永遠という名の愛
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今でも時折。
否、気がつけば思い返す。
真那を失い、その軌跡を辿った時の果てない絶望感と、それでもなお溢れて止まない愛おしさを。
そして苛まれる己の愚行と償いきれない自責の念。
それは例え真那が私を赦したとしても消え去るものではなく、己の胸を突き刺す杭となって残り続けて居る。
喪失感も、虚無も。
あの時の私を常に嘲笑い、手足を絡め取った。
それはまるで深い海の底に沈む様に。
静かに、けれど確実に私の心を蝕んで行った。
それでも、今世こそ。
アナタと再び巡り会えたとしたのなら、二度とその手を離すまい。
己の過去を自覚した瞬間から、私は限りなくそう思って居た筈だった。
しかし、偶然に偶然を重ねる内に再び狂おしい程に真那に惹かれていく己が、唐突に恐ろしくなった。
また、あの時と同じ様な事にならないかと。
最愛の人を忌み嫌う、残酷な病の存在が脳裏に浮かぶ。
愛と言う幸福をちらつかせ、奈落に突き落とした。
それで居ながら、亡くしてからその大きさに気付かされ、嘆いた己を憎み、いっそ殺してやりたいと幾度思った事だろうか。
現代では忘愛症候群と言う不可思議な病気は存在しない事になって居る。
けれど、余りにも特異な病故に認識されて居ないと言うだけなのかもしれない。
前世ですら、家入さんがその存在をやっと知るだけだった奇病。
私が再びそうならないと言う保証など、どこにもないのだ。
その僅かでありながら打ち消すことの出来ない可能性が一雫の墨の如く、胸に蔓延っている。
悲嘆に暮れて、それでも一途に向けられる愛情に嫌悪し、厭悪する己を後にどれ程呪ったかは計り知れない。
いっそ立場が逆だったとしたのなら……そんな愚かな事を考えたは数えるだけ無駄に等しく、想像しただけでも耐え難いと言うのに。
しかし、それを私は彼女に強いたのだと言う事実だけが鉛の様にのし掛かる。
真那はそんな世界で涙と共に四季を過ごしたのだから。
今世の悪戯は時に残酷だ。
一度巡り会ってからと言うもの、まるで運命だと言わんばかりに私を翻弄する。
既にこれ以上無い程に愛していると言うのに、知る程に触れたくなった。
愛を囁き、この腕の中で愛でたいとその衝動だけが膨れ上がる。
私が今世を生きる様に、命の危機に脅かされる事なく生きる真那は、その本質が何一つ変わっては居なかった。
昔から、不思議な程に気が合う。
共にいて心地いい。
ただ側に居るだけで満ち足りた想いを抱ける。
そんな相手を別に見つけろと言うのは酷と言うものだ。
少しずつ会話を重ね、共通点を見つけると愛らしく微笑み、はにかんだ表情はまるで花が綻ぶ様を思わせ、私の胸にまで灯火を宿す。
私の理性は真那を前にすると風前の灯火にも等しくなる。
先日は雨の日にずぶ濡れになった真那を、私は敢えて己の自宅に引き摺り込んだ。
耳障りの良い言葉を並べたて、アナタが心配だからと善人の皮を被り。
そうして己の空間の中に、その居場所を与えて愉悦にすら浸った。
本当は、やりようは幾らでもあった筈だった。
家入さんに連絡をする事も。
五条さんや伊地知君に助力を乞う事も出来た筈なのに。
この時ばかりは僅かな時間でも共に過ごしたいと言う欲を優先させてしまった。
それが間違いだったのだろうか。
己の服を身に纏う真那の姿には劣情を唆られたし、いっそ帰す事が惜しいとさえ考えてしまった。
幾度も幾度も、繰り返した引越しは嘗て真那と共に生活する筈だった部屋の面影を追い求めたものだ。
家具の一つ一つ。
キッチンの調理器具の配置まで、当時を追想して再現した。
私達が束の間の幸せを噛み締め、結婚生活を送る筈だった。
自ら気味が悪いと言って引き払ってしまったあの家を。
その空間を心地いいと、素敵だと言われた時の歓喜を彼女は知りはしないのだろう。
……いつか。
いつかの日か、真那の記憶が戻る事を願い続けて居る。
しかし、それが果たして真那にとっての幸せに繋がるのだろうかと懐疑と猜疑にも苛まれた。
私は知って居るからだ。
その身に受けた壮絶な苦痛の中、それでも私と共に在りたかったと綴った切なる祈りを。
どれだけ途方もなく愛して居たとしても。
今尚この想いが語る事なく胸に宿ろうとも。
例えば真那から私に向けた淡い恋情の念を感じ取って居たとしても。
蓋をした筈の己の欲求が、醜い顔を覗かせ始めていると悟って居たとしても。
──愛してる。
私には未だ、たったその一言。
望まれて居るであろう言葉一つ、伝える事が出来ずに居る。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
喧騒に包まれて居た街が夜の帳を降ろす。
薪をくべたかの様に灯りが燈り、仕事を終えた人々の姿も既に疎となって居た。
待ち合わせた場所は雰囲気のいいバーで。
思えばいつだったか、出張先で共にグラスを傾けた覚えがある。
自身は下戸だと言うのに、そう言う店に関してやたら詳しい。
飲むのは決まってノンアルのカクテルで、その度に私は勿体無いと内心思いつつ、自身のグラスを煽った事が遥か遠い記憶の様にも感じて居た。
「や、七海。風邪治った?」
「おかげさまで。とんでもないサプライズのお陰で、寝込んでも居られなくなりましたから」
入り口のカウベルが小気味いい音を立てる。
カウンターでは私を呼び出した張本人が白髪を煌めかせて揚々と片手を上げた。
短いと挨拶と共に隣に座り、注文を済ませる。
入れ替わりでやって来たメロンソーダに目を輝かせた男は、まるで子供の様で深い溜息が溢れた。
五条さんが真那を連れて自宅に押し掛けた数日後。
珍しく二人で話がしたいと私はこうして呼び出された。
この人が改まって話をしたいなんて言い出した事はそう多くない。
今考えられる可能性といえば、それはやはり真那の事なのだろう。
あの当時。
病に冒されても尚私を見放す事もせず。
真那の意思を汲み、彼女を失い抜け殻同然となった私に叱咤をしてくれたのは、この人に他ならないのだから。
「ねぇ。あの後どうだった?久々に懐かしい思い出にでも浸れた?」
「……ええ。まるであの時に戻った様な錯覚を抱きましたよ」
皮肉とも取れるその言葉に、存外素直に応じる事が出来たのは、本当にあのひと時が幸せだと思えたからだろう。
真那の作ってくれた料理に、幸せだった日常の面影を見た。
あの部屋で共に過ごした僅かな尊い時間は、今も焦る事なく私の中に刻まれている。
思わず私の手が、胸元に誘われた。
真那に貰ったネクタイはあの日以来、ずっと私のスーツに彩りを添えて。
最早肩時も手放せないものへと変わりつつある。
最初はどんな偶然かと本当に驚いた。
何故ならば彼女が今世で選んでくれたネクタイは、真那が亡くなってから伊地知君に託したものとまるで同じものだったからだ。
ふとした時にその片鱗を見せては、私の胸を締めつける。
それなのに、今の真那には私と育んできた筈の思い出の欠片すら残されて居ない。
これは罰だと己に言い聞かせる側で、無性に歯痒くなる時がある。
手に入れたい。
この腕の中に閉じ込めたいとこれ以上ない程に願っていると言うのに。
どうしても、私には過去の幻影を振り払う事が出来ないまま。
泣き慣れた真那の顔を幾度夢に見ただろうか。
私が跳ね除けた手に、痛みを堪えた姿を幾度思い返しただろう。
それなのに、私は先日。
告白まがいの事をしでかした事に今更後悔の念すら過る。
唯一の救いは、真那が辿々しくとも拒む事なくそれを受け入れてくれたと言う事だけだ。
「あの子に言わないの?」
「何をですか。まさか、私達は前世で恋人同士だったとでも?」
「結婚までするつもりだった癖に?」
此方の心を見透かす様な蒼眼が、此処にはない景色を見つめて居た。
それが何を想っての事かなど聞くまでもなく、手元にやって来たコープス・リバイバーを一口煽る。
最早自分ではどうにもならない激情に翻弄されていると言うのに、この期に及んで怖気付くとは何と情けない事か。
それなのに、例えば真那が何処かの誰かと幸せを見つけたとしたら。
きっと私は過去の二の舞になるに違いない。
今度こそ……。
そう誓った筈の想いは胸の内で恐怖とせめぎ合う。
どう足掻いたとしても最後には私の我が上回ると言うのに、その僅かな不安と恐怖を払拭し、過去を繰り返さないと言う保証を得たいだけだ。
それは結局、自己保身にも等しいのだろう。
真那を失った後の、暗然たる影を恐れているに過ぎない。
ヤケ酒でもするかの様に、煽った酒が喉を灼いた。
いっそ言ってしまえたら楽になれる。
しかし、それは同時にあの記憶を真那に突きつけると言う事に他ならない。
その時、真那はきっと苦しみ、悲しみ。
同時に恐怖するのだろう。
私への淡い恋情を捨て去ったとしてもおかしくは無い。
……間違いなく私は、それだけの事をしたのだから。
「真那ってさぁ、良い子なのに物凄く男の趣味が悪いんだよ」
「それは嫌味のつもりですか?」
探る様な視線を向けても、相変わらず軽薄な五条さんからその真意を窺う事は叶わなかった。
酒も入って居ないのに、メロンソーダだけで酔えるのか。
この場にそぐわない軽快な笑い声を上げ、背中を叩かれる。
おもわず噎せそうになる程に容赦ない手は、激励のつもりでもあったのだろうか。
カウンターに肘を突き、顔を綻ばせた五条さんの表情はかつて私達が結婚の報告をした時のものとよく似て居た気がする。
「半分ね。僕も傑も、それだけ今世のあの子を気に入ってるんだよ。僕としては、今度こそ幸せになって欲しいと思ってる。それなのにさぁ、二股かけた挙句、勝手に運命だなんて言って復縁迫ってくる様な男に捕まっちゃってさ。この前なんて、街中で迫られて泣きそうになってたんだよ。偶々見かけたから良かったけど。今度から、僕達が一度チェックしなきゃダメだね。なんて話もしたくらい。暫くはボディーガードが必要かもよ?」
「その話、本当ですか?」
恐らくそれは私の見舞いに来てくれたあの日の事を言って居るのだろう。
しかし、私は真那の口からそんな話は一言も聞いては居なかった。
元々、控えめな性格をしている。
他者に迷惑を掛ける位ならば自身が我慢してしまう様な損な性分すらも、違った人生を歩む中で変わる事が無かったのだろうか。
怖い思いをしたに違いない。
それなのに、私は慰めの言葉一つ与えてやれなかった事が悔やまれた。
今も不安に駆られているのでは無いかと考えれば居ても立っても居られない居られなくなると言うのに。
私はまだ、二の足を踏んでいる気がして。
項垂れる様に視線を落とすと、五条さんは態とらしく顔を覗き込んでくる。
「硝子には話てあるから大丈夫だと思うけどね。僕も脅しておいたし。でも、昔の恋人なら家は知ってるんじゃ無い?ストーカー予備軍って怖いよねぇ」
「……明日から、職場に真那を迎えに行きます」
「良いんじゃない?じゃ、そろそろ僕帰るよ」
話したい事とはどうやらこの事だったらしい。
鮮やかな翠に染まったグラスは空になり、残された氷が小さく音を響かせた。
久々に今日は一人でゆっくり飲むのも悪くはない。
同じものを、五条さんはそう告げた私の肩に手を置いた。
しっかりとした足取りで扉に向かい、最後に言い残した事があると言いたげに一度此方を振り向く。
──七海。
それは店内に流れる雰囲気のいい曲に負けることのない、静かで。
それで居て覇気のあるものだった。
かつて、最強と謳われた呪術師。
五条悟の面影すら見出した様な気がして、私はその場で小さく息を呑む。
「真那の男の趣味はやっぱりいただけないけどさ。オマエになら、少なくとも僕は任せられると思ってるよ。運命なんて曖昧なものは信じないタチだけど、オマエ達に限ってはそんなものがあっても良いんじゃないかとも思ってる。
僕達は此処にいる。でも、此処はオマエの囚われてる世界じゃないよ。今を生きろよ。僕は、それこそがこの生の意義だと思ってる」
その言葉が、どれ程私の胸を打ったかをこの人はきっと理解している様でして居ないのだろう。
望まぬ形で袂を分かった親友と肩を並べる姿は、私にとっても憧憬に近く。
今の五条さんは私の知るその人より、幾分か穏やかな雰囲気を持つ様になった気がする。
今の私達ならば、前とは違う形で同じ愛情を育んでいく事が出来るのだろうか。
その答えを知るのは恐らく私達だけだ。
そして、その一歩を踏み出すかどうかを決めるのもまた、私達だけとなる。
今度こそは。
そう己に誓い続け、消え掛かった灯火が少しばかりその輪郭を濃くした様にも思う。
絶えず胸を締め上げて居た苦しみから、少しばかり解放された様な心地だった。
今回ばかりは。
否、真那との件に関しては不本意ながらも感謝しかない。
僅かに口元を緩めながら二杯目のコープス・リバイバーに手を伸ばす。
一度死しても尚、色褪せない想いは運命と名前を変えて。
私達の中に確かに存在しているのだと願いながら。
否、気がつけば思い返す。
真那を失い、その軌跡を辿った時の果てない絶望感と、それでもなお溢れて止まない愛おしさを。
そして苛まれる己の愚行と償いきれない自責の念。
それは例え真那が私を赦したとしても消え去るものではなく、己の胸を突き刺す杭となって残り続けて居る。
喪失感も、虚無も。
あの時の私を常に嘲笑い、手足を絡め取った。
それはまるで深い海の底に沈む様に。
静かに、けれど確実に私の心を蝕んで行った。
それでも、今世こそ。
アナタと再び巡り会えたとしたのなら、二度とその手を離すまい。
己の過去を自覚した瞬間から、私は限りなくそう思って居た筈だった。
しかし、偶然に偶然を重ねる内に再び狂おしい程に真那に惹かれていく己が、唐突に恐ろしくなった。
また、あの時と同じ様な事にならないかと。
最愛の人を忌み嫌う、残酷な病の存在が脳裏に浮かぶ。
愛と言う幸福をちらつかせ、奈落に突き落とした。
それで居ながら、亡くしてからその大きさに気付かされ、嘆いた己を憎み、いっそ殺してやりたいと幾度思った事だろうか。
現代では忘愛症候群と言う不可思議な病気は存在しない事になって居る。
けれど、余りにも特異な病故に認識されて居ないと言うだけなのかもしれない。
前世ですら、家入さんがその存在をやっと知るだけだった奇病。
私が再びそうならないと言う保証など、どこにもないのだ。
その僅かでありながら打ち消すことの出来ない可能性が一雫の墨の如く、胸に蔓延っている。
悲嘆に暮れて、それでも一途に向けられる愛情に嫌悪し、厭悪する己を後にどれ程呪ったかは計り知れない。
いっそ立場が逆だったとしたのなら……そんな愚かな事を考えたは数えるだけ無駄に等しく、想像しただけでも耐え難いと言うのに。
しかし、それを私は彼女に強いたのだと言う事実だけが鉛の様にのし掛かる。
真那はそんな世界で涙と共に四季を過ごしたのだから。
今世の悪戯は時に残酷だ。
一度巡り会ってからと言うもの、まるで運命だと言わんばかりに私を翻弄する。
既にこれ以上無い程に愛していると言うのに、知る程に触れたくなった。
愛を囁き、この腕の中で愛でたいとその衝動だけが膨れ上がる。
私が今世を生きる様に、命の危機に脅かされる事なく生きる真那は、その本質が何一つ変わっては居なかった。
昔から、不思議な程に気が合う。
共にいて心地いい。
ただ側に居るだけで満ち足りた想いを抱ける。
そんな相手を別に見つけろと言うのは酷と言うものだ。
少しずつ会話を重ね、共通点を見つけると愛らしく微笑み、はにかんだ表情はまるで花が綻ぶ様を思わせ、私の胸にまで灯火を宿す。
私の理性は真那を前にすると風前の灯火にも等しくなる。
先日は雨の日にずぶ濡れになった真那を、私は敢えて己の自宅に引き摺り込んだ。
耳障りの良い言葉を並べたて、アナタが心配だからと善人の皮を被り。
そうして己の空間の中に、その居場所を与えて愉悦にすら浸った。
本当は、やりようは幾らでもあった筈だった。
家入さんに連絡をする事も。
五条さんや伊地知君に助力を乞う事も出来た筈なのに。
この時ばかりは僅かな時間でも共に過ごしたいと言う欲を優先させてしまった。
それが間違いだったのだろうか。
己の服を身に纏う真那の姿には劣情を唆られたし、いっそ帰す事が惜しいとさえ考えてしまった。
幾度も幾度も、繰り返した引越しは嘗て真那と共に生活する筈だった部屋の面影を追い求めたものだ。
家具の一つ一つ。
キッチンの調理器具の配置まで、当時を追想して再現した。
私達が束の間の幸せを噛み締め、結婚生活を送る筈だった。
自ら気味が悪いと言って引き払ってしまったあの家を。
その空間を心地いいと、素敵だと言われた時の歓喜を彼女は知りはしないのだろう。
……いつか。
いつかの日か、真那の記憶が戻る事を願い続けて居る。
しかし、それが果たして真那にとっての幸せに繋がるのだろうかと懐疑と猜疑にも苛まれた。
私は知って居るからだ。
その身に受けた壮絶な苦痛の中、それでも私と共に在りたかったと綴った切なる祈りを。
どれだけ途方もなく愛して居たとしても。
今尚この想いが語る事なく胸に宿ろうとも。
例えば真那から私に向けた淡い恋情の念を感じ取って居たとしても。
蓋をした筈の己の欲求が、醜い顔を覗かせ始めていると悟って居たとしても。
──愛してる。
私には未だ、たったその一言。
望まれて居るであろう言葉一つ、伝える事が出来ずに居る。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
喧騒に包まれて居た街が夜の帳を降ろす。
薪をくべたかの様に灯りが燈り、仕事を終えた人々の姿も既に疎となって居た。
待ち合わせた場所は雰囲気のいいバーで。
思えばいつだったか、出張先で共にグラスを傾けた覚えがある。
自身は下戸だと言うのに、そう言う店に関してやたら詳しい。
飲むのは決まってノンアルのカクテルで、その度に私は勿体無いと内心思いつつ、自身のグラスを煽った事が遥か遠い記憶の様にも感じて居た。
「や、七海。風邪治った?」
「おかげさまで。とんでもないサプライズのお陰で、寝込んでも居られなくなりましたから」
入り口のカウベルが小気味いい音を立てる。
カウンターでは私を呼び出した張本人が白髪を煌めかせて揚々と片手を上げた。
短いと挨拶と共に隣に座り、注文を済ませる。
入れ替わりでやって来たメロンソーダに目を輝かせた男は、まるで子供の様で深い溜息が溢れた。
五条さんが真那を連れて自宅に押し掛けた数日後。
珍しく二人で話がしたいと私はこうして呼び出された。
この人が改まって話をしたいなんて言い出した事はそう多くない。
今考えられる可能性といえば、それはやはり真那の事なのだろう。
あの当時。
病に冒されても尚私を見放す事もせず。
真那の意思を汲み、彼女を失い抜け殻同然となった私に叱咤をしてくれたのは、この人に他ならないのだから。
「ねぇ。あの後どうだった?久々に懐かしい思い出にでも浸れた?」
「……ええ。まるであの時に戻った様な錯覚を抱きましたよ」
皮肉とも取れるその言葉に、存外素直に応じる事が出来たのは、本当にあのひと時が幸せだと思えたからだろう。
真那の作ってくれた料理に、幸せだった日常の面影を見た。
あの部屋で共に過ごした僅かな尊い時間は、今も焦る事なく私の中に刻まれている。
思わず私の手が、胸元に誘われた。
真那に貰ったネクタイはあの日以来、ずっと私のスーツに彩りを添えて。
最早肩時も手放せないものへと変わりつつある。
最初はどんな偶然かと本当に驚いた。
何故ならば彼女が今世で選んでくれたネクタイは、真那が亡くなってから伊地知君に託したものとまるで同じものだったからだ。
ふとした時にその片鱗を見せては、私の胸を締めつける。
それなのに、今の真那には私と育んできた筈の思い出の欠片すら残されて居ない。
これは罰だと己に言い聞かせる側で、無性に歯痒くなる時がある。
手に入れたい。
この腕の中に閉じ込めたいとこれ以上ない程に願っていると言うのに。
どうしても、私には過去の幻影を振り払う事が出来ないまま。
泣き慣れた真那の顔を幾度夢に見ただろうか。
私が跳ね除けた手に、痛みを堪えた姿を幾度思い返しただろう。
それなのに、私は先日。
告白まがいの事をしでかした事に今更後悔の念すら過る。
唯一の救いは、真那が辿々しくとも拒む事なくそれを受け入れてくれたと言う事だけだ。
「あの子に言わないの?」
「何をですか。まさか、私達は前世で恋人同士だったとでも?」
「結婚までするつもりだった癖に?」
此方の心を見透かす様な蒼眼が、此処にはない景色を見つめて居た。
それが何を想っての事かなど聞くまでもなく、手元にやって来たコープス・リバイバーを一口煽る。
最早自分ではどうにもならない激情に翻弄されていると言うのに、この期に及んで怖気付くとは何と情けない事か。
それなのに、例えば真那が何処かの誰かと幸せを見つけたとしたら。
きっと私は過去の二の舞になるに違いない。
今度こそ……。
そう誓った筈の想いは胸の内で恐怖とせめぎ合う。
どう足掻いたとしても最後には私の我が上回ると言うのに、その僅かな不安と恐怖を払拭し、過去を繰り返さないと言う保証を得たいだけだ。
それは結局、自己保身にも等しいのだろう。
真那を失った後の、暗然たる影を恐れているに過ぎない。
ヤケ酒でもするかの様に、煽った酒が喉を灼いた。
いっそ言ってしまえたら楽になれる。
しかし、それは同時にあの記憶を真那に突きつけると言う事に他ならない。
その時、真那はきっと苦しみ、悲しみ。
同時に恐怖するのだろう。
私への淡い恋情を捨て去ったとしてもおかしくは無い。
……間違いなく私は、それだけの事をしたのだから。
「真那ってさぁ、良い子なのに物凄く男の趣味が悪いんだよ」
「それは嫌味のつもりですか?」
探る様な視線を向けても、相変わらず軽薄な五条さんからその真意を窺う事は叶わなかった。
酒も入って居ないのに、メロンソーダだけで酔えるのか。
この場にそぐわない軽快な笑い声を上げ、背中を叩かれる。
おもわず噎せそうになる程に容赦ない手は、激励のつもりでもあったのだろうか。
カウンターに肘を突き、顔を綻ばせた五条さんの表情はかつて私達が結婚の報告をした時のものとよく似て居た気がする。
「半分ね。僕も傑も、それだけ今世のあの子を気に入ってるんだよ。僕としては、今度こそ幸せになって欲しいと思ってる。それなのにさぁ、二股かけた挙句、勝手に運命だなんて言って復縁迫ってくる様な男に捕まっちゃってさ。この前なんて、街中で迫られて泣きそうになってたんだよ。偶々見かけたから良かったけど。今度から、僕達が一度チェックしなきゃダメだね。なんて話もしたくらい。暫くはボディーガードが必要かもよ?」
「その話、本当ですか?」
恐らくそれは私の見舞いに来てくれたあの日の事を言って居るのだろう。
しかし、私は真那の口からそんな話は一言も聞いては居なかった。
元々、控えめな性格をしている。
他者に迷惑を掛ける位ならば自身が我慢してしまう様な損な性分すらも、違った人生を歩む中で変わる事が無かったのだろうか。
怖い思いをしたに違いない。
それなのに、私は慰めの言葉一つ与えてやれなかった事が悔やまれた。
今も不安に駆られているのでは無いかと考えれば居ても立っても居られない居られなくなると言うのに。
私はまだ、二の足を踏んでいる気がして。
項垂れる様に視線を落とすと、五条さんは態とらしく顔を覗き込んでくる。
「硝子には話てあるから大丈夫だと思うけどね。僕も脅しておいたし。でも、昔の恋人なら家は知ってるんじゃ無い?ストーカー予備軍って怖いよねぇ」
「……明日から、職場に真那を迎えに行きます」
「良いんじゃない?じゃ、そろそろ僕帰るよ」
話したい事とはどうやらこの事だったらしい。
鮮やかな翠に染まったグラスは空になり、残された氷が小さく音を響かせた。
久々に今日は一人でゆっくり飲むのも悪くはない。
同じものを、五条さんはそう告げた私の肩に手を置いた。
しっかりとした足取りで扉に向かい、最後に言い残した事があると言いたげに一度此方を振り向く。
──七海。
それは店内に流れる雰囲気のいい曲に負けることのない、静かで。
それで居て覇気のあるものだった。
かつて、最強と謳われた呪術師。
五条悟の面影すら見出した様な気がして、私はその場で小さく息を呑む。
「真那の男の趣味はやっぱりいただけないけどさ。オマエになら、少なくとも僕は任せられると思ってるよ。運命なんて曖昧なものは信じないタチだけど、オマエ達に限ってはそんなものがあっても良いんじゃないかとも思ってる。
僕達は此処にいる。でも、此処はオマエの囚われてる世界じゃないよ。今を生きろよ。僕は、それこそがこの生の意義だと思ってる」
その言葉が、どれ程私の胸を打ったかをこの人はきっと理解している様でして居ないのだろう。
望まぬ形で袂を分かった親友と肩を並べる姿は、私にとっても憧憬に近く。
今の五条さんは私の知るその人より、幾分か穏やかな雰囲気を持つ様になった気がする。
今の私達ならば、前とは違う形で同じ愛情を育んでいく事が出来るのだろうか。
その答えを知るのは恐らく私達だけだ。
そして、その一歩を踏み出すかどうかを決めるのもまた、私達だけとなる。
今度こそは。
そう己に誓い続け、消え掛かった灯火が少しばかりその輪郭を濃くした様にも思う。
絶えず胸を締め上げて居た苦しみから、少しばかり解放された様な心地だった。
今回ばかりは。
否、真那との件に関しては不本意ながらも感謝しかない。
僅かに口元を緩めながら二杯目のコープス・リバイバーに手を伸ばす。
一度死しても尚、色褪せない想いは運命と名前を変えて。
私達の中に確かに存在しているのだと願いながら。