愛と言う名の咎
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
一睡もする事が出来ず、静かに涙をこぼし続けた私はカーテン越しに差し込んだ光を見て今が朝なのだとやっと気がづいた。
鈍い動きでスマホに手を伸ばして五条さんからの連絡を確認してみたもののそれらしきものは入っておらず、未だ昨夜のことが現実だとは受け入れ難い。
…医務室に行くべきか。
それよりも、建人さんはあの後大丈夫だったのだろうか。
私達の目には明らかに異常としか見受けられない態度や視線は、本当に彼のものだったのだろうかと疑問が過ぎるのに…。
まるで鋭利なナイフで突き刺されたかのように胸が痛み、それが嘘ではない事を暗示していた。
「…建人さん」
誰にも届く筈のない、か細い声は部屋の静寂に溶けて消えた。
鏡を見れば信じられないほどに浮腫み酷い有様の自分の顔が覗き、いっそ叩き割ってやろうかと思うほどに今の私の心は荒んでいる。
それでも今日も任務の予定はあり、自身の仕事は行わなければならない。
付け焼き刃でも顔をどうにかしなければ外にすら出られないと、タオルで包んだ保冷剤を目元に押し当てているとその冷たさからか…。
少しだけ気持ちが落ち着いた気がする。
残った腫れはメイクで何とか誤魔化せるだろうか。
本来ならば夕食も取り損ねた私の身体は空腹を訴えていてもおかしくは無いのに、何かを食べる気も起きず使い慣れたメイク道具に手を伸ばした時だった。
「真那、少し良いか?」
部屋の扉を叩く音が聞こえ、女性のものと思しき声の主は家入さんだろう。
あの後、一体建人さんとどんな話をしたのか。
本音を言えば聞くのが怖くて仕方がない。
けれど…彼の身になにが起こっているのか知らなければ、私自身が到底納得など出来ない。
どうぞ、と短く返事をするとビニール袋を片手に下げた家入さんは複雑そうな顔をして私の方に視線を向けた。
「何にも食べてないんだろ。少しでも腹に入れないと持たないぞ」
「…ダイエット中、なんです」
「医師としてはお勧めしないやり方だな。少し…話をしようか」
ベッドに座り込んだ家入さんはその隣をポンポンと叩き、私はメイクをしようとした手を止めて彼女の元へと歩み寄った。
まずは何か腹に入れろと言われたものの、飲みやすいゼリー飲料でさえ今の私の身体は受け付けてくれそうなく、申し訳なさを覚えながらも私は緩く首を振る。
後で一つでも良いから食べておけと念を押されてやっとの思いで頷くと、家入さんは躊躇いながらも昨日の出来事をぽつりぽつりと話し始めていく。
「七海の事なんだが…」
「建人さんは、彼は大丈夫なんですか…?」
彼の名前を聞いただけで、私は家入さんに縋り付くように白衣の袖を掴んでいた。
どう考えても普通では無い状況は或いは何かの呪いに当てられてしまった可能性も多いに有り得る。
本人の自覚無しに進行する呪詛や、他の可能性も捨て去る事は出来ず、私が彼女の言葉を待っていると家入さんの手は私の手を強く、強く握りしめていた。
「日常生活に問題はない。ただ…」
「何、ですか…」
「真那とのこれまでの記憶、育んできた感情だけが無いんだ。
信じ難い話だし、私もこれまでに聞いたことしか無いんだが忘愛症候群…。恐らく七海の症状はそれだと判断した」
「そんな…」
家入さんの言葉に、私はまるで頭を鈍器で殴られかのような衝撃を覚えた。
座ったままなのに視界はぐるぐると回転し、今にも倒れ込みそうになるところを支えられると少しずつ、その病について説明がされていく。
忘愛症候群とは愛した者を拒絶するようになる病であり、愛する者に対する愛情や記憶の一切を失ってしまうのだと言う。
例外なく愛する者を嫌悪し、拒絶する病は、一から新しい関係を築こうとしても一度罹患してまうと何度でも繰り返してしまうという厄介な特徴を持ち、仮に建人さんがそうだとすれば…昨日の態度も腑に落ちる。
彼はとても愛情深い人だった。
彼の態度が一変してしまったのは病のせいであり、彼の本心では無いということに僅かな安堵を覚えたのかもしれない。
「治す術は、ありますか…?」
「現代の医療でどうこうできるもんじゃ無い。ただ、あるとすれば唯一の方法は…」
そこまで言いかけると家入さんは言い淀んだ。
現代医療でどうしようもないのならば治療の手立てというのは余程難しいという事なのか。
それでも可能性が有るのならば諦める事など出来はしない。
あの人の温もりを…手放したくはないと心の底から願っているのだから。
それなのに、どうしようもなく…彼を愛しているのに。
一縷の望みを賭けた私の想いは、それさえも打ち砕いて行った。
「方法を…教えて下さい」
「愛する者の死だ…」
「……そう、ですか」
「早まった事を考えるんじゃないぞ。今のオマエには酷な言葉だが、耐えてくれ」
何をどう耐えろと言うのだろう。
耐えると言うのは終わりがあるからその期間を凌ぐ為に己に我慢を強いる事であり、この場合終わりとは私の死を意味している。
どうしようもない現実だけが浮き彫りとなり己に襲い掛かった。
つい先日まで描いていた、この先にある幸せな未来が突然…何の前触れも無しに奪われた挙句、最愛の人が自分との思い出を全て消し去ってしまったのだから。
「仮にそうしたとすれば、建人さんは全てを思い出してくれますか?それと、この病気は他に合併症などは…」
「そうだな。今のところそれしか治療方法と呼べるものが無い。極めて稀な病だから事例が少なすぎるが、日常生活には問題はない筈だ。…ただ、オマエにはきっと辛い日々が待ってる」
辛いなんて言葉で括れるものではなかった。
思い出も、約束も、未来さえも…。
全てを一瞬にして無くしてしまった。
治す手段と呼べるものは、対象となる愛するものの死しかないと言う無慈悲なもので、私の中には喪失感と共に諦めにも似た感情が芽生えていく。
「そうですか…よかった。…それなら、もういいです」
「真那?」
「私を忘れた事以外は、問題…無いんですよね?何処か悪くなったり、呪術師として支障をきたす様な事は、無いんです、よね…?」
ハラハラと流れ始めた涙は彼の私生活には影響がない方に対する安堵か。
もう二度と手が届かないのだと理解してしまった幸せに対する絶望か。
取り乱してもおかしくは無いであろう現状。
それなのに私の顔には笑みさえ浮かんでおり家入さんからすれば、さぞ今の私の姿は異質に見えた事だろう。
「…死に、ません。死ねません…。私が死んで、建人さんが全部思い出したとしても、その時に私はもう居ないんですよ?
彼は愛情深くて、優しくて…。結婚、式…楽しみにしてくれていたんです。ドレスが綺麗だねって、とても良く似合って居ると褒めてくれたんです。
だからきっと思い出しても自分を責めてしまう。それなのに、私には抱きしめることも寄り添う事も出来ないんです。
…よかったです。他に障害が無いなら…私はあの幸せを宝物にしていけば良い。私が耐えれば…全てが上手く行く」
「オマエ…」
「そうするしか無いんです!!!だって…こんなの誰も、悪くない…ッ」
こんな事ならいっそ私も忘れて仕舞えば楽になれるのだろうかとさえ考えてしまった。
善と悪、白と黒、加害者と被害者という枠に収めてしまえたらどれ程楽だっただろうか。
建人さんは望まぬ病に犯され、その症状は幸か不幸か私を忘れてしまったと言うことだけ。
唯一の治療法はあっても、その後の彼がどうなってしまうかを考えたら…試す事など出来はしない。
一時の幸せな夢を見たのだと。
己の中でそう言い聞かせてしまうしかないのだ。
悲嘆に暮れることはない。
彼は生きているし、ちゃんとこの世界に存在している。
これからも呪術師として前線に立ち、存分にその力を発揮し、仲間と共に歩んで行く。
…ただ。
ただ、彼の世界から私が居なくなってしまっただけの話なのだから…。
「これしか…無いんです…」
あんまりだと思う。
こんな無慈悲な仕打ち…本当にいっそ死んでしまいたいという気持ちが芽生えたとしても当然だ。
それでも、出来はしない。
確かに私は愛されていた。
これでもかというほどに惜しみない愛情を彼に注いでもらっていた。
私が死に彼が病から解放されたとして、その後にはどれ程嘆く事だろう。
…どれほど、己を責める事だろう。
私にできる事は、彼の平穏な日常と幸せを願うだけ。
それしか…私には出来ない。
「大丈夫です…わた、しは…大丈夫」
「もういい。今は存分に悲しんで良い。泣いて良い、ここには私しか居ない」
その言葉に触発されたのか、家入さんの温もりを感じたからか。
枯れるほど泣いたはずの私の瞼は熱くなり、口からは堪えきれない嗚咽が漏れる。
みっともなく声を上げて、もう答えてくれるはずなどないのに彼の名前を呼び続け、何故こんなことになってしまったのかと…不条理な現実を呪い続けた。
季節は十月…。
繁忙期を終えて、年末の忙しい合間を縫いながら近づいてくる幸せな日々を噛み締めるはずだった。
…私達のこれからの予定は、全て白に塗り替えられてしまった。
何かに突き刺されるように痛む胸は同時に途方もない虚無感を齎し、大丈夫だと譫言のように自分に向けて繰り返す側で生きる意味さえ失ってしまったように感じた。
何もかも…それこそ大切に大切に抱えていた全てを失ってしまったと言えるほどの大き過ぎる喪失感。
泣き続けた私の声はやがて音さえ発さなくなり、全身の水分を出し切るのではないかと思えるほどに零した涙は家入さんの白衣の色を大きく変えてしまっていた。
「すみ、ません…」
「少しは落ち着けたか?勝手をしたが伊地知には事情を話してある、学長にもな。私達出来ることは少ないが力にはなるから…」
「ありがとう、ございます」
学長、伊地知さん、家入さん、五条さん。
彼らは私達の結婚式の招待客であり、高専時代から私達の事を知る数少ない人達だった。
本来ならば昨日は建人さんと彼らの元を訪れ、式への参加をお願いする筈だったのに…。
もう不要となってしまった招待状は私の鞄に押し込められたまま、二度と誰かの手に渡る事はないのだろう。
そうしてふと部屋の中を見渡すと、何度も針で指を刺しながら作ったウェディングサテンとレースをあしらったリングピローも。
デザインに試行錯誤して、連日のように手芸店に通い詰めながら作ったウェルカムボードも…。
全て使われることのない不用品となってしまった事を改めて思い知った。
「…一つ、お願いをして良いですか」
「言ってくれ」
「建人さんの家に、私の私物が幾つかあるんです。捨てられてしまう前に…預かって来ては貰えませんか。すみません、今の彼に…会う勇気が、無いんです」
震えながら紡いだ私の言葉に家入さんは何の躊躇いもなく頷いてくれた。
私物の中には泊まりになった時のための衣類から、捨てられてしまったら困るような彼からの大切な贈り物まで含まれて居り、あれほど顕著に感情を露わにした姿を見てしまった後では…すぐに処分されてしまうのでは無いかと気が焦っていた。
昨日、私の手を跳ね除けた彼の姿が脳裏を過ぎる。
決して人を色眼鏡で見るような事をしない彼が、私の姿を見るなり不愉快極まりないとその表情を歪めた。
それは今となれば忘愛症候群によるものだと合点が行く。
気安く触れるなという態度も、辛辣な言葉も…なにもかも。
五条さんに絡まれて触らないで下さい、離れて下さいなんて言うのとは訳が違う。
その行動、言葉は彼が信頼を置いて居る人に対して使うもので有り、そうでなければ彼は自身に触れることすら許しはしないだろう。
そして今の私はその中でも、極端に彼の嫌悪と憎悪を掻き立てる対象なのだから。
常に冷静であれ。
状況を見極めて呪術師にとって最善のサポートを。
そう己に言い聞かせて来た私の頭は事務的に起こった出来事を処理し始めている。
しかし、心はどうしようもなくその現実を拒んでいた。
胸が張り裂けそうなほどに痛み、呼吸すら儘ならない。
どうして…貴方だったのでしょうか。
諦めるしかないのだと分かっていても、心はそう簡単に切り替わってくれるものではない。
粉々に砕けてしまった幸せの欠片を必死に掻き集めて繋ぎ合わせても…もう二度と元の形には戻ってくれないと言うことだけは理解出来るのに…。
瞼を閉じれば柔らかく微笑む貴方が、私を見つめているの。
鈍い動きでスマホに手を伸ばして五条さんからの連絡を確認してみたもののそれらしきものは入っておらず、未だ昨夜のことが現実だとは受け入れ難い。
…医務室に行くべきか。
それよりも、建人さんはあの後大丈夫だったのだろうか。
私達の目には明らかに異常としか見受けられない態度や視線は、本当に彼のものだったのだろうかと疑問が過ぎるのに…。
まるで鋭利なナイフで突き刺されたかのように胸が痛み、それが嘘ではない事を暗示していた。
「…建人さん」
誰にも届く筈のない、か細い声は部屋の静寂に溶けて消えた。
鏡を見れば信じられないほどに浮腫み酷い有様の自分の顔が覗き、いっそ叩き割ってやろうかと思うほどに今の私の心は荒んでいる。
それでも今日も任務の予定はあり、自身の仕事は行わなければならない。
付け焼き刃でも顔をどうにかしなければ外にすら出られないと、タオルで包んだ保冷剤を目元に押し当てているとその冷たさからか…。
少しだけ気持ちが落ち着いた気がする。
残った腫れはメイクで何とか誤魔化せるだろうか。
本来ならば夕食も取り損ねた私の身体は空腹を訴えていてもおかしくは無いのに、何かを食べる気も起きず使い慣れたメイク道具に手を伸ばした時だった。
「真那、少し良いか?」
部屋の扉を叩く音が聞こえ、女性のものと思しき声の主は家入さんだろう。
あの後、一体建人さんとどんな話をしたのか。
本音を言えば聞くのが怖くて仕方がない。
けれど…彼の身になにが起こっているのか知らなければ、私自身が到底納得など出来ない。
どうぞ、と短く返事をするとビニール袋を片手に下げた家入さんは複雑そうな顔をして私の方に視線を向けた。
「何にも食べてないんだろ。少しでも腹に入れないと持たないぞ」
「…ダイエット中、なんです」
「医師としてはお勧めしないやり方だな。少し…話をしようか」
ベッドに座り込んだ家入さんはその隣をポンポンと叩き、私はメイクをしようとした手を止めて彼女の元へと歩み寄った。
まずは何か腹に入れろと言われたものの、飲みやすいゼリー飲料でさえ今の私の身体は受け付けてくれそうなく、申し訳なさを覚えながらも私は緩く首を振る。
後で一つでも良いから食べておけと念を押されてやっとの思いで頷くと、家入さんは躊躇いながらも昨日の出来事をぽつりぽつりと話し始めていく。
「七海の事なんだが…」
「建人さんは、彼は大丈夫なんですか…?」
彼の名前を聞いただけで、私は家入さんに縋り付くように白衣の袖を掴んでいた。
どう考えても普通では無い状況は或いは何かの呪いに当てられてしまった可能性も多いに有り得る。
本人の自覚無しに進行する呪詛や、他の可能性も捨て去る事は出来ず、私が彼女の言葉を待っていると家入さんの手は私の手を強く、強く握りしめていた。
「日常生活に問題はない。ただ…」
「何、ですか…」
「真那とのこれまでの記憶、育んできた感情だけが無いんだ。
信じ難い話だし、私もこれまでに聞いたことしか無いんだが忘愛症候群…。恐らく七海の症状はそれだと判断した」
「そんな…」
家入さんの言葉に、私はまるで頭を鈍器で殴られかのような衝撃を覚えた。
座ったままなのに視界はぐるぐると回転し、今にも倒れ込みそうになるところを支えられると少しずつ、その病について説明がされていく。
忘愛症候群とは愛した者を拒絶するようになる病であり、愛する者に対する愛情や記憶の一切を失ってしまうのだと言う。
例外なく愛する者を嫌悪し、拒絶する病は、一から新しい関係を築こうとしても一度罹患してまうと何度でも繰り返してしまうという厄介な特徴を持ち、仮に建人さんがそうだとすれば…昨日の態度も腑に落ちる。
彼はとても愛情深い人だった。
彼の態度が一変してしまったのは病のせいであり、彼の本心では無いということに僅かな安堵を覚えたのかもしれない。
「治す術は、ありますか…?」
「現代の医療でどうこうできるもんじゃ無い。ただ、あるとすれば唯一の方法は…」
そこまで言いかけると家入さんは言い淀んだ。
現代医療でどうしようもないのならば治療の手立てというのは余程難しいという事なのか。
それでも可能性が有るのならば諦める事など出来はしない。
あの人の温もりを…手放したくはないと心の底から願っているのだから。
それなのに、どうしようもなく…彼を愛しているのに。
一縷の望みを賭けた私の想いは、それさえも打ち砕いて行った。
「方法を…教えて下さい」
「愛する者の死だ…」
「……そう、ですか」
「早まった事を考えるんじゃないぞ。今のオマエには酷な言葉だが、耐えてくれ」
何をどう耐えろと言うのだろう。
耐えると言うのは終わりがあるからその期間を凌ぐ為に己に我慢を強いる事であり、この場合終わりとは私の死を意味している。
どうしようもない現実だけが浮き彫りとなり己に襲い掛かった。
つい先日まで描いていた、この先にある幸せな未来が突然…何の前触れも無しに奪われた挙句、最愛の人が自分との思い出を全て消し去ってしまったのだから。
「仮にそうしたとすれば、建人さんは全てを思い出してくれますか?それと、この病気は他に合併症などは…」
「そうだな。今のところそれしか治療方法と呼べるものが無い。極めて稀な病だから事例が少なすぎるが、日常生活には問題はない筈だ。…ただ、オマエにはきっと辛い日々が待ってる」
辛いなんて言葉で括れるものではなかった。
思い出も、約束も、未来さえも…。
全てを一瞬にして無くしてしまった。
治す手段と呼べるものは、対象となる愛するものの死しかないと言う無慈悲なもので、私の中には喪失感と共に諦めにも似た感情が芽生えていく。
「そうですか…よかった。…それなら、もういいです」
「真那?」
「私を忘れた事以外は、問題…無いんですよね?何処か悪くなったり、呪術師として支障をきたす様な事は、無いんです、よね…?」
ハラハラと流れ始めた涙は彼の私生活には影響がない方に対する安堵か。
もう二度と手が届かないのだと理解してしまった幸せに対する絶望か。
取り乱してもおかしくは無いであろう現状。
それなのに私の顔には笑みさえ浮かんでおり家入さんからすれば、さぞ今の私の姿は異質に見えた事だろう。
「…死に、ません。死ねません…。私が死んで、建人さんが全部思い出したとしても、その時に私はもう居ないんですよ?
彼は愛情深くて、優しくて…。結婚、式…楽しみにしてくれていたんです。ドレスが綺麗だねって、とても良く似合って居ると褒めてくれたんです。
だからきっと思い出しても自分を責めてしまう。それなのに、私には抱きしめることも寄り添う事も出来ないんです。
…よかったです。他に障害が無いなら…私はあの幸せを宝物にしていけば良い。私が耐えれば…全てが上手く行く」
「オマエ…」
「そうするしか無いんです!!!だって…こんなの誰も、悪くない…ッ」
こんな事ならいっそ私も忘れて仕舞えば楽になれるのだろうかとさえ考えてしまった。
善と悪、白と黒、加害者と被害者という枠に収めてしまえたらどれ程楽だっただろうか。
建人さんは望まぬ病に犯され、その症状は幸か不幸か私を忘れてしまったと言うことだけ。
唯一の治療法はあっても、その後の彼がどうなってしまうかを考えたら…試す事など出来はしない。
一時の幸せな夢を見たのだと。
己の中でそう言い聞かせてしまうしかないのだ。
悲嘆に暮れることはない。
彼は生きているし、ちゃんとこの世界に存在している。
これからも呪術師として前線に立ち、存分にその力を発揮し、仲間と共に歩んで行く。
…ただ。
ただ、彼の世界から私が居なくなってしまっただけの話なのだから…。
「これしか…無いんです…」
あんまりだと思う。
こんな無慈悲な仕打ち…本当にいっそ死んでしまいたいという気持ちが芽生えたとしても当然だ。
それでも、出来はしない。
確かに私は愛されていた。
これでもかというほどに惜しみない愛情を彼に注いでもらっていた。
私が死に彼が病から解放されたとして、その後にはどれ程嘆く事だろう。
…どれほど、己を責める事だろう。
私にできる事は、彼の平穏な日常と幸せを願うだけ。
それしか…私には出来ない。
「大丈夫です…わた、しは…大丈夫」
「もういい。今は存分に悲しんで良い。泣いて良い、ここには私しか居ない」
その言葉に触発されたのか、家入さんの温もりを感じたからか。
枯れるほど泣いたはずの私の瞼は熱くなり、口からは堪えきれない嗚咽が漏れる。
みっともなく声を上げて、もう答えてくれるはずなどないのに彼の名前を呼び続け、何故こんなことになってしまったのかと…不条理な現実を呪い続けた。
季節は十月…。
繁忙期を終えて、年末の忙しい合間を縫いながら近づいてくる幸せな日々を噛み締めるはずだった。
…私達のこれからの予定は、全て白に塗り替えられてしまった。
何かに突き刺されるように痛む胸は同時に途方もない虚無感を齎し、大丈夫だと譫言のように自分に向けて繰り返す側で生きる意味さえ失ってしまったように感じた。
何もかも…それこそ大切に大切に抱えていた全てを失ってしまったと言えるほどの大き過ぎる喪失感。
泣き続けた私の声はやがて音さえ発さなくなり、全身の水分を出し切るのではないかと思えるほどに零した涙は家入さんの白衣の色を大きく変えてしまっていた。
「すみ、ません…」
「少しは落ち着けたか?勝手をしたが伊地知には事情を話してある、学長にもな。私達出来ることは少ないが力にはなるから…」
「ありがとう、ございます」
学長、伊地知さん、家入さん、五条さん。
彼らは私達の結婚式の招待客であり、高専時代から私達の事を知る数少ない人達だった。
本来ならば昨日は建人さんと彼らの元を訪れ、式への参加をお願いする筈だったのに…。
もう不要となってしまった招待状は私の鞄に押し込められたまま、二度と誰かの手に渡る事はないのだろう。
そうしてふと部屋の中を見渡すと、何度も針で指を刺しながら作ったウェディングサテンとレースをあしらったリングピローも。
デザインに試行錯誤して、連日のように手芸店に通い詰めながら作ったウェルカムボードも…。
全て使われることのない不用品となってしまった事を改めて思い知った。
「…一つ、お願いをして良いですか」
「言ってくれ」
「建人さんの家に、私の私物が幾つかあるんです。捨てられてしまう前に…預かって来ては貰えませんか。すみません、今の彼に…会う勇気が、無いんです」
震えながら紡いだ私の言葉に家入さんは何の躊躇いもなく頷いてくれた。
私物の中には泊まりになった時のための衣類から、捨てられてしまったら困るような彼からの大切な贈り物まで含まれて居り、あれほど顕著に感情を露わにした姿を見てしまった後では…すぐに処分されてしまうのでは無いかと気が焦っていた。
昨日、私の手を跳ね除けた彼の姿が脳裏を過ぎる。
決して人を色眼鏡で見るような事をしない彼が、私の姿を見るなり不愉快極まりないとその表情を歪めた。
それは今となれば忘愛症候群によるものだと合点が行く。
気安く触れるなという態度も、辛辣な言葉も…なにもかも。
五条さんに絡まれて触らないで下さい、離れて下さいなんて言うのとは訳が違う。
その行動、言葉は彼が信頼を置いて居る人に対して使うもので有り、そうでなければ彼は自身に触れることすら許しはしないだろう。
そして今の私はその中でも、極端に彼の嫌悪と憎悪を掻き立てる対象なのだから。
常に冷静であれ。
状況を見極めて呪術師にとって最善のサポートを。
そう己に言い聞かせて来た私の頭は事務的に起こった出来事を処理し始めている。
しかし、心はどうしようもなくその現実を拒んでいた。
胸が張り裂けそうなほどに痛み、呼吸すら儘ならない。
どうして…貴方だったのでしょうか。
諦めるしかないのだと分かっていても、心はそう簡単に切り替わってくれるものではない。
粉々に砕けてしまった幸せの欠片を必死に掻き集めて繋ぎ合わせても…もう二度と元の形には戻ってくれないと言うことだけは理解出来るのに…。
瞼を閉じれば柔らかく微笑む貴方が、私を見つめているの。