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人生に於いて、分岐点とは無数に存在する。
それは進路だったり、恋愛だったり、身近な所なら買い物に行った時に悩んだ二つの雑貨だったり。
そうして自らが決めて選んだ事であったとしても、そこに僅かな後悔や躊躇いがある時。
人は選ばれなかった方を選んだ未来はどうなって居たのかと、ふとそんな思考に行き着くものだ。
かく言う私も今の人生に満足して居るかといえばそうでも無い。
何の気なしに進んだ高校では交友関係に躓き、恋愛と言うものも大して経験がない。
眩しい青い春なんてものとは到底無縁で、長女であるが故の目敏さが決して裕福とは言えなかった家庭の財政状況を早々に察してしまった。
人に語れるほどの夢もなく、大学に行くお金は数個下の弟に譲るからと高校を卒業してからは一人暮らしの権利を得た。
普通の会社で普通の社会人をする傍ら、今はいい出会いでも無いものかと不純な動機を抱えながら身内が経営して居るバーで時折手伝いをして居たりする。
そうは言ってもお酒が作れるわけでも無く、知識も碌にない。
何より下戸の自分はお酒自体に興味も然程なく、馴染みのお客さんと会話を楽しんで息抜きをする程度で。
バイト代を貰うことすら本来ならば忍びない立場と思えるけれど、そこに関しては身内だから大目に見てもらいたい。
お小遣いと呼べるの範囲のバイト代貰い、けれどそれはいつも使われることもなく結局別口座に即入金。
通帳の残高ばかりが微妙な動きを繰り返し、いつか親の介護が必要になった時にでも使えば良いかとぼんやりと考えていた。
何の変哲もないそんな私の日常にとって、あの日の出来事はあまりにも突飛なもので。
きっとあの日が私にとっても人生最大の分岐点だったのだろう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日はしとしとと雨が降り、どんよりとした空が広がる少し陰鬱な空模様だった気がする。
ついこの間までは連日続く暑さにどうする事もできない不満を溢し、唯一私にも提供できるビールの売り上げは好調だったはずだ。
雰囲気の良いこぢんまりとした店内は雨のせいか月末の金曜日だと言うのに閑古鳥が泣いていて。
今日はどうやら売り上げは期待できそうに無いだろう。
早々に店仕舞いをした方が良いかと思いつつも、生憎マスターである叔父はふらりと出かけたまま未だ戻ってくる気配がなかった。
話す事が目的でバイトをして居る私にとって、こんなにも退屈な時間は存在しない。
適当に見繕ったノンアルを片手にカウンターチェアに腰掛けて時間を潰して居ると、短く鳴り響いたカウベルと共にやっと今日一人目のお客さんが舞い込んできた。
「いらっしゃいませ」
「失礼、今は大丈夫ですか?」
「見ての通り雨のせいか貸切ですよ。どうぞ、お好きな席へ」
決して広く無い店内を見渡したその人は私を唯一の客だと勘違いして居たのだろうか。
店の人間を探す素振りを察した私が早速さとカウンターの内側へ戻ると途端にその顔は店員へと戻り、伊達に長年看板娘の真似事はしていない。
まるで映画のワンシーンでも見ているかの様にそのお客さんがカウンターまでやって来て椅子に腰掛ける仕草は絵になり、まるで彼の為にこの空間が誂えられたものの様な錯覚さえ抱かせる。
ほんの少し会話をしただけでもやけに良い声のお客さんが来たとは思ったけれど、一見さんだと思われるお兄さんは見た目も兎に角良かった。
少し雨に打たれたのだろうか。私が乾いたタオルを差し出すと仕立ての良いスーツの水気を払い、一つ溜息を溢す。
日本人からは想像もつかない金色の髪と色素の薄い瞳はパッと見ただけでも印象に残るのに、ありがとうと御礼を告げる発音は綺麗で、流暢だ。
年齢は恐らく自分と同じくらいだろうか。
落ち着き払った雰囲気を携えながらも少し疲れた印象を持たせ、綺麗な瞳をして居るのにそれも何処か淀んでいる気がする。
仕事で失敗でもしたのかと思いもしたけれど、いきなりそんな話を振るのは些か不躾だろう。
けれどマスターの昔馴染みでもある常連のお客さんの中では到底見かける事のないイケメンには、女として少なからず興味も湧くのも無理はない。
「お飲み物、何にしますか?」
「……なるべく強いものを」
二度目の深い溜息と共に吐き出された台詞を聞くと、イケメンは溜息までも美しいのかとその憂いた姿に少し見惚れた。
しかし、仮にお客同士で隣り合った席に居たとしたら声くらい掛けてみたいと思えるけれど、生憎今の私は店員で彼はお客さんだ。
バイトするに当たってその辺はきちんと弁えている。
何より半ば趣味のような経営であっても、今日やって来たたった一人のお客さんを逃してしまっては本当に売り上げはマイナスにしかならない。
このお兄さんが少しでもそれに貢献してくれる事を祈りつつ、私は知識の殆どない自分でも良く知る強いお酒の瓶に手を伸ばした。
強いお酒=テキーラは安直かもしれないけれど、先ず文句を言われる事は無いだろう。
冷蔵庫から取り出したライムを切り、塩を乗せた小皿と共にショットのグラスを置けば、まるでヤケ酒でもしているかの様な勢いでグラスの中は空となった。
手の甲を舐める仕草に柄にもなくときめいたなんて事は口が裂けても言えないけれど、相手が破壊力抜群のイケメンなのだから多少目の保養をしても問題はないだろう。
普段ならば気のいいビール腹のおじ様とばかり会話をしている私にとってこの光景は眼福であると同時に少し目の毒にも思える。
けれど注視する訳にも行かないと、片手間でボトルの整理をするフリをする最中。
何度もお代わりを要求され、普段飲み過ぎを嗜める事は大抵マスターの役目だった事もあり私は忘れかけて居た。
そのアルコール度数の高さとショットの一気飲みの怖さを。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「お客さん、大丈夫ですか?」
カウンターに突っ伏した大きな背中に私は恐る恐る手を置いた。
彼がやって来てから小一時間。
飲んだショットはゆうに片手は超えているだろう。
一杯目と同時に置いたはずのチェイサーは殆ど水の量が減っておらず、流石の私でもこれが相当無茶な飲み方だと言うことくらいは理解できる。
金糸を思わせる髪から覗く肌はほんのり赤く染まり、生来の色の白さがそれを妙に艶っぽく彩った。
カウンターから起き上がる気怠げな様子と少し乱れた髪が艶かしくて。
私は向こう数年分のトキメキを今日使い切った気がする。
流石に酔ったお客さんと二人きりでもし自分の身に何かあったら……。
なんて少女漫画の様な夢物語を描くほど自分は若くも無いし、現実を良く知っている。
嘔吐してもいい様にとタオルやバケツ、もしもの為の緊急連絡の手段と万全の体制を整える最中にマスターが帰って来てくれた事だけは唯一の救いだったと言えるだろう。
加減を知らずに飲ませた事はもちろん嗜められたけれど、本人が強いお酒を望んで加減を間違えたのだから致し方ない。
この時間になってもお客さんはやはり彼一人で、マスターも暇を持て余すのは勿体無いからと、今日はもう店仕舞いと言う運びとなってしまった。
幸い店舗のすぐ側には私のアパートが在る。
一先ず彼はそこに運ぶ事になり、後で様子を見に来るからと私はマスターに責任持ってお兄さんの介抱をする様に言いつけられてしまった。
「……すみま、せん」
今にも吐き出しそう、と言う雰囲気こそ無いけれど、酩酊して会話が成り立つかといえば怪しい状態は、やはり相当酔いが回っている証拠だろう。
それでも意識は思うよりもはっきりしている辺り、今回に限っては間違いが起きてしまったけれど、やはりお兄さんはお酒にはかなり耐性がある様だ。
長い事住んではいるけれど、滅多に人が訪れることのない1LDKのアパートは彼が居るだけで少し手狭な印象を与え、珍しすぎる来客に私は少し浮かれて居たに違いない。
店から頂戴してきた数本のペットボトルとスポーツ飲料をテーブルに並べると携帯を取り出しながら悪酔いの対処法を検索しつつ、私は此処に住み始めた頃、奮発して買ったソファに沈むお兄さんに声をかけた。
「スーツ脱げます?皺になっちゃうから掛けときますよ」
「はい。何から何まですみません……」
「まぁ、その辺は色々ありますよね。悪いと思うなら、今後もご贔屓にって事で。ちょっと外しますけどそこの飲み物は好きに飲んでくれて良いですから。水分はしっかり摂って下さい。それとお手洗いは向こうです。ゆっくり休んでて下さいね」
受け取ったスーツを型崩れしない様にハンガーに掛けると、開いた脚に肘を置いて項垂れる姿に一応起きては居られるのかと安堵する。
何かあったら声かけてくださいと言い残し、私は寝室からルームウェアを取り出すとリビングを経由して、お兄さんの様子を伺いつつもバスルームへと向かった。
初対面の異性がいる中で緊張感に欠けると言う自覚はある。
しかし、日々の自分のルーティンは崩したく無い。
何より年齢と共に肌の手入れは欠かせないお年頃となれば、例え同じ空間にイケメンが居ようともメイクをしたまま寝落ちなんて事は絶対に避けたい。
浴室で丁寧にメイクを落とし、お気に入りのシャンプーで髪を洗い、身体を流し、そうしてやっと今日と言う一日の終わりを感じる。
シャワーだけにしたのは少なからずあの人が倒れて居ないか気に掛かる部分があった事は否めない。
一応すっぴんでも問題ないか鏡を確認しつつ、タオルで髪の水気を拭き取りながらリビングに戻る頃には日付が変わって少し経って居て。
テーブルには先程より少しばかり顔色の良くなったお兄さんの姿があった。
「良かった。少しは酔い覚めました?」
私が声をかけると指一つ動かすのにすら気怠げだった動きが少し緩慢なだけのものへと変わっていた。
テーブルに置かれたペットボトルの水はだいぶ減っており、一応大丈夫なのだろうと
胸を撫で下ろす。
けれど彼が幾度目かの水分を補給する姿を眺めて居ると、こちらに向けた視線が絡んだ瞬間。
その人は煩わしそうに乱れた髪を一度掻き上げながら眉間に深い皺を刻んで居た。
それはまるで私の行動を咎める様なものにも感じられ、首を傾げながらも未開封のまま置かれて居たペットボトルを一本手に取る。
湯上がりにビールは最高だとお客さん達はよく言うけれど、私にとってはこれが至福のひと時と言える。
それに加えて、まだ残暑の残るこの時期ならばアイスが付いてくれば最早言う事はないだろう。
ソファを占拠されている為、私はお気に入りのクッションを抱き抱えながらラグの上に座り込む。
けれどその姿すらお兄さんの顔を歪ませる結果となり、私としては何が悪いのかと気難しい顔を眺めながらお手上げ状態だった。
「介抱して頂いた事には感謝しますが。些か不用心過ぎませんか?」
「ん?」
「幾ら店に訪れた客と言っても、私はアナタとは初対面の筈です。一人暮らしの女性が安易に部屋に招くべき相手ではないかと」
先程の弱々しい雰囲気から一転。
どこか棘のある正論に私はポカンと口を開けるしかなかった。
それは恐らくラフな部屋着となった湯上がりのこの状況を言いたいのか。
それともお兄さんを一人暮らしの家に連れて来たことを言いたいのか。
この場合、両者と言った方が適切だろう。
確かに、これが如何にもチャラチャラした雰囲気を醸し出す様な人だったり、カウンター越しに私を口説く様な珍しい人間だったとしたのなら私もマスターも此処までしなかっただろう。
それに店に入って来た時、初見こそ見た目に意識が向いたものの、やけに疲れた顔をして居たお兄さんに対して全く興味がなかったかと言われたら嘘になる。
見た目からしてどこかの大手企業に勤めているであろう事は間違いない。
加えてこの容姿となれば、大凡生活に困ることもないだろうし、私生活もさぞ充実しているとさえ思えるのに。
憂いた表情は現状に対して迷いや躊躇いが感じ取れる気もして、その胸の内を聞いてみたいと言う衝動にすら駆られて居た。
それはこうして店員と客と言う隔たりを無くしてしまうと一層膨れ上がり、肩を竦めた私に対して向けられたのはやはり訝しげな視線だった。
「大丈夫です。長い事ああ言う場所に居るからか、人を見る目には自信があります。それに、何が下心がある人は先ずそんな事言いませんから。それより、せっかく話せる様になったなら自己紹介くらいしません?
ずっとお客さんって呼ぶのもなんだか勿体無い気がして。あ、でもそれだと私の方が下心ある感じになっちゃうかな?私、如月真那です」
「……七海、建人です」
「そっか。七海さんね。さっきは聞けなかったけど結構無茶な飲み方してるから気にはなってたんです。凄く疲れた顔してるし。よければ話してみません?少しは気が晴れるかも知れないですよ。こう見えても聞き上手で通ってるんです」
ほんの少し距離を詰めてみると今度は存外、嫌な顔はされなかった。
躊躇いを見せながらも続く沈黙は、話していいものかどうか考えあぐねている様にも思えて。
私はその悩ましい姿すら眼福だと思って眺めている辺り、やはり下心があるのは自分だと笑みを溢す。
時間を気にする様子もない事から明日はきっと七海さんも休みなのだろう。
きっともう終電もない筈だ。
今更放り出すわけにもいかないし、先程はルーティンと肌の調子を心配してみたものの、今日はこのまま夜通し語り尽くすのも悪くはないとさえ今の私は思い始めて居た。
一応、介抱された手前無碍には出来ないのか。
それとも余程誰かに話を聞いてもらいたかったのか。
その胸の内は七海さんにしか分からないけれど、私がただ彼の言葉を待ち続けているとポツポツと雨が降り始める前兆の様に紡がれた言葉が私の耳を優しく打った。
「……アナタは、人生に於いて後悔した事はありますか?」
「ん?そんなもの、いつだってしてますよ。誰だって少なからず過去の自分を悔いて生きてる。人生なんてそんなものじゃないですか?」
「……まぁ、そうですね。私は、以前少し特殊な環境に身を置いてまして。其処は決して楽しくなかった訳ではない、けれど常に辛酸がついて回る。そう言う場所でした。
先輩にはとんでもない人達が居て、彼らは到底私の手の届く人達ではなかった。始めこそ矜持はあった。勿論やり甲斐も。けれど一人、一人と自分の周りから人が居なくなって行った時、自分が何の為にその場所にいるのか分からなくなったんです。
だから全てを投げ出して、世間一般で言う普通と言うものの中に身を置いた。
それなのに今になって、これで良かったのかと考える時がある。結局は成す術もなく逃げて置きながら、他人と無縁で居れば楽だと思う反面、金の事ばかり考える日々に疲弊している自分がいるんです」
吐き出されて胸の内は私が思う以上に重苦しく、深刻なものだった。
その特殊な環境と言う点においてはそれ以上言及すること事すら躊躇われ、俯いて居たかと思えば郷愁に誘われるように七海さんが天を仰ぐ。
蛍光灯の光にすら反射する金色の髪は、日の光に照らされたらきっと眩い程に綺麗なのだろう。
その姿を少し見て見たい気もしたけれど、きっとそんな機会は訪れる事はない事に肩を落としながらも七海さんの言葉を咀嚼する私はふと、ある疑問に辿り着く。
「前の職場…とかですか?それって、戻ろうと思えば戻れる場所なんですか?」
「……まぁ、少々面倒ではありますが」
「じゃ、それは後悔じゃなくてどっちかって言ったら迷いですよね。後悔って言うのとはちょっと違う気がする。七海さんは自分が望めばまだそこに居場所が在るし、戻れる」
「ですが戻るつもりはありません」
間髪入れずにやって来た回答は思って居たよりはっきりとしたものだった。
しかしその表情が、言葉にするまでもなく迷いがある事を語って居り、事の委細を知らなくとも相当厄介な事情を抱えている事だけは確かだろう。
飲み干したペットボトルが幾つも並ぶテーブルは男女が一晩を明かすには少し不釣り合いだったかもしれない。
けれど、今の私たちにはこれくらいが丁度いい気もした。
私はその表情を眺めながらも、何か掛けるべき言葉を探して居た気がする。
話せば話すほどにその表情は憂いの色を色濃くして、辛い思い出も多かった事は察されたけれど、それ以上に七海さんにとって大切なものがその場所にある気がしてならなかったから。
「そんな顔しといて?例えばの話なんですけど、七海さんは街で倒れてる人や困った人がいたら手を貸しますか?」
「……時と場合によりますが、それは人として当然では?」
「そう言えるだけ貴方は優しいんですよ。素通りする人だってきっと居る。声を掛けようか迷って、結局見てみぬふりをする人の方が世の中はきっと大多数です。
でも、そんな時。私はたまにこう考える時があるんです。声を掛けた自分とそうでない自分。後になってどちらの自分の方が好きかなって」
「それは…。私には余りない発想ですね。興味深いです」
まるで目から鱗とでも良いだけに呆けた顔をした七海さんは少し可愛らしいと思えた。
興味深げに私の話を聞きたいと一心に視線を注がれるのは少し気恥ずかしくも思えたけれど、続きを待つ視線に私は頭の中で言葉を整理する。
事情を深く知らない人の悩みと言うのはその本質までを理解する事は出来ない。
けれど、彼の疲れ切っている様子からして今の居場所は大凡彼にとっては「居れる場所」出会っても「居たい場所」ではない様に思えてならなかった。
自分自身がバイトと称してマスターの所で息抜きをする様に、この真面目な人にもそう言う場所が在れば救いだったのかも知れないけれど。
仕事が出来そうな真面目な彼のような人に限ってガス抜きと言うのは得意ではなかったりするらしい。
「……例えばですけど、転職や恋人が出来たりして周りの人との付き合いが変わったのを機に、久しぶりに会った友人なんかに変わったねって言われる事ってないですか?」
「まぁ、そう言った経験なら少なからずありますが」
「そういうのって無意識のうちに行われる選択だと思うんですよね。忖度ってやつなのかな。
どんなに頑張っても他人が人を変える事なんて出来る訳がない。自分を変えるのは自分自身でしか無いんですから。誰かと関わる事で変わる事を選択した自分がそこにはきっと居る筈です。
あんまり事情は知らないけど、もう少しラフに考えてもいいんじゃないですか?
世の中腐った事は溢れかえってる。でも全部が腐ってるわけでもない。でも、どちらにせよ嫌な事はある訳で。後になってどちらの自分の方が好きかなって思えば、自ずと七海さんの中で答えは出る気がします。
なんか脱線しちゃった気もするけど、ごめんなさい。偉そうなこと言ったのに、上手く纏まらないや」
聞き上手だなんて嘯きながら、結局言いたい事の半分も伝わったかどうか怪しい現状に、私は空笑いをするしかなかった。
常連さんによく聞かされる娘の反抗期とか奥さんと喧嘩したとか。
そう言った幸せの中にある悩みとは七海さんのそれはかけ離れすぎている気がして、持論を振り翳しては見たけれど果たしてこれが彼ににとって良かったのかと問われたら、それは本人のみぞ知るところとなるのだろう。
一抹の不安を抱きながらも私は新たに手にしたペットボトルを遊ばせながら七海さんの姿を盗み見る。
すると私の予想とは裏腹に、ほんの少しばかり晴れやかな顔をした彼の姿があり、数時間を共にしてその口元には薄く笑みが浮かんでいた。
「……いえ、大変参考になりました。どうせクソなら、より適性のある方へと言う事ですね」
「いや、言い方。でも、その先に自分が好きな自分が居るなら、それが一番な気がします」
「私もそう思います」
その言葉は少しばかり彼にしては荒っぽい言い方もあったけれど、元々それが七海さんの本来の姿なのかもしれない。
一言短いお礼を受け取ると私はにんまりと笑みを浮かべた。
己の手を見つめ返す七海さんの中にまだ葛藤はあるのだろう。
けれど、きっと近いうちにその答えは見つかる様な、そんな根拠すらない確信めいたものが今の私の中には芽生え始めていく。
立ち上がった彼は、ふと何処かに思いを馳せる様に一度立ち止まり、皺になる事を免れたスーツに手を伸ばす。
その足取りはしっかりとしたもので、玄関まで向かう素振りを見せると私は慌てて立ち上がりその後を追いかけた。
「あれ。帰るんですか?朝まで付き合っても良かったのに」
「流石にそれは申し訳が立たない。タクシーでも捕まえます。それに、妙齢の女性の家に私のような人間が居座って居たらマスターも気が気じゃないでしょう」
「割とほったらかしですよ?さっきも連絡は一応来てたけど、大丈夫って返したら後はよろしくって」
「それだけ信頼関係ができていると言う事でしょう。ですがアナタ方はもう少し他人を疑った方が良い」
壁に凭れながら上着から取り出した携帯の画面を見せると七海さんは瞼を下ろして肩を竦める。
僅かに揺れた睫毛は長くて、目の下は血色が悪いけれど、存外大丈夫そうな様子から返しても問題ないだろう。
それなりに重たい話をしていた筈なのに、これまでその距離が縮まることが無かったのは一重に彼が紳士だったからなのだろうか。
靴を履き、振り返った七海さんが指の背で私の頬を一度撫でると、柄にもなく鼓動が煩いほどに鳴り響く。
視線を泳がせる私に七海さんが少し意地の悪い笑みを浮かべて居た。
そしてその後には抱きしめる事すら無いけれど、静かに私の耳元で優しい声色を響かせる。
「次は、酔い潰れないお酒をお願いします」
「カクテルの勉強でもしておきますね。そしたら、初めてのお客さんになって下さい」
「それは光栄です。でしたら、その時はブルドッグをお願いします」
「わかりました。もし、潰れてもちゃんと介抱してあげますね」
「それは心強い。ですが、その時は是非マスターの監視外の場所でお願いします」
何処までが本心で何処までがビジネストークだったのかは定かでは無い。
けれど次のバイトからは、七海さん要望に応えてマスターにブルドッグの作り方を教えてもらおうかと楽しみにしている私が居た。
それ自体もまた、七海さんと知り合った事で私が選んだ選択なのだろう。
惜しむほどの別れでもなく、あっさりと扉を潜って消えてしまった七海さんの存在はまるで夢の様にも思える。
連絡先だけでも聞いておけば良かった時思うけれど、こう言った一期一会も人生には付き物で、テーブルに並んだ空のペットボトルだけが、その存在を繋ぎ止める唯一の物だったのかもしれない。
けれどそれから数ヶ月が経ち、必死に練習したブルドッグがやっとまともな形になった頃。
秋雨の振る静かな夜にやって来た久しぶりに見るお客さんは、私の記憶より遥かに清々しい顔をして扉のカウベルを鳴らしていた。
「いらっしゃいませ。お飲み物は?」
「勿論、ブルドッグを」
その言葉を聞いた途端、マスターが驚いた様に七海さんに視線を向け、彼は深々と一礼すると席に着く。
彼が去り際に注文していったカクテルを作る為、私は慣れた手つきでグレープフルーツとウォッカに手を伸ばす。
それはバーテンダーと言うには拙いものではあったけれど彼はカウンター越しに目を細めて眺めており、マスターも私のこれまでの練習を知っているからか。
私がシェイカーを振る様子を我が子を見守る様な視線で見守っていた。
花言葉同様に、カクテルにはそれぞれお酒の名前によって意味があるらしく、これはきっとこの時の彼の想いそのものだったのだろう。
ブルドッグのカクテル言葉。
私がその意味に気付くのは、まだ先の話となる。
それは進路だったり、恋愛だったり、身近な所なら買い物に行った時に悩んだ二つの雑貨だったり。
そうして自らが決めて選んだ事であったとしても、そこに僅かな後悔や躊躇いがある時。
人は選ばれなかった方を選んだ未来はどうなって居たのかと、ふとそんな思考に行き着くものだ。
かく言う私も今の人生に満足して居るかといえばそうでも無い。
何の気なしに進んだ高校では交友関係に躓き、恋愛と言うものも大して経験がない。
眩しい青い春なんてものとは到底無縁で、長女であるが故の目敏さが決して裕福とは言えなかった家庭の財政状況を早々に察してしまった。
人に語れるほどの夢もなく、大学に行くお金は数個下の弟に譲るからと高校を卒業してからは一人暮らしの権利を得た。
普通の会社で普通の社会人をする傍ら、今はいい出会いでも無いものかと不純な動機を抱えながら身内が経営して居るバーで時折手伝いをして居たりする。
そうは言ってもお酒が作れるわけでも無く、知識も碌にない。
何より下戸の自分はお酒自体に興味も然程なく、馴染みのお客さんと会話を楽しんで息抜きをする程度で。
バイト代を貰うことすら本来ならば忍びない立場と思えるけれど、そこに関しては身内だから大目に見てもらいたい。
お小遣いと呼べるの範囲のバイト代貰い、けれどそれはいつも使われることもなく結局別口座に即入金。
通帳の残高ばかりが微妙な動きを繰り返し、いつか親の介護が必要になった時にでも使えば良いかとぼんやりと考えていた。
何の変哲もないそんな私の日常にとって、あの日の出来事はあまりにも突飛なもので。
きっとあの日が私にとっても人生最大の分岐点だったのだろう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日はしとしとと雨が降り、どんよりとした空が広がる少し陰鬱な空模様だった気がする。
ついこの間までは連日続く暑さにどうする事もできない不満を溢し、唯一私にも提供できるビールの売り上げは好調だったはずだ。
雰囲気の良いこぢんまりとした店内は雨のせいか月末の金曜日だと言うのに閑古鳥が泣いていて。
今日はどうやら売り上げは期待できそうに無いだろう。
早々に店仕舞いをした方が良いかと思いつつも、生憎マスターである叔父はふらりと出かけたまま未だ戻ってくる気配がなかった。
話す事が目的でバイトをして居る私にとって、こんなにも退屈な時間は存在しない。
適当に見繕ったノンアルを片手にカウンターチェアに腰掛けて時間を潰して居ると、短く鳴り響いたカウベルと共にやっと今日一人目のお客さんが舞い込んできた。
「いらっしゃいませ」
「失礼、今は大丈夫ですか?」
「見ての通り雨のせいか貸切ですよ。どうぞ、お好きな席へ」
決して広く無い店内を見渡したその人は私を唯一の客だと勘違いして居たのだろうか。
店の人間を探す素振りを察した私が早速さとカウンターの内側へ戻ると途端にその顔は店員へと戻り、伊達に長年看板娘の真似事はしていない。
まるで映画のワンシーンでも見ているかの様にそのお客さんがカウンターまでやって来て椅子に腰掛ける仕草は絵になり、まるで彼の為にこの空間が誂えられたものの様な錯覚さえ抱かせる。
ほんの少し会話をしただけでもやけに良い声のお客さんが来たとは思ったけれど、一見さんだと思われるお兄さんは見た目も兎に角良かった。
少し雨に打たれたのだろうか。私が乾いたタオルを差し出すと仕立ての良いスーツの水気を払い、一つ溜息を溢す。
日本人からは想像もつかない金色の髪と色素の薄い瞳はパッと見ただけでも印象に残るのに、ありがとうと御礼を告げる発音は綺麗で、流暢だ。
年齢は恐らく自分と同じくらいだろうか。
落ち着き払った雰囲気を携えながらも少し疲れた印象を持たせ、綺麗な瞳をして居るのにそれも何処か淀んでいる気がする。
仕事で失敗でもしたのかと思いもしたけれど、いきなりそんな話を振るのは些か不躾だろう。
けれどマスターの昔馴染みでもある常連のお客さんの中では到底見かける事のないイケメンには、女として少なからず興味も湧くのも無理はない。
「お飲み物、何にしますか?」
「……なるべく強いものを」
二度目の深い溜息と共に吐き出された台詞を聞くと、イケメンは溜息までも美しいのかとその憂いた姿に少し見惚れた。
しかし、仮にお客同士で隣り合った席に居たとしたら声くらい掛けてみたいと思えるけれど、生憎今の私は店員で彼はお客さんだ。
バイトするに当たってその辺はきちんと弁えている。
何より半ば趣味のような経営であっても、今日やって来たたった一人のお客さんを逃してしまっては本当に売り上げはマイナスにしかならない。
このお兄さんが少しでもそれに貢献してくれる事を祈りつつ、私は知識の殆どない自分でも良く知る強いお酒の瓶に手を伸ばした。
強いお酒=テキーラは安直かもしれないけれど、先ず文句を言われる事は無いだろう。
冷蔵庫から取り出したライムを切り、塩を乗せた小皿と共にショットのグラスを置けば、まるでヤケ酒でもしているかの様な勢いでグラスの中は空となった。
手の甲を舐める仕草に柄にもなくときめいたなんて事は口が裂けても言えないけれど、相手が破壊力抜群のイケメンなのだから多少目の保養をしても問題はないだろう。
普段ならば気のいいビール腹のおじ様とばかり会話をしている私にとってこの光景は眼福であると同時に少し目の毒にも思える。
けれど注視する訳にも行かないと、片手間でボトルの整理をするフリをする最中。
何度もお代わりを要求され、普段飲み過ぎを嗜める事は大抵マスターの役目だった事もあり私は忘れかけて居た。
そのアルコール度数の高さとショットの一気飲みの怖さを。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「お客さん、大丈夫ですか?」
カウンターに突っ伏した大きな背中に私は恐る恐る手を置いた。
彼がやって来てから小一時間。
飲んだショットはゆうに片手は超えているだろう。
一杯目と同時に置いたはずのチェイサーは殆ど水の量が減っておらず、流石の私でもこれが相当無茶な飲み方だと言うことくらいは理解できる。
金糸を思わせる髪から覗く肌はほんのり赤く染まり、生来の色の白さがそれを妙に艶っぽく彩った。
カウンターから起き上がる気怠げな様子と少し乱れた髪が艶かしくて。
私は向こう数年分のトキメキを今日使い切った気がする。
流石に酔ったお客さんと二人きりでもし自分の身に何かあったら……。
なんて少女漫画の様な夢物語を描くほど自分は若くも無いし、現実を良く知っている。
嘔吐してもいい様にとタオルやバケツ、もしもの為の緊急連絡の手段と万全の体制を整える最中にマスターが帰って来てくれた事だけは唯一の救いだったと言えるだろう。
加減を知らずに飲ませた事はもちろん嗜められたけれど、本人が強いお酒を望んで加減を間違えたのだから致し方ない。
この時間になってもお客さんはやはり彼一人で、マスターも暇を持て余すのは勿体無いからと、今日はもう店仕舞いと言う運びとなってしまった。
幸い店舗のすぐ側には私のアパートが在る。
一先ず彼はそこに運ぶ事になり、後で様子を見に来るからと私はマスターに責任持ってお兄さんの介抱をする様に言いつけられてしまった。
「……すみま、せん」
今にも吐き出しそう、と言う雰囲気こそ無いけれど、酩酊して会話が成り立つかといえば怪しい状態は、やはり相当酔いが回っている証拠だろう。
それでも意識は思うよりもはっきりしている辺り、今回に限っては間違いが起きてしまったけれど、やはりお兄さんはお酒にはかなり耐性がある様だ。
長い事住んではいるけれど、滅多に人が訪れることのない1LDKのアパートは彼が居るだけで少し手狭な印象を与え、珍しすぎる来客に私は少し浮かれて居たに違いない。
店から頂戴してきた数本のペットボトルとスポーツ飲料をテーブルに並べると携帯を取り出しながら悪酔いの対処法を検索しつつ、私は此処に住み始めた頃、奮発して買ったソファに沈むお兄さんに声をかけた。
「スーツ脱げます?皺になっちゃうから掛けときますよ」
「はい。何から何まですみません……」
「まぁ、その辺は色々ありますよね。悪いと思うなら、今後もご贔屓にって事で。ちょっと外しますけどそこの飲み物は好きに飲んでくれて良いですから。水分はしっかり摂って下さい。それとお手洗いは向こうです。ゆっくり休んでて下さいね」
受け取ったスーツを型崩れしない様にハンガーに掛けると、開いた脚に肘を置いて項垂れる姿に一応起きては居られるのかと安堵する。
何かあったら声かけてくださいと言い残し、私は寝室からルームウェアを取り出すとリビングを経由して、お兄さんの様子を伺いつつもバスルームへと向かった。
初対面の異性がいる中で緊張感に欠けると言う自覚はある。
しかし、日々の自分のルーティンは崩したく無い。
何より年齢と共に肌の手入れは欠かせないお年頃となれば、例え同じ空間にイケメンが居ようともメイクをしたまま寝落ちなんて事は絶対に避けたい。
浴室で丁寧にメイクを落とし、お気に入りのシャンプーで髪を洗い、身体を流し、そうしてやっと今日と言う一日の終わりを感じる。
シャワーだけにしたのは少なからずあの人が倒れて居ないか気に掛かる部分があった事は否めない。
一応すっぴんでも問題ないか鏡を確認しつつ、タオルで髪の水気を拭き取りながらリビングに戻る頃には日付が変わって少し経って居て。
テーブルには先程より少しばかり顔色の良くなったお兄さんの姿があった。
「良かった。少しは酔い覚めました?」
私が声をかけると指一つ動かすのにすら気怠げだった動きが少し緩慢なだけのものへと変わっていた。
テーブルに置かれたペットボトルの水はだいぶ減っており、一応大丈夫なのだろうと
胸を撫で下ろす。
けれど彼が幾度目かの水分を補給する姿を眺めて居ると、こちらに向けた視線が絡んだ瞬間。
その人は煩わしそうに乱れた髪を一度掻き上げながら眉間に深い皺を刻んで居た。
それはまるで私の行動を咎める様なものにも感じられ、首を傾げながらも未開封のまま置かれて居たペットボトルを一本手に取る。
湯上がりにビールは最高だとお客さん達はよく言うけれど、私にとってはこれが至福のひと時と言える。
それに加えて、まだ残暑の残るこの時期ならばアイスが付いてくれば最早言う事はないだろう。
ソファを占拠されている為、私はお気に入りのクッションを抱き抱えながらラグの上に座り込む。
けれどその姿すらお兄さんの顔を歪ませる結果となり、私としては何が悪いのかと気難しい顔を眺めながらお手上げ状態だった。
「介抱して頂いた事には感謝しますが。些か不用心過ぎませんか?」
「ん?」
「幾ら店に訪れた客と言っても、私はアナタとは初対面の筈です。一人暮らしの女性が安易に部屋に招くべき相手ではないかと」
先程の弱々しい雰囲気から一転。
どこか棘のある正論に私はポカンと口を開けるしかなかった。
それは恐らくラフな部屋着となった湯上がりのこの状況を言いたいのか。
それともお兄さんを一人暮らしの家に連れて来たことを言いたいのか。
この場合、両者と言った方が適切だろう。
確かに、これが如何にもチャラチャラした雰囲気を醸し出す様な人だったり、カウンター越しに私を口説く様な珍しい人間だったとしたのなら私もマスターも此処までしなかっただろう。
それに店に入って来た時、初見こそ見た目に意識が向いたものの、やけに疲れた顔をして居たお兄さんに対して全く興味がなかったかと言われたら嘘になる。
見た目からしてどこかの大手企業に勤めているであろう事は間違いない。
加えてこの容姿となれば、大凡生活に困ることもないだろうし、私生活もさぞ充実しているとさえ思えるのに。
憂いた表情は現状に対して迷いや躊躇いが感じ取れる気もして、その胸の内を聞いてみたいと言う衝動にすら駆られて居た。
それはこうして店員と客と言う隔たりを無くしてしまうと一層膨れ上がり、肩を竦めた私に対して向けられたのはやはり訝しげな視線だった。
「大丈夫です。長い事ああ言う場所に居るからか、人を見る目には自信があります。それに、何が下心がある人は先ずそんな事言いませんから。それより、せっかく話せる様になったなら自己紹介くらいしません?
ずっとお客さんって呼ぶのもなんだか勿体無い気がして。あ、でもそれだと私の方が下心ある感じになっちゃうかな?私、如月真那です」
「……七海、建人です」
「そっか。七海さんね。さっきは聞けなかったけど結構無茶な飲み方してるから気にはなってたんです。凄く疲れた顔してるし。よければ話してみません?少しは気が晴れるかも知れないですよ。こう見えても聞き上手で通ってるんです」
ほんの少し距離を詰めてみると今度は存外、嫌な顔はされなかった。
躊躇いを見せながらも続く沈黙は、話していいものかどうか考えあぐねている様にも思えて。
私はその悩ましい姿すら眼福だと思って眺めている辺り、やはり下心があるのは自分だと笑みを溢す。
時間を気にする様子もない事から明日はきっと七海さんも休みなのだろう。
きっともう終電もない筈だ。
今更放り出すわけにもいかないし、先程はルーティンと肌の調子を心配してみたものの、今日はこのまま夜通し語り尽くすのも悪くはないとさえ今の私は思い始めて居た。
一応、介抱された手前無碍には出来ないのか。
それとも余程誰かに話を聞いてもらいたかったのか。
その胸の内は七海さんにしか分からないけれど、私がただ彼の言葉を待ち続けているとポツポツと雨が降り始める前兆の様に紡がれた言葉が私の耳を優しく打った。
「……アナタは、人生に於いて後悔した事はありますか?」
「ん?そんなもの、いつだってしてますよ。誰だって少なからず過去の自分を悔いて生きてる。人生なんてそんなものじゃないですか?」
「……まぁ、そうですね。私は、以前少し特殊な環境に身を置いてまして。其処は決して楽しくなかった訳ではない、けれど常に辛酸がついて回る。そう言う場所でした。
先輩にはとんでもない人達が居て、彼らは到底私の手の届く人達ではなかった。始めこそ矜持はあった。勿論やり甲斐も。けれど一人、一人と自分の周りから人が居なくなって行った時、自分が何の為にその場所にいるのか分からなくなったんです。
だから全てを投げ出して、世間一般で言う普通と言うものの中に身を置いた。
それなのに今になって、これで良かったのかと考える時がある。結局は成す術もなく逃げて置きながら、他人と無縁で居れば楽だと思う反面、金の事ばかり考える日々に疲弊している自分がいるんです」
吐き出されて胸の内は私が思う以上に重苦しく、深刻なものだった。
その特殊な環境と言う点においてはそれ以上言及すること事すら躊躇われ、俯いて居たかと思えば郷愁に誘われるように七海さんが天を仰ぐ。
蛍光灯の光にすら反射する金色の髪は、日の光に照らされたらきっと眩い程に綺麗なのだろう。
その姿を少し見て見たい気もしたけれど、きっとそんな機会は訪れる事はない事に肩を落としながらも七海さんの言葉を咀嚼する私はふと、ある疑問に辿り着く。
「前の職場…とかですか?それって、戻ろうと思えば戻れる場所なんですか?」
「……まぁ、少々面倒ではありますが」
「じゃ、それは後悔じゃなくてどっちかって言ったら迷いですよね。後悔って言うのとはちょっと違う気がする。七海さんは自分が望めばまだそこに居場所が在るし、戻れる」
「ですが戻るつもりはありません」
間髪入れずにやって来た回答は思って居たよりはっきりとしたものだった。
しかしその表情が、言葉にするまでもなく迷いがある事を語って居り、事の委細を知らなくとも相当厄介な事情を抱えている事だけは確かだろう。
飲み干したペットボトルが幾つも並ぶテーブルは男女が一晩を明かすには少し不釣り合いだったかもしれない。
けれど、今の私たちにはこれくらいが丁度いい気もした。
私はその表情を眺めながらも、何か掛けるべき言葉を探して居た気がする。
話せば話すほどにその表情は憂いの色を色濃くして、辛い思い出も多かった事は察されたけれど、それ以上に七海さんにとって大切なものがその場所にある気がしてならなかったから。
「そんな顔しといて?例えばの話なんですけど、七海さんは街で倒れてる人や困った人がいたら手を貸しますか?」
「……時と場合によりますが、それは人として当然では?」
「そう言えるだけ貴方は優しいんですよ。素通りする人だってきっと居る。声を掛けようか迷って、結局見てみぬふりをする人の方が世の中はきっと大多数です。
でも、そんな時。私はたまにこう考える時があるんです。声を掛けた自分とそうでない自分。後になってどちらの自分の方が好きかなって」
「それは…。私には余りない発想ですね。興味深いです」
まるで目から鱗とでも良いだけに呆けた顔をした七海さんは少し可愛らしいと思えた。
興味深げに私の話を聞きたいと一心に視線を注がれるのは少し気恥ずかしくも思えたけれど、続きを待つ視線に私は頭の中で言葉を整理する。
事情を深く知らない人の悩みと言うのはその本質までを理解する事は出来ない。
けれど、彼の疲れ切っている様子からして今の居場所は大凡彼にとっては「居れる場所」出会っても「居たい場所」ではない様に思えてならなかった。
自分自身がバイトと称してマスターの所で息抜きをする様に、この真面目な人にもそう言う場所が在れば救いだったのかも知れないけれど。
仕事が出来そうな真面目な彼のような人に限ってガス抜きと言うのは得意ではなかったりするらしい。
「……例えばですけど、転職や恋人が出来たりして周りの人との付き合いが変わったのを機に、久しぶりに会った友人なんかに変わったねって言われる事ってないですか?」
「まぁ、そう言った経験なら少なからずありますが」
「そういうのって無意識のうちに行われる選択だと思うんですよね。忖度ってやつなのかな。
どんなに頑張っても他人が人を変える事なんて出来る訳がない。自分を変えるのは自分自身でしか無いんですから。誰かと関わる事で変わる事を選択した自分がそこにはきっと居る筈です。
あんまり事情は知らないけど、もう少しラフに考えてもいいんじゃないですか?
世の中腐った事は溢れかえってる。でも全部が腐ってるわけでもない。でも、どちらにせよ嫌な事はある訳で。後になってどちらの自分の方が好きかなって思えば、自ずと七海さんの中で答えは出る気がします。
なんか脱線しちゃった気もするけど、ごめんなさい。偉そうなこと言ったのに、上手く纏まらないや」
聞き上手だなんて嘯きながら、結局言いたい事の半分も伝わったかどうか怪しい現状に、私は空笑いをするしかなかった。
常連さんによく聞かされる娘の反抗期とか奥さんと喧嘩したとか。
そう言った幸せの中にある悩みとは七海さんのそれはかけ離れすぎている気がして、持論を振り翳しては見たけれど果たしてこれが彼ににとって良かったのかと問われたら、それは本人のみぞ知るところとなるのだろう。
一抹の不安を抱きながらも私は新たに手にしたペットボトルを遊ばせながら七海さんの姿を盗み見る。
すると私の予想とは裏腹に、ほんの少しばかり晴れやかな顔をした彼の姿があり、数時間を共にしてその口元には薄く笑みが浮かんでいた。
「……いえ、大変参考になりました。どうせクソなら、より適性のある方へと言う事ですね」
「いや、言い方。でも、その先に自分が好きな自分が居るなら、それが一番な気がします」
「私もそう思います」
その言葉は少しばかり彼にしては荒っぽい言い方もあったけれど、元々それが七海さんの本来の姿なのかもしれない。
一言短いお礼を受け取ると私はにんまりと笑みを浮かべた。
己の手を見つめ返す七海さんの中にまだ葛藤はあるのだろう。
けれど、きっと近いうちにその答えは見つかる様な、そんな根拠すらない確信めいたものが今の私の中には芽生え始めていく。
立ち上がった彼は、ふと何処かに思いを馳せる様に一度立ち止まり、皺になる事を免れたスーツに手を伸ばす。
その足取りはしっかりとしたもので、玄関まで向かう素振りを見せると私は慌てて立ち上がりその後を追いかけた。
「あれ。帰るんですか?朝まで付き合っても良かったのに」
「流石にそれは申し訳が立たない。タクシーでも捕まえます。それに、妙齢の女性の家に私のような人間が居座って居たらマスターも気が気じゃないでしょう」
「割とほったらかしですよ?さっきも連絡は一応来てたけど、大丈夫って返したら後はよろしくって」
「それだけ信頼関係ができていると言う事でしょう。ですがアナタ方はもう少し他人を疑った方が良い」
壁に凭れながら上着から取り出した携帯の画面を見せると七海さんは瞼を下ろして肩を竦める。
僅かに揺れた睫毛は長くて、目の下は血色が悪いけれど、存外大丈夫そうな様子から返しても問題ないだろう。
それなりに重たい話をしていた筈なのに、これまでその距離が縮まることが無かったのは一重に彼が紳士だったからなのだろうか。
靴を履き、振り返った七海さんが指の背で私の頬を一度撫でると、柄にもなく鼓動が煩いほどに鳴り響く。
視線を泳がせる私に七海さんが少し意地の悪い笑みを浮かべて居た。
そしてその後には抱きしめる事すら無いけれど、静かに私の耳元で優しい声色を響かせる。
「次は、酔い潰れないお酒をお願いします」
「カクテルの勉強でもしておきますね。そしたら、初めてのお客さんになって下さい」
「それは光栄です。でしたら、その時はブルドッグをお願いします」
「わかりました。もし、潰れてもちゃんと介抱してあげますね」
「それは心強い。ですが、その時は是非マスターの監視外の場所でお願いします」
何処までが本心で何処までがビジネストークだったのかは定かでは無い。
けれど次のバイトからは、七海さん要望に応えてマスターにブルドッグの作り方を教えてもらおうかと楽しみにしている私が居た。
それ自体もまた、七海さんと知り合った事で私が選んだ選択なのだろう。
惜しむほどの別れでもなく、あっさりと扉を潜って消えてしまった七海さんの存在はまるで夢の様にも思える。
連絡先だけでも聞いておけば良かった時思うけれど、こう言った一期一会も人生には付き物で、テーブルに並んだ空のペットボトルだけが、その存在を繋ぎ止める唯一の物だったのかもしれない。
けれどそれから数ヶ月が経ち、必死に練習したブルドッグがやっとまともな形になった頃。
秋雨の振る静かな夜にやって来た久しぶりに見るお客さんは、私の記憶より遥かに清々しい顔をして扉のカウベルを鳴らしていた。
「いらっしゃいませ。お飲み物は?」
「勿論、ブルドッグを」
その言葉を聞いた途端、マスターが驚いた様に七海さんに視線を向け、彼は深々と一礼すると席に着く。
彼が去り際に注文していったカクテルを作る為、私は慣れた手つきでグレープフルーツとウォッカに手を伸ばす。
それはバーテンダーと言うには拙いものではあったけれど彼はカウンター越しに目を細めて眺めており、マスターも私のこれまでの練習を知っているからか。
私がシェイカーを振る様子を我が子を見守る様な視線で見守っていた。
花言葉同様に、カクテルにはそれぞれお酒の名前によって意味があるらしく、これはきっとこの時の彼の想いそのものだったのだろう。
ブルドッグのカクテル言葉。
私がその意味に気付くのは、まだ先の話となる。