永遠という名の愛
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春に出会ったその人と、夏を目前にして結ばれた。
それはまるで絵に描いたような幸せな日々で。
どこに居ても、何をして居ても。
言葉を交わす事が無くとも、隣に建人さんがいると言うだけで私の世界は輝いたものへと変わった気がする。
茹る様な暑さに疲弊しながら、団扇を片手に涼を取った。
秋の色づいた並木道を共に歩き、美しい景色を眺めた。
穏やかな生活は冬を迎えて、寒さに震えた時には抱きしめあって温もりを感じた。
喧嘩なんてものとはまるで無縁。
順調にその交際は半年を目前として居て。
こんな日がずっと続けばいいのにと願わずには居られなかった。
「真那、迎えに来ましたよ」
「はい。ありがとうございます。直ぐに着替えてきますね」
最後の患者さんを見送り、閉院の準備を進める傍ら。
すっかり従業員用の扉を潜る事に慣れた建人さんが、笑みを湛えた。
カルテの整理を終えた私はその姿に喜びを露わにして、やり残した仕事がないかを確認してから更衣室へと向かう。
仕事を終えて、毎日欠かす事なく私を迎えに来てくれる建人さんと共に、これから私は彼の自宅への帰路に着く。
共に食事をして、のんびり過ごした後。
名残惜しさを感じながら束の間のお別れをする。
それがすっかり定着して、今の生活となった。
初めこそ、引っ越しを考えて居たのだから建人さんの自宅と職場の間にいい物件はないかと思案したものの。
出来るだけ共に居たい。
そう告げられた私は、考えるまでも無く自分の城よりも彼との空間を選んだし、休みの日の殆どは彼の自宅で過ごす様になっている。
建人さんの自宅に少しずつ増えて行く己の私物に、微笑んだ回数は数え切れない。
最早、自分の家よりも彼の家で過ごす時間の方がずっと長くなって居る節は否めず、半同棲の様な生活は日々を鮮やかに彩る。
先日は一緒に年を越して、今年も。
この先も、ずっと宜しくお願いします。
そんな言葉を交わしながら、まるで将来を誓い合うかの様に互いの手を取り合ったばかりだった。
着替えを終えて、先走る足が回転を早める。
すっかり建人さんの定位置となってしまった休憩室に向かうと、家入さんと建人さんがコーヒーを片手に談笑して居た。
「建人さん、お待たせしました」
「そんなに急がなくても大丈夫ですよ。家入さんに相手をして居てもらいましたから。それに、アナタを待つ時間は苦にならない」
私が駆け寄ると、建人さんは少し冷めて居たであろうコーヒーを飲み干す。
家入さんに向けたお礼の言葉と共に立ち上がり、私に視線を向けた。
細まる翠眼を見ると、未だに擽ったい気持ちに駆られる。
家入さんが居る事すら気に留めずに、建人さんは解いた私の髪を遊ばせた。
その距離は本当に近しい、ごく僅かな人しか許されないものと言っても過言ではなくて。
そんな私達の姿を、テーブルに肘を突きながら家入さんが郷愁に浸るような眼差しで見つめて居た。
態とらしく家入さんが咳払いをしたのは、視線を彷徨わせた私への配慮だったのだろうか。
すっかり場所を失念して居たと思われる建人さんは、一度肩を竦めた。
しかし、続きは家で。
耳元に唇を寄せると、低くそう呟き。
私は顔を赤ながら困り果てるばかりだった。
「相変わらずだな、オマエ達は。ほら、早く帰れ私も今日は店じまいだ」
「ええ、そうさせて貰います」
「いつもすみません。お疲れ様です、家入さん」
「ああ、来週も頼むよ」
挨拶がわりに飲みかけのコーヒーカップを掲げた家入さんは寄り添居ながら退室する私達の背中を優しく見守った。
外に出ると、底冷えする様な空気が肌を突き刺す。
繋いでいた手もあっという間に熱を奪われ、指先が悴んだ。
吐き出した息が雲の様に空に浮かび、空を見上げると満天の星空が広がって居た。
「……綺麗、ですね」
「ええ。この景色を見れるなら、寒さも悪くない」
「ふふ、本当ですね」
「ですが、アナタが凍えてしまわないか心配です」
繋いだ私の手に建人さんが唇を寄せた。
掠めた吐息が暖かく、触れた唇に私は顔を赤らめる。
今が闇の中で良かったと心底思う。
唐突にこうして思いもよらない触れ方をしてくるから、建人さんの隣に居るのは心地いい反面。
幾つ心臓があっても足りないと思えてしまう。
しかし、肩を揺らした建人さんは私の事など全てお見通しなのだろう。
冷えた手が建人さんの手と共に彼の羽織ったコートのポケットの中に押し込まれた。
ほんの僅か、外気から遮断されただけだと言うのにあっという間に私の手は温もりを取り戻し、いっそ熱を孕んだ様にも思えるけれど。
それはきっと、私の手を包み込む無骨な手のせいに違いない。
「……月が、綺麗ですね」
「はい。凄く、綺麗です」
見上げた夜空。
煌く星に囲まれた月華に照らされた影が一つに重なり、私達もまた隙間なく身を寄せ合う。
今し方の建人さんの言った言葉。
それはただ情景を口にしただけのものではなく、別の意味を持つ事を私は知っている。
けれど、衝動に身を委ねた半年前から。
建人さんの口から直接的なその言葉を聞かなくなった。
愛されている事は十分過ぎる程に伝わってくると言うのに、何処かその言葉を告げる事を躊躇っている様にも感じる時がある。
家入さんを始めとする親しい人達は既に私達の関係を知って居る。
報告した時の灰原さんの得意げな顔。
夏油さんの少し意地悪な顔は忘れもしない。
伊地知さんは感極まったかの様に涙目になって居たし、それぞれが祝福の言葉を投げかけてくれた。
ただ、その場で五条さんだけが含みのある笑みを浮かべて。
その時の建人さんは、少しばかり憂いの色を宿した様な気がする。
普段、連絡を取り合ったり私達会話に出てくるのは大半が灰原さんだと言うのに。
何か自身の手には負えない様な局面にぶつかる時。
建人さんは五条さんを頼っている様にも感じて居た。
私の知り得ない何かが其処にはあって。
信頼と信用の元。
五条さんだけが知り得る想いに、私は見て見ぬふりを続けて居た。
それが正解なのだと思って居たから。
私に語られる事のない深淵を覗いてはいけないと、私の中にその衝動を押し留める何かが存在している。
それなのに、果たしてこれでいいのだろうかと。
ふと、そんな思考に囚われる時がある。
一度は胸の奥底にしまった筈の存在は、まるで意思を持ったかの様に蓋を開けて。
蔦の様に這い出たものが、私の心を締め上げていくと言うのに。
その存在は未だ私の理解が及ばない場所にあった。
「……真那?」
「あっ、はい」
「どうかしましたか?気分が優れない様でしたら、今日は送りますよ」
「違うんです。……ごめんなさい」
気がついた時。
私の眼前には建人さんの自宅の扉が聳えて居た。
私に向ける優しげな表情は息を潜め、眉尻を下げる姿に考えに耽ってしまった己を呪った。
毎日、この時間が私の至福で。
待ちに待った週末のひと時だと言うのに、こんな顔をさせてしまった事が申し訳ない。
やはり今日は帰るべきなのかと考えが過るのに、私の手は建人さんの腕を掴んだままで、喉は言葉を詰まらせた。
それなのに、咎める事すらしない。
哀愁を帯びた表情だけが自らを嘲笑っている様にも思えて。
繋がれて居なかった手が、氷の様に冷たかった。
「無理をさせたい訳では無いんです。私は今日を。いや、日々アナタに会える事に喜びを見出しますが、息が詰まる時もあるでしょうから」
「……そんなっ」
「ですが、アナタが大丈夫だと言うのなら。その言葉を信じます。今日はどうしても渡したいものがあるので」
扉を開きながら、建人さんは選択を私に委ねた。
紡げない謝罪の想いが胸の内をのたうち回る。
一緒に居たいと言う想いは私とて同じだ。
けれど建人さんからすれば、彼の抱えた想いと私の抱くものには明確な差異があるのだと言われている様な気がする。
一体、何が違うと言うのだろうか。
これ以上ない程に愛して居る。
片時も離れたくないと思えるほどに焦がれていると言うのに。
私の想いは届いて居ないのだろうかと、落胆にも似た思いが頭を擡げた。
建人さんを安堵させる事が出来ない自分が憎らしい。
それでも、帰るなんて選択肢を選ぶ事はもっと出来なくて。
一歩を踏み出した私は、振り返りそのまま建人さんを引き摺り込んだ。
「……建人さん」
「すみません。少し意地悪でしたね」
幼子の様に大きな身体に腕を回す。
穏やかに掛けられた言葉に、私はそうではないのだと懸命に首を振って否定した。
折角一緒にいるのに、瑣末な事に気を取られて居た私はどうかして居たのだ。
疑うべくもない程の愛情を惜しみなく注がれている。
自惚れでも何でもなく、確かにそう感じているのだからこのままでいい筈なのだ。
思慮深いと言えば聞こえは良い。
けれど私は、ずっと答えの出ない疑問に頭を悩ませ、目の前の事を等閑にしているだけだ。
それなのに、この胸の支えは。
息苦しさは、少しも和らぐ事がない。
胸元に手を押し当て、踵を浮かせた。
私の意図を汲んだ様に降り注ぐ口付けに身を委ね、その心地に酔いしれる。
「此処では冷えます。部屋に入りましょう」
「……はい」
手を取り合い、いつもこの部屋に入る瞬間に感じる高揚感が、今日に限っては少し苦しかった。
それは罪悪感なのか、猜疑心なのか。
何に向けたものなのかすら、私には判然としない。
テーブルに座る様促され、コートを脱いだ建人さんはそのままキッチンへと向かった。
やがてやって来たのは鼻を擽る香ばしい香り。
カップに注がれた温かいコーヒーを前にしても、神妙な面持ちだったな違いない。
「まだ、気分は晴れませんか?」
「……ごめんなさい。でも、一緒に居るのが嫌な訳じゃないんです。本当です……。出来る事なら此処に居たい。帰りたく、ない」
膝の上で拳を握りしめると、少し伸びた爪が食い込んだ。
思い悩むばかりならばいっそ一人になった方がマシだとわかっているのに。
建人さんが今にも泡沫の様に消えてしまいそうな気がして。
唐突に恐ろしくなる。
悴んだ片手をカップに伸ばすと、持ち手を掴むより早く、手が重なった。
恐る恐る顔を上げると、建人さんは困り果てたように眉を寄せて儚い笑みを浮かべて居た。
「アナタが私の側に居て、少しでも心安らかになれると言うのなら。それで十分です。私としても、今日はどうしてもアナタにこれを渡したかったので」
「これは……」
「この家の鍵です。日々一緒に帰宅するのだから不要かとも考えましたが、アナタがいつでも来れる様に、渡しておきたいと思ったんです」
テーブルの上で鈍色に光る鍵に私の視線が奪われた。
これまではずっと一緒に訪れる事しかなく、考えた事もなかったけれど。
元々私達の休みの日は全てが一緒な訳ではなく、週に一度やって来るその日は、私は自宅で建人さんを待つばかりとなって居た。
本を読んだり、家事に勤しんだり、買い物をする事もあるけれど、やはり寂しさは拭えなくて。
お帰りなさいと、この人を出迎える事がら許されるのだろうか。
これからは、この部屋で建人さんの帰りを待つ事が出来るのだろうかと、胸の中に喜びが溢れ出す。
「……良いんですか?」
「ええ。アナタに持って居て貰いたいんです」
「……嬉しい。ありがとうございます」
「それと、これも伝えておかなければいけませんね」
雲に覆われた空に、日が差し込む様に。
私の顔にやっと笑みが浮かんだ気がする。
胸に抱いた鍵は何よりの信頼の証でもあり、私にとっては至上の贈り物と言っても良いだろう。
ただ待つ場所が変わると言うそれだけの事。
けれど、それは私にとって大きな意味を持つ事に変わりは無い。
しかし、その後に告げられた言葉に私は鈍器で頭を殴打された様な衝撃を抱く事になる。
伝えられたのは部屋に至る為に必要なオートロックの番号だった。
たった四桁。
されど四桁の数字。
口頭で伝えれば何ら問題はないはずのその数字に、私は覚えがあったからだ。
凡そ半年と言う短い様で長い濃密な関係の中。
私達は幾度も夜を共にした。
そんな中で時折、深い眠りに堕ちているであろう建人さんは夢に魘される事がある。
大寒期と呼ばれる時期に差し掛かるとそれは一層顕著なものへと変わり、ほんの先日。
建人さんは私の名前と共に四年に一度しかない日付を譫言のように口ずさんだ。
その時感じた焼け付く様な胸の痛みを、私は今でもはっきりと覚えている。
飛び上がる様にして起き上がった建人さんは、夢の現実の狭間。
自尊心すらかなぐり捨てる様に、無我夢中で私を掻き抱いた。
そして、私はその日付が建人さんにとって特別な意味を持つという事を理解した。
その時の事を、恐らく建人さんは覚えて居ないのだろう。
そして、今し方聞いたオートロックの番号は奇しくもその日付と同じものだった。
……ああ、この日。
私達の間にはきっと何かがあったのだと。
最早、何ら疑いを抱く事もなく、そう確信せざるを得なかった。
──いつかの年。
二月二十九日と言う、特別な日常に。
それはまるで絵に描いたような幸せな日々で。
どこに居ても、何をして居ても。
言葉を交わす事が無くとも、隣に建人さんがいると言うだけで私の世界は輝いたものへと変わった気がする。
茹る様な暑さに疲弊しながら、団扇を片手に涼を取った。
秋の色づいた並木道を共に歩き、美しい景色を眺めた。
穏やかな生活は冬を迎えて、寒さに震えた時には抱きしめあって温もりを感じた。
喧嘩なんてものとはまるで無縁。
順調にその交際は半年を目前として居て。
こんな日がずっと続けばいいのにと願わずには居られなかった。
「真那、迎えに来ましたよ」
「はい。ありがとうございます。直ぐに着替えてきますね」
最後の患者さんを見送り、閉院の準備を進める傍ら。
すっかり従業員用の扉を潜る事に慣れた建人さんが、笑みを湛えた。
カルテの整理を終えた私はその姿に喜びを露わにして、やり残した仕事がないかを確認してから更衣室へと向かう。
仕事を終えて、毎日欠かす事なく私を迎えに来てくれる建人さんと共に、これから私は彼の自宅への帰路に着く。
共に食事をして、のんびり過ごした後。
名残惜しさを感じながら束の間のお別れをする。
それがすっかり定着して、今の生活となった。
初めこそ、引っ越しを考えて居たのだから建人さんの自宅と職場の間にいい物件はないかと思案したものの。
出来るだけ共に居たい。
そう告げられた私は、考えるまでも無く自分の城よりも彼との空間を選んだし、休みの日の殆どは彼の自宅で過ごす様になっている。
建人さんの自宅に少しずつ増えて行く己の私物に、微笑んだ回数は数え切れない。
最早、自分の家よりも彼の家で過ごす時間の方がずっと長くなって居る節は否めず、半同棲の様な生活は日々を鮮やかに彩る。
先日は一緒に年を越して、今年も。
この先も、ずっと宜しくお願いします。
そんな言葉を交わしながら、まるで将来を誓い合うかの様に互いの手を取り合ったばかりだった。
着替えを終えて、先走る足が回転を早める。
すっかり建人さんの定位置となってしまった休憩室に向かうと、家入さんと建人さんがコーヒーを片手に談笑して居た。
「建人さん、お待たせしました」
「そんなに急がなくても大丈夫ですよ。家入さんに相手をして居てもらいましたから。それに、アナタを待つ時間は苦にならない」
私が駆け寄ると、建人さんは少し冷めて居たであろうコーヒーを飲み干す。
家入さんに向けたお礼の言葉と共に立ち上がり、私に視線を向けた。
細まる翠眼を見ると、未だに擽ったい気持ちに駆られる。
家入さんが居る事すら気に留めずに、建人さんは解いた私の髪を遊ばせた。
その距離は本当に近しい、ごく僅かな人しか許されないものと言っても過言ではなくて。
そんな私達の姿を、テーブルに肘を突きながら家入さんが郷愁に浸るような眼差しで見つめて居た。
態とらしく家入さんが咳払いをしたのは、視線を彷徨わせた私への配慮だったのだろうか。
すっかり場所を失念して居たと思われる建人さんは、一度肩を竦めた。
しかし、続きは家で。
耳元に唇を寄せると、低くそう呟き。
私は顔を赤ながら困り果てるばかりだった。
「相変わらずだな、オマエ達は。ほら、早く帰れ私も今日は店じまいだ」
「ええ、そうさせて貰います」
「いつもすみません。お疲れ様です、家入さん」
「ああ、来週も頼むよ」
挨拶がわりに飲みかけのコーヒーカップを掲げた家入さんは寄り添居ながら退室する私達の背中を優しく見守った。
外に出ると、底冷えする様な空気が肌を突き刺す。
繋いでいた手もあっという間に熱を奪われ、指先が悴んだ。
吐き出した息が雲の様に空に浮かび、空を見上げると満天の星空が広がって居た。
「……綺麗、ですね」
「ええ。この景色を見れるなら、寒さも悪くない」
「ふふ、本当ですね」
「ですが、アナタが凍えてしまわないか心配です」
繋いだ私の手に建人さんが唇を寄せた。
掠めた吐息が暖かく、触れた唇に私は顔を赤らめる。
今が闇の中で良かったと心底思う。
唐突にこうして思いもよらない触れ方をしてくるから、建人さんの隣に居るのは心地いい反面。
幾つ心臓があっても足りないと思えてしまう。
しかし、肩を揺らした建人さんは私の事など全てお見通しなのだろう。
冷えた手が建人さんの手と共に彼の羽織ったコートのポケットの中に押し込まれた。
ほんの僅か、外気から遮断されただけだと言うのにあっという間に私の手は温もりを取り戻し、いっそ熱を孕んだ様にも思えるけれど。
それはきっと、私の手を包み込む無骨な手のせいに違いない。
「……月が、綺麗ですね」
「はい。凄く、綺麗です」
見上げた夜空。
煌く星に囲まれた月華に照らされた影が一つに重なり、私達もまた隙間なく身を寄せ合う。
今し方の建人さんの言った言葉。
それはただ情景を口にしただけのものではなく、別の意味を持つ事を私は知っている。
けれど、衝動に身を委ねた半年前から。
建人さんの口から直接的なその言葉を聞かなくなった。
愛されている事は十分過ぎる程に伝わってくると言うのに、何処かその言葉を告げる事を躊躇っている様にも感じる時がある。
家入さんを始めとする親しい人達は既に私達の関係を知って居る。
報告した時の灰原さんの得意げな顔。
夏油さんの少し意地悪な顔は忘れもしない。
伊地知さんは感極まったかの様に涙目になって居たし、それぞれが祝福の言葉を投げかけてくれた。
ただ、その場で五条さんだけが含みのある笑みを浮かべて。
その時の建人さんは、少しばかり憂いの色を宿した様な気がする。
普段、連絡を取り合ったり私達会話に出てくるのは大半が灰原さんだと言うのに。
何か自身の手には負えない様な局面にぶつかる時。
建人さんは五条さんを頼っている様にも感じて居た。
私の知り得ない何かが其処にはあって。
信頼と信用の元。
五条さんだけが知り得る想いに、私は見て見ぬふりを続けて居た。
それが正解なのだと思って居たから。
私に語られる事のない深淵を覗いてはいけないと、私の中にその衝動を押し留める何かが存在している。
それなのに、果たしてこれでいいのだろうかと。
ふと、そんな思考に囚われる時がある。
一度は胸の奥底にしまった筈の存在は、まるで意思を持ったかの様に蓋を開けて。
蔦の様に這い出たものが、私の心を締め上げていくと言うのに。
その存在は未だ私の理解が及ばない場所にあった。
「……真那?」
「あっ、はい」
「どうかしましたか?気分が優れない様でしたら、今日は送りますよ」
「違うんです。……ごめんなさい」
気がついた時。
私の眼前には建人さんの自宅の扉が聳えて居た。
私に向ける優しげな表情は息を潜め、眉尻を下げる姿に考えに耽ってしまった己を呪った。
毎日、この時間が私の至福で。
待ちに待った週末のひと時だと言うのに、こんな顔をさせてしまった事が申し訳ない。
やはり今日は帰るべきなのかと考えが過るのに、私の手は建人さんの腕を掴んだままで、喉は言葉を詰まらせた。
それなのに、咎める事すらしない。
哀愁を帯びた表情だけが自らを嘲笑っている様にも思えて。
繋がれて居なかった手が、氷の様に冷たかった。
「無理をさせたい訳では無いんです。私は今日を。いや、日々アナタに会える事に喜びを見出しますが、息が詰まる時もあるでしょうから」
「……そんなっ」
「ですが、アナタが大丈夫だと言うのなら。その言葉を信じます。今日はどうしても渡したいものがあるので」
扉を開きながら、建人さんは選択を私に委ねた。
紡げない謝罪の想いが胸の内をのたうち回る。
一緒に居たいと言う想いは私とて同じだ。
けれど建人さんからすれば、彼の抱えた想いと私の抱くものには明確な差異があるのだと言われている様な気がする。
一体、何が違うと言うのだろうか。
これ以上ない程に愛して居る。
片時も離れたくないと思えるほどに焦がれていると言うのに。
私の想いは届いて居ないのだろうかと、落胆にも似た思いが頭を擡げた。
建人さんを安堵させる事が出来ない自分が憎らしい。
それでも、帰るなんて選択肢を選ぶ事はもっと出来なくて。
一歩を踏み出した私は、振り返りそのまま建人さんを引き摺り込んだ。
「……建人さん」
「すみません。少し意地悪でしたね」
幼子の様に大きな身体に腕を回す。
穏やかに掛けられた言葉に、私はそうではないのだと懸命に首を振って否定した。
折角一緒にいるのに、瑣末な事に気を取られて居た私はどうかして居たのだ。
疑うべくもない程の愛情を惜しみなく注がれている。
自惚れでも何でもなく、確かにそう感じているのだからこのままでいい筈なのだ。
思慮深いと言えば聞こえは良い。
けれど私は、ずっと答えの出ない疑問に頭を悩ませ、目の前の事を等閑にしているだけだ。
それなのに、この胸の支えは。
息苦しさは、少しも和らぐ事がない。
胸元に手を押し当て、踵を浮かせた。
私の意図を汲んだ様に降り注ぐ口付けに身を委ね、その心地に酔いしれる。
「此処では冷えます。部屋に入りましょう」
「……はい」
手を取り合い、いつもこの部屋に入る瞬間に感じる高揚感が、今日に限っては少し苦しかった。
それは罪悪感なのか、猜疑心なのか。
何に向けたものなのかすら、私には判然としない。
テーブルに座る様促され、コートを脱いだ建人さんはそのままキッチンへと向かった。
やがてやって来たのは鼻を擽る香ばしい香り。
カップに注がれた温かいコーヒーを前にしても、神妙な面持ちだったな違いない。
「まだ、気分は晴れませんか?」
「……ごめんなさい。でも、一緒に居るのが嫌な訳じゃないんです。本当です……。出来る事なら此処に居たい。帰りたく、ない」
膝の上で拳を握りしめると、少し伸びた爪が食い込んだ。
思い悩むばかりならばいっそ一人になった方がマシだとわかっているのに。
建人さんが今にも泡沫の様に消えてしまいそうな気がして。
唐突に恐ろしくなる。
悴んだ片手をカップに伸ばすと、持ち手を掴むより早く、手が重なった。
恐る恐る顔を上げると、建人さんは困り果てたように眉を寄せて儚い笑みを浮かべて居た。
「アナタが私の側に居て、少しでも心安らかになれると言うのなら。それで十分です。私としても、今日はどうしてもアナタにこれを渡したかったので」
「これは……」
「この家の鍵です。日々一緒に帰宅するのだから不要かとも考えましたが、アナタがいつでも来れる様に、渡しておきたいと思ったんです」
テーブルの上で鈍色に光る鍵に私の視線が奪われた。
これまではずっと一緒に訪れる事しかなく、考えた事もなかったけれど。
元々私達の休みの日は全てが一緒な訳ではなく、週に一度やって来るその日は、私は自宅で建人さんを待つばかりとなって居た。
本を読んだり、家事に勤しんだり、買い物をする事もあるけれど、やはり寂しさは拭えなくて。
お帰りなさいと、この人を出迎える事がら許されるのだろうか。
これからは、この部屋で建人さんの帰りを待つ事が出来るのだろうかと、胸の中に喜びが溢れ出す。
「……良いんですか?」
「ええ。アナタに持って居て貰いたいんです」
「……嬉しい。ありがとうございます」
「それと、これも伝えておかなければいけませんね」
雲に覆われた空に、日が差し込む様に。
私の顔にやっと笑みが浮かんだ気がする。
胸に抱いた鍵は何よりの信頼の証でもあり、私にとっては至上の贈り物と言っても良いだろう。
ただ待つ場所が変わると言うそれだけの事。
けれど、それは私にとって大きな意味を持つ事に変わりは無い。
しかし、その後に告げられた言葉に私は鈍器で頭を殴打された様な衝撃を抱く事になる。
伝えられたのは部屋に至る為に必要なオートロックの番号だった。
たった四桁。
されど四桁の数字。
口頭で伝えれば何ら問題はないはずのその数字に、私は覚えがあったからだ。
凡そ半年と言う短い様で長い濃密な関係の中。
私達は幾度も夜を共にした。
そんな中で時折、深い眠りに堕ちているであろう建人さんは夢に魘される事がある。
大寒期と呼ばれる時期に差し掛かるとそれは一層顕著なものへと変わり、ほんの先日。
建人さんは私の名前と共に四年に一度しかない日付を譫言のように口ずさんだ。
その時感じた焼け付く様な胸の痛みを、私は今でもはっきりと覚えている。
飛び上がる様にして起き上がった建人さんは、夢の現実の狭間。
自尊心すらかなぐり捨てる様に、無我夢中で私を掻き抱いた。
そして、私はその日付が建人さんにとって特別な意味を持つという事を理解した。
その時の事を、恐らく建人さんは覚えて居ないのだろう。
そして、今し方聞いたオートロックの番号は奇しくもその日付と同じものだった。
……ああ、この日。
私達の間にはきっと何かがあったのだと。
最早、何ら疑いを抱く事もなく、そう確信せざるを得なかった。
──いつかの年。
二月二十九日と言う、特別な日常に。