝しげに目を細めた目の前の男もまた、私のご機嫌伺いなどするはずも無く、長い溜息と共に目元のサングラスに指を押し当てるとその眼光が鋭く光る。
「……誰?」
「アナタこそ、昔と随分印象が変わりましたね」
互いの姿を頭の先からつま先まで眺めた私達が放った言葉は、数年ぶりの再会を果たしたクラスメイトに向ける言葉にしては些か辛辣なものだった。
目の前に聳える大柄の男は身長こそ五条さんより少し低いとは思えたけれどその厚みが貫禄すら漂わせ、一般社会に身を置いたサラリーマンとは到底思えない。
かと言ってそこらの店では売って居ない様な自身の身体に合うスーツを着こなす辺り、呪術師とも言い難い。
何より数年前の線の細い美少年がどんな手違いを起こしたらこんな事になってしまうのか。
当時をよく知る私の口が塞がらなくなるのも無理はないだろう。
しかし、それはどうやら向こうも同じ事を考えているのかも知れない。
高専時代に比べたら私の雰囲気は随分殺伐としたものへと変わった。
少しそばかすの目立つ肌は化粧で姿を潜め、一度も染めた事の無い髪はすっかり茶髪に落ち着いている。
女らしさを捨て切った現在の仕事着はパンツスタイルのもので、唯一つけているアクセサリーと言えば片耳にピアスが一つ。
あの頃の自分達を模した様なトリケトラのピアスは高専を卒業してから肌身離さず身に付けているもので。
その由来こそ誰にも話したことはないけれど三位一体を現す意味を持ち、もしかしたらそれ自体が私があの頃の思い出に縋っている証拠なのかも知れない。
「二人ともテンション低いなぁ。感動の再会っ!とかそう言う雰囲気にはならない訳?」
「無いですね」
「右に同じく」
互いに腕を組みながら深い息を吐き出すのは、やはり目の前の最強には散々苦渋を舐めさせられて来ているからなのだろうか。
思い返すだけで身震いしそうな程の難題と無茶振りに振り回された過去は今でも双方の記憶に根強く蔓延っている。
それ故の溜息だと言うのならば少なからず同情の余地はあるが、付き合いの長い私の方がもっと苦労しているのだと言う意味もないマウントを取ろうとしている自分が少し滑稽にも思えた。
しかし相手は歩く軽薄、生ける傍若無人。
最強と言う名の二つ名の背後にどれだけの胃を痛めた人間がいるかは計り知れず、今となってはその筆頭が私と後輩の伊地知と言っても過言では無い。
相手を睨みつける様に互いに眉を顰めながら視線を絡める私達はまるで猿と犬か。
はたまたハブとマングースか。
けれど五条さんはこの険悪な雰囲気すら楽しむ様に軽快な笑い声を上げ、次に放たれた言葉に私はまたしても開いた口が塞がらなくなっていった。
「ま、良いや。とりあえず二人とも今からちょっと出張行って来てよ。七海の一級昇級も兼ねてる任務だから真那、よろしく。じゃ、ホテルの場所後で送っとくね」
「は!?ちょ、五条さん!?」
「よろしく〜」
言いたいことだけを言って颯爽と去っていく背中を引き留める術は無かった。
否、寧ろ引き止めるだけ無駄と言うものだ。
取り残された私はどうしたものかと考えあぐねたものの、何分睡眠不足で頭が回らない。
当の七海は私の判断に従うと言わんばかりに無言を貫き、やって来た難題に私の頭が痛みさえ覚え始めていく。
「……とりあえず、荷物纏めてくるから待ってて。担当の補助監督と合流してても良いから」
「分かりました。此処で待って居ます」
「あっそ」
端的な言葉と共にソファに腰を据えた七海を一瞥すると、愛想の欠片もない返事と共に私は踵を返す。
その足取りは焦燥に駆られる様に足早なもので、自室の扉を閉めたと同時に、一人になれた安堵と共に先程とは比べ物にならない位、大きな息が漏れた。
未だに信じられない。
どくどくと心臓が脈を打ち、目の前に七海がいた事が嬉しいのと同時に苦しさの様なものを齎し、思わず私は己の胸元を鷲掴んでいた。
「……なんで、帰って来たのよ」
先程とはまるで違う偽りなき自分の本音はシューズクロークの上に置かれた私の宝物に対して向けたものだった。
たった一枚しかない写真には一年と数ヶ月しか共に過ごせなかった、人が好きなクラスメイトと共に無愛想な表情をした七海。
そして二人に挟まれてはにかんだ笑みを浮かべる私が映し出されている。
もしもの仮定の話を口には出さずとも、何度考えたかは最早数える事の方が難しいだろう。
あの時の様に、三人で今を過ごすことができて居たのなら。
私のこの捻くれた思考も少しは違ったものだったのかと、今でも時折そんな考えが頭を擡げる。
きっと本人には微塵も伝わって居ないのだろうけれど、私は高専時代から七海がずっと好きだった。
だから七海が呪術師にならないと聞いた時、裏切られた様な想いを抱いたのと同時に安堵していた自分が居る。
普通の生活を手に入れて、やがて普通の家庭を築いて好きな人と共に老いて家族に見守られながら人生の幕を下ろす。
そんなありきたりな一生を私の知らないところでも構わないから歩んで欲しいと。
何故私を置いていくのだと叫びたい気持ちを押さえつけてそう願い続けて居たのに、今頃になって戻ってくるだなんてどう言う風の吹き回しなのかと怒りを堪えた結果があの有様だった。
「……行かない、って訳にはいかないんだよね」
兎にも角にも、いつまでも待たせるわけには行かない。
そこだけの判断は至極冷静だった気がする。
急な出張なんていつもの事で、淡々と最低限必要な物だけを愛用のバッグに詰め込む様は手練れの空き巣を彷彿させる。
けれど手慣れたはずの荷造りをする手が不意に止まると、私らしくもない弱音がほんの僅か顔を覗かせ始めて居た。
いっそ、戻って来たと言うならそれでも良い。
それを七海が選んだのだと言うのならば私はそれを甘んじて受け入れる。
けれど何故、五条さんは私に一級昇格の最後の決定権を与えたのだろうか。
私の一存で七海の今後の任務の難易度が変わる。
それは即ち七海の命を私の手に委ねたのと同義と捉えても差し支えがない。
だから一級の推薦とは易々と貰えるものではないし、私が死に物狂いで此処まで上り詰めるのに卒業してから費やした月日は、一級となった月日よりも遥かに長いものだった。
それだけの努力をして来たと言う自負がある。
一級として五条さんの隣に並び立つ事は出来なくても、後に続く呪術師となった矜持もある。
だからこそこの選択はきっと今後の私にも必要なもので。
これまで誰に推薦の懇願をされても頑なに首を縦に降らなかった私の通過儀礼の様なものでもあるのだろう。
「……行って来ます」
再び部屋の入り口に佇んだ私は助けを求める様に写真立てに視線を向けた。
けれど、毎日欠かす事のない返事のない挨拶は今日に限って一層虚しさを感じさせる。
こんな時、灰原ならどんな回答をしてくれるのだろうか。
そんな無意味な事を考えてみても記憶の中の根明で前向きなあの男は大丈夫、何とかなるよと根拠の無い言葉しか寄越してはくれず。
一人満面の笑みを向ける顔が憎らしくなった私はそっとその写真立てを視界から外した。
重たくなった脚を引き摺りながら七海の元へと舞い戻ると、先程の言葉を違える事なくソファに腰掛ける七海の隣には既に荷物が佇んでいる。
昔ながらの相棒は今も顕在らしく、見慣れた使い古されたバッグが一つ、その出番を待ちかねている様にも思えた。
「お待たせ」
「では、行きましょうか。荷物、持ちますよ」
「そう言うの要らない。早くして」
学生の時からは想像もつかない紳士らしさは、例えば今日初対面の相手だったとしたのなら好感度は鰻登りだったに違いない。
けれど、それは私の知る七海ではない。
高専時代はやる事こそ、他の先輩達やクラスメイトと比べたら分別が付けられるタイプだったとは思うけれど、見た目に反して存外雑な面は多かった。
口調も穏やかなフリをしながらも内側に入れた人間に対しては毒付く事も多く、それが特別な感じがして灰原と一緒に眉を顰める七海の姿を眺めながら笑みを浮かべた数は数え切れない。
あの頃の私は異性として、灰原は友として。
七海の事が、大好きで仕方なかったのだから。
そして私と七海の薄い関係を繋いでくれていたのは、いつも私の相談に乗ってくれていた灰原であり、彼がいなくなってしまってからの日々は私達は碌に会話した覚えすらない気がする。
己の知らない空白の時間というものは変わってしまった相手を前にすると一層その距離を感じさせた。
一般社会に身を投じ、平穏そのものの生活を手に入れて。
きっと暮らしだって豊かだった筈なのに、一度は離れた呪術師に出戻るなんて、その切っ掛けとは一体何だったのか。
私が言えなかった言葉を言った人がいる。
私が引き止められなかった七海を再び此処に赴かせた人がいる。
それは私の唯一綺麗なままで残されていた思い出を打ち砕くには十分で、誰が七海を変えたのかと顔も知らない相手に嫉妬にも似た念を抱く自分が無様でならない。
そんな此方の胸中を七海が汲み取れる筈もなく、愛想の一つも無い私に女としての可愛げなど皆無なのは自分自身がよく理解している。
結局無言のまま乗り込んだ車の中、私達が会話を交わす事は一度もなく。
後部座席に隣り合って座っている筈なのに互いに反対方向の窓の景色を眺めるばかりで終ぞ視線すら絡み合う事はなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
五条さんに指定された任務は都心からは随分離れた場所に位置していたものの、やはり七海の昇級を査定するに相応しい一級案件のものだった。
廃墟と化した昔ながらの病院の中にはあからさまに呪霊の気配が漂っており、一筋縄で行く任務では無いだろう。
車を下車すると七海が相棒の鉈を背中に括り付け、補助監督が帷が下ろす。
その中へと入り込んだ私達は早速熱烈な歓迎をしてくれる呪霊と対峙する事になり、武器を構えた私の目の前に七海が片腕を翳して動きを静止させた。
「此処は私が」
「あっそ。じゃ、お手並み拝見するから」
私の突き放す様な言葉に七海がまたしても眉を顰めた。
武器を納め、腕を組んだ私と七海の周りには既に帷を下ろさらた事で呪霊が炙り出され、その数だけを考えたら相当なものとなる。
七海の身体付きだけを見ればこれまで全く何もせずにしていた訳では無いのだろう。
けれど呪術師として一線を退いて居た事を踏まえれば呪術規定によって祓除は不可能となり、それを七海が違えるとは考え難い。
万一の時は直ぐに助けに入るつもりで、私の片手は常に武器を構えられる位置に置かれていた。
けれどその巨体からは想像もつかない程の俊敏な動きは辺りの呪霊をあっという間に一掃し、その動きに私は目を奪われていく。
学生時代ですら、ずっと三級止まりだった私に対して、二級だった二人の動きは私の比ではなく常に憧れの対象だった。
やっと一級だと認められる様になっても尚、冥さんや日下部さんと比べたら実力差は天と地程の差があり、それを数で賄う事しか出来ない私は恐らく小細工を抜きにしたら今の七海より格段に弱いだろう。
相手の力量を先ず見極める。
それが呪術師として生き残るための何よりの技術で、それに関して私は誰よりも頭一つ飛び抜けて居ると昔、五条さんが言っていた。
そうでなければ私などとっくに土の下に眠っていて当然の力量しか無いのだと、そう突きつけられた気もする。
今でこそ少しは実力を認めてもらえるようになったけれど、それはある種嫌味にも聞こえる賛辞で、手放しに喜べる筈もなく人知れず歯噛みした苦い過去がある。
だからこそ仕事が恋人と認知されるほどの努力をしてきたと言うのに、目的であった筈の一級呪霊さえも危なげなく祓除を終えると出番がいつ来るかと身構えていた私は拍子抜けするしか無くて。
帷が上がるのと同時に涼しい顔をして戻って来た
七海の口角は少しばかり上がっていた様に思える。
「如何でしたか?」
「……思ってたよりは動けてた。ムカつくけど、一級でも十分通用する」
「そうですか。それは良かった。では帰りますよ」
「は? ちょっと七海……!?」
有無を言わさず腕を掴まれると私の身体がぐらりと傾く。
それを難なく受け止めた七海は今の私が相当な無理をしている事に勘付いて居るのだろう。
歩けますか?と問いかけられても直ぐに返事ができなかった。
無茶に無茶を重ねて、まだやれると我が身を顧みる事なく働き続け、緊張の糸が少しでも緩むといつもこの様だ。
車まで引き摺られるように連行された私は、あまりの任務完遂の速さに驚きを隠せない補助監督を差し置いて車のなかに押しやられる。
先程までは平気だった筈なのに、突如視界が回り始めて居る様な錯覚まで齎し始めていく気がした。
すかさず七海が隣の席を陣取り、ピックアップした場所に向かう様に指示を出す。
慌てふためきながら運転席に転がり込んだ補助監督がハンドルを握り締め、車はゆっくりと景色を変え始めていく。
「着いたら起こします。少し休んでいてください」
「これくらいなら問題ない」
「アナタに無くとも此方にはある。着いたら起こします。……良いから、大人しく寝て居ろ」
私のシートベルトを付けようとして居るのか。
身を乗り出した七海が私の目の前に影を作る。
微かに鼻を掠める、大人の男の香りに酔いそうだった。
昔より無骨になった手が視界を塞ぐ。
少し荒っぽくなった口調は昔を彷彿させるのに、目元を覆う手は恐ろしく優しいもので。
懐かしさに胸が締め付けられるのと同時にシートベルトが装着された音を聞くと、車の振動が心地よかった事もあってか、私はあっという間に夢の世界に誘われていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
耳のピアスは私にとって三人で笑い合って過ごしたあの頃の象徴だった。
灰原が居て、私が居て、七海が居る。
男女の差など関係なしに馬鹿をやって、叱られて、それでも最後には笑い合う、思い出の欠片。
そんなピアスが誰かに触れられて居るのか。
頬を掠める感触に私の脳裏に取り戻せない憧憬が鮮やかに浮かび上がる。
微睡の中、爽やかな香りのするシーツに顔を擦り付けた。
多忙を極めた際の仮眠は起きれるかどうかが最大の争点となるからと床で寝ることすら珍しくも無いと言うのに。
ふかふかのベッドは使い古された自室のものとは明らかに違い、やはり快適な睡眠を取るには寝具から見直すべきなのかという考えさえも頭を掠めた。
冷えない様に気遣われたのか。
己の身体には七海の上着が掛けられており、先程は掠める程度の微かなものだった香りが一層強いものに感じるとそれはまるで七海に抱きしめられて居る様な錯覚さえ抱かせた。
「起きたんですか」
「……おはよ。どのくらい寝てた?」
「三時間ほど。大分疲れを溜め込んでますね。私が抱えても身動ぎ一つしませんでしたよ」
「連日仮眠続き。今日は徹夜明け。後は察して」
ベッドの縁に腰を下ろした七海が私に視線を向けると読みかけの本を静かに閉じた。
任務中は外す事なかったサングラスは今は何処かに追いやられたのかほんの少し、自分を見つめた双眼が細まった気がする。
一応気遣ってくれていたのかと淡い恋心が音を鳴らすのに、卑屈な自分がその可能性を根本から毟り取り、七海の手にした小難しい本のタイトルを無意識に頭の中で反芻していた。
会話をした事で思考が少しはクリアになった気がする。
仮眠でもないよりマシなのか気怠さもマシになり、棘の抜けた態度に七海はきっと私のキツイ物言いが三代欲求を満たせなかった事によるものだと察してくれたらしい。
のそのそとベッドから起き上がった私は無愛想なお礼を述べながら七海に上着を突き返す。
予想以上に任務は早く終わり、今日はやっとまともな睡眠を取れそうだと期待に胸が膨らんでいた。
宿を手配したのが五条さんと言うこともあってか、七海が一人で使うにしては広すぎる部屋を見渡せば同じフロアになるであろう自分の部屋にも期待が過ぎる。
けれど、おもむろに私が手を差し出すと七海は不思議そうに首を傾げ、早くと急かす私に向けて眉を顰めていた。
「何ですか?」
「私の部屋の鍵、ちょうだい。任務は終わったんだからもう一眠りしたいの」
「有りませんよ」
「は?」
「ですから、アナタの部屋は有りません。どうやら私と同室にされて居るらしい。五条さんにも確認を取ったので間違いはないかと」
「……やられた」
全てが五条さんの手のひらの上だと理解した瞬間、私は手を額に押し当てながら項垂れる。
少しでも仮眠が取れてやっと気分がスッキリしたと言うのに再び奈落にでも突き落とされた様な心持ちだった。
何が楽しくて拗らせた片想いを続けて居る、自分に全く気のない男と一晩同じ部屋で過ごさなければならないのだろうか。
再会した事で改めて認識させられたのはやはり私は七海の事が好きだと言うこと。
それ以外に恋をした覚えもなく、これはあの頃への執着にも近いのかも知れない。
脳裏に過ぎる軽薄な先輩、兼上司の顔を無理矢理消し飛ばしてみたものの、この状況を把握して居るであろう男の高笑いが聞こえた気がして苛立ちが募る。
別のホテルを探す事も考えては見たけれど、出張を伴う任務の宿泊先はこれまでずっと補助監督任せだった自分には検索の仕方さえもわからない。
かと言って七海を叩き出してしまうのは申し訳なく、何より私と七海が同室で一晩過ごしたとして、間違いなど起きるはずもないと確信めいて居ることが虚しい。
昼下がりの外の景色は晴れ渡る青空が広がり、スィートルームと思われる豪華な部屋からは都心ほどでは無くても夜になればさぞ夜景の映える街並みが広がると言うのに。
なぜこんな陰鬱な気分にならなければならないのか。
それも全て五条さんのせいであり、あの人を相手にするなら抵抗するより開き直る方が余程早いし精神衛生面上宜しいと判断するしかないだろう。
「仕方ないか。七海、一晩だから我慢して」
「アナタがそれで良いのなら、構いませんが」
「折角五条さんのお金でいい部屋に泊まれるんだから満喫しなくちゃ損でしょ。ベッドの寝心地は最高だったし」
「それは何より」
諦めにも近い溜息を溢しながら部屋を見渡すとソファですら一晩眠るには十分すぎるほどの大きさがあり、最悪今日はそこを寝床にしたら良い。
不測の事態に陥った際、不器用だった筈の私が即座に臨機応変な対応を取れる様になったのは長年呪術師をして居るからか。
それとも無茶振りばかりしてくる五条さんの洗礼のおかげかは最早己に問うまでもなかった。
少し喉に渇きを覚え、豪華な調度品に囲まれた室内を見渡すと夜景を見るために置かれたテーブルの側にミニバーがある事を目敏く見つけた私は自然と其方に脚を向けた。
曇り一つなく磨き上られたグラスが手に取られるのを心待ちにして居る様に思えて、さすがお高い部屋という事もあってか普段中々お目にかかる事の無い珍しいお酒が並べられて居る。
酒に関しては好きでもなければ然程強い訳でも無いけれど、こんなにゆっくり出来るのは本当に久しぶりで。
羽目を外すのも悪く無いだろうと目を引いたワインと二脚のグラスを片手に私は七海の方を振り返る。
「七海、飲まない?」
「こんな真っ昼間からですか?」
「だから良いんじゃない。こんなにゆっくり出来るのは本当に久しぶりなの。別に付き合ってくれなくても一人で飲むけど」
「……付き合います」
既に緩んだネクタイを外しながら七海が私の元へとやって来る。
慣れた手つきでワインボトルのコルクを開け、慣れた様子でテーブルに置いたグラスに注ぐ様はソムリエを思わせた。
差し出された透明なグラスの中に波を打ちながら赤が広がる。
特に祝う言葉も無くテーブルに腰掛けた私達のグラスが甲高い音を奏で、あまり飲み慣れていないワインは思った以上に口当たりがよく、芳醇な香りが鼻に抜けていく。
「ワインってあんまり飲んだことないけど、良いものってやっぱり飲みやすいんだね」
「程々にしておいて下さい。悪酔いしますよ」
「そうしたら直ぐに寝れば良いだけよ」
空きっ腹にアルコールを流し込んだせいか、既にほろ酔いの自分に向けられる七海の言葉は右から左に流れていくだけだった。
絶景とも呼べる街並みを見下ろし、豪華な部屋を与えられ、目の前には長年片思いを続けて居る好きな男。
これだけの条件が揃っていても、お酒が入っていたとしても。
色づいた雰囲気にすらならないのは長年女を捨てて来たツケなのだろう。
同じ世界に身を置きながらも同年代の補助監督を見れば髪を手入れしただの、ネイルを新しくしただのとそんな話題に花が咲く様を幾度も目にしたことがある。
それを羨んだ事は無いけれど、些か女としてこのままで良いのかと言う焦りのようなものは年を追うごとに焦燥となって思考を蝕んだ。
彼女たちがお店で綺麗に売られて居る花ならば私はその辺の路肩に咲く野草だ。
誰に踏みつけられても折れることは無いけれど、誰の目にも留まる事もなく、傷だらけになった身体は晒す事に抵抗すら覚えるようになり、暗がりの中で行きずりの男とばかり身体を重ねる癖がついてしまった。
それなのに誰かの腕にいる時ですら私が必ず思い浮かべるのは七海の事で、自分自身の事なのに呆れてものも言えなくなる。
七海とこんな風に酒を飲む日が来るだなんて思ってもいなかった。
きっとこの男なら小洒落たバーで一人で酒を嗜んでいたとしても向こうから女が寄って来るだろう。
こんな形の再会を果たしたからか。
やけに思考が後ろばかり向いてしまう。
折角のいい酒の相手が私で申し訳なく感じるのも、久しぶりの酒のせいで少し感傷的になって居るからなのもしれない。
「七海、グラスもう一つ取って」
「どうしたんですか」
「折角だから、一度くらい三人で飲みたいでしょ」
携帯を取り出した私は自室にある写真と同じ画像を画面に映し出すとグラスの前に携帯を立てかけた。
七海が驚いた様にその様子に声を上げて、私達の間に束の間の静寂が訪れる。
懐かしい、大切な思い出。
きっと灰原がまだ生きていたら、週末になる毎に飲みに誘われて、翌日は三人で頭を抱えながらも任務に勤しんだに違いない。
ありもしない幻想。
思い描いた夢物語。
手の届かない理想。
それら全てがないまぜとなって胸の内で渦を巻き、複雑な思いを抱きながら見つめる写真はやはり眩い程に美しい。
「その写真、残していたんですね」
「三人で撮ったものってこれだけだったでしょ。灰原と二人のものや先輩達と撮ったものは沢山あるのに、七海は絶対映ってくれなかったじゃない。これでも毎日眺めるくらいには大切にしてる」
「……アナタには、灰原が居れば大丈夫だと思っていたので」
一度静寂が打ち砕かれると今度はお互い酒が入った事で少しばかり饒舌になっていた気がする。
誰にも語る事のなくなった灰原の事も、七海相手ならば懐かしい思いと僅かな痛みを抱きながらも語らう事がことができる。
けれど少しばかり含みのある口調を気にする事もなく、私は当時を思い返していた。
灰原だけ居れば良かったと思った事は一度たりとも無かったけれど、彼の存在には随分救われていたから。
「まぁ、あの頃は灰原に色々相談聞いて貰ってたからね。私、七海が好きだったから」
「……は?」
「あぁ、ごめん。今のなし。昔の事だから気にしないでよ。男女間で友情って成立するのか難しい所だけど、一応元クラスメイトでこれからは同僚になる訳だしさ」
ピシ、と互いを取り巻く空気に亀裂の入る音を聞いた気がした。
耳を疑う様な七海の声に我に返った私はけっして言うつもりのなかった言葉を言ってしまって事に内心酷く狼狽える。
ひらひらと手を振りながらその場の空気を取り繕ってみても驚きに目を見開いた七海は私の言葉を聞き流してはくれなかったらしく、気まずい空気が漂うと居た堪れなくなっていく。
ほんの数分前に戻れるとしたら己の口を縫い付けてでも今の言葉を口に出さない様に全力で止めてやりたい。
まんまるに目を見開いた七海の視線が突き刺さり、これ以上の言葉を無くす。
閉口する私に痺れを切らしたかの様に向かいに腰掛けた七海が静かにグラスをテーブルに置いた。
徐に立ち上がり、私の隣に立ち尽くす様にやって来ると頑なに視線を合わせようとしない私の頬に手を添え、無理やり引き上げられた視線が七海のものと交わっていく。
「アナタにとって、それはもう過去のことですか?私は、今回の任務に同行する呪術師に敢えてアナタを指名しました」
「七海?」
「戻るにあたって、色々と考えさせられる事は多かった。ですが一級になる事についてはアナタに認めてもらわなければ意味がなかった。私は……ずっと」
その先の言葉を聞きたいと願う気持ちと聞きたくないという気持ちが己の中でせめぎ合った。
淡い期待を抱かなかったかと言えば嘘になるし、もし期待通りならば女として私はこれ以上ない喜びを見出す。
けれどそれは同時にこれまで死に物狂いで任務に明け暮れて来た己を否定してしまう様な気がしてならなかった。
何より今はお互い酒と雰囲気に酔って居る。
一時の過ちで過ごせる程軽い相手ならばまだしも、長年思い続けて来た相手と何かあったとしてその後普通に同僚に戻れる自信など私には無かった。
「冗談ならやめてもらえる?七海の方が悪酔いしてるんじゃない?やっぱり私、別の部屋取って寝る」
「生憎、確認しましたが空きは有りませんでしたよ」
「だったらその辺の男捕まえてラブホにでも泊まる」
パシンと手を振り払い、逃げる様に席を立つ。
けれど横をすり抜けた私の腕を掴んだ七海が眉間に皺寄せながら私を引き留め、大きく揺れたテーブルが少なくなったグラスのワインを大きく波立たせた。
自分より遥かに大きな男に睨みつけられ、普通の女ならば目に涙の一つでも浮かべながら震えるのだろう。
そういう女が愛らしく庇護欲を駆られると言うのは嫌というほど知って居る。
けれど、生憎私にそんな可愛らしさは存在せず、怯む様子もなく七海を睨み返すと己の想像した以上に熱の籠った視線に思わず視線が彷徨った。
吸い込まれそうな程に透き通る翠眼が静かに燃える焔を彷彿させる。
不貞腐れた様に背けた顔は七海の片手に顎を掴まれ、逃げ場を失った。
怒りを露わにしながらも身体を引き寄せる腕は優しいもので、それが一層私を混乱させていく。
「逃げるな。こっちを見ろ。……何がその辺の男とホテルだ。ふざけるのも大概にしろ。クソ、腹が立つ」
「何それ。別に私が誰と寝ようが関係ないでしょ?保護者でもあるまいし、七海に怒る権利なんて無いじゃない」
「そうです。私は、自分自身に苛立っているんですよ。アナタを一人にした事に。こんなになるまで一人で頑張らせた事に、怒りを覚えている」
悔しさを表す様に七海の白い歯が鈍く鳴る。
常に表面上は冷静沈着で己の不甲斐なさに腹が立つだなんて事は七海にはないと思っていた。
それなのに、今の七海はまるで私に許しを乞う様に縋り、私が勝手に自暴自棄になっていた事に対してすら自責の念を感じて居る。
顔さえ覚えていない私の行きずりの男に嫉妬の念を覗かせ、決して離すものかと腕の中に収まる私を抱き竦めていた。
「……今更じゃない。一人で呪術師辞めた癖に。置いて行った癖に。勝手に戻ってきて、勝手に一級査定に巻き込んで、何なのよ。
こっちは片思い拗らせすぎて、終わったものだと言い聞かせて来たのに。なのに七海を忘れられなくて。寂しいのをずっと任務で誤魔化して来て……。それでも七海が穏やかに過ごせたら良いって思ってたのに。
これ以外掻き乱さないでよ。もう好きな男に晒せる程、綺麗な身体なんてしてないんだから」
弱々しく突き放そうとしてみたものの、七海の香りも体温もまるで麻薬の様に私の身体を侵食し思考を鈍らせる。
全力で抵抗すれば或いは振り解けるかも知れない腕の中にこのまま収まっていたいと思い始めて居る自分が居る。
なんて単純な女なのだろうと自嘲したくなるのに、ほんの少しの欠片となって残された無垢な恋心があの頃の自分自身を思い出せと私に呼びかけいて居る気がした。
「関係ない。そこに関しては私も大分拗らせたらしい。お互い様です。意地を張るのもそろそろ疲れたんです。アナタの気持ちがまだ少しでも残って居るというのなら、大人しく受け入れて下さい。如月、私を見ろ」
弱々しく七海のシャツを掴むと先程の怒りを孕んだものとはまるで違う優しげな声が私の名前を紡ぐ。
躊躇いながら顔を上げると、ゆっくりと私の眼前に翳りが落ちた。
触れた唇は想像以上に柔らかく、それが七海のものだと意識しただけで脈が大きく跳ね上がる。
静寂が時の流れを錯覚させ、ほんの数秒の出来事が途方もない時間に感じた気がする。
初々しささえ感じる口付けはまるで初恋を実らせたばかりの少年少女のそれにも近く、静かに離れて行った唇に思わず伏せた瞼を開けると、目の前には破顔した七海の姿があった。
「……すっごい情けない顔」
「これでも私も初恋なので。ずっと灰原が好きだと思っていました。それに、今更アナタに取り繕うものなんて何一つありません。
見ての通り情けない男です。それでもアナタは受け入れてくれますか?」
まるで七海一人が片思いを続けて居るかの様な口ぶりだった。
先程の破顔した姿から一転、今は固唾を飲む様にして私の返答を待ち続けて居る七海からは女の扱いに慣れた様子など微塵も感じさせず、少し不器用にすら思える様子が私の心を酷く擽った。
要は互いに言葉が足りず、思い違いをしていただけなのだろう。
けれどあの頃ちゃんと想いを伝えていたとして、七海が高専に残った可能性は低かったとも思える。
長い間拗らせ続けた想いではあったものの、今になってこんな形で実るのならばこの先の生涯を私達は互いに捧げて生きていくのだろう。
「……じゃあ見せてよ。今此処で。七海の事、全部私に教えてよ」
溢れ出た想いが困惑より歓喜に天秤を傾けた事を自覚せざるを得なかった。
ここまで来たら観念するしか無い。
するりと七海の頬を撫でながら私が緩やかな三日月を口元に描く。
その手がシャツ越しに分厚い胸元を這うと、私の意図する事を理解した七海が忌々しそうに舌を打つ。
「ナメやがって」
「はは。口調、昔みたいになってる。懐かしい」
揶揄う様な私の言葉に眉根を寄せながらも七海がひょいと私を抱き抱えた。
大股で向かう先はやはり私の予想通りの場所であり、先程の柔らかな心地いいベッドの上に横たえられた私はすかさず馬乗りになった七海に唇を塞がれた。
応えるように太い首に腕を回す。
密着した身体は衣服越しでも互いの熱を伝え、それはきっと酒に酔っただけのことでは無いのだろう。
絡み合う舌が焼けるように熱く、心地よかった。
窒息しそうな程の息苦しささえも劣情を煽る材料となり、くぐもった声が漏れると七海が名残惜しそうに唇を離し、私達の間で互いの吐息が絡まり合った。
「今日も徹夜になったら怒りますか?」
「その後労ってくれるなら良しとする」
「それは勿論。喜んで」
私のピアスを撫でた指先が首筋に触れながら衣服に手を掛けると、私の指もまた七海のシャツのボタンを外し始めていく。
どちらが早く脱がせられるかと競い合うような性急な手つきは相手を求めるが故の衝動であり、それらを止める術を私達は最早待ち合わせては居なかった。
結果としてその勝敗は七海に軍配が上がり、まじまじと肌を眺める瞳が一瞬揺らいだのはきっと気のせいでは無いのだろう。
それでも嫌悪を示されなかった事は救いと言うべきか。
その一つ一つを癒すように唇後落ちる度に私の身体が小さく反応を繰り返す。
夢にまでみた男の腕の中に自分が居るという事実を未だに信じられず、肌を撫でる唇を自分に向けるよう促すとやっと七海が帰って来た事を受け止めた自分の目尻から一筋の雫がこぼれ落ちた。
群青に蔓延る淡い想いが胸を満たす。
数年越しの想いを糧に、シーツの海に溺れていく。
ずっと言いたかった言葉。
言えなかった言葉。
これからは、何度でも何度でもそれを伝えよう。
……だから必ず、私の元に帰って来て。
「……おかえり。七海」
「ええ。ただいま戻りました」
その言葉を聞いたのは卒業までに一年以上の猶予を残した、夏の日の事だった。
当時は丁度、昨年無くしたばかりの友の死を悼んだばかりで。
たった一人となってしまったクラスメイトからその言葉を聞いた時、やはりそうなのかと何処か納得した自分がいる。
確かな決意と共に語られた言葉に私が掛ける言葉など無く、引き留める事は疎か頑張っての一言すら口には出来なかった。
ただ、それが悩みに悩んだ末の結果なのだとしたらあの頃の私には受け入れるしかなくて。
分かった、と愛想の欠片も無い返事と共に踵を返した私は涙を堪えることしか出来なかったのだろう。
サヨナラは向こうから言った癖に。
私から離れて行ったのはそっちなのに。
振り返った際に私より泣きそうな顔をして居たことを、数年経った今でも時折……夢に見てしまう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「本日はお疲れ様でした」
「……はい、ありがとうございます」
疲れた、と声に出す事すら億劫になり気の抜けた言葉と共に補助監督の運転する車を降りた。
徹夜明けの足で大地を踏みしめると履きなれた靴の底がいつの間にかだいぶすり減っている様子に、まるで自分自身の今を垣間見た気がする。
日に日に己の身体に積み重なっていく疲労を栄養ドリンクで誤魔化すのも当たり前となり、今日もいつもの如く連日続く任務を無事に終えた事だけは自分を褒めてやりたい。
最後にまともに休んだ日はいつだったかとぼんやりと考えてみたものの、虚しくなるだけだとその思考を頭の隅の隅へと追いやる。
人の負の感情とは何故こうも際限がないのだろうかと考えずには居られなかった。
祓っても祓っても湧いてくる呪霊は時も場所も笑ってしまう程に選んではくれない。
その忙しさは繁忙期を迎えると一層顕著なものへと変わるのはいつもの事で、一週間を超えた辺りから何連勤目か数える事を放棄した。
次の休みまではまだ先は長く、それも考えただけで憂鬱な気持ちにしかならない。
この任務の報告書を纏めたら、明日からは少し遠方まで出張だった筈だ。
そうすれば道中くらいはゆっくりできる。
残る問題は今からどれだけ仮眠をとって、明日は何時に発てば次の任務がその日のうちに終えるだろうか言う一点のみ。
頭が懸命に時間の計算をするものの、回転の落ちた弱い頭ではすぐに答えに行き着くはずもなくて。
晴れ渡る青空が憎らしい程に清々しく、照りつける日差しが一層眩しく感じる。
けれどそんな空模様とは対照的に、通り慣れた長い廊下を亡霊の様に歩いていると真正面からひらひらと手を振りながら今回の元凶が颯爽と現れ、その後に続いた言葉に思わず私は逃げたら良かったと後悔せざるを得なかった。
「真那、良い知らせがあるよ」
「……何ですか」
「七海、帰ってくるってさ」
そんな言葉と共に軽薄を絵に描いたような腐れ縁の先輩が私の顔を見てほくそえんだ時、私の顔はきっと苦虫を噛み潰した様に歪んでいたに違いない。
そして、その良い知らせが自分のよく知る男が帰ってくるの事なのだと知った時、私の頭の中に浮かんだ言葉は「何故」の一言だった。
やっと梅雨が明け、初夏を感じさせる爽やかな青空が突如暗雲に包まれていく様な気配すら感じさせた。
此処は東京都立呪術専門高等学校。
其処が私の母校であり、現在の職場でもある。
卒業して以来呪術師として籍を置いている私は、およそ十年近い時間を此処で過ごして来た。
私の青い春はこの場所が全てで、限りなく普通とは言い難い世界の中に身を投じながらも、その輝きは当時を知る人間の誰に問いかけても眩いものだと答えるだろう。
ただ、それはいつしか誰も口にする事の無いものへと変わっていった。
切っ掛けは恐らく私達が高二の夏、クラスメイトの死が切っ掛けだった。
否、もっと前から予兆はあったのかも知れない。
もしかしたら無かったのかも知れない。
全ては結果論でしか無く、当時を知る者の誰に問いかけても、たらればの可能性をきっと示唆するに違いない。
ただ一つ言えるのは、透明な水の中にほんの一滴落とされた黒い闇は、少しずつその無色を侵食して取り返しがつかないものに変えてしまったと言う事。
クラスメイトの死、尊敬して居た先輩の離反。
……そして、片想いをして居た男の離脱。
その何も私にとってはこれまでの世界がひっくり返る程には衝撃的な出来事で。
卒業して以来、恋愛なんぞには目もくれず仕事を恋人として来た私は、気がつけば二級で打ち止めとなるだろうと揶揄されて居た周囲の予想を裏切り、現在は一級術師として前線に立つまでに至っている。
そんな私の元に七海が帰ってくるのだと、五条さんは至極楽しげに口元に笑みを浮かべて居た。
けれど私としてはその胸中は手放しで喜べるものとは到底言い難いものだった。
「あれ?長年の片思いの相手が帰ってくるのに、あんまり嬉しそうじゃないね」
「……今更ですから」
「そんな風には見えないけどねぇ」
含みのある五条さんの言葉にほんの少し、己の拳に力が籠る。
けれど一度は終わった恋なのだと、その時私は自分自身に必死に言い聞かせて居ただけなのだろう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「はいっ!こちら、今日から復帰する脱サラ呪術師の七海建人君でーす!!!そしてこちら!!二級打ち止めだと思ってたのに仕事を恋人にして一級に成り上がった如月真那ちゃんでーす!!!」
再会の日は七海が帰ってくると告げられてから数日後の事だった。
その日の私はいつも通り夜通し任務に当たり徹夜明けにも近い状態で、帰路に着いて早々に拉致されそうになったのを何とか阻止し、僅かな猶予だけを与えられるとそのまま職員の共有スペースへと連行される。
日毎濃くなる目の下の隈をメイクで誤魔化し、身形だけは整えたものの、私を取り巻く空気はどんよりと重く、その雰囲気はいっそ呪霊にも近い。
けれど補助監督やかつての後輩達なら避けて通ってくれるであろう今の私にあえて火種を投下してくるのが五条悟と言う人物であり、それこそが彼の真骨頂と言える。
そして訝しげに目を細めた目の前の男もまた、私のご機嫌伺いなどするはずも無く、長い溜息と共に目元のサングラスに指を押し当てるとその眼光が鋭く光る。
「……誰?」
「アナタこそ、昔と随分印象が変わりましたね」
互いの姿を頭の先からつま先まで眺めた私達が放った言葉は、数年ぶりの再会を果たしたクラスメイトに向ける言葉にしては些か辛辣なものだった。
目の前に聳える大柄の男は身長こそ五条さんより少し低いとは思えたけれどその厚みが貫禄すら漂わせ、一般社会に身を置いたサラリーマンとは到底思えない。
かと言ってそこらの店では売って居ない様な自身の身体に合うスーツを着こなす辺り、呪術師とも言い難い。
何より数年前の線の細い美少年がどんな手違いを起こしたらこんな事になってしまうのか。
当時をよく知る私の口が塞がらなくなるのも無理はないだろう。
しかし、それはどうやら向こうも同じ事を考えているのかも知れない。
高専時代に比べたら私の雰囲気は随分殺伐としたものへと変わった。
少しそばかすの目立つ肌は化粧で姿を潜め、一度も染めた事の無い髪はすっかり茶髪に落ち着いている。
女らしさを捨て切った現在の仕事着はパンツスタイルのもので、唯一つけているアクセサリーと言えば片耳にピアスが一つ。
あの頃の自分達を模した様なトリケトラのピアスは高専を卒業してから肌身離さず身に付けているもので。
その由来こそ誰にも話したことはないけれど三位一体を現す意味を持ち、もしかしたらそれ自体が私があの頃の思い出に縋っている証拠なのかも知れない。
「二人ともテンション低いなぁ。感動の再会っ!とかそう言う雰囲気にはならない訳?」
「無いですね」
「右に同じく」
互いに腕を組みながら深い息を吐き出すのは、やはり目の前の最強には散々苦渋を舐めさせられて来ているからなのだろうか。
思い返すだけで身震いしそうな程の難題と無茶振りに振り回された過去は今でも双方の記憶に根強く蔓延っている。
それ故の溜息だと言うのならば少なからず同情の余地はあるが、付き合いの長い私の方がもっと苦労しているのだと言う意味もないマウントを取ろうとしている自分が少し滑稽にも思えた。
しかし相手は歩く軽薄、生ける傍若無人。
最強と言う名の二つ名の背後にどれだけの胃を痛めた人間がいるかは計り知れず、今となってはその筆頭が私と後輩の伊地知と言っても過言では無い。
相手を睨みつける様に互いに眉を顰めながら視線を絡める私達はまるで猿と犬か。
はたまたハブとマングースか。
けれど五条さんはこの険悪な雰囲気すら楽しむ様に軽快な笑い声を上げ、次に放たれた言葉に私はまたしても開いた口が塞がらなくなっていった。
「ま、良いや。とりあえず二人とも今からちょっと出張行って来てよ。七海の一級昇級も兼ねてる任務だから真那、よろしく。じゃ、ホテルの場所後で送っとくね」
「は!?ちょ、五条さん!?」
「よろしく〜」
言いたいことだけを言って颯爽と去っていく背中を引き留める術は無かった。
否、寧ろ引き止めるだけ無駄と言うものだ。
取り残された私はどうしたものかと考えあぐねたものの、何分睡眠不足で頭が回らない。
当の七海は私の判断に従うと言わんばかりに無言を貫き、やって来た難題に私の頭が痛みさえ覚え始めていく。
「……とりあえず、荷物纏めてくるから待ってて。担当の補助監督と合流してても良いから」
「分かりました。此処で待って居ます」
「あっそ」
端的な言葉と共にソファに腰を据えた七海を一瞥すると、愛想の欠片もない返事と共に私は踵を返す。
その足取りは焦燥に駆られる様に足早なもので、自室の扉を閉めたと同時に、一人になれた安堵と共に先程とは比べ物にならない位、大きな息が漏れた。
未だに信じられない。
どくどくと心臓が脈を打ち、目の前に七海がいた事が嬉しいのと同時に苦しさの様なものを齎し、思わず私は己の胸元を鷲掴んでいた。
「……なんで、帰って来たのよ」
先程とはまるで違う偽りなき自分の本音はシューズクロークの上に置かれた私の宝物に対して向けたものだった。
たった一枚しかない写真には一年と数ヶ月しか共に過ごせなかった、人が好きなクラスメイトと共に無愛想な表情をした七海。
そして二人に挟まれてはにかんだ笑みを浮かべる私が映し出されている。
もしもの仮定の話を口には出さずとも、何度考えたかは最早数える事の方が難しいだろう。
あの時の様に、三人で今を過ごすことができて居たのなら。
私のこの捻くれた思考も少しは違ったものだったのかと、今でも時折そんな考えが頭を擡げる。
きっと本人には微塵も伝わって居ないのだろうけれど、私は高専時代から七海がずっと好きだった。
だから七海が呪術師にならないと聞いた時、裏切られた様な想いを抱いたのと同時に安堵していた自分が居る。
普通の生活を手に入れて、やがて普通の家庭を築いて好きな人と共に老いて家族に見守られながら人生の幕を下ろす。
そんなありきたりな一生を私の知らないところでも構わないから歩んで欲しいと。
何故私を置いていくのだと叫びたい気持ちを押さえつけてそう願い続けて居たのに、今頃になって戻ってくるだなんてどう言う風の吹き回しなのかと怒りを堪えた結果があの有様だった。
「……行かない、って訳にはいかないんだよね」
兎にも角にも、いつまでも待たせるわけには行かない。
そこだけの判断は至極冷静だった気がする。
急な出張なんていつもの事で、淡々と最低限必要な物だけを愛用のバッグに詰め込む様は手練れの空き巣を彷彿させる。
けれど手慣れたはずの荷造りをする手が不意に止まると、私らしくもない弱音がほんの僅か顔を覗かせ始めて居た。
いっそ、戻って来たと言うならそれでも良い。
それを七海が選んだのだと言うのならば私はそれを甘んじて受け入れる。
けれど何故、五条さんは私に一級昇格の最後の決定権を与えたのだろうか。
私の一存で七海の今後の任務の難易度が変わる。
それは即ち七海の命を私の手に委ねたのと同義と捉えても差し支えがない。
だから一級の推薦とは易々と貰えるものではないし、私が死に物狂いで此処まで上り詰めるのに卒業してから費やした月日は、一級となった月日よりも遥かに長いものだった。
それだけの努力をして来たと言う自負がある。
一級として五条さんの隣に並び立つ事は出来なくても、後に続く呪術師となった矜持もある。
だからこそこの選択はきっと今後の私にも必要なもので。
これまで誰に推薦の懇願をされても頑なに首を縦に降らなかった私の通過儀礼の様なものでもあるのだろう。
「……行って来ます」
再び部屋の入り口に佇んだ私は助けを求める様に写真立てに視線を向けた。
けれど、毎日欠かす事のない返事のない挨拶は今日に限って一層虚しさを感じさせる。
こんな時、灰原ならどんな回答をしてくれるのだろうか。
そんな無意味な事を考えてみても記憶の中の根明で前向きなあの男は大丈夫、何とかなるよと根拠の無い言葉しか寄越してはくれず。
一人満面の笑みを向ける顔が憎らしくなった私はそっとその写真立てを視界から外した。
重たくなった脚を引き摺りながら七海の元へと舞い戻ると、先程の言葉を違える事なくソファに腰掛ける七海の隣には既に荷物が佇んでいる。
昔ながらの相棒は今も顕在らしく、見慣れた使い古されたバッグが一つ、その出番を待ちかねている様にも思えた。
「お待たせ」
「では、行きましょうか。荷物、持ちますよ」
「そう言うの要らない。早くして」
学生の時からは想像もつかない紳士らしさは、例えば今日初対面の相手だったとしたのなら好感度は鰻登りだったに違いない。
けれど、それは私の知る七海ではない。
高専時代はやる事こそ、他の先輩達やクラスメイトと比べたら分別が付けられるタイプだったとは思うけれど、見た目に反して存外雑な面は多かった。
口調も穏やかなフリをしながらも内側に入れた人間に対しては毒付く事も多く、それが特別な感じがして灰原と一緒に眉を顰める七海の姿を眺めながら笑みを浮かべた数は数え切れない。
あの頃の私は異性として、灰原は友として。
七海の事が、大好きで仕方なかったのだから。
そして私と七海の薄い関係を繋いでくれていたのは、いつも私の相談に乗ってくれていた灰原であり、彼がいなくなってしまってからの日々は私達は碌に会話した覚えすらない気がする。
己の知らない空白の時間というものは変わってしまった相手を前にすると一層その距離を感じさせた。
一般社会に身を投じ、平穏そのものの生活を手に入れて。
きっと暮らしだって豊かだった筈なのに、一度は離れた呪術師に出戻るなんて、その切っ掛けとは一体何だったのか。
私が言えなかった言葉を言った人がいる。
私が引き止められなかった七海を再び此処に赴かせた人がいる。
それは私の唯一綺麗なままで残されていた思い出を打ち砕くには十分で、誰が七海を変えたのかと顔も知らない相手に嫉妬にも似た念を抱く自分が無様でならない。
そんな此方の胸中を七海が汲み取れる筈もなく、愛想の一つも無い私に女としての可愛げなど皆無なのは自分自身がよく理解している。
結局無言のまま乗り込んだ車の中、私達が会話を交わす事は一度もなく。
後部座席に隣り合って座っている筈なのに互いに反対方向の窓の景色を眺めるばかりで終ぞ視線すら絡み合う事はなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
五条さんに指定された任務は都心からは随分離れた場所に位置していたものの、やはり七海の昇級を査定するに相応しい一級案件のものだった。
廃墟と化した昔ながらの病院の中にはあからさまに呪霊の気配が漂っており、一筋縄で行く任務では無いだろう。
車を下車すると七海が相棒の鉈を背中に括り付け、補助監督が帷が下ろす。
その中へと入り込んだ私達は早速熱烈な歓迎をしてくれる呪霊と対峙する事になり、武器を構えた私の目の前に七海が片腕を翳して動きを静止させた。
「此処は私が」
「あっそ。じゃ、お手並み拝見するから」
私の突き放す様な言葉に七海がまたしても眉を顰めた。
武器を納め、腕を組んだ私と七海の周りには既に帷を下ろさらた事で呪霊が炙り出され、その数だけを考えたら相当なものとなる。
七海の身体付きだけを見ればこれまで全く何もせずにしていた訳では無いのだろう。
けれど呪術師として一線を退いて居た事を踏まえれば呪術規定によって祓除は不可能となり、それを七海が違えるとは考え難い。
万一の時は直ぐに助けに入るつもりで、私の片手は常に武器を構えられる位置に置かれていた。
けれどその巨体からは想像もつかない程の俊敏な動きは辺りの呪霊をあっという間に一掃し、その動きに私は目を奪われていく。
学生時代ですら、ずっと三級止まりだった私に対して、二級だった二人の動きは私の比ではなく常に憧れの対象だった。
やっと一級だと認められる様になっても尚、冥さんや日下部さんと比べたら実力差は天と地程の差があり、それを数で賄う事しか出来ない私は恐らく小細工を抜きにしたら今の七海より格段に弱いだろう。
相手の力量を先ず見極める。
それが呪術師として生き残るための何よりの技術で、それに関して私は誰よりも頭一つ飛び抜けて居ると昔、五条さんが言っていた。
そうでなければ私などとっくに土の下に眠っていて当然の力量しか無いのだと、そう突きつけられた気もする。
今でこそ少しは実力を認めてもらえるようになったけれど、それはある種嫌味にも聞こえる賛辞で、手放しに喜べる筈もなく人知れず歯噛みした苦い過去がある。
だからこそ仕事が恋人と認知されるほどの努力をしてきたと言うのに、目的であった筈の一級呪霊さえも危なげなく祓除を終えると出番がいつ来るかと身構えていた私は拍子抜けするしか無くて。
帷が上がるのと同時に涼しい顔をして戻って来た
七海の口角は少しばかり上がっていた様に思える。
「如何でしたか?」
「……思ってたよりは動けてた。ムカつくけど、一級でも十分通用する」
「そうですか。それは良かった。では帰りますよ」
「は? ちょっと七海……!?」
有無を言わさず腕を掴まれると私の身体がぐらりと傾く。
それを難なく受け止めた七海は今の私が相当な無理をしている事に勘付いて居るのだろう。
歩けますか?と問いかけられても直ぐに返事ができなかった。
無茶に無茶を重ねて、まだやれると我が身を顧みる事なく働き続け、緊張の糸が少しでも緩むといつもこの様だ。
車まで引き摺られるように連行された私は、あまりの任務完遂の速さに驚きを隠せない補助監督を差し置いて車のなかに押しやられる。
先程までは平気だった筈なのに、突如視界が回り始めて居る様な錯覚まで齎し始めていく気がした。
すかさず七海が隣の席を陣取り、ピックアップした場所に向かう様に指示を出す。
慌てふためきながら運転席に転がり込んだ補助監督がハンドルを握り締め、車はゆっくりと景色を変え始めていく。
「着いたら起こします。少し休んでいてください」
「これくらいなら問題ない」
「アナタに無くとも此方にはある。着いたら起こします。……良いから、大人しく寝て居ろ」
私のシートベルトを付けようとして居るのか。
身を乗り出した七海が私の目の前に影を作る。
微かに鼻を掠める、大人の男の香りに酔いそうだった。
昔より無骨になった手が視界を塞ぐ。
少し荒っぽくなった口調は昔を彷彿させるのに、目元を覆う手は恐ろしく優しいもので。
懐かしさに胸が締め付けられるのと同時にシートベルトが装着された音を聞くと、車の振動が心地よかった事もあってか、私はあっという間に夢の世界に誘われていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
耳のピアスは私にとって三人で笑い合って過ごしたあの頃の象徴だった。
灰原が居て、私が居て、七海が居る。
男女の差など関係なしに馬鹿をやって、叱られて、それでも最後には笑い合う、思い出の欠片。
そんなピアスが誰かに触れられて居るのか。
頬を掠める感触に私の脳裏に取り戻せない憧憬が鮮やかに浮かび上がる。
微睡の中、爽やかな香りのするシーツに顔を擦り付けた。
多忙を極めた際の仮眠は起きれるかどうかが最大の争点となるからと床で寝ることすら珍しくも無いと言うのに。
ふかふかのベッドは使い古された自室のものとは明らかに違い、やはり快適な睡眠を取るには寝具から見直すべきなのかという考えさえも頭を掠めた。
冷えない様に気遣われたのか。
己の身体には七海の上着が掛けられており、先程は掠める程度の微かなものだった香りが一層強いものに感じるとそれはまるで七海に抱きしめられて居る様な錯覚さえ抱かせた。
「起きたんですか」
「……おはよ。どのくらい寝てた?」
「三時間ほど。大分疲れを溜め込んでますね。私が抱えても身動ぎ一つしませんでしたよ」
「連日仮眠続き。今日は徹夜明け。後は察して」
ベッドの縁に腰を下ろした七海が私に視線を向けると読みかけの本を静かに閉じた。
任務中は外す事なかったサングラスは今は何処かに追いやられたのかほんの少し、自分を見つめた双眼が細まった気がする。
一応気遣ってくれていたのかと淡い恋心が音を鳴らすのに、卑屈な自分がその可能性を根本から毟り取り、七海の手にした小難しい本のタイトルを無意識に頭の中で反芻していた。
会話をした事で思考が少しはクリアになった気がする。
仮眠でもないよりマシなのか気怠さもマシになり、棘の抜けた態度に七海はきっと私のキツイ物言いが三代欲求を満たせなかった事によるものだと察してくれたらしい。
のそのそとベッドから起き上がった私は無愛想なお礼を述べながら七海に上着を突き返す。
予想以上に任務は早く終わり、今日はやっとまともな睡眠を取れそうだと期待に胸が膨らんでいた。
宿を手配したのが五条さんと言うこともあってか、七海が一人で使うにしては広すぎる部屋を見渡せば同じフロアになるであろう自分の部屋にも期待が過ぎる。
けれど、おもむろに私が手を差し出すと七海は不思議そうに首を傾げ、早くと急かす私に向けて眉を顰めていた。
「何ですか?」
「私の部屋の鍵、ちょうだい。任務は終わったんだからもう一眠りしたいの」
「有りませんよ」
「は?」
「ですから、アナタの部屋は有りません。どうやら私と同室にされて居るらしい。五条さんにも確認を取ったので間違いはないかと」
「……やられた」
全てが五条さんの手のひらの上だと理解した瞬間、私は手を額に押し当てながら項垂れる。
少しでも仮眠が取れてやっと気分がスッキリしたと言うのに再び奈落にでも突き落とされた様な心持ちだった。
何が楽しくて拗らせた片想いを続けて居る、自分に全く気のない男と一晩同じ部屋で過ごさなければならないのだろうか。
再会した事で改めて認識させられたのはやはり私は七海の事が好きだと言うこと。
それ以外に恋をした覚えもなく、これはあの頃への執着にも近いのかも知れない。
脳裏に過ぎる軽薄な先輩、兼上司の顔を無理矢理消し飛ばしてみたものの、この状況を把握して居るであろう男の高笑いが聞こえた気がして苛立ちが募る。
別のホテルを探す事も考えては見たけれど、出張を伴う任務の宿泊先はこれまでずっと補助監督任せだった自分には検索の仕方さえもわからない。
かと言って七海を叩き出してしまうのは申し訳なく、何より私と七海が同室で一晩過ごしたとして、間違いなど起きるはずもないと確信めいて居ることが虚しい。
昼下がりの外の景色は晴れ渡る青空が広がり、スィートルームと思われる豪華な部屋からは都心ほどでは無くても夜になればさぞ夜景の映える街並みが広がると言うのに。
なぜこんな陰鬱な気分にならなければならないのか。
それも全て五条さんのせいであり、あの人を相手にするなら抵抗するより開き直る方が余程早いし精神衛生面上宜しいと判断するしかないだろう。
「仕方ないか。七海、一晩だから我慢して」
「アナタがそれで良いのなら、構いませんが」
「折角五条さんのお金でいい部屋に泊まれるんだから満喫しなくちゃ損でしょ。ベッドの寝心地は最高だったし」
「それは何より」
諦めにも近い溜息を溢しながら部屋を見渡すとソファですら一晩眠るには十分すぎるほどの大きさがあり、最悪今日はそこを寝床にしたら良い。
不測の事態に陥った際、不器用だった筈の私が即座に臨機応変な対応を取れる様になったのは長年呪術師をして居るからか。
それとも無茶振りばかりしてくる五条さんの洗礼のおかげかは最早己に問うまでもなかった。
少し喉に渇きを覚え、豪華な調度品に囲まれた室内を見渡すと夜景を見るために置かれたテーブルの側にミニバーがある事を目敏く見つけた私は自然と其方に脚を向けた。
曇り一つなく磨き上られたグラスが手に取られるのを心待ちにして居る様に思えて、さすがお高い部屋という事もあってか普段中々お目にかかる事の無い珍しいお酒が並べられて居る。
酒に関しては好きでもなければ然程強い訳でも無いけれど、こんなにゆっくり出来るのは本当に久しぶりで。
羽目を外すのも悪く無いだろうと目を引いたワインと二脚のグラスを片手に私は七海の方を振り返る。
「七海、飲まない?」
「こんな真っ昼間からですか?」
「だから良いんじゃない。こんなにゆっくり出来るのは本当に久しぶりなの。別に付き合ってくれなくても一人で飲むけど」
「……付き合います」
既に緩んだネクタイを外しながら七海が私の元へとやって来る。
慣れた手つきでワインボトルのコルクを開け、慣れた様子でテーブルに置いたグラスに注ぐ様はソムリエを思わせた。
差し出された透明なグラスの中に波を打ちながら赤が広がる。
特に祝う言葉も無くテーブルに腰掛けた私達のグラスが甲高い音を奏で、あまり飲み慣れていないワインは思った以上に口当たりがよく、芳醇な香りが鼻に抜けていく。
「ワインってあんまり飲んだことないけど、良いものってやっぱり飲みやすいんだね」
「程々にしておいて下さい。悪酔いしますよ」
「そうしたら直ぐに寝れば良いだけよ」
空きっ腹にアルコールを流し込んだせいか、既にほろ酔いの自分に向けられる七海の言葉は右から左に流れていくだけだった。
絶景とも呼べる街並みを見下ろし、豪華な部屋を与えられ、目の前には長年片思いを続けて居る好きな男。
これだけの条件が揃っていても、お酒が入っていたとしても。
色づいた雰囲気にすらならないのは長年女を捨てて来たツケなのだろう。
同じ世界に身を置きながらも同年代の補助監督を見れば髪を手入れしただの、ネイルを新しくしただのとそんな話題に花が咲く様を幾度も目にしたことがある。
それを羨んだ事は無いけれど、些か女としてこのままで良いのかと言う焦りのようなものは年を追うごとに焦燥となって思考を蝕んだ。
彼女たちがお店で綺麗に売られて居る花ならば私はその辺の路肩に咲く野草だ。
誰に踏みつけられても折れることは無いけれど、誰の目にも留まる事もなく、傷だらけになった身体は晒す事に抵抗すら覚えるようになり、暗がりの中で行きずりの男とばかり身体を重ねる癖がついてしまった。
それなのに誰かの腕にいる時ですら私が必ず思い浮かべるのは七海の事で、自分自身の事なのに呆れてものも言えなくなる。
七海とこんな風に酒を飲む日が来るだなんて思ってもいなかった。
きっとこの男なら小洒落たバーで一人で酒を嗜んでいたとしても向こうから女が寄って来るだろう。
こんな形の再会を果たしたからか。
やけに思考が後ろばかり向いてしまう。
折角のいい酒の相手が私で申し訳なく感じるのも、久しぶりの酒のせいで少し感傷的になって居るからなのもしれない。
「七海、グラスもう一つ取って」
「どうしたんですか」
「折角だから、一度くらい三人で飲みたいでしょ」
携帯を取り出した私は自室にある写真と同じ画像を画面に映し出すとグラスの前に携帯を立てかけた。
七海が驚いた様にその様子に声を上げて、私達の間に束の間の静寂が訪れる。
懐かしい、大切な思い出。
きっと灰原がまだ生きていたら、週末になる毎に飲みに誘われて、翌日は三人で頭を抱えながらも任務に勤しんだに違いない。
ありもしない幻想。
思い描いた夢物語。
手の届かない理想。
それら全てがないまぜとなって胸の内で渦を巻き、複雑な思いを抱きながら見つめる写真はやはり眩い程に美しい。
「その写真、残していたんですね」
「三人で撮ったものってこれだけだったでしょ。灰原と二人のものや先輩達と撮ったものは沢山あるのに、七海は絶対映ってくれなかったじゃない。これでも毎日眺めるくらいには大切にしてる」
「……アナタには、灰原が居れば大丈夫だと思っていたので」
一度静寂が打ち砕かれると今度はお互い酒が入った事で少しばかり饒舌になっていた気がする。
誰にも語る事のなくなった灰原の事も、七海相手ならば懐かしい思いと僅かな痛みを抱きながらも語らう事がことができる。
けれど少しばかり含みのある口調を気にする事もなく、私は当時を思い返していた。
灰原だけ居れば良かったと思った事は一度たりとも無かったけれど、彼の存在には随分救われていたから。
「まぁ、あの頃は灰原に色々相談聞いて貰ってたからね。私、七海が好きだったから」
「……は?」
「あぁ、ごめん。今のなし。昔の事だから気にしないでよ。男女間で友情って成立するのか難しい所だけど、一応元クラスメイトでこれからは同僚になる訳だしさ」
ピシ、と互いを取り巻く空気に亀裂の入る音を聞いた気がした。
耳を疑う様な七海の声に我に返った私はけっして言うつもりのなかった言葉を言ってしまって事に内心酷く狼狽える。
ひらひらと手を振りながらその場の空気を取り繕ってみても驚きに目を見開いた七海は私の言葉を聞き流してはくれなかったらしく、気まずい空気が漂うと居た堪れなくなっていく。
ほんの数分前に戻れるとしたら己の口を縫い付けてでも今の言葉を口に出さない様に全力で止めてやりたい。
まんまるに目を見開いた七海の視線が突き刺さり、これ以上の言葉を無くす。
閉口する私に痺れを切らしたかの様に向かいに腰掛けた七海が静かにグラスをテーブルに置いた。
徐に立ち上がり、私の隣に立ち尽くす様にやって来ると頑なに視線を合わせようとしない私の頬に手を添え、無理やり引き上げられた視線が七海のものと交わっていく。
「アナタにとって、それはもう過去のことですか?私は、今回の任務に同行する呪術師に敢えてアナタを指名しました」
「七海?」
「戻るにあたって、色々と考えさせられる事は多かった。ですが一級になる事についてはアナタに認めてもらわなければ意味がなかった。私は……ずっと」
その先の言葉を聞きたいと願う気持ちと聞きたくないという気持ちが己の中でせめぎ合った。
淡い期待を抱かなかったかと言えば嘘になるし、もし期待通りならば女として私はこれ以上ない喜びを見出す。
けれどそれは同時にこれまで死に物狂いで任務に明け暮れて来た己を否定してしまう様な気がしてならなかった。
何より今はお互い酒と雰囲気に酔って居る。
一時の過ちで過ごせる程軽い相手ならばまだしも、長年思い続けて来た相手と何かあったとしてその後普通に同僚に戻れる自信など私には無かった。
「冗談ならやめてもらえる?七海の方が悪酔いしてるんじゃない?やっぱり私、別の部屋取って寝る」
「生憎、確認しましたが空きは有りませんでしたよ」
「だったらその辺の男捕まえてラブホにでも泊まる」
パシンと手を振り払い、逃げる様に席を立つ。
けれど横をすり抜けた私の腕を掴んだ七海が眉間に皺寄せながら私を引き留め、大きく揺れたテーブルが少なくなったグラスのワインを大きく波立たせた。
自分より遥かに大きな男に睨みつけられ、普通の女ならば目に涙の一つでも浮かべながら震えるのだろう。
そういう女が愛らしく庇護欲を駆られると言うのは嫌というほど知って居る。
けれど、生憎私にそんな可愛らしさは存在せず、怯む様子もなく七海を睨み返すと己の想像した以上に熱の籠った視線に思わず視線が彷徨った。
吸い込まれそうな程に透き通る翠眼が静かに燃える焔を彷彿させる。
不貞腐れた様に背けた顔は七海の片手に顎を掴まれ、逃げ場を失った。
怒りを露わにしながらも身体を引き寄せる腕は優しいもので、それが一層私を混乱させていく。
「逃げるな。こっちを見ろ。……何がその辺の男とホテルだ。ふざけるのも大概にしろ。クソ、腹が立つ」
「何それ。別に私が誰と寝ようが関係ないでしょ?保護者でもあるまいし、七海に怒る権利なんて無いじゃない」
「そうです。私は、自分自身に苛立っているんですよ。アナタを一人にした事に。こんなになるまで一人で頑張らせた事に、怒りを覚えている」
悔しさを表す様に七海の白い歯が鈍く鳴る。
常に表面上は冷静沈着で己の不甲斐なさに腹が立つだなんて事は七海にはないと思っていた。
それなのに、今の七海はまるで私に許しを乞う様に縋り、私が勝手に自暴自棄になっていた事に対してすら自責の念を感じて居る。
顔さえ覚えていない私の行きずりの男に嫉妬の念を覗かせ、決して離すものかと腕の中に収まる私を抱き竦めていた。
「……今更じゃない。一人で呪術師辞めた癖に。置いて行った癖に。勝手に戻ってきて、勝手に一級査定に巻き込んで、何なのよ。
こっちは片思い拗らせすぎて、終わったものだと言い聞かせて来たのに。なのに七海を忘れられなくて。寂しいのをずっと任務で誤魔化して来て……。それでも七海が穏やかに過ごせたら良いって思ってたのに。
これ以外掻き乱さないでよ。もう好きな男に晒せる程、綺麗な身体なんてしてないんだから」
弱々しく突き放そうとしてみたものの、七海の香りも体温もまるで麻薬の様に私の身体を侵食し思考を鈍らせる。
全力で抵抗すれば或いは振り解けるかも知れない腕の中にこのまま収まっていたいと思い始めて居る自分が居る。
なんて単純な女なのだろうと自嘲したくなるのに、ほんの少しの欠片となって残された無垢な恋心があの頃の自分自身を思い出せと私に呼びかけいて居る気がした。
「関係ない。そこに関しては私も大分拗らせたらしい。お互い様です。意地を張るのもそろそろ疲れたんです。アナタの気持ちがまだ少しでも残って居るというのなら、大人しく受け入れて下さい。如月、私を見ろ」
弱々しく七海のシャツを掴むと先程の怒りを孕んだものとはまるで違う優しげな声が私の名前を紡ぐ。
躊躇いながら顔を上げると、ゆっくりと私の眼前に翳りが落ちた。
触れた唇は想像以上に柔らかく、それが七海のものだと意識しただけで脈が大きく跳ね上がる。
静寂が時の流れを錯覚させ、ほんの数秒の出来事が途方もない時間に感じた気がする。
初々しささえ感じる口付けはまるで初恋を実らせたばかりの少年少女のそれにも近く、静かに離れて行った唇に思わず伏せた瞼を開けると、目の前には破顔した七海の姿があった。
「……すっごい情けない顔」
「これでも私も初恋なので。ずっと灰原が好きだと思っていました。それに、今更アナタに取り繕うものなんて何一つありません。
見ての通り情けない男です。それでもアナタは受け入れてくれますか?」
まるで七海一人が片思いを続けて居るかの様な口ぶりだった。
先程の破顔した姿から一転、今は固唾を飲む様にして私の返答を待ち続けて居る七海からは女の扱いに慣れた様子など微塵も感じさせず、少し不器用にすら思える様子が私の心を酷く擽った。
要は互いに言葉が足りず、思い違いをしていただけなのだろう。
けれどあの頃ちゃんと想いを伝えていたとして、七海が高専に残った可能性は低かったとも思える。
長い間拗らせ続けた想いではあったものの、今になってこんな形で実るのならばこの先の生涯を私達は互いに捧げて生きていくのだろう。
「……じゃあ見せてよ。今此処で。七海の事、全部私に教えてよ」
溢れ出た想いが困惑より歓喜に天秤を傾けた事を自覚せざるを得なかった。
ここまで来たら観念するしか無い。
するりと七海の頬を撫でながら私が緩やかな三日月を口元に描く。
その手がシャツ越しに分厚い胸元を這うと、私の意図する事を理解した七海が忌々しそうに舌を打つ。
「ナメやがって」
「はは。口調、昔みたいになってる。懐かしい」
揶揄う様な私の言葉に眉根を寄せながらも七海がひょいと私を抱き抱えた。
大股で向かう先はやはり私の予想通りの場所であり、先程の柔らかな心地いいベッドの上に横たえられた私はすかさず馬乗りになった七海に唇を塞がれた。
応えるように太い首に腕を回す。
密着した身体は衣服越しでも互いの熱を伝え、それはきっと酒に酔っただけのことでは無いのだろう。
絡み合う舌が焼けるように熱く、心地よかった。
窒息しそうな程の息苦しささえも劣情を煽る材料となり、くぐもった声が漏れると七海が名残惜しそうに唇を離し、私達の間で互いの吐息が絡まり合った。
「今日も徹夜になったら怒りますか?」
「その後労ってくれるなら良しとする」
「それは勿論。喜んで」
私のピアスを撫でた指先が首筋に触れながら衣服に手を掛けると、私の指もまた七海のシャツのボタンを外し始めていく。
どちらが早く脱がせられるかと競い合うような性急な手つきは相手を求めるが故の衝動であり、それらを止める術を私達は最早待ち合わせては居なかった。
結果としてその勝敗は七海に軍配が上がり、まじまじと肌を眺める瞳が一瞬揺らいだのはきっと気のせいでは無いのだろう。
それでも嫌悪を示されなかった事は救いと言うべきか。
その一つ一つを癒すように唇後落ちる度に私の身体が小さく反応を繰り返す。
夢にまでみた男の腕の中に自分が居るという事実を未だに信じられず、肌を撫でる唇を自分に向けるよう促すとやっと七海が帰って来た事を受け止めた自分の目尻から一筋の雫がこぼれ落ちた。
群青に蔓延る淡い想いが胸を満たす。
数年越しの想いを糧に、シーツの海に溺れていく。
ずっと言いたかった言葉。
言えなかった言葉。
これからは、何度でも何度でもそれを伝えよう。
……だから必ず、私の元に帰って来て。
「……おかえり。七海」
「ええ。ただいま戻りました」