永遠という名の愛
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濡れた服がドラム式の洗濯機の中で回り続けて居る。
自身から放つ普段とは違う香りに、私の胸は始終高鳴り続けていた。
お風呂を借りて、用意された服に袖を通す。
七海さんのものだから当然なのだけれど、私では大きすぎる服は、まるで子供が大人の服を着させられて居る様な錯覚すら齎した。
鏡越しに映る己の姿はまるで別人のようにも思えて。
七海さんが懸念した間違いが、いっそ起きても良いとすら考えてしまう己の浅はかさを嘲るしかない。
かつては恋人が居たのだから異性の部屋に上がるのが初めてという訳でも無いのに、妙な緊張感が纏わりつくのは、単に相手が意中の人だからなのか。
それなのに、不思議な程に落ち着く空間は七海さんが私に与えるものとよく似て居て。
綺麗に水跡が拭き取られた床に申し訳なさを覚えつつリビングに向かうと、着替えを済ませてキッチンに立つ七海さんの姿に一瞬目を奪われた。
「おかえりなさい。すみません、男の一人暮らしなもので着替えもそんなものしかなくて」
「……あ、いえ。助かりました。それにお風呂まで、ありがとうございます。温まりました」
「いえ。顔色が戻って良かった。簡単ですが夕食を作ったので食べてください」
テーブルに置かれたスープとパスタに、欲深い己の食指が唆られた。
何から何まで申し訳ないと思いながらも、今更好意を無碍にする事もできず、テーブルの椅子まで引いてくれる七海さんに促されて私は席に着く。
七海さんも早く温まって来て下さい。
本来ならばそう声を掛けるべきなのだろうけれど、果たして私達の間にそこまでの信頼関係があるかと問われたら疑問が残る。
コーヒーを片手に向かいの席に着居た七海さんと視線が絡んだ。
普段きっちり纏められて居る髪も、今はその片鱗すら見せず。
その色だけが室内の灯りに照らされて輝いて居る様にも思える。
料理が趣味だと聞いて居たけれど、テーブルに並ぶ食事を見る限りかなり本格的なものなのだろう。
作った側としては、相手の反応を伺いたいというのは自然な事で。
カトラリーを手にした私は一口パスタを口に運ぶと、その後には感嘆にも似た声を上げていた。
「……美味しい」
「お口に合って良かった」
「料理が趣味だと聞いてましたけど、本当にお上手なんですね」
「おや、疑って居ましたか?」
「いえ……っ。そんな。でも、こんなに本格的だったとは思わなくて。……それに、なんだか凄く懐かしい味がします。ごめんなさい。変ですよね、初めて食べた筈なのに」
少し意地の悪い揶揄うような口調。
瞳を伏せながら悠然とコーヒーに口をつける姿に見惚れながら、私は大袈裟なまでに慌てふためいた。
初めこそ、その様子を楽しんで居た筈の七海さんは私が懐かしいと溢すと不意に動きを止める。
静かに開いた瞳が、僅かに揺らいだような気がして。
おもむろに、胸が締め付けられた。
そんな顔をしないで欲しい。
もしそれが誰かを想っての事ならば、私はもう嫉妬せずに居られなくなる。
仮に今恋人が居ないのだとしても、その影を感じた刹那に醜い嫉心に苛まれる。
それ程に、惹かれてしまった。
手遅れだと思える程に焦がれて居る。
それはじりじりと身を灼かれているような錯覚すら齎して居る。
食事の最中だというのに中座するのは不躾だと思えたものの、私は席を立つ。
まるで透明な糸に引き寄せられるように七海さんの側に寄ると、伸ばした手が彼の頬を包込んで居た。
「……泣かないで」
それは、一体誰に向けた言葉だったのだろう。
今にも泣き出しそうな表情をして居たのは、私と彼のどちらだったのか。
ただ、途方もなく胸が苦しくて。
驚きに目を見開いた七海さんの頬は冷たく、私の手から熱を奪った。
重ねられた手は、私を拒んでは居らず、寧ろ郷愁に駆られ、縋る様な思いすらも感じ取れた。
ほんの僅かな時間がとても長いものに感じる。
離れる事が惜しいとすら思えた。
しかし、そんな私達の空間に亀裂を入れたのは、唐突に鳴り響いた七海さんの携帯だった。
我に返った瞬間。
私達の間に虚空が生まれる。
柔らかく微笑んだ七海さんはそのまま席を立ち、その後ろ姿を見送りながら、私は再び己の先に着いた。
「……私、どうしちゃったんだろう」
受け身ばかりの普段の私からは想像もつかない行動に私自身が誰よりも驚きを隠せず。
呟いた言葉の答えを探す。
けれど、苦しげに眉根を寄せた七海さんから視線が離れなくて。
放って置けないと、無意識のうちにそう思って居たのかも知れない。
すっかり冷めてしまったというのに、それでも七海さんの作ってくれた食事は美味しくて。
食べ終えてしまうのが勿体無いと思える程だった。
お世話になりっぱなしでは申し訳ない。
私が纏めた食器を運ぶのと、七海さんがリビングに戻ってくるのは同時だった様に感じる。
人様の自宅なのだからあまり勝手は出来ないけれど、せめて片付けの手伝い位はと思った私の様子を察したのか。
聖域とも言えるキッチンに入り込んだ私に不快な顔をする事も無く、自然と隣り合う。
それは私がずっと望んでいた恋人との形だった様にも思える。
一緒に料理を作って、一緒に片付けをして。
それが終わったらコーヒーや紅茶を淹れてソファでゆっくりと言葉を交わしながら穏やかなひと時を過ごす。
これまでは理解を示して貰えなかった幻想そのものと言えた。
手入れの行き届いたキッチンはやはり一つ一つの道具も使いやすい様に配置されて居る。
一望できる部屋の景色は家具の一つ一つがとても好ましく、私が思い描く理想と重なった。
「すみません、仕事の電話でした」
「いえ。もう大丈夫なんですか?すみません。せめて洗い物だけでもと思ったんですが。ご飯、ご馳走様でした」
「いえ、私がしたくてした事なので。貸してください。拭き上げは私が」
「お願いします」
洗い終えた食器を手渡すと、七海さんは丁寧に水気を拭き取る。
開いた棚には一人暮らしにしては多い洒落た食器が並び、やはりこういう所から拘りは発揮されて居る様だ。
電話のお陰か。
なんとも言い難い雰囲気は払拭され、穏やかな空気が私達を取り囲む。
気まずかったのはどうやらお互い様らしく、七海さんも敢えて話題を振らないことに私は安堵して居た。
「……素敵なお部屋ですね」
それは思わず溢れた本音だった。
大切な人とこんな部屋で共に過ごせたらと思わずには居られない様な。
自分が作り上げるとしたらこんな空間がいいと心底思える、最高の空間。
こうして一緒にキッチンに並んで、一緒にその日の様々な話が出来たら。
私にとって、それ程に幸せなことはないだろう。
少しばかり気恥ずかしそうに、七海さんは淡く微笑んだ。
それは私の心にも淡い光を持したように暖かく。
この人にはずっとこんな風に笑って居て欲しいと願わずに居られなくなる光景だった。
「ありがとうございます。私も気に入って居るんです。ずっと焦がれた空間があったんですが。それに近づける為に、幾度も無駄に引っ越しを繰り返しました」
「その甲斐はありましたね」
「ええ」
取り止めのないやり取りが途切れることはなかった。
いつまでもお邪魔をしてしまうのは悪いと理性が訴えるのに。
私の本能が、離れる事を拒んで居る。
最後の食器を洗い終え、それを残念だと思ってしまうなんて馬鹿げていると思うのに。
何故こんなにも心地がいいのか。
そんな事に思考を持っていかれてしまって居たせいか。
不意に私達の手が触れ合い、手渡そうとした食器が私の手から滑り落ちる。
声を上げた時には既に遅く。
小気味いい音と共に、真白なお皿が床に落ちて砕け散った。
「ごめんなさい……っ!すぐ片付けます」
「駄目です!触ったら……」
七海さんが声を掛けるより早く、しゃがみ込んだ私は割れた食器に手を伸ばす。
しかし、こういう時こそ一つの災難が新たな災難を呼ぶらしい。
鋭く指先に痛みが走った。
咄嗟に手を引くと、視線の先ではとめどなく溢れた血が大粒の雫となり、肌を伝う。
見栄を張りたい訳ではないのに、どうしてこうも情けない姿ばかり見せてしまうのだろうか。
それは少しでもいい印象を持って貰いたいと言う私の胸の内を見透かされて居る様な気がしてならない。
部屋を濡らし、食事まで用意させ、挙句今度は食器を割って怪我をしたなんて。
自分で自分が嫌になる。
「……ごめんなさい。私……お皿を」
「そんなものはどうでも良い。傷を早く」
その時の七海さんの慌てようは、後になっても鮮明に思い返せる程に狼狽えたものだった。
少し強引に手を引かれ、七海さんが傷を確認する。
そして次の瞬間には、何の躊躇いもなく私の指先に唇を寄せて行く。
その瞬間に、呼吸が止まりそうになった。
触れた唇は少し暖かく、そして柔らかい。
癒すように張った舌がピリピリとした痛みを伴い、同時にこれ以上ない程の羞恥に身体が一気に熱を帯びた。
言葉すら出て来なかった。
家族や恋人ならまだしも、友人の知人にする様な行為とは到底思えない行いに、理性的だと思って居た七海さんのイメージが瓦解していく。
けれどそれは決して悪いものではなく、寧ろこんな光景を何処かで見た様な気さえして。
頭の中は混沌として居た。
髪と同様の金糸の様な睫毛が揺れる。
掠める吐息に劣情さえ煽られる様な感覚に陥り、私が漏らした息に、我に帰った七海さんが暫し呆けた後。
勢いよく私から手を離した。
「……すみません。咄嗟の事で」
「……いえ。あの、お皿。本当にごめんなさい」
「気にしなくても構いません。アナタに怪我をさせてしまった事は申し訳無いですが、大きなもので無くて良かった。血は止まりましたか?」
「……はい。大丈夫、です」
未だ顔の熱が取れなかった。
まともに七海さんの顔が見れる気がしなくて、私は怪我をした右手を隠す様に左手で包み込むと小さく頷く。
恋を知らない少女な訳でもない。
異性を知らない無垢な乙女でもないと言うのに。
七海さんの一挙一動が私を振り回して居る事を彼はきっと知る由も無いのだろう。
立ち上がった七海さんが私に手を伸ばした。
脚元に気をつける様にと言葉を掛けられ、立ち上がると、慰める様に一度骨ばった手が頭を撫でる。
「後の事は私がやります。そろそろ服が乾いた頃でしょう。送っていきますよ」
「いえ、タクシーを捕まえますから……」
「送らせて下さい。どうやら私は、アナタと少しでも長く居る口実が欲しくて堪らないらしい」
自嘲気味な微笑みと共に、七海さんが車の鍵を取る為かリビングに向かった。
今の思わせぶりな言葉は一体どんな意図を孕んで居るのか。
揶揄われて居るのか。
はたまた、何らかの理由で人恋しくでもなって居るのか。
期待しそうになる己の心に叱咤をしなければ、今にも溢れて止まない想いを押し留める事すら出来なくなりそうだった。
いっそ送ってくれなくても良い。
そんな事を口走ってしまったら、軽蔑されてしまうだろうか。
ただ外で会う時でさえも最近では別れ際には胸が痛むと言うのに、一層名残惜しく感じるのはこの空間に居るからなのか。
私の実家は、平凡な一軒家だ。
私が暮らして居るのも比較的新しいけれどアパートで、こんなマンションには縁が無い。
それなのに、かつて。
私はこんな空間に居た気がする。
それがいつ、どこでだったのかも分からないと言うのに。
肌で感じる空気が、私にそう訴えかけて居る様にすら思えた。
こんな事ばかりだ。
誰にも相談できない不可思議な事ばかりが七海さんと知り合ってからと言うものより一層私に混乱を招く。
探しても見つからない答えならば、いっそ探さなければ良いでは無いか。
……そうも考えるのに。
知らなければ、私はきっと進めないのだと。
頭の中で、何かが訴えかけて居る様な気がした。
結局、その日の私は七海さんに頼りっぱなしとなってしまった。
着替えるや否や七海さんの愛車に乗せられ、家まで送り届けられてしまう。
何もなかった事を安堵するべきなのに、残念に思う私は自分で思う以上に卑しい人間だったらしい。
お風呂も食事も、七海さんの家で済ませてある。
後は眠るだけで良い筈なのに、指先がずっと熱くて、その日は眠る事すら出来そうになかった。
自身から放つ普段とは違う香りに、私の胸は始終高鳴り続けていた。
お風呂を借りて、用意された服に袖を通す。
七海さんのものだから当然なのだけれど、私では大きすぎる服は、まるで子供が大人の服を着させられて居る様な錯覚すら齎した。
鏡越しに映る己の姿はまるで別人のようにも思えて。
七海さんが懸念した間違いが、いっそ起きても良いとすら考えてしまう己の浅はかさを嘲るしかない。
かつては恋人が居たのだから異性の部屋に上がるのが初めてという訳でも無いのに、妙な緊張感が纏わりつくのは、単に相手が意中の人だからなのか。
それなのに、不思議な程に落ち着く空間は七海さんが私に与えるものとよく似て居て。
綺麗に水跡が拭き取られた床に申し訳なさを覚えつつリビングに向かうと、着替えを済ませてキッチンに立つ七海さんの姿に一瞬目を奪われた。
「おかえりなさい。すみません、男の一人暮らしなもので着替えもそんなものしかなくて」
「……あ、いえ。助かりました。それにお風呂まで、ありがとうございます。温まりました」
「いえ。顔色が戻って良かった。簡単ですが夕食を作ったので食べてください」
テーブルに置かれたスープとパスタに、欲深い己の食指が唆られた。
何から何まで申し訳ないと思いながらも、今更好意を無碍にする事もできず、テーブルの椅子まで引いてくれる七海さんに促されて私は席に着く。
七海さんも早く温まって来て下さい。
本来ならばそう声を掛けるべきなのだろうけれど、果たして私達の間にそこまでの信頼関係があるかと問われたら疑問が残る。
コーヒーを片手に向かいの席に着居た七海さんと視線が絡んだ。
普段きっちり纏められて居る髪も、今はその片鱗すら見せず。
その色だけが室内の灯りに照らされて輝いて居る様にも思える。
料理が趣味だと聞いて居たけれど、テーブルに並ぶ食事を見る限りかなり本格的なものなのだろう。
作った側としては、相手の反応を伺いたいというのは自然な事で。
カトラリーを手にした私は一口パスタを口に運ぶと、その後には感嘆にも似た声を上げていた。
「……美味しい」
「お口に合って良かった」
「料理が趣味だと聞いてましたけど、本当にお上手なんですね」
「おや、疑って居ましたか?」
「いえ……っ。そんな。でも、こんなに本格的だったとは思わなくて。……それに、なんだか凄く懐かしい味がします。ごめんなさい。変ですよね、初めて食べた筈なのに」
少し意地の悪い揶揄うような口調。
瞳を伏せながら悠然とコーヒーに口をつける姿に見惚れながら、私は大袈裟なまでに慌てふためいた。
初めこそ、その様子を楽しんで居た筈の七海さんは私が懐かしいと溢すと不意に動きを止める。
静かに開いた瞳が、僅かに揺らいだような気がして。
おもむろに、胸が締め付けられた。
そんな顔をしないで欲しい。
もしそれが誰かを想っての事ならば、私はもう嫉妬せずに居られなくなる。
仮に今恋人が居ないのだとしても、その影を感じた刹那に醜い嫉心に苛まれる。
それ程に、惹かれてしまった。
手遅れだと思える程に焦がれて居る。
それはじりじりと身を灼かれているような錯覚すら齎して居る。
食事の最中だというのに中座するのは不躾だと思えたものの、私は席を立つ。
まるで透明な糸に引き寄せられるように七海さんの側に寄ると、伸ばした手が彼の頬を包込んで居た。
「……泣かないで」
それは、一体誰に向けた言葉だったのだろう。
今にも泣き出しそうな表情をして居たのは、私と彼のどちらだったのか。
ただ、途方もなく胸が苦しくて。
驚きに目を見開いた七海さんの頬は冷たく、私の手から熱を奪った。
重ねられた手は、私を拒んでは居らず、寧ろ郷愁に駆られ、縋る様な思いすらも感じ取れた。
ほんの僅かな時間がとても長いものに感じる。
離れる事が惜しいとすら思えた。
しかし、そんな私達の空間に亀裂を入れたのは、唐突に鳴り響いた七海さんの携帯だった。
我に返った瞬間。
私達の間に虚空が生まれる。
柔らかく微笑んだ七海さんはそのまま席を立ち、その後ろ姿を見送りながら、私は再び己の先に着いた。
「……私、どうしちゃったんだろう」
受け身ばかりの普段の私からは想像もつかない行動に私自身が誰よりも驚きを隠せず。
呟いた言葉の答えを探す。
けれど、苦しげに眉根を寄せた七海さんから視線が離れなくて。
放って置けないと、無意識のうちにそう思って居たのかも知れない。
すっかり冷めてしまったというのに、それでも七海さんの作ってくれた食事は美味しくて。
食べ終えてしまうのが勿体無いと思える程だった。
お世話になりっぱなしでは申し訳ない。
私が纏めた食器を運ぶのと、七海さんがリビングに戻ってくるのは同時だった様に感じる。
人様の自宅なのだからあまり勝手は出来ないけれど、せめて片付けの手伝い位はと思った私の様子を察したのか。
聖域とも言えるキッチンに入り込んだ私に不快な顔をする事も無く、自然と隣り合う。
それは私がずっと望んでいた恋人との形だった様にも思える。
一緒に料理を作って、一緒に片付けをして。
それが終わったらコーヒーや紅茶を淹れてソファでゆっくりと言葉を交わしながら穏やかなひと時を過ごす。
これまでは理解を示して貰えなかった幻想そのものと言えた。
手入れの行き届いたキッチンはやはり一つ一つの道具も使いやすい様に配置されて居る。
一望できる部屋の景色は家具の一つ一つがとても好ましく、私が思い描く理想と重なった。
「すみません、仕事の電話でした」
「いえ。もう大丈夫なんですか?すみません。せめて洗い物だけでもと思ったんですが。ご飯、ご馳走様でした」
「いえ、私がしたくてした事なので。貸してください。拭き上げは私が」
「お願いします」
洗い終えた食器を手渡すと、七海さんは丁寧に水気を拭き取る。
開いた棚には一人暮らしにしては多い洒落た食器が並び、やはりこういう所から拘りは発揮されて居る様だ。
電話のお陰か。
なんとも言い難い雰囲気は払拭され、穏やかな空気が私達を取り囲む。
気まずかったのはどうやらお互い様らしく、七海さんも敢えて話題を振らないことに私は安堵して居た。
「……素敵なお部屋ですね」
それは思わず溢れた本音だった。
大切な人とこんな部屋で共に過ごせたらと思わずには居られない様な。
自分が作り上げるとしたらこんな空間がいいと心底思える、最高の空間。
こうして一緒にキッチンに並んで、一緒にその日の様々な話が出来たら。
私にとって、それ程に幸せなことはないだろう。
少しばかり気恥ずかしそうに、七海さんは淡く微笑んだ。
それは私の心にも淡い光を持したように暖かく。
この人にはずっとこんな風に笑って居て欲しいと願わずに居られなくなる光景だった。
「ありがとうございます。私も気に入って居るんです。ずっと焦がれた空間があったんですが。それに近づける為に、幾度も無駄に引っ越しを繰り返しました」
「その甲斐はありましたね」
「ええ」
取り止めのないやり取りが途切れることはなかった。
いつまでもお邪魔をしてしまうのは悪いと理性が訴えるのに。
私の本能が、離れる事を拒んで居る。
最後の食器を洗い終え、それを残念だと思ってしまうなんて馬鹿げていると思うのに。
何故こんなにも心地がいいのか。
そんな事に思考を持っていかれてしまって居たせいか。
不意に私達の手が触れ合い、手渡そうとした食器が私の手から滑り落ちる。
声を上げた時には既に遅く。
小気味いい音と共に、真白なお皿が床に落ちて砕け散った。
「ごめんなさい……っ!すぐ片付けます」
「駄目です!触ったら……」
七海さんが声を掛けるより早く、しゃがみ込んだ私は割れた食器に手を伸ばす。
しかし、こういう時こそ一つの災難が新たな災難を呼ぶらしい。
鋭く指先に痛みが走った。
咄嗟に手を引くと、視線の先ではとめどなく溢れた血が大粒の雫となり、肌を伝う。
見栄を張りたい訳ではないのに、どうしてこうも情けない姿ばかり見せてしまうのだろうか。
それは少しでもいい印象を持って貰いたいと言う私の胸の内を見透かされて居る様な気がしてならない。
部屋を濡らし、食事まで用意させ、挙句今度は食器を割って怪我をしたなんて。
自分で自分が嫌になる。
「……ごめんなさい。私……お皿を」
「そんなものはどうでも良い。傷を早く」
その時の七海さんの慌てようは、後になっても鮮明に思い返せる程に狼狽えたものだった。
少し強引に手を引かれ、七海さんが傷を確認する。
そして次の瞬間には、何の躊躇いもなく私の指先に唇を寄せて行く。
その瞬間に、呼吸が止まりそうになった。
触れた唇は少し暖かく、そして柔らかい。
癒すように張った舌がピリピリとした痛みを伴い、同時にこれ以上ない程の羞恥に身体が一気に熱を帯びた。
言葉すら出て来なかった。
家族や恋人ならまだしも、友人の知人にする様な行為とは到底思えない行いに、理性的だと思って居た七海さんのイメージが瓦解していく。
けれどそれは決して悪いものではなく、寧ろこんな光景を何処かで見た様な気さえして。
頭の中は混沌として居た。
髪と同様の金糸の様な睫毛が揺れる。
掠める吐息に劣情さえ煽られる様な感覚に陥り、私が漏らした息に、我に帰った七海さんが暫し呆けた後。
勢いよく私から手を離した。
「……すみません。咄嗟の事で」
「……いえ。あの、お皿。本当にごめんなさい」
「気にしなくても構いません。アナタに怪我をさせてしまった事は申し訳無いですが、大きなもので無くて良かった。血は止まりましたか?」
「……はい。大丈夫、です」
未だ顔の熱が取れなかった。
まともに七海さんの顔が見れる気がしなくて、私は怪我をした右手を隠す様に左手で包み込むと小さく頷く。
恋を知らない少女な訳でもない。
異性を知らない無垢な乙女でもないと言うのに。
七海さんの一挙一動が私を振り回して居る事を彼はきっと知る由も無いのだろう。
立ち上がった七海さんが私に手を伸ばした。
脚元に気をつける様にと言葉を掛けられ、立ち上がると、慰める様に一度骨ばった手が頭を撫でる。
「後の事は私がやります。そろそろ服が乾いた頃でしょう。送っていきますよ」
「いえ、タクシーを捕まえますから……」
「送らせて下さい。どうやら私は、アナタと少しでも長く居る口実が欲しくて堪らないらしい」
自嘲気味な微笑みと共に、七海さんが車の鍵を取る為かリビングに向かった。
今の思わせぶりな言葉は一体どんな意図を孕んで居るのか。
揶揄われて居るのか。
はたまた、何らかの理由で人恋しくでもなって居るのか。
期待しそうになる己の心に叱咤をしなければ、今にも溢れて止まない想いを押し留める事すら出来なくなりそうだった。
いっそ送ってくれなくても良い。
そんな事を口走ってしまったら、軽蔑されてしまうだろうか。
ただ外で会う時でさえも最近では別れ際には胸が痛むと言うのに、一層名残惜しく感じるのはこの空間に居るからなのか。
私の実家は、平凡な一軒家だ。
私が暮らして居るのも比較的新しいけれどアパートで、こんなマンションには縁が無い。
それなのに、かつて。
私はこんな空間に居た気がする。
それがいつ、どこでだったのかも分からないと言うのに。
肌で感じる空気が、私にそう訴えかけて居る様にすら思えた。
こんな事ばかりだ。
誰にも相談できない不可思議な事ばかりが七海さんと知り合ってからと言うものより一層私に混乱を招く。
探しても見つからない答えならば、いっそ探さなければ良いでは無いか。
……そうも考えるのに。
知らなければ、私はきっと進めないのだと。
頭の中で、何かが訴えかけて居る様な気がした。
結局、その日の私は七海さんに頼りっぱなしとなってしまった。
着替えるや否や七海さんの愛車に乗せられ、家まで送り届けられてしまう。
何もなかった事を安堵するべきなのに、残念に思う私は自分で思う以上に卑しい人間だったらしい。
お風呂も食事も、七海さんの家で済ませてある。
後は眠るだけで良い筈なのに、指先がずっと熱くて、その日は眠る事すら出来そうになかった。