愛と言う名の咎
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家入 side
伊地知からの連絡で真那が負傷した七海を連れてくると聞い時、私の胸が騒ついた。
やはり忘愛症候群とは何処までも残酷な病であり、扉の前で彼女を拒絶する声が響くと部屋にやって来たのは七海一人だった。
怪我の具合はそれなりに重症。
治療を済ませ、少し休めと無理矢理ベッドに押し込んだ七海から寝息が聞こえて来たことを確認して外に出ると、そこにはやはり身を隠す様にしながら無事を祈真那の姿があった。
救われない彼女に少しだけでも安らぎを…と。
そんなお節介を焼いたのが裏目に出たらしい。
少し外すから七海を頼むと密かな別れの時間を作り、私が医務室に戻った時には既に彼女の姿はなく、殴り込みの様にやって来たであろう虎杖と伊地知がその場に取り残されていた。
これだけ騒がしくては七海が起きるのも時間の問題。
だとすればこの状況も致し方ない事だとは思えても、ギリギリまで一緒にいさせてやりたいと思うのは私も二人の幸せを心の底から喜んでいた一人だからだろう。
虎杖が真那の目に触れてしまった事で自体は更にややこしくなりかねないと思われたが、伊地知の懇願と彼女の推察力のお陰か。
口外はしないと言う約束は取り付けたらしく、虎杖には行動を慎む様に私達から厳重注意を行う事で取り敢えずは良しとすると真那と接触した虎杖は私に疑問を投げかける。
「なあ、家入さん。あの人起きるまでナナミンの側にいなくて良かったんかな?俺、てっきり恋人かと思ったんだけど。お似合いじゃね?…けど何かすげぇ寂しそうな顔してたんだよな」
虎杖の言葉は実に的確なものだった様に思える。
コイツは一見何の考えもない様に見えても人の本質を理解できる子だ。
私は思わず奥歯を噛み締めて居た。
七海と真那…。
彼らがかつてどれ程互いを慈しみ、労わり、愛して合って居たかを知る人間からすれば、今の状況は歯痒い以外の何者でもない。
ただ耐えるしかない忘れ去られた者。
愛する人間に嫌悪、憎悪され近づくことされ許されない。
それでも…彼女はまだ、七海の事を心底愛しているのだろう。
「そうだな…私もそう思う。あれはきっと、一途な女神だよ」
私の言葉に虎杖は首を傾げながらも女神みたいに優しそうだなと和やかに微笑んだ。
私と伊地知は、その言葉にただ胸を痛めるしかなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
五条さんが出張先から帰還し、彼の存在を知ってしまった私は虎杖君とほんの少しだけ接点が出来る。
事情を知り、口の固い人間が一人でも多く欲しいと言う事から自分が呪術師だった頃の話や、戦闘の上で心がける事だったりを主にアドバイスした。
伊地知さんよりはそう言った事に少しだけ長けていた私は、引き継ぎを終えてもうすぐ此処を去る事もあり時間に余裕があったので適任だったのだろう。
彼は相変わらず私に対して屈託なく笑いかけてくれた。
建人さんとの事を深く聞くこともせず、私の話を興味津々と言った様子で聞き入ってくれる姿は可愛らしくて。
役に立つとお礼を告げられる私の方こそ、彼に癒されて居たのかもしれない。
私が彼にしたアドバイスはその殆どが昔、建人さんが私に教えてくれた事だった。
呪術師としてやっていけるのかと不安を抱えるたびに彼は忙しい合間を縫って私の話に真摯に耳を傾けてくれて居たから。
…けれどそれも、もう過去のこと。
交流会当日、私は五条さんに呼び出され職員寮のロビーに向かうと其処には何故か建人さんがソファで寛いでおり、その側で五条さんも彼に絡み、揶揄って会話をしている。
私が入り込む余地など無いのに何故呼び出しなどしたのだろうか。
私の存在に間違いなく彼は苛立っていると言うのにそんな事は気にも留めず、私にまで話を振って来られると言葉を詰まらせるしかなかった。
居心地の悪い時間というのはとても長く感じるものだ。
まだ三十分と経過して居ない筈の時間が半日ほどにも思えてしまう。
虎杖君が早く皆に会いたいからと五条さんを催促に来てくれたのは僥倖としか思えず、サプライズをやろうと言う五条さんの言葉に彼は目を輝かせる。
その準備を始める最中でやっと私は、自分が数日後に京都に行くという旨を伝えたものの、五条さんはその理由の全てを知って居る。
虎杖君は少し寂しそうにしながらも頑張ってと励ましの言葉をくれたけれど、建人さんは…何も言わなかった。
それが当たり前の反応だ。
迷惑をかけるなと叱咤されなかっただけましなのだろう。
建人さんは苛立ちを吐き出すかの様に深いため息を吐きながら私を避ける様にすり抜けて行き、その後ろ姿を見送る事すらできなかった。
周りの音など全てが無くなってしまったように思えて。
立ち尽くす私の様子を虎杖君は心配そうにしてくれたけれど、時間が迫って居るからと早く行く様に促して覇気のない笑顔で手を振った。
「なぁ、先生。ナナミンって如月さんの事嫌ってんの?すげぇイラついてたよな。俺、最近良く話す様になって思ったけど如月さん、優しいし気配りとかスゲェし、この間ナナミンの看病してたからてっきり恋人かと思った」
「…そうだね。悠仁にはちょっと難しいかも知れないけど七海のアレはさ、きっと愛しすぎた故の代償なんだよ」
そんな会話がされて居ることなど知る由もない。
私は二人の姿が見えなくなったのを確認してから自室に戻り荷物の整理を始めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
姉妹校交流会というのは団体戦、個人戦と二日間に分けて行われる。
毎年初日は団体戦となり、その両日が無事に終わった後に私は此処を去る事になって居た。
既に近しい人には挨拶も済ませ、同僚達からは厄介者が居なくなると手放しで喜ばれた。
…京都では、どうか穏やかに過ごせたら。
そんな望みを託しながら交流会の開始の合図を聞き、私は一番最期に撮った写真とスマホだけを手にして思い出の詰まる校内を散策し始める。
今は咲いて居ない桜の木の下は私が彼を初めて目にした場所だった。
舞い落ちる花びらを頭に付けて、それに気づきもしない彼が少し可愛らしくて。
私が手を伸ばすと腰を屈めて照れ臭そうにして居たのを今でもはっきりと覚えて居る。
高専時代は隣り合う事の無かった教室で、時折姿を見かけるだけで胸を高鳴らせた。
会話ができた日にはその日一日がとても充実していた。
彼が二年の時に親友であるクラスメイトを亡くしたと語ったくれた時には私の方が泣きじゃくってしまった。
だから呪術師にならないと言われた時はほんの少し寂しかったけれど、それもいいのでは無いかと背中を押した。
在学時代の一年の思い出は全てがまだ色鮮やかなもので、目を細めれば直ぐにでもその影を追いかけられる。
縋り付く思い出をひとつひとつ振り返り、時折聞こえる大きな音に交流会も盛り上がっている頃だろうと会場に視線を向けた時だった。
「…帳?」
生徒たちが居るであろう区画に突如、黒い幕が下ろされていく。
交流会とは仲間を知り己を知ることを目的とした呪術合戦であり、帳など下ろす必要がないと言うのに…。
今年の学生達はそこまでしなければならない程の力を持っているのだろうか。
…それとも、何か別の意味があるのだろうか。
この時、僅かな胸の騒めきに従い部屋に戻ってしまって居たら。
きっと私の運命は違ったものになって居たのだろう。
けれどもう訪れる事が無いと考えてしまうと、どうしても全てを見て回りたいと言う気持ちの方が優ってしまった。
幸いにも今日は交流会をして居るから、高専に待機命令が下されて居る呪術師以外は抜けた穴を埋める為に補助監督と共に殆どが出払って居り、誰の視線も気にする事なく外を歩ける最期の日だったから。
「…あれ、は」
それは記憶する限り忌庫に繋がる扉の一つだったように思う。
高専にある寺社仏閣はその殆どがハリボテとなり、天元様の結界術により日々その位置を変えて居る。
その中には特に危険度の高い呪物が保管されており、容易に入ることはできない筈だった。
横たわる二つの影の存在に私は急いで駆け寄り、その姿を確認して息を呑んだ。
服装は明らかに忌庫番のものだった。
しかし、不自然に膨れ上がった頭部は明らかに尋常では無い何かが起こった事を示唆して居る。
突然降りた帳、そしてこの異様な光景に速やかに誰かに連絡をするべきだと本能が警鐘を鳴らし始め、私がスマホを取り出した時だった…。
「だぁれだ」
「ひっ…」
突然降りかかった声に慄き、私は手にして居た写真もスマホも地面に落としてしまう。
聞き覚えのない不気味な声。
ぎこちない動きで首だけを捻ると、人の形をしながらも明らかに人間では無いツギハギの顔が直ぐそばで私を捉える。
呪力もそこそこ、術式も満足に使えず連絡手段を自ら手放してしまった私には対抗する術などあるはずも無い。
私が身を震わせて居ると、落とした写真とスマホの画面を見たそれは至極楽しげな声色で問いかけてくる。
「ねぇ、君さぁ。七三術師の知り合い?」
「建人さんの、事ですか…?」
七三と言う単語に私は咄嗟に彼を思い浮かべた。
完璧な意思疎通まで行えるこの人型の呪霊は恐らく特級相当。
そう仮定すると、彼と面識がある事を踏まえて先日の怪我の件もこの呪霊が関わって来るのかもしれない。
私の予想は大凡正解だったと言えるのだろう。
何度か付き合って貰ってるんだよ、と言う言葉に彼はこんな化け物の様な相手と対峙して居たのかと身の毛がよだつ。
「ああそっか、君のこれってさ、結婚ってやつ?永遠の愛を誓うとかそう言うのだよね」
写真、スマホの画面、私の左の薬指。
順に視線を移していく呪霊にぞわ、と背筋に悪寒が走る。
逃げなければ待って居るのは確実に「死」だと理解は出来るのに、まるで脚を何かに絡め取られたかの様に動かす事ができず、私はそれの言葉に何も返せなかった。
「その内、彼とはまた会う気がするんだよね。俺、ちょっといいこと思いついちゃった。ここで会ったのも何かの縁だから君さ、彼への手土産になってくれない?」
それが何を言って居るのかを理解するのに時間は掛からなかった。
けれど今の私は彼にとって人質としての価値すらない。
ただ私の死は彼の嘆きに繋がるからと、自身が苦しみから解放されたいと願う傍らで命を繋ぎ止めるだけなのだから。
私が自分にそんな価値は無いのだと口にしようとした時、唐突に感じた左腕の熱。
ツギハギが手を置いた箇所から不自然な何かが流れ込むと私の腕は雑巾でも絞る様にあり得ない方向へと捻れ、ミチミチと鈍い音を立てた刹那…弾け飛んだ。
「…あ、あ゛…!!!」
突然の衝撃に思わず地面に膝をつく。
少し離れた場所まで飛ばされた腕は薬指に手放したくない指輪を残したまま、私の身体から引き離されていった。
とめどなく流れる血液が地面を一瞬にして赤く染め、痛みで倒れ込んだ私の姿をみて、それは歪な笑みを浮かべる。
焼け付く様な痛みが全身に周り、悲鳴さえも上げられなかった。
ほんの数メートル離れた先にある腕の元へ何としても行きたくて、痛みに顔を歪めながら地面を這う私の姿を、それは芋虫みたいだと言って嗤っていた。
死ねない…。
仮に私が死んでしまったら、彼が全てを思い出してしまうのだから。
私に出来ることは、彼の前から姿を消し今を思い出に変えて遠くから彼の幸せを願うことだけなのに。
今はそのたった一つの願いさえも理不尽に踏み躙られようとして居る。
「頑張るね。そんなに大事?」
必死に這いつくばる私をあっさりと通り過ぎて、それが私の腕を持ち上げる。
赤く染まった肌、二度と動く事のない指、滴る血液を舐めとる姿に総毛立つ感覚さえ抱き、やっと足下まで辿り着いた私はそれの脚を爪が食い込むほどに鷲掴んだ。
「かえ、して」
「アハハ、凄いな。こんなに弱いのにたかが金属の塊一つに必死になって。ねぇ、君の無惨な姿を見たら、彼はどんな風に血を流すと思う?俺はさ、きっと魂の奥底から真っ赤な血を吹き出してくれるんじゃないかって期待してるんだ。だからさ、俺のおもちゃになってよ」
想像を絶するほどの恐怖。
私の目線に合わせる様に腰を落としたそれはゆっくりと私に手を伸ばした。
…私の目の前に、冥府の扉が開かれていく。
自分と言う存在が捻じ曲げられていく感覚がした。
深い深い奥底、厳重な扉の中に隠してある私の本質を歪められていく様な、苦しみなんて言葉では到底言い表せられない責め苦。
必死の抵抗をしたのに、それの前では私の存在は蟻程度のものでしかないのだろう。
ぐちゃぐちゃに歪められていく何か。
決して他人には触れられない、触れさせてはいけない部分を乱暴に素手で掴み取られていく恐怖。
…苦しかった。
けれどもう、言葉ひとつ私に紡ぐことはできなかった。
せめてもう一度姿を見たかったと思う私は、どこまでも愚かな女だったと自分でも思う。
ただ誰もが望み、憧れ、辿るであろう幸せを夢に描いただけなのに…それの何がいけなかったのでしょうか。
建人さん…。
愛しています。
…でも、もう…疲れてしまった。
伊地知からの連絡で真那が負傷した七海を連れてくると聞い時、私の胸が騒ついた。
やはり忘愛症候群とは何処までも残酷な病であり、扉の前で彼女を拒絶する声が響くと部屋にやって来たのは七海一人だった。
怪我の具合はそれなりに重症。
治療を済ませ、少し休めと無理矢理ベッドに押し込んだ七海から寝息が聞こえて来たことを確認して外に出ると、そこにはやはり身を隠す様にしながら無事を祈真那の姿があった。
救われない彼女に少しだけでも安らぎを…と。
そんなお節介を焼いたのが裏目に出たらしい。
少し外すから七海を頼むと密かな別れの時間を作り、私が医務室に戻った時には既に彼女の姿はなく、殴り込みの様にやって来たであろう虎杖と伊地知がその場に取り残されていた。
これだけ騒がしくては七海が起きるのも時間の問題。
だとすればこの状況も致し方ない事だとは思えても、ギリギリまで一緒にいさせてやりたいと思うのは私も二人の幸せを心の底から喜んでいた一人だからだろう。
虎杖が真那の目に触れてしまった事で自体は更にややこしくなりかねないと思われたが、伊地知の懇願と彼女の推察力のお陰か。
口外はしないと言う約束は取り付けたらしく、虎杖には行動を慎む様に私達から厳重注意を行う事で取り敢えずは良しとすると真那と接触した虎杖は私に疑問を投げかける。
「なあ、家入さん。あの人起きるまでナナミンの側にいなくて良かったんかな?俺、てっきり恋人かと思ったんだけど。お似合いじゃね?…けど何かすげぇ寂しそうな顔してたんだよな」
虎杖の言葉は実に的確なものだった様に思える。
コイツは一見何の考えもない様に見えても人の本質を理解できる子だ。
私は思わず奥歯を噛み締めて居た。
七海と真那…。
彼らがかつてどれ程互いを慈しみ、労わり、愛して合って居たかを知る人間からすれば、今の状況は歯痒い以外の何者でもない。
ただ耐えるしかない忘れ去られた者。
愛する人間に嫌悪、憎悪され近づくことされ許されない。
それでも…彼女はまだ、七海の事を心底愛しているのだろう。
「そうだな…私もそう思う。あれはきっと、一途な女神だよ」
私の言葉に虎杖は首を傾げながらも女神みたいに優しそうだなと和やかに微笑んだ。
私と伊地知は、その言葉にただ胸を痛めるしかなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
五条さんが出張先から帰還し、彼の存在を知ってしまった私は虎杖君とほんの少しだけ接点が出来る。
事情を知り、口の固い人間が一人でも多く欲しいと言う事から自分が呪術師だった頃の話や、戦闘の上で心がける事だったりを主にアドバイスした。
伊地知さんよりはそう言った事に少しだけ長けていた私は、引き継ぎを終えてもうすぐ此処を去る事もあり時間に余裕があったので適任だったのだろう。
彼は相変わらず私に対して屈託なく笑いかけてくれた。
建人さんとの事を深く聞くこともせず、私の話を興味津々と言った様子で聞き入ってくれる姿は可愛らしくて。
役に立つとお礼を告げられる私の方こそ、彼に癒されて居たのかもしれない。
私が彼にしたアドバイスはその殆どが昔、建人さんが私に教えてくれた事だった。
呪術師としてやっていけるのかと不安を抱えるたびに彼は忙しい合間を縫って私の話に真摯に耳を傾けてくれて居たから。
…けれどそれも、もう過去のこと。
交流会当日、私は五条さんに呼び出され職員寮のロビーに向かうと其処には何故か建人さんがソファで寛いでおり、その側で五条さんも彼に絡み、揶揄って会話をしている。
私が入り込む余地など無いのに何故呼び出しなどしたのだろうか。
私の存在に間違いなく彼は苛立っていると言うのにそんな事は気にも留めず、私にまで話を振って来られると言葉を詰まらせるしかなかった。
居心地の悪い時間というのはとても長く感じるものだ。
まだ三十分と経過して居ない筈の時間が半日ほどにも思えてしまう。
虎杖君が早く皆に会いたいからと五条さんを催促に来てくれたのは僥倖としか思えず、サプライズをやろうと言う五条さんの言葉に彼は目を輝かせる。
その準備を始める最中でやっと私は、自分が数日後に京都に行くという旨を伝えたものの、五条さんはその理由の全てを知って居る。
虎杖君は少し寂しそうにしながらも頑張ってと励ましの言葉をくれたけれど、建人さんは…何も言わなかった。
それが当たり前の反応だ。
迷惑をかけるなと叱咤されなかっただけましなのだろう。
建人さんは苛立ちを吐き出すかの様に深いため息を吐きながら私を避ける様にすり抜けて行き、その後ろ姿を見送る事すらできなかった。
周りの音など全てが無くなってしまったように思えて。
立ち尽くす私の様子を虎杖君は心配そうにしてくれたけれど、時間が迫って居るからと早く行く様に促して覇気のない笑顔で手を振った。
「なぁ、先生。ナナミンって如月さんの事嫌ってんの?すげぇイラついてたよな。俺、最近良く話す様になって思ったけど如月さん、優しいし気配りとかスゲェし、この間ナナミンの看病してたからてっきり恋人かと思った」
「…そうだね。悠仁にはちょっと難しいかも知れないけど七海のアレはさ、きっと愛しすぎた故の代償なんだよ」
そんな会話がされて居ることなど知る由もない。
私は二人の姿が見えなくなったのを確認してから自室に戻り荷物の整理を始めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
姉妹校交流会というのは団体戦、個人戦と二日間に分けて行われる。
毎年初日は団体戦となり、その両日が無事に終わった後に私は此処を去る事になって居た。
既に近しい人には挨拶も済ませ、同僚達からは厄介者が居なくなると手放しで喜ばれた。
…京都では、どうか穏やかに過ごせたら。
そんな望みを託しながら交流会の開始の合図を聞き、私は一番最期に撮った写真とスマホだけを手にして思い出の詰まる校内を散策し始める。
今は咲いて居ない桜の木の下は私が彼を初めて目にした場所だった。
舞い落ちる花びらを頭に付けて、それに気づきもしない彼が少し可愛らしくて。
私が手を伸ばすと腰を屈めて照れ臭そうにして居たのを今でもはっきりと覚えて居る。
高専時代は隣り合う事の無かった教室で、時折姿を見かけるだけで胸を高鳴らせた。
会話ができた日にはその日一日がとても充実していた。
彼が二年の時に親友であるクラスメイトを亡くしたと語ったくれた時には私の方が泣きじゃくってしまった。
だから呪術師にならないと言われた時はほんの少し寂しかったけれど、それもいいのでは無いかと背中を押した。
在学時代の一年の思い出は全てがまだ色鮮やかなもので、目を細めれば直ぐにでもその影を追いかけられる。
縋り付く思い出をひとつひとつ振り返り、時折聞こえる大きな音に交流会も盛り上がっている頃だろうと会場に視線を向けた時だった。
「…帳?」
生徒たちが居るであろう区画に突如、黒い幕が下ろされていく。
交流会とは仲間を知り己を知ることを目的とした呪術合戦であり、帳など下ろす必要がないと言うのに…。
今年の学生達はそこまでしなければならない程の力を持っているのだろうか。
…それとも、何か別の意味があるのだろうか。
この時、僅かな胸の騒めきに従い部屋に戻ってしまって居たら。
きっと私の運命は違ったものになって居たのだろう。
けれどもう訪れる事が無いと考えてしまうと、どうしても全てを見て回りたいと言う気持ちの方が優ってしまった。
幸いにも今日は交流会をして居るから、高専に待機命令が下されて居る呪術師以外は抜けた穴を埋める為に補助監督と共に殆どが出払って居り、誰の視線も気にする事なく外を歩ける最期の日だったから。
「…あれ、は」
それは記憶する限り忌庫に繋がる扉の一つだったように思う。
高専にある寺社仏閣はその殆どがハリボテとなり、天元様の結界術により日々その位置を変えて居る。
その中には特に危険度の高い呪物が保管されており、容易に入ることはできない筈だった。
横たわる二つの影の存在に私は急いで駆け寄り、その姿を確認して息を呑んだ。
服装は明らかに忌庫番のものだった。
しかし、不自然に膨れ上がった頭部は明らかに尋常では無い何かが起こった事を示唆して居る。
突然降りた帳、そしてこの異様な光景に速やかに誰かに連絡をするべきだと本能が警鐘を鳴らし始め、私がスマホを取り出した時だった…。
「だぁれだ」
「ひっ…」
突然降りかかった声に慄き、私は手にして居た写真もスマホも地面に落としてしまう。
聞き覚えのない不気味な声。
ぎこちない動きで首だけを捻ると、人の形をしながらも明らかに人間では無いツギハギの顔が直ぐそばで私を捉える。
呪力もそこそこ、術式も満足に使えず連絡手段を自ら手放してしまった私には対抗する術などあるはずも無い。
私が身を震わせて居ると、落とした写真とスマホの画面を見たそれは至極楽しげな声色で問いかけてくる。
「ねぇ、君さぁ。七三術師の知り合い?」
「建人さんの、事ですか…?」
七三と言う単語に私は咄嗟に彼を思い浮かべた。
完璧な意思疎通まで行えるこの人型の呪霊は恐らく特級相当。
そう仮定すると、彼と面識がある事を踏まえて先日の怪我の件もこの呪霊が関わって来るのかもしれない。
私の予想は大凡正解だったと言えるのだろう。
何度か付き合って貰ってるんだよ、と言う言葉に彼はこんな化け物の様な相手と対峙して居たのかと身の毛がよだつ。
「ああそっか、君のこれってさ、結婚ってやつ?永遠の愛を誓うとかそう言うのだよね」
写真、スマホの画面、私の左の薬指。
順に視線を移していく呪霊にぞわ、と背筋に悪寒が走る。
逃げなければ待って居るのは確実に「死」だと理解は出来るのに、まるで脚を何かに絡め取られたかの様に動かす事ができず、私はそれの言葉に何も返せなかった。
「その内、彼とはまた会う気がするんだよね。俺、ちょっといいこと思いついちゃった。ここで会ったのも何かの縁だから君さ、彼への手土産になってくれない?」
それが何を言って居るのかを理解するのに時間は掛からなかった。
けれど今の私は彼にとって人質としての価値すらない。
ただ私の死は彼の嘆きに繋がるからと、自身が苦しみから解放されたいと願う傍らで命を繋ぎ止めるだけなのだから。
私が自分にそんな価値は無いのだと口にしようとした時、唐突に感じた左腕の熱。
ツギハギが手を置いた箇所から不自然な何かが流れ込むと私の腕は雑巾でも絞る様にあり得ない方向へと捻れ、ミチミチと鈍い音を立てた刹那…弾け飛んだ。
「…あ、あ゛…!!!」
突然の衝撃に思わず地面に膝をつく。
少し離れた場所まで飛ばされた腕は薬指に手放したくない指輪を残したまま、私の身体から引き離されていった。
とめどなく流れる血液が地面を一瞬にして赤く染め、痛みで倒れ込んだ私の姿をみて、それは歪な笑みを浮かべる。
焼け付く様な痛みが全身に周り、悲鳴さえも上げられなかった。
ほんの数メートル離れた先にある腕の元へ何としても行きたくて、痛みに顔を歪めながら地面を這う私の姿を、それは芋虫みたいだと言って嗤っていた。
死ねない…。
仮に私が死んでしまったら、彼が全てを思い出してしまうのだから。
私に出来ることは、彼の前から姿を消し今を思い出に変えて遠くから彼の幸せを願うことだけなのに。
今はそのたった一つの願いさえも理不尽に踏み躙られようとして居る。
「頑張るね。そんなに大事?」
必死に這いつくばる私をあっさりと通り過ぎて、それが私の腕を持ち上げる。
赤く染まった肌、二度と動く事のない指、滴る血液を舐めとる姿に総毛立つ感覚さえ抱き、やっと足下まで辿り着いた私はそれの脚を爪が食い込むほどに鷲掴んだ。
「かえ、して」
「アハハ、凄いな。こんなに弱いのにたかが金属の塊一つに必死になって。ねぇ、君の無惨な姿を見たら、彼はどんな風に血を流すと思う?俺はさ、きっと魂の奥底から真っ赤な血を吹き出してくれるんじゃないかって期待してるんだ。だからさ、俺のおもちゃになってよ」
想像を絶するほどの恐怖。
私の目線に合わせる様に腰を落としたそれはゆっくりと私に手を伸ばした。
…私の目の前に、冥府の扉が開かれていく。
自分と言う存在が捻じ曲げられていく感覚がした。
深い深い奥底、厳重な扉の中に隠してある私の本質を歪められていく様な、苦しみなんて言葉では到底言い表せられない責め苦。
必死の抵抗をしたのに、それの前では私の存在は蟻程度のものでしかないのだろう。
ぐちゃぐちゃに歪められていく何か。
決して他人には触れられない、触れさせてはいけない部分を乱暴に素手で掴み取られていく恐怖。
…苦しかった。
けれどもう、言葉ひとつ私に紡ぐことはできなかった。
せめてもう一度姿を見たかったと思う私は、どこまでも愚かな女だったと自分でも思う。
ただ誰もが望み、憧れ、辿るであろう幸せを夢に描いただけなのに…それの何がいけなかったのでしょうか。
建人さん…。
愛しています。
…でも、もう…疲れてしまった。