永遠という名の愛
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家入さんと話をした事で、少しは自分の気持ちに落ち着きが取り戻せたのだろうか。
会う毎に、相手の事を一つ知る度に。
いっそ不気味な程に、私は七海さんという存在に惹かれて居る事を自覚せざるを得ない。
未だ私達の不思議な偶然は続いたまま、つい先日もお気に入りのカフェで七海さんに出会して。
店内が混み合って来た事もあり、相席をして共にお茶を楽しんだばかりだった。
仕事中に上の空になってしまう事は無くなったけれど家に帰れば、ふとした時に七海さんの事を考えてしまう。
ほんの少し、相手が微笑むだけで私の胸が歓喜に湧く。
少しでも長く一緒に居たいのだと。
こんなにも切に願い、相手の一挙一動に心を乱されるなんて、これまでに経験のない事だった。
しかし、今の私には新たに全く別の問題が出来てしまった。
終業時間が近づくにつれて溜息が漏れる。
携帯を眺める事が酷く億劫になり、何かしらの連絡がやってくると途端に己の表情が曇った。
その理由は、数ヶ月前に別れた恋人から今になって復縁したいとひっきりなしに連絡が来る様になったからだ。
どうやら、最後に私と会った時。
共に賑わう街中へと繰り出した女性とは上手くいかなかったのだろう。
料理も上手くない。
部屋も片付けてはくれないと愚痴の様な文言がつらつらと並び、真実の愛は此処にあったのだと歯の浮く様な台詞が送られてくる度に私は疲弊した。
どうやら彼の言う愛と言うものは、身の回りの世話をしてくれたら与えられるもので。
身を焦がす様な想いとは無縁のものらしい。
辛辣とは思うものの、既に別れた相手だ。
いっそブロックして仕舞えば事は簡単だったのだろう。
しかし、自宅は勿論、職場すらも知られており、押しかけられでもすれば一人で対処するのは難しくなる。
気分転換も兼ねてぼんやりと考えて居た筈の引越しは急務となり、ここ最近の私は帰宅すると良い物件は無いものかと不動産を眺める日々ばかりを送って居る。
誰かに相談するにも、どう切り出せば良いものかと悩み、ここ数日は常に先日とは別の意味で心が落ち着かない。
ふと己の定位置から外の景色を見渡すと今にも泣き出しそうな曇天が広がり、梅雨の気配を感じさせる。
今日は買い物に行こうかと考えて居たけれど、それは後日にするしか無さそうで。
天気予報が外れたからか。
同僚達は足早に帰路に着き、最後の一人となった私は家入さんに声を掛けてから慌ただしく職場を後にした。
「……降ってきちゃった」
しかし、職場を出てものの数分。
一層暗くなった空は夕暮れ時の夜道では不気味さを伴った。
頬に冷たい雫が舞い落ち、それは直様本降りの雨へと変わっていく。
小走りになりながら雨宿りできる場所を探す間にも雨足はどんどん強まり、やっと近所のコンビニに辿り着くかどうかという頃には、私はすっかり濡れ鼠へと変わり果てて居た。
傘を買おうにもこんな姿では目の前のコンビニにすら入る事を躊躇う。
かと言って、タクシーが通る様な道でも無く。
自宅は徒歩圏内ではあるものの、この中を数十分も歩くのは困難だ。
診療所に引き返せば家入さんに迷惑を掛けてしまうのは確実で。
せめてもう少し小降りになるまで、雨宿りさせてもらうしか無いだろう。
すっかり冷えてしまった身体が震え、縮こまる。
目の前を走り抜けていく人達はきっと家が近いのだろうか。
買い物を終えた筈の人が傘を求めて店内に舞い戻る。
こんな時、気兼ねなく頼れる人がいないと言うのは些か心細い。
私同様雨を凌ぐためにやって来た人の姿に思わず目を瞬かせた。
「……如月さん?」
「あ、七海さん。こんばんわ」
陽に照らされると眩いばかりに光る髪が、今は雫を滴らせて居た。
きっと同じ様に帰宅途中に降られてしまったのだろう。
それなのに元が美丈夫だからか。
こんな時でさえ、絵画を見て居る様な錯覚を齎した。
少しばかり不安に苛まれた胸が、隣に七海さんが居ると言うだけで凪いだ気がする。
言葉を交わすことが無くても、触れるかどうかの距離に居るだけで鼓動が高鳴った。
同時に、こんなみすぼらしい姿を晒して居ることが情けなくて。
折角なら何か話せたらと思うのに、卑屈な心が邪魔をする。
寒さは限界を迎え、上着の一枚でも持っていなかった事を後悔しそうになる。
意図せず小さなくしゃみが出て、気恥ずかしさを覚えると、七海さんは徐に自身の上着を脱ぎ始め、私の肩にそっと掛けた。
「着ていてください」
「……でも」
「若い女性がいつまでもそんな姿であるものではありません。それに、顔色も良くない。こんなものでも、無いよりはマシな筈です」
「すみません。……ありがとうございます」
ただ申し訳なさが募る中。
まるで私を包み込む様に七海さんの上着が僅かな温もりを与えてくれた。
雨に濡れていても、仄かに香るのは香水だろうか。
色香さえ感じさせるそれは七海さんの印象に良く似合い、何処か懐かしい。
昔と言うには曖昧過ぎる。
けれど、私はこの香りを良く知って居る様な気がした。
大好きだった筈だ。
その空気に包まれて居る時の私は、自分が誰よりも何よりも幸せだったと言える程に。
いつ、何処で。
誰の側に居た時に感じたものかも定かでは無いのに。
胸を締め付けられる様に愛おしくなる。
皺になると、そんな配慮すら出来ずに私は合わせた上着の見頃を握りしめて居た。
どうしてこんなにも泣きたくなってしまうのだろう。
時折、自分が此処に居て此処に居ない様な妙な感覚にすら陥る時がある。
大切に大切にして来た宝物の様な感情が、抜け落ちてしまった様な。
それは、なんとも言い難い不思議な感覚だった。
雨はまだ止む気配を見せない。
寧ろ一層酷くなるばかりで、車ですらも出掛ける事が億劫となってしまったのか。
いつの間にか、普段ならばそれなりに賑わって居る筈の店舗には閑古鳥が鳴いて居る。
「一つ、提案があるのですが」
「はい?」
「少し行った先が、私の自宅になります。このまま此処に居たら本当に風邪を引きかねない。アナタが良ければ、一先ず場所を変えませんか」
つまり、それは今から七海さんの自宅に来ないかと誘われて居るのだろうか。
確かにこの雨が止むにはまだまだ時間が掛かりそうで、ずっと此処に身を置く訳にも行かない。
しかし、幾ら少しばかり親しくなったと言ってもこんな姿で家に上がり込んでしまうのは気が引ける。
何より、もしも七海さんに恋人が居たりしたら……。
きっと彼が善意を持って掛けてくれた言葉に、いい感情は抱かないだろう。
七海さんに下心が無くとも、私はこの人に淡い思いを抱いて居るのだから。
「それは……すみません。そこまでご迷惑をお掛けできません。誰か、迎えに来てくれる人を探すので……」
「でしたら、その人が来るまで私もこの場に残ります」
「でもっ」
「アナタを一人で置いて帰ったとして、きっと気が気でない。それに、こんなに震えて居る女性を一人で放り投げる事は私の道理に反する。何より、家入さんや五条さんにでも知られたら、メスと拳が飛んできます。灰原にも面目が立たない。私の身の安全の為にも、此処は折れて下さい」
それ以上何を言っても、考えを変えないと言う強い意志が伺えて、私は言葉を詰まらせた。
それなのに、向けられる視線が何処までも優しくて。
錯覚しそうになってしまう。
何より、私に良くしてくれる人達の名前を出されては断るに断れない。
再度七海さんに視線を向けると、大丈夫だと言い聞かせる様に細まった翠眼に私は頷くしかなかった。
肩を抱き寄せられ、呼吸が止まりそうなる。
遠くを見つめる視線は既視感を抱かせ、ほんの僅か。
雨足が弱まった瞬間を見計らったかの様に、七海さんが私の肩に掛けた上着を頭上で広げた。
「少し急ぎます。ですが、無理はしないで下さい」
その言葉の端端には常に私を気遣う優しさが感じられた。
足早ではあったものの、決して私がついて行けない速さではなく、一人ならばもっと早く辿り着けるであろう道程は始終私に合わせたものだった様に思う。
たどり着いたのは、近所でも一等目立つマンションだった。
どんな人が住むのかと好奇心から職場の同僚と話した事もあり、エントランスはまるでホテルの待合室を思わせる。
思わず辺りを見回したくなる衝動を堪え、床を汚してしまう事に胸の内で謝罪の言葉を紡ぎながら私達はエレベーターに乗り込んだ。
ポタポタと零れ落ちる雫の音が、やけに鮮明に聞こえる。
目的の階層まで辿り着く僅かな時間が、私にとってはこの上なく長く感じて。
早鐘の様に打つ心臓の音が七海さんに聞こえてしまわない事をただ祈った。
「此処です。行きましょう」
優しく腕を引かれると、雨模様な事が残念だと思える程の街並みが覗く。
きっとのんびり夜景を楽しむのならば、これ以上の場所は無いだろう。
立ち止まった一室の前。
七海さんは慣れた手付きで鍵を開けた。
玄関は家の顔と言われるけれど、無駄なもの一つない綺麗な空間は男の人が一人暮らしをして居るものとは思えず、思わず尻込みする。
しかし、態々言及する事も躊躇われ、開いた扉を一歩進む事が出来ない。
そんな様子に七海さんは訝しげな顔をした。
此処まで来ておきながら今更かと言われて居る様にも思えて視線が泳ぐ。
自然と顔は俯き、言葉が喉の奥で滞留していた。
「……何か心配事がある様でしたら、誓って何もしません。不安でしたら、誰かと連絡を取り合って貰って構いませんし、もし恋人に誤解されると考えて居る様でしたら後ほどちゃんと説明をします」
「いえっ!!そう言う訳では……」
思わず伏せた顔を上げると、そこにはただ私の身を心配してくれる七海さんの姿があった。
優しい声は私に安堵を齎す。
同時にこんなにも有難い申し出を素直に受け入れられない自分が憎らしい。
私の事ではなく、七海さんの方が大丈夫なのかと。
それを聞きたいのに、どう言葉にすれば良いのか。
一先ず玄関に入る事を促される。
やっとの思いで一歩踏み出すと、七海さんは慌ただしく室内へと消えたかと思いきや、自身のことをほったらかしにしてバスタオルを私に覆い被せる。
「一先ず、使って下さい。その姿ではタクシーにも乗れないでしょう」
「……すみません」
「いえ。アナタが風邪を引かないかが心配なだけです。警戒する気持ちは分かります。ですが、せめて今の状態を何とかしましょう。帰りはちゃんと送り届けますから」
タオルの上から七海さんが自身の手を置いた。
まるで頭を撫でられて居る様に感じるのは、その手つきがあまりにも優しかったからなのか。
誤解されたままになる事が心苦しい。
縋るように伸ばした手が、七海さんの身体に張り付いた服を掴む。
小さく頭を張って必死に今し方彼が告げた言葉に否定の意思を示した。
止まった私の手の代わりに、無骨な手がまるで愛おしい人に触れるかのように髪に触れる。
先程より姿だけは幾分かましになったものの、私達の足元にはすっかり淀みが生まれていた。
「あの、そうじゃないんです……。その、七海さんに、もしお付き合いして居る人がいたら。その人に申し訳が立たなくて……。こんなに良くして貰って居るのに七海さんを警戒するとか、そう言った事は無いんです。それに、七海さんこそ早くお風呂に入らないと風邪を引いてしまうから……」
意を決して言葉を紡ぎ出せば、それは留まることを忘れ、濁流の様に押し寄せる。
辿々しくも堰を切ったように溢れ、一方的な私の言葉をただ受け止めてくれた。
タオル越しに頬を包み込まれた様な気がする。
ゆっくり引き上げられた己の顔は七海さんと視線を絡め、ゆっくりと細まる翠眼の美しさに人知れず息を呑む。
私の友人にも身内にも、異国の血の混じる人は存在しない。
それなのにこの色を、私は知って居る気がした。
散ち際に新たに芽吹く、桜の若葉の様な優しい色を。
「心配には及びません。見ての通り私は元々が頑丈ですから。それと、お気遣いありがとうございます。ですが、生憎私にはそんな良い人は居ませんよ」
「……えっ」
「意外でしたか?ですから、アナタが憂う様な事は何もありません」
その時の七海さんの表情は少し意地悪で、自嘲気味と言った言葉が適切だった様に思う。
幾度か聞いた事のある五条さんや夏油さんの話の様に不特定多数の人と浮名を流す様なタイプには見えない。
きっとただ一人、その心の中に入れた人を大切に慈しむとさえ思えるのに、こんなに素敵な人が恋人の一人もいな居ないなんて。
余程世間の女性は見る目がないのか。
はたまた何か別の理由があるのか。
新たな疑問は浮かび上がるものの、胸の支えは取れたからか。
小さくくしゃみをした私の身体を七海さんはタオルで包み込んだ。
「お風呂を沸かしてあります。風邪を引く前に温まって来て下さい」
「すみません、お言葉に甘えさせて頂きます」
本来ならば部屋の主人を差し置いて私がバスルームを占拠してしまう事は憚られた。
しかし、この一点において彼はどうしても譲ってくれるつもりは無いらしく、これ以上の問答は返って七海さんを困らせてしまうだけなのだろう。
差し出された手に自身の手を重ねた。
小さく呟いたお邪魔しますの声に、七海さんは何故か嬉しそうに顔を綻ばせ。
着替えと共にバスルームに誘われた私は、現状が把握しきれず。
暫し現を抜かしていた。
会う毎に、相手の事を一つ知る度に。
いっそ不気味な程に、私は七海さんという存在に惹かれて居る事を自覚せざるを得ない。
未だ私達の不思議な偶然は続いたまま、つい先日もお気に入りのカフェで七海さんに出会して。
店内が混み合って来た事もあり、相席をして共にお茶を楽しんだばかりだった。
仕事中に上の空になってしまう事は無くなったけれど家に帰れば、ふとした時に七海さんの事を考えてしまう。
ほんの少し、相手が微笑むだけで私の胸が歓喜に湧く。
少しでも長く一緒に居たいのだと。
こんなにも切に願い、相手の一挙一動に心を乱されるなんて、これまでに経験のない事だった。
しかし、今の私には新たに全く別の問題が出来てしまった。
終業時間が近づくにつれて溜息が漏れる。
携帯を眺める事が酷く億劫になり、何かしらの連絡がやってくると途端に己の表情が曇った。
その理由は、数ヶ月前に別れた恋人から今になって復縁したいとひっきりなしに連絡が来る様になったからだ。
どうやら、最後に私と会った時。
共に賑わう街中へと繰り出した女性とは上手くいかなかったのだろう。
料理も上手くない。
部屋も片付けてはくれないと愚痴の様な文言がつらつらと並び、真実の愛は此処にあったのだと歯の浮く様な台詞が送られてくる度に私は疲弊した。
どうやら彼の言う愛と言うものは、身の回りの世話をしてくれたら与えられるもので。
身を焦がす様な想いとは無縁のものらしい。
辛辣とは思うものの、既に別れた相手だ。
いっそブロックして仕舞えば事は簡単だったのだろう。
しかし、自宅は勿論、職場すらも知られており、押しかけられでもすれば一人で対処するのは難しくなる。
気分転換も兼ねてぼんやりと考えて居た筈の引越しは急務となり、ここ最近の私は帰宅すると良い物件は無いものかと不動産を眺める日々ばかりを送って居る。
誰かに相談するにも、どう切り出せば良いものかと悩み、ここ数日は常に先日とは別の意味で心が落ち着かない。
ふと己の定位置から外の景色を見渡すと今にも泣き出しそうな曇天が広がり、梅雨の気配を感じさせる。
今日は買い物に行こうかと考えて居たけれど、それは後日にするしか無さそうで。
天気予報が外れたからか。
同僚達は足早に帰路に着き、最後の一人となった私は家入さんに声を掛けてから慌ただしく職場を後にした。
「……降ってきちゃった」
しかし、職場を出てものの数分。
一層暗くなった空は夕暮れ時の夜道では不気味さを伴った。
頬に冷たい雫が舞い落ち、それは直様本降りの雨へと変わっていく。
小走りになりながら雨宿りできる場所を探す間にも雨足はどんどん強まり、やっと近所のコンビニに辿り着くかどうかという頃には、私はすっかり濡れ鼠へと変わり果てて居た。
傘を買おうにもこんな姿では目の前のコンビニにすら入る事を躊躇う。
かと言って、タクシーが通る様な道でも無く。
自宅は徒歩圏内ではあるものの、この中を数十分も歩くのは困難だ。
診療所に引き返せば家入さんに迷惑を掛けてしまうのは確実で。
せめてもう少し小降りになるまで、雨宿りさせてもらうしか無いだろう。
すっかり冷えてしまった身体が震え、縮こまる。
目の前を走り抜けていく人達はきっと家が近いのだろうか。
買い物を終えた筈の人が傘を求めて店内に舞い戻る。
こんな時、気兼ねなく頼れる人がいないと言うのは些か心細い。
私同様雨を凌ぐためにやって来た人の姿に思わず目を瞬かせた。
「……如月さん?」
「あ、七海さん。こんばんわ」
陽に照らされると眩いばかりに光る髪が、今は雫を滴らせて居た。
きっと同じ様に帰宅途中に降られてしまったのだろう。
それなのに元が美丈夫だからか。
こんな時でさえ、絵画を見て居る様な錯覚を齎した。
少しばかり不安に苛まれた胸が、隣に七海さんが居ると言うだけで凪いだ気がする。
言葉を交わすことが無くても、触れるかどうかの距離に居るだけで鼓動が高鳴った。
同時に、こんなみすぼらしい姿を晒して居ることが情けなくて。
折角なら何か話せたらと思うのに、卑屈な心が邪魔をする。
寒さは限界を迎え、上着の一枚でも持っていなかった事を後悔しそうになる。
意図せず小さなくしゃみが出て、気恥ずかしさを覚えると、七海さんは徐に自身の上着を脱ぎ始め、私の肩にそっと掛けた。
「着ていてください」
「……でも」
「若い女性がいつまでもそんな姿であるものではありません。それに、顔色も良くない。こんなものでも、無いよりはマシな筈です」
「すみません。……ありがとうございます」
ただ申し訳なさが募る中。
まるで私を包み込む様に七海さんの上着が僅かな温もりを与えてくれた。
雨に濡れていても、仄かに香るのは香水だろうか。
色香さえ感じさせるそれは七海さんの印象に良く似合い、何処か懐かしい。
昔と言うには曖昧過ぎる。
けれど、私はこの香りを良く知って居る様な気がした。
大好きだった筈だ。
その空気に包まれて居る時の私は、自分が誰よりも何よりも幸せだったと言える程に。
いつ、何処で。
誰の側に居た時に感じたものかも定かでは無いのに。
胸を締め付けられる様に愛おしくなる。
皺になると、そんな配慮すら出来ずに私は合わせた上着の見頃を握りしめて居た。
どうしてこんなにも泣きたくなってしまうのだろう。
時折、自分が此処に居て此処に居ない様な妙な感覚にすら陥る時がある。
大切に大切にして来た宝物の様な感情が、抜け落ちてしまった様な。
それは、なんとも言い難い不思議な感覚だった。
雨はまだ止む気配を見せない。
寧ろ一層酷くなるばかりで、車ですらも出掛ける事が億劫となってしまったのか。
いつの間にか、普段ならばそれなりに賑わって居る筈の店舗には閑古鳥が鳴いて居る。
「一つ、提案があるのですが」
「はい?」
「少し行った先が、私の自宅になります。このまま此処に居たら本当に風邪を引きかねない。アナタが良ければ、一先ず場所を変えませんか」
つまり、それは今から七海さんの自宅に来ないかと誘われて居るのだろうか。
確かにこの雨が止むにはまだまだ時間が掛かりそうで、ずっと此処に身を置く訳にも行かない。
しかし、幾ら少しばかり親しくなったと言ってもこんな姿で家に上がり込んでしまうのは気が引ける。
何より、もしも七海さんに恋人が居たりしたら……。
きっと彼が善意を持って掛けてくれた言葉に、いい感情は抱かないだろう。
七海さんに下心が無くとも、私はこの人に淡い思いを抱いて居るのだから。
「それは……すみません。そこまでご迷惑をお掛けできません。誰か、迎えに来てくれる人を探すので……」
「でしたら、その人が来るまで私もこの場に残ります」
「でもっ」
「アナタを一人で置いて帰ったとして、きっと気が気でない。それに、こんなに震えて居る女性を一人で放り投げる事は私の道理に反する。何より、家入さんや五条さんにでも知られたら、メスと拳が飛んできます。灰原にも面目が立たない。私の身の安全の為にも、此処は折れて下さい」
それ以上何を言っても、考えを変えないと言う強い意志が伺えて、私は言葉を詰まらせた。
それなのに、向けられる視線が何処までも優しくて。
錯覚しそうになってしまう。
何より、私に良くしてくれる人達の名前を出されては断るに断れない。
再度七海さんに視線を向けると、大丈夫だと言い聞かせる様に細まった翠眼に私は頷くしかなかった。
肩を抱き寄せられ、呼吸が止まりそうなる。
遠くを見つめる視線は既視感を抱かせ、ほんの僅か。
雨足が弱まった瞬間を見計らったかの様に、七海さんが私の肩に掛けた上着を頭上で広げた。
「少し急ぎます。ですが、無理はしないで下さい」
その言葉の端端には常に私を気遣う優しさが感じられた。
足早ではあったものの、決して私がついて行けない速さではなく、一人ならばもっと早く辿り着けるであろう道程は始終私に合わせたものだった様に思う。
たどり着いたのは、近所でも一等目立つマンションだった。
どんな人が住むのかと好奇心から職場の同僚と話した事もあり、エントランスはまるでホテルの待合室を思わせる。
思わず辺りを見回したくなる衝動を堪え、床を汚してしまう事に胸の内で謝罪の言葉を紡ぎながら私達はエレベーターに乗り込んだ。
ポタポタと零れ落ちる雫の音が、やけに鮮明に聞こえる。
目的の階層まで辿り着く僅かな時間が、私にとってはこの上なく長く感じて。
早鐘の様に打つ心臓の音が七海さんに聞こえてしまわない事をただ祈った。
「此処です。行きましょう」
優しく腕を引かれると、雨模様な事が残念だと思える程の街並みが覗く。
きっとのんびり夜景を楽しむのならば、これ以上の場所は無いだろう。
立ち止まった一室の前。
七海さんは慣れた手付きで鍵を開けた。
玄関は家の顔と言われるけれど、無駄なもの一つない綺麗な空間は男の人が一人暮らしをして居るものとは思えず、思わず尻込みする。
しかし、態々言及する事も躊躇われ、開いた扉を一歩進む事が出来ない。
そんな様子に七海さんは訝しげな顔をした。
此処まで来ておきながら今更かと言われて居る様にも思えて視線が泳ぐ。
自然と顔は俯き、言葉が喉の奥で滞留していた。
「……何か心配事がある様でしたら、誓って何もしません。不安でしたら、誰かと連絡を取り合って貰って構いませんし、もし恋人に誤解されると考えて居る様でしたら後ほどちゃんと説明をします」
「いえっ!!そう言う訳では……」
思わず伏せた顔を上げると、そこにはただ私の身を心配してくれる七海さんの姿があった。
優しい声は私に安堵を齎す。
同時にこんなにも有難い申し出を素直に受け入れられない自分が憎らしい。
私の事ではなく、七海さんの方が大丈夫なのかと。
それを聞きたいのに、どう言葉にすれば良いのか。
一先ず玄関に入る事を促される。
やっとの思いで一歩踏み出すと、七海さんは慌ただしく室内へと消えたかと思いきや、自身のことをほったらかしにしてバスタオルを私に覆い被せる。
「一先ず、使って下さい。その姿ではタクシーにも乗れないでしょう」
「……すみません」
「いえ。アナタが風邪を引かないかが心配なだけです。警戒する気持ちは分かります。ですが、せめて今の状態を何とかしましょう。帰りはちゃんと送り届けますから」
タオルの上から七海さんが自身の手を置いた。
まるで頭を撫でられて居る様に感じるのは、その手つきがあまりにも優しかったからなのか。
誤解されたままになる事が心苦しい。
縋るように伸ばした手が、七海さんの身体に張り付いた服を掴む。
小さく頭を張って必死に今し方彼が告げた言葉に否定の意思を示した。
止まった私の手の代わりに、無骨な手がまるで愛おしい人に触れるかのように髪に触れる。
先程より姿だけは幾分かましになったものの、私達の足元にはすっかり淀みが生まれていた。
「あの、そうじゃないんです……。その、七海さんに、もしお付き合いして居る人がいたら。その人に申し訳が立たなくて……。こんなに良くして貰って居るのに七海さんを警戒するとか、そう言った事は無いんです。それに、七海さんこそ早くお風呂に入らないと風邪を引いてしまうから……」
意を決して言葉を紡ぎ出せば、それは留まることを忘れ、濁流の様に押し寄せる。
辿々しくも堰を切ったように溢れ、一方的な私の言葉をただ受け止めてくれた。
タオル越しに頬を包み込まれた様な気がする。
ゆっくり引き上げられた己の顔は七海さんと視線を絡め、ゆっくりと細まる翠眼の美しさに人知れず息を呑む。
私の友人にも身内にも、異国の血の混じる人は存在しない。
それなのにこの色を、私は知って居る気がした。
散ち際に新たに芽吹く、桜の若葉の様な優しい色を。
「心配には及びません。見ての通り私は元々が頑丈ですから。それと、お気遣いありがとうございます。ですが、生憎私にはそんな良い人は居ませんよ」
「……えっ」
「意外でしたか?ですから、アナタが憂う様な事は何もありません」
その時の七海さんの表情は少し意地悪で、自嘲気味と言った言葉が適切だった様に思う。
幾度か聞いた事のある五条さんや夏油さんの話の様に不特定多数の人と浮名を流す様なタイプには見えない。
きっとただ一人、その心の中に入れた人を大切に慈しむとさえ思えるのに、こんなに素敵な人が恋人の一人もいな居ないなんて。
余程世間の女性は見る目がないのか。
はたまた何か別の理由があるのか。
新たな疑問は浮かび上がるものの、胸の支えは取れたからか。
小さくくしゃみをした私の身体を七海さんはタオルで包み込んだ。
「お風呂を沸かしてあります。風邪を引く前に温まって来て下さい」
「すみません、お言葉に甘えさせて頂きます」
本来ならば部屋の主人を差し置いて私がバスルームを占拠してしまう事は憚られた。
しかし、この一点において彼はどうしても譲ってくれるつもりは無いらしく、これ以上の問答は返って七海さんを困らせてしまうだけなのだろう。
差し出された手に自身の手を重ねた。
小さく呟いたお邪魔しますの声に、七海さんは何故か嬉しそうに顔を綻ばせ。
着替えと共にバスルームに誘われた私は、現状が把握しきれず。
暫し現を抜かしていた。