嫉妬深い七海と悪戯好きな彼女のお話
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呪術師とは謂わば奇人変人の集団と言ってもいい。
時に自らの命すら差し出しかねない状況で非術師の心から生み出される呪霊と対峙し、賞賛も無く日々働き続ける何て事、真っ当な思考をしていたら到底考えられないと自分でも思う時がある。
しかし、そんな変人集団の中でも稀にまともな人間は存在したりする。
仕事にはストイック、料理が趣味、一般社会での就職経験があり、しっかりと常識を兼ね備え、クォーターと言うある種武器ともなり得る整った容姿を待ち合わせた完璧な男がこの殺伐とした世界に出戻りして早数年。
学生時代からずっと淡い思いを抱き続け、一度は違う世界に行ってしまったのだからと無理やり思いを胸の中に閉じ込めて厳重に鍵を掛けた。
けれど七海が再び呪術師として出戻り、嘗てのクラスメイトから恋人とその関係が名前を変えて。
それ以降、元々人との距離が近かった私は度々七海から苦言を呈されることはあったけれど、その殆どはその場で済んでしまう様な小さな小言ばかりだった。
一応自分の女に対しては独占欲なんてものを見せたりするのだと密かに喜びを見出していた事は内緒の話で。
けれど誰に聞いても完璧だと言われるであろう男が自分に対して明確な嫉妬を見せた時、私の心がこれまでに無いほどの高揚感を抱いたのを忘れはしない。
それは茹る様な暑さの夏の日で。
職員寮の談話室の空調の効きが悪いからとシャツのボタンを数個外し、片手に団扇、片手に棒付きアイスを持って最大限の涼を取ろうと試行錯誤していた日の出来事だった。
「……何を、しているんですか?」
「あ、おかえり七海。今日なんだか空調の調子が悪いみたいでね」
朝から任務を数件片付けて来たのか。
大凡涼しいとは言い難い顔が眉間に皺を寄せながら帰って来ると私の姿を見た瞬間に更に眉根を寄せた。
既に食べ終えたアイスの棒が数本散乱した机。
暑いからとたくし上げたスカートは素足を晒しており、限界までだらし無さを極めた私の姿を咎める様な視線が突き刺さる。
しかしそうは言っても暑いものは暑い。
寒さならばある程度凌ぐ術も見つかるだろうけれど、暑さばかりはどうにもならない。
それでも呪術師として鍛えている分、熱中症になる心配は無いのだろうけれど私は夏の暑さには滅法弱く、空調のご機嫌が良くなるまでの間はこうして涼むしか手段がないのだから致し方ないだろう。
「そんな事を聞いているんじゃ無い。何故そんなに肌を出している」
「え?だって暑いから。七海はよく平然としていられるね」
「今のアナタの格好を見て冷や汗なら出てますがね」
眉間に指先を押し当てながら大きな溜息を溢した恋人の姿に、やはりこれは呆れているのだと長い付き合いの勘が告げた。
男だから、女だからとそう言うことは言わないタイプの人間ではあるけれど普段自身がきちんとした身形をしている分、他人に関しても厳しいところは否めない。
そう言うところを含めて好きなったのだから今更文句は言えないけれど、連日酷暑とまで言われる暑さの中、涼む手段が限られているのならば仕方ないと言う発想はやはりこの男には存在しないらしい。
一歩私に歩み寄った七海の視線がまじまじと注がれる。
溶けかかったアイスの最後の一口を頬張り、首を傾げているとおもむろに彼の片腕を占拠して居たはずの独特のジャケットが私の肩に掛けられ、仄かに香る香水の匂いが私の鼻腔を擽った。
「えっ、何?暑いんだけど」
「今すぐ身形を正すかそれを着るか選べ。因みに念のために聞きますが、アナタがそうして涼んでいる間にこの姿を見た人は?」
「えっ…あ、五条さんはアイスくれたよ。これ美味しいの。七海も食べる?」
既に棒のみとなったそれを指先でプラプラと遊ばせると隠しもしない苛立ちを募らせた舌打ちが私の鼓膜を刺激する。
よりにもよってあの人にと言わんばかりの空気を漂わせ、愛用しているサングラス越しに少し怒りを孕んだ色が覗く。
それと同時に私の中の好奇心が少しばかり刺激された。
その場に勢いよく立ち上がり、背伸びをしながら彼の首に腕を絡める。
そうすると更にその表情は険しいものへと変わるけれど、そんな事を気にして居たらこの男の恋人など務まるはずも無く。
この時の私は至極楽しげに口元に三日月を描いて居たに違いない。
「ねぇ、それって嫉妬?ねぇねぇ。七海、もしかして嫉妬?」
「……煩い」
「うっそ、七海も嫉妬とかするんだ。可愛い」
「余り喧しい口は塞ぎますよ。そうです、つまらない嫉妬ですよ。アナタの肌を見るのもアナタに触れるのも私だけの特権の筈です。他の誰の目にも触れさせて良いものではない。わかったら良い子ですから、大人しくそのボタンを閉めて下さい」
大人の中の大人とすら評される男が己のだらしない姿を他人が見た事に嫉妬の念を募らせた。
この事実がどれ程私を愉悦させたかを七海は知らないだろう。
ほんの少しばかり照れくさそうにした仕草と赤らんだ耳元は年甲斐もなくと己を叱咤している様も思えるものの、私の胸に歓喜の渦を呼び起こす。
意図せず顔は緩み、それを見て七海は一層不機嫌そうに顔を歪めたけれど、言う事聞くからボタン閉めて?と甘えた声を出すと溜息混じりに胸元に伸びた指先は私の肌を隠し、人目を憚る事無く上機嫌となった私の唇を文字通り七海が塞いだのはつい最近の出来事だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「って事があったんですよ!ね、可愛くないですか?七海めちゃくちゃ可愛いですよね」
「ふはっ、七海が嫉妬なんて愛されちゃってるねぇ。ちょっとその話聞いて胸焼けしそう」
「胃薬なら伊地知君に貰ってくださいよ。まだまだたくさんあるんですから、七海の可愛いエピソード」
その出来事から数日後。
やっと空調が直った事で念願の快適な日々を取り戻し、共に先日の残りのアイスを頬張りながら告げた私の言葉に五条さんが目を丸くする。
流石の五条さんと言えど七海のそんな姿は想像できないのか、はたまたしたくはないのか。
常に甘いものしか食べて居ないくせに態とらしく胃の辺りを抑える姿は私の惚気にお腹いっぱいご馳走様と言いたげだけれど、生憎私は七海の事に関して空気を読むつもりはない。
何より学生時代のあれこれを知っている五条さんならば話すのには一番最適なのだ。
言ってしまえば彼は七海の沽券を守りつつ、私が目一杯惚気られる貴重な人物とも言える。
「僕、まだ君の惚気聞かなきゃいけない感じ?そんなに嬉しい訳?恋人に嫉妬されるなんて面倒なだけじゃない?」
「七海だから良いんですよ。普段涼しい顔した男が自分のことで感情乱されて、焦りの表情すら浮かべてる姿を見ると堪んないですよね。…なんて言うか、あ!ギャップ萌え?」
「七海をそんな風に言えるのは真那だけだと思うけどねぇ」
咥えたままの棒を口元で遊ばせながら次のアイスに手を伸ばした五条さんは既に私の話には飽きているのだろう。
けれどそれしきでこの感情に収まりが付くはずもなく、ちゃんと聞いてくださいよ!と同じ様に二本目のアイスに手を伸ばしながら私は五条さんを未だ解放してやるつもりはなかった。
なんだかんだこうして話を聞いてくれる辺り、一応は学生時代から淡い恋心を抱き続け、やっと恋人となれた私たちの事を気に掛けてはくれているのだろう。
キャッキャとはしゃぐ私の姿は年齢を考えたら大人気ないものと言えるだろうけれど、数年に渡る片想いが実り、やっと人並みならない世界で人並みの幸せを掴めたのだからその辺は大目に見てもらうしかない。
「まさかあんな事で嫉妬するなんて思わなかったんですよ。だって誰が見たかまで気にしてたんですよ?」
「で?誰が見てたの?」
「五条さんだけですよ。因みにそれ言ったらめちゃくちゃ舌打ちしてました」
「ねぇ。君、僕を分割させたいわけ?僕また虫ケラを見る様な目で見られちゃうじゃん」
「あ、その辺はいつもの事だから心配無いですよ」
ケラケラと軽快な笑い声を上げる私に五条さんは少しばかり遠い目をして居た気がする。
嘗ての後輩に尊敬の念を抱かれて居ないと言うのはこの人でも多少傷つく所があるのだろうか。
けれど信頼と信用は置いているのだから、これはある種私達なりの愛情表現とも言えて。
大丈夫ですよと何の気無しに慰めの言葉を掛けると、向かい合っていた筈の五条さんが突然私の隣にやって来る。
まるで恋人にするかの如く慣れた手付きで私の肩に自身の腕を回し、その口元に妖艶とさえ思える様な緩やかな弧を描いていた。
「どうかしたんですか?」
「ねぇ。七海にもっと嫉妬されて見たくない?」
「そりゃ、されて見たいですけど…」
「もうすぐ帰ってくると思うんだよね。でさ、ちょっと悪戯仕掛けて見ない?」
この時、私が首を横に振っていたらきっと結末は違っていたのだろうか。
けれど滅多に見れない可愛い七海がもう一度見れる時言う独占欲と好奇心が優ってしまったのは、それだけ七海の嫉妬する姿が貴重だったと言う何よりの証でもある。
元より悪戯好きだった私は学生時代から何かと五条さんとは悪 さを繰り返し、その度に七海と故人となってしまったもう一人のクラスメイトはその被害を被って来ている。
少しばかりお仕置きをされたとしてもそれは些細なもので、きっとまたあの可愛らしい姿を見せてくれるものだとこの時の私は信じて疑ってはいなかった。
「じゃ、暫くこのままでいてみよっか。対抗しちゃ駄目だよ?」
「はい!」
七海より少し繊細な指が私の肩を抱くのと、背後に人の気配を感じるのは同時だった様に思う。
その瞬間、冷房の設定温度を変えたのかと問いたくなるほどには室内に冷気が漂った気もしたけれど、残念ながらそれしきの事で私達の悪戯心が満たされる訳はない。
極限まで嫉妬の炎に焼かれた恋人は果たしてどんな焦りの表情を見せてくれるのだろうと期待に胸を膨らませるだけだった私は、まだその恋人の本質を見抜けては居なかったらしい。
無言のまま突き刺さる視線を無いものとして、五条さんに身を委ねて居る姿は恋人と言っても差し支えない無い程に親しげなもので。
いつ、七海が限界を迎え私達の間に割って入ってくるのだろうと期待に胸を弾ませていた。
横目で七海に向けて挑発的な視線を送る五条さんに気づく事は無く、肩に置かれて居ただけの手がシャツ越しに腕の辺りまで滑ると、寄り添うように上半身の影が重なって居た。
「真那ってさ、意外と華奢だよね。肩ほっそいじゃん。でも胸はあるんだよねぇ。ぶっちゃけそう言う女の子って、かなり好みなんだよね」
ツツ、とわざとらしく綺麗な指先がシャツ越しにブラの線をなぞった時、一瞬私の身体が跳ねたのをこの場の誰もが確信して居た。
すでに場の空気は私達の周辺だけがピンク色に染まっているのに他は絶対零度と言えるほどに凍りつき殺気すらも伺える。
私としてもこの言葉が本心であるか否かに関わらず、普段五条さんからは決して聞かない様な言葉を聞いて半ば放心状態に近かった。
けれどそんな状況に構う事無く指先が首筋を伝うと思わず声さえ漏れそうになって、咄嗟に片手で口元を押さえてしまう。
「あれ、首を弱い感じ?可愛い反応するじゃん。なんか面白くなって来ちゃったんだけど」
「ごじょ、さん?」
「ねぇ。七海、雰囲気だけで僕の事殺そうとしてるよ。ほんっと分かりやすいよねぇ。でも真那はそんなにオマエの事愛してやまない七海にもっと嫉妬させたいんだから悪い子だよね」
「ひっ!?」
ヒソヒソと耳打ちをしながら耳の輪郭をなぞられて、いよいよ私の口から小さな悲鳴があがる。
食べかけのアイスが溶ける事なんて気にも出来なくて、一筋棒に流れた静が私の手元を濡らして居た。
七海に向けての悪戯のつもりだった行為は、いつしか散々惚気を聞かされた仕返しをされている様な心持ちとなり、流石に七海よりも上背のある男の腕から流れる術など私が持ち合わせているはずもない。
今にも滴り落ち落ちそうなアイスを見て五条さんの口角がゆるりと上がると同時に嫌な予感がした。
手首を掴まれて薄く開いた唇が手元に向かう様はスローモーションの様にゆっくりと視界に収まり、けれどそれは私を引き寄せた腕によって阻まれていく。
「些か悪趣味が過ぎますよ、五条さん」
「アハハ、だったらさっさと声掛けたら良かったのに。殺気ダダ漏れで威嚇してんのバレバレだよ。ちょっと揶揄っただけだよ。オマエの猫が嫉妬した彼氏が可愛くて大好きだって熱弁してくるもんだから、七海みたいなタイプ程嫉妬した時は面倒なんだって事をお勉強させようかなって思ってさ」
「……な、なみ?」
「言い訳があるなら今此処で」
どうやら私は五条さんに嵌められ、ほんの少し嫉妬をさせるつもりが結果的に七海の逆鱗に触れてしまったらしい。
耳障りの良い音が普段より数倍低く聞こえるのは気のせいでは無いのだろう。
今の心境を一言で言うならば叱られた子供のそれに近い。
許してと安易言えないのは完全に自分に非がある事を自覚しているからだ。
一般男性ならば捩じ伏せることも叶うだろうけれど、呪術師同士の力比べとなれば私は間違いなく捩じ伏せられる側であり、きっと七海はそう言った事を危惧してこれまで私に苦言を呈して来たのだろう。
現に今は一瞬本気で五条さんに食われるのではないかと焦燥と同時に恐怖すら抱いたし、七海が割って入ってくれた事に安堵もしていて。
しゅんと小さく項垂れた口からはか細い弁解の言葉しか出てこなかった。
「…ごめん、なさい。この前の七海見てたら可愛くて。嫉妬されるの嬉しくて。もっと見たくなっちゃって…」
「その結果は?」
「ちょっと、怖かったです」
「私は女性だからと慎ましく淑やかに居ろと言うつもりはありません。その破天荒さや甘え上手な面さえアナタの魅力の一つだと思って居ます。ですが仮に力で押さえ込まれた際、アナタは非力だ。時にその力は補助監督にさえも劣る場合がある。それだけは重々理解して下さい。人との距離の取り方も、今後は少し改めるように」
相手が旧知の仲だからと完全に悪ノリをしすぎた事は認めざるを得ない。
他人との距離が近い事も自覚はしている。
しかし、私はこれまでこのやり方で人間関係を築いて来たのだからそのやり方を今更変えると言うのは至難の業で。
淡々と紡がれていく七海の言葉に面と向かって反論できないものの、溢れかえった言葉が音にならずに支えている。
そんな様子を察してか、安堵と疲れを吐き出すように大きく一つ息をつく音が聞こえた。
腕を組んで背後に立って居た筈の七海はおもむろにソファに片手を付くともう片方の手が私の顎に添えられる。
上を向かされた瞬間に落ちて来たのは少し分厚い唇で。
人前では決して恋人だとあからさまに匂わせるような事をして来なかった七海の行動に、今回はやはりやり過ぎたのだと反省するしかない。
隣の五条さんを気にする事すらできず、響き渡る音と柔らかい唇の感触だけに支配される。
私の唇を覆う唇が啄むように幾度も重なり、やがて最後に分厚い舌が唇に這うとグロスを塗られたかのように艶めいた箇所に七海の親指が触れた。
「悪巧みばかりを紡ぐこの口は言って聞かせるよりこの場で塞いでやった方が余程早いらしい。いや、どうせなら続きはベッドで。これ以上アナタの乱れた姿を他人に見せることすら許し難い。可哀想に、自ら私の醜い嫉妬を煽って。今日はきっと寝れる事は無いでしょうね」
「な、なみ…?」
サァ、と私の顔から血の気の引く感覚がした。
普段からベッドに雪崩れ込めば意図せず前後不覚になる事が殆どだと言うのに、今回に限っては一切の手加減をしてはくれないらしい。
有無を言わさず伸びて来た腕に横抱きにされた身体は下ろせと反抗することもできず、今はただ七海のジャケットを握りしめるしか出来ず。
しおらしくなった私の態度に何処か満足そうに口角を上げた七海はサングラス越しに僅かに目を細め、そこでやっとこんなにも愛されて居たのだと己の浅はかさを少し呪った。
「五条さん」
「ん?なに?」
「明日は有給でお願いします」
「ククッ、了解。じゃ、虎の尾を自ら踏んだ真那ちゃんは精々頑張りなよ。今後は悪戯は程々にね」
まるでこうなる事すら想定内だったと言わんばかりに携帯を弄り、アイスの棒を咥えたままの五条さんがこちらを一瞥する事すらせずにヒラヒラと手を振った。
すぐさま誰かに連絡を取り始めた様子からして、恐らく伊地知君にでも明日のスケジュールの調整を頼んでいるのだろう。
次に出勤できた時には、先ず苦労の絶えない後輩に労りの言葉と栄養剤と胃薬の差し入れをしてやらなければならないだろうと考えている最中。
私を抱えたまま悠然と踵を返した七海が向けた笑みは、ため息が漏れそうな程に妖艶なものだった。
「さぁ行きますよ、真那。どうやら一度身体にはしっかりと教え込む必要があるらしい。私がアナタの事になるとどれだけ狭量な人間となるのか。その身体でしっかりと実感して貰いましょうか」
「私、生きてられる?骨はちゃんと拾ってね」
「殺しはしませんよ。アナタはただ私に溺れているだけで良い」
「七海は溺れてくれないの?」
「とうに溺れて居ます。ですから、アナタはもう私以外に目を向ける事は出来ないんですよ」
抱き上げられたまま、普段よりも少し足早に進む廊下は煩わしく感じるほどに蝉の音が鳴り響いて居た。
ただ居るだけで汗が吹き出る屋外にこの時期移動以外で外に出る人は殆ど居らず、この姿を人目に晒さずに済んだのは不幸中の幸いだと言えるけれど、今回の件至って私は反省はしているけれど後悔はして居ない。
やっぱり嫉妬されるのは嬉しいし、愛されてると言う実感はいつだって得たいものだ。
それが最愛の恋人からのものならばいっそ雁字搦めにされたとしても私は受け入れてしまうに違いない。
独占欲丸出しの子供の様な姿すら自分しか知り得ないものと思えば満たされるものがあって、結局私達は似たもの同士と言うしかないのだろう。
私が太い首に腕を回すと間近に見る顔は涼しい表情をしているように見えたけれど、首筋には一筋汗が伝いその瞳の奥には獰猛さを孕み、強く香る男の匂いに私の女の部分が酷く疼く。
早く帰ろ?と甘えた声で首元に擦り寄ると七海は小さく舌打ちをしながらもその歩幅はどんどん大きなものへと代わっていった。
早く二人だけの空間で互いを貪りたいと言う思いだけが今の私たちの共通項となると、この後の私達に待っているのは熱帯夜よりも熱く、淫らで欲深い夜しかないのだろう。
時に自らの命すら差し出しかねない状況で非術師の心から生み出される呪霊と対峙し、賞賛も無く日々働き続ける何て事、真っ当な思考をしていたら到底考えられないと自分でも思う時がある。
しかし、そんな変人集団の中でも稀にまともな人間は存在したりする。
仕事にはストイック、料理が趣味、一般社会での就職経験があり、しっかりと常識を兼ね備え、クォーターと言うある種武器ともなり得る整った容姿を待ち合わせた完璧な男がこの殺伐とした世界に出戻りして早数年。
学生時代からずっと淡い思いを抱き続け、一度は違う世界に行ってしまったのだからと無理やり思いを胸の中に閉じ込めて厳重に鍵を掛けた。
けれど七海が再び呪術師として出戻り、嘗てのクラスメイトから恋人とその関係が名前を変えて。
それ以降、元々人との距離が近かった私は度々七海から苦言を呈されることはあったけれど、その殆どはその場で済んでしまう様な小さな小言ばかりだった。
一応自分の女に対しては独占欲なんてものを見せたりするのだと密かに喜びを見出していた事は内緒の話で。
けれど誰に聞いても完璧だと言われるであろう男が自分に対して明確な嫉妬を見せた時、私の心がこれまでに無いほどの高揚感を抱いたのを忘れはしない。
それは茹る様な暑さの夏の日で。
職員寮の談話室の空調の効きが悪いからとシャツのボタンを数個外し、片手に団扇、片手に棒付きアイスを持って最大限の涼を取ろうと試行錯誤していた日の出来事だった。
「……何を、しているんですか?」
「あ、おかえり七海。今日なんだか空調の調子が悪いみたいでね」
朝から任務を数件片付けて来たのか。
大凡涼しいとは言い難い顔が眉間に皺を寄せながら帰って来ると私の姿を見た瞬間に更に眉根を寄せた。
既に食べ終えたアイスの棒が数本散乱した机。
暑いからとたくし上げたスカートは素足を晒しており、限界までだらし無さを極めた私の姿を咎める様な視線が突き刺さる。
しかしそうは言っても暑いものは暑い。
寒さならばある程度凌ぐ術も見つかるだろうけれど、暑さばかりはどうにもならない。
それでも呪術師として鍛えている分、熱中症になる心配は無いのだろうけれど私は夏の暑さには滅法弱く、空調のご機嫌が良くなるまでの間はこうして涼むしか手段がないのだから致し方ないだろう。
「そんな事を聞いているんじゃ無い。何故そんなに肌を出している」
「え?だって暑いから。七海はよく平然としていられるね」
「今のアナタの格好を見て冷や汗なら出てますがね」
眉間に指先を押し当てながら大きな溜息を溢した恋人の姿に、やはりこれは呆れているのだと長い付き合いの勘が告げた。
男だから、女だからとそう言うことは言わないタイプの人間ではあるけれど普段自身がきちんとした身形をしている分、他人に関しても厳しいところは否めない。
そう言うところを含めて好きなったのだから今更文句は言えないけれど、連日酷暑とまで言われる暑さの中、涼む手段が限られているのならば仕方ないと言う発想はやはりこの男には存在しないらしい。
一歩私に歩み寄った七海の視線がまじまじと注がれる。
溶けかかったアイスの最後の一口を頬張り、首を傾げているとおもむろに彼の片腕を占拠して居たはずの独特のジャケットが私の肩に掛けられ、仄かに香る香水の匂いが私の鼻腔を擽った。
「えっ、何?暑いんだけど」
「今すぐ身形を正すかそれを着るか選べ。因みに念のために聞きますが、アナタがそうして涼んでいる間にこの姿を見た人は?」
「えっ…あ、五条さんはアイスくれたよ。これ美味しいの。七海も食べる?」
既に棒のみとなったそれを指先でプラプラと遊ばせると隠しもしない苛立ちを募らせた舌打ちが私の鼓膜を刺激する。
よりにもよってあの人にと言わんばかりの空気を漂わせ、愛用しているサングラス越しに少し怒りを孕んだ色が覗く。
それと同時に私の中の好奇心が少しばかり刺激された。
その場に勢いよく立ち上がり、背伸びをしながら彼の首に腕を絡める。
そうすると更にその表情は険しいものへと変わるけれど、そんな事を気にして居たらこの男の恋人など務まるはずも無く。
この時の私は至極楽しげに口元に三日月を描いて居たに違いない。
「ねぇ、それって嫉妬?ねぇねぇ。七海、もしかして嫉妬?」
「……煩い」
「うっそ、七海も嫉妬とかするんだ。可愛い」
「余り喧しい口は塞ぎますよ。そうです、つまらない嫉妬ですよ。アナタの肌を見るのもアナタに触れるのも私だけの特権の筈です。他の誰の目にも触れさせて良いものではない。わかったら良い子ですから、大人しくそのボタンを閉めて下さい」
大人の中の大人とすら評される男が己のだらしない姿を他人が見た事に嫉妬の念を募らせた。
この事実がどれ程私を愉悦させたかを七海は知らないだろう。
ほんの少しばかり照れくさそうにした仕草と赤らんだ耳元は年甲斐もなくと己を叱咤している様も思えるものの、私の胸に歓喜の渦を呼び起こす。
意図せず顔は緩み、それを見て七海は一層不機嫌そうに顔を歪めたけれど、言う事聞くからボタン閉めて?と甘えた声を出すと溜息混じりに胸元に伸びた指先は私の肌を隠し、人目を憚る事無く上機嫌となった私の唇を文字通り七海が塞いだのはつい最近の出来事だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「って事があったんですよ!ね、可愛くないですか?七海めちゃくちゃ可愛いですよね」
「ふはっ、七海が嫉妬なんて愛されちゃってるねぇ。ちょっとその話聞いて胸焼けしそう」
「胃薬なら伊地知君に貰ってくださいよ。まだまだたくさんあるんですから、七海の可愛いエピソード」
その出来事から数日後。
やっと空調が直った事で念願の快適な日々を取り戻し、共に先日の残りのアイスを頬張りながら告げた私の言葉に五条さんが目を丸くする。
流石の五条さんと言えど七海のそんな姿は想像できないのか、はたまたしたくはないのか。
常に甘いものしか食べて居ないくせに態とらしく胃の辺りを抑える姿は私の惚気にお腹いっぱいご馳走様と言いたげだけれど、生憎私は七海の事に関して空気を読むつもりはない。
何より学生時代のあれこれを知っている五条さんならば話すのには一番最適なのだ。
言ってしまえば彼は七海の沽券を守りつつ、私が目一杯惚気られる貴重な人物とも言える。
「僕、まだ君の惚気聞かなきゃいけない感じ?そんなに嬉しい訳?恋人に嫉妬されるなんて面倒なだけじゃない?」
「七海だから良いんですよ。普段涼しい顔した男が自分のことで感情乱されて、焦りの表情すら浮かべてる姿を見ると堪んないですよね。…なんて言うか、あ!ギャップ萌え?」
「七海をそんな風に言えるのは真那だけだと思うけどねぇ」
咥えたままの棒を口元で遊ばせながら次のアイスに手を伸ばした五条さんは既に私の話には飽きているのだろう。
けれどそれしきでこの感情に収まりが付くはずもなく、ちゃんと聞いてくださいよ!と同じ様に二本目のアイスに手を伸ばしながら私は五条さんを未だ解放してやるつもりはなかった。
なんだかんだこうして話を聞いてくれる辺り、一応は学生時代から淡い恋心を抱き続け、やっと恋人となれた私たちの事を気に掛けてはくれているのだろう。
キャッキャとはしゃぐ私の姿は年齢を考えたら大人気ないものと言えるだろうけれど、数年に渡る片想いが実り、やっと人並みならない世界で人並みの幸せを掴めたのだからその辺は大目に見てもらうしかない。
「まさかあんな事で嫉妬するなんて思わなかったんですよ。だって誰が見たかまで気にしてたんですよ?」
「で?誰が見てたの?」
「五条さんだけですよ。因みにそれ言ったらめちゃくちゃ舌打ちしてました」
「ねぇ。君、僕を分割させたいわけ?僕また虫ケラを見る様な目で見られちゃうじゃん」
「あ、その辺はいつもの事だから心配無いですよ」
ケラケラと軽快な笑い声を上げる私に五条さんは少しばかり遠い目をして居た気がする。
嘗ての後輩に尊敬の念を抱かれて居ないと言うのはこの人でも多少傷つく所があるのだろうか。
けれど信頼と信用は置いているのだから、これはある種私達なりの愛情表現とも言えて。
大丈夫ですよと何の気無しに慰めの言葉を掛けると、向かい合っていた筈の五条さんが突然私の隣にやって来る。
まるで恋人にするかの如く慣れた手付きで私の肩に自身の腕を回し、その口元に妖艶とさえ思える様な緩やかな弧を描いていた。
「どうかしたんですか?」
「ねぇ。七海にもっと嫉妬されて見たくない?」
「そりゃ、されて見たいですけど…」
「もうすぐ帰ってくると思うんだよね。でさ、ちょっと悪戯仕掛けて見ない?」
この時、私が首を横に振っていたらきっと結末は違っていたのだろうか。
けれど滅多に見れない可愛い七海がもう一度見れる時言う独占欲と好奇心が優ってしまったのは、それだけ七海の嫉妬する姿が貴重だったと言う何よりの証でもある。
元より悪戯好きだった私は学生時代から何かと五条さんとは悪 さを繰り返し、その度に七海と故人となってしまったもう一人のクラスメイトはその被害を被って来ている。
少しばかりお仕置きをされたとしてもそれは些細なもので、きっとまたあの可愛らしい姿を見せてくれるものだとこの時の私は信じて疑ってはいなかった。
「じゃ、暫くこのままでいてみよっか。対抗しちゃ駄目だよ?」
「はい!」
七海より少し繊細な指が私の肩を抱くのと、背後に人の気配を感じるのは同時だった様に思う。
その瞬間、冷房の設定温度を変えたのかと問いたくなるほどには室内に冷気が漂った気もしたけれど、残念ながらそれしきの事で私達の悪戯心が満たされる訳はない。
極限まで嫉妬の炎に焼かれた恋人は果たしてどんな焦りの表情を見せてくれるのだろうと期待に胸を膨らませるだけだった私は、まだその恋人の本質を見抜けては居なかったらしい。
無言のまま突き刺さる視線を無いものとして、五条さんに身を委ねて居る姿は恋人と言っても差し支えない無い程に親しげなもので。
いつ、七海が限界を迎え私達の間に割って入ってくるのだろうと期待に胸を弾ませていた。
横目で七海に向けて挑発的な視線を送る五条さんに気づく事は無く、肩に置かれて居ただけの手がシャツ越しに腕の辺りまで滑ると、寄り添うように上半身の影が重なって居た。
「真那ってさ、意外と華奢だよね。肩ほっそいじゃん。でも胸はあるんだよねぇ。ぶっちゃけそう言う女の子って、かなり好みなんだよね」
ツツ、とわざとらしく綺麗な指先がシャツ越しにブラの線をなぞった時、一瞬私の身体が跳ねたのをこの場の誰もが確信して居た。
すでに場の空気は私達の周辺だけがピンク色に染まっているのに他は絶対零度と言えるほどに凍りつき殺気すらも伺える。
私としてもこの言葉が本心であるか否かに関わらず、普段五条さんからは決して聞かない様な言葉を聞いて半ば放心状態に近かった。
けれどそんな状況に構う事無く指先が首筋を伝うと思わず声さえ漏れそうになって、咄嗟に片手で口元を押さえてしまう。
「あれ、首を弱い感じ?可愛い反応するじゃん。なんか面白くなって来ちゃったんだけど」
「ごじょ、さん?」
「ねぇ。七海、雰囲気だけで僕の事殺そうとしてるよ。ほんっと分かりやすいよねぇ。でも真那はそんなにオマエの事愛してやまない七海にもっと嫉妬させたいんだから悪い子だよね」
「ひっ!?」
ヒソヒソと耳打ちをしながら耳の輪郭をなぞられて、いよいよ私の口から小さな悲鳴があがる。
食べかけのアイスが溶ける事なんて気にも出来なくて、一筋棒に流れた静が私の手元を濡らして居た。
七海に向けての悪戯のつもりだった行為は、いつしか散々惚気を聞かされた仕返しをされている様な心持ちとなり、流石に七海よりも上背のある男の腕から流れる術など私が持ち合わせているはずもない。
今にも滴り落ち落ちそうなアイスを見て五条さんの口角がゆるりと上がると同時に嫌な予感がした。
手首を掴まれて薄く開いた唇が手元に向かう様はスローモーションの様にゆっくりと視界に収まり、けれどそれは私を引き寄せた腕によって阻まれていく。
「些か悪趣味が過ぎますよ、五条さん」
「アハハ、だったらさっさと声掛けたら良かったのに。殺気ダダ漏れで威嚇してんのバレバレだよ。ちょっと揶揄っただけだよ。オマエの猫が嫉妬した彼氏が可愛くて大好きだって熱弁してくるもんだから、七海みたいなタイプ程嫉妬した時は面倒なんだって事をお勉強させようかなって思ってさ」
「……な、なみ?」
「言い訳があるなら今此処で」
どうやら私は五条さんに嵌められ、ほんの少し嫉妬をさせるつもりが結果的に七海の逆鱗に触れてしまったらしい。
耳障りの良い音が普段より数倍低く聞こえるのは気のせいでは無いのだろう。
今の心境を一言で言うならば叱られた子供のそれに近い。
許してと安易言えないのは完全に自分に非がある事を自覚しているからだ。
一般男性ならば捩じ伏せることも叶うだろうけれど、呪術師同士の力比べとなれば私は間違いなく捩じ伏せられる側であり、きっと七海はそう言った事を危惧してこれまで私に苦言を呈して来たのだろう。
現に今は一瞬本気で五条さんに食われるのではないかと焦燥と同時に恐怖すら抱いたし、七海が割って入ってくれた事に安堵もしていて。
しゅんと小さく項垂れた口からはか細い弁解の言葉しか出てこなかった。
「…ごめん、なさい。この前の七海見てたら可愛くて。嫉妬されるの嬉しくて。もっと見たくなっちゃって…」
「その結果は?」
「ちょっと、怖かったです」
「私は女性だからと慎ましく淑やかに居ろと言うつもりはありません。その破天荒さや甘え上手な面さえアナタの魅力の一つだと思って居ます。ですが仮に力で押さえ込まれた際、アナタは非力だ。時にその力は補助監督にさえも劣る場合がある。それだけは重々理解して下さい。人との距離の取り方も、今後は少し改めるように」
相手が旧知の仲だからと完全に悪ノリをしすぎた事は認めざるを得ない。
他人との距離が近い事も自覚はしている。
しかし、私はこれまでこのやり方で人間関係を築いて来たのだからそのやり方を今更変えると言うのは至難の業で。
淡々と紡がれていく七海の言葉に面と向かって反論できないものの、溢れかえった言葉が音にならずに支えている。
そんな様子を察してか、安堵と疲れを吐き出すように大きく一つ息をつく音が聞こえた。
腕を組んで背後に立って居た筈の七海はおもむろにソファに片手を付くともう片方の手が私の顎に添えられる。
上を向かされた瞬間に落ちて来たのは少し分厚い唇で。
人前では決して恋人だとあからさまに匂わせるような事をして来なかった七海の行動に、今回はやはりやり過ぎたのだと反省するしかない。
隣の五条さんを気にする事すらできず、響き渡る音と柔らかい唇の感触だけに支配される。
私の唇を覆う唇が啄むように幾度も重なり、やがて最後に分厚い舌が唇に這うとグロスを塗られたかのように艶めいた箇所に七海の親指が触れた。
「悪巧みばかりを紡ぐこの口は言って聞かせるよりこの場で塞いでやった方が余程早いらしい。いや、どうせなら続きはベッドで。これ以上アナタの乱れた姿を他人に見せることすら許し難い。可哀想に、自ら私の醜い嫉妬を煽って。今日はきっと寝れる事は無いでしょうね」
「な、なみ…?」
サァ、と私の顔から血の気の引く感覚がした。
普段からベッドに雪崩れ込めば意図せず前後不覚になる事が殆どだと言うのに、今回に限っては一切の手加減をしてはくれないらしい。
有無を言わさず伸びて来た腕に横抱きにされた身体は下ろせと反抗することもできず、今はただ七海のジャケットを握りしめるしか出来ず。
しおらしくなった私の態度に何処か満足そうに口角を上げた七海はサングラス越しに僅かに目を細め、そこでやっとこんなにも愛されて居たのだと己の浅はかさを少し呪った。
「五条さん」
「ん?なに?」
「明日は有給でお願いします」
「ククッ、了解。じゃ、虎の尾を自ら踏んだ真那ちゃんは精々頑張りなよ。今後は悪戯は程々にね」
まるでこうなる事すら想定内だったと言わんばかりに携帯を弄り、アイスの棒を咥えたままの五条さんがこちらを一瞥する事すらせずにヒラヒラと手を振った。
すぐさま誰かに連絡を取り始めた様子からして、恐らく伊地知君にでも明日のスケジュールの調整を頼んでいるのだろう。
次に出勤できた時には、先ず苦労の絶えない後輩に労りの言葉と栄養剤と胃薬の差し入れをしてやらなければならないだろうと考えている最中。
私を抱えたまま悠然と踵を返した七海が向けた笑みは、ため息が漏れそうな程に妖艶なものだった。
「さぁ行きますよ、真那。どうやら一度身体にはしっかりと教え込む必要があるらしい。私がアナタの事になるとどれだけ狭量な人間となるのか。その身体でしっかりと実感して貰いましょうか」
「私、生きてられる?骨はちゃんと拾ってね」
「殺しはしませんよ。アナタはただ私に溺れているだけで良い」
「七海は溺れてくれないの?」
「とうに溺れて居ます。ですから、アナタはもう私以外に目を向ける事は出来ないんですよ」
抱き上げられたまま、普段よりも少し足早に進む廊下は煩わしく感じるほどに蝉の音が鳴り響いて居た。
ただ居るだけで汗が吹き出る屋外にこの時期移動以外で外に出る人は殆ど居らず、この姿を人目に晒さずに済んだのは不幸中の幸いだと言えるけれど、今回の件至って私は反省はしているけれど後悔はして居ない。
やっぱり嫉妬されるのは嬉しいし、愛されてると言う実感はいつだって得たいものだ。
それが最愛の恋人からのものならばいっそ雁字搦めにされたとしても私は受け入れてしまうに違いない。
独占欲丸出しの子供の様な姿すら自分しか知り得ないものと思えば満たされるものがあって、結局私達は似たもの同士と言うしかないのだろう。
私が太い首に腕を回すと間近に見る顔は涼しい表情をしているように見えたけれど、首筋には一筋汗が伝いその瞳の奥には獰猛さを孕み、強く香る男の匂いに私の女の部分が酷く疼く。
早く帰ろ?と甘えた声で首元に擦り寄ると七海は小さく舌打ちをしながらもその歩幅はどんどん大きなものへと代わっていった。
早く二人だけの空間で互いを貪りたいと言う思いだけが今の私たちの共通項となると、この後の私達に待っているのは熱帯夜よりも熱く、淫らで欲深い夜しかないのだろう。
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