永遠という名の愛
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涙が乾くのに、どれだけの時間を要しただろうか。
どうやら一頻り涙に暮れてから、私はいつのまにか少し転寝をしてしまったらしい。
慌てて現状を把握しようと時刻を確認すると、窓から見た景色はすっかり闇に覆われて居た。
少し肌寒さを感じて身を震わせながら席を立つ。
寝室の明かりを点けると、七海さんはまだ目を覚ましては居ない様子で。
一歩近づく毎に鼓動が大きく鳴り響く。
恐る恐る頬に触れると、ほんの数時間前に感じた熱は随分落ち着いた様に思えた。
だからと言ってぶり返さないとは限らないのだけれど、一先ず安心しても良いだろう。
そうなれば今の私の問題はいつ帰るか。
その一点に絞られる。
これだけ無断で家の事をしてしまったのだから一言告げておくべきだとは思う半面、いつまでも留まるのは気が引ける。
何より今は兎に角自分の頭の中が混乱して居て。
考えた所で真っ当な答えなど望めないとわかって居るのに時間が欲しかった。
ただ、私を躊躇わせるものがあるのだとしたら、この穏やかな寝顔なのだろう。
親しい人の中でも、更に一部しか知り得ないであろう、七海さんの内側の更に内側。
これまで、何人の人がその境界を越えたのか。
彼が心を預けた人はきっと多くはないと容易に想像がつく。
その分、きっとその人を大切にしてきた筈だ。
そんな事を思うだけで、私の胸は酷く掻き乱される。
蜜色の髪を指先で遊ばせた。
白磁を思わせる頬を撫でる手は止まる事がない。
追憶とも呼べる曖昧な景色を辿り、瞼を閉じると私の頬にはまた一筋の涙が伝い、不意に触れた手が温もりも齎した。
「……泣いて、居るんですか?」
薄らと開かれた翠の双眸が憂いに揺れた。
眉根を寄せながら起き上がろうとする七海さんに手を貸すと、親指の腹が私の涙を拭い去る。
たったそれだけの事が只々嬉しくて。
緩く首を振りながら、私は頬に添えられた手に自らの手を重ねた。
甘える様に擦り寄り、少しカサついた無骨な手の感触に身を委ねる。
どうしたら、この想いの全てを伝える事が出来るのだろうか。
まるでシャボン玉の様に膨らんでは舞い上がる想いはただの一つも割れる事なく、胸の内でその数を増やすばかりとなって居る。
好きなんて言葉では足りない。
恋と言うにはあまりにも軽い。
いっそ執着にも似た愛情を直向きにこの人に向けて居る。
例えば報われなくても。
突き放されたとしても。
この視線が侮蔑と殺意に満ちたとしても。
私はこの先、この人の事しか想えないのではないかと言う程の感情の渦に呑み込まれていく。
「……何か、あったんですか?」
「そうじゃ、無いんです。ただ……七海さんが、元気になって良かったなって。……心配、したんですよ。あの、お腹。空いてませんか?キッチンお借りして色々作ったんです」
叫びたい程の衝動を抱えながら、私は震えた声を誤魔化す様に笑みを浮かべる。
貴方を想って涙した。
そんな事を言い出したらきっと七海さんを困惑させてしまうだけだ。
心配もして居たのだから心苦しくはあるけれど嘘も言って居ない。
半ば苦し紛れの言葉だった事はきっとわかって居ただろう。
けれど七海さんもそれ以上私の涙について言及する事はなく、食事の言葉に誘われたのか。
腹の虫が唸り声をあげたのを聞いた。
まだ少し顔色の悪かった肌はみるみる赤くなり、目を瞬かせた後には七海さんが気恥ずかしそうに顔を背けていく。
目元の雫を取り払い、私はその場に立ち上がる。
手を差し出すと、七海さんが私の手を取って。
互いに向けたのは、はにかんだ様な微笑みだった。
まるで家主が逆転したかの様に、私はキッチンに向かうと作っておいたお粥を温める。
その間に七海さんはシャワーを浴びてくると浴室に向かう。
汗を流してすっきりしたのか。足取りもしっかりしたものになり、テーブルに向かうと時折慈愛に満ちた様な視線を感じて居た。
「お口に合うか分かりませんが……。すみません、勝手な事をしてしまって」
「いえ。危うく餓死でもするのでは無いと思って居たので、助かりました」
「ふふ。間に合って良かったです。熱いので気をつけてくださいね」
冗談を交えながら、七海さんは器に視線を注いだ。
何の変哲もないただのお粥だと言うのに、空腹は最大の調味料と言う辺り今の七海さんにとっては馳走にも等しいのだろう。
食べ切れるかと不安になる量だったものの、その勢いには驚かされるばかりだった。
決してがっついて居る訳ではないのだけれど、一口が大きいからか。
あっという間に空になっていくお皿はいっそ清々しいとさえ思える。
「……美味しかったです。ありがとうございます」
「いえ、大したものではないので。差し出がましいとは思ったのですが、幾つか作り置きしたものを冷蔵庫に入れておいたので食べて下さいね。お薬も忘れずに」
「本当に、ありがとうございます。今度、きちんと御礼を」
食べ終えた食器を下げながら、私はこんな些細なやり取りの中に至福を見出した。
しかし、何から何まで私にさせてしまうと言うのは七海さんの矜持に反するらしい。
今にも肩が触れそうな距離に、己の鼓動が聞こえない事を祈る。
私は先日の二の舞にならない様に手元に神経を注ぐばかりで、コーヒーか紅茶か。
何方が良いかと問われた事に、返事をしたかさえ曖昧だった。
そんな中で、七海さんの御礼と言う言葉を聞いて。
私はやっとこの日の本来の目的を思い出した気がする。
広めのテーブルの片隅に置かれた贈り物。
それは敢えて目立つ様にと、恐らく五条さんが其処に置いたに違いない。
二つのカップを手に、七海さんがテーブルに向う。
その後を追いかける様に私も向かい合う様に先に着くと、まるで先日の光景を再現して居るかの様な錯覚に陥った。
不意に七海さんが視線を手元から外すと、私はその勢いに乗じて手繰り寄せた贈り物を差し出す。
「あの、七海さん……。これ」
「どうかしましたか?」
「その、先日割ってしまったお皿の代わりになればと思って。それと、あの日の御礼を」
「……かえって、気を使わせて使わせてしまったみたいですね」
「いえ、そんな。本当にあの時は助かりましたから。それに、七海さんはきっと食器も大切にして居たんだろうなと思ったら……申し訳なくて」
驚きに見開かれた瞳が伏し目がちなものへと変わった気がする。
少し肩は落ちて、それは気が咎めている様にも感じた。
きっと七海さんはあの時、本当に善意から私に良くしてくれたのだろう。
私とて、今回の事に関して御礼なんて不要だと思って居る。
ただ、相手の役に立ちたかった。
その想いだけは私達の中で完全に一致する唯一のものと言っても過言ではない。
しかし、私はどうしても七海さんの手元に己を彷彿させる何かを残したかったのだろう。
本当に自己満足の極みだ。
それを程のいい言葉で誤魔化して居る認識もある。
それでも……。
それでも、何かせずには居られなかった胸の内はどう言い表せば良いのだろうか。
「……開けてみても?」
「はい。実は、もっと別のものにしようかとも思ったんですが、偶然目に飛び込んできて。一目惚れだったんです。……七海さんに、似合いそうだと思って」
その言葉だけは偽りのない本心だった。
深い色合いの落ち着いたネクタイは彼の雰囲気とよく似て居て。
どうしてもこれを贈りたいとその一心だった。
もし、気に入らなかったらどうしようと、そんな事すら考える事なく、ただこれだと選んでしまった。
今更になって本人の好みというものをまるで意識して居なかった事に気がつき、私は反応を伺う様に身を縮こませる。
しかし、どうやら私のその思いは杞憂に終わったらしい。
ほんの少し、七海さんの宿す淡い緑が濡れて居る様にも見えた。
それで居て懐かしそうな。
ただ、喜ぶと言うにはあまりにも複雑な表情だった。
「……ええ、とても好みの色です。素敵な贈り物をありがとうございます」
「本当ですか?気に入って頂けてよかったです」
「着けてみても構いませんか?」
「今、ですか?」
「はい。アナタに、見て貰いたいんです」
まるで宝物を扱うかの様に、七海さんは箱の蓋を閉じる。
そのまま立ち上がると、柔らかい笑みと共に寝室へと消えて行く。
体調に関してはもう心配する必要はなさそうな事に安堵しつつも、彼らしからぬ唐突な行動に私は少なからず動揺して居た。
きっと七海さんならば、例え好みで無かったとしても本人に一度は使って居る事を示してくれると思う。
その後も日の目を浴びる事はなくとも大事にしてくれる姿すら目に浮かぶ。
それがまさか、態度こそ大人びたものではあるものの、プレゼントを貰って浮かれる子供の様に直ぐに着けたいなんて言い出すとは誰も想像しない筈だ。
しかし、扉越しに衣擦れの音がはっきりと聞こえて。
私もまた、立ち上がる事こそしなかったもののそわそわと落ち着きをなくして行った。
それは普段の七海らしからぬ姿ばかりをみて居るからなのか。
まるでこの空間が、七海さんの自宅というより私達二人の空間の様にも感じてしまう程に私はこの空気に馴染んでしまって居る。
「お待たせしました。……どうですか?」
それは時間にすればほんの僅かなものだったに違いない。
見慣れたスーツに身を包んだ七海さんが、今し方私が贈ったばかりのネクタイを締めながら私の元にやって来る。
しかし、髪型だけは普段通りとは行かず。
さらさらと揺れる金色が目元に翳りを落とした。
伏せた視線の先でネクタイが揺れて、私は共に買ったネクタイピンの存在を思い出すと小箱を片手に七海さんの元へ向かった。
「とても似合ってます。良かった」
「アナタが選んでくれたものに、間違いはありませんから」
「買い被りすぎです。あ、待ってくださいね」
それは、よくよく考えれば不可解で。
私にとって、とても自然だった様に思う。
一歩距離を詰めると、七海さんの胸元に手を添えた。
この時の私は、自身で贈ったものを気に入って貰えたと言うそれだけの事が満たされる思いで。
シンプルなデザインのピンでネクタイを留めて、全貌を眺めようと顔を上げると、すぐ間近に迫る端正な顔に息を呑んだ。
熱を孕んだ様な翡翠が私を絡め取る。
決して鋭いものでは無いのに、逃れる事を許さない視線に言葉すら失った。
何とか気力を振り絞り、一度は視線を外して俯いた筈なのに。
私の頬に触れた手がそれを拒む。
この雰囲気の意味を知らない程、私は無知でも無垢でも無い。
まるでそうなる事を望むかの様に、瞼が帳を下ろした。
胸元に置かれたままの手がシャツを掴み、深い皺を刻む。
けれど、触れるかと思った場所に温もりがやって来る事はなくて。
代わりに私の額に、柔らかな感触が刹那与えられた。
「……風邪を移しては申し訳ないので」
「あ……そう、ですね」
この時、自分があからさまに肩を落とした事を私は自覚すら出来て居なかった。
それなのに、幼子を宥める様な優しい口付けにすら身体は熱を帯びて、肌は赤らんで居た様に思う。
平時よりほんの一歩。
七海さんと距離を詰めるだけで、私の見る世界は別物の様に感じた。
全てが輝いて、美しく、まるで幾度も夢に見るあの光景と酷似して。
胸が締め付けられる様に苦しくなる。
七海さんにとってこれはほんの戯れで、スキンシップの一つだと割り切れたら良かったのに。
淡い期待を捨てきれない自分自身に辟易する。
しかし、追い討ちをかけるかの様に七海さんが私の顔を引き上げた。
先程優しく頬に触れた指先が唇の輪郭をなぞり、短い呼吸と共に戦慄く。
妖艶に細まる翠眼。
口元には緩やかな三日月を描き、七海さんが私の耳元に唇を寄せると神性を撫でる様な穏やかで低い声が鼓膜を打った。
「ですが、この次はきっと自分を抑える事は出来そうにありません。それでも、アナタはまたこうして私と過ごしてくれますか?」
その言葉と同時に私は腕の中に囚われた。
否、元々逃げようとすら考えて居なかったのだろう。
身元で響いた七海さんの鼓動は、想像以上に早かった。
離すまいと抱きしめる腕とは対照的に、私の髪を梳く手付きは穏やかで暖かい。
恐る恐る回した腕が、彼の身体の大きさを物語る。
やっとの思いで小さく頷いた後、七海さんは歓喜を表す様に私を掻き抱いた。
その広い腕の中がこれ以上ない程に心地よくて。
私は束の間の幸福に浸り、その温もりを噛み締めて居た。
どうやら一頻り涙に暮れてから、私はいつのまにか少し転寝をしてしまったらしい。
慌てて現状を把握しようと時刻を確認すると、窓から見た景色はすっかり闇に覆われて居た。
少し肌寒さを感じて身を震わせながら席を立つ。
寝室の明かりを点けると、七海さんはまだ目を覚ましては居ない様子で。
一歩近づく毎に鼓動が大きく鳴り響く。
恐る恐る頬に触れると、ほんの数時間前に感じた熱は随分落ち着いた様に思えた。
だからと言ってぶり返さないとは限らないのだけれど、一先ず安心しても良いだろう。
そうなれば今の私の問題はいつ帰るか。
その一点に絞られる。
これだけ無断で家の事をしてしまったのだから一言告げておくべきだとは思う半面、いつまでも留まるのは気が引ける。
何より今は兎に角自分の頭の中が混乱して居て。
考えた所で真っ当な答えなど望めないとわかって居るのに時間が欲しかった。
ただ、私を躊躇わせるものがあるのだとしたら、この穏やかな寝顔なのだろう。
親しい人の中でも、更に一部しか知り得ないであろう、七海さんの内側の更に内側。
これまで、何人の人がその境界を越えたのか。
彼が心を預けた人はきっと多くはないと容易に想像がつく。
その分、きっとその人を大切にしてきた筈だ。
そんな事を思うだけで、私の胸は酷く掻き乱される。
蜜色の髪を指先で遊ばせた。
白磁を思わせる頬を撫でる手は止まる事がない。
追憶とも呼べる曖昧な景色を辿り、瞼を閉じると私の頬にはまた一筋の涙が伝い、不意に触れた手が温もりも齎した。
「……泣いて、居るんですか?」
薄らと開かれた翠の双眸が憂いに揺れた。
眉根を寄せながら起き上がろうとする七海さんに手を貸すと、親指の腹が私の涙を拭い去る。
たったそれだけの事が只々嬉しくて。
緩く首を振りながら、私は頬に添えられた手に自らの手を重ねた。
甘える様に擦り寄り、少しカサついた無骨な手の感触に身を委ねる。
どうしたら、この想いの全てを伝える事が出来るのだろうか。
まるでシャボン玉の様に膨らんでは舞い上がる想いはただの一つも割れる事なく、胸の内でその数を増やすばかりとなって居る。
好きなんて言葉では足りない。
恋と言うにはあまりにも軽い。
いっそ執着にも似た愛情を直向きにこの人に向けて居る。
例えば報われなくても。
突き放されたとしても。
この視線が侮蔑と殺意に満ちたとしても。
私はこの先、この人の事しか想えないのではないかと言う程の感情の渦に呑み込まれていく。
「……何か、あったんですか?」
「そうじゃ、無いんです。ただ……七海さんが、元気になって良かったなって。……心配、したんですよ。あの、お腹。空いてませんか?キッチンお借りして色々作ったんです」
叫びたい程の衝動を抱えながら、私は震えた声を誤魔化す様に笑みを浮かべる。
貴方を想って涙した。
そんな事を言い出したらきっと七海さんを困惑させてしまうだけだ。
心配もして居たのだから心苦しくはあるけれど嘘も言って居ない。
半ば苦し紛れの言葉だった事はきっとわかって居ただろう。
けれど七海さんもそれ以上私の涙について言及する事はなく、食事の言葉に誘われたのか。
腹の虫が唸り声をあげたのを聞いた。
まだ少し顔色の悪かった肌はみるみる赤くなり、目を瞬かせた後には七海さんが気恥ずかしそうに顔を背けていく。
目元の雫を取り払い、私はその場に立ち上がる。
手を差し出すと、七海さんが私の手を取って。
互いに向けたのは、はにかんだ様な微笑みだった。
まるで家主が逆転したかの様に、私はキッチンに向かうと作っておいたお粥を温める。
その間に七海さんはシャワーを浴びてくると浴室に向かう。
汗を流してすっきりしたのか。足取りもしっかりしたものになり、テーブルに向かうと時折慈愛に満ちた様な視線を感じて居た。
「お口に合うか分かりませんが……。すみません、勝手な事をしてしまって」
「いえ。危うく餓死でもするのでは無いと思って居たので、助かりました」
「ふふ。間に合って良かったです。熱いので気をつけてくださいね」
冗談を交えながら、七海さんは器に視線を注いだ。
何の変哲もないただのお粥だと言うのに、空腹は最大の調味料と言う辺り今の七海さんにとっては馳走にも等しいのだろう。
食べ切れるかと不安になる量だったものの、その勢いには驚かされるばかりだった。
決してがっついて居る訳ではないのだけれど、一口が大きいからか。
あっという間に空になっていくお皿はいっそ清々しいとさえ思える。
「……美味しかったです。ありがとうございます」
「いえ、大したものではないので。差し出がましいとは思ったのですが、幾つか作り置きしたものを冷蔵庫に入れておいたので食べて下さいね。お薬も忘れずに」
「本当に、ありがとうございます。今度、きちんと御礼を」
食べ終えた食器を下げながら、私はこんな些細なやり取りの中に至福を見出した。
しかし、何から何まで私にさせてしまうと言うのは七海さんの矜持に反するらしい。
今にも肩が触れそうな距離に、己の鼓動が聞こえない事を祈る。
私は先日の二の舞にならない様に手元に神経を注ぐばかりで、コーヒーか紅茶か。
何方が良いかと問われた事に、返事をしたかさえ曖昧だった。
そんな中で、七海さんの御礼と言う言葉を聞いて。
私はやっとこの日の本来の目的を思い出した気がする。
広めのテーブルの片隅に置かれた贈り物。
それは敢えて目立つ様にと、恐らく五条さんが其処に置いたに違いない。
二つのカップを手に、七海さんがテーブルに向う。
その後を追いかける様に私も向かい合う様に先に着くと、まるで先日の光景を再現して居るかの様な錯覚に陥った。
不意に七海さんが視線を手元から外すと、私はその勢いに乗じて手繰り寄せた贈り物を差し出す。
「あの、七海さん……。これ」
「どうかしましたか?」
「その、先日割ってしまったお皿の代わりになればと思って。それと、あの日の御礼を」
「……かえって、気を使わせて使わせてしまったみたいですね」
「いえ、そんな。本当にあの時は助かりましたから。それに、七海さんはきっと食器も大切にして居たんだろうなと思ったら……申し訳なくて」
驚きに見開かれた瞳が伏し目がちなものへと変わった気がする。
少し肩は落ちて、それは気が咎めている様にも感じた。
きっと七海さんはあの時、本当に善意から私に良くしてくれたのだろう。
私とて、今回の事に関して御礼なんて不要だと思って居る。
ただ、相手の役に立ちたかった。
その想いだけは私達の中で完全に一致する唯一のものと言っても過言ではない。
しかし、私はどうしても七海さんの手元に己を彷彿させる何かを残したかったのだろう。
本当に自己満足の極みだ。
それを程のいい言葉で誤魔化して居る認識もある。
それでも……。
それでも、何かせずには居られなかった胸の内はどう言い表せば良いのだろうか。
「……開けてみても?」
「はい。実は、もっと別のものにしようかとも思ったんですが、偶然目に飛び込んできて。一目惚れだったんです。……七海さんに、似合いそうだと思って」
その言葉だけは偽りのない本心だった。
深い色合いの落ち着いたネクタイは彼の雰囲気とよく似て居て。
どうしてもこれを贈りたいとその一心だった。
もし、気に入らなかったらどうしようと、そんな事すら考える事なく、ただこれだと選んでしまった。
今更になって本人の好みというものをまるで意識して居なかった事に気がつき、私は反応を伺う様に身を縮こませる。
しかし、どうやら私のその思いは杞憂に終わったらしい。
ほんの少し、七海さんの宿す淡い緑が濡れて居る様にも見えた。
それで居て懐かしそうな。
ただ、喜ぶと言うにはあまりにも複雑な表情だった。
「……ええ、とても好みの色です。素敵な贈り物をありがとうございます」
「本当ですか?気に入って頂けてよかったです」
「着けてみても構いませんか?」
「今、ですか?」
「はい。アナタに、見て貰いたいんです」
まるで宝物を扱うかの様に、七海さんは箱の蓋を閉じる。
そのまま立ち上がると、柔らかい笑みと共に寝室へと消えて行く。
体調に関してはもう心配する必要はなさそうな事に安堵しつつも、彼らしからぬ唐突な行動に私は少なからず動揺して居た。
きっと七海さんならば、例え好みで無かったとしても本人に一度は使って居る事を示してくれると思う。
その後も日の目を浴びる事はなくとも大事にしてくれる姿すら目に浮かぶ。
それがまさか、態度こそ大人びたものではあるものの、プレゼントを貰って浮かれる子供の様に直ぐに着けたいなんて言い出すとは誰も想像しない筈だ。
しかし、扉越しに衣擦れの音がはっきりと聞こえて。
私もまた、立ち上がる事こそしなかったもののそわそわと落ち着きをなくして行った。
それは普段の七海らしからぬ姿ばかりをみて居るからなのか。
まるでこの空間が、七海さんの自宅というより私達二人の空間の様にも感じてしまう程に私はこの空気に馴染んでしまって居る。
「お待たせしました。……どうですか?」
それは時間にすればほんの僅かなものだったに違いない。
見慣れたスーツに身を包んだ七海さんが、今し方私が贈ったばかりのネクタイを締めながら私の元にやって来る。
しかし、髪型だけは普段通りとは行かず。
さらさらと揺れる金色が目元に翳りを落とした。
伏せた視線の先でネクタイが揺れて、私は共に買ったネクタイピンの存在を思い出すと小箱を片手に七海さんの元へ向かった。
「とても似合ってます。良かった」
「アナタが選んでくれたものに、間違いはありませんから」
「買い被りすぎです。あ、待ってくださいね」
それは、よくよく考えれば不可解で。
私にとって、とても自然だった様に思う。
一歩距離を詰めると、七海さんの胸元に手を添えた。
この時の私は、自身で贈ったものを気に入って貰えたと言うそれだけの事が満たされる思いで。
シンプルなデザインのピンでネクタイを留めて、全貌を眺めようと顔を上げると、すぐ間近に迫る端正な顔に息を呑んだ。
熱を孕んだ様な翡翠が私を絡め取る。
決して鋭いものでは無いのに、逃れる事を許さない視線に言葉すら失った。
何とか気力を振り絞り、一度は視線を外して俯いた筈なのに。
私の頬に触れた手がそれを拒む。
この雰囲気の意味を知らない程、私は無知でも無垢でも無い。
まるでそうなる事を望むかの様に、瞼が帳を下ろした。
胸元に置かれたままの手がシャツを掴み、深い皺を刻む。
けれど、触れるかと思った場所に温もりがやって来る事はなくて。
代わりに私の額に、柔らかな感触が刹那与えられた。
「……風邪を移しては申し訳ないので」
「あ……そう、ですね」
この時、自分があからさまに肩を落とした事を私は自覚すら出来て居なかった。
それなのに、幼子を宥める様な優しい口付けにすら身体は熱を帯びて、肌は赤らんで居た様に思う。
平時よりほんの一歩。
七海さんと距離を詰めるだけで、私の見る世界は別物の様に感じた。
全てが輝いて、美しく、まるで幾度も夢に見るあの光景と酷似して。
胸が締め付けられる様に苦しくなる。
七海さんにとってこれはほんの戯れで、スキンシップの一つだと割り切れたら良かったのに。
淡い期待を捨てきれない自分自身に辟易する。
しかし、追い討ちをかけるかの様に七海さんが私の顔を引き上げた。
先程優しく頬に触れた指先が唇の輪郭をなぞり、短い呼吸と共に戦慄く。
妖艶に細まる翠眼。
口元には緩やかな三日月を描き、七海さんが私の耳元に唇を寄せると神性を撫でる様な穏やかで低い声が鼓膜を打った。
「ですが、この次はきっと自分を抑える事は出来そうにありません。それでも、アナタはまたこうして私と過ごしてくれますか?」
その言葉と同時に私は腕の中に囚われた。
否、元々逃げようとすら考えて居なかったのだろう。
身元で響いた七海さんの鼓動は、想像以上に早かった。
離すまいと抱きしめる腕とは対照的に、私の髪を梳く手付きは穏やかで暖かい。
恐る恐る回した腕が、彼の身体の大きさを物語る。
やっとの思いで小さく頷いた後、七海さんは歓喜を表す様に私を掻き抱いた。
その広い腕の中がこれ以上ない程に心地よくて。
私は束の間の幸福に浸り、その温もりを噛み締めて居た。