愛と言う名の咎
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七海 side
それは例えるならば高く舞い上がったシャボン玉が爆ぜる様な感覚に近かった。
音を立てる事もなく、静かに割れて空に溶ける様によく似ていた。
任務を終えた移動中の車内。
そんな不思議な感覚を幾度も抱いては心地の悪さに顔を顰めたが、それは絶えず繰り返され…割れた側から何かが静かに私の中を満たしていく。
ーーー建人さん
何かが酷く暖かい声で私の名前を呼び、微笑み掛け、手を伸ばした。
最初は何が起こったのか分からなかったその光景は次第に鮮明なものとなり、その内…はっきりとした映像となって私の脳裏に映し出される。
「…真那…」
そして、はたと気づいたのは最愛の女性の存在と、己がこれまでに彼女にしてきた愚行の数々。
何よりも愛おしくて大切だと、心の底からそう思った居た女性を深く傷つけ、泣かせて悲しませたと言う事実だった。
嫌悪を超えた憎悪にも似た感情。
恐らくここ一年、私が彼女に抱いていた感情はそう表すのが適切だろう。
何故そんな事を思ったのかさえ理解できなかったが、私は確かに彼女が泣いていようが笑っていようが、ただ仕事をこなして居るだけあったとしても苛立ちを覚え憤っていた。
私の側で寄り添い、微笑む姿をこの先何があっても守り抜こうと彼女に、己に決意したばかりだったと言うのに。
はにかみながら試着したドレス姿で結婚式が楽しみだと笑っていた筈の顔が、いつしか悲嘆にくれる表情しか見せなくなった。
私の姿を見ては悲しそうに顔を歪め、私の言葉を聞くたびに細い肩を跳ねさせ怯える姿しか見なくなった。
…その全ては私の彼女に対する態度のせいだ。
私達は互いに恋愛関係だと言う事を公にはしていなかった。
だが、それは頑なに隠そうとしていたわけでは無く、問われたら否定はしないと言う程度のもの。
互いをよく知る近しい人たちには理解を得られていた為、私達はそれ良しとしていた。
それは仕事に事情を挟みたく無いと言う私に彼女がしてくれた配慮でもあったのだろう。
補助監督と呪術師恋愛というのは決して珍しいものでは無いが、それらが実を結ぶかと問われたらその数は圧倒的に少なくなる。
それはこの業界が世間の普通という概念から逸脱して居る事も要因なのだろう。
それでも私は彼女と添い遂げたいと願い、彼女もそれを受け入れてくれた。
歓喜の涙を零しながら私のプロポーズを受けてくれた彼女の姿はこの世の誰よりも輝いて見ていたはずなのに…。
一体、私は何をしていたのだろうか。
眉間に拳を押し当てながら己を落ち着かせる為に息を吐き出した私の姿を見たのか、バックミラー越しに同行していた補助監督から声が掛けられても上の空だった。
高専まであと少し…。
到着したら、直ぐにでも彼女を探し出そう。
確か今朝会った時に、彼女は京都に向かうと言っていた筈だ…。
私は何故、あの時引き止めようと思わなかったのか。
許してもらえるかは定かではないし、二度と口を聞いて貰えないかもしれない。
それでも誠心誠意の謝罪の言葉と、溢れんばかりの愛の言葉を伝え、見苦しくても情けなくても構わないから側にいて欲しいと懇願するのだと己に言い聞かせ、はやる気持ちを抑えながら私は高専に到着する時を待ち侘びた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
私が高専に到着した時、周囲は何やら慌ただしかった。
遠目に見える交流会が行われていた筈の会場では学生の戦闘にしては激し過ぎる爪痕が残され、補助監督が走り回っている。
しかし、その中に彼女の姿は見えない…。
交流会が終わるまではまだ時間がある。
二日に掛けて行われる筈の交流会の今日は初日であり、少なくとも後一日は猶予がある筈だった。
「何処だ…!」
しかし、探しても探しても彼女の姿は見当たらない。
言いようのない不安に胸を占拠され、校内を駆けずり回る私の姿は任務の時よりも余程必死だったと言える。
ふと誰かに呼び止められ、苛立ちながらも振り返るとあまりにも情けない顔をしていたのだろう。
相手は驚きに目を見開き、五条さんが私を探していたから戻り次第医務室に来るよう言付を預かったと聞いた瞬間、私は全力で廊下を駆け抜けていた。
昔から馬鹿みたいに広い校舎だとは思っていたが、これ程に遠いとは思わなかった。
五条さんや家入さんならば私のこれまでの事や彼女の事に関して必ず何かを知っている。
もしかしたら…静かに泣く彼女の側に寄り添って居るのかも知れない。
そう思うと一刻も早く駆けつけ、彼女の小さな身体を力の限り抱きしめたくて堪らなくなった。
…けれど現実は理想とはかけ離れ、恐ろしく残酷なものだ。
…奇跡など、どこにもありはしない。
「五条さん…!真那は!?」
スライド式の扉が外れんばかりの勢いで室内に雪崩れ込んだ私の姿を見て、その場にいた全員が此方に視線を注ぐ。
髪を乱し、息を切らし、それでも彼女の名前を譫言の様に呟いた私の姿に五条さんは深くため息をつき、家入さんは顔を背け、伊地知君は目頭を抑えた。
私が居るであろうと予想していた彼女の姿は、何処にも見当たらなかった。
「真那は…、真那は何処ですか」
「…オマエさ、思い出したんだ?最愛の女の事」
五条さんは私の元へやってくるといつもの様な軽薄な態度は微塵も感じさせず、静かに私に問いかける。
今にも掴みかからんばかりの勢いで彼女の所在を問う私の姿は彼らにはどう映っていたのだろうかと、そんな事を気にする余裕さえなかった。
…早く会いたい。
抱きしめて、己の腕の中に閉じ込めてしまいたいと言う衝動だけが私を駆り立てて居た。
目隠しをした五条さんからはその表情の全ては読み取ることが出来ないが、固く握り締められた拳は何かを必死に堪えて居る様にも思える。
「お願いします。彼女に…真那に、会わせて下さい」
縋り付く様な懇願。
それぞれが何かを伝え合う様に目配せする中で、私は生きた心地がしなかった。
彼女がそこまで私を拒むのならば、それを受け入れるべきなのかも知れない。
けれど…これまでにした仕打ちをせめて、一度だけでも顔を見て謝りたかった。
五条さんの肩を掴み項垂れる私を見て、彼らはどんな胸中だったのだろうか。
誰かの鼻を啜る音が響き、その理由を…私はやっと知ることになる。
「硝子、アレ持ってきて」
「…良いのか?」
「このままじゃ七海も納得なんて出来ないでしょ。ただ覚悟してしておけ。オマエに待って居るのは生優しいものじゃない」
突き放す様な五条さんの言葉。
自身を落ち着かせる為なのか深く息を吐いた家入さんと、私から隠れるようにして涙を拭う伊地知君の姿…。
やがて家入さんは何処かから真白な布に包まれた塊を持ってくると、無言のまま私に差し出した。
これが一体なんだというのか。
…私が探しているのは真那だと言うのに。
「開けてみろ」
そう促されると私の鼓動が痛いほどに脈を打った。
見なければならない、そう思うのに何故か逃げ出してしまいたい程に怖かった。
恐る恐る捲った「それ」は少しずつ全貌を明らかにし、最後の一巻きを外した時私の呼吸は止まりかけていた気さえする。
…それは腕だった。
女性のものと思われる、白く華奢な腕。
折れてしまいそうな程に細い薬指には永遠の愛の象徴の指輪が光り、彼女と似通ったつくりの「それ」はよく特徴を捉えて居て親指の付け根にある小さな黒子までもが再現されている。
「…何の真似ですか」
「それ、真那。身体はそれしか…残されて無かった」
「何を…」
まるで鈍器で頭を殴打されたような衝撃を覚えた。
これが本当に彼女の腕なのだとしたら、相当の重傷を負って居るのは間違いない。
それなのに彼らにはこんな所で何して居るのだと憤る気持ちさえ芽生え始めた時、更に私の元に差し出された幾つかの物を見た瞬間に…今度は意識さえも失いかけた気がする。
血塗れの服は彼女が補助監督として身につけていたものではなく、私と休みの日に会う時によく着ていた服だった。
落とした形跡が見られる画面の割れたスマホ、その下には血痕のついた…私と真那の写真。
どれもが彼女のものであることは疑いようもなく、だからと言ってすんなりと受け入れられるものでない。
言葉を失ったままの私に追い討ちを掛けるように語られたのは、高専が呪霊と呪詛師による襲撃を受けたことだった。
建物の損害はそれによるものらしく、待機していた呪術師も補助監督もその被害に巻き込まれたのだという。
…そしてその中に、真那も居たのだろう。
そうは言っても、腕一本無くしたとは言えまだ生存の可能性は十分にある筈だ。
それなのに…私の現状が、既に彼女がこの世にいないと言う事を確固たるものにしたのだと言う。
そんな事、誰が信じると言うのか。
「七海、真那から預かったものだ。それを読めば全部解る」
魂が抜けたかのようにその場に立ち尽くす私の間の前に差し出されたのは一枚の手紙だった。
彼女を思わせる淡い色合いの封筒に、私は震えを隠すこともせず手を伸ばす。
此処を去ると決めた時、万が一自分に何かあった時の為に彼女が託していったものだと言う手紙を握りしめ、私は手にしたままの腕と共に自分に渡された彼女の遺品となるであろう全てを抱きしめていた。
「真那の部屋、行ってやれよ。暫くは誰も近づかないようにして置くから」
私を慰めるかのように五条さんがすれ違い様に肩を叩くと部屋を後にする。
それに私は頷くことが出来ていたのだろうか…。
目元を覆い隠して号泣する伊地知君の姿に触発されたのか私の目の奥も熱くなっていくのを感じた。
どうやって彼女の部屋まで辿り着いたかさえ記憶にない。
時折人目を忍んでは訪れた室内の扉を開ければ、慣れ親しんだ彼女の香りが肺一杯に広がると言うのに…その姿は在りはしない。
私に向けて駆け寄る幻影が見えると言うのに、腕を広げても愛おしい温もりはいつまでもやって来ることがない。
数日後には此処から去る筈だった部屋の中はすっかり物が無くなり、私の胸中を表すかのように酷く寂しげに感じた。
「これは…」
荷造りの最中なのだからある程度乱雑なのは当たり前だが、普段から几帳面で不要な物はきちんと仕舞う彼女にしては不自然に置かれた、ベッドの片隅に追いやられた大きな袋。
持ち手の部分にはお手数ですが処分をお願い致します、と付箋が貼られて居り一瞬躊躇ったものの私はそれに手を伸ばす。
…そして、中身を見た瞬間にどうしようもない後悔と自責の念に駆られた。
中には彼女が寝る間も惜しんで作ったウェルカムボードやリングピローが詰め込まれていた。
私が踏みつけ、渡せずに過ぎ去ってしまった結婚式の招待状と共に…。
身体の力が一気に抜けて、私はベッドに倒れ込むように座り込んだ。
彼女は一体、どんな気持ちで不要になったからと言う文字を書いたのだろう。
この先に在る筈だった幸せな日々を心待ちにしていた彼女は…これまでにどれ程の涙を流したのだろう。
今この一瞬でさえ、私は真那の居ない世界に耐えられないと心が悲鳴を上げて居ると言うのに、それを一年も耐えたと言うのか。
…たった一人で。
後悔先に立たず、覆水盆に返らずなんて言葉は自分とは無縁だと思っていた。
この世界に身を置く以上、常に付き纏う危機に対する覚悟と共に、悔いのない選択をする様に自然と先読みをする能力が突出していくからだ。
ある程度の割り切りと共に痛みを誤魔化す術を覚えていくからだ。
しかし、今の私と言えばどうだろうか。
己の愚行に後悔しかして居ない。
何故…あんな事をしてしまったのかと。
その全ては彼女の遺した手紙に記されて居ると家入さんは言っていたが、今更知った所でどうなると言うのか。
…真那が戻ってくるわけではないと言うのに。
それでも、ほんの僅かでも彼女の軌跡を感じたいと思った。
同時に、これまで日々を過ごした本心を知りたいとも思った。
震えた指先は封筒を開けることすら儘ならず、破れそうになってしまう封を丁寧に開ける。
中には封筒と揃いの便箋が数枚入って居り、彼女の字で綴られた思いの丈を、私は主人の不在の部屋の中一人で噛み締めた。
それは例えるならば高く舞い上がったシャボン玉が爆ぜる様な感覚に近かった。
音を立てる事もなく、静かに割れて空に溶ける様によく似ていた。
任務を終えた移動中の車内。
そんな不思議な感覚を幾度も抱いては心地の悪さに顔を顰めたが、それは絶えず繰り返され…割れた側から何かが静かに私の中を満たしていく。
ーーー建人さん
何かが酷く暖かい声で私の名前を呼び、微笑み掛け、手を伸ばした。
最初は何が起こったのか分からなかったその光景は次第に鮮明なものとなり、その内…はっきりとした映像となって私の脳裏に映し出される。
「…真那…」
そして、はたと気づいたのは最愛の女性の存在と、己がこれまでに彼女にしてきた愚行の数々。
何よりも愛おしくて大切だと、心の底からそう思った居た女性を深く傷つけ、泣かせて悲しませたと言う事実だった。
嫌悪を超えた憎悪にも似た感情。
恐らくここ一年、私が彼女に抱いていた感情はそう表すのが適切だろう。
何故そんな事を思ったのかさえ理解できなかったが、私は確かに彼女が泣いていようが笑っていようが、ただ仕事をこなして居るだけあったとしても苛立ちを覚え憤っていた。
私の側で寄り添い、微笑む姿をこの先何があっても守り抜こうと彼女に、己に決意したばかりだったと言うのに。
はにかみながら試着したドレス姿で結婚式が楽しみだと笑っていた筈の顔が、いつしか悲嘆にくれる表情しか見せなくなった。
私の姿を見ては悲しそうに顔を歪め、私の言葉を聞くたびに細い肩を跳ねさせ怯える姿しか見なくなった。
…その全ては私の彼女に対する態度のせいだ。
私達は互いに恋愛関係だと言う事を公にはしていなかった。
だが、それは頑なに隠そうとしていたわけでは無く、問われたら否定はしないと言う程度のもの。
互いをよく知る近しい人たちには理解を得られていた為、私達はそれ良しとしていた。
それは仕事に事情を挟みたく無いと言う私に彼女がしてくれた配慮でもあったのだろう。
補助監督と呪術師恋愛というのは決して珍しいものでは無いが、それらが実を結ぶかと問われたらその数は圧倒的に少なくなる。
それはこの業界が世間の普通という概念から逸脱して居る事も要因なのだろう。
それでも私は彼女と添い遂げたいと願い、彼女もそれを受け入れてくれた。
歓喜の涙を零しながら私のプロポーズを受けてくれた彼女の姿はこの世の誰よりも輝いて見ていたはずなのに…。
一体、私は何をしていたのだろうか。
眉間に拳を押し当てながら己を落ち着かせる為に息を吐き出した私の姿を見たのか、バックミラー越しに同行していた補助監督から声が掛けられても上の空だった。
高専まであと少し…。
到着したら、直ぐにでも彼女を探し出そう。
確か今朝会った時に、彼女は京都に向かうと言っていた筈だ…。
私は何故、あの時引き止めようと思わなかったのか。
許してもらえるかは定かではないし、二度と口を聞いて貰えないかもしれない。
それでも誠心誠意の謝罪の言葉と、溢れんばかりの愛の言葉を伝え、見苦しくても情けなくても構わないから側にいて欲しいと懇願するのだと己に言い聞かせ、はやる気持ちを抑えながら私は高専に到着する時を待ち侘びた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
私が高専に到着した時、周囲は何やら慌ただしかった。
遠目に見える交流会が行われていた筈の会場では学生の戦闘にしては激し過ぎる爪痕が残され、補助監督が走り回っている。
しかし、その中に彼女の姿は見えない…。
交流会が終わるまではまだ時間がある。
二日に掛けて行われる筈の交流会の今日は初日であり、少なくとも後一日は猶予がある筈だった。
「何処だ…!」
しかし、探しても探しても彼女の姿は見当たらない。
言いようのない不安に胸を占拠され、校内を駆けずり回る私の姿は任務の時よりも余程必死だったと言える。
ふと誰かに呼び止められ、苛立ちながらも振り返るとあまりにも情けない顔をしていたのだろう。
相手は驚きに目を見開き、五条さんが私を探していたから戻り次第医務室に来るよう言付を預かったと聞いた瞬間、私は全力で廊下を駆け抜けていた。
昔から馬鹿みたいに広い校舎だとは思っていたが、これ程に遠いとは思わなかった。
五条さんや家入さんならば私のこれまでの事や彼女の事に関して必ず何かを知っている。
もしかしたら…静かに泣く彼女の側に寄り添って居るのかも知れない。
そう思うと一刻も早く駆けつけ、彼女の小さな身体を力の限り抱きしめたくて堪らなくなった。
…けれど現実は理想とはかけ離れ、恐ろしく残酷なものだ。
…奇跡など、どこにもありはしない。
「五条さん…!真那は!?」
スライド式の扉が外れんばかりの勢いで室内に雪崩れ込んだ私の姿を見て、その場にいた全員が此方に視線を注ぐ。
髪を乱し、息を切らし、それでも彼女の名前を譫言の様に呟いた私の姿に五条さんは深くため息をつき、家入さんは顔を背け、伊地知君は目頭を抑えた。
私が居るであろうと予想していた彼女の姿は、何処にも見当たらなかった。
「真那は…、真那は何処ですか」
「…オマエさ、思い出したんだ?最愛の女の事」
五条さんは私の元へやってくるといつもの様な軽薄な態度は微塵も感じさせず、静かに私に問いかける。
今にも掴みかからんばかりの勢いで彼女の所在を問う私の姿は彼らにはどう映っていたのだろうかと、そんな事を気にする余裕さえなかった。
…早く会いたい。
抱きしめて、己の腕の中に閉じ込めてしまいたいと言う衝動だけが私を駆り立てて居た。
目隠しをした五条さんからはその表情の全ては読み取ることが出来ないが、固く握り締められた拳は何かを必死に堪えて居る様にも思える。
「お願いします。彼女に…真那に、会わせて下さい」
縋り付く様な懇願。
それぞれが何かを伝え合う様に目配せする中で、私は生きた心地がしなかった。
彼女がそこまで私を拒むのならば、それを受け入れるべきなのかも知れない。
けれど…これまでにした仕打ちをせめて、一度だけでも顔を見て謝りたかった。
五条さんの肩を掴み項垂れる私を見て、彼らはどんな胸中だったのだろうか。
誰かの鼻を啜る音が響き、その理由を…私はやっと知ることになる。
「硝子、アレ持ってきて」
「…良いのか?」
「このままじゃ七海も納得なんて出来ないでしょ。ただ覚悟してしておけ。オマエに待って居るのは生優しいものじゃない」
突き放す様な五条さんの言葉。
自身を落ち着かせる為なのか深く息を吐いた家入さんと、私から隠れるようにして涙を拭う伊地知君の姿…。
やがて家入さんは何処かから真白な布に包まれた塊を持ってくると、無言のまま私に差し出した。
これが一体なんだというのか。
…私が探しているのは真那だと言うのに。
「開けてみろ」
そう促されると私の鼓動が痛いほどに脈を打った。
見なければならない、そう思うのに何故か逃げ出してしまいたい程に怖かった。
恐る恐る捲った「それ」は少しずつ全貌を明らかにし、最後の一巻きを外した時私の呼吸は止まりかけていた気さえする。
…それは腕だった。
女性のものと思われる、白く華奢な腕。
折れてしまいそうな程に細い薬指には永遠の愛の象徴の指輪が光り、彼女と似通ったつくりの「それ」はよく特徴を捉えて居て親指の付け根にある小さな黒子までもが再現されている。
「…何の真似ですか」
「それ、真那。身体はそれしか…残されて無かった」
「何を…」
まるで鈍器で頭を殴打されたような衝撃を覚えた。
これが本当に彼女の腕なのだとしたら、相当の重傷を負って居るのは間違いない。
それなのに彼らにはこんな所で何して居るのだと憤る気持ちさえ芽生え始めた時、更に私の元に差し出された幾つかの物を見た瞬間に…今度は意識さえも失いかけた気がする。
血塗れの服は彼女が補助監督として身につけていたものではなく、私と休みの日に会う時によく着ていた服だった。
落とした形跡が見られる画面の割れたスマホ、その下には血痕のついた…私と真那の写真。
どれもが彼女のものであることは疑いようもなく、だからと言ってすんなりと受け入れられるものでない。
言葉を失ったままの私に追い討ちを掛けるように語られたのは、高専が呪霊と呪詛師による襲撃を受けたことだった。
建物の損害はそれによるものらしく、待機していた呪術師も補助監督もその被害に巻き込まれたのだという。
…そしてその中に、真那も居たのだろう。
そうは言っても、腕一本無くしたとは言えまだ生存の可能性は十分にある筈だ。
それなのに…私の現状が、既に彼女がこの世にいないと言う事を確固たるものにしたのだと言う。
そんな事、誰が信じると言うのか。
「七海、真那から預かったものだ。それを読めば全部解る」
魂が抜けたかのようにその場に立ち尽くす私の間の前に差し出されたのは一枚の手紙だった。
彼女を思わせる淡い色合いの封筒に、私は震えを隠すこともせず手を伸ばす。
此処を去ると決めた時、万が一自分に何かあった時の為に彼女が託していったものだと言う手紙を握りしめ、私は手にしたままの腕と共に自分に渡された彼女の遺品となるであろう全てを抱きしめていた。
「真那の部屋、行ってやれよ。暫くは誰も近づかないようにして置くから」
私を慰めるかのように五条さんがすれ違い様に肩を叩くと部屋を後にする。
それに私は頷くことが出来ていたのだろうか…。
目元を覆い隠して号泣する伊地知君の姿に触発されたのか私の目の奥も熱くなっていくのを感じた。
どうやって彼女の部屋まで辿り着いたかさえ記憶にない。
時折人目を忍んでは訪れた室内の扉を開ければ、慣れ親しんだ彼女の香りが肺一杯に広がると言うのに…その姿は在りはしない。
私に向けて駆け寄る幻影が見えると言うのに、腕を広げても愛おしい温もりはいつまでもやって来ることがない。
数日後には此処から去る筈だった部屋の中はすっかり物が無くなり、私の胸中を表すかのように酷く寂しげに感じた。
「これは…」
荷造りの最中なのだからある程度乱雑なのは当たり前だが、普段から几帳面で不要な物はきちんと仕舞う彼女にしては不自然に置かれた、ベッドの片隅に追いやられた大きな袋。
持ち手の部分にはお手数ですが処分をお願い致します、と付箋が貼られて居り一瞬躊躇ったものの私はそれに手を伸ばす。
…そして、中身を見た瞬間にどうしようもない後悔と自責の念に駆られた。
中には彼女が寝る間も惜しんで作ったウェルカムボードやリングピローが詰め込まれていた。
私が踏みつけ、渡せずに過ぎ去ってしまった結婚式の招待状と共に…。
身体の力が一気に抜けて、私はベッドに倒れ込むように座り込んだ。
彼女は一体、どんな気持ちで不要になったからと言う文字を書いたのだろう。
この先に在る筈だった幸せな日々を心待ちにしていた彼女は…これまでにどれ程の涙を流したのだろう。
今この一瞬でさえ、私は真那の居ない世界に耐えられないと心が悲鳴を上げて居ると言うのに、それを一年も耐えたと言うのか。
…たった一人で。
後悔先に立たず、覆水盆に返らずなんて言葉は自分とは無縁だと思っていた。
この世界に身を置く以上、常に付き纏う危機に対する覚悟と共に、悔いのない選択をする様に自然と先読みをする能力が突出していくからだ。
ある程度の割り切りと共に痛みを誤魔化す術を覚えていくからだ。
しかし、今の私と言えばどうだろうか。
己の愚行に後悔しかして居ない。
何故…あんな事をしてしまったのかと。
その全ては彼女の遺した手紙に記されて居ると家入さんは言っていたが、今更知った所でどうなると言うのか。
…真那が戻ってくるわけではないと言うのに。
それでも、ほんの僅かでも彼女の軌跡を感じたいと思った。
同時に、これまで日々を過ごした本心を知りたいとも思った。
震えた指先は封筒を開けることすら儘ならず、破れそうになってしまう封を丁寧に開ける。
中には封筒と揃いの便箋が数枚入って居り、彼女の字で綴られた思いの丈を、私は主人の不在の部屋の中一人で噛み締めた。