コウノトリの贈り物
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胃の辺りがやけにモヤモヤすると、些細な違和感を覚えのは数週間も前の話だった。
「お疲れ様でした」
任務を終えて、自宅まで補助監督の車で送ってもらった私は自宅で有るワンルームの城の中に駆け込んだ途端、シャワーを浴びるために浴室へと向かう。
夏場の任務はどうしても汗をかきがちだ。
既に私のシャツの中はじっとりと湿っていて肌に張り付き、気持ち悪いことこの上ない。
それと言うのも自分の仕事場というのが大抵、寂れた病院やビルだったり曰く付きの川や橋だったりと…とにかく、文明の利器とは無縁な場所だからと言える。
着替えを常に持ち歩いても、一つ任務が終われば次が待って居る。
その度に着替えるのも次第に面倒になり、最近では早く終わらせることに心血を注ぎ、短縮した時間の分早く帰宅する事を心がけるようになった。
全身にシャワーを浴び、スッキリした気分でタオルを巻きながら向かうのは勿論冷蔵庫。
しかし中を見渡せば長期任務や出張が重なっていた事もあり中はひどく寂しげだった。
「げぇ…買い出し行かなきゃ」
そうは言っても今日は平時と異なり一層の繁忙を極め、退勤直後のはずの現在の時刻は優良なホワイト企業とは違い日付の変わる直前。
今から出かけるのも億劫だと、仕方なしに少し長い間冷蔵庫に居座っていたキムチやら納豆を肴にしながらキンキンに冷えた缶ビールを取り出し、躊躇う事なく蓋を開けた。
…それが間違いだったのだろうか。
僅かな異変が少しずつ見過ごせないものへと変わり始めていた。
「あ゛〜気持ち悪い。頭痛い」
翌朝の私の体調と言えば最悪の極みと言ってもいい。
脂っこいものなど食べた覚えもないのに、ムカムカとする胃は朝から何も食べていない筈なのに一向に収まる気配がない。
そう考えると、やはり昨日の賞味期限が過ぎ去った肴がまずかったのだろうか。
それに加えて持病の偏頭痛まで添えられたとなれば機嫌が悪くなるのも仕方ない。
今日はいつもより更に切り上げて家で休もう。
そう決意したのも束の間で、けたたましくなり出したスマホのディスプレイを確認すると私は通話ボタンをタップした。
「もしもし、私です」
「新手の詐欺ですか?生憎間に合ってます」
「おい」
「ハハ、冗談。どうしたの七海」
気が置けない相手からの連絡に私は軽口を叩きながら笑みを溢す。
彼は高専時代からの同級生であり、現在の同僚であり、交際三年目になる私の恋人だ。
既に十年程の付き合いとなれば互いの扱いなど十二分に心得ており、それこそ身体の黒子の数さえも把握していてもおかしくない程の深い仲。
電話口の私の声から体調を悟ったのか、一応は恋人を気遣う様子を見せたかと思いきや、七海の態度は私の昨日の食事内容を聞くと一変する。
「どうせまた冷蔵庫に入っていた古びた食材を食べたんでしょう」
「あはは〜…だって納豆もキムチも発酵食品じゃん?冷蔵庫で多少発酵に拍車が掛かっても問題ないでしょ」
「発酵と腐敗の違いも分からないのか」
「賞味期限は美味しく食べれる期間だから少しくらい過ぎても大丈夫だって」
「その少しの期間の認識に誤差がありすぎて消費期限をすぎて居ることにさえ気づかなかったと。…馬鹿なんですか」
七海の辛辣な言葉は私の軽口を全力で打ち返して来る。
こんなやりとりが楽しいから、七海と居るのは飽きないし何だかんだ文句をいいながら世話を焼いてくれる彼の事を心底好きだと自覚して居るのだけれど、相手からは私のだらしない私生活に対する苛立ちが伺える。
互いに一級術師として前線を担う私達に、休みというものは滅多にやってこない。
更に言えば一緒に休みを取れた日など果たしていつだったかさえ記憶に無い。
そんな中でも順調に恋愛関係を続けていられるのは、私が休みの度に七海が早く仕事を切り上げて自宅で食事を振舞ってくれたり、前日から泊まりに来るよう誘ってくれるからであり、そこで前回の二人揃っての休みが四ヶ月ほど前だった事に気がついた。
長きに渡る禁欲生活の日々に、ただでさえ性欲お化けの七海が特級呪霊に変態したと思えたあの日。
私は翌日、朝日を拝めたことに心底感謝した気がする。
「で、体調はどうなんですか」
「大丈夫だよ。ちょっと胸焼けがして、天気がぐずつきそうだから偏頭痛がするだけ」
「アナタの頭痛はしんどい時の合図でしょう。今日は定時で上がりますから、私の家に来てください」
「そんな心配しなくても良いのに」
「私が会いたいから来い」
現実に引き戻された七海の言葉に大したことは無いと伝えたものの、やはり長い付き合いとなれば些細な言葉も見落とすことがないらしい。
加えて少し強引ではあるが可愛らしいおねだりなんてされてしまうと不覚にも胸は高鳴り、二つ返事で了承すると私は後でね、と通話を終了した。
私が七海に片想いするようになったのは高専時代にまで遡る話であり、七海が一般社会で就職した後もしつこいくらいに連絡を入れては付き纏った。
飲みに行こう、あの店が美味しいなどとあの手この手を使っては七海の貴重な夜の時間をどれほど浪費させたか計り知れず、同期のよしみなのか。
私の誘いには余程忙しくない限り乗ってくれる七海に淡い恋心が燃え上がるまでは時間が掛からなかった。
七海が高専戻ってきてくれた時は本当に嬉しかったし、いっそ告白してしまおうかとも考えたけれど私達はかつてクラスメイトを失ったと言う苦しい思い出を抱えて居るが故になかなか一歩が踏み出せず…。
…確か、酔った勢いで私がベッドに引き摺り込み、半ば責任を取らせるような形で交際に持ち込んだ気がする。
そんな始まりの恋人関係だったのに、そのうちただの同僚に戻るのだと思われた関係は変わる事なく、七海は当たり前に私を自分の内側へ招き入れてくれて。
それが嬉しくて一層好きになっていった。
「さぁて、仕事頑張りますか」
体調不良は先程の可愛らしい七海のお陰ですっかりとはいかなくとも随分良くなったように思えた。
気合を入れ直し、夜のお楽しみの為に張り切った私の体調は一時はマシになったと思えたのに…。
時間の経過と共に悪化を辿り、就業時刻寸前には微熱っぽさまで感じるようになっていた。
「だる…」
仕事をなんとかこなして身体を引き摺るように七海の家に向う。
いつでも来てくださいと渡された合鍵は自分の家の鍵と常に隣り合っており、躊躇う事なく鍵を開けると七海の家の香りが鼻を擽る。
私が少し早く着いてしまったから当然七海の姿はまだ見えず、熱っぽさや怠さからか眠気まで襲ってくるとノロノロとリビングへ向かった私はそのままソファに寝そべっていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
目が覚めると何かを刻むような規則的な音が耳に届いた。
身体を起こすと怠さは軽減しており、寝ぼけた目を擦りながらキッチンに視線を向けると七海が慣れた手つきで食事を作って居る姿が目に留まる。
夏場と言えどエアコンの効いた部屋で何も羽織らず寝るのは良くないと思ったのか私の身体にはブランケットが掛けられており、七海の気遣いにまた心が暖かくなったのも束の間だった。
「…ゔッ」
「如月、起きたんですか。今日は…」
「ごめ、無理…」
七海の言葉を振り切り口元を押さえた私は猛ダッシュでトイレに駆け込むと何度も嘔吐く。
しかし朝から何も身体に入れて居なかった胃は吐き出すものが無く、大きく息を吐き出して呼吸を整えると洗面で口を流してリビングへと戻った。
何事かと呆けたままの七海は私の姿を見るなり掛け寄ってくれて、熱を確かめる為なのか額に押し当てられた手が心地いい。
「七海の手きもちぃ…」
「アナタ、本当に大丈夫なんですか?」
「へーきぃ。でもさっきの匂いヤバかったわ。なんかしてた?」
「米なら炊いてましたが…アナタはパンが好きではないですし」
デンマークのクォーターである七海は食事も洋食中心だった。
一方で私は和食大好き人間の日本人。
刺身、煮物、焼き魚は生き甲斐であり米は正義。
そんな私に合わせて和食を勉強してくれた七海は最早料亭に出しても見劣りしない和食を私に提供してくれて居るし、そう言う尽くしてくれる感じを出されると堪らなくなる。
再びソファに戻された私には先程の不快感も無くなっており安堵したけれど、用意された食事を平らげられるかと聞かれたらそれは疑問だった。
「ごめん…今日、食べられないかも」
「それは構いませんが、本当に大丈夫なんでしょうね」
「大丈夫だよ。ママミンのご飯食べられなくて残念」
「引っ叩きますよ」
ヘラヘラと笑う私の姿に七海は眉間の皺を深くした。
それは私の体調を心配してくれて居るからであり、明日出勤したら一度硝子さんに相談して、ちゃんと検査を受けるべきか考え始める。
こんな形で任務に支障をきたしたくは無いし、七海に心配を掛けてしまうのは胸が痛い。
発酵食品は腐敗食品になると特級呪霊並みにやばい事になる。
この日私はそう認識した。
七海は私の様子をしばらく窺ってからキッチンに舞い戻り、形だけでもと用意された食事を見るとほんの少しだけ食指が動いた気がする。
けれどそれは私の為に作られた和食ではなく、七海が自分の夕飯用に作ったであろうサンドイッチだった。
「ママミン、そっち少し食べてもいい?」
「まだ続くんですか、それ。生憎、育てた覚えならありますが生んだ覚えはありません」
「育てた?」
「女性としてこれ以上ない程立派に育ちました」
「セクハラじゃん」
「そのせいで虫除けが大変です」
「自業自得」
まさかここに来てこれまでにベッドで仕込まれたあれこれの話されるとは思わなかった。
子供には絶対聞かせられない話だし、私の沽券にも関わる。
七海は、はっきり言えばその血のせいなのか欲が強い。
それはもう日本人男性が驚き慄くほどに強い。
本気を出されたら日頃鍛えて居る私でも翌日は身動きが取れなくなる程なのだから、一般女性を捕まえたら相手が腹上死するのは時間の問題だとさえ思えてしまう。
自分のものだと言うのに席についた私の目の前に差し出される真っ白なお皿。
残して良いから食べられるだけ食べておけと言われ、ハムとチーズとレタスの挟まれたシンプルなサンドイッチを口に運ぶと、普段は口の水分が持っていかれると嫌って居たパンが何故かとても美味しく感じた。
「七海、何これ美味しい」
「なんの変哲もないサンドイッチです。珍しいですね、アナタがパンを食べたがるなんて」
「ねぇ。なんだかパン好きになったかもしれない」
「それなら私は嬉しい限りです」
結局、お皿に乗せられたサンドイッチの半分を食べ終える頃に私の胃袋は限界を迎えてしまった。
今日初めてまともに摂取した食事にやっと胃の不調も治まり、体調も良くなって来ると今度は猛烈な眠気が襲い掛かり私は大きく欠伸をする。
七海は私の半分の時間で私が食べきれなかった食事を平らげるとキッチンに戻り片付けを始め、それがひと段落したのかソファに座ったまま今にも眠りそうな私に向かってベッドに行けと指示が飛ぶ。
「お風呂…」
「明日にしなさい。眠いなら早く寝てしまったほうがいい」
「…しないの?」
「不調の恋人の寝込みを襲うほど落ちぶれては居ません。ほら、行きますよ」
無抵抗な私はあっさり七海に抱えられ、それはもう様々な事を仕込まれた寝室へと連行された私は労わるようにベッドに寝かされると先程使っていたブランケットが胸元まで掛けられる。
ベッドの端に腰掛けた七海はまるで子供を寝かしつける母親のような手つきで私の頭を撫で、次第に瞼が重たくなっていくのを感じた。
二人で寝ても狭い思いをしなくて良いようにと、付き合い始めて直ぐに買い替えられたベッドはあれだけ無茶を強いてもまだ現役であり、寝心地は自分のワンルームマンションのベッドとは比較にならない。
更に大好きな七海の匂いもするとなれば此処は天国かと錯覚さえ抱けそうだ。
「下らない事を言って居ないで早く寝ろ」
「声に出てた?」
「アナタは昔から色々とダダ漏れていますよ。シャワーを浴びたら、私もすぐに来ます」
「しないんじゃなかったの?」
「アナタを抱き枕にする権利くらいは有るでしょう」
そう言って七海は私の髪を僅かに乱し、部屋を後にした。
先程のまで七海が座って居た場所にはまだ温もりが残されて居てエアコンの冷風で徐々に消えていくそれに、同じ家にいると言うのに寂しさを覚える。
コロンと寝返りを打てば隣にあるのは彼の枕で、加齢のせいか枕元の抜け毛が気になり出したからと洗濯の頻度が高くなった枕カバーからは残念ながら柔軟剤の香りしかしなかった。
早く来ないかと期待するほどに時間の経過は遅く感じるものだ。
コロコロと広いベッドの上を横断して遊んでいるとそのうち眠気はピークになり、七海が来たらすぐに起きるんだと決意だけはしたものの、私はそのままぐっすり夢の中。
目覚めた時には二人で大の字で寝ても十分余裕があるはずのベッドの中で七海の腕も、脚も、私に絡みついて居た。
「七海ぃ」
「…んん」
「七海、起きて。私今日も朝から仕事」
「…有給休暇で」
「それが出来たら呪術界はブラック企業なんて言われてないから」
比較的寝起きの悪い七海は、私が泊まる度にこうして小さな駄々をこねる。
はっきり言えば可愛い。
可愛くて仕方がないから、しょうがないと言ってそのままベッドで一日にゴロゴロして七海を甘やかしてやりたい衝動に駆られるけれど、生憎私は大人だ。
私生活はだらしなくても仕事はちゃんとしなければ己の社会的信用に関わる。
外しても外しても纏わりついてくる腕を嗜める為に寝巻きから覗く真っ白な肌を小さくつねると、眠気を残した目を細めて七海は不機嫌さを露わにしていた。
「…体調は?」
「ぼちぼちかな、今日硝子さんに相談してくる」
「そうしてください。何かあったら直ぐに連絡を」
「はぁい。じゃ、支度するからさっさと離して」
「…もう少し。あと五分だけ」
擦り寄って来る七海の柔らかな髪が肌を擽る。
やって居ることは子供と変わらない癖に無駄に良い声が耳元で響き、私の鋼の筈の理性を陥落させようとしてくる。
一見隙のなさそうな男が無防備な姿を晒して甘えてくる…。
どうやら私はそう言ったギャップにとことん弱いらしい。
それが七海相手となれば、最早彼の言う言葉に頷く以外の選択肢がなくなってしまうほどに。
それでも時間というものは平等に迫ってくるものであり、昨日はシャワーも浴びずに寝てしまったのだから何が何でも身体は流したい。
流石に七海も駄々を捏ねては居るけれど良識のある大人。
いよいよ間に合わなくなるであろう時間が近づいてくると、名残惜しそうに私の身体に巻きついて居た腕が離れていき、私はすかさずバスルームへと駆け込んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
高専に着くと、同時に出社した筈の七海は朝から任務が入って居るわけではないらしい。
今から向かう予定だった私の任務は自分が変わるから、さっさと家入さんにみてもらえと言い残して伊地知を連行して行ってしまった。
仕方なく向かった医務室。
扉を開けると独特の医薬品の香りが何故か心地よく感じるのは日頃から足を向けて眠れないほどにお世話になっているせいなのか。
朝イチからの来客に机に突っ伏した硝子さんは訝しげな顔をしてこちらに視線を移し、その目の下には気の毒なくらいの隈が遠目にもくっきりと刻まれて居る。
「なんだ、真那か。どうした」
「あ〜…。あのですね」
そうして私は数週間前から始まった体調の変化を包み隠さず彼女に話した。
学生時代からお互いが唯一の同性だった事もあり、七海さえも知らない女の事情という内緒話を肴に何度酒を飲んだかわからない。
恋愛相談も、七海へのアプローチのアドバイスも全部硝子さんから伝授してもらったものであり、そのお陰で今は幸せ絶頂なのだから感謝してもしきれない。
「胃のムカつき、頭痛、倦怠感、微熱、眠気、吐き気…他に思い当たるのは?」
「何か匂いに敏感になった気がする。それと、苦手だったパンが美味しかった、かな」
とりあえず認識している症状はこれで全てのはずだった。
全く動けなくなるわけではないけれど、こうも長引く不調は流石に堪えるし任務にも支障をきたすのでは無いかと不安になる。
きっと大したことでは無いし、直ぐに良くなる。
私はそう確信を持って居たのに硝子さんの表情はどんどん険しくなるばかりで。
唐突にスマホを取り出し誰かに連絡をした彼女は、短い通話を終えると一枚の紙切れと一本の謎の箱を私に差し出した。
「念のために聞いておくが、最終の生理はいつか覚えているか?」
「…はい?えっと、不順だからいつだったかなぁ…」
「ここ数ヶ月の間に性交渉は?」
「…アハハ、記憶にしか御座いません」
そこまで言われると自分の中にもある可能性が芽生え始めていく。
いや、寧ろこれまで予兆が出まくって居たのにその可能性に至らなかったことが不思議だと思えるほど。
だけど七海は避妊をしっかりして居た筈で、平静を装っても頭の中はなんで、どうしてと大混乱だ。
兎にも角にも今手渡された検査薬を試し、硝子さんは専門外になるから陽性なら直ぐに病院に行ってこいと告げ、手渡された用紙を握りしめると私はトイレに向かうしかなかった。
祈るような気持ちとはこういう事を言うのだろうか。
七海との子供なら絶対可愛い。
男でも女でも溺愛できる未来しか見えないし、けれどそうなった場合私は一線から退かなくてはならない。
それに…七海がこの現状をどう受け止めるのかはわからない。
結婚を考えたことは大いにあるけれど、それを七海に振ったことは一度もなかった。
結婚を迫ってフラれたなんて話は世の中幾らでも転がっているし、私達の職業は悲しきかなそういうものと縁が薄い。
判定が出るまでの数分が何時間にも思える程に長く思え、恐る恐る覗き込む検査薬には…硝子さんの予想通り二本の線がはっきりと刻まれて居た。
「硝子さん…事件です」
「そうか。めでたい事件でよかったな。今直ぐ病院行ってこい」
「まだ何にも言ってない!!!」
私の顔色、態度から全てを予想した彼女はエスパーなんじゃ無いかと思う。
予期せぬ出来事に私の頭は完全にパニックに陥り、半ベソで今にも泣きつきたい衝動にさえ駆られた。
そうは言っても、硝子さんの所見と検査薬だけでは確定とは言い難く、知人がすぐに見てくれるから行ってこいと促され、私は不安を抱えたまま人生初の産婦人科の門を潜ることになってしまった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「…どうしよう」
診察を待つ間は断崖絶壁に追い詰められたような気分だった。
それこそ、目の前に勝ち目のない両面宿儺レベルの特級呪霊が三体程居るような心持ち。
名前を呼ばれ、初めて乗る内診台に羞恥など覚える暇もなく、おめでとう御座いますという言葉と共に目の前のモニターにはトクトクと鼓動を刻む小さな命。
十二週程だと診断を受け、手渡されたエコー写真には人とは到底思えない小さな物体が映し出されており、なんとも言い難い気持ちになる。
自分のお腹の中に別の命があるというのは実に不思議な感覚だった。
今後の説明なんて聞いたところで頭に入ってくる筈もなく、促されるまま手渡された書類を持って役所に向かうと母子手帳やら、産後不可欠になるであろうあらゆる試供品を渡されて私は抜け殻のようになっていた。
…七海に何て説明をしようか。
二人の子供なのは間違いないけれど、やはり男側としては避妊をして居た事実がある以上疑わしい気持ちが芽生えるのだろうか。
誰の子か、本当に自分の子なのか…なんて聞かれたらその場で私は領域展開するかもしれない。
「どうしよう…」
妊婦だと言う自覚が芽生えると一層不調に拍車がかかる気がした。
いつもなら余裕で歩ける筈の距離に疲れを感じ、通りがかった公園のベンチに腰掛けて辺りを見渡すと日中の公園という事もあり、幼子を連れた母親の姿が多く見受けられる。
無意識に私の手が腹部を撫でた。
まだ胎動すら感じず、膨らみもない腹部の中には間違いなく七海の子供がいる。
正直言えば不安しかないけれど、このまま話さずに居るわけにも行かない。
意を決して七海に連絡をしようとカバンに突っ込んだままだったスマホを取り出すとホーム画面を見た瞬間、私の目は点になって居た。
「なんじゃこりゃ」
信じられない数の着信。
その九割が七海のものであり、LINEの通知も尋常ではない。
とりあえず一割の方から先に確認しようと硝子さんの画面を見ると、私の行動を予測して居たのか七海には軽く説明してあるから用が済んだら帰れ、との文字…。
なんて事をしてくれたと画面を割りそうなほどスマホを握りしめ、七海の連絡を確認しようとした瞬間。
ブル、と震えたスマホに驚き相手も確認しないまま通話に応じると電話口からでも怒りを感じさせる七海の声が聞こえた。
「今どこに居る」
「…七海?」
「どこにに居るかと聞いている」
「あ…。七海の家の近くの、公園…」
直ぐに向かうからそのままで居ろと言われ、私の顔はどんどん青褪めていった。
とりあえず今し方もらったばかりのあらゆるパンフレットを一纏めにしてカバンに押し込み、少しでも元気に見えるように呼吸を整え、どう話をしようと頭をフル回転させて居る間に時間は相当流れて居たのか。
普段では想像もつかない程に息を切らせた七海がこちらにやってくる。
「如月!」
「七海…えっと、あの」
「話がある。今直ぐ家に来なさい」
「…はい」
厳しい口調は明らかに怒気と焦りを孕んでいた。
全てを隠したカバンを握りしめながら七海の隣を歩く間は生きた心地がせず、足元ばかりを見つめて歩く私に七海の視線が向けられて居たことなど気づく余裕も無い。
いつもなら浮かれながら向かう道程も、今日は断頭台にでも乗せられるような思いで。
生きた心地など全くしなかった。
「私に話す事がありますよね」
テーブルに腰掛けた瞬間、尋問かと思いたくなるような言葉に思わず私は縮こまった。
数回しか見たことが無いが、いつもの戯れあいとは違う雰囲気は間違いなくガチギレと言っていいだろう。
会話の糸口を探してもこの雰囲気の七海を相手にすると流石の私でも恐怖を覚えた。
積もり募った不安、自分じゃどうしようもない体調不良、うまいこと回ってくれない働かない頭。
もどかしさが限界を超えていき、苛立ちを募らせた七海の方を向く事も難しくなっていく。
「家入さんから少し話は聞いて居ます。現在のアナタの状態に出来ることがない事も」
「そう、だね」
「治らないと言っても私は納得できません。アナタが元気になるならいくら金と時間を積んでもいい、治療法を探しましょう」
「…ん?」
何故か会話に違和感を覚えたのは気のせいではないだろう。
妊婦の体調不良というのは病気ではない。
その点についての認識は間違っては居ないし、大半の場合は時間の経過と共に落ち着くと言うのは聞き齧った知識だけの私にも分かる。
しかし、七海の言葉をそのまま捉えて良いのならきっと何か勘違いをしている気がしてならない。
それこそ、私が死ぬまでには至らなくても治る見込みの無い病にでも罹ったかのような…。
彼の顔は真剣そのものだった。
けれど勘違いしているかもと思った瞬間、言葉の足りない硝子さんに苛立ちはあったが、七海は私の為を思ってあれこれ考え、心配して探し回って駆けつけてくれたのだと考えたら…はっきり言って惚れ直した。
「…何を笑っている?」
「え、ごめん…ちょっと…」
クスクスと肩を揺らし始めた私に七海は何を思ったのだろう。
まさか自分がとんでもない思い違いをしているとは思って居ないのだと思うと余計に愛おしくて、嬉しくて、それと同時に面白くて。
私の笑いが止まることはなく、痺れを切らせた七海は声を荒げて居た。
「ふざけるな、私がどれだけ心配したと思っている」
「な、なみ…?」
ガタンと大きな音を立てて明日から立ち上がった七海の視線は私を捉え、心の底から…怒って居たように思う。
鬼のような形相で私の手首を掴んだ七海は憤り、全ては誤解なのだと言おうとした私は全身で怒りを露わにした彼の前で言葉を失った。
妊婦の症状としてよくあるのは情緒が不安定になること。
普段滅多な事で涙を見せない私もそれは例外ではなく、ぽろぽろと流れ始めた涙に私の方が取り乱してしまった。
「おこ、らないで…七海、こわい、ぃ…」
「如月…?」
わんわんと声を上げて泣き出した私の姿に、七海の怒りは空気の抜けた風船のような萎んでいく。
ただ狼狽えるだけどなった彼はいつのまにか私の方へ回り込み泣き止むまで背中をさすってくれていた。
やっと落ち着いたのは三十分程経った後。
その間にも途中で気持ちが悪くなり、二回程トイレに駆け込んだ。
訳のわからぬまま私の説明を待つしかない七海の顔色は赤くなったり青くなったり…。
流石に可哀想に思えてしまい、やっと決意を固めて彼と向き直った私は、至極真面目な口調で話しはじめた。
「七海、子供はどうしたらできるか知ってる?」
「は?」
「因みにコウノトリさんは運んできてくれません!」
「当たり前でしょう。男女の関係があって出来るものです」
「その通りです。でも避妊してたら出来ないんです。…けど私には、七海以外に覚えがないんです」
そこまで伝えた私はカバンの中から先程受け取ったばかりの母子手帳を取り出した。
公園で第一子とだけ記入したそれは当然、子供の名前はまだ空欄だし、保護者の名前も書けずにいる。
シングルになる覚悟もあった。
お金はこれまで使う暇もなく貯めて居たものがあるし、あとは行政の手を借りれば大変なのは目に見えて居てもなんとかやっていけるだろうと。
七海は一瞬何が起きたかわからないと言ったように目をまん丸に見開き、私の顔を凝視するだけで…沈黙が重たく感じた。
「硝子さんに相談して、検査薬で陽性だった。…知り合いの病院紹介してもらって今日、行ってきた。
…十二週だって」
モノクロのエコー写真を取り出した私はスッとそれを七海の前に差し出した。
写真を手にした七海は不思議そうな顔をしており、私の顔、腹部、写真と視線を移している。
命を宿した私でさえ俄には信じられなかった。
七海なら立場となれば更に信じ難いものになるだろう。
「…つまり、アナタの今の症状は悪阻で、そのお腹には私達の子供がいると?」
「避妊は完璧だったって言われたら私には何も言えない。でも、七海以外には覚えもないし考えられない」
すんなりと七海の口から「私達」と言う言葉が出てきてくれたことに私は心底安堵して居た。
本音を言えば本当に自分の子かと疑われる事も覚悟して居たし今現在、領域展開の準備も半分ほど出来ている。
写真に視線を落としたまま口元を押さえる七海の目は涙ぐんでいたようにも見えて、喜んでくれているのかと…期待すらして居たのかもしれない。
私は無意識に視線の注がれている腹部に両手を添えて居た。
「私はこの子を七海の子供だと胸を張って言えるけど七海がどう思うかはわからない。失敗したから出来ちゃったなんてことも言いたくない。
ただ一つ言えるのは間違いなく私の子だから…産んで、育てたい」
そこまで言うと流石に言葉に詰まり始めて私の涙腺も緩くなっていく。
写真を握りしめる彼の手を取り、互いに鼻を啜る音ばかりが部屋に響いて居た。
これから起こるすべてのことが未知のことでしかなく、先行きは不安しかない。
それでも、隣にいるのはやっぱり七海が良い。
「…ママミンになりたいので、パパミンになってくれませんか」
「その言い方はどうにかなりませんか」
「可愛いじゃん。パパミンとママミン」
「まぁ、良いでしょう。それよりも次の検診はいつですか。それと案内や注意書き等の資料があるならすべて貸してください」
「…なんで?」
「読むからに決まってるでしょう。私達の子供のことです。私が知らなくてどうするんですか。それに身体を冷やすのは良くない、少し待って居てください」
おもむろに立ち上がった七海がリビングから姿を消した。
私の予想以上にすんなりと現実を受け入れたような姿に順応制が高いと心の中で拍手を送って居たのも束の間。
ガコッと言う鈍い音が何処かからか聞こえ、あれはベッドの角にでも小指をぶつけたのでは無いかと考えた私の予想は外れては居なかったらしい。
戻ってきた七海は、平静を装っては居たけれど顔を歪め、ほんの僅かに脚を引きずって居たように思う。
「足ぶつけた?」
「何の話ですか」
「動揺してる?」
「少し…いや、かなり」
「ねぇ…嬉しい?」
「それはもう。泣きそうな程に」
肩にかけられた七海の上着からは安心する匂いがした。
恐る恐る腹部に触れた大きな手はまだその存在を感じさせる程にはなっておらず。
それでも彼は愛おしそうに目を細めて私を優しく抱きしめた。
「ありがとうございます」
「パパミンになってくれる?」
「その呼び方はともかく、喜んで父親になります」
「…うん。しばらくエッチは出来ないけど」
「子供のためなら我慢できます。それよりも早いうちに婚姻届と引っ越しをしなければいけませんね」
「あ、そっか…」
父性というのは子育てするうちに芽生えるものだと聞いたけれど、それは人によるらしい。
少なからず今の七海は私から見ても、十分すぎるほどに父親の顔をして居た。
後日、抱え切れないほどの育児本と性別も分かって居ないのに名づけ本を買い込んだ七海の姿を目撃され私の懐妊情報はあっという間に高専に知れ渡る。
少しずつ大きくなるお腹を毎日愛でながら私達が描くのは、きっと幸せすぎる未来予想図。
「お疲れ様でした」
任務を終えて、自宅まで補助監督の車で送ってもらった私は自宅で有るワンルームの城の中に駆け込んだ途端、シャワーを浴びるために浴室へと向かう。
夏場の任務はどうしても汗をかきがちだ。
既に私のシャツの中はじっとりと湿っていて肌に張り付き、気持ち悪いことこの上ない。
それと言うのも自分の仕事場というのが大抵、寂れた病院やビルだったり曰く付きの川や橋だったりと…とにかく、文明の利器とは無縁な場所だからと言える。
着替えを常に持ち歩いても、一つ任務が終われば次が待って居る。
その度に着替えるのも次第に面倒になり、最近では早く終わらせることに心血を注ぎ、短縮した時間の分早く帰宅する事を心がけるようになった。
全身にシャワーを浴び、スッキリした気分でタオルを巻きながら向かうのは勿論冷蔵庫。
しかし中を見渡せば長期任務や出張が重なっていた事もあり中はひどく寂しげだった。
「げぇ…買い出し行かなきゃ」
そうは言っても今日は平時と異なり一層の繁忙を極め、退勤直後のはずの現在の時刻は優良なホワイト企業とは違い日付の変わる直前。
今から出かけるのも億劫だと、仕方なしに少し長い間冷蔵庫に居座っていたキムチやら納豆を肴にしながらキンキンに冷えた缶ビールを取り出し、躊躇う事なく蓋を開けた。
…それが間違いだったのだろうか。
僅かな異変が少しずつ見過ごせないものへと変わり始めていた。
「あ゛〜気持ち悪い。頭痛い」
翌朝の私の体調と言えば最悪の極みと言ってもいい。
脂っこいものなど食べた覚えもないのに、ムカムカとする胃は朝から何も食べていない筈なのに一向に収まる気配がない。
そう考えると、やはり昨日の賞味期限が過ぎ去った肴がまずかったのだろうか。
それに加えて持病の偏頭痛まで添えられたとなれば機嫌が悪くなるのも仕方ない。
今日はいつもより更に切り上げて家で休もう。
そう決意したのも束の間で、けたたましくなり出したスマホのディスプレイを確認すると私は通話ボタンをタップした。
「もしもし、私です」
「新手の詐欺ですか?生憎間に合ってます」
「おい」
「ハハ、冗談。どうしたの七海」
気が置けない相手からの連絡に私は軽口を叩きながら笑みを溢す。
彼は高専時代からの同級生であり、現在の同僚であり、交際三年目になる私の恋人だ。
既に十年程の付き合いとなれば互いの扱いなど十二分に心得ており、それこそ身体の黒子の数さえも把握していてもおかしくない程の深い仲。
電話口の私の声から体調を悟ったのか、一応は恋人を気遣う様子を見せたかと思いきや、七海の態度は私の昨日の食事内容を聞くと一変する。
「どうせまた冷蔵庫に入っていた古びた食材を食べたんでしょう」
「あはは〜…だって納豆もキムチも発酵食品じゃん?冷蔵庫で多少発酵に拍車が掛かっても問題ないでしょ」
「発酵と腐敗の違いも分からないのか」
「賞味期限は美味しく食べれる期間だから少しくらい過ぎても大丈夫だって」
「その少しの期間の認識に誤差がありすぎて消費期限をすぎて居ることにさえ気づかなかったと。…馬鹿なんですか」
七海の辛辣な言葉は私の軽口を全力で打ち返して来る。
こんなやりとりが楽しいから、七海と居るのは飽きないし何だかんだ文句をいいながら世話を焼いてくれる彼の事を心底好きだと自覚して居るのだけれど、相手からは私のだらしない私生活に対する苛立ちが伺える。
互いに一級術師として前線を担う私達に、休みというものは滅多にやってこない。
更に言えば一緒に休みを取れた日など果たしていつだったかさえ記憶に無い。
そんな中でも順調に恋愛関係を続けていられるのは、私が休みの度に七海が早く仕事を切り上げて自宅で食事を振舞ってくれたり、前日から泊まりに来るよう誘ってくれるからであり、そこで前回の二人揃っての休みが四ヶ月ほど前だった事に気がついた。
長きに渡る禁欲生活の日々に、ただでさえ性欲お化けの七海が特級呪霊に変態したと思えたあの日。
私は翌日、朝日を拝めたことに心底感謝した気がする。
「で、体調はどうなんですか」
「大丈夫だよ。ちょっと胸焼けがして、天気がぐずつきそうだから偏頭痛がするだけ」
「アナタの頭痛はしんどい時の合図でしょう。今日は定時で上がりますから、私の家に来てください」
「そんな心配しなくても良いのに」
「私が会いたいから来い」
現実に引き戻された七海の言葉に大したことは無いと伝えたものの、やはり長い付き合いとなれば些細な言葉も見落とすことがないらしい。
加えて少し強引ではあるが可愛らしいおねだりなんてされてしまうと不覚にも胸は高鳴り、二つ返事で了承すると私は後でね、と通話を終了した。
私が七海に片想いするようになったのは高専時代にまで遡る話であり、七海が一般社会で就職した後もしつこいくらいに連絡を入れては付き纏った。
飲みに行こう、あの店が美味しいなどとあの手この手を使っては七海の貴重な夜の時間をどれほど浪費させたか計り知れず、同期のよしみなのか。
私の誘いには余程忙しくない限り乗ってくれる七海に淡い恋心が燃え上がるまでは時間が掛からなかった。
七海が高専戻ってきてくれた時は本当に嬉しかったし、いっそ告白してしまおうかとも考えたけれど私達はかつてクラスメイトを失ったと言う苦しい思い出を抱えて居るが故になかなか一歩が踏み出せず…。
…確か、酔った勢いで私がベッドに引き摺り込み、半ば責任を取らせるような形で交際に持ち込んだ気がする。
そんな始まりの恋人関係だったのに、そのうちただの同僚に戻るのだと思われた関係は変わる事なく、七海は当たり前に私を自分の内側へ招き入れてくれて。
それが嬉しくて一層好きになっていった。
「さぁて、仕事頑張りますか」
体調不良は先程の可愛らしい七海のお陰ですっかりとはいかなくとも随分良くなったように思えた。
気合を入れ直し、夜のお楽しみの為に張り切った私の体調は一時はマシになったと思えたのに…。
時間の経過と共に悪化を辿り、就業時刻寸前には微熱っぽさまで感じるようになっていた。
「だる…」
仕事をなんとかこなして身体を引き摺るように七海の家に向う。
いつでも来てくださいと渡された合鍵は自分の家の鍵と常に隣り合っており、躊躇う事なく鍵を開けると七海の家の香りが鼻を擽る。
私が少し早く着いてしまったから当然七海の姿はまだ見えず、熱っぽさや怠さからか眠気まで襲ってくるとノロノロとリビングへ向かった私はそのままソファに寝そべっていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
目が覚めると何かを刻むような規則的な音が耳に届いた。
身体を起こすと怠さは軽減しており、寝ぼけた目を擦りながらキッチンに視線を向けると七海が慣れた手つきで食事を作って居る姿が目に留まる。
夏場と言えどエアコンの効いた部屋で何も羽織らず寝るのは良くないと思ったのか私の身体にはブランケットが掛けられており、七海の気遣いにまた心が暖かくなったのも束の間だった。
「…ゔッ」
「如月、起きたんですか。今日は…」
「ごめ、無理…」
七海の言葉を振り切り口元を押さえた私は猛ダッシュでトイレに駆け込むと何度も嘔吐く。
しかし朝から何も身体に入れて居なかった胃は吐き出すものが無く、大きく息を吐き出して呼吸を整えると洗面で口を流してリビングへと戻った。
何事かと呆けたままの七海は私の姿を見るなり掛け寄ってくれて、熱を確かめる為なのか額に押し当てられた手が心地いい。
「七海の手きもちぃ…」
「アナタ、本当に大丈夫なんですか?」
「へーきぃ。でもさっきの匂いヤバかったわ。なんかしてた?」
「米なら炊いてましたが…アナタはパンが好きではないですし」
デンマークのクォーターである七海は食事も洋食中心だった。
一方で私は和食大好き人間の日本人。
刺身、煮物、焼き魚は生き甲斐であり米は正義。
そんな私に合わせて和食を勉強してくれた七海は最早料亭に出しても見劣りしない和食を私に提供してくれて居るし、そう言う尽くしてくれる感じを出されると堪らなくなる。
再びソファに戻された私には先程の不快感も無くなっており安堵したけれど、用意された食事を平らげられるかと聞かれたらそれは疑問だった。
「ごめん…今日、食べられないかも」
「それは構いませんが、本当に大丈夫なんでしょうね」
「大丈夫だよ。ママミンのご飯食べられなくて残念」
「引っ叩きますよ」
ヘラヘラと笑う私の姿に七海は眉間の皺を深くした。
それは私の体調を心配してくれて居るからであり、明日出勤したら一度硝子さんに相談して、ちゃんと検査を受けるべきか考え始める。
こんな形で任務に支障をきたしたくは無いし、七海に心配を掛けてしまうのは胸が痛い。
発酵食品は腐敗食品になると特級呪霊並みにやばい事になる。
この日私はそう認識した。
七海は私の様子をしばらく窺ってからキッチンに舞い戻り、形だけでもと用意された食事を見るとほんの少しだけ食指が動いた気がする。
けれどそれは私の為に作られた和食ではなく、七海が自分の夕飯用に作ったであろうサンドイッチだった。
「ママミン、そっち少し食べてもいい?」
「まだ続くんですか、それ。生憎、育てた覚えならありますが生んだ覚えはありません」
「育てた?」
「女性としてこれ以上ない程立派に育ちました」
「セクハラじゃん」
「そのせいで虫除けが大変です」
「自業自得」
まさかここに来てこれまでにベッドで仕込まれたあれこれの話されるとは思わなかった。
子供には絶対聞かせられない話だし、私の沽券にも関わる。
七海は、はっきり言えばその血のせいなのか欲が強い。
それはもう日本人男性が驚き慄くほどに強い。
本気を出されたら日頃鍛えて居る私でも翌日は身動きが取れなくなる程なのだから、一般女性を捕まえたら相手が腹上死するのは時間の問題だとさえ思えてしまう。
自分のものだと言うのに席についた私の目の前に差し出される真っ白なお皿。
残して良いから食べられるだけ食べておけと言われ、ハムとチーズとレタスの挟まれたシンプルなサンドイッチを口に運ぶと、普段は口の水分が持っていかれると嫌って居たパンが何故かとても美味しく感じた。
「七海、何これ美味しい」
「なんの変哲もないサンドイッチです。珍しいですね、アナタがパンを食べたがるなんて」
「ねぇ。なんだかパン好きになったかもしれない」
「それなら私は嬉しい限りです」
結局、お皿に乗せられたサンドイッチの半分を食べ終える頃に私の胃袋は限界を迎えてしまった。
今日初めてまともに摂取した食事にやっと胃の不調も治まり、体調も良くなって来ると今度は猛烈な眠気が襲い掛かり私は大きく欠伸をする。
七海は私の半分の時間で私が食べきれなかった食事を平らげるとキッチンに戻り片付けを始め、それがひと段落したのかソファに座ったまま今にも眠りそうな私に向かってベッドに行けと指示が飛ぶ。
「お風呂…」
「明日にしなさい。眠いなら早く寝てしまったほうがいい」
「…しないの?」
「不調の恋人の寝込みを襲うほど落ちぶれては居ません。ほら、行きますよ」
無抵抗な私はあっさり七海に抱えられ、それはもう様々な事を仕込まれた寝室へと連行された私は労わるようにベッドに寝かされると先程使っていたブランケットが胸元まで掛けられる。
ベッドの端に腰掛けた七海はまるで子供を寝かしつける母親のような手つきで私の頭を撫で、次第に瞼が重たくなっていくのを感じた。
二人で寝ても狭い思いをしなくて良いようにと、付き合い始めて直ぐに買い替えられたベッドはあれだけ無茶を強いてもまだ現役であり、寝心地は自分のワンルームマンションのベッドとは比較にならない。
更に大好きな七海の匂いもするとなれば此処は天国かと錯覚さえ抱けそうだ。
「下らない事を言って居ないで早く寝ろ」
「声に出てた?」
「アナタは昔から色々とダダ漏れていますよ。シャワーを浴びたら、私もすぐに来ます」
「しないんじゃなかったの?」
「アナタを抱き枕にする権利くらいは有るでしょう」
そう言って七海は私の髪を僅かに乱し、部屋を後にした。
先程のまで七海が座って居た場所にはまだ温もりが残されて居てエアコンの冷風で徐々に消えていくそれに、同じ家にいると言うのに寂しさを覚える。
コロンと寝返りを打てば隣にあるのは彼の枕で、加齢のせいか枕元の抜け毛が気になり出したからと洗濯の頻度が高くなった枕カバーからは残念ながら柔軟剤の香りしかしなかった。
早く来ないかと期待するほどに時間の経過は遅く感じるものだ。
コロコロと広いベッドの上を横断して遊んでいるとそのうち眠気はピークになり、七海が来たらすぐに起きるんだと決意だけはしたものの、私はそのままぐっすり夢の中。
目覚めた時には二人で大の字で寝ても十分余裕があるはずのベッドの中で七海の腕も、脚も、私に絡みついて居た。
「七海ぃ」
「…んん」
「七海、起きて。私今日も朝から仕事」
「…有給休暇で」
「それが出来たら呪術界はブラック企業なんて言われてないから」
比較的寝起きの悪い七海は、私が泊まる度にこうして小さな駄々をこねる。
はっきり言えば可愛い。
可愛くて仕方がないから、しょうがないと言ってそのままベッドで一日にゴロゴロして七海を甘やかしてやりたい衝動に駆られるけれど、生憎私は大人だ。
私生活はだらしなくても仕事はちゃんとしなければ己の社会的信用に関わる。
外しても外しても纏わりついてくる腕を嗜める為に寝巻きから覗く真っ白な肌を小さくつねると、眠気を残した目を細めて七海は不機嫌さを露わにしていた。
「…体調は?」
「ぼちぼちかな、今日硝子さんに相談してくる」
「そうしてください。何かあったら直ぐに連絡を」
「はぁい。じゃ、支度するからさっさと離して」
「…もう少し。あと五分だけ」
擦り寄って来る七海の柔らかな髪が肌を擽る。
やって居ることは子供と変わらない癖に無駄に良い声が耳元で響き、私の鋼の筈の理性を陥落させようとしてくる。
一見隙のなさそうな男が無防備な姿を晒して甘えてくる…。
どうやら私はそう言ったギャップにとことん弱いらしい。
それが七海相手となれば、最早彼の言う言葉に頷く以外の選択肢がなくなってしまうほどに。
それでも時間というものは平等に迫ってくるものであり、昨日はシャワーも浴びずに寝てしまったのだから何が何でも身体は流したい。
流石に七海も駄々を捏ねては居るけれど良識のある大人。
いよいよ間に合わなくなるであろう時間が近づいてくると、名残惜しそうに私の身体に巻きついて居た腕が離れていき、私はすかさずバスルームへと駆け込んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
高専に着くと、同時に出社した筈の七海は朝から任務が入って居るわけではないらしい。
今から向かう予定だった私の任務は自分が変わるから、さっさと家入さんにみてもらえと言い残して伊地知を連行して行ってしまった。
仕方なく向かった医務室。
扉を開けると独特の医薬品の香りが何故か心地よく感じるのは日頃から足を向けて眠れないほどにお世話になっているせいなのか。
朝イチからの来客に机に突っ伏した硝子さんは訝しげな顔をしてこちらに視線を移し、その目の下には気の毒なくらいの隈が遠目にもくっきりと刻まれて居る。
「なんだ、真那か。どうした」
「あ〜…。あのですね」
そうして私は数週間前から始まった体調の変化を包み隠さず彼女に話した。
学生時代からお互いが唯一の同性だった事もあり、七海さえも知らない女の事情という内緒話を肴に何度酒を飲んだかわからない。
恋愛相談も、七海へのアプローチのアドバイスも全部硝子さんから伝授してもらったものであり、そのお陰で今は幸せ絶頂なのだから感謝してもしきれない。
「胃のムカつき、頭痛、倦怠感、微熱、眠気、吐き気…他に思い当たるのは?」
「何か匂いに敏感になった気がする。それと、苦手だったパンが美味しかった、かな」
とりあえず認識している症状はこれで全てのはずだった。
全く動けなくなるわけではないけれど、こうも長引く不調は流石に堪えるし任務にも支障をきたすのでは無いかと不安になる。
きっと大したことでは無いし、直ぐに良くなる。
私はそう確信を持って居たのに硝子さんの表情はどんどん険しくなるばかりで。
唐突にスマホを取り出し誰かに連絡をした彼女は、短い通話を終えると一枚の紙切れと一本の謎の箱を私に差し出した。
「念のために聞いておくが、最終の生理はいつか覚えているか?」
「…はい?えっと、不順だからいつだったかなぁ…」
「ここ数ヶ月の間に性交渉は?」
「…アハハ、記憶にしか御座いません」
そこまで言われると自分の中にもある可能性が芽生え始めていく。
いや、寧ろこれまで予兆が出まくって居たのにその可能性に至らなかったことが不思議だと思えるほど。
だけど七海は避妊をしっかりして居た筈で、平静を装っても頭の中はなんで、どうしてと大混乱だ。
兎にも角にも今手渡された検査薬を試し、硝子さんは専門外になるから陽性なら直ぐに病院に行ってこいと告げ、手渡された用紙を握りしめると私はトイレに向かうしかなかった。
祈るような気持ちとはこういう事を言うのだろうか。
七海との子供なら絶対可愛い。
男でも女でも溺愛できる未来しか見えないし、けれどそうなった場合私は一線から退かなくてはならない。
それに…七海がこの現状をどう受け止めるのかはわからない。
結婚を考えたことは大いにあるけれど、それを七海に振ったことは一度もなかった。
結婚を迫ってフラれたなんて話は世の中幾らでも転がっているし、私達の職業は悲しきかなそういうものと縁が薄い。
判定が出るまでの数分が何時間にも思える程に長く思え、恐る恐る覗き込む検査薬には…硝子さんの予想通り二本の線がはっきりと刻まれて居た。
「硝子さん…事件です」
「そうか。めでたい事件でよかったな。今直ぐ病院行ってこい」
「まだ何にも言ってない!!!」
私の顔色、態度から全てを予想した彼女はエスパーなんじゃ無いかと思う。
予期せぬ出来事に私の頭は完全にパニックに陥り、半ベソで今にも泣きつきたい衝動にさえ駆られた。
そうは言っても、硝子さんの所見と検査薬だけでは確定とは言い難く、知人がすぐに見てくれるから行ってこいと促され、私は不安を抱えたまま人生初の産婦人科の門を潜ることになってしまった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「…どうしよう」
診察を待つ間は断崖絶壁に追い詰められたような気分だった。
それこそ、目の前に勝ち目のない両面宿儺レベルの特級呪霊が三体程居るような心持ち。
名前を呼ばれ、初めて乗る内診台に羞恥など覚える暇もなく、おめでとう御座いますという言葉と共に目の前のモニターにはトクトクと鼓動を刻む小さな命。
十二週程だと診断を受け、手渡されたエコー写真には人とは到底思えない小さな物体が映し出されており、なんとも言い難い気持ちになる。
自分のお腹の中に別の命があるというのは実に不思議な感覚だった。
今後の説明なんて聞いたところで頭に入ってくる筈もなく、促されるまま手渡された書類を持って役所に向かうと母子手帳やら、産後不可欠になるであろうあらゆる試供品を渡されて私は抜け殻のようになっていた。
…七海に何て説明をしようか。
二人の子供なのは間違いないけれど、やはり男側としては避妊をして居た事実がある以上疑わしい気持ちが芽生えるのだろうか。
誰の子か、本当に自分の子なのか…なんて聞かれたらその場で私は領域展開するかもしれない。
「どうしよう…」
妊婦だと言う自覚が芽生えると一層不調に拍車がかかる気がした。
いつもなら余裕で歩ける筈の距離に疲れを感じ、通りがかった公園のベンチに腰掛けて辺りを見渡すと日中の公園という事もあり、幼子を連れた母親の姿が多く見受けられる。
無意識に私の手が腹部を撫でた。
まだ胎動すら感じず、膨らみもない腹部の中には間違いなく七海の子供がいる。
正直言えば不安しかないけれど、このまま話さずに居るわけにも行かない。
意を決して七海に連絡をしようとカバンに突っ込んだままだったスマホを取り出すとホーム画面を見た瞬間、私の目は点になって居た。
「なんじゃこりゃ」
信じられない数の着信。
その九割が七海のものであり、LINEの通知も尋常ではない。
とりあえず一割の方から先に確認しようと硝子さんの画面を見ると、私の行動を予測して居たのか七海には軽く説明してあるから用が済んだら帰れ、との文字…。
なんて事をしてくれたと画面を割りそうなほどスマホを握りしめ、七海の連絡を確認しようとした瞬間。
ブル、と震えたスマホに驚き相手も確認しないまま通話に応じると電話口からでも怒りを感じさせる七海の声が聞こえた。
「今どこに居る」
「…七海?」
「どこにに居るかと聞いている」
「あ…。七海の家の近くの、公園…」
直ぐに向かうからそのままで居ろと言われ、私の顔はどんどん青褪めていった。
とりあえず今し方もらったばかりのあらゆるパンフレットを一纏めにしてカバンに押し込み、少しでも元気に見えるように呼吸を整え、どう話をしようと頭をフル回転させて居る間に時間は相当流れて居たのか。
普段では想像もつかない程に息を切らせた七海がこちらにやってくる。
「如月!」
「七海…えっと、あの」
「話がある。今直ぐ家に来なさい」
「…はい」
厳しい口調は明らかに怒気と焦りを孕んでいた。
全てを隠したカバンを握りしめながら七海の隣を歩く間は生きた心地がせず、足元ばかりを見つめて歩く私に七海の視線が向けられて居たことなど気づく余裕も無い。
いつもなら浮かれながら向かう道程も、今日は断頭台にでも乗せられるような思いで。
生きた心地など全くしなかった。
「私に話す事がありますよね」
テーブルに腰掛けた瞬間、尋問かと思いたくなるような言葉に思わず私は縮こまった。
数回しか見たことが無いが、いつもの戯れあいとは違う雰囲気は間違いなくガチギレと言っていいだろう。
会話の糸口を探してもこの雰囲気の七海を相手にすると流石の私でも恐怖を覚えた。
積もり募った不安、自分じゃどうしようもない体調不良、うまいこと回ってくれない働かない頭。
もどかしさが限界を超えていき、苛立ちを募らせた七海の方を向く事も難しくなっていく。
「家入さんから少し話は聞いて居ます。現在のアナタの状態に出来ることがない事も」
「そう、だね」
「治らないと言っても私は納得できません。アナタが元気になるならいくら金と時間を積んでもいい、治療法を探しましょう」
「…ん?」
何故か会話に違和感を覚えたのは気のせいではないだろう。
妊婦の体調不良というのは病気ではない。
その点についての認識は間違っては居ないし、大半の場合は時間の経過と共に落ち着くと言うのは聞き齧った知識だけの私にも分かる。
しかし、七海の言葉をそのまま捉えて良いのならきっと何か勘違いをしている気がしてならない。
それこそ、私が死ぬまでには至らなくても治る見込みの無い病にでも罹ったかのような…。
彼の顔は真剣そのものだった。
けれど勘違いしているかもと思った瞬間、言葉の足りない硝子さんに苛立ちはあったが、七海は私の為を思ってあれこれ考え、心配して探し回って駆けつけてくれたのだと考えたら…はっきり言って惚れ直した。
「…何を笑っている?」
「え、ごめん…ちょっと…」
クスクスと肩を揺らし始めた私に七海は何を思ったのだろう。
まさか自分がとんでもない思い違いをしているとは思って居ないのだと思うと余計に愛おしくて、嬉しくて、それと同時に面白くて。
私の笑いが止まることはなく、痺れを切らせた七海は声を荒げて居た。
「ふざけるな、私がどれだけ心配したと思っている」
「な、なみ…?」
ガタンと大きな音を立てて明日から立ち上がった七海の視線は私を捉え、心の底から…怒って居たように思う。
鬼のような形相で私の手首を掴んだ七海は憤り、全ては誤解なのだと言おうとした私は全身で怒りを露わにした彼の前で言葉を失った。
妊婦の症状としてよくあるのは情緒が不安定になること。
普段滅多な事で涙を見せない私もそれは例外ではなく、ぽろぽろと流れ始めた涙に私の方が取り乱してしまった。
「おこ、らないで…七海、こわい、ぃ…」
「如月…?」
わんわんと声を上げて泣き出した私の姿に、七海の怒りは空気の抜けた風船のような萎んでいく。
ただ狼狽えるだけどなった彼はいつのまにか私の方へ回り込み泣き止むまで背中をさすってくれていた。
やっと落ち着いたのは三十分程経った後。
その間にも途中で気持ちが悪くなり、二回程トイレに駆け込んだ。
訳のわからぬまま私の説明を待つしかない七海の顔色は赤くなったり青くなったり…。
流石に可哀想に思えてしまい、やっと決意を固めて彼と向き直った私は、至極真面目な口調で話しはじめた。
「七海、子供はどうしたらできるか知ってる?」
「は?」
「因みにコウノトリさんは運んできてくれません!」
「当たり前でしょう。男女の関係があって出来るものです」
「その通りです。でも避妊してたら出来ないんです。…けど私には、七海以外に覚えがないんです」
そこまで伝えた私はカバンの中から先程受け取ったばかりの母子手帳を取り出した。
公園で第一子とだけ記入したそれは当然、子供の名前はまだ空欄だし、保護者の名前も書けずにいる。
シングルになる覚悟もあった。
お金はこれまで使う暇もなく貯めて居たものがあるし、あとは行政の手を借りれば大変なのは目に見えて居てもなんとかやっていけるだろうと。
七海は一瞬何が起きたかわからないと言ったように目をまん丸に見開き、私の顔を凝視するだけで…沈黙が重たく感じた。
「硝子さんに相談して、検査薬で陽性だった。…知り合いの病院紹介してもらって今日、行ってきた。
…十二週だって」
モノクロのエコー写真を取り出した私はスッとそれを七海の前に差し出した。
写真を手にした七海は不思議そうな顔をしており、私の顔、腹部、写真と視線を移している。
命を宿した私でさえ俄には信じられなかった。
七海なら立場となれば更に信じ難いものになるだろう。
「…つまり、アナタの今の症状は悪阻で、そのお腹には私達の子供がいると?」
「避妊は完璧だったって言われたら私には何も言えない。でも、七海以外には覚えもないし考えられない」
すんなりと七海の口から「私達」と言う言葉が出てきてくれたことに私は心底安堵して居た。
本音を言えば本当に自分の子かと疑われる事も覚悟して居たし今現在、領域展開の準備も半分ほど出来ている。
写真に視線を落としたまま口元を押さえる七海の目は涙ぐんでいたようにも見えて、喜んでくれているのかと…期待すらして居たのかもしれない。
私は無意識に視線の注がれている腹部に両手を添えて居た。
「私はこの子を七海の子供だと胸を張って言えるけど七海がどう思うかはわからない。失敗したから出来ちゃったなんてことも言いたくない。
ただ一つ言えるのは間違いなく私の子だから…産んで、育てたい」
そこまで言うと流石に言葉に詰まり始めて私の涙腺も緩くなっていく。
写真を握りしめる彼の手を取り、互いに鼻を啜る音ばかりが部屋に響いて居た。
これから起こるすべてのことが未知のことでしかなく、先行きは不安しかない。
それでも、隣にいるのはやっぱり七海が良い。
「…ママミンになりたいので、パパミンになってくれませんか」
「その言い方はどうにかなりませんか」
「可愛いじゃん。パパミンとママミン」
「まぁ、良いでしょう。それよりも次の検診はいつですか。それと案内や注意書き等の資料があるならすべて貸してください」
「…なんで?」
「読むからに決まってるでしょう。私達の子供のことです。私が知らなくてどうするんですか。それに身体を冷やすのは良くない、少し待って居てください」
おもむろに立ち上がった七海がリビングから姿を消した。
私の予想以上にすんなりと現実を受け入れたような姿に順応制が高いと心の中で拍手を送って居たのも束の間。
ガコッと言う鈍い音が何処かからか聞こえ、あれはベッドの角にでも小指をぶつけたのでは無いかと考えた私の予想は外れては居なかったらしい。
戻ってきた七海は、平静を装っては居たけれど顔を歪め、ほんの僅かに脚を引きずって居たように思う。
「足ぶつけた?」
「何の話ですか」
「動揺してる?」
「少し…いや、かなり」
「ねぇ…嬉しい?」
「それはもう。泣きそうな程に」
肩にかけられた七海の上着からは安心する匂いがした。
恐る恐る腹部に触れた大きな手はまだその存在を感じさせる程にはなっておらず。
それでも彼は愛おしそうに目を細めて私を優しく抱きしめた。
「ありがとうございます」
「パパミンになってくれる?」
「その呼び方はともかく、喜んで父親になります」
「…うん。しばらくエッチは出来ないけど」
「子供のためなら我慢できます。それよりも早いうちに婚姻届と引っ越しをしなければいけませんね」
「あ、そっか…」
父性というのは子育てするうちに芽生えるものだと聞いたけれど、それは人によるらしい。
少なからず今の七海は私から見ても、十分すぎるほどに父親の顔をして居た。
後日、抱え切れないほどの育児本と性別も分かって居ないのに名づけ本を買い込んだ七海の姿を目撃され私の懐妊情報はあっという間に高専に知れ渡る。
少しずつ大きくなるお腹を毎日愛でながら私達が描くのは、きっと幸せすぎる未来予想図。