愛と言う名の咎
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七海 side
次にやってきた彼女からの贈り物は、私の予想しないものとなる。
腑抜けとなって居た穴を埋めるために五条さんの指示で出張に駆り出され、数日後に高専へ戻った私の元に新田さんが訪れると、彼女が差し出したのは一冊のノートだった。
今にも泣き出しそうな顔をした新田さんは、さぞ私に対して怒りを抱いている事だろう。
彼女が補助監督になってから一人立ちするまでの間、真那はずっと付きっきりで仕事を教えていた。
どうすれば効率よく仕事をこなせるか。
呪術師へのサポートの中でも何に重きを置くべきか。
考え抜いて丁寧な資料を作り、それは今でも新人教育の時に大いに役立っていると聞いている。
「これ…真那さんから、預かったものっス…」
「…ありがとうございます」
震える手で差し出された、少し古びたノート。
その中身を一ページずつ確認していくと、それは彼女の書き残した料理のレシピだった。
私は自身に少し流れる血とハーフの母親の影響か日本人とは言っても洋食ばかりを好んで食べていた。
反面、彼女は和食を作るのがとても上手く、家庭的な優しい味の料理を作ってくれる人だった。
このノートには、二年間の間で私が特に気に入ったものばかりが記されている。
互いに料理を振る舞い合い、どんな風に作るのかと会話を弾ませ、並んだキッチンで一緒に料理を作った思い出が私の脳裏を掠めていくと新田さんの震えた声が私を現実に引き戻した。
「七海さん。真那さんの事…まだ好きっスか?」
「…勿論です。私にこんな事をいう権利もないですが好きなんて言葉では足りない。心の底から、愛していますよ」
「真那さん、何で…死んじゃったんスか…。こんなのあんまりじゃないっスか」
「私もそう思って居ます。アナタがこうして悲しんで泣いてくれて、少しは真那も報われる。…ありがとうございます」
子供のように泣きじゃくる新田さんの姿は私の胸に棘を刺した。
どんなに叫んでも、嘆いても返っては来ない最愛の人。
…その言葉を何度私も胸の内で叫んだ事か。
私は新田さんが泣き止むまでその場に止まり、溜まりに溜まった報告書を提出してから碌に帰れなかった自宅の扉を潜る。
久しぶりに自炊をしようと思うと先程、指南書をもらったからか彼女の味が無性に恋しくなり、書いたレシピ通りに料理を作ってみたまではよかったが、それは思い出の味とは到底程遠いものだった。
分量も材料も同じだというのに…何かが違う。
そして、一人で食べる食事がこんなに味気ないものだとは思わなかった。
「寂しい、ですね」
視線を向けた先には彼女が遺した物があちらこちらに置かれている。
彼女の遺品は全て私が引き取り、処分してほしいと頼んでいたウェディンググッズも、京都に持って行くつもりだった荷物も何もかも一切を誰にも触れさせず、自分の内側に抱え込んだ。
…それでも、この家には彼女の名残が感じられない。
私が自ら気味が悪いと言って真那と暮らす筈だった家を引き払ってしまったのだから当然だ。
ソファもベッドも食器さえも全て買い替え、徹底的に真那の存在を自らの中から排除したのだから。
…本当に愚かな事をした。
どれだけ彼女の私物を置いてみても、当たり前にあった彼女の姿が欠片ほども残っては居ない孤独な城は、私一人で暮らすには大きすぎる。
「…会いたいです」
写真の中の彼女に話し掛けた所で返事などないのに、気がつけばそうせずにはいられなくなって居た。
そこにはどの写真を見ても、私の隣で幸せそうに微笑む真那の姿があるから。
真那が居なくなってまだ十日程度しか過ぎて居ないと言うのに、日々募る寂しさに蝕まれて行く感覚がする。
確かに誰かと話すのは気休めになる。
けれど根本的な解決策にはなりはしない。
表面上は何とか取り繕えるようにはなったが家に帰った途端に孤独に苛まれていく。
次第に泥酔するほど酒を飲まなくては眠れなくなり、そんな私に呆れたのか…彼女は私の夢の中には、まだ一度も現れては居なかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
真那が亡くなり三週間程が過ぎた頃。
一人の時間に耐え兼ね始めた私は常々労働はクソだ、残業はクソだと公言して居たにも関わらず任務でその穴を埋めるようになった。
その時だけは気が紛れる。
何より、私の任務に向かう背中が好きだと言ってくれた彼女の言葉に報いたいと、何かに取り憑かれたように任務ばかりをこなして居た。
今日も朝から幾つもの任務に向かい、やっと高専に戻ったのは黄昏時をとうに過ぎた頃だった。
「おつかれサマンサ〜!!!相変わらず辛気臭い顔してるね」
「余計なお世話です」
「三週間で顔つきが死人から呪霊に変わってんじゃん。その内祓われるよ?」
「…いっそ祓ってくれたら直ぐにでも真那の元に行けます」
五条さんとのやり取りもすっかり後ろ向きものばかりに変わって居る。
いくら真那が寂しくないようにと心を配ってくれたとしても、私には彼女が居なければ意味がない。
そんな私に構うこともなくこの人は相変わらず好き勝手な事ばかりを言うが、腫れ物に触るような扱いをされないと言うのは存外、心地が悪くは無かった。
「まぁ、そう死にたがるなよ。真那の最期の贈り物、渡してやるから。って言っても捨てようとしてたのを半ば無理矢理回収したんだけどさ」
そう言った五条さんは私を職員寮のロビーへと招き、自室に一度戻ると一つの小さな箱を抱えて戻ってきた。
手紙、ネクタイ、料理のレシピ。
明らかに、これまでとは異質と言える質量と形に五条さんは早く開けてよ、と私を急かす。
けれど私の手は箱に触れたまま指が動かなくなって居た。
真那は共通の親しい人たちに様々なものを託し、五条さんがこれは最期の贈り物だと言って居た。
即ち、これを開けてしまったらもう彼女のからの唐突な贈り物は無くなってしまうという事になる。
私はこんなにも臆病だったのかと己に問いかけたくなる程、今の私は誰の目から見ても情けない男だろう。
「ねぇ、見ないなら僕が開けてもいい?」
「嫌です。触らないでください」
「じゃあ、ちゃんと見てやれよ。惚れた女が自分に遺した最期の贈り物だろ」
最近の五条さんは軽薄な態度と薄皮一枚のところで棘のような鋭さを持っている。
それは私の不甲斐なさが原因なのだろうけれど、この裏表の激しさは触れてほしく無い箇所を容赦なく抉るからこそ事実だとしても少し堪えるものがある。
このまま躊躇い続け、中身を確認しなければ本当に五条さんの好き勝手にされかねないし、それは何としてでも避けたい所。
やっとの思いで箱に手を掛けると隣の先輩呪術師は子供のように目を輝かせ始め、やがて箱の中身を確認すると首を傾げた。
「これ何。箱の中に箱?」
中から出てきたのは重くもなく、軽過ぎるわけでも無い両手に収まる程の大きさの箱だった。
蓋の部分には繊細な彫刻が施されており、芸術品を思わせる。
しかし、これを託した彼女の意図が全く伝わることが無く蓋を開けた時、私の耳に懐かしい音が響いて居た。
「…これは」
「なに、オルゴール?」
「…真那が、好きだった曲です」
彼女が事あるごとに口ずさんでいた歌は結婚式のBGMにもしようと話していた程に彼女が気に入っているものだった。
心安らぐ音色はまるで真那の声のようにも思え、私は一時瞼を下ろして耳を傾ける。
暫くして奏で続けた音が止み、瞳を開けた時に蓋の内側を覗くとそこには写真が飾れるようになっており、中は空かと思いきや…私へのメッセージが刻みこまれていた。
ーーーいつかの年、二月二十九日の貴方へ
「…そういう事ですか」
まるで霧が晴れるように己の中の疑問が解けていく。
…私に内緒でこんな事まで調べ上げ、準備をしていたのなら…もうお手上げとしか言いようがない。
彼女を失くして、久々に口元にだけでも笑みが浮かんだ。
冷たくなった心に、血が通った気がした。
真っ暗だった道の先に、吹けば直ぐに消えてしまう程であっても明かりが灯った気がした。
やはり、駄目です。
どれほどアナタが私の幸せを願ってくれていたとしても。
…私は、アナタでなくては駄目なんです。
これは私が自分に都合よく彼女の意思を解釈しただけなのかも知れない。
けれど、まるでそれが彼女の意志の全てのようにさえ感じると、私は指で箱の輪郭をなぞった。
恐らく蓋の部分には式の写真、オルゴールの中にはリングピローを入れるつもりだったのだろう。
…帰ったら、私はそれらをしてやらなければならない。
「ねぇ、この日付って何。僕にも教えてよ」
「…デンマークでは古い習わしとして二月二十九日のみ、女性から男性へのプロポーズが許されているんです。
断る場合には女性へストッキングか手袋を十二枚送らなければならないという不思議なものですが、自分もプロポーズをしてみたかったなどと言って居たので、きっと真那はそれをするつもりだったんでしょう」
二月に式を挙げたいと言い出した時、屋外だから寒いし不向きではないかと私は言った気がする。
その時は年度末に入ってしまうとただでさえ忙しい五条さんや学長が更に忙しくなる時期だし、四月に入れば新入生の為に時間を割くことになるからこの時期が適切なんだと言う真那の言葉を鵜呑みにしていたが…。
こんな仕掛けまで用意していたとなれば彼女は相当な策士だろう。
「なにそれウケる。十二枚とか要らなくない?」
「それは昔からの習慣なので何とも言えません。ですが…生憎それらを渡すことは出来ないので、私は彼女のプロポーズを受けるしか有りません」
「回収した時、僕基準で良いから七海が死にそうに見えたら渡して欲しいって言われてたけど。やっば、最高の呪いじゃん。
あの子さ、ほんとオマエの事しか考えたなかったんだよね。五年後、十年後、オマエが誰かと結ばれて幸せで居てくれたら良いって。その中に、自分の幸せがあるってさ」
「…私には生涯、彼女だけですよ。他は要らない。私が妻にしたいのは今もこれからも、彼女一人なんです」
アナタは果たしてそれを許してくれるのだろうか。
けれど、アナタ以外の人を隣に置くつもりなど私には毛頭ない。
季節は十月も半ばを過ぎて、すっかり秋の訪れを感じさせるものへと変わっていった。
彼女のいない世界に耐え難いほどに苦しくなり、衝動的になりたくなることがないと言えば嘘になる。
…それでも、今夜はきっと夢の中でアナタに会える気がする。
「なぁ、ちょっとは気持ち晴れた?本当はさ、もっと真那が長生きしてオマエが記憶なくしたまま誰かと幸せになってたらそれぞれ預かってたものは全部処分しようと思ってたんだよ。
それが真那の意向でもあったし。…たださ、早過ぎたよなぁ…」
「本当に、罪な人です…。もっと自分の幸せを考えてくれたら良かったのに」
「まぁ人間、生まれた以上平等に訪れるのは死だけなんだけどね。最強の僕だって何れ死ぬ。
でも、それがいつになるかなんて誰にも解りゃしないし、僕たちにはきっと平穏な死なんて来ちゃくれない。オマエさ、これ読みたい?真那の本心」
「… まだ、何か遺されて居るんですか?」
彼女の本心という言葉に私の心はあからさまに動揺していた。
手紙にもこれまでの贈り物にも溢れても尚注がれる愛情ばかりを感じていたからだ。
憎んでくれたらよかったと思ったし、蔑まれるのは当然だと分かっている。
けれど今になってあからさまに動揺して居る私は本当に弱い人間なのだろう。
「これまで渡すつもりは無かったんだけど、偶然見つけた真那の日記。一通り見たけど、彼女の本心は全部その中にあるよ。明日ちゃんと出勤出来るなら、今日はもう良いから帰れ」
差し出された少し分厚い手帳は、真那が昔からその日の些細な出来事を書き記していた見覚えのあるものだった。
この中に何が記されているのか。
少なくとも、彼女の心が垣間見れるのは間違いない。
絶対に来いよと何度も私に念を押す五条さんの言葉にしっかりと返事を返した私は、その内容が知りたい反面知るのが恐ろしかった。
それでも、知るべきなのだろう。
自宅にたどり着いた私は彼女のオルゴールをテーブルに置き、その音色に耳を傾けながら恐る恐る手帳のページを開いた。
初めは付き合っている頃の何気ない日常の事ばかりだった。
どこに行った、何を食べた、どんな話をした。
その端々に幸せだと言う思いが滲んで居り、私も自然と当時の光景を脳裏に描く。
式場を決める為に悩んだこと、ドレスの試着が楽しかったこと、招待状が出来たこと。
少しずつ、幸せの絶頂から突き落とされる瞬間へと近づいていくと私の指は震え始めていく。
…最初に書かれていてのは忘愛症候群と言う病についてのことだった。
家入さんから聞いた情報では到底納得して出来なかったのだろう。
出来るはずかない。
あらゆる情報を掻き集めて、それでも治療法がないと言う事実に嘆く様子が書かれていた。
私の態度に胸を痛めた事も。
全ての予定をキャンセルし、一人で門出となるはずだった日を過ごした事も。
次第に精神に限界をきたし始めたのか、ページ一面に同じ言葉だけが綴られるようになっていく。
何で、どうして?
誰も悪くない。
辛い、苦しい。
寂しい。
…助けて、と。
徐々に乱れていく筆跡は、文字に書き起こして必死に己に言い聞かせていた何よりの証であり、不自然に用紙に円形の凹凸があるのは、彼女の零した涙の痕だろう。
途中で書くことすらやめてしまったのか、殆ど黒に塗りつぶされたページが続いた後に残された用紙には何も記されていなかった。
それでも、私の指は無意識にページを捲り続けていく。
もう、彼女の言葉はきっとない。
そう思いながらも最後のページをめくった時、苦しい日々の中で唯一、彼女の心からの願いとも言える本音が一言だけ記されていた。
ーーー建人さんのお嫁さんになりたかった。あの人と幸せになりたかった。
五条さんの言っていた彼女の本音は、どこまでも一途に私に向けた愛で満ちていた。
「…アナタと言う人は…」
私はその日、初めて声を上げて泣いた。
感情を抑える事もせず、みっともなく彼女の名前を呼び続け、ただひたすらに彼女を求めて悲鳴を上げた。
たった一ヶ月程度。
されど数十日…。
真那が苦しみ抜いた日々には到底及ばないとわかっている。
…その日、私はやっと彼女の死を本当の意味で受け入れたのだろう。
二度と会えない、触れることすら叶わないと。
それでもアナタは焦がれ続ける私の唯一であり、最愛の女性なのだと。
次にやってきた彼女からの贈り物は、私の予想しないものとなる。
腑抜けとなって居た穴を埋めるために五条さんの指示で出張に駆り出され、数日後に高専へ戻った私の元に新田さんが訪れると、彼女が差し出したのは一冊のノートだった。
今にも泣き出しそうな顔をした新田さんは、さぞ私に対して怒りを抱いている事だろう。
彼女が補助監督になってから一人立ちするまでの間、真那はずっと付きっきりで仕事を教えていた。
どうすれば効率よく仕事をこなせるか。
呪術師へのサポートの中でも何に重きを置くべきか。
考え抜いて丁寧な資料を作り、それは今でも新人教育の時に大いに役立っていると聞いている。
「これ…真那さんから、預かったものっス…」
「…ありがとうございます」
震える手で差し出された、少し古びたノート。
その中身を一ページずつ確認していくと、それは彼女の書き残した料理のレシピだった。
私は自身に少し流れる血とハーフの母親の影響か日本人とは言っても洋食ばかりを好んで食べていた。
反面、彼女は和食を作るのがとても上手く、家庭的な優しい味の料理を作ってくれる人だった。
このノートには、二年間の間で私が特に気に入ったものばかりが記されている。
互いに料理を振る舞い合い、どんな風に作るのかと会話を弾ませ、並んだキッチンで一緒に料理を作った思い出が私の脳裏を掠めていくと新田さんの震えた声が私を現実に引き戻した。
「七海さん。真那さんの事…まだ好きっスか?」
「…勿論です。私にこんな事をいう権利もないですが好きなんて言葉では足りない。心の底から、愛していますよ」
「真那さん、何で…死んじゃったんスか…。こんなのあんまりじゃないっスか」
「私もそう思って居ます。アナタがこうして悲しんで泣いてくれて、少しは真那も報われる。…ありがとうございます」
子供のように泣きじゃくる新田さんの姿は私の胸に棘を刺した。
どんなに叫んでも、嘆いても返っては来ない最愛の人。
…その言葉を何度私も胸の内で叫んだ事か。
私は新田さんが泣き止むまでその場に止まり、溜まりに溜まった報告書を提出してから碌に帰れなかった自宅の扉を潜る。
久しぶりに自炊をしようと思うと先程、指南書をもらったからか彼女の味が無性に恋しくなり、書いたレシピ通りに料理を作ってみたまではよかったが、それは思い出の味とは到底程遠いものだった。
分量も材料も同じだというのに…何かが違う。
そして、一人で食べる食事がこんなに味気ないものだとは思わなかった。
「寂しい、ですね」
視線を向けた先には彼女が遺した物があちらこちらに置かれている。
彼女の遺品は全て私が引き取り、処分してほしいと頼んでいたウェディンググッズも、京都に持って行くつもりだった荷物も何もかも一切を誰にも触れさせず、自分の内側に抱え込んだ。
…それでも、この家には彼女の名残が感じられない。
私が自ら気味が悪いと言って真那と暮らす筈だった家を引き払ってしまったのだから当然だ。
ソファもベッドも食器さえも全て買い替え、徹底的に真那の存在を自らの中から排除したのだから。
…本当に愚かな事をした。
どれだけ彼女の私物を置いてみても、当たり前にあった彼女の姿が欠片ほども残っては居ない孤独な城は、私一人で暮らすには大きすぎる。
「…会いたいです」
写真の中の彼女に話し掛けた所で返事などないのに、気がつけばそうせずにはいられなくなって居た。
そこにはどの写真を見ても、私の隣で幸せそうに微笑む真那の姿があるから。
真那が居なくなってまだ十日程度しか過ぎて居ないと言うのに、日々募る寂しさに蝕まれて行く感覚がする。
確かに誰かと話すのは気休めになる。
けれど根本的な解決策にはなりはしない。
表面上は何とか取り繕えるようにはなったが家に帰った途端に孤独に苛まれていく。
次第に泥酔するほど酒を飲まなくては眠れなくなり、そんな私に呆れたのか…彼女は私の夢の中には、まだ一度も現れては居なかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
真那が亡くなり三週間程が過ぎた頃。
一人の時間に耐え兼ね始めた私は常々労働はクソだ、残業はクソだと公言して居たにも関わらず任務でその穴を埋めるようになった。
その時だけは気が紛れる。
何より、私の任務に向かう背中が好きだと言ってくれた彼女の言葉に報いたいと、何かに取り憑かれたように任務ばかりをこなして居た。
今日も朝から幾つもの任務に向かい、やっと高専に戻ったのは黄昏時をとうに過ぎた頃だった。
「おつかれサマンサ〜!!!相変わらず辛気臭い顔してるね」
「余計なお世話です」
「三週間で顔つきが死人から呪霊に変わってんじゃん。その内祓われるよ?」
「…いっそ祓ってくれたら直ぐにでも真那の元に行けます」
五条さんとのやり取りもすっかり後ろ向きものばかりに変わって居る。
いくら真那が寂しくないようにと心を配ってくれたとしても、私には彼女が居なければ意味がない。
そんな私に構うこともなくこの人は相変わらず好き勝手な事ばかりを言うが、腫れ物に触るような扱いをされないと言うのは存外、心地が悪くは無かった。
「まぁ、そう死にたがるなよ。真那の最期の贈り物、渡してやるから。って言っても捨てようとしてたのを半ば無理矢理回収したんだけどさ」
そう言った五条さんは私を職員寮のロビーへと招き、自室に一度戻ると一つの小さな箱を抱えて戻ってきた。
手紙、ネクタイ、料理のレシピ。
明らかに、これまでとは異質と言える質量と形に五条さんは早く開けてよ、と私を急かす。
けれど私の手は箱に触れたまま指が動かなくなって居た。
真那は共通の親しい人たちに様々なものを託し、五条さんがこれは最期の贈り物だと言って居た。
即ち、これを開けてしまったらもう彼女のからの唐突な贈り物は無くなってしまうという事になる。
私はこんなにも臆病だったのかと己に問いかけたくなる程、今の私は誰の目から見ても情けない男だろう。
「ねぇ、見ないなら僕が開けてもいい?」
「嫌です。触らないでください」
「じゃあ、ちゃんと見てやれよ。惚れた女が自分に遺した最期の贈り物だろ」
最近の五条さんは軽薄な態度と薄皮一枚のところで棘のような鋭さを持っている。
それは私の不甲斐なさが原因なのだろうけれど、この裏表の激しさは触れてほしく無い箇所を容赦なく抉るからこそ事実だとしても少し堪えるものがある。
このまま躊躇い続け、中身を確認しなければ本当に五条さんの好き勝手にされかねないし、それは何としてでも避けたい所。
やっとの思いで箱に手を掛けると隣の先輩呪術師は子供のように目を輝かせ始め、やがて箱の中身を確認すると首を傾げた。
「これ何。箱の中に箱?」
中から出てきたのは重くもなく、軽過ぎるわけでも無い両手に収まる程の大きさの箱だった。
蓋の部分には繊細な彫刻が施されており、芸術品を思わせる。
しかし、これを託した彼女の意図が全く伝わることが無く蓋を開けた時、私の耳に懐かしい音が響いて居た。
「…これは」
「なに、オルゴール?」
「…真那が、好きだった曲です」
彼女が事あるごとに口ずさんでいた歌は結婚式のBGMにもしようと話していた程に彼女が気に入っているものだった。
心安らぐ音色はまるで真那の声のようにも思え、私は一時瞼を下ろして耳を傾ける。
暫くして奏で続けた音が止み、瞳を開けた時に蓋の内側を覗くとそこには写真が飾れるようになっており、中は空かと思いきや…私へのメッセージが刻みこまれていた。
ーーーいつかの年、二月二十九日の貴方へ
「…そういう事ですか」
まるで霧が晴れるように己の中の疑問が解けていく。
…私に内緒でこんな事まで調べ上げ、準備をしていたのなら…もうお手上げとしか言いようがない。
彼女を失くして、久々に口元にだけでも笑みが浮かんだ。
冷たくなった心に、血が通った気がした。
真っ暗だった道の先に、吹けば直ぐに消えてしまう程であっても明かりが灯った気がした。
やはり、駄目です。
どれほどアナタが私の幸せを願ってくれていたとしても。
…私は、アナタでなくては駄目なんです。
これは私が自分に都合よく彼女の意思を解釈しただけなのかも知れない。
けれど、まるでそれが彼女の意志の全てのようにさえ感じると、私は指で箱の輪郭をなぞった。
恐らく蓋の部分には式の写真、オルゴールの中にはリングピローを入れるつもりだったのだろう。
…帰ったら、私はそれらをしてやらなければならない。
「ねぇ、この日付って何。僕にも教えてよ」
「…デンマークでは古い習わしとして二月二十九日のみ、女性から男性へのプロポーズが許されているんです。
断る場合には女性へストッキングか手袋を十二枚送らなければならないという不思議なものですが、自分もプロポーズをしてみたかったなどと言って居たので、きっと真那はそれをするつもりだったんでしょう」
二月に式を挙げたいと言い出した時、屋外だから寒いし不向きではないかと私は言った気がする。
その時は年度末に入ってしまうとただでさえ忙しい五条さんや学長が更に忙しくなる時期だし、四月に入れば新入生の為に時間を割くことになるからこの時期が適切なんだと言う真那の言葉を鵜呑みにしていたが…。
こんな仕掛けまで用意していたとなれば彼女は相当な策士だろう。
「なにそれウケる。十二枚とか要らなくない?」
「それは昔からの習慣なので何とも言えません。ですが…生憎それらを渡すことは出来ないので、私は彼女のプロポーズを受けるしか有りません」
「回収した時、僕基準で良いから七海が死にそうに見えたら渡して欲しいって言われてたけど。やっば、最高の呪いじゃん。
あの子さ、ほんとオマエの事しか考えたなかったんだよね。五年後、十年後、オマエが誰かと結ばれて幸せで居てくれたら良いって。その中に、自分の幸せがあるってさ」
「…私には生涯、彼女だけですよ。他は要らない。私が妻にしたいのは今もこれからも、彼女一人なんです」
アナタは果たしてそれを許してくれるのだろうか。
けれど、アナタ以外の人を隣に置くつもりなど私には毛頭ない。
季節は十月も半ばを過ぎて、すっかり秋の訪れを感じさせるものへと変わっていった。
彼女のいない世界に耐え難いほどに苦しくなり、衝動的になりたくなることがないと言えば嘘になる。
…それでも、今夜はきっと夢の中でアナタに会える気がする。
「なぁ、ちょっとは気持ち晴れた?本当はさ、もっと真那が長生きしてオマエが記憶なくしたまま誰かと幸せになってたらそれぞれ預かってたものは全部処分しようと思ってたんだよ。
それが真那の意向でもあったし。…たださ、早過ぎたよなぁ…」
「本当に、罪な人です…。もっと自分の幸せを考えてくれたら良かったのに」
「まぁ人間、生まれた以上平等に訪れるのは死だけなんだけどね。最強の僕だって何れ死ぬ。
でも、それがいつになるかなんて誰にも解りゃしないし、僕たちにはきっと平穏な死なんて来ちゃくれない。オマエさ、これ読みたい?真那の本心」
「… まだ、何か遺されて居るんですか?」
彼女の本心という言葉に私の心はあからさまに動揺していた。
手紙にもこれまでの贈り物にも溢れても尚注がれる愛情ばかりを感じていたからだ。
憎んでくれたらよかったと思ったし、蔑まれるのは当然だと分かっている。
けれど今になってあからさまに動揺して居る私は本当に弱い人間なのだろう。
「これまで渡すつもりは無かったんだけど、偶然見つけた真那の日記。一通り見たけど、彼女の本心は全部その中にあるよ。明日ちゃんと出勤出来るなら、今日はもう良いから帰れ」
差し出された少し分厚い手帳は、真那が昔からその日の些細な出来事を書き記していた見覚えのあるものだった。
この中に何が記されているのか。
少なくとも、彼女の心が垣間見れるのは間違いない。
絶対に来いよと何度も私に念を押す五条さんの言葉にしっかりと返事を返した私は、その内容が知りたい反面知るのが恐ろしかった。
それでも、知るべきなのだろう。
自宅にたどり着いた私は彼女のオルゴールをテーブルに置き、その音色に耳を傾けながら恐る恐る手帳のページを開いた。
初めは付き合っている頃の何気ない日常の事ばかりだった。
どこに行った、何を食べた、どんな話をした。
その端々に幸せだと言う思いが滲んで居り、私も自然と当時の光景を脳裏に描く。
式場を決める為に悩んだこと、ドレスの試着が楽しかったこと、招待状が出来たこと。
少しずつ、幸せの絶頂から突き落とされる瞬間へと近づいていくと私の指は震え始めていく。
…最初に書かれていてのは忘愛症候群と言う病についてのことだった。
家入さんから聞いた情報では到底納得して出来なかったのだろう。
出来るはずかない。
あらゆる情報を掻き集めて、それでも治療法がないと言う事実に嘆く様子が書かれていた。
私の態度に胸を痛めた事も。
全ての予定をキャンセルし、一人で門出となるはずだった日を過ごした事も。
次第に精神に限界をきたし始めたのか、ページ一面に同じ言葉だけが綴られるようになっていく。
何で、どうして?
誰も悪くない。
辛い、苦しい。
寂しい。
…助けて、と。
徐々に乱れていく筆跡は、文字に書き起こして必死に己に言い聞かせていた何よりの証であり、不自然に用紙に円形の凹凸があるのは、彼女の零した涙の痕だろう。
途中で書くことすらやめてしまったのか、殆ど黒に塗りつぶされたページが続いた後に残された用紙には何も記されていなかった。
それでも、私の指は無意識にページを捲り続けていく。
もう、彼女の言葉はきっとない。
そう思いながらも最後のページをめくった時、苦しい日々の中で唯一、彼女の心からの願いとも言える本音が一言だけ記されていた。
ーーー建人さんのお嫁さんになりたかった。あの人と幸せになりたかった。
五条さんの言っていた彼女の本音は、どこまでも一途に私に向けた愛で満ちていた。
「…アナタと言う人は…」
私はその日、初めて声を上げて泣いた。
感情を抑える事もせず、みっともなく彼女の名前を呼び続け、ただひたすらに彼女を求めて悲鳴を上げた。
たった一ヶ月程度。
されど数十日…。
真那が苦しみ抜いた日々には到底及ばないとわかっている。
…その日、私はやっと彼女の死を本当の意味で受け入れたのだろう。
二度と会えない、触れることすら叶わないと。
それでもアナタは焦がれ続ける私の唯一であり、最愛の女性なのだと。