永遠という名の愛
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何か一つ。
私達の関係が変わるきっかけがあったとすれば、それは恐らくあの日の事を言えばいいのだろう。
もし何かあったら。
そうでなくても、時折連絡して欲しいと私達はやっと互いの連絡先を交換した。
帰り際には七海さんは名残惜しそうに私を抱きしめてくれて。
あの腕はやはり泣きたくなる程の歓喜を私に齎した。
その日は、名残惜しさを抱えつつ帰宅したものの。
家に着くと同時に七海さんから連絡が入り、取り止めのないやり取りを続けた。
私は片時も携帯を手放す事はなくて。
数日経っても七海さんの紡いだ言葉だけが、絶えず頭の中に木霊して居る。
唯一の懸念だった一件も、五条さんの牽制のお陰か。
あの日以来、しつこかった元恋人からの連絡もピタリと止んだ。
しかし、その情報網はやはり凄まじく。
翌日から出勤するや否や当面は誰かと共に帰宅する様にと家入さんから言い含められ、私はここ数日同僚と共に帰路に着いている。
すっかり夏が近づき、陽も高くなったし、帰路までの道は人通りが少ないわけではない。
それでもやはり不安を拭い去る事は出来ず、気遣いには感謝するしかなかった。
しかし、病院である以上急なトラブルというものはついて回る。
今日も夕方から急患が続き、最後の患者さんを見送る頃には薄暮の空が広がって居た。
それなのに、今日に限っては退勤時間になると家入さんが早く帰れと私を急かし、あれよあれよと言う間に更衣室に押し込まれてしまう。
着替えを終えて戻ると、既に一緒に帰路に着く同僚の姿はなく。
家入さんの休憩室では手元の本に視線を落とし、コーヒーを手にした七海さんが金糸の髪を揺らして居た。
「お疲れ様です」
「七海、さん……?今日は診察ですか?」
小さな音と共に、読みかけの本が物語に区切りをつける。
こんな場所で会えるとは思わず驚きと同時に私は喜びを噛み締めた。
仕事帰りなのか。
カバンを片手な立ち上がった七海さんが柔和な笑みを浮かべ、首を傾げた私を見据える。
遠くから私と家入さんに向けられたであろう声が聞こえて、残って居た同僚達もいつの間にか姿を消してしまったらしい。
診察時間は終えていると言うものの、家入さんと個人的に親しい七海さんならば何か頼みがあったとして断る事は無いだろう。
しかし先日の風邪をまだ引き摺っているのかと思いきや、その姿はあれ程や弱りきって居たのがまるで嘘の様で。
丈夫だと溢して居た言葉に、嘘はなかったのだろう。
「まさか。見ての通りです。ああ……先日はお世話になりました。作り置きして頂いた料理も、とても美味しかったです」
「本当ですか?良かったです」
「風邪はこの通り、すっかり治りましたよ。今日訪れたのは別件です」
そう告げた七海さんが一歩私と距離を詰める。
それは先日のものに限りなく近く、私の頭上には大きな影が落ちた。
待たせてしまって居るのなら、家入さんを呼びにいくべきか。
けれど家入さんは既に七海さんが訪れたことを知って居る筈だ。
だとしたら、申し訳ないとは思うもののこのまま待って居てもらうべきなのだろうか。
ぐるぐると思考が渦を巻く。
そんな私の様子に、七海さんは僅かに肩を竦める。
不意に伸びた手が下ろした私の髪に触れて。
掬い上げた一房を指で遊ばせた。
「今日の私は、アナタを攫いに来たんです」
「え……あの」
「昨日五条さんから聞いた話がどうにも気掛かりでして。居ても立っても居られなくなったんです。怖い思いを、したと聞いたので」
この時の私の胸中と言えば、穴があったら入りたいと思えるものだったに違いない。
現場に遭遇して助けてくれた事には感謝しかないけれど、五条さんの軽口には閉口するしかなく。
次に会った時には苦言を呈しても良いだろうかと、そんな思考にすら囚われた。
街中で復縁を迫られ、満足に反抗する事すら出来ず。
見かねて手を差し伸べて貰っただなんて羞恥の極みだ。
それなのに、七海さんはただ私の身を案じてくれて居たのか、宥める様に髪を撫で付けた。
幾度も頭部を往復する手がおもむろに頬に触れて、心臓が大きく跳ねる。
家入さんの何処か含みのある笑みは、きっと七海さんの目的を知っての事だったのかと今更ながらに悟った気もする。
自身の仕事を終えてから、そう遠くないとは言え、自宅とは反対方向に位置する此処まで出向いてくれたに違いない。
「行きましょうか」
目の前に差し出された手に、私は小さく頷く。
手を重ねると、一回り大きな手が包み込む様に私の手を握った。
休憩室を出ると、その様子を見守ってくれて居たのか。
家入さんが目を細め、ひらひらと蝶の様に手を振って私達を見送る。
従業員用の裏口から外に出ると、灯りを宿し、見慣れた看板も眠りについた。
仄暗い闇の中、月が悠然と浮かんでいる。
ほんの少し前まで、朝晩が肌寒いと感じたと言うのに、汗が吹き出しそうなほどの熱を纏うのは、果たして季節のせいだけなのだろうか。
隣の七海さんを見上げると、月光に照らされた横顔が息を呑む程に綺麗で。
自分に向けられた視線から目を逸らさなくて。
その場に立ち止まった私は、きっとかつてない程に勇気を振り絞ったに違いない。
直ぐ隣に居た距離を一層詰めると、向かい合う様な形となった私の手が、七海さんのスーツの端を僅かに掴む。
果たしてこんな事を言って良いものかと悩みました筈なのに。
七海さんを前にして私はとても平静を保ってなど居られなくなってしまった。
「どうかしましたか?」
「……あの。七海さんのお家にお邪魔するのは、駄目でしょうか?」
その刹那。
眉根を寄せ、目を見開いた彼の姿にまるで咎められて居る様な錯覚を抱いた。
ほんの少し、後悔した気もする。
本来ならばこうして身を案じて出向いてくれただけでも手放しで喜ぶべきだと思うのに。
ただ帰路に着くだけでは満たされない想いは、私の理性を瓦解させて。
貪欲なまでにこの人を欲してやまなくなって居た。
ゆっくりと息を吐き出す音が聞こえる。
軽率だと嗜められても仕方ないと思える己の発言を果たしてどう受け止めたのだろうか。
そこまでを問う勇気はなく、私もその場で閉口した。
「それが、どう言う意味か分かった上での発言ですか?」
「……明日は、休みなので。でも、すみません。ご迷惑でしたよね」
呆れられて居るのかと思いきや、七海さんは片手で自身の顔を覆った。
二度目に溢れた溜息は肺の空気を全て出し切る程に長くて。
まるで何かと葛藤して居る様にも見える。
私とて、こんなにあからさまな発言をした事などこれまでになかった筈だ。
自分は何に対しても常に受け身であったし、率先して何かをする性分ではない。
それなのに、七海さんを前にする自分が自分でなくなる様な感覚すら抱く時がある。
先程まで浮かれきって居たと言うのに、静まり返った空間が突如重たいものへと変わっていく。
立ち止まった私達の横をすり抜ける人の気配だけが時間の経過を教えてくれた。
やはり、迷惑でしかなかったのだろう。
そう思い、私が言葉を撤回しようとすると七海さんの翠眼に囚われる。
瞳の奥には、静かでありながら苛烈に燃える焔を見た気がした。
「……でしたら一度、私の自宅へ。その後車を出します」
「……はい」
その言葉自体は私を拒んで居るものではなかったのだろう。
しかし、暗に泊まる事すら仄めかしたと言うのに、やんわりと断られた様に感じた私は肩を落とす。
それは最早、七海さんの唯一になりたいと言う明確な意思表示にも等しいもに近い。
あの日示唆した行為の更に先までも見据えたものだった。
本音は期待して居たと言うのが正直な所だろう。
あの時でさえ、私はこれ以上ない程に胸を高鳴らせて居たのだから無理もない。
想う人からあんな風に触れられて、言葉を掛けられて。
これがどうして、何もなかったかの様に振る舞えると言うのだろうか。
踵を返し、七海さんの自宅の方向へと足を向けた。
しかし、繋がれたままの手が私の歩みを阻む。
それは七海さんがその場を動く事が無かったせいなのだろう。
ほんの僅か腕を引かれ、よろけた私はその腕の中に閉じ込められた。
顔を上げると、七海さんは決まりが悪そうに束の間。視線を泳がせて。
あの日の様に私の唇を撫でて言葉を取り上げていった。
「勘違いしないで下さい。女性には必要なものが多いでしょうから、車を出すのはそれに対する配慮です。先日の私の発言を理解した上でアナタから言い出した言葉だ。今更撤回などと言わせるつもりは有りません。……それでも、アナタは良いんですね?」
普段から穏やかで礼儀正しく、優しい口調が少し乱れて居たのは、七海さんの心境を表して居るのだろうか。
胸元に片手を置くと、七海さんの鼓動がよく聞こえた。
それは私のものと同様に早鐘を打ち、繋がれた手には力が込められる。
節くれだった指が私の指の間を滑り、指先が絡み合う。
言葉なく歩む道のりは気まずいかと思いきや、存外そうでも無くて。
一歩進む毎に締め付けられる様に鼓動が大きくなる。
マンションに辿り着き、エレベーターに乗り込んでも私達の間には何とも言い難い緊張感の様なものが漂って居た。
それは探し求め、渇望し続けた宝物を見つけた様な。
気が遠くなるほどの長い年月、抱き続けた想いがやっと身を結んだ様な。
そんな空気を纏って居た。
「……本当に、良いんですか?先に言っておきますが私はあまり理性的な人間では有りません。ですから……」
撤回を認めないと言ったのは七海さんの方なのに、最後にこうして逃げ場を与えようとする優しさに今回ばかりは私の方が苦笑した。
扉のハンドルを握りしめた手がその動きを止めて、それなのに七海さんの片手はずっと私の手を握りしめて居る。
きっと怖気付いたと逃げても、この人は私を責めたりしないのだろう。
仮にそうしたとして。
また苦しげに私の名前を呼びながら、微睡みの中で魘されるのだろうか。
この扉を潜った先に、あの悲痛な響きでは無く。
愛おしそうな音で真那と、私を呼んでくれる姿があるのだろうか。
そっと重ねた手は、繋いだ手とは対照的に指先だけが酷く冷え切って居た。
己に注がれた視線が気恥ずかしくて、今は七海さんの顔をまともに見る事すら出来ない。
それでも、私が扉を開く事を促すと一瞥した表情は安堵のものへと変わった気がする。
初めて訪れた時には躊躇った。
二度目に訪れた時も、自ら脚を踏み入れたとは到底言い難いものだった。
けれど、今の私は自分の意思でその境界を越える。
微かな扉の閉まる音が、七海さんの動きによって掻き消された。
「……馬鹿な人だ。折角、逃げ道を与えたと言うのに」
「私は、そうは思って居ません。……好きなんです。七海さんの事が。多分、出会った時からずっと……」
骨が軋むのでは無いかと思うほどに抱き竦められた経験なんてこれまでに無かった。
痛みが愛おしく思えるなんて事、ある訳がないと思って居た。
それなのに、加減なく私を掻き抱くこの腕は常に私の想像に及ばない感情を齎していく。
懐かしくて、切なくて。
苦しいのに、何処までも愛おしかった。
こんな激情が私の中に宿って居た事に驚きを隠せない。
まるで雪解けを迎え、春の訪れを感じさせる様な温かい幸福。
時間の経過も忘れて、ただ私達は抱き合った。
誰に邪魔される訳でも無く、何に阻まれる訳でも無く。
無心に目の前の相手だけを求めて。
「ええ。……私も、アナタを想っています」
低く、穏やかな声が、今は絞り出す様にその感情を私に訴えた。
たったそれだけの事が今の私には奇跡にでも遭遇したかの様に尊く、狂おしい程の喜びを与える。
胸元に視線を向けると、私が贈ったネクタイがピンと共に花を添えて居た。
想像した通り、深く落ち着いた色は七海さんに良く似合い、私の見立てにやはり間違いは無かったらしい。
そして、七海さんの様子からあの時の言葉はお世辞ではなく、本当に気に入ってくれたのだろう。
何もかもが満たされると言うのは、こんなにも心が豊かになるものなのか。
感情は既に歯止めを失った。
羞恥も、疾しさも、彼を求める想いの前では私を押し留める理由にすらなりはしない。
「七海さん。攫って下さい。心も、身体も。全部……」
「……アナタは、本当に悪い人ですね」
胸元に額を擦り付けながら、私は囁く。
七海さんは少し困った様に弱々しく私を咎めた。
顎を掬い上げ、開けた視界の全てが七海さんで覆われる。
その景色をそのままのこしておきたくて、私はそっと瞼を下ろした。
触れた唇は、温かく。
まるで私に新たな息吹を吹き込んでいく様にすら思えた。
視界は閉ざされて居たはずなのに、眼前には心が震える程に美しい桜。
そして、その中で微笑む七海さんの姿が脳裏を掠めた気がした。
私達の関係が変わるきっかけがあったとすれば、それは恐らくあの日の事を言えばいいのだろう。
もし何かあったら。
そうでなくても、時折連絡して欲しいと私達はやっと互いの連絡先を交換した。
帰り際には七海さんは名残惜しそうに私を抱きしめてくれて。
あの腕はやはり泣きたくなる程の歓喜を私に齎した。
その日は、名残惜しさを抱えつつ帰宅したものの。
家に着くと同時に七海さんから連絡が入り、取り止めのないやり取りを続けた。
私は片時も携帯を手放す事はなくて。
数日経っても七海さんの紡いだ言葉だけが、絶えず頭の中に木霊して居る。
唯一の懸念だった一件も、五条さんの牽制のお陰か。
あの日以来、しつこかった元恋人からの連絡もピタリと止んだ。
しかし、その情報網はやはり凄まじく。
翌日から出勤するや否や当面は誰かと共に帰宅する様にと家入さんから言い含められ、私はここ数日同僚と共に帰路に着いている。
すっかり夏が近づき、陽も高くなったし、帰路までの道は人通りが少ないわけではない。
それでもやはり不安を拭い去る事は出来ず、気遣いには感謝するしかなかった。
しかし、病院である以上急なトラブルというものはついて回る。
今日も夕方から急患が続き、最後の患者さんを見送る頃には薄暮の空が広がって居た。
それなのに、今日に限っては退勤時間になると家入さんが早く帰れと私を急かし、あれよあれよと言う間に更衣室に押し込まれてしまう。
着替えを終えて戻ると、既に一緒に帰路に着く同僚の姿はなく。
家入さんの休憩室では手元の本に視線を落とし、コーヒーを手にした七海さんが金糸の髪を揺らして居た。
「お疲れ様です」
「七海、さん……?今日は診察ですか?」
小さな音と共に、読みかけの本が物語に区切りをつける。
こんな場所で会えるとは思わず驚きと同時に私は喜びを噛み締めた。
仕事帰りなのか。
カバンを片手な立ち上がった七海さんが柔和な笑みを浮かべ、首を傾げた私を見据える。
遠くから私と家入さんに向けられたであろう声が聞こえて、残って居た同僚達もいつの間にか姿を消してしまったらしい。
診察時間は終えていると言うものの、家入さんと個人的に親しい七海さんならば何か頼みがあったとして断る事は無いだろう。
しかし先日の風邪をまだ引き摺っているのかと思いきや、その姿はあれ程や弱りきって居たのがまるで嘘の様で。
丈夫だと溢して居た言葉に、嘘はなかったのだろう。
「まさか。見ての通りです。ああ……先日はお世話になりました。作り置きして頂いた料理も、とても美味しかったです」
「本当ですか?良かったです」
「風邪はこの通り、すっかり治りましたよ。今日訪れたのは別件です」
そう告げた七海さんが一歩私と距離を詰める。
それは先日のものに限りなく近く、私の頭上には大きな影が落ちた。
待たせてしまって居るのなら、家入さんを呼びにいくべきか。
けれど家入さんは既に七海さんが訪れたことを知って居る筈だ。
だとしたら、申し訳ないとは思うもののこのまま待って居てもらうべきなのだろうか。
ぐるぐると思考が渦を巻く。
そんな私の様子に、七海さんは僅かに肩を竦める。
不意に伸びた手が下ろした私の髪に触れて。
掬い上げた一房を指で遊ばせた。
「今日の私は、アナタを攫いに来たんです」
「え……あの」
「昨日五条さんから聞いた話がどうにも気掛かりでして。居ても立っても居られなくなったんです。怖い思いを、したと聞いたので」
この時の私の胸中と言えば、穴があったら入りたいと思えるものだったに違いない。
現場に遭遇して助けてくれた事には感謝しかないけれど、五条さんの軽口には閉口するしかなく。
次に会った時には苦言を呈しても良いだろうかと、そんな思考にすら囚われた。
街中で復縁を迫られ、満足に反抗する事すら出来ず。
見かねて手を差し伸べて貰っただなんて羞恥の極みだ。
それなのに、七海さんはただ私の身を案じてくれて居たのか、宥める様に髪を撫で付けた。
幾度も頭部を往復する手がおもむろに頬に触れて、心臓が大きく跳ねる。
家入さんの何処か含みのある笑みは、きっと七海さんの目的を知っての事だったのかと今更ながらに悟った気もする。
自身の仕事を終えてから、そう遠くないとは言え、自宅とは反対方向に位置する此処まで出向いてくれたに違いない。
「行きましょうか」
目の前に差し出された手に、私は小さく頷く。
手を重ねると、一回り大きな手が包み込む様に私の手を握った。
休憩室を出ると、その様子を見守ってくれて居たのか。
家入さんが目を細め、ひらひらと蝶の様に手を振って私達を見送る。
従業員用の裏口から外に出ると、灯りを宿し、見慣れた看板も眠りについた。
仄暗い闇の中、月が悠然と浮かんでいる。
ほんの少し前まで、朝晩が肌寒いと感じたと言うのに、汗が吹き出しそうなほどの熱を纏うのは、果たして季節のせいだけなのだろうか。
隣の七海さんを見上げると、月光に照らされた横顔が息を呑む程に綺麗で。
自分に向けられた視線から目を逸らさなくて。
その場に立ち止まった私は、きっとかつてない程に勇気を振り絞ったに違いない。
直ぐ隣に居た距離を一層詰めると、向かい合う様な形となった私の手が、七海さんのスーツの端を僅かに掴む。
果たしてこんな事を言って良いものかと悩みました筈なのに。
七海さんを前にして私はとても平静を保ってなど居られなくなってしまった。
「どうかしましたか?」
「……あの。七海さんのお家にお邪魔するのは、駄目でしょうか?」
その刹那。
眉根を寄せ、目を見開いた彼の姿にまるで咎められて居る様な錯覚を抱いた。
ほんの少し、後悔した気もする。
本来ならばこうして身を案じて出向いてくれただけでも手放しで喜ぶべきだと思うのに。
ただ帰路に着くだけでは満たされない想いは、私の理性を瓦解させて。
貪欲なまでにこの人を欲してやまなくなって居た。
ゆっくりと息を吐き出す音が聞こえる。
軽率だと嗜められても仕方ないと思える己の発言を果たしてどう受け止めたのだろうか。
そこまでを問う勇気はなく、私もその場で閉口した。
「それが、どう言う意味か分かった上での発言ですか?」
「……明日は、休みなので。でも、すみません。ご迷惑でしたよね」
呆れられて居るのかと思いきや、七海さんは片手で自身の顔を覆った。
二度目に溢れた溜息は肺の空気を全て出し切る程に長くて。
まるで何かと葛藤して居る様にも見える。
私とて、こんなにあからさまな発言をした事などこれまでになかった筈だ。
自分は何に対しても常に受け身であったし、率先して何かをする性分ではない。
それなのに、七海さんを前にする自分が自分でなくなる様な感覚すら抱く時がある。
先程まで浮かれきって居たと言うのに、静まり返った空間が突如重たいものへと変わっていく。
立ち止まった私達の横をすり抜ける人の気配だけが時間の経過を教えてくれた。
やはり、迷惑でしかなかったのだろう。
そう思い、私が言葉を撤回しようとすると七海さんの翠眼に囚われる。
瞳の奥には、静かでありながら苛烈に燃える焔を見た気がした。
「……でしたら一度、私の自宅へ。その後車を出します」
「……はい」
その言葉自体は私を拒んで居るものではなかったのだろう。
しかし、暗に泊まる事すら仄めかしたと言うのに、やんわりと断られた様に感じた私は肩を落とす。
それは最早、七海さんの唯一になりたいと言う明確な意思表示にも等しいもに近い。
あの日示唆した行為の更に先までも見据えたものだった。
本音は期待して居たと言うのが正直な所だろう。
あの時でさえ、私はこれ以上ない程に胸を高鳴らせて居たのだから無理もない。
想う人からあんな風に触れられて、言葉を掛けられて。
これがどうして、何もなかったかの様に振る舞えると言うのだろうか。
踵を返し、七海さんの自宅の方向へと足を向けた。
しかし、繋がれたままの手が私の歩みを阻む。
それは七海さんがその場を動く事が無かったせいなのだろう。
ほんの僅か腕を引かれ、よろけた私はその腕の中に閉じ込められた。
顔を上げると、七海さんは決まりが悪そうに束の間。視線を泳がせて。
あの日の様に私の唇を撫でて言葉を取り上げていった。
「勘違いしないで下さい。女性には必要なものが多いでしょうから、車を出すのはそれに対する配慮です。先日の私の発言を理解した上でアナタから言い出した言葉だ。今更撤回などと言わせるつもりは有りません。……それでも、アナタは良いんですね?」
普段から穏やかで礼儀正しく、優しい口調が少し乱れて居たのは、七海さんの心境を表して居るのだろうか。
胸元に片手を置くと、七海さんの鼓動がよく聞こえた。
それは私のものと同様に早鐘を打ち、繋がれた手には力が込められる。
節くれだった指が私の指の間を滑り、指先が絡み合う。
言葉なく歩む道のりは気まずいかと思いきや、存外そうでも無くて。
一歩進む毎に締め付けられる様に鼓動が大きくなる。
マンションに辿り着き、エレベーターに乗り込んでも私達の間には何とも言い難い緊張感の様なものが漂って居た。
それは探し求め、渇望し続けた宝物を見つけた様な。
気が遠くなるほどの長い年月、抱き続けた想いがやっと身を結んだ様な。
そんな空気を纏って居た。
「……本当に、良いんですか?先に言っておきますが私はあまり理性的な人間では有りません。ですから……」
撤回を認めないと言ったのは七海さんの方なのに、最後にこうして逃げ場を与えようとする優しさに今回ばかりは私の方が苦笑した。
扉のハンドルを握りしめた手がその動きを止めて、それなのに七海さんの片手はずっと私の手を握りしめて居る。
きっと怖気付いたと逃げても、この人は私を責めたりしないのだろう。
仮にそうしたとして。
また苦しげに私の名前を呼びながら、微睡みの中で魘されるのだろうか。
この扉を潜った先に、あの悲痛な響きでは無く。
愛おしそうな音で真那と、私を呼んでくれる姿があるのだろうか。
そっと重ねた手は、繋いだ手とは対照的に指先だけが酷く冷え切って居た。
己に注がれた視線が気恥ずかしくて、今は七海さんの顔をまともに見る事すら出来ない。
それでも、私が扉を開く事を促すと一瞥した表情は安堵のものへと変わった気がする。
初めて訪れた時には躊躇った。
二度目に訪れた時も、自ら脚を踏み入れたとは到底言い難いものだった。
けれど、今の私は自分の意思でその境界を越える。
微かな扉の閉まる音が、七海さんの動きによって掻き消された。
「……馬鹿な人だ。折角、逃げ道を与えたと言うのに」
「私は、そうは思って居ません。……好きなんです。七海さんの事が。多分、出会った時からずっと……」
骨が軋むのでは無いかと思うほどに抱き竦められた経験なんてこれまでに無かった。
痛みが愛おしく思えるなんて事、ある訳がないと思って居た。
それなのに、加減なく私を掻き抱くこの腕は常に私の想像に及ばない感情を齎していく。
懐かしくて、切なくて。
苦しいのに、何処までも愛おしかった。
こんな激情が私の中に宿って居た事に驚きを隠せない。
まるで雪解けを迎え、春の訪れを感じさせる様な温かい幸福。
時間の経過も忘れて、ただ私達は抱き合った。
誰に邪魔される訳でも無く、何に阻まれる訳でも無く。
無心に目の前の相手だけを求めて。
「ええ。……私も、アナタを想っています」
低く、穏やかな声が、今は絞り出す様にその感情を私に訴えた。
たったそれだけの事が今の私には奇跡にでも遭遇したかの様に尊く、狂おしい程の喜びを与える。
胸元に視線を向けると、私が贈ったネクタイがピンと共に花を添えて居た。
想像した通り、深く落ち着いた色は七海さんに良く似合い、私の見立てにやはり間違いは無かったらしい。
そして、七海さんの様子からあの時の言葉はお世辞ではなく、本当に気に入ってくれたのだろう。
何もかもが満たされると言うのは、こんなにも心が豊かになるものなのか。
感情は既に歯止めを失った。
羞恥も、疾しさも、彼を求める想いの前では私を押し留める理由にすらなりはしない。
「七海さん。攫って下さい。心も、身体も。全部……」
「……アナタは、本当に悪い人ですね」
胸元に額を擦り付けながら、私は囁く。
七海さんは少し困った様に弱々しく私を咎めた。
顎を掬い上げ、開けた視界の全てが七海さんで覆われる。
その景色をそのままのこしておきたくて、私はそっと瞼を下ろした。
触れた唇は、温かく。
まるで私に新たな息吹を吹き込んでいく様にすら思えた。
視界は閉ざされて居たはずなのに、眼前には心が震える程に美しい桜。
そして、その中で微笑む七海さんの姿が脳裏を掠めた気がした。