愛と言う名の咎
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七海 side
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
これを読んでいる時に貴方が絶望の淵にいない事を願います。
突然の出来事でした。
貴方は忘愛症候群という病に侵され、一夜にして私との記憶、感情の全てを失ってしまいました。
ですがそれは愛情深い貴方だからこそ、罹ってしまった病とも言えます。
想像もつかない出来事に私はとても驚き、困惑しました。
けれど幸い症状は貴方が私を忘れてしまったと言うことだけで、他には一切の支障がないと聞いた時には安堵したのを覚えています。
忘愛症候群とは愛するものを例外なく忌み嫌い、嫌悪するもので、治療方は愛する者の死しか無いのだと知って途方に暮れました。
もう、貴方との日々が戻らないと知って絶望もしました。
けれど、誰も悪くは無いんです。
貴方が悪いわけでも、私が悪いわけでも無く、仕方が無い事なのだと割り切るしかありませんでした。
家入さんには時が来たらこの手紙を渡すようお願いして有ります。
私が此処を去ってからどれだけの月日が流れたのかは分かりませんが、貴方がこれを読んでいる時、私は既に不帰の客となっているのでしょう。
散りゆく時は戻りません。
それでも、私はとても幸せでした。
貴方は優しいから無理かも知れないけれど、どうか自分を責めないでください。
愛しています。
ずっとずっと。
貴方のこれからの幸せを願っています。
どうか、こちらにはゆっくり来てください。
もしも、もう一度巡り会えたら貴方のお話をたくさん聞かせて下さい。
側で貴方の幸せを見届けられたら十分だと何度も己に言い聞かせましたが…私には少し辛すぎました。
貴方を思い出に出来なかった私を、どうか許してください。
ひだまりのような残夢で会える事を願っています。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「…馬鹿な人だ…」
読み終えた私の口から吐き捨てるように紡げたのは、自分を想い続けた彼女に対する憎まれ口だった。
愛していると言いながら、訳の分からない病のせいで自分を蔑ろにした男のことなどさっさと忘れて仕舞えばよかったのだ。
罵詈雑言を浴びせて自分も心底嫌いだと…いっそ呪うくらいに憎んでくれたら良かった。
恨み言を書き連ねて、死んでも許さないと言ってくれた方がまだマシだった…。
それなのに、彼女は最期まで私を忘れられなかった事を許してほしいと希い、私の幸せさえ望んで居た。
…私は彼女を不幸のどん底に突き落とした張本人だと言うのに。
「どこまで馬鹿なんですか…」
誰もが綺麗だと言うであろう、お手本のような彼女の綴った文字の一つ一つを指でなぞり、私は自分の目頭を押さえた。
アナタはどんな思いでこれまで過ごして来たんですか。
どんな思いでこの手紙を書いたのですか。
…どんな思いで私の幸せを願ったのですか。
勝手な言い分だと分かっていても、私の幸せはアナタがいなければ在りはしないと言うのに。
誰よりも幸せにするつもりだった。
アナタは春の暖かい日差しのような人だった。
頬を染める姿は桜を思わせ、拗ねた顔も、泣き顔さえもこれ以上ない程に愛おしいものだったのに…。
私の愛情を受けてすくすくと育ち、見事に咲いた唯一の存在。
私は満開に咲き誇った花を毟り取り、自らの足で踏み躙ったのだ。
冷たいベッドからは彼女の香りが漂うのに、そこに在るべき姿は二度と私の目に映ることがないと言う事実が虚しさに拍車を掛ける。
忘愛症候群…なんて馬鹿げた病いなのか。
なんと恐ろしく、残酷な病いなのか。
あの時の私はどうしようもなく彼女を憎く思っていた。
愛と憎は表裏一体。
溢れすぎた愛情が一転してしまったものがこの病いだと言うのならば、愛ほど歪んだ呪いはこの世に存在しないだろう。
…何故、私達だったのかと泣き叫びたくなる。
何を犠牲にしても構わないから彼女を返してほしいと、心の底からそう思っているのに。
私の願いなど届きはしない。
抜け殻のようにベッドに佇む私は、彼女との思い出を反芻し続けた。
時間の経過も忘れるほどずっと…ずっと彼女の事しか考えて居なかったし、考えられなかった。
食事や睡眠すら忘れてしまうほどの長い間真那の部屋で自問自答を繰り返し、様子を見に来た家入さんと五条さんが私を部屋から引き摺り出した時には、翌々日の昼をとうに過ぎていた。
「オマエ馬鹿なの?その内気持ち切り替えて出て来るかと思ったら二日も引き篭もって任務もほったらかし、おまけに今にも死にそうな顔して惚れた女の部屋でメソメソと。それで真那が生き返るとでも思ってんの?」
「五条、言葉を選べ」
「事実だろ」
「この病に関しては症例こそ少ないが誰しもが起こり得る。そして誰も悪くはない。ただ…あまりにも救われないだけだ。それとな七海…言いにくい事だが腕は、こちらで然るべき処置をする。…もう、離してやれ」
座り込むベッドだけを変えた私に対して五条さんの辛辣な言葉が突き刺さった。
二晩抱き続けた腕は簡易的な腐敗処置は施されていたものの、残暑の季節となれば早いうちに弔うべきなのだと言うのは理解できる。
しかし、疲弊しきった精神ではその言葉はまるで真那を自身から解放してやれと言われているようにも聞こえ、私は無言のまま青白い腕を眺め居た。
遺体の無い死は呪術師にとっては当たり前だ。
半身が残されていただけでも御の字、五体満足で帰ってこれる事など稀と言える。
けれど、たった腕一本だ。
呪術師よりも幾分かは危険から遠ざかる筈の、補助監督である真那が遺した身体。
私が許された最愛の人との別れは、死顔を見ることも叶わないものとなった。
いつまでもこうしていて良いはずがない事くらいはわかっている。
けれど…今は何を言われても、何の気力も湧いてこない。
「ほら、とにかくそれ寄越しなよ。可哀想だろ、いつまでも火葬すらしてやれないなんて。…目を逸らすな、ちゃんと見送れ。オマエがしてやれる事はそれだけだろ」
「…そうですね」
骨になるまで抱えて居たいと言う気持ちさえあった私を一時でも正気に戻したのは五条さんの言葉だった。
良くも悪くもこの人は容赦がない。
それは灰原雄や夏油さんの件を乗り越え、私のように逃げることもせず呪術界に身を置き、上層部の在り方を変えたいと言う信念と強さがあってのものだろう。
自分に出来ることはないも無いと思って居た私にとって、唯一出来ることはこの腕を手放して見送ってやる事なのだと認識させられた気がした。
本音を言えば離れ難いが、してやれる事があると思えただけでも僅かに救われた気もする…。
私の元にやってきた家入さんに彼女を託すと、納得して渡した筈なのに無意識に行くなどでも言うように私の手は彼女を追いかける。
大事なものの全てが抜け落ちてしまったような感覚さえ抱いた。
「…すみません、少し待って下さい」
「どうした」
今更返してほしいなど子供じみた真似は出来ない。
ベッドから立ち上がった私は家入さんの腕の中で大切に抱えられた彼女に手を伸ばし、最期にもう一度と硬直しきった指先に自分の指を絡める。
ベッドの中で、真那はこうして指を絡めて眠るのが好きだった。
恥ずかしそうに頬を染めながら、絡めた指先を遊ばせ、私に擦り寄る姿はそれは愛おしいものだった…。
「これは、少し預からせて下さい」
薬指を飾る指輪を、肌を傷つけないように私はゆっくりと外した。
それは以前、指輪が出来上がり二度目のプロポーズをした時とは全く逆の行いで有り、己に向けて嘲笑しか浮かばない。
彼女の部屋で過ごす間にもしかしたらと期待を込めて簡単に探しては見たものの、私の指輪は見当たらなかった。
彼女がきっと持っていったのだろう。
大切な結婚指輪までも不用品だと私は突き返したと言うのに…それを最期まで身に着けて居たのかと考えたら、やり切れない気持ちになる。
私の小指でも到底入るとは思えない細い指輪を両手で握りしめ、祈るように拳を額に押し当てれば瞼の裏に満面の笑みを浮かべて微笑む真那の姿がちらついて…離れてはくれない。
「そうすると思った。七海、これあげるよ。そのまま持ち歩いて落としたりしたら本当に目も当てられないから。明日からはちゃんとしろよ」
「…はい」
差し出されたのはシルバーのチェーンだった。
私がずっと腕を抱えたままだった事から、いずれこうする事を予想して居たのか…。
この人の見識はたまに恐ろしいものが在る。
私の指では小さすぎる彼女の指輪。
内側には互いを守れるようにと私の誕生石を埋め込んだそれは…彼女を守ってなどくれなかった。
心も身体も…その命さえ、何一つ守ってはやれなかった。
「それとさ、オマエ今から伊地知の所行って来い。あ、これ拒否権ないから」
「…わかりました」
家入さんは始終五条さんの言い方について嗜めて居たが、きつい口調の中にも大切な人を失った経験をしているからか、その言葉には納得できるものがある。
何より、繁忙期は終えたと言えど日々任務は山のようにやってくる。
今はまだ気持ちの整理がつかないが、いつまでも腑抜けて居て良い訳ではない…。
無理矢理にでも気持ちは切り替えなければならないし、それが呪術師と言う我々の在り方で、彼女が好きだと言ってくれた…私なのだろう。
嘆く事も懺悔さえも一人、家の中で過ごす間に出来る。
だとしたら今は、己に出来る最善を尽くせ。
誰かと言葉を交わすと言うのはどうしようもない虚無感に襲われた時、救いにもなるのだろう。
明日からの任務の確認もあるからと私が伊地知君の元を訪れるとそこにはまた一つ、彼女の愛の欠片が残されていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
私が彼の元に辿り着いた時、既に真那のデスクにはものが一切置いてはなかった。
時折聞こえるのは彼女が居なくなって心底清々したという罵りの言葉。
今になってやっと己の愚行が私の預かり知らぬ所で更に彼女を傷つけていたことを知り、打ちのめされる思いだった。
私の言葉だけを鵜呑みにして彼女を悪と断定した彼らに怒りが湧かないはずは無い。
しかし、その原因が私なのだと思えば彼らを責められるはずも無い。
真那の死亡は公にはされなかった。
手続き上ではそのまま京都に移動した事になっており、彼女の死を知る者は補助監督の中では伊地知君と真那が可愛がっていた新田さんの二人のみとなるらしい。
周囲の悪意ある言葉を聞くに絶えず、伊地知君が気を利かせてくれて場所を移すと彼は不意に私に何かを差し出した。
「七海さん、此方を…」
「何ですか」
「真那さんから託されました。渡す事は叶わなかったけれど、お誕生日のプレゼントだと…」
京都に行ってからも真那は毎年私にプレゼントを贈りたいから然るべき時まで預かってほしいと言われたのだと言う。
それを伊地知君は了承し、彼女の意思を尊重したのだと。
毎年送ると言われ、幾つになるかも解らないと思われたプレゼント。
…たった一つしか受け取れなかった、真那からの贈り物。
その場で包装紙を外し、細身の箱の中を恐る恐る開けると中にはネクタイとメッセージカードが入っていた。
ーーーお誕生日、おめでとうございます
彼女は毎年、直接受け取っても貰えず、いつ渡せるかもわからないプレゼントを送り続けるつもりだったのだろうか。
それを見た瞬間、伊地知君は目元を押さえて嗚咽を堪えていた。
それは自分が居なくなった時、私が全てを思い出した時、誰かと繋がり話を出来る様にと言う彼女の心配りだったのかもしれない。
孤独というのは自分で思う以上に精神を蝕むものだと二日間、真那の部屋で過ごした私はそれを実感したばかりだった。
事情を知り、彼女の死を悼んでくれるほんの僅かな人たちとの繋がりは、私にとって救いにも近いものだったと言える。
「七海さん。後日…新田さんを訪ねて頂けませんか」
「…わかりました」
己を律するために私は深く、深く呼吸をして息を吐き出す。
涙が出そうな程に彼女からの深い愛情を感じていた。
そして、自分の首に巻いたネクタイを引き抜いた私は、真那がくれたネクタイを巻き直す。
ものを贈る事に意味を求めるなら、ネクタイとは大切な人を想う気持ちなのだという。
…真那。
私もアナタが大切ですよ。
アナタを、心から愛しています。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
これを読んでいる時に貴方が絶望の淵にいない事を願います。
突然の出来事でした。
貴方は忘愛症候群という病に侵され、一夜にして私との記憶、感情の全てを失ってしまいました。
ですがそれは愛情深い貴方だからこそ、罹ってしまった病とも言えます。
想像もつかない出来事に私はとても驚き、困惑しました。
けれど幸い症状は貴方が私を忘れてしまったと言うことだけで、他には一切の支障がないと聞いた時には安堵したのを覚えています。
忘愛症候群とは愛するものを例外なく忌み嫌い、嫌悪するもので、治療方は愛する者の死しか無いのだと知って途方に暮れました。
もう、貴方との日々が戻らないと知って絶望もしました。
けれど、誰も悪くは無いんです。
貴方が悪いわけでも、私が悪いわけでも無く、仕方が無い事なのだと割り切るしかありませんでした。
家入さんには時が来たらこの手紙を渡すようお願いして有ります。
私が此処を去ってからどれだけの月日が流れたのかは分かりませんが、貴方がこれを読んでいる時、私は既に不帰の客となっているのでしょう。
散りゆく時は戻りません。
それでも、私はとても幸せでした。
貴方は優しいから無理かも知れないけれど、どうか自分を責めないでください。
愛しています。
ずっとずっと。
貴方のこれからの幸せを願っています。
どうか、こちらにはゆっくり来てください。
もしも、もう一度巡り会えたら貴方のお話をたくさん聞かせて下さい。
側で貴方の幸せを見届けられたら十分だと何度も己に言い聞かせましたが…私には少し辛すぎました。
貴方を思い出に出来なかった私を、どうか許してください。
ひだまりのような残夢で会える事を願っています。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「…馬鹿な人だ…」
読み終えた私の口から吐き捨てるように紡げたのは、自分を想い続けた彼女に対する憎まれ口だった。
愛していると言いながら、訳の分からない病のせいで自分を蔑ろにした男のことなどさっさと忘れて仕舞えばよかったのだ。
罵詈雑言を浴びせて自分も心底嫌いだと…いっそ呪うくらいに憎んでくれたら良かった。
恨み言を書き連ねて、死んでも許さないと言ってくれた方がまだマシだった…。
それなのに、彼女は最期まで私を忘れられなかった事を許してほしいと希い、私の幸せさえ望んで居た。
…私は彼女を不幸のどん底に突き落とした張本人だと言うのに。
「どこまで馬鹿なんですか…」
誰もが綺麗だと言うであろう、お手本のような彼女の綴った文字の一つ一つを指でなぞり、私は自分の目頭を押さえた。
アナタはどんな思いでこれまで過ごして来たんですか。
どんな思いでこの手紙を書いたのですか。
…どんな思いで私の幸せを願ったのですか。
勝手な言い分だと分かっていても、私の幸せはアナタがいなければ在りはしないと言うのに。
誰よりも幸せにするつもりだった。
アナタは春の暖かい日差しのような人だった。
頬を染める姿は桜を思わせ、拗ねた顔も、泣き顔さえもこれ以上ない程に愛おしいものだったのに…。
私の愛情を受けてすくすくと育ち、見事に咲いた唯一の存在。
私は満開に咲き誇った花を毟り取り、自らの足で踏み躙ったのだ。
冷たいベッドからは彼女の香りが漂うのに、そこに在るべき姿は二度と私の目に映ることがないと言う事実が虚しさに拍車を掛ける。
忘愛症候群…なんて馬鹿げた病いなのか。
なんと恐ろしく、残酷な病いなのか。
あの時の私はどうしようもなく彼女を憎く思っていた。
愛と憎は表裏一体。
溢れすぎた愛情が一転してしまったものがこの病いだと言うのならば、愛ほど歪んだ呪いはこの世に存在しないだろう。
…何故、私達だったのかと泣き叫びたくなる。
何を犠牲にしても構わないから彼女を返してほしいと、心の底からそう思っているのに。
私の願いなど届きはしない。
抜け殻のようにベッドに佇む私は、彼女との思い出を反芻し続けた。
時間の経過も忘れるほどずっと…ずっと彼女の事しか考えて居なかったし、考えられなかった。
食事や睡眠すら忘れてしまうほどの長い間真那の部屋で自問自答を繰り返し、様子を見に来た家入さんと五条さんが私を部屋から引き摺り出した時には、翌々日の昼をとうに過ぎていた。
「オマエ馬鹿なの?その内気持ち切り替えて出て来るかと思ったら二日も引き篭もって任務もほったらかし、おまけに今にも死にそうな顔して惚れた女の部屋でメソメソと。それで真那が生き返るとでも思ってんの?」
「五条、言葉を選べ」
「事実だろ」
「この病に関しては症例こそ少ないが誰しもが起こり得る。そして誰も悪くはない。ただ…あまりにも救われないだけだ。それとな七海…言いにくい事だが腕は、こちらで然るべき処置をする。…もう、離してやれ」
座り込むベッドだけを変えた私に対して五条さんの辛辣な言葉が突き刺さった。
二晩抱き続けた腕は簡易的な腐敗処置は施されていたものの、残暑の季節となれば早いうちに弔うべきなのだと言うのは理解できる。
しかし、疲弊しきった精神ではその言葉はまるで真那を自身から解放してやれと言われているようにも聞こえ、私は無言のまま青白い腕を眺め居た。
遺体の無い死は呪術師にとっては当たり前だ。
半身が残されていただけでも御の字、五体満足で帰ってこれる事など稀と言える。
けれど、たった腕一本だ。
呪術師よりも幾分かは危険から遠ざかる筈の、補助監督である真那が遺した身体。
私が許された最愛の人との別れは、死顔を見ることも叶わないものとなった。
いつまでもこうしていて良いはずがない事くらいはわかっている。
けれど…今は何を言われても、何の気力も湧いてこない。
「ほら、とにかくそれ寄越しなよ。可哀想だろ、いつまでも火葬すらしてやれないなんて。…目を逸らすな、ちゃんと見送れ。オマエがしてやれる事はそれだけだろ」
「…そうですね」
骨になるまで抱えて居たいと言う気持ちさえあった私を一時でも正気に戻したのは五条さんの言葉だった。
良くも悪くもこの人は容赦がない。
それは灰原雄や夏油さんの件を乗り越え、私のように逃げることもせず呪術界に身を置き、上層部の在り方を変えたいと言う信念と強さがあってのものだろう。
自分に出来ることはないも無いと思って居た私にとって、唯一出来ることはこの腕を手放して見送ってやる事なのだと認識させられた気がした。
本音を言えば離れ難いが、してやれる事があると思えただけでも僅かに救われた気もする…。
私の元にやってきた家入さんに彼女を託すと、納得して渡した筈なのに無意識に行くなどでも言うように私の手は彼女を追いかける。
大事なものの全てが抜け落ちてしまったような感覚さえ抱いた。
「…すみません、少し待って下さい」
「どうした」
今更返してほしいなど子供じみた真似は出来ない。
ベッドから立ち上がった私は家入さんの腕の中で大切に抱えられた彼女に手を伸ばし、最期にもう一度と硬直しきった指先に自分の指を絡める。
ベッドの中で、真那はこうして指を絡めて眠るのが好きだった。
恥ずかしそうに頬を染めながら、絡めた指先を遊ばせ、私に擦り寄る姿はそれは愛おしいものだった…。
「これは、少し預からせて下さい」
薬指を飾る指輪を、肌を傷つけないように私はゆっくりと外した。
それは以前、指輪が出来上がり二度目のプロポーズをした時とは全く逆の行いで有り、己に向けて嘲笑しか浮かばない。
彼女の部屋で過ごす間にもしかしたらと期待を込めて簡単に探しては見たものの、私の指輪は見当たらなかった。
彼女がきっと持っていったのだろう。
大切な結婚指輪までも不用品だと私は突き返したと言うのに…それを最期まで身に着けて居たのかと考えたら、やり切れない気持ちになる。
私の小指でも到底入るとは思えない細い指輪を両手で握りしめ、祈るように拳を額に押し当てれば瞼の裏に満面の笑みを浮かべて微笑む真那の姿がちらついて…離れてはくれない。
「そうすると思った。七海、これあげるよ。そのまま持ち歩いて落としたりしたら本当に目も当てられないから。明日からはちゃんとしろよ」
「…はい」
差し出されたのはシルバーのチェーンだった。
私がずっと腕を抱えたままだった事から、いずれこうする事を予想して居たのか…。
この人の見識はたまに恐ろしいものが在る。
私の指では小さすぎる彼女の指輪。
内側には互いを守れるようにと私の誕生石を埋め込んだそれは…彼女を守ってなどくれなかった。
心も身体も…その命さえ、何一つ守ってはやれなかった。
「それとさ、オマエ今から伊地知の所行って来い。あ、これ拒否権ないから」
「…わかりました」
家入さんは始終五条さんの言い方について嗜めて居たが、きつい口調の中にも大切な人を失った経験をしているからか、その言葉には納得できるものがある。
何より、繁忙期は終えたと言えど日々任務は山のようにやってくる。
今はまだ気持ちの整理がつかないが、いつまでも腑抜けて居て良い訳ではない…。
無理矢理にでも気持ちは切り替えなければならないし、それが呪術師と言う我々の在り方で、彼女が好きだと言ってくれた…私なのだろう。
嘆く事も懺悔さえも一人、家の中で過ごす間に出来る。
だとしたら今は、己に出来る最善を尽くせ。
誰かと言葉を交わすと言うのはどうしようもない虚無感に襲われた時、救いにもなるのだろう。
明日からの任務の確認もあるからと私が伊地知君の元を訪れるとそこにはまた一つ、彼女の愛の欠片が残されていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
私が彼の元に辿り着いた時、既に真那のデスクにはものが一切置いてはなかった。
時折聞こえるのは彼女が居なくなって心底清々したという罵りの言葉。
今になってやっと己の愚行が私の預かり知らぬ所で更に彼女を傷つけていたことを知り、打ちのめされる思いだった。
私の言葉だけを鵜呑みにして彼女を悪と断定した彼らに怒りが湧かないはずは無い。
しかし、その原因が私なのだと思えば彼らを責められるはずも無い。
真那の死亡は公にはされなかった。
手続き上ではそのまま京都に移動した事になっており、彼女の死を知る者は補助監督の中では伊地知君と真那が可愛がっていた新田さんの二人のみとなるらしい。
周囲の悪意ある言葉を聞くに絶えず、伊地知君が気を利かせてくれて場所を移すと彼は不意に私に何かを差し出した。
「七海さん、此方を…」
「何ですか」
「真那さんから託されました。渡す事は叶わなかったけれど、お誕生日のプレゼントだと…」
京都に行ってからも真那は毎年私にプレゼントを贈りたいから然るべき時まで預かってほしいと言われたのだと言う。
それを伊地知君は了承し、彼女の意思を尊重したのだと。
毎年送ると言われ、幾つになるかも解らないと思われたプレゼント。
…たった一つしか受け取れなかった、真那からの贈り物。
その場で包装紙を外し、細身の箱の中を恐る恐る開けると中にはネクタイとメッセージカードが入っていた。
ーーーお誕生日、おめでとうございます
彼女は毎年、直接受け取っても貰えず、いつ渡せるかもわからないプレゼントを送り続けるつもりだったのだろうか。
それを見た瞬間、伊地知君は目元を押さえて嗚咽を堪えていた。
それは自分が居なくなった時、私が全てを思い出した時、誰かと繋がり話を出来る様にと言う彼女の心配りだったのかもしれない。
孤独というのは自分で思う以上に精神を蝕むものだと二日間、真那の部屋で過ごした私はそれを実感したばかりだった。
事情を知り、彼女の死を悼んでくれるほんの僅かな人たちとの繋がりは、私にとって救いにも近いものだったと言える。
「七海さん。後日…新田さんを訪ねて頂けませんか」
「…わかりました」
己を律するために私は深く、深く呼吸をして息を吐き出す。
涙が出そうな程に彼女からの深い愛情を感じていた。
そして、自分の首に巻いたネクタイを引き抜いた私は、真那がくれたネクタイを巻き直す。
ものを贈る事に意味を求めるなら、ネクタイとは大切な人を想う気持ちなのだという。
…真那。
私もアナタが大切ですよ。
アナタを、心から愛しています。