永遠という名の愛
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答えの出ない疑問は考えても仕方がない。
それが自分でも到底理解の及ばないもので、他者に信じて貰う以前にどう伝えたら良いのかすら不明瞭なら、尚更だ。
しかし、私の知り得ない所に確かな答えがあると知ってしまったのならば。
話は、まるで違ってくるのではないだろうか。
あれから何とか気持ちを切り替えて建人さんと過ごした時間は、それは幸せなものだった。
合鍵を貰ったことは嬉しいし、これからは料理を作って帰りを待つことだって可能だ。
それなのに、磨き上げられ光り輝いて居たはずの硝玉の様な思いに、突如亀裂が入った様な気がする。
曇一つなかった空に暗雲が掛かり、心を侵食していく。
唐突に浮上した意識は私を夢の世界から現実に放り出し、夜の帳が降りた世界に建人さんの髪が一層煌めいた。
「……愛してます」
いつの間にか、こんな風にこっそりと伝える様になってしまった愛の言葉。
勿論、建人さんからの好意は素直に受け取るし、好きだと何度も口にしてくれる。
私もその言葉を返して口付けを交わし、少し遠回しでも溢れんばかりの愛情が常に私を包み込むのに。
唐突に物悲しい気持ちに襲われる。
不安も畏れも無い筈だ。
それなのに、心が漠然とした靄に覆われる。
建人さんが懐かしさに浸る様にして郷愁を感じる時。
私はその場に居るのだろうか。
確かに私を見ているはずの瞳は、私であって私で無いものを見つめている気がしてならない。
様々な可能性を視野に入れた。
泣く泣く別れてしてしまった想い人に似ているとか。
忘れられない初恋の人に似ているとか。
そう言った私でない他人を見ているのでは無いかと考えた事すらあったと言うのに。
一途なまでに向けられる愛情は、確かに私だけのものなのだ。
益々訳がわからなくなっていくばかりだった。
周囲からは既に結婚すら仄めかされ、建人さんは嬉しそうに顔を綻ばせる。
それと同時に、罪悪感に苛まれる様に苦しげに顔を歪めて。
許しを乞うかの様に私に縋り付く。
その憂いも、悲しみも。
建人さんは私には吐露してはくれない。
私に何かを求め、諦めるように薄い唇は固く閉ざされ、きっと私が問いかけたとしても梨の礫なのだろう。
この先も、ずっと共に在りたい。
心の底からそう思っている。
彼を幸せに出来るのは私だけだし、私が幸せになるにも建人さんが必要だと。
それは最早疑うべくもない事実と言っても良い。
けれど本人に問いただす事が出来ない以上、誰に問えば良いのだろうか。
相談出来るとしてもその相手は限られ、建人さんの耳に入ってしまっては元も子もない。
それ程に信頼が置けて、尚且つ事情を知って居そうな人など居るのだろうか。
そう考えた私の脳裏に、たった一人だけ。
常に私達に見守る様な視線を送る白雪の姿を見た気がする。
「……五条、さん」
自身は場所すら知らないと告げた筈の建人さんの自宅。
その番号に思い当たる節があると溢して居た五条さんならば、或いは私達にかつて何があったのかを知っているのでは無いだろうか。
そう思い至る事は寧ろ必然と言っても良い。
連絡を取るだけならば難しい事では無い。
ただ、今の私にはこの考えに至るまでの経緯をどう説明するべきか判然としない。
俄には信じ難い己の事も。
口の達者な五条さんを納得させるだけの言葉を、果たして私は持ち合わせて居るのだろうか。
「……貴方の為なら、私はどれだけ苦しい思いをしても構いません」
ぽつりと溢れた言葉が何故か今の自分に向けたものでは無い様に思えた。
頬に手を添えると、私は唇を寄せる。
金糸の睫毛が僅かに揺れて。
私を抱き寄せながら、開かれた双眼がゆっくりと瞬きを繰り返した。
私の記憶を本当に必要としているのは、私ではなく建人さんの方なのだろう。
はっきり言って仕舞えば、私はこのままでも構わない。
彼を思う気持ちは変わる事がないし、この先もきっと大きくなるばかりだと胸を張ってそう言える。
けれど、やはり彼には何かしらの赦しが必要なのだとも考える。
その相手が私だとして、例え私が覚えて居なくても。
今の幸せを噛み締めようとしても。
建人さんには、きっとなかった事には出来ない程のものなのだろうから。
「……真那?どうかしましたか?」
「ごめんなさい。起こしちゃいましたね。目が覚めてしまって、建人さんに少し悪戯をして居たんです」
「……眠れませんか?」
「いえ。こうしてくれて居たら、きっと悪い夢を見る事なんて無いですから」
リップ音を奏でながら降り注いだ口付けを受け入れて、私は胸元に顔を埋めた。
建人さんはいつも通り小さく笑みを溢して、広いベッドの中。
限界まで肌を合わせて寄り添い合うこの瞬間は、まるで具現化された幸せそのものと言っても良い。
瞼を下ろすと、ふわふわとした微睡みに誘われる。
意識が落ちる直前。
建人さんが紡ぐ私が望む言葉は、私に届く事がないまま。
悲しげに宙を漂った。
◇◇◇◇◇◇◇◇
私に向けられる慈愛に満ちた瞳に憎しみが宿った。
縋るような思いで伸ばした手は振り払われ、低く落ち着いた声は何処までも私を侮蔑して蔑む。
考えられない建人さんの姿に、身を切り裂かれんばかりの痛みを宿し、私の瞳からは大粒の涙が零れ落ちる。
いっそ嫌いになれたら。
幾度もそう思うのに、とめどなく溢れる感情は彼に向けた執着にも似た想いだけ。
それは、いつも見る暖かな夢ではなかった。
冷たい言葉も、辛辣な言葉も。
鋭利な刃物の如く容赦なく身を刻む。
現実ではないと理解している。
しかし、自身が見聞きして、体験した出来事を現実と呼ぶのならば。
まるで体験したかの様に感じるものは何と名前をつけたら良いのだろうか。
既視感などと言うものはとうに超えている。
非現実でありながら何処までも私を絡め取る。
その答えを知る事が、この先の建人さんとの日々の安寧に繋がるのならば。
やはり私はちゃんと知るべきなのだとすら思う。
先日からこんな夢を何度か見るようになった。
私の知る彼からは到底想像も付かない、憎悪と厭悪に満ちた翡翠を。
目が眩みそうな程の朝日に、私は今この場に建人さんが居ない事に対して安堵している。
夢を見ながら泣いて居たのか。
目元には涙痕が残り、ベッドから起き上がると同時に深い溜息を溢し、手で顔を覆い隠した。
今日は週も真ん中を過ぎた私だけが休みの日。
こんな思考に囚われて居なければ、私はきっと浮かれきって買い出しに向かい、建人さんの自宅で家事に勤しんでいたに違いない。
けれど今日はどうしても確かめなければならない事がある。
事前に連絡をして、後は私が覚悟を決めるばかり。
身支度を整えて、時刻を確認した。
外に出ると寒凪の空が澄み渡る。
待ち合わせの場所は最近できたばかりの人気のカフェで。
待たせることのない様に早めに家を出たつもりだったと言うのに、それすらも読まれて居たのか。
既に満席の店内では若い女性の視線を恣にした五条さんが、一人スイーツを堪能して居た。
ほんの一瞬、己の脚が竦んだ。
けれど、今日この日に話がしたいと呼び出したのは他でもない私自身で。
弾んだ声が聞こえる中、私だけが緊張の面持ちを宿して居たに違いない。
流石と言うべきか、五条さんは口いっぱいにスイーツを頬張りながらもその気配に気がついたのか。
手招きをされると、私は向かいの席に腰を下ろした。
「五条さん、すみません。お忙しいのに」
「ん?良いよ良いよ。僕、七海と違って勤め人じゃないし。時間の融通は利くんだよね。それにここのスイーツ、食べたかったし。真那もどう?絶品だよ」
メニューを広げた五条さんは、食べ終えたお皿を隅に寄せながら次のスイーツを吟味し始めていた。
それなりに付き合いがあると言っても、五条さんに関して私が知る事は多くない。
現に、自身は建人さんや灰原さんの様に会社勤めをして居る訳でもなく、平日の昼前からこんな風にのんびりと過ごす余裕すらあるらしい。
反面、時折家絡みの事で愚痴を聞いた覚えもあれば食べる仕草はとても綺麗で。
育ちの良さを窺わせる。
普段ならば心擽ぐられるメニューも今の私には魅力を感じられなかった。
コーヒーのみを頼むと五条さんが残念そうに肩を落とすものの、自身はちゃんと次のスイーツを注文して、改めて私に向き直る。
「それで?真那から改まって話がしたいだなんて珍しいね。もしかして、そろそろ本当に結婚とかしちゃう感じ?」
「いえ……そう言った報告だったら、建人さんと二人で報告に伺いますから」
「そうだよね。オマエ達はそうだった」
その時の五条さんの言葉は、かつてそれを経験した事のある様な口ぶりだった。
ドリンクに手を伸ばし、薄く開いた唇が三日月を描く。
まるで試されて居る様な感覚。
それはずっと私に対して何かを問いかけ、訴えかけて居たのだろう。
きっと、今日私がこうして話がしたいと言い出した事すらも、五条さんにとっては予定調和の内で。
今はただ、私の言葉を待ち侘びる様に注がれる視線が私であって其処に無いものを見つめて居た。
「……いつかの年、二月二十九日。その意味を、教えて下さい」
「それ、七海から聞いた?」
テーブルに置かれたグラスが小さな音を立てた。
緩く頭を振ると店内の陽気な音楽とは対照的に、五条さんの低い声と鋭い視線が私に緊張感を与える。
試されて居る様な感覚にも似て居た。
しかし、ここまで来て引く事など出来はしない。
注文したコーヒーが届いても、とても手を伸ばす気にはなれなかった。
向かいからは甘い香りが漂ようと言うのに、今の私は辛酸を舐めた様な面持ちで、俯いた視界の中に五条さんの手元だけが映し出される。
「……いえ。建人さんが魘されて居た時に呟いたものです。度々建人さんにはそう言う時があるんです。本人に自覚はない。私にも身に覚えがないのに、私の名前を紡ぎながら謝罪を繰り返す事が。先日、彼の家の合鍵を貰ったんです。その際に一緒にオートロックの番号を教えてもらって、ずっと抱いて居た違和感が色濃くなりました」
「違和感って?」
「……これまで誰にも話した事はありません。俄には信じ難くて、胸に留めて居たものですが。ずっと、同じ夢を夢を見るんです。何度も何度も。
その人が出会って以来、建人さんと重なるんです。本当のところはどうかわかりません。確かめる術もない。けれど、私達には何かしらの繋がりがあったのではないかと。そう考える事が増えました」
初めて吐露した己の胸の内に、五条さんは驚いた様に目を丸くした。
まるで私がこんな事を言い出す事自体が予想外だと言う様に。
言葉を詰まらせ、食べようとして居たフルーツは彼の口元で頬張られる事なく動きを止めて居る。
しかし、このまま待って居たとしてすんなり口を割ってくれるとは思えなかった。
一度切っ掛けを作って仕舞えば、これまで押し留めて居た不可解な感情は濁流の様に私の喉元に迫る。
ゆっくりとではありながらも、私が次の言葉を紡ぎ始めると五条さんはスイーツに舌鼓を打つ事すら止めて、私の想いに耳を傾けた。
「親しい人達の中で、彼のことを名前で呼ぶ人は誰も居ません。それなのに、私は知って居たんです。彼が七海建人だと。かつて、自分がそう呼んでいたのだと。
自宅を知らないと言うのに、この数字に覚えがあった五条さんなら、何か私の知らない事を知って居るのではないかと思ったんです。だから、もし覚えがあるのなら。どうか教えて下さい。五条さんと建人さんの知る、私の知らない事を」
「仮に君が何かを忘れて居るとして。辛かった事を思い出してしまうくらいなら、知らないままでも良いんじゃない?これは真那にとって、優しい物語じゃないよ」
「……構いません。それでも、私は知りたいんです。……本音は、少し怖いです。でも、私が建人さんを嫌うことなんて有り得ない。思い出したとして、それ程辛い思いをした事は報われた。そうも思う。そして、やっぱり。私は愚かなまでに建人さんを愛して居ます。この想いだけは、誰にも否定されたくありません」
この時の私は、今日の中で一番強い信念を持ち、まっすぐに透き通る蒼眼を見据えて居ただろう。
薄く笑みを溢した五条さんが、ソファの背もたれに身を預けて天井を仰いだ。
彼もまた、どうしたものか考えあぐねて居る様にも思える。
その最後の砦を破るものがあったとしたのなら、私の懇願の言葉なのだろう。
全部、覚えてなければ良かったのに。
悲しげに目を伏せた五条さんが次に見た先は私の左手だった様な気もして。
小さく息を吐くと、降参だと言わんばかりに両手を上げた。
「……変わらないね、オマエは。……そっか。じゃあ、教えてあげるよ。残酷で、美しい。君達のお伽噺を」
そうして語られたのは、やはり信じ難い出来事の数々。
此処ではない何処か別世界の不思議なお話。
かつて私達が生きた世界。
呪い呪われ、それでも激動の中を懸命に生きた人々の物語。
そして、私達の報われる事のなかった愛の結末だった。
それが自分でも到底理解の及ばないもので、他者に信じて貰う以前にどう伝えたら良いのかすら不明瞭なら、尚更だ。
しかし、私の知り得ない所に確かな答えがあると知ってしまったのならば。
話は、まるで違ってくるのではないだろうか。
あれから何とか気持ちを切り替えて建人さんと過ごした時間は、それは幸せなものだった。
合鍵を貰ったことは嬉しいし、これからは料理を作って帰りを待つことだって可能だ。
それなのに、磨き上げられ光り輝いて居たはずの硝玉の様な思いに、突如亀裂が入った様な気がする。
曇一つなかった空に暗雲が掛かり、心を侵食していく。
唐突に浮上した意識は私を夢の世界から現実に放り出し、夜の帳が降りた世界に建人さんの髪が一層煌めいた。
「……愛してます」
いつの間にか、こんな風にこっそりと伝える様になってしまった愛の言葉。
勿論、建人さんからの好意は素直に受け取るし、好きだと何度も口にしてくれる。
私もその言葉を返して口付けを交わし、少し遠回しでも溢れんばかりの愛情が常に私を包み込むのに。
唐突に物悲しい気持ちに襲われる。
不安も畏れも無い筈だ。
それなのに、心が漠然とした靄に覆われる。
建人さんが懐かしさに浸る様にして郷愁を感じる時。
私はその場に居るのだろうか。
確かに私を見ているはずの瞳は、私であって私で無いものを見つめている気がしてならない。
様々な可能性を視野に入れた。
泣く泣く別れてしてしまった想い人に似ているとか。
忘れられない初恋の人に似ているとか。
そう言った私でない他人を見ているのでは無いかと考えた事すらあったと言うのに。
一途なまでに向けられる愛情は、確かに私だけのものなのだ。
益々訳がわからなくなっていくばかりだった。
周囲からは既に結婚すら仄めかされ、建人さんは嬉しそうに顔を綻ばせる。
それと同時に、罪悪感に苛まれる様に苦しげに顔を歪めて。
許しを乞うかの様に私に縋り付く。
その憂いも、悲しみも。
建人さんは私には吐露してはくれない。
私に何かを求め、諦めるように薄い唇は固く閉ざされ、きっと私が問いかけたとしても梨の礫なのだろう。
この先も、ずっと共に在りたい。
心の底からそう思っている。
彼を幸せに出来るのは私だけだし、私が幸せになるにも建人さんが必要だと。
それは最早疑うべくもない事実と言っても良い。
けれど本人に問いただす事が出来ない以上、誰に問えば良いのだろうか。
相談出来るとしてもその相手は限られ、建人さんの耳に入ってしまっては元も子もない。
それ程に信頼が置けて、尚且つ事情を知って居そうな人など居るのだろうか。
そう考えた私の脳裏に、たった一人だけ。
常に私達に見守る様な視線を送る白雪の姿を見た気がする。
「……五条、さん」
自身は場所すら知らないと告げた筈の建人さんの自宅。
その番号に思い当たる節があると溢して居た五条さんならば、或いは私達にかつて何があったのかを知っているのでは無いだろうか。
そう思い至る事は寧ろ必然と言っても良い。
連絡を取るだけならば難しい事では無い。
ただ、今の私にはこの考えに至るまでの経緯をどう説明するべきか判然としない。
俄には信じ難い己の事も。
口の達者な五条さんを納得させるだけの言葉を、果たして私は持ち合わせて居るのだろうか。
「……貴方の為なら、私はどれだけ苦しい思いをしても構いません」
ぽつりと溢れた言葉が何故か今の自分に向けたものでは無い様に思えた。
頬に手を添えると、私は唇を寄せる。
金糸の睫毛が僅かに揺れて。
私を抱き寄せながら、開かれた双眼がゆっくりと瞬きを繰り返した。
私の記憶を本当に必要としているのは、私ではなく建人さんの方なのだろう。
はっきり言って仕舞えば、私はこのままでも構わない。
彼を思う気持ちは変わる事がないし、この先もきっと大きくなるばかりだと胸を張ってそう言える。
けれど、やはり彼には何かしらの赦しが必要なのだとも考える。
その相手が私だとして、例え私が覚えて居なくても。
今の幸せを噛み締めようとしても。
建人さんには、きっとなかった事には出来ない程のものなのだろうから。
「……真那?どうかしましたか?」
「ごめんなさい。起こしちゃいましたね。目が覚めてしまって、建人さんに少し悪戯をして居たんです」
「……眠れませんか?」
「いえ。こうしてくれて居たら、きっと悪い夢を見る事なんて無いですから」
リップ音を奏でながら降り注いだ口付けを受け入れて、私は胸元に顔を埋めた。
建人さんはいつも通り小さく笑みを溢して、広いベッドの中。
限界まで肌を合わせて寄り添い合うこの瞬間は、まるで具現化された幸せそのものと言っても良い。
瞼を下ろすと、ふわふわとした微睡みに誘われる。
意識が落ちる直前。
建人さんが紡ぐ私が望む言葉は、私に届く事がないまま。
悲しげに宙を漂った。
◇◇◇◇◇◇◇◇
私に向けられる慈愛に満ちた瞳に憎しみが宿った。
縋るような思いで伸ばした手は振り払われ、低く落ち着いた声は何処までも私を侮蔑して蔑む。
考えられない建人さんの姿に、身を切り裂かれんばかりの痛みを宿し、私の瞳からは大粒の涙が零れ落ちる。
いっそ嫌いになれたら。
幾度もそう思うのに、とめどなく溢れる感情は彼に向けた執着にも似た想いだけ。
それは、いつも見る暖かな夢ではなかった。
冷たい言葉も、辛辣な言葉も。
鋭利な刃物の如く容赦なく身を刻む。
現実ではないと理解している。
しかし、自身が見聞きして、体験した出来事を現実と呼ぶのならば。
まるで体験したかの様に感じるものは何と名前をつけたら良いのだろうか。
既視感などと言うものはとうに超えている。
非現実でありながら何処までも私を絡め取る。
その答えを知る事が、この先の建人さんとの日々の安寧に繋がるのならば。
やはり私はちゃんと知るべきなのだとすら思う。
先日からこんな夢を何度か見るようになった。
私の知る彼からは到底想像も付かない、憎悪と厭悪に満ちた翡翠を。
目が眩みそうな程の朝日に、私は今この場に建人さんが居ない事に対して安堵している。
夢を見ながら泣いて居たのか。
目元には涙痕が残り、ベッドから起き上がると同時に深い溜息を溢し、手で顔を覆い隠した。
今日は週も真ん中を過ぎた私だけが休みの日。
こんな思考に囚われて居なければ、私はきっと浮かれきって買い出しに向かい、建人さんの自宅で家事に勤しんでいたに違いない。
けれど今日はどうしても確かめなければならない事がある。
事前に連絡をして、後は私が覚悟を決めるばかり。
身支度を整えて、時刻を確認した。
外に出ると寒凪の空が澄み渡る。
待ち合わせの場所は最近できたばかりの人気のカフェで。
待たせることのない様に早めに家を出たつもりだったと言うのに、それすらも読まれて居たのか。
既に満席の店内では若い女性の視線を恣にした五条さんが、一人スイーツを堪能して居た。
ほんの一瞬、己の脚が竦んだ。
けれど、今日この日に話がしたいと呼び出したのは他でもない私自身で。
弾んだ声が聞こえる中、私だけが緊張の面持ちを宿して居たに違いない。
流石と言うべきか、五条さんは口いっぱいにスイーツを頬張りながらもその気配に気がついたのか。
手招きをされると、私は向かいの席に腰を下ろした。
「五条さん、すみません。お忙しいのに」
「ん?良いよ良いよ。僕、七海と違って勤め人じゃないし。時間の融通は利くんだよね。それにここのスイーツ、食べたかったし。真那もどう?絶品だよ」
メニューを広げた五条さんは、食べ終えたお皿を隅に寄せながら次のスイーツを吟味し始めていた。
それなりに付き合いがあると言っても、五条さんに関して私が知る事は多くない。
現に、自身は建人さんや灰原さんの様に会社勤めをして居る訳でもなく、平日の昼前からこんな風にのんびりと過ごす余裕すらあるらしい。
反面、時折家絡みの事で愚痴を聞いた覚えもあれば食べる仕草はとても綺麗で。
育ちの良さを窺わせる。
普段ならば心擽ぐられるメニューも今の私には魅力を感じられなかった。
コーヒーのみを頼むと五条さんが残念そうに肩を落とすものの、自身はちゃんと次のスイーツを注文して、改めて私に向き直る。
「それで?真那から改まって話がしたいだなんて珍しいね。もしかして、そろそろ本当に結婚とかしちゃう感じ?」
「いえ……そう言った報告だったら、建人さんと二人で報告に伺いますから」
「そうだよね。オマエ達はそうだった」
その時の五条さんの言葉は、かつてそれを経験した事のある様な口ぶりだった。
ドリンクに手を伸ばし、薄く開いた唇が三日月を描く。
まるで試されて居る様な感覚。
それはずっと私に対して何かを問いかけ、訴えかけて居たのだろう。
きっと、今日私がこうして話がしたいと言い出した事すらも、五条さんにとっては予定調和の内で。
今はただ、私の言葉を待ち侘びる様に注がれる視線が私であって其処に無いものを見つめて居た。
「……いつかの年、二月二十九日。その意味を、教えて下さい」
「それ、七海から聞いた?」
テーブルに置かれたグラスが小さな音を立てた。
緩く頭を振ると店内の陽気な音楽とは対照的に、五条さんの低い声と鋭い視線が私に緊張感を与える。
試されて居る様な感覚にも似て居た。
しかし、ここまで来て引く事など出来はしない。
注文したコーヒーが届いても、とても手を伸ばす気にはなれなかった。
向かいからは甘い香りが漂ようと言うのに、今の私は辛酸を舐めた様な面持ちで、俯いた視界の中に五条さんの手元だけが映し出される。
「……いえ。建人さんが魘されて居た時に呟いたものです。度々建人さんにはそう言う時があるんです。本人に自覚はない。私にも身に覚えがないのに、私の名前を紡ぎながら謝罪を繰り返す事が。先日、彼の家の合鍵を貰ったんです。その際に一緒にオートロックの番号を教えてもらって、ずっと抱いて居た違和感が色濃くなりました」
「違和感って?」
「……これまで誰にも話した事はありません。俄には信じ難くて、胸に留めて居たものですが。ずっと、同じ夢を夢を見るんです。何度も何度も。
その人が出会って以来、建人さんと重なるんです。本当のところはどうかわかりません。確かめる術もない。けれど、私達には何かしらの繋がりがあったのではないかと。そう考える事が増えました」
初めて吐露した己の胸の内に、五条さんは驚いた様に目を丸くした。
まるで私がこんな事を言い出す事自体が予想外だと言う様に。
言葉を詰まらせ、食べようとして居たフルーツは彼の口元で頬張られる事なく動きを止めて居る。
しかし、このまま待って居たとしてすんなり口を割ってくれるとは思えなかった。
一度切っ掛けを作って仕舞えば、これまで押し留めて居た不可解な感情は濁流の様に私の喉元に迫る。
ゆっくりとではありながらも、私が次の言葉を紡ぎ始めると五条さんはスイーツに舌鼓を打つ事すら止めて、私の想いに耳を傾けた。
「親しい人達の中で、彼のことを名前で呼ぶ人は誰も居ません。それなのに、私は知って居たんです。彼が七海建人だと。かつて、自分がそう呼んでいたのだと。
自宅を知らないと言うのに、この数字に覚えがあった五条さんなら、何か私の知らない事を知って居るのではないかと思ったんです。だから、もし覚えがあるのなら。どうか教えて下さい。五条さんと建人さんの知る、私の知らない事を」
「仮に君が何かを忘れて居るとして。辛かった事を思い出してしまうくらいなら、知らないままでも良いんじゃない?これは真那にとって、優しい物語じゃないよ」
「……構いません。それでも、私は知りたいんです。……本音は、少し怖いです。でも、私が建人さんを嫌うことなんて有り得ない。思い出したとして、それ程辛い思いをした事は報われた。そうも思う。そして、やっぱり。私は愚かなまでに建人さんを愛して居ます。この想いだけは、誰にも否定されたくありません」
この時の私は、今日の中で一番強い信念を持ち、まっすぐに透き通る蒼眼を見据えて居ただろう。
薄く笑みを溢した五条さんが、ソファの背もたれに身を預けて天井を仰いだ。
彼もまた、どうしたものか考えあぐねて居る様にも思える。
その最後の砦を破るものがあったとしたのなら、私の懇願の言葉なのだろう。
全部、覚えてなければ良かったのに。
悲しげに目を伏せた五条さんが次に見た先は私の左手だった様な気もして。
小さく息を吐くと、降参だと言わんばかりに両手を上げた。
「……変わらないね、オマエは。……そっか。じゃあ、教えてあげるよ。残酷で、美しい。君達のお伽噺を」
そうして語られたのは、やはり信じ難い出来事の数々。
此処ではない何処か別世界の不思議なお話。
かつて私達が生きた世界。
呪い呪われ、それでも激動の中を懸命に生きた人々の物語。
そして、私達の報われる事のなかった愛の結末だった。