愛と言う名の咎
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あの日以来、私の生活は一変してしまった。
事務的な事でしか鳴らなくなってしまったスマホを眺め、幸せだった時の写真を眺めて己の現状を再認識しては血が滲む程に唇を噛みしめる。
話を聞かされてから数日が経ち、約束通り家入さんは大きな紙袋を抱えて非番だった私の元を訪れた。
食欲など湧くはずもなく、無理矢理にでも流し込めるようになったのはゼリー飲料ばかりで疲弊する私の様子を窺うと言う目的もあったのだろう。
私の表情を見て顔を顰めながらも、脚元はしっかりと床を踏み締めている事を確認したのか手にした荷物を差し出した。
「真那、頼まれていた荷物…もらって来たぞ」
「ありがとう、ございます」
差し出された荷物を受け取ると、私は家入さんを部屋に招き入れて荷物を一つずつ取り出した。
泊まるたびに愛用していた寝巻きや部屋着。
テーマパークに行ったときに買ってもらったキャラクターのぬいぐるみ。
必要不可欠なスキンケア用品。
読者好きの彼に貸していた本。
全て沢山の想い出が詰まる大切なものであり私にとってはかけがえのないもの。
そして袋の奥底に埋もれるようにして置かれた小さな箱を見つけると、処分されていなかったことに安堵しながら私は震える手でそれを掬い上げた。
「…よかった」
「指輪、か」
「はい…。一緒に選びに行ったものなんですが、私なかなか決める事が出来なくて。建人さんは私が悩んでいる間文句の一つも言わずに待って居てくれたんです」
外す事が出来ないまま、私の左指に光る指輪。
離れて居ても互いを守れるようにと相手の誕生石を内側に埋め込み、イニシャルと結婚記念日になるはずだった日付が刻まれたプラチナのリングはケースの中で誰の指も彩る事なく寂しげに光っている。
それはまるで取り残されてしまった自分自身のようにも思えて、本来ならば揃いのリングを嵌めて微笑むはずだった幻影を見た私は緩く首を振りながらそれを打ち消した。
翌日、チェーンだけを買いに行くと彼の指輪を通して私は自分の首元を飾った。
人目に触れさせぬよう、着込んだ服に隠した彼の指輪。
…せめて、一緒に選んだ幸せの象徴だけは共にあって欲しいと…。
独りよがりな願いを込めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
建人さんはやはり線引きのきちんと出来る大人だった。
しかし、仕事に関する連絡となれば表面上は当たり障りなく接してくれるものの時折見せる視線は鋭く、憎しみさえも滲ませて射殺さんばかりに私を捉える。
ありありと伝わる負の感情にいつからか私は萎縮するようになり、このままでは良くないからと今まで任されていた仕事のいくつかを伊地知さんと新田さんに任せるようになった。
その代わりに他の仕事を請け負うことで帳尻を合わせ、結果的に私の仕事が楽になった訳では無いのだけれど、二つ返事で了承してくれた彼女は私が初めて教育と指導をした補助監督であり、私達の関係を知っていた新田さんにも事情を話すと彼女は涙ながらに私を抱きしめてくれた。
その温もりに、少しだけ胸の支えが取れたように思う。
ある日、事務処理をしている時に偶然見つけてしまった建人さんの転居届。
高専ではしっかりとした職員寮が完備されて居り、五条さんのような多忙な呪術師は呼び出しが絶えない事から外に居を構える人の方が少ない。
けれど建人さんは他人の気配を感じる事の無い生活を送りたいと言って高専の外に自宅を持っていた。
「…そう、なんだ」
当然送迎の関係上、転居するとなれば届出は不可欠となり、私が手にした書面は以前暮らしていた思い出の詰まる家を引き払い新居へと越した事を示している。
私物を全て引き上げても、通い詰めていた私の痕跡を感じさせる家は薄気味悪く、寛げないから住みたく無いのだと言う言葉を最近、人伝に聞いたばかりだった。
それなのに遠目に彼を見つけてしまうと心が駆け出したいと悲鳴を上げる。
衝動を必死に堪える度にその場で蹲り、溢れそうになる涙を止める事が常となってしまった。
誰かに見られる事のないように息を殺し、流した涙の分だけ軽くなった筈だと自分を騙して生活を続けるうちに感情らしいものが少しずつ擦り減っていくような気がした。
十二月…。
百鬼夜行という未曾有の呪術によるテロを乗り越え、年が変わり冬の寒さが一層厳しさを増しても私の胸は爛れたまま痛みが和らぐ事がない。
いつからか建人さんの事情を知らない同僚達の中では私が建人さんに一方的に想いを寄せ、それを彼が大層迷惑しているのだと根も葉もない噂までが出回るようになっていた。
私は、いつの間にか高専にも居場所を無くし始めていた。
…彼が幸せならばそれで良い。
幾度も自分に言い聞かせ、納得させ、誤魔化してきた言葉も周囲の視線や態度から次第に限界を見せ始めていく。
そして二月も終わりの頃。
既に半年を一人で乗り越え、やっと彼の事ばかりに頭を占拠される事も無くなった…一層厳しい寒さの日。
あるものが手元に届き、それが追い討ちをかけるように私の気分を憂鬱にさせていた。
…そるは本当なら彼に渡す筈だった、一生の記念になる大切なもの。
「七海さん、お疲れ様です」
「アナタですか。お疲れ様です」
気落ちしたまま廊下を歩いていると、突然視界に入った建人さんの存在に私は咄嗟に物陰に身を隠す。
彼に駆け寄ったのは私より少し年上の補助監督の先輩であり、鼻に掛かったような声で彼の腕を取ると甘えるような仕草を見せている。
そこはかつて…私が居た場所だったのに。
他人から必要以上に触れられる事を良しとしない彼がそれを許していると言うだけで、二人の距離の近さを認識してしまった。
息が止まりそうなほどの苦しさの中、ジロリと此方を向けた鋭い視線に私は肩を跳ねさせ、抱えていた書類をばら撒いてしまうと先輩と建人さんが目の前に迫って来る。
伏せた私の視界に入る二人の足元。
固まったまま動けずに居る私の手はガタガタと震え始め、お疲れ様ですと、せめて一言声をかけなければと思うのに…喉元を締め上げられたかのように言葉が紡げない。
「如月さん、大丈夫?あーあ…。書類ばら撒いちゃって、本当にドジなんだから。
七海さん、任務から帰ってきたばかりなのよ?労いの言葉くらい掛けたらどうなの」
「すみません…」
優しい皮を被り、書類を払ってくれるふりをした先輩は真っ赤に染めた唇に美しい弧を描きながら彼に聞こえないほどの声量で惨めね、と私を嘲笑っていた。
彼は私を見るなりその表情を歪め、手を差し伸べる事などあるはずも無く、口を閉ざしたまま刃物を思わせる程に鋭利な視線が突き刺さる。
掻き集めた書類を胸に抱き、立ち上がって一礼だけ済ませた私は文字通り逃げるようにその場を後にした。
彼らから身を隠すと、楽しげな笑い声と共に彼の腕を抱きしめる先輩と、微笑みながら彼女に視線を向ける建人さんの姿。
…本当に、惨めだ。
ねぇ、建人さん…。
聞いたところで貴方はもう覚えていないでしょう。
今日は本当なら、私達の結婚式だったんです。
貴方が勧めてくれたウェディングドレスを着て、私は誰よりも幸せな花嫁になるはずだったんです。
これからやってくる幸せな日々に期待で胸を膨らませて、貴方と寄り添い過ごす日々を重ねる筈だったんです。
一人で式場とドレスのキャンセルの電話をした時。
その事情をどう説明したら良いか悩み、苦しみました。
使われる事の無いウェディンググッズを見た時。
頑張って作った全てが無に帰した気がしました。
手渡すはずのゲストが居なくなってしまった招待状を見た時…。
私はこの上なく、虚しくて惨めでした。
限界が迫っているとは感じていたけれど、そんなものはとうに超えていた。
場所も弁えず、逃げた先で蹲り咽び泣く私の姿は誰の目にも滑稽だった事だろう。
誰も悪く無い。
仕方のない事だったのだから。
私さえ…我慢すれば。
必死に言い聞かせてきた言葉は最早呪いにも似ていて。
地面に額を擦り付けんばかりの勢いで泣きじゃくる私の目に周りの事など映っては居なかった。
どれほど泣いた事だろう。
誰かが駆けつけてくれた事だけは覚えているのに、その言葉は全く記憶にない。
呼吸さえ儘ならず、立ち上がる事さえできなくなった私を抱き上げた腕は焦がれた彼のものとはまるで違って…。
言葉さえ交わしてくれなくても、憎悪の視線を向けられ続けても、いっそ殺されたとしても…。
私には貴方を憎む事も、諦める事も…きっと出来はしない。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
目が覚めた時、瞼がとても重たかった。
腕に僅かな痛みを感じ、チューブに繋がれた点滴らしきものがぼやけた視界の中に映り込む。
恐る恐る身体を起こすと割れそうなほどの頭痛に襲われて思わず顔を顰めた。
朧げな記憶を辿り、自分がこうなった経緯を思い返せば羞恥の極み。
昂った感情が制御出来ないなんて情けないと己を嘲笑するしか出来ず、仕切られたカーテンの隙間から室内を覗くとデスクに向かう家入さんの背中と、ソファに凭れる五条さんの姿を捉え、その姿は目元は覆われているのに何処か憂いを帯びていた。
「あ、の…」
「起きたか。気分はどうだ?」
「…大丈夫、です」
「馬鹿言え。脱水に栄養失調…よくもまぁ、今まで普通に仕事してきたもんだな」
運び込まれた際に簡単な健康チェックでもされたのだろう。
バインダーに挟まれた用紙を捲る家入さんは医師の顔をしており、不摂生を続けた私を優しく諌めた。
食べようと思っても食事が上手いこと喉を通ってくれず、意識すればする程吐き気さえも催してしまう現状をこれまで誰にも相談できずに来てしまった。
そのツケが回ってきたのなら自業自得であり、家入さんに余計な仕事を増やしてしまった事を申し訳なく思う。
五条さんは別件で訪れたのだろうか。
相変わらず沈黙を貫くのかと思いきや、ソファの背もたれに身体を預け、首を反らせると私に向けて厳しい言葉が降り掛かる。
「ねぇ、真那。オマエこのままここに居てやっていけるの?」
「五条、何も今でなくても良いだろう」
「大事な事だからさ。真那は仕事も出来るし気配りも上手い。情報処理のポテンシャルは伊地知と同等。おまけに美人。でも、今のオマエの環境じゃその力を発揮する事は難しいよね。
…嫌がらせとか酷いんじゃないの?」
「それ、は…」
五条さんの最後の言葉に私は肩を大きく跳ねさせた。
必要な書類がなくなっている。
伝達事項が私にだけ伝えられない。
担当の呪術師との待ち合わせの時刻を誤って伝えられる。
…噂が出回り始めてからそんな事は既に日常と化していて、感覚などとうに麻痺していた。
伝えられないならば交わされる会話の端から情報を拾い集めれば良い。
呪術師と直接やりとりをすれば良い。
書類は複写して必ず持ち歩けばいい。
そうして人知れず対策を講じてきたけれど、まさか伊地知さんにも気づかれなかった事を五条さんに指摘されるとは思っていなかった。
「オマエさ、弱音吐かないじゃん。死ぬほど辛いって全身で訴えてんのに何にも言わないからこっちの方が心配になるんだよね」
「…すみません」
「謝って欲しいんじゃないよ。僕はせっかくの逸材を潰されたくないだけ。ね、ここにずっといるつもり?
頑張っていい子してた所で状況は変わらないんだ。オマエ、潰れるよ?」
「五条!!」
五条さんの言葉に私はすぐに言葉を返せなかった。
建人さんに忘れ去られても、私は彼の幸せを見届けようと…そう思っていた。
けれど現実は私の想像以上に惨たらしい。
そばに居れなくても、無いものと同等に扱われても、憎しみの籠った眼で射抜かれても…。
大丈夫だと思っていた。
私の気持ちが変わらなければ平気だと。
…そう思っていたのに。
信じて、居たのに…。
「辛い、です…。もう、無理です…」
「真那…」
泣くという行為はストレスを緩和させると言う。
良くも悪くも高揚した気持ちを抑えてくれるものだと。
しかし半年間、一人で流し続けた涙は私の傷口を癒してなどくれなかった。
爛れた傷口は完治しないまま消えない瘢痕となって残り続け、事情を知らない周囲の態度は塩を塗り込んでいく。
ベッドの端に腰掛けた私は腰を折り、蹲ったまま声を絞り出した。
堪えきれなかった涙では身の内を焦がすほどに燃え盛る焔は消し去れはしないのに…。
まだ幸せだった日々に縋りつこうとしている私がいる。
一年経とうが十年経とうが…きっと変わらないのだろう。
それだけ深く深く、今もまだ彼を愛しているから。
やっと紡げた弱音を家入さんも五条さんも、ただ…静かに聴いてくれた。
後日、私は京都校への移動を申請し、残りの日々を過ごすことになる。
事務的な事でしか鳴らなくなってしまったスマホを眺め、幸せだった時の写真を眺めて己の現状を再認識しては血が滲む程に唇を噛みしめる。
話を聞かされてから数日が経ち、約束通り家入さんは大きな紙袋を抱えて非番だった私の元を訪れた。
食欲など湧くはずもなく、無理矢理にでも流し込めるようになったのはゼリー飲料ばかりで疲弊する私の様子を窺うと言う目的もあったのだろう。
私の表情を見て顔を顰めながらも、脚元はしっかりと床を踏み締めている事を確認したのか手にした荷物を差し出した。
「真那、頼まれていた荷物…もらって来たぞ」
「ありがとう、ございます」
差し出された荷物を受け取ると、私は家入さんを部屋に招き入れて荷物を一つずつ取り出した。
泊まるたびに愛用していた寝巻きや部屋着。
テーマパークに行ったときに買ってもらったキャラクターのぬいぐるみ。
必要不可欠なスキンケア用品。
読者好きの彼に貸していた本。
全て沢山の想い出が詰まる大切なものであり私にとってはかけがえのないもの。
そして袋の奥底に埋もれるようにして置かれた小さな箱を見つけると、処分されていなかったことに安堵しながら私は震える手でそれを掬い上げた。
「…よかった」
「指輪、か」
「はい…。一緒に選びに行ったものなんですが、私なかなか決める事が出来なくて。建人さんは私が悩んでいる間文句の一つも言わずに待って居てくれたんです」
外す事が出来ないまま、私の左指に光る指輪。
離れて居ても互いを守れるようにと相手の誕生石を内側に埋め込み、イニシャルと結婚記念日になるはずだった日付が刻まれたプラチナのリングはケースの中で誰の指も彩る事なく寂しげに光っている。
それはまるで取り残されてしまった自分自身のようにも思えて、本来ならば揃いのリングを嵌めて微笑むはずだった幻影を見た私は緩く首を振りながらそれを打ち消した。
翌日、チェーンだけを買いに行くと彼の指輪を通して私は自分の首元を飾った。
人目に触れさせぬよう、着込んだ服に隠した彼の指輪。
…せめて、一緒に選んだ幸せの象徴だけは共にあって欲しいと…。
独りよがりな願いを込めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
建人さんはやはり線引きのきちんと出来る大人だった。
しかし、仕事に関する連絡となれば表面上は当たり障りなく接してくれるものの時折見せる視線は鋭く、憎しみさえも滲ませて射殺さんばかりに私を捉える。
ありありと伝わる負の感情にいつからか私は萎縮するようになり、このままでは良くないからと今まで任されていた仕事のいくつかを伊地知さんと新田さんに任せるようになった。
その代わりに他の仕事を請け負うことで帳尻を合わせ、結果的に私の仕事が楽になった訳では無いのだけれど、二つ返事で了承してくれた彼女は私が初めて教育と指導をした補助監督であり、私達の関係を知っていた新田さんにも事情を話すと彼女は涙ながらに私を抱きしめてくれた。
その温もりに、少しだけ胸の支えが取れたように思う。
ある日、事務処理をしている時に偶然見つけてしまった建人さんの転居届。
高専ではしっかりとした職員寮が完備されて居り、五条さんのような多忙な呪術師は呼び出しが絶えない事から外に居を構える人の方が少ない。
けれど建人さんは他人の気配を感じる事の無い生活を送りたいと言って高専の外に自宅を持っていた。
「…そう、なんだ」
当然送迎の関係上、転居するとなれば届出は不可欠となり、私が手にした書面は以前暮らしていた思い出の詰まる家を引き払い新居へと越した事を示している。
私物を全て引き上げても、通い詰めていた私の痕跡を感じさせる家は薄気味悪く、寛げないから住みたく無いのだと言う言葉を最近、人伝に聞いたばかりだった。
それなのに遠目に彼を見つけてしまうと心が駆け出したいと悲鳴を上げる。
衝動を必死に堪える度にその場で蹲り、溢れそうになる涙を止める事が常となってしまった。
誰かに見られる事のないように息を殺し、流した涙の分だけ軽くなった筈だと自分を騙して生活を続けるうちに感情らしいものが少しずつ擦り減っていくような気がした。
十二月…。
百鬼夜行という未曾有の呪術によるテロを乗り越え、年が変わり冬の寒さが一層厳しさを増しても私の胸は爛れたまま痛みが和らぐ事がない。
いつからか建人さんの事情を知らない同僚達の中では私が建人さんに一方的に想いを寄せ、それを彼が大層迷惑しているのだと根も葉もない噂までが出回るようになっていた。
私は、いつの間にか高専にも居場所を無くし始めていた。
…彼が幸せならばそれで良い。
幾度も自分に言い聞かせ、納得させ、誤魔化してきた言葉も周囲の視線や態度から次第に限界を見せ始めていく。
そして二月も終わりの頃。
既に半年を一人で乗り越え、やっと彼の事ばかりに頭を占拠される事も無くなった…一層厳しい寒さの日。
あるものが手元に届き、それが追い討ちをかけるように私の気分を憂鬱にさせていた。
…そるは本当なら彼に渡す筈だった、一生の記念になる大切なもの。
「七海さん、お疲れ様です」
「アナタですか。お疲れ様です」
気落ちしたまま廊下を歩いていると、突然視界に入った建人さんの存在に私は咄嗟に物陰に身を隠す。
彼に駆け寄ったのは私より少し年上の補助監督の先輩であり、鼻に掛かったような声で彼の腕を取ると甘えるような仕草を見せている。
そこはかつて…私が居た場所だったのに。
他人から必要以上に触れられる事を良しとしない彼がそれを許していると言うだけで、二人の距離の近さを認識してしまった。
息が止まりそうなほどの苦しさの中、ジロリと此方を向けた鋭い視線に私は肩を跳ねさせ、抱えていた書類をばら撒いてしまうと先輩と建人さんが目の前に迫って来る。
伏せた私の視界に入る二人の足元。
固まったまま動けずに居る私の手はガタガタと震え始め、お疲れ様ですと、せめて一言声をかけなければと思うのに…喉元を締め上げられたかのように言葉が紡げない。
「如月さん、大丈夫?あーあ…。書類ばら撒いちゃって、本当にドジなんだから。
七海さん、任務から帰ってきたばかりなのよ?労いの言葉くらい掛けたらどうなの」
「すみません…」
優しい皮を被り、書類を払ってくれるふりをした先輩は真っ赤に染めた唇に美しい弧を描きながら彼に聞こえないほどの声量で惨めね、と私を嘲笑っていた。
彼は私を見るなりその表情を歪め、手を差し伸べる事などあるはずも無く、口を閉ざしたまま刃物を思わせる程に鋭利な視線が突き刺さる。
掻き集めた書類を胸に抱き、立ち上がって一礼だけ済ませた私は文字通り逃げるようにその場を後にした。
彼らから身を隠すと、楽しげな笑い声と共に彼の腕を抱きしめる先輩と、微笑みながら彼女に視線を向ける建人さんの姿。
…本当に、惨めだ。
ねぇ、建人さん…。
聞いたところで貴方はもう覚えていないでしょう。
今日は本当なら、私達の結婚式だったんです。
貴方が勧めてくれたウェディングドレスを着て、私は誰よりも幸せな花嫁になるはずだったんです。
これからやってくる幸せな日々に期待で胸を膨らませて、貴方と寄り添い過ごす日々を重ねる筈だったんです。
一人で式場とドレスのキャンセルの電話をした時。
その事情をどう説明したら良いか悩み、苦しみました。
使われる事の無いウェディンググッズを見た時。
頑張って作った全てが無に帰した気がしました。
手渡すはずのゲストが居なくなってしまった招待状を見た時…。
私はこの上なく、虚しくて惨めでした。
限界が迫っているとは感じていたけれど、そんなものはとうに超えていた。
場所も弁えず、逃げた先で蹲り咽び泣く私の姿は誰の目にも滑稽だった事だろう。
誰も悪く無い。
仕方のない事だったのだから。
私さえ…我慢すれば。
必死に言い聞かせてきた言葉は最早呪いにも似ていて。
地面に額を擦り付けんばかりの勢いで泣きじゃくる私の目に周りの事など映っては居なかった。
どれほど泣いた事だろう。
誰かが駆けつけてくれた事だけは覚えているのに、その言葉は全く記憶にない。
呼吸さえ儘ならず、立ち上がる事さえできなくなった私を抱き上げた腕は焦がれた彼のものとはまるで違って…。
言葉さえ交わしてくれなくても、憎悪の視線を向けられ続けても、いっそ殺されたとしても…。
私には貴方を憎む事も、諦める事も…きっと出来はしない。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
目が覚めた時、瞼がとても重たかった。
腕に僅かな痛みを感じ、チューブに繋がれた点滴らしきものがぼやけた視界の中に映り込む。
恐る恐る身体を起こすと割れそうなほどの頭痛に襲われて思わず顔を顰めた。
朧げな記憶を辿り、自分がこうなった経緯を思い返せば羞恥の極み。
昂った感情が制御出来ないなんて情けないと己を嘲笑するしか出来ず、仕切られたカーテンの隙間から室内を覗くとデスクに向かう家入さんの背中と、ソファに凭れる五条さんの姿を捉え、その姿は目元は覆われているのに何処か憂いを帯びていた。
「あ、の…」
「起きたか。気分はどうだ?」
「…大丈夫、です」
「馬鹿言え。脱水に栄養失調…よくもまぁ、今まで普通に仕事してきたもんだな」
運び込まれた際に簡単な健康チェックでもされたのだろう。
バインダーに挟まれた用紙を捲る家入さんは医師の顔をしており、不摂生を続けた私を優しく諌めた。
食べようと思っても食事が上手いこと喉を通ってくれず、意識すればする程吐き気さえも催してしまう現状をこれまで誰にも相談できずに来てしまった。
そのツケが回ってきたのなら自業自得であり、家入さんに余計な仕事を増やしてしまった事を申し訳なく思う。
五条さんは別件で訪れたのだろうか。
相変わらず沈黙を貫くのかと思いきや、ソファの背もたれに身体を預け、首を反らせると私に向けて厳しい言葉が降り掛かる。
「ねぇ、真那。オマエこのままここに居てやっていけるの?」
「五条、何も今でなくても良いだろう」
「大事な事だからさ。真那は仕事も出来るし気配りも上手い。情報処理のポテンシャルは伊地知と同等。おまけに美人。でも、今のオマエの環境じゃその力を発揮する事は難しいよね。
…嫌がらせとか酷いんじゃないの?」
「それ、は…」
五条さんの最後の言葉に私は肩を大きく跳ねさせた。
必要な書類がなくなっている。
伝達事項が私にだけ伝えられない。
担当の呪術師との待ち合わせの時刻を誤って伝えられる。
…噂が出回り始めてからそんな事は既に日常と化していて、感覚などとうに麻痺していた。
伝えられないならば交わされる会話の端から情報を拾い集めれば良い。
呪術師と直接やりとりをすれば良い。
書類は複写して必ず持ち歩けばいい。
そうして人知れず対策を講じてきたけれど、まさか伊地知さんにも気づかれなかった事を五条さんに指摘されるとは思っていなかった。
「オマエさ、弱音吐かないじゃん。死ぬほど辛いって全身で訴えてんのに何にも言わないからこっちの方が心配になるんだよね」
「…すみません」
「謝って欲しいんじゃないよ。僕はせっかくの逸材を潰されたくないだけ。ね、ここにずっといるつもり?
頑張っていい子してた所で状況は変わらないんだ。オマエ、潰れるよ?」
「五条!!」
五条さんの言葉に私はすぐに言葉を返せなかった。
建人さんに忘れ去られても、私は彼の幸せを見届けようと…そう思っていた。
けれど現実は私の想像以上に惨たらしい。
そばに居れなくても、無いものと同等に扱われても、憎しみの籠った眼で射抜かれても…。
大丈夫だと思っていた。
私の気持ちが変わらなければ平気だと。
…そう思っていたのに。
信じて、居たのに…。
「辛い、です…。もう、無理です…」
「真那…」
泣くという行為はストレスを緩和させると言う。
良くも悪くも高揚した気持ちを抑えてくれるものだと。
しかし半年間、一人で流し続けた涙は私の傷口を癒してなどくれなかった。
爛れた傷口は完治しないまま消えない瘢痕となって残り続け、事情を知らない周囲の態度は塩を塗り込んでいく。
ベッドの端に腰掛けた私は腰を折り、蹲ったまま声を絞り出した。
堪えきれなかった涙では身の内を焦がすほどに燃え盛る焔は消し去れはしないのに…。
まだ幸せだった日々に縋りつこうとしている私がいる。
一年経とうが十年経とうが…きっと変わらないのだろう。
それだけ深く深く、今もまだ彼を愛しているから。
やっと紡げた弱音を家入さんも五条さんも、ただ…静かに聴いてくれた。
後日、私は京都校への移動を申請し、残りの日々を過ごすことになる。