愛と言う名の咎
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忙しという字は心を無くすと書くのだと言う。
誰かからそんな言葉を聞いた覚えがある。
新年度よりも少し遅れて迎え入れた新入生の諸手続きも終わらぬまま、もうじきやってくる繁忙期に備える為にこの時期の補助監督と言うのは寝る間もない程に忙しい。
同僚たちの間では、私の存在はすっかり害悪だと言う認識に変わってしまった。
建人さんは多くを語らなかったけれど、これまで仕事上で多くの関わりがあったはずの私に関して今の彼が不意に呟く言葉はどれも辛辣なものばかりで。
そんな彼から紡がれる言葉は、私の意見を聞くまでもなく十分に周囲を納得させた。
押し付けられるように舞い込んでくる事務仕事の数々。
終業時刻を迎えても到底処理しきれない書面を抱え、私は自分のデスクであと少しの辛抱だと己の拳を握りしめる日々。
せめて繁忙期を終えて、ちゃんと引き継ぎをしなければ迷惑を掛けてしまうからと私の移動は九月の予定になり、その時期に行われる交流会を終えてから京都校の面々と共に此処を去る手筈になっているけれど…。
現状を考えると、少しでも早くここから離れてしまいたいとも思ってしまう。
きっと難しいだろうけれど、彼の姿が見えなければいつか優しい思い出になってくれるのではないかと期待している節もある。
見届けると言った手前、逃げ出す事に幾度も躊躇したが、このままでは双方の為にならないと言って背中を押してくれたのは家入さんと五条さんだった。
残りされた時間は約三ヶ月…。
その間は、極力彼に合わないよう努めるしかないと気持ちを切り替え、目の前の書面と向き合い始めたのはほんの数十分前の話だった。
「遅くなりました、報告書です」
「はい…ありがとうございます。お疲れ様でした」
どこまでも非情な悪戯に決意はあっさりと覆されてしまい、伏せた視線の中に入り込む彼の足元を見つめただけで私の鼓動は激しく脈を打つ。
伊地知さんは不在、新田さんは定時で上がってしまった今日に限って建人さんが提出し忘れていた報告書を手にしてやって来た。
部屋の中は私のデスクの上だけに煌々と明かりが灯り、応対するのは私しか居ない。
震える手で書面を受け取り、目線を合わせないようにするのが精一杯の私の姿を一瞥した彼はデスクの上に山のように積まれた書類を見て、私の手際の悪さを咎めた。
これは本来ならば私が受け持つべき仕事ではないのに、その視線は反論の余地すら与えず沈黙を貫く私の態度が気に障ったのだろう。
苛立ちを隠しきれなくなった彼が遠ざかって行くのが見えると、業務連絡であっても久方ぶりに言葉を交わしたせいなのか…。
私の手が、縋るように彼の服を掴んでいた。
辛い、苦しい…助けてと。
悲鳴を上げる心を包み込んでほしいと願うのは、やはり貴方だけだったの。
「離してください」
「建人、さん…」
「触るな」
侮蔑の視線と共にはねつけられた手が宙を舞った。
強い語気と共に椅子に座ったままの私を見下し、睨め付けた彼は青筋が浮かびそうなほどの嫌悪を露わにして行く。
本音を言えば恐ろしい。
それなのに、視線が自分に向けられて居ることに僅かな喜びさえも見出していた私は、とうに狂い始めていたのかもしれない。
勝手に目の奥が熱を孕んだ。
鼻の奥がヒリつくように痛みを訴え、涙を堪える私に背を向けた彼は無言で去っていってしまった。
…どうしてこうなってしまったのだろう。
幾度こんな事を考えただろうか。
掴もうと手を伸ばしてもその度に千切れていく。
もしかしたらと言う淡い期待と希望の糸を必死に手繰り寄せて、掻き集めて。
もしかしたらと全て悪い夢だったのではないのかと考えたのは数えきれない。
「悪くない…だれも、悪くはない…」
気がつけば毎日のように言い聞かせるようになったこの言葉。
追いかける事も叶わず、いつも抱きついていた背中を見送るだけの私は声を殺して椅子から動く方もできずに、身を守るかのように蹲った。
本当に守りたいなのは身体ではなくて…心、なのに。
七月初旬…。
彼の誕生日を祝う事も出来ず、部屋に飾ったままの写真に向けておめでとうと呟いて彼を祝ったばかりだった。
季節が巡るたびに過ごした思い出の中に身を投じ、もう過去の事だと幾度塗りつぶしてもふと蘇るのは鮮やかな幸せだった憧憬。
その後、彼は五条さんと共に北海道に出張に赴くことになり、数日間高専から姿を消した。
会わなくて済むと安堵するのと同時に、擦り減った心からは絶えず血が流れ続けている。
どうして、辛い苦しい、誰も悪くないと感情が螺旋の中を巡り続け、いつしか考えることすら苦痛になっていた。
九月に入り、後少しだと肩の力が抜け始めた頃。
伊地知さんの緊急の連絡で私はとある場所に向かっていた。
詳細は伏せられていたが建人さんが任務中に負傷し、手隙の補助監督が私しか居ないらしい。
申し訳ないと何度も謝罪を繰り返す伊地知さんに、私は覇気のない声で大丈夫だと言葉を返した。
これは仕事であり、有能な呪術師を失うわけにはいかない。
死ぬほどの怪我ではないと言った彼が治療をしたいと申し出た以上、現状は動くことも難しい状況にあるのは明らかだ。
早く離れてしまいたいと思う反面、何かあったとわかれば駆けつけたい衝動は私の脚を勝手に動かしてしまう。
伊地知さんから送られた情報を確認した私は、応急処置に使えそうな医療品を鞄に押し込むと自身が運転する車へと乗り込んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「アナタですか…」
伊地知さんが来ると思った彼にとって突然やって来た補助監督が私だったというのは不幸以外の何者でもないと言うのは分かっている。
どれだけの激戦を繰り広げたのだろう。
常に最善を尽くしながらも涼しい顔をして任務から帰還する彼からは想像もつかない程の痛々しい姿に私は目を背けたくなった。
「…申し訳ありません。現在、手隙の補助監督が私しか居りませんのでご容赦ください」
車に乗り込んだ彼は心底不愉快だという様に顔を歪めた。
彼の態度に対して深い悲しみは抱いていたけれど私の表情は恐らく何も変わって居なかっただろう。
痛みを誤魔化す術だけが上手くなっていった一年間。
次第に血を流し続けた心は感覚が麻痺して血を流していることが当たり前となって居た。
それ程に、傷が癒える間もなく新たな傷が出来上がるのだから。
「その鞄の中に見繕った止血用の医療品が入って居ますので…使ってください」
「必要ない」
「今は人員が不足して居ります。そのご様子ではかなりの出血…私に貴方を運ぶ力はありません。どうか…お願いします」
静まり返った車内に苛立ちを募らせた舌打ちだけが響き渡る。
けれど、触れることすら許してもらえないのだから、せめて僅かでも役に立つ事がしたかった…。
バックミラー越しに彼が傷口にガーゼを押し当てる姿を確信した私は気づかれない様に安堵の息を漏らし高専への最短ルートを辿り彼を送り届ける。
ついてくる必要は無いと撥ね付けられたけれど、医務室に向かう道中では倒れられては元も子もないからと無理矢理同行を申し出て、かつては並んで歩いた廊下を一定の距離を保ちながら歩く姿は我ながら滑稽だった。
一切の表情がなくなった私は人形の様に不気味だと先日同僚に罵られた言葉の通り、今の私は優しかった彼の幻影に縋り付く亡霊の様なものなのだろう。
「ここで結構です」
「…はい、お大事になさって下さい」
やっと辿り着いた医務室の扉の前、彼の言葉はこれ以上は着いてくるなという牽制なのだろう。
深々と頭を下げて部屋に消えていく姿を見送った私はその場に蹲りただ、治療を終える事を祈り続けた。
家入さんの反転術式を使えば傷自体は直ぐに癒える。けれどあれだけの出血を補う術がない事は、かつて呪術師をして居た私にもよく分かる。
人ならざる呪術師の中でも更に稀有な能力と言える反転術式。
けれどそれさえも万能とは到底言い難い。
どれだけ時間が過ぎたかさえわからない。
いつの間にか黄昏時もすっかり闇を纏い、少し肌寒くなった風邪が頬を撫で始めた時。
ゆっくり開かれた扉に身を隠そうとすると、私に向けて掛けられたであろう声に咄嗟に耳を傾けて居た。
「伊地知から話は聞いてる。そこに居るんだろ?今から私は少し出なきゃならない。七海は治療をして無事だ、今は休んでいるから意識もない。オマエが良ければ少しの間、頼めるか?」
「…はい」
暗がりの中、身を隠そうとした私は彼女の言葉に頷きながら明かりの灯る方へと脚を進める。
室内からは独特の医薬品の匂いが漂い、いくつか並んだベッドの内の一つに横たわる彼の姿を見つけた私は小走りになって駆け寄った。
「…建人、さん」
手を伸ばし、彼の手に触れても跳ね除けられる事はなかった。
眠っているのだから私が触れている認識など無く、当たり前の事なのに。
たったそれだけの事なのに、嬉しくて…。
零れた涙がシーツに吸い込まれて色を変えていく。
彼は傷は癒えた筈なのに時折苦しげな表情を見せ、色白な肌に玉のような汗が滲んでいた。
今だけ…これで最後だからと自分に言い聞かせて私は手持ちのタオルを濡らすと、ただ彼の手を握り、汗を拭き続ける。
静寂の中に響くのは時計の秒針の音だけで、この部屋には私達以外誰もいない。
恐らく一年間の苦しみの中で、これが唯一の幸せな時間だった…。
触れても跳ね除けられることもなく、誰からの侮蔑の視線も浴びる事がなく、ただ彼の側に居られた時間。
言葉を交わさなくても、視線が交わらなくても、それだけで今の私には十分すぎるほどの幸福だと思えた刹那…。
家入さんとは思えない慌ただしい足音に私は肩を離させる。
何処かに隠れようと思う間もなく、ナナミン!と声を荒げて開かれた扉から視線を外せなくなり、少年の後を追いかけて来たのだろうか。
伊地知さんが息を切らせて医務室にやってくると私の姿を見て驚愕して居た。
「如月さん…」
「あれ、この人補助監督の人じゃね?なぁ、ナナミン大丈夫?」
「…はい。治療を受けて眠っているだけです。家入さんの話では問題はないそうです。彼女が少し席を外すと言うので付き添いをして居ました」
私の言葉に彼はそっか、よかったと屈託の無い笑みを浮かべて私にお礼を告げて居た。
こんな笑顔を誰かに向けられたのはいつぶりだろう。
常に私の周りには憐れむような視線と嘲笑が纏わりついて、いつからかそれが当たり前となってしまった。
私の記憶が正しければ彼は七月に亡くなったばかりの一年の虎杖君…。
その彼が生存して居り、建人さんと任務に向かうなんて俄には信じがたく、私は入り口で立ち尽くした伊地知さんに視線を向けた。
「伊地知さん、彼は…」
「如月さん、お願いします。この事はどうぞ内密に…」
彼の様子からして、何か込み入った事情があることだけは察する事ができた。
両面宿儺の受肉体と言う彼の処遇に関しては入学当初から各方面で意見が割れて居たことも聞いている。
伊地知さんが関わって居り、なおかつ上層部に盾をつける人となれば私の知る限り、現在海外出張に出向いている最強の呪術師しか思い当たる節が無い。
それに、彼が背後に居るならば自身を規定側と位置付ける建人さんが虎杖君に同行するのも頷ける。
「…大丈夫です。私はもうすぐ居なくなる人間ですし、誰にも口外はしません。ですから私の今日の事もどうか内密にお願いします」
「如月さん…」
伊地知さんの悲しげな視線は今の私には少し堪えるものだった。
可哀想、惨め、哀れ、無様…どれだけの視線をこれまでに浴びただろう。
賑やかになった室内でいつ目覚めるかも分からない彼の前、私がこのまま居座ってはいけない。
本当は離れ難かった…。
それでも、この場に留まる事は許されない。
これで最期にするからどうか許してほしいと彼の額に唇を落とした私は、引き止めようとする二人の声に耳を貸すこともなくその場を後にして自室へと逃げ込んだ。
誰かからそんな言葉を聞いた覚えがある。
新年度よりも少し遅れて迎え入れた新入生の諸手続きも終わらぬまま、もうじきやってくる繁忙期に備える為にこの時期の補助監督と言うのは寝る間もない程に忙しい。
同僚たちの間では、私の存在はすっかり害悪だと言う認識に変わってしまった。
建人さんは多くを語らなかったけれど、これまで仕事上で多くの関わりがあったはずの私に関して今の彼が不意に呟く言葉はどれも辛辣なものばかりで。
そんな彼から紡がれる言葉は、私の意見を聞くまでもなく十分に周囲を納得させた。
押し付けられるように舞い込んでくる事務仕事の数々。
終業時刻を迎えても到底処理しきれない書面を抱え、私は自分のデスクであと少しの辛抱だと己の拳を握りしめる日々。
せめて繁忙期を終えて、ちゃんと引き継ぎをしなければ迷惑を掛けてしまうからと私の移動は九月の予定になり、その時期に行われる交流会を終えてから京都校の面々と共に此処を去る手筈になっているけれど…。
現状を考えると、少しでも早くここから離れてしまいたいとも思ってしまう。
きっと難しいだろうけれど、彼の姿が見えなければいつか優しい思い出になってくれるのではないかと期待している節もある。
見届けると言った手前、逃げ出す事に幾度も躊躇したが、このままでは双方の為にならないと言って背中を押してくれたのは家入さんと五条さんだった。
残りされた時間は約三ヶ月…。
その間は、極力彼に合わないよう努めるしかないと気持ちを切り替え、目の前の書面と向き合い始めたのはほんの数十分前の話だった。
「遅くなりました、報告書です」
「はい…ありがとうございます。お疲れ様でした」
どこまでも非情な悪戯に決意はあっさりと覆されてしまい、伏せた視線の中に入り込む彼の足元を見つめただけで私の鼓動は激しく脈を打つ。
伊地知さんは不在、新田さんは定時で上がってしまった今日に限って建人さんが提出し忘れていた報告書を手にしてやって来た。
部屋の中は私のデスクの上だけに煌々と明かりが灯り、応対するのは私しか居ない。
震える手で書面を受け取り、目線を合わせないようにするのが精一杯の私の姿を一瞥した彼はデスクの上に山のように積まれた書類を見て、私の手際の悪さを咎めた。
これは本来ならば私が受け持つべき仕事ではないのに、その視線は反論の余地すら与えず沈黙を貫く私の態度が気に障ったのだろう。
苛立ちを隠しきれなくなった彼が遠ざかって行くのが見えると、業務連絡であっても久方ぶりに言葉を交わしたせいなのか…。
私の手が、縋るように彼の服を掴んでいた。
辛い、苦しい…助けてと。
悲鳴を上げる心を包み込んでほしいと願うのは、やはり貴方だけだったの。
「離してください」
「建人、さん…」
「触るな」
侮蔑の視線と共にはねつけられた手が宙を舞った。
強い語気と共に椅子に座ったままの私を見下し、睨め付けた彼は青筋が浮かびそうなほどの嫌悪を露わにして行く。
本音を言えば恐ろしい。
それなのに、視線が自分に向けられて居ることに僅かな喜びさえも見出していた私は、とうに狂い始めていたのかもしれない。
勝手に目の奥が熱を孕んだ。
鼻の奥がヒリつくように痛みを訴え、涙を堪える私に背を向けた彼は無言で去っていってしまった。
…どうしてこうなってしまったのだろう。
幾度こんな事を考えただろうか。
掴もうと手を伸ばしてもその度に千切れていく。
もしかしたらと言う淡い期待と希望の糸を必死に手繰り寄せて、掻き集めて。
もしかしたらと全て悪い夢だったのではないのかと考えたのは数えきれない。
「悪くない…だれも、悪くはない…」
気がつけば毎日のように言い聞かせるようになったこの言葉。
追いかける事も叶わず、いつも抱きついていた背中を見送るだけの私は声を殺して椅子から動く方もできずに、身を守るかのように蹲った。
本当に守りたいなのは身体ではなくて…心、なのに。
七月初旬…。
彼の誕生日を祝う事も出来ず、部屋に飾ったままの写真に向けておめでとうと呟いて彼を祝ったばかりだった。
季節が巡るたびに過ごした思い出の中に身を投じ、もう過去の事だと幾度塗りつぶしてもふと蘇るのは鮮やかな幸せだった憧憬。
その後、彼は五条さんと共に北海道に出張に赴くことになり、数日間高専から姿を消した。
会わなくて済むと安堵するのと同時に、擦り減った心からは絶えず血が流れ続けている。
どうして、辛い苦しい、誰も悪くないと感情が螺旋の中を巡り続け、いつしか考えることすら苦痛になっていた。
九月に入り、後少しだと肩の力が抜け始めた頃。
伊地知さんの緊急の連絡で私はとある場所に向かっていた。
詳細は伏せられていたが建人さんが任務中に負傷し、手隙の補助監督が私しか居ないらしい。
申し訳ないと何度も謝罪を繰り返す伊地知さんに、私は覇気のない声で大丈夫だと言葉を返した。
これは仕事であり、有能な呪術師を失うわけにはいかない。
死ぬほどの怪我ではないと言った彼が治療をしたいと申し出た以上、現状は動くことも難しい状況にあるのは明らかだ。
早く離れてしまいたいと思う反面、何かあったとわかれば駆けつけたい衝動は私の脚を勝手に動かしてしまう。
伊地知さんから送られた情報を確認した私は、応急処置に使えそうな医療品を鞄に押し込むと自身が運転する車へと乗り込んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「アナタですか…」
伊地知さんが来ると思った彼にとって突然やって来た補助監督が私だったというのは不幸以外の何者でもないと言うのは分かっている。
どれだけの激戦を繰り広げたのだろう。
常に最善を尽くしながらも涼しい顔をして任務から帰還する彼からは想像もつかない程の痛々しい姿に私は目を背けたくなった。
「…申し訳ありません。現在、手隙の補助監督が私しか居りませんのでご容赦ください」
車に乗り込んだ彼は心底不愉快だという様に顔を歪めた。
彼の態度に対して深い悲しみは抱いていたけれど私の表情は恐らく何も変わって居なかっただろう。
痛みを誤魔化す術だけが上手くなっていった一年間。
次第に血を流し続けた心は感覚が麻痺して血を流していることが当たり前となって居た。
それ程に、傷が癒える間もなく新たな傷が出来上がるのだから。
「その鞄の中に見繕った止血用の医療品が入って居ますので…使ってください」
「必要ない」
「今は人員が不足して居ります。そのご様子ではかなりの出血…私に貴方を運ぶ力はありません。どうか…お願いします」
静まり返った車内に苛立ちを募らせた舌打ちだけが響き渡る。
けれど、触れることすら許してもらえないのだから、せめて僅かでも役に立つ事がしたかった…。
バックミラー越しに彼が傷口にガーゼを押し当てる姿を確信した私は気づかれない様に安堵の息を漏らし高専への最短ルートを辿り彼を送り届ける。
ついてくる必要は無いと撥ね付けられたけれど、医務室に向かう道中では倒れられては元も子もないからと無理矢理同行を申し出て、かつては並んで歩いた廊下を一定の距離を保ちながら歩く姿は我ながら滑稽だった。
一切の表情がなくなった私は人形の様に不気味だと先日同僚に罵られた言葉の通り、今の私は優しかった彼の幻影に縋り付く亡霊の様なものなのだろう。
「ここで結構です」
「…はい、お大事になさって下さい」
やっと辿り着いた医務室の扉の前、彼の言葉はこれ以上は着いてくるなという牽制なのだろう。
深々と頭を下げて部屋に消えていく姿を見送った私はその場に蹲りただ、治療を終える事を祈り続けた。
家入さんの反転術式を使えば傷自体は直ぐに癒える。けれどあれだけの出血を補う術がない事は、かつて呪術師をして居た私にもよく分かる。
人ならざる呪術師の中でも更に稀有な能力と言える反転術式。
けれどそれさえも万能とは到底言い難い。
どれだけ時間が過ぎたかさえわからない。
いつの間にか黄昏時もすっかり闇を纏い、少し肌寒くなった風邪が頬を撫で始めた時。
ゆっくり開かれた扉に身を隠そうとすると、私に向けて掛けられたであろう声に咄嗟に耳を傾けて居た。
「伊地知から話は聞いてる。そこに居るんだろ?今から私は少し出なきゃならない。七海は治療をして無事だ、今は休んでいるから意識もない。オマエが良ければ少しの間、頼めるか?」
「…はい」
暗がりの中、身を隠そうとした私は彼女の言葉に頷きながら明かりの灯る方へと脚を進める。
室内からは独特の医薬品の匂いが漂い、いくつか並んだベッドの内の一つに横たわる彼の姿を見つけた私は小走りになって駆け寄った。
「…建人、さん」
手を伸ばし、彼の手に触れても跳ね除けられる事はなかった。
眠っているのだから私が触れている認識など無く、当たり前の事なのに。
たったそれだけの事なのに、嬉しくて…。
零れた涙がシーツに吸い込まれて色を変えていく。
彼は傷は癒えた筈なのに時折苦しげな表情を見せ、色白な肌に玉のような汗が滲んでいた。
今だけ…これで最後だからと自分に言い聞かせて私は手持ちのタオルを濡らすと、ただ彼の手を握り、汗を拭き続ける。
静寂の中に響くのは時計の秒針の音だけで、この部屋には私達以外誰もいない。
恐らく一年間の苦しみの中で、これが唯一の幸せな時間だった…。
触れても跳ね除けられることもなく、誰からの侮蔑の視線も浴びる事がなく、ただ彼の側に居られた時間。
言葉を交わさなくても、視線が交わらなくても、それだけで今の私には十分すぎるほどの幸福だと思えた刹那…。
家入さんとは思えない慌ただしい足音に私は肩を離させる。
何処かに隠れようと思う間もなく、ナナミン!と声を荒げて開かれた扉から視線を外せなくなり、少年の後を追いかけて来たのだろうか。
伊地知さんが息を切らせて医務室にやってくると私の姿を見て驚愕して居た。
「如月さん…」
「あれ、この人補助監督の人じゃね?なぁ、ナナミン大丈夫?」
「…はい。治療を受けて眠っているだけです。家入さんの話では問題はないそうです。彼女が少し席を外すと言うので付き添いをして居ました」
私の言葉に彼はそっか、よかったと屈託の無い笑みを浮かべて私にお礼を告げて居た。
こんな笑顔を誰かに向けられたのはいつぶりだろう。
常に私の周りには憐れむような視線と嘲笑が纏わりついて、いつからかそれが当たり前となってしまった。
私の記憶が正しければ彼は七月に亡くなったばかりの一年の虎杖君…。
その彼が生存して居り、建人さんと任務に向かうなんて俄には信じがたく、私は入り口で立ち尽くした伊地知さんに視線を向けた。
「伊地知さん、彼は…」
「如月さん、お願いします。この事はどうぞ内密に…」
彼の様子からして、何か込み入った事情があることだけは察する事ができた。
両面宿儺の受肉体と言う彼の処遇に関しては入学当初から各方面で意見が割れて居たことも聞いている。
伊地知さんが関わって居り、なおかつ上層部に盾をつける人となれば私の知る限り、現在海外出張に出向いている最強の呪術師しか思い当たる節が無い。
それに、彼が背後に居るならば自身を規定側と位置付ける建人さんが虎杖君に同行するのも頷ける。
「…大丈夫です。私はもうすぐ居なくなる人間ですし、誰にも口外はしません。ですから私の今日の事もどうか内密にお願いします」
「如月さん…」
伊地知さんの悲しげな視線は今の私には少し堪えるものだった。
可哀想、惨め、哀れ、無様…どれだけの視線をこれまでに浴びただろう。
賑やかになった室内でいつ目覚めるかも分からない彼の前、私がこのまま居座ってはいけない。
本当は離れ難かった…。
それでも、この場に留まる事は許されない。
これで最期にするからどうか許してほしいと彼の額に唇を落とした私は、引き止めようとする二人の声に耳を貸すこともなくその場を後にして自室へと逃げ込んだ。