永遠という名の愛
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あれ程自宅に押しかける事を躊躇って居たのに。具合が悪いと知ってから、私が決断をするのに最早時間は掛からなかった。
そうなれば何が必要かと携帯を取り出して買い出し用のメモを取り始めた私を見て、二人は笑みを浮かべる。
すぐ様買い物に走ろうとする私は、その慌てぶりを笑われながら五条さんに引き留められた。
荷物は到底一人で持てる量ではなくなりそうだからと。
見越した様に二人が荷物持ちを買って出てくれた事には本当に感謝の念に堪えない。
七海さんの生活を垣間見た限り、食材や調味料はある程度揃って居ると考えてもいいだろう。
それでも、備えあれば憂いなしだ。
結局二人の予想通り、両手は買い過ぎた荷物で塞がり、私は一刻も早く七海さんの元に向かいたいと気持ちだけが先走る。
不思議な事に、当然知って居ると思った筈の七海さんの自宅を五条さん達は知らなかった。
元々七海さん自身が不定期に引っ越しを繰り返して居た事と、親しいと言ってもプライベートをきっちり分けたい性格な事も重なったのだろうけれど、今の自宅を知るのは私と灰原さんだけとなるらしい。
それなのに、私の案内で辿り着いたオートロックのマンションのエントランス。
本来ならば住人に扉を開けてもらうのが筋だと言うのに、思い当たる節がある。
そう告げた五条さんがあっさり暗証番号を入力して扉を突破してしまう。
その時の五条さんの表情は予想が当たった事に喜ぶのかと思いきや。
何とも言い難く、複雑そうなもので。
夏油さんですら不思議そうに首を傾げるばかりだった。
これは七海さんに報告しておいた方が良いのだろうか。
思わずそう考えずには居られないものの、辿り着いた扉を前にして私の決意が突如揺らぐ。
そんな私を押し除ける様にして、五条さんが扉と向き合った。
寝て居たら申し訳ないと考えるのが普通かと思いきや。
相手が病人だと言う事すら、常識と言うものから逸脱した彼にとっては瑣末な問題だったらしい。
「なーなーみっ!!居るんだろう?早く開けてよ。あーけーてー!!」
「……五条さんっ!」
「ハハ、まるで借金取りだね」
インターホンを連打し、重厚な扉を叩く五条さんの傍若無人な態度に、心臓が縮み上がるような思いだった。
夏油さんはいつもの事だと言わんばかりに苦笑するばかりで、今回に限っては頼りにならない。
しかし、私ではこの人を止めるだけの力も言葉もない。
絶えず視線が周囲を彷徨い、せめて人目につかない事を祈るしかなかった。
その間にも五条さんの声量はどんどん大きなものへと変わっていき、背筋に嫌な汗が伝ったきがする。
やがて扉の向こうに人の気配が感じ取れる。
予め向かう事を伝えて居たからか。
ドアホン越しに応答する事すらなく、僅かに開いた扉から七海さんが顔を覗かせた。
「……何なんですか。近所迷惑もいい所ですよ」
「まぁまぁ。これでも心配で様子を見に来たんだよ」
「そうそう。心配で心配で夜しか眠れなくなりそうだったんだから。感謝してよね」
少し掠れた気怠そうな声が響く。
その姿は二人に阻まれ、姿を見る事は叶わなかったけれど、それは明らかに平時の七海さんの様子とは違う、覇気のないものだった。
至極不機嫌そうな態度に、やはり来た事は間違いだったと申し訳なさに駆られる。
しかし、明らかに不調な彼を前にしてこのまま帰る事は躊躇われた。
ケタケタと五条さんが笑い声をあげると、七海さんの深い溜息がそれを打ち消す。
その音が早く帰ってくれと訴えて居る様にも思えて。
二人が不毛なやり取りを続ける中。
一歩身を引こうとする私の手を、夏油さんが優しく捉え引き止める。
「……子供じゃないんです。何とかなります」
「あ、そうなの?じゃあ、これも要らない?」
「七海、最高のお見舞い品だよ」
「……え、あのっ」
二人の間をすり抜ける様にして、私は七海さんの目の前に押し出された。
プッシュプル式のハンドルを外側から引いた五条さんは、七海さんの家主に断りなく開けた玄関に脚を踏み入れ、夏油さんと共にそのままずかずかと家の中に上がり込んで行ってしまう。
その場に取り残され、気まずい沈黙が残された私達を包み込んだ。
一瞥すると白い肌が赤みを帯び、呼吸が少し荒い。
服装も普段のきっちりとしたものではなく、ラフな部屋着のままで。
彼らしからぬ姿はどう見ても健康的とは到底言い難いものだった。
「あの、すみません。具合が悪いと聞いて、何か出来ればと思って……」
「いえ。あの二人に巻き込まれただけでしょう。移すといけない。アナタは早く帰った方が……」
「七海さんっ!」
言葉を言い合える事なく突然体勢を崩した七海さんに、私は咄嗟に彼の胸に飛び込んだ。
だからと言って私一人で彼を支えられる訳では無いのだけれど、そうでもしないと今にも倒れてしまいそうな危うさを感じさせる。
服越しにもその身体が酷く熱い。
それなのに、寒さを感じて居るのか。
温もりを求める様に震えて居た。
私はリビングに向かったであろう二人を慌て呼びつける。
平時ならばそんな事、とても出来ないのだろうけれど、今は兎に角それどころでは無かった。
状況を察した夏油さんの手を借りて、七海さんを寝室に運ぶ。
既に意識が朦朧として居るのか。
眉根を寄せた表情は苦しげで、鋭い翠眼は閉じられたまま。
側に付き添いながら、私が布団を掛け直すとリビングにいた筈の五条さんが顔を覗かせた。
「七海、どう?」
「随分熱が高いです。まだ脱水にはなって無さそうですが、やはり一人にしておくのは……」
この調子では最低限の身の回りの事すら満足に出来はしないだろう。
身体は震えて居ると言うのに、少しばかり汗ばんだ額には髪が張り付き、私はベッドの傍でその様子を眺めながら七海さんに手を伸ばす。
せめて起きるまで。
彼がまともに動ける様になるまで。
側に居なければと私が思うのは、少なからず医療に従事して居るからか。
それともただの自己満足なのか。
たった一度、自宅に招いただけの私が過ぎた真似をして居る自覚はある。
しかし、どうしてこんな状態の人を放って置ける事が出来るだろうか。
私達の姿を見た五条さんが不意に穏やかな空気を纏った。
それは先程街で見た剣幕とはまるで別物で。
とても懐かしく、愛おしいものを眺めて居る様な。
そんな視線の様にも感じさせるものだった。
「じゃあさ、頼んでいい?僕達一応これから用事あってさ」
「……えっ、そうだったんだすか?すみません、お忙しいのに付き合って頂いて」
「なに、これくらいお安い御用さ。一先ず荷物はリビングに置いてあるから。もし、困った事があったら連絡するんだよ」
「他にも欲しいもの出来たら伊地知にでも言ってよ。持って来させるからさ」
「……はい。色々ありがとうございました」
慌て立ち上がると、二人はそのまま七海さんに付いて居てやれと言い残してその場を去って行った。
突然訪れた静寂は、今からやるべき事を私に明示して。
様子の落ち着いた七海さんの側を一度離れる。
先日訪れた時にはまるでモデルルームの様に整然として居た筈の室内は少し荒れて居た。
服は脱いだままソファに置かれ、食器すらも片付けられては居ない。
服は洗濯機へ放り込み、食器は全て棚に戻す。
濡れたタオルで一度七海さんの汗を拭い、気休めでも無いよりマシだと買ってきた冷却シートを貼り付けた。
枕元にはペットボトルを置く。
申し訳ないけれど部屋の扉は少しだけ開けて、再びリビングに戻り、冷蔵中の中を確認しながら買ってきたものと合わせて作れそうなものを思案した。
きっと食欲も落ちて居るだろうから、起きてすぐはお粥の方が無難だろう。
その後は幾つか料理を作り置きしておけば、仮に長引いたとしても負担にはならない筈だ。
誰かの為に料理をすると言うのは、腕が鳴る。
七海さんの聖域に勝手に踏み込んでしまう事に僅かな罪悪感を覚えながらも、私は使い勝手の良さそうなキッチンを前にして、腕を捲った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
時計の針が既に二周は回っただろうか。
洗濯から始まり部屋の片付け、簡単な掃除も終えた。
持ってきた筈の材料は幾つかの料理へと姿を変えて、使った器具は全てあるべき場所に戻って居る。
普通に考えれば慣れない人様の家なのだからもっと四苦八苦するかと思いきや。
私が考える通りの場所に欲しいものが収まって居るキッチンは、いっそ己の自宅よりも余程使い勝手がいいとすら思えた程だ。
あれから物音一つ立たなくなった寝室に一度視線を向ける。
いつ目覚めるかも定かではないものの、せっかく眠れたのならば態々起こしてしまうのも申し訳なない。
それでも、様子が気になって私は足音を忍ばせながら七海さんの元へと向かった。
私の気配に気付く事もなく、僅かに身動いだ七海さんの髪がさらりと揺れる。
今は熱いのか。
布団を追いやる素振りさえ見せ、上掛けのみにしてやると、夢でも見て居るのか。
七海さんの手が虚空に伸びる。
「……真那」
譫語の様に呟かれた名前。
その音は間違いなく己のもので、驚くのと同時に彷徨う七海さんの手を握りしめた。
その途端、表情が穏やかになった様な気がする。
呼吸も随分落ち着いたし、もうすぐ一度目を覚ますかも知れない。
その時、私が来た事を覚えて居るだろうか。
幾ら五条さんや夏油さんに頼まれたと言っても、随分勝手な真似をした自覚はある。
しかし、今はそんな憂いすら瑣末な事の様に思えてしまって。
普段から隙のない七海さんの無防備な寝顔を眺めて居ると、胸の内がポカポカと陽だまりの様な暖かさを宿す。
「……けん、と、さん」
自らの口から自然と溢れた言葉が、不思議な程に馴染んだ。
これまで縺れて居た糸が突然解けて、一筋の道を示した様な。
何とも表現し難い感覚。
一度目は私の胸に暖かさを宿したその響きは、二度目に紡いだ時には突き刺す様な痛みを齎した。
何をした訳でも、された訳でもないのに。
唐突に涙が溢れ、それは音もなく私の頬に涙痕を刻み続けた。
どうしてなのだろう。
何故、この響きがこんなにも懐かしくて。
悲しいと、そう思うのだろう。
考えてみれば、いつも集うあの中に七海さんをファーストネームで呼ぶ人は誰も居ない。
反面、私は殆どの人から名前で呼ばれて居る。
七海さんが私のフルネームを知って居たとして、それは何ら不思議な事ではないけれど、私が七海さんのそれを知る機会はこれまでになかった筈なのだ。
それなのに、この人は「七海建人」なのだと。
まるで何処かに置き去りにされた記憶でもあるかの様に、私の中でそう訴える何かがいる。
けれど、それ以上の事がどうしても思い出せない。
私は、間違いなく七海さんを知って居る。
……知って居た筈なのに。
物心ついた頃からのこれまでの己の人生の何処を振り返っても、その姿が見当たらない。
「……貴方は、誰なんですか……?」
最早、夢に見るあの人が七海さんなのではないかと私は確信しつつあった。
しかし、あまりにも曖昧すぎるそれを確かめる術などある筈も無い。
ただ、目の前のこの人が恋しくて。
愛おしくて、堪らなかった。
どうか、その優しい音で私の名前を呼んで欲しいと希うばかり。
居た堪れなくなり、私は逃げる様にリビングへと向かった。
以前向かい合ったテーブルに腰を下ろし、そのまま腕を広げて突っ伏した。
「……けんと、さん。建人、さん……っ!」
片手で口元を抑えながら、悲鳴の様に漏れる声と共に大粒の雫が滴る。
一つ、二つ。
紡ぐ度に胸の中から堪えきれない想いが溢れ出した。
この想いを何と言えば良いのだろうか。
今にも張り裂けそうな程の痛み。
それと同時に感じる絶望と、それをも凌駕する愛情。
貴方を想うだけで。
私はもう、呼吸の仕方すら忘れてしまいそうだった。
そうなれば何が必要かと携帯を取り出して買い出し用のメモを取り始めた私を見て、二人は笑みを浮かべる。
すぐ様買い物に走ろうとする私は、その慌てぶりを笑われながら五条さんに引き留められた。
荷物は到底一人で持てる量ではなくなりそうだからと。
見越した様に二人が荷物持ちを買って出てくれた事には本当に感謝の念に堪えない。
七海さんの生活を垣間見た限り、食材や調味料はある程度揃って居ると考えてもいいだろう。
それでも、備えあれば憂いなしだ。
結局二人の予想通り、両手は買い過ぎた荷物で塞がり、私は一刻も早く七海さんの元に向かいたいと気持ちだけが先走る。
不思議な事に、当然知って居ると思った筈の七海さんの自宅を五条さん達は知らなかった。
元々七海さん自身が不定期に引っ越しを繰り返して居た事と、親しいと言ってもプライベートをきっちり分けたい性格な事も重なったのだろうけれど、今の自宅を知るのは私と灰原さんだけとなるらしい。
それなのに、私の案内で辿り着いたオートロックのマンションのエントランス。
本来ならば住人に扉を開けてもらうのが筋だと言うのに、思い当たる節がある。
そう告げた五条さんがあっさり暗証番号を入力して扉を突破してしまう。
その時の五条さんの表情は予想が当たった事に喜ぶのかと思いきや。
何とも言い難く、複雑そうなもので。
夏油さんですら不思議そうに首を傾げるばかりだった。
これは七海さんに報告しておいた方が良いのだろうか。
思わずそう考えずには居られないものの、辿り着いた扉を前にして私の決意が突如揺らぐ。
そんな私を押し除ける様にして、五条さんが扉と向き合った。
寝て居たら申し訳ないと考えるのが普通かと思いきや。
相手が病人だと言う事すら、常識と言うものから逸脱した彼にとっては瑣末な問題だったらしい。
「なーなーみっ!!居るんだろう?早く開けてよ。あーけーてー!!」
「……五条さんっ!」
「ハハ、まるで借金取りだね」
インターホンを連打し、重厚な扉を叩く五条さんの傍若無人な態度に、心臓が縮み上がるような思いだった。
夏油さんはいつもの事だと言わんばかりに苦笑するばかりで、今回に限っては頼りにならない。
しかし、私ではこの人を止めるだけの力も言葉もない。
絶えず視線が周囲を彷徨い、せめて人目につかない事を祈るしかなかった。
その間にも五条さんの声量はどんどん大きなものへと変わっていき、背筋に嫌な汗が伝ったきがする。
やがて扉の向こうに人の気配が感じ取れる。
予め向かう事を伝えて居たからか。
ドアホン越しに応答する事すらなく、僅かに開いた扉から七海さんが顔を覗かせた。
「……何なんですか。近所迷惑もいい所ですよ」
「まぁまぁ。これでも心配で様子を見に来たんだよ」
「そうそう。心配で心配で夜しか眠れなくなりそうだったんだから。感謝してよね」
少し掠れた気怠そうな声が響く。
その姿は二人に阻まれ、姿を見る事は叶わなかったけれど、それは明らかに平時の七海さんの様子とは違う、覇気のないものだった。
至極不機嫌そうな態度に、やはり来た事は間違いだったと申し訳なさに駆られる。
しかし、明らかに不調な彼を前にしてこのまま帰る事は躊躇われた。
ケタケタと五条さんが笑い声をあげると、七海さんの深い溜息がそれを打ち消す。
その音が早く帰ってくれと訴えて居る様にも思えて。
二人が不毛なやり取りを続ける中。
一歩身を引こうとする私の手を、夏油さんが優しく捉え引き止める。
「……子供じゃないんです。何とかなります」
「あ、そうなの?じゃあ、これも要らない?」
「七海、最高のお見舞い品だよ」
「……え、あのっ」
二人の間をすり抜ける様にして、私は七海さんの目の前に押し出された。
プッシュプル式のハンドルを外側から引いた五条さんは、七海さんの家主に断りなく開けた玄関に脚を踏み入れ、夏油さんと共にそのままずかずかと家の中に上がり込んで行ってしまう。
その場に取り残され、気まずい沈黙が残された私達を包み込んだ。
一瞥すると白い肌が赤みを帯び、呼吸が少し荒い。
服装も普段のきっちりとしたものではなく、ラフな部屋着のままで。
彼らしからぬ姿はどう見ても健康的とは到底言い難いものだった。
「あの、すみません。具合が悪いと聞いて、何か出来ればと思って……」
「いえ。あの二人に巻き込まれただけでしょう。移すといけない。アナタは早く帰った方が……」
「七海さんっ!」
言葉を言い合える事なく突然体勢を崩した七海さんに、私は咄嗟に彼の胸に飛び込んだ。
だからと言って私一人で彼を支えられる訳では無いのだけれど、そうでもしないと今にも倒れてしまいそうな危うさを感じさせる。
服越しにもその身体が酷く熱い。
それなのに、寒さを感じて居るのか。
温もりを求める様に震えて居た。
私はリビングに向かったであろう二人を慌て呼びつける。
平時ならばそんな事、とても出来ないのだろうけれど、今は兎に角それどころでは無かった。
状況を察した夏油さんの手を借りて、七海さんを寝室に運ぶ。
既に意識が朦朧として居るのか。
眉根を寄せた表情は苦しげで、鋭い翠眼は閉じられたまま。
側に付き添いながら、私が布団を掛け直すとリビングにいた筈の五条さんが顔を覗かせた。
「七海、どう?」
「随分熱が高いです。まだ脱水にはなって無さそうですが、やはり一人にしておくのは……」
この調子では最低限の身の回りの事すら満足に出来はしないだろう。
身体は震えて居ると言うのに、少しばかり汗ばんだ額には髪が張り付き、私はベッドの傍でその様子を眺めながら七海さんに手を伸ばす。
せめて起きるまで。
彼がまともに動ける様になるまで。
側に居なければと私が思うのは、少なからず医療に従事して居るからか。
それともただの自己満足なのか。
たった一度、自宅に招いただけの私が過ぎた真似をして居る自覚はある。
しかし、どうしてこんな状態の人を放って置ける事が出来るだろうか。
私達の姿を見た五条さんが不意に穏やかな空気を纏った。
それは先程街で見た剣幕とはまるで別物で。
とても懐かしく、愛おしいものを眺めて居る様な。
そんな視線の様にも感じさせるものだった。
「じゃあさ、頼んでいい?僕達一応これから用事あってさ」
「……えっ、そうだったんだすか?すみません、お忙しいのに付き合って頂いて」
「なに、これくらいお安い御用さ。一先ず荷物はリビングに置いてあるから。もし、困った事があったら連絡するんだよ」
「他にも欲しいもの出来たら伊地知にでも言ってよ。持って来させるからさ」
「……はい。色々ありがとうございました」
慌て立ち上がると、二人はそのまま七海さんに付いて居てやれと言い残してその場を去って行った。
突然訪れた静寂は、今からやるべき事を私に明示して。
様子の落ち着いた七海さんの側を一度離れる。
先日訪れた時にはまるでモデルルームの様に整然として居た筈の室内は少し荒れて居た。
服は脱いだままソファに置かれ、食器すらも片付けられては居ない。
服は洗濯機へ放り込み、食器は全て棚に戻す。
濡れたタオルで一度七海さんの汗を拭い、気休めでも無いよりマシだと買ってきた冷却シートを貼り付けた。
枕元にはペットボトルを置く。
申し訳ないけれど部屋の扉は少しだけ開けて、再びリビングに戻り、冷蔵中の中を確認しながら買ってきたものと合わせて作れそうなものを思案した。
きっと食欲も落ちて居るだろうから、起きてすぐはお粥の方が無難だろう。
その後は幾つか料理を作り置きしておけば、仮に長引いたとしても負担にはならない筈だ。
誰かの為に料理をすると言うのは、腕が鳴る。
七海さんの聖域に勝手に踏み込んでしまう事に僅かな罪悪感を覚えながらも、私は使い勝手の良さそうなキッチンを前にして、腕を捲った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
時計の針が既に二周は回っただろうか。
洗濯から始まり部屋の片付け、簡単な掃除も終えた。
持ってきた筈の材料は幾つかの料理へと姿を変えて、使った器具は全てあるべき場所に戻って居る。
普通に考えれば慣れない人様の家なのだからもっと四苦八苦するかと思いきや。
私が考える通りの場所に欲しいものが収まって居るキッチンは、いっそ己の自宅よりも余程使い勝手がいいとすら思えた程だ。
あれから物音一つ立たなくなった寝室に一度視線を向ける。
いつ目覚めるかも定かではないものの、せっかく眠れたのならば態々起こしてしまうのも申し訳なない。
それでも、様子が気になって私は足音を忍ばせながら七海さんの元へと向かった。
私の気配に気付く事もなく、僅かに身動いだ七海さんの髪がさらりと揺れる。
今は熱いのか。
布団を追いやる素振りさえ見せ、上掛けのみにしてやると、夢でも見て居るのか。
七海さんの手が虚空に伸びる。
「……真那」
譫語の様に呟かれた名前。
その音は間違いなく己のもので、驚くのと同時に彷徨う七海さんの手を握りしめた。
その途端、表情が穏やかになった様な気がする。
呼吸も随分落ち着いたし、もうすぐ一度目を覚ますかも知れない。
その時、私が来た事を覚えて居るだろうか。
幾ら五条さんや夏油さんに頼まれたと言っても、随分勝手な真似をした自覚はある。
しかし、今はそんな憂いすら瑣末な事の様に思えてしまって。
普段から隙のない七海さんの無防備な寝顔を眺めて居ると、胸の内がポカポカと陽だまりの様な暖かさを宿す。
「……けん、と、さん」
自らの口から自然と溢れた言葉が、不思議な程に馴染んだ。
これまで縺れて居た糸が突然解けて、一筋の道を示した様な。
何とも表現し難い感覚。
一度目は私の胸に暖かさを宿したその響きは、二度目に紡いだ時には突き刺す様な痛みを齎した。
何をした訳でも、された訳でもないのに。
唐突に涙が溢れ、それは音もなく私の頬に涙痕を刻み続けた。
どうしてなのだろう。
何故、この響きがこんなにも懐かしくて。
悲しいと、そう思うのだろう。
考えてみれば、いつも集うあの中に七海さんをファーストネームで呼ぶ人は誰も居ない。
反面、私は殆どの人から名前で呼ばれて居る。
七海さんが私のフルネームを知って居たとして、それは何ら不思議な事ではないけれど、私が七海さんのそれを知る機会はこれまでになかった筈なのだ。
それなのに、この人は「七海建人」なのだと。
まるで何処かに置き去りにされた記憶でもあるかの様に、私の中でそう訴える何かがいる。
けれど、それ以上の事がどうしても思い出せない。
私は、間違いなく七海さんを知って居る。
……知って居た筈なのに。
物心ついた頃からのこれまでの己の人生の何処を振り返っても、その姿が見当たらない。
「……貴方は、誰なんですか……?」
最早、夢に見るあの人が七海さんなのではないかと私は確信しつつあった。
しかし、あまりにも曖昧すぎるそれを確かめる術などある筈も無い。
ただ、目の前のこの人が恋しくて。
愛おしくて、堪らなかった。
どうか、その優しい音で私の名前を呼んで欲しいと希うばかり。
居た堪れなくなり、私は逃げる様にリビングへと向かった。
以前向かい合ったテーブルに腰を下ろし、そのまま腕を広げて突っ伏した。
「……けんと、さん。建人、さん……っ!」
片手で口元を抑えながら、悲鳴の様に漏れる声と共に大粒の雫が滴る。
一つ、二つ。
紡ぐ度に胸の中から堪えきれない想いが溢れ出した。
この想いを何と言えば良いのだろうか。
今にも張り裂けそうな程の痛み。
それと同時に感じる絶望と、それをも凌駕する愛情。
貴方を想うだけで。
私はもう、呼吸の仕方すら忘れてしまいそうだった。