永遠という名の愛
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──忘愛症候群
其れは、誰しもがなり得るあまりにも救いのない病の名前。
愛したものを例外なく忌み嫌い、憎むもの。
責めるべき相手すら与えてくれない、残酷で無慈悲に愛の終焉を齎すもの。
五条さんの語った話を聞いても尚、私にはそれが己の身に起きたものとは信じ難かった。
しかし、私の瞳からは大粒の涙が溢れて。
胸には杭を打たれたかの様に痛みを齎す。
聞かされた私達の奇跡と軌跡。
己の終末と、その後の建人さんの末路は言葉にするには千言万語を費やしても表現し得ない。
同時にやっと理解できた建人さんの畏れと自身に向けた激しい怒り。
行き場の無い感情を抱えながらも、私と共にいる事を望んでくれた喜びが胸の内で劈く様な叫び声を上げて居る。
「話、聞いてどう?」
「……わかりません。自分に起きた事だと言われても、やっぱり何処か他人事の様に感じて居ます。でも、もしそれが本当なら。……私は今が一層愛おしいです」
五条さんから告げられた真実。
それを知っても尚、私の中ではそれが明確な過去として認識される事はなかった。
ただ、言葉にすらならない感情だけが大波の様に押し寄せて絶え間なく頬を濡らし続けて居る。
貴方はどれだけの苦しみを抱えて。
どれだけの自責の念に苛まれて。
それでも私を求めてくれたのだろうか。
只々、会いたいと思った。
あの胸に飛び込んで、惜しむ事なく精一杯の愛情を伝えて。
貴方は何も悪くは無いのだと。
私は今がどうしようもなく幸せなのだと。
そう伝えたい。
「こう言うのが運命って言うんだろうね。僕の知ってるオマエ達は本当に心の底から互いを慈しんでたよ。それこそ、愛なんてものを知らないし知りたいとすら思わなかった僕でさえ、知ってみたくなった位だからさ。でも、まさかぼんやりとではあるけど認識してたなんて思わなかったよねぇ。流石だよ」
それは賞賛なのか、或いは批判なのか。
はたまた両方なのか。
ただ、五条さんの表情は至極満足気で、その調子も普段ものに戻りつつあった様に思う。
雑に涙を拭った目元はきっと赤みを帯びて居るのだろう。
けれど気持ちだけは随分軽くなった気がして、私もやっと目の前の温くなったコーヒーに手を伸ばす事が出来た気がする。
ランチタイムを前に始まった筈の逢瀬は、いつのまにかそのピークをとうに超えて、学校帰りの学生の姿すら見受けられる様になってしまった。
建人さんが帰ってくるまでは残り僅かな時間しかない。
今から買い物に行って、夕飯の支度には間に合うだろうかと、現実味を帯び始めた私の頭はタイムスケジュールを作り上げ、逸る気持ちを抑えきれなくなって行く。
「七海に会いたくて仕方ないって顔してるね」
「……あ、すみません」
「良いよ。僕も今のオマエ達を見てるのはなんだか懐かしいし。でもさ、少しくらい目の前のGLGに見惚れても良いと思うんだけどなぁ。他の席からはずっと熱烈な視線を感じても、オマエはいつでも七海の事しか考えてないんだもん。ま、気持ちはわからなくもないけどさ。そろそろお迎えが来ると思うから、もう一杯くらいコーヒー飲んでから行きなよ」
通りすがりの店員さんに向けて更なるスイーツとコーヒーをさらりと注文した五条さんは、今はまるで悪戯の結果を待つ子供の様な顔をして居る。
流石に自分から呼び出し、聞きたい事だけを聞いて帰ると言うのは気が引けた。
今にも席を立って飛び出したい気持ちを抑えつつ、カトラリーの鳴る音にばかり気を取られて居るといつのまにか暮色の空が広がり始める。
建人さんに一度連絡を入れておくべきか。
彼とて、きっと今日は私が待って居るのではないかと期待に胸を膨らませてくれて居る筈だ。
それなのに、私が携帯を取り出すと五条さんは自身の手を重ねてやんわりとそれを拒んだ。
もう少しだよ。
意味深な言葉だけが更なる疑問を呼び、昼前からひたすらに甘味だけを頬張って居るこの人の胃袋はどうなって居るのだと、瑣末な事にすら気を取られて行く。
「ほら、来たみたいだよ」
五条さんが肩を竦めたのと、落ち着いた店内の扉が勢いよく開かれるのは同時だった様に思う。
誰もがその時、転がる様にやってきたその人に視線を向けた筈だ。
ただ一人、私の向かいに座る人を除いては。
淡く光る金色の髪が、僅かに茜色に染まって居る様な気がした。
よほど急いでやって来たのか、肩が大きく揺れて居た。
撫で付けられて居るはずの髪は乱れ、一筋がはらりと頬を掠める。
店内を見渡すと、脇目も振らずに此方に向かった彼は私の手に重ねられた手を見て眉を顰め、苦しげに紡がれた己の名前は、私の胸を締め上げた。
「……真那っ!!」
「建人、さん……?どうして……」
「僕が呼んだんだよ。ここから先は二人で話した方がいいと思ってね。そんなに睨むなよ、七海。今にも飛び出しそうだったから、入れ違いにならない様にしただけだって」
軽快な笑みを浮かべながら五条さんは重ねた手を退ける。
男女が二人で過ごして居た所に、突如別の男性が割り込んでくるなんてドラマの様な展開に、周囲の好奇の目が注がれ、恐らくそれを楽しんでいるのは五条さんだけだろう。
押し黙る建人さんかはとてつもない威圧感を放ち、誤解でもされてしまったのではないかと肝が冷える。
決して疚しい事をして居たわけではないけれど、彼に黙って、敢えて彼が隠し通して居た事を根掘り葉掘り聞き出してしまったのだから、その点に関しては弁解の余地もない。
名前を呼ぶ事すら躊躇われた。
軽蔑されてしまうのではないかと、恐怖すら抱く。
険悪としか言いようの無い雰囲気の中、私達は互いに掛ける言葉を模索して。
やれやれと言った様子で私達を追い払う様に手を振った。
「何してんの。ほらほら、帰った帰った。此処は僕が払って置くからさ」
「……後日、話をしに伺います。行きましょう。真那」
「……でも、あのっ」
「はいはい。じゃあ、次に来る時はいい報告でも待ってるよ」
私の言葉に耳を貸す人は誰も居なかった。
荷物を奪われ、腕を掴まれる。
引き摺るように、店内から外に出ると建人さんは無言のまま私の前を歩き続けた。
歩調が私に合わせたものだった事だけが、今の彼が残した唯一の理性だったように思う。
それでも限りなくその足取りは早いもので、景色は普段よりも余程早く流れて行く。
マンションに辿り着いても、エレベーターに乗り込んでも。
凡そ会話らしいものは無かった。
それ程の忌諱に触れてしまったのだろうか。
逃れる事すら許さないと言われて居るようにも感じた。
マンションの扉の前、貰ったばかりの鍵を使う事すら無く、勢いよく開かれた室内に放り込まれた。
揃える事すら叶わなかった靴達が彼の焦燥を物語る。
リビングまで辿り着くと、建人さんは無言のまま私と向き合い、やっと口を開いた。
「……全部、知ってしまったんですか」
「……ごめんなさい。こんな探る様な真似をしてしまって」
俯いた私の頭上に影が落ちた。
一瞥した逞しい腕が今は震えて。
まるで壊れ物を扱うかの如く、優しく抱きしめる。
深く、長く息を吐き出す音が静寂を打ち消した。
苦しげに息を詰まらせた建人さんが今にも泣き出しそうに思えて。
震える身体を抱き返す。
「……こんな事になる位なら、もっと早く。私から話すべきでした」
「ごめんなさい。ずっと気になって居たのに。何度も建人さんは聞いてくれたのに。どうしても、聞けなくて……。でも、必要な事だと思ったんです」
「……私は、アナタを愛していると言いながら不幸のどん底に突き落とした人間です。これまでずっと探して居た。けれど出会う事は出来ず、半分諦めかけても居た。
今世は何処かで幸せになってくれたのなら。そうも考えました。けれど、一度出会ってしまったら……手放せなかった。私は狭量な人間です。他の誰かと寄り添い合うアナタを見る事は、もう耐えられない」
互いが互いに許しを乞う滑稽な状況の中。
私達はきっと僅かな恐怖心を拭えずに居たのだろう。
どれだけ抱き合おうと、深く想っていようと。
自身より相手が大事なのだと迷わず答えられたとしても。
望まぬ形で瓦解してしまった、かつての幸福は戻っては来ないのだから。
ずっと、それを建人さんは恐れて居る。
今も変わらず、再び同じ事になり得るのでは無いかと、僅かな可能性を限界まで膨らませて。
罹患もして居ない対処法の無い病は、深い傷となり。
完治などする事なく、ずっと彼の心を蝕んでいる。
それを彼は己に課せられた罰だと受け入れ続けて来たのだろう。
ずっと、一人。
自責の念と闘いながら。
周囲がどれほど慰めの言葉を掛けようとも、励ましの言葉を掛けようとも。
いつも大きな人だと思って居た。
身体は勿論、その器も。
周囲をよく見通し、冷静な判断が出来る。
大人であり、穏やかな人だと。
それが今は幼子の様に震えるばかりだった。
行かないでくれと縋るこの手を、どうして振り払う事が出来るのだろうか。
「五条さんから聞いた話。信じられないものばかりだったんです。でも、何処か納得して居る。でも、やっぱり私には朧げなものしか無くて。思い出したかと言われたら否定するしかありません。私はもしかしたら、七海さんの求めた私では無いかもしれない。でも……っ」
「私にとって、アナタがアナタである事以上に特別な事なんてあり得ません。こんな事を言う権利すら無いと分かっています。ですが……お願いします。私の側に、居て下さい。私はアナタでなくては、駄目なんです……」
真実を知って、相手に落胆されるのでは無いかと恐れたのはきっとどちらも同じだったのだろう。
既視感を抱きながらも、それを明確な過去として認識できない私も。
過去を知られて、自身に怯えられるのでは無いかと憂いた建人さんも。
詰まる所、互いを失う事だけを恐れて空回りして居たに過ぎない。
過ぎた想いは相手の受け皿を溢れさせ、行き場を無くして私達自身ですらも持て余してしまった。
それでも、相手だけに向けられるこの想いは最早呪いにも等しく。
私達が抱えたものは愛と言う名の咎だ。
私は、彼の名前を静かに呼んだ。
頬が触れるほど近かった距離に空白が生まれ、背中に回した手で建人さんの頬を包み込む。
未だ淡い翡翠が揺らいでいた。
縋る様に、怯える様に。
そして、救いを求める様に。
きっと私の憂いも、彼の苦悩も、払拭出来るのはお互いだけで。
私は五条さんにも告げられなかった、自身に残された最期の疑問を口にして居た。
「いつも夢を見ていました。桜の舞う世界で。きっと、それは建人さんと過ごした私の中で幸せで穏やかな記憶を。数少ないものですが、忘れずに覚えて居る事があるんです。幾星霜巡りても、私は必ずアナタを見つけます。だからその時はどうか。どうか……。いつも夢はそこで途切れてしまうんです。だから、建人さんの口から、この言葉の続きを教えてもらえませんか」
瞠目した建人さんが、端正な顔を歪める。
視線は落ち、瞬いた目尻から音もなく一筋の雫が流れ落ちた。
こんなに美しい涙を、私は知らない。
自分に向けられた無垢な想いを、只々愛おしいと思う。
言葉を詰まらせた建人さんは、私の両肩に手を置きながら深く項垂れた。
その頭を抱えて、優しく撫で付けると絞り出す様に紡がれた言葉は、私がずっと求めて止まないものだったに違いない。
「どうか、再び見えたその時は……。もう一度、私と結ばれて下さい」
「……はい、建人さん。愛しています。誰よりも、何よりも」
「……私もです。例え幾度生まれ変わったとしても。私はただ一人。アナタだけを求め、愛すると誓います」
その場に崩れ落ちる様にして、建人さんが座り込む。
道連れとなった私もその場にへたり込み、今はどちらも酷く情けない顔をして居たに違いない。
それでも、心は晴れ渡る空の様に清々しく、今は未来すら輝いて見える。
手を取り合い、そのまま唇を重ねた。
何度も何度も。
これまで堪えて来た愛の言葉を紡ぎながら、互いの温もりだけを求めて。
呼吸する間もさえも、惜しむように。
其れは、誰しもがなり得るあまりにも救いのない病の名前。
愛したものを例外なく忌み嫌い、憎むもの。
責めるべき相手すら与えてくれない、残酷で無慈悲に愛の終焉を齎すもの。
五条さんの語った話を聞いても尚、私にはそれが己の身に起きたものとは信じ難かった。
しかし、私の瞳からは大粒の涙が溢れて。
胸には杭を打たれたかの様に痛みを齎す。
聞かされた私達の奇跡と軌跡。
己の終末と、その後の建人さんの末路は言葉にするには千言万語を費やしても表現し得ない。
同時にやっと理解できた建人さんの畏れと自身に向けた激しい怒り。
行き場の無い感情を抱えながらも、私と共にいる事を望んでくれた喜びが胸の内で劈く様な叫び声を上げて居る。
「話、聞いてどう?」
「……わかりません。自分に起きた事だと言われても、やっぱり何処か他人事の様に感じて居ます。でも、もしそれが本当なら。……私は今が一層愛おしいです」
五条さんから告げられた真実。
それを知っても尚、私の中ではそれが明確な過去として認識される事はなかった。
ただ、言葉にすらならない感情だけが大波の様に押し寄せて絶え間なく頬を濡らし続けて居る。
貴方はどれだけの苦しみを抱えて。
どれだけの自責の念に苛まれて。
それでも私を求めてくれたのだろうか。
只々、会いたいと思った。
あの胸に飛び込んで、惜しむ事なく精一杯の愛情を伝えて。
貴方は何も悪くは無いのだと。
私は今がどうしようもなく幸せなのだと。
そう伝えたい。
「こう言うのが運命って言うんだろうね。僕の知ってるオマエ達は本当に心の底から互いを慈しんでたよ。それこそ、愛なんてものを知らないし知りたいとすら思わなかった僕でさえ、知ってみたくなった位だからさ。でも、まさかぼんやりとではあるけど認識してたなんて思わなかったよねぇ。流石だよ」
それは賞賛なのか、或いは批判なのか。
はたまた両方なのか。
ただ、五条さんの表情は至極満足気で、その調子も普段ものに戻りつつあった様に思う。
雑に涙を拭った目元はきっと赤みを帯びて居るのだろう。
けれど気持ちだけは随分軽くなった気がして、私もやっと目の前の温くなったコーヒーに手を伸ばす事が出来た気がする。
ランチタイムを前に始まった筈の逢瀬は、いつのまにかそのピークをとうに超えて、学校帰りの学生の姿すら見受けられる様になってしまった。
建人さんが帰ってくるまでは残り僅かな時間しかない。
今から買い物に行って、夕飯の支度には間に合うだろうかと、現実味を帯び始めた私の頭はタイムスケジュールを作り上げ、逸る気持ちを抑えきれなくなって行く。
「七海に会いたくて仕方ないって顔してるね」
「……あ、すみません」
「良いよ。僕も今のオマエ達を見てるのはなんだか懐かしいし。でもさ、少しくらい目の前のGLGに見惚れても良いと思うんだけどなぁ。他の席からはずっと熱烈な視線を感じても、オマエはいつでも七海の事しか考えてないんだもん。ま、気持ちはわからなくもないけどさ。そろそろお迎えが来ると思うから、もう一杯くらいコーヒー飲んでから行きなよ」
通りすがりの店員さんに向けて更なるスイーツとコーヒーをさらりと注文した五条さんは、今はまるで悪戯の結果を待つ子供の様な顔をして居る。
流石に自分から呼び出し、聞きたい事だけを聞いて帰ると言うのは気が引けた。
今にも席を立って飛び出したい気持ちを抑えつつ、カトラリーの鳴る音にばかり気を取られて居るといつのまにか暮色の空が広がり始める。
建人さんに一度連絡を入れておくべきか。
彼とて、きっと今日は私が待って居るのではないかと期待に胸を膨らませてくれて居る筈だ。
それなのに、私が携帯を取り出すと五条さんは自身の手を重ねてやんわりとそれを拒んだ。
もう少しだよ。
意味深な言葉だけが更なる疑問を呼び、昼前からひたすらに甘味だけを頬張って居るこの人の胃袋はどうなって居るのだと、瑣末な事にすら気を取られて行く。
「ほら、来たみたいだよ」
五条さんが肩を竦めたのと、落ち着いた店内の扉が勢いよく開かれるのは同時だった様に思う。
誰もがその時、転がる様にやってきたその人に視線を向けた筈だ。
ただ一人、私の向かいに座る人を除いては。
淡く光る金色の髪が、僅かに茜色に染まって居る様な気がした。
よほど急いでやって来たのか、肩が大きく揺れて居た。
撫で付けられて居るはずの髪は乱れ、一筋がはらりと頬を掠める。
店内を見渡すと、脇目も振らずに此方に向かった彼は私の手に重ねられた手を見て眉を顰め、苦しげに紡がれた己の名前は、私の胸を締め上げた。
「……真那っ!!」
「建人、さん……?どうして……」
「僕が呼んだんだよ。ここから先は二人で話した方がいいと思ってね。そんなに睨むなよ、七海。今にも飛び出しそうだったから、入れ違いにならない様にしただけだって」
軽快な笑みを浮かべながら五条さんは重ねた手を退ける。
男女が二人で過ごして居た所に、突如別の男性が割り込んでくるなんてドラマの様な展開に、周囲の好奇の目が注がれ、恐らくそれを楽しんでいるのは五条さんだけだろう。
押し黙る建人さんかはとてつもない威圧感を放ち、誤解でもされてしまったのではないかと肝が冷える。
決して疚しい事をして居たわけではないけれど、彼に黙って、敢えて彼が隠し通して居た事を根掘り葉掘り聞き出してしまったのだから、その点に関しては弁解の余地もない。
名前を呼ぶ事すら躊躇われた。
軽蔑されてしまうのではないかと、恐怖すら抱く。
険悪としか言いようの無い雰囲気の中、私達は互いに掛ける言葉を模索して。
やれやれと言った様子で私達を追い払う様に手を振った。
「何してんの。ほらほら、帰った帰った。此処は僕が払って置くからさ」
「……後日、話をしに伺います。行きましょう。真那」
「……でも、あのっ」
「はいはい。じゃあ、次に来る時はいい報告でも待ってるよ」
私の言葉に耳を貸す人は誰も居なかった。
荷物を奪われ、腕を掴まれる。
引き摺るように、店内から外に出ると建人さんは無言のまま私の前を歩き続けた。
歩調が私に合わせたものだった事だけが、今の彼が残した唯一の理性だったように思う。
それでも限りなくその足取りは早いもので、景色は普段よりも余程早く流れて行く。
マンションに辿り着いても、エレベーターに乗り込んでも。
凡そ会話らしいものは無かった。
それ程の忌諱に触れてしまったのだろうか。
逃れる事すら許さないと言われて居るようにも感じた。
マンションの扉の前、貰ったばかりの鍵を使う事すら無く、勢いよく開かれた室内に放り込まれた。
揃える事すら叶わなかった靴達が彼の焦燥を物語る。
リビングまで辿り着くと、建人さんは無言のまま私と向き合い、やっと口を開いた。
「……全部、知ってしまったんですか」
「……ごめんなさい。こんな探る様な真似をしてしまって」
俯いた私の頭上に影が落ちた。
一瞥した逞しい腕が今は震えて。
まるで壊れ物を扱うかの如く、優しく抱きしめる。
深く、長く息を吐き出す音が静寂を打ち消した。
苦しげに息を詰まらせた建人さんが今にも泣き出しそうに思えて。
震える身体を抱き返す。
「……こんな事になる位なら、もっと早く。私から話すべきでした」
「ごめんなさい。ずっと気になって居たのに。何度も建人さんは聞いてくれたのに。どうしても、聞けなくて……。でも、必要な事だと思ったんです」
「……私は、アナタを愛していると言いながら不幸のどん底に突き落とした人間です。これまでずっと探して居た。けれど出会う事は出来ず、半分諦めかけても居た。
今世は何処かで幸せになってくれたのなら。そうも考えました。けれど、一度出会ってしまったら……手放せなかった。私は狭量な人間です。他の誰かと寄り添い合うアナタを見る事は、もう耐えられない」
互いが互いに許しを乞う滑稽な状況の中。
私達はきっと僅かな恐怖心を拭えずに居たのだろう。
どれだけ抱き合おうと、深く想っていようと。
自身より相手が大事なのだと迷わず答えられたとしても。
望まぬ形で瓦解してしまった、かつての幸福は戻っては来ないのだから。
ずっと、それを建人さんは恐れて居る。
今も変わらず、再び同じ事になり得るのでは無いかと、僅かな可能性を限界まで膨らませて。
罹患もして居ない対処法の無い病は、深い傷となり。
完治などする事なく、ずっと彼の心を蝕んでいる。
それを彼は己に課せられた罰だと受け入れ続けて来たのだろう。
ずっと、一人。
自責の念と闘いながら。
周囲がどれほど慰めの言葉を掛けようとも、励ましの言葉を掛けようとも。
いつも大きな人だと思って居た。
身体は勿論、その器も。
周囲をよく見通し、冷静な判断が出来る。
大人であり、穏やかな人だと。
それが今は幼子の様に震えるばかりだった。
行かないでくれと縋るこの手を、どうして振り払う事が出来るのだろうか。
「五条さんから聞いた話。信じられないものばかりだったんです。でも、何処か納得して居る。でも、やっぱり私には朧げなものしか無くて。思い出したかと言われたら否定するしかありません。私はもしかしたら、七海さんの求めた私では無いかもしれない。でも……っ」
「私にとって、アナタがアナタである事以上に特別な事なんてあり得ません。こんな事を言う権利すら無いと分かっています。ですが……お願いします。私の側に、居て下さい。私はアナタでなくては、駄目なんです……」
真実を知って、相手に落胆されるのでは無いかと恐れたのはきっとどちらも同じだったのだろう。
既視感を抱きながらも、それを明確な過去として認識できない私も。
過去を知られて、自身に怯えられるのでは無いかと憂いた建人さんも。
詰まる所、互いを失う事だけを恐れて空回りして居たに過ぎない。
過ぎた想いは相手の受け皿を溢れさせ、行き場を無くして私達自身ですらも持て余してしまった。
それでも、相手だけに向けられるこの想いは最早呪いにも等しく。
私達が抱えたものは愛と言う名の咎だ。
私は、彼の名前を静かに呼んだ。
頬が触れるほど近かった距離に空白が生まれ、背中に回した手で建人さんの頬を包み込む。
未だ淡い翡翠が揺らいでいた。
縋る様に、怯える様に。
そして、救いを求める様に。
きっと私の憂いも、彼の苦悩も、払拭出来るのはお互いだけで。
私は五条さんにも告げられなかった、自身に残された最期の疑問を口にして居た。
「いつも夢を見ていました。桜の舞う世界で。きっと、それは建人さんと過ごした私の中で幸せで穏やかな記憶を。数少ないものですが、忘れずに覚えて居る事があるんです。幾星霜巡りても、私は必ずアナタを見つけます。だからその時はどうか。どうか……。いつも夢はそこで途切れてしまうんです。だから、建人さんの口から、この言葉の続きを教えてもらえませんか」
瞠目した建人さんが、端正な顔を歪める。
視線は落ち、瞬いた目尻から音もなく一筋の雫が流れ落ちた。
こんなに美しい涙を、私は知らない。
自分に向けられた無垢な想いを、只々愛おしいと思う。
言葉を詰まらせた建人さんは、私の両肩に手を置きながら深く項垂れた。
その頭を抱えて、優しく撫で付けると絞り出す様に紡がれた言葉は、私がずっと求めて止まないものだったに違いない。
「どうか、再び見えたその時は……。もう一度、私と結ばれて下さい」
「……はい、建人さん。愛しています。誰よりも、何よりも」
「……私もです。例え幾度生まれ変わったとしても。私はただ一人。アナタだけを求め、愛すると誓います」
その場に崩れ落ちる様にして、建人さんが座り込む。
道連れとなった私もその場にへたり込み、今はどちらも酷く情けない顔をして居たに違いない。
それでも、心は晴れ渡る空の様に清々しく、今は未来すら輝いて見える。
手を取り合い、そのまま唇を重ねた。
何度も何度も。
これまで堪えて来た愛の言葉を紡ぎながら、互いの温もりだけを求めて。
呼吸する間もさえも、惜しむように。