永遠という名の愛
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「お大事にどうぞ」
この典型的な病院での言葉を投げかける時。
私はほんの少しでも、その人が早く良くなるように祈る。
それが些細な事であったとしても、此処に訪れる人に向けては何よりの言葉になると信じて居るからだ。
特にそれが小さな子供となると、帰り際に手を振ってくれる姿が可愛らしくて堪らなくなった。
いつだったか私も、小さな我が子の手を引きながら愛する人と共に微笑み合う。
そんな夢を描いて居たようにすら感じる。
しかし、現実の私はほんの数週間前に恋人と別れたばかりで。
そんなものは手の届かない憧憬にも近い。
それなのに、ありもしない未来が身近にあったような錯覚を抱く時がある。
そして、それを失ったかのような途方もない失望感に苛まれる。
つい先日、友人にはことの顛末と謝罪の旨を報告したけれど、どうにも彼女は世話焼きな性格らしく、また良い人が居たら紹介すると妙に張り切った返事を貰ってしまった。
本音は暫くは一人で過ごしたい。
自分の何がいけないのかを見つめ直す必要がある。
誰を、何を求めて居るのか。
恋に恋する様な年齢でもないと言うのに、こうだと描く理想があったのだと頑ななまでに己の心が叫んでいる気がしてならない。
すっかり外の景色は薄暗くなり、混み合って居た待合室も人の姿は疎らとなった。
最後の患者さんを見送り、今日の業務も無事に終わる。
一通り周囲を見渡し、人の姿がない事を確認すると入り口の扉を閉めてブラインドを降ろした。
「終わった終わった。よし、飲むか」
「先生、明日が休みだからってまた飲み過ぎたら駄目ですよ」
仕事モードから一転。
大きく伸びをした家入さんは白衣に手を突っ込みながら、既にこの後の宴の事で頭が一杯らしい。
診療所である以上、年末の様に祝日が重ならない限り連休とは無縁になる。
それは世間が休みとなる週末も同様だ。
その代わり、週も真ん中を過ぎると一日休みがあるのだけれど、案の定休み明けは先日の二の舞になったばかりだ。
しかし、家入さんにとっては存分にお酒を楽しめる事そのものが息抜きと言っても過言では無く、今日は久しぶりにいつもの面子で飲み会が催される事になって居る。
普段から声を上げるのは大概五条さんになるのだけれど、今回に限っては珍しく灰原さんが発起人で。
私の所にもおいでと連絡が届き、色良い返事をした事は記憶に新しい。
「真那はどうする?無理にとは言わないけど、都合がつくならおいで」
「灰原さんからも是非と連絡頂いたので、お邪魔するつもりです。それに、五条さんがうっかりジュースとお酒を間違えて飲まない様にちゃんと見張ってないと」
「違いない。あの時は悲惨だったからな」
いつもながら誰よりも飲んでいたはずなのに記憶が確かな所は流石としか言いようがなく、さして古くもない記憶を辿った私達は互いに苦笑する。
あの時は正に家入さんの言葉通りで、間違えてアルコールを口にしてしまった五条さんが酩酊してしまった。
下戸だとは聞いて居たけれど、私もまさかあそこまでお酒に弱いとは思わず、普段の飄々とした態度は息を潜めて可愛らしいとさえ思えてる程だったのだけれど。
脚元すら覚束ない長身の五条さんをタクシーに押し込むのは一苦労だった。
夏油さんがその場に居なかったら、きっと私達は途方に暮れてしまっただろう。
飲めない訳ではないけれど、さしてお酒が好きな訳でもない私は以来、監視要員にも等しくて。
あの場の空気を存分に楽しませてもらう事にして居る。
そうと決まればそこから先の家入さんの行動は早かった。
最低限だけの業務を熟すと、あっという間に飲みに繰り出す為の支度を始め、その後早さと言ったら普段の倍以上と言っても良い。
「終わったか?何かあるなら手伝うよ」
「大丈夫ですよ。もう終わりました。それに、家入さんの楽しみを奪う訳にいきませんから」
「流石だな、よく分かってる」
「着替えてきますね」
電気の消し忘れがないかを確認しながら、更衣室に向かう。
着替えをしつつ、就業中は触れることの出来ない携帯を手に取った。
家入さんを待たせて居る手前あまり時間を食う訳にはいかない。
灰原さんからの今日は絶対来てねと念を押す連絡に、今から行く旨だけを返信すると私は家入さんの元へと向かった。
今日の宴会場は灰原さんの行きつけのお店らしい。
食べる事が好きな彼の選ぶ店ならば、きっとお酒がなくとも美味しい料理にありつけるのではないかと、腹の虫が期待にくるくると音を鳴らす気がした。
駅からも近く、診療所からも然程離れて居ない事も有難い。
少し肌寒い星空の下、まだ人の気配の漂う街に飲み込まれていくと趣のある暖簾が私達を出迎えてくれた。
店内は、テーブルと座敷。
奥には個室があるらしく、予約してくれた灰原さんの名前を伝える。
向かった先の個室には既に五条さん、夏油さん、伊地知さんと、いつもの面々が勢揃いして居た。
「や、お疲れ」
「お。早いじゃん。ま、硝子が居るんだから当然か。真那、こっち来なよ」
「お二人もと、お疲れ様です」
久方ぶりの挨拶を交わし、硝子さんが腰を降ろした事を見届ける。
五条さんの手招きに誘われて側に座るものの、本日の主催である灰原さんの姿が見えず、私は周囲を見渡した。
そんな中でも、早速と言わんばかりにメニューを開いて居る家入さんは既に飲む気満々なのだろう。
よく見ればテーブルには三人の手元にもグラスが置かれて居り、どうやら一足先に始めてしまった様だった。
「あの、灰原さんはまだですか?」
「ん?まだ来てないね。どうやら相棒を連れてくるのに苦戦して居るんじゃないかな」
「そうそう。真那はまだ会った事無かったっけ?なんだか知らないけど二人ともタイミング悪いんだよねぇ。まるで運命の悪戯みたいにさ」
「五条、五月蝿いぞ」
枝豆を摘みながら五条さんが相変わらずの軽口を叩くと、家入さんは視線すら向けずにその言葉を一蹴する。
相手が相手ならば険悪な雰囲気にすらなりかねないと言うのに、学生時代からこんなやりとりをずっと続けて居る彼らにとって、こんなやり取りは日常にも等しく私は伊地知さんを顔を見合わせた。
この集まりに呼ばれた回数はもう両手でも数えきれない位になっている。
夏油さんの言葉が本当なら、今日こそ未だ会えず仕舞いの灰原さんの親友と言う人にも会う事は出来るのだろうかと期待に胸が膨らんだ。
時計の無い個室では、無意識のうちに携帯を眺める回数ばかりが増えてしまい、側から見れば私はきっと気もそぞろだったに違いない。
そんな私の様子に逸早く気がついたのは、隣に座って居た五条さんだった。
「そんなに気になる?まだ会ったことのない僕達の後輩」
「えっ、あ……。はい」
「すんごい嫌なやつかもよ?」
意味ありげに目を細め、口元には弧を描く。
元より、この人は人をよく見る。
先見の明でもあるのではないかと思える程に、吸い込まれそうな蒼眼は相手の真意を見透かす時がある。
テーブルに片肘を突きながらこ此方を眺める様は至極絵になった。
私はほんの一瞬。
五条さんの言わんとする事が理解できず首を傾げる。
相手を試す様な視線は私に何を求めて居るのかまでは定かではないものの、この人の根底はきっと悪ではない。
そんな確証すら持てる自分が時折不思議でならなかったものの、自然と己の顔にも笑みが浮かんだ。
「ふふ、それは無いと思いますよ。灰原さんと一緒に居て、嫌な人になれる方が難しいですから」
「でも、君は好かれないかもしれない」
「五条っ!」
間髪入れずに彼を嗜めたのは家入さんだった。
伊地知さんは狼狽え、夏油さんに至っては私同様に驚きを隠せないと言った様子で目を丸くするばかり。
これまでは言及する事など無く、ただ共に楽しい時間を過ごして居ただけだと言うのに、一体どうしてしまったのか。
まるで私とその人の間に、私達すらも知り得ない繋がりがあった事を示唆して居る様な。
そんな不可思議な感覚にすら囚われていく気がした。
無言で私を捉えた瞳は回答を待ち侘びて居る。
彼の求めるものが何なのか未だ判然とはしないものの、私は己の直感に従って偽りのない言葉を紡いでいた。
「仮にそうなった時は仕方ありません。どちらに非が無くても、対人関係に好き嫌いはついて回るものですから。でも……」
「なに?」
「ずっと、違和感を抱いてたんです。其処に居なければならないはずなのに、その人が居ないだけで、まるで完成しないパズルを目の前にして居る様な。不思議な感覚を。変ですよね、会った事もない人なのに……」
俯き、不意に己の表情が曇っていく気がした。
本当は此処まで話すつもりはなかった。
私がこんな事を言い出せばきっと彼等は気を遣ってしまうだろうから。
けれど、今の五条さんはどうにも私が本音を語らなければ納得してくれない雰囲気を醸し出して居る。
理由は分からないけれど、こうするしか私には他に彼を納得させるだけの言葉を持ち合わせて居ない。
もしかしたら、こんな曖昧な解答を望んでいた訳ではないのかも知らないけれど。
不意に綻んだ表情が憂いを帯びた様にも見えて。
ポンポンと、私の頭に乗せられた手が髪を乱していった。
「そっか。わかったよ。ごめん、意地悪だったね。それにしても本当に遅いよねぇ。伊地知ぃ、連絡してよ。三分以内に来なかったらマジビンタで」
「それは……私がビンタ受けると言う事でしょうか?」
「あったり前だろ!!!ほらっ、早く早く」
捲し立てる様にテーブルを叩き始めた五条さんに、伊地知さんは慌てふためく。
しかし、条件反射とも思える速さで取り出した携帯は狼狽えるあまり掴みきれず、わたわたする姿が気の毒にも思えた。
主役は遅れて登場するものだ。
そんな言葉はこれまで読んできた物語の中では幾度も目にして来て居る。
けれど、今回に限っては伊地知さんの為にも一刻も早く灰原さんには到着して欲しいものだと願って居ると、勢いよく開いた個室の襖に一同の視線が奪われていった。
「遅くなりましたっ!!お疲れ様です」
「おっせぇよ。後三分遅れたら伊地知をマジビンタする所だった」
「それは……連絡する意味がなかったと言う事でしょうか?」
未だマジビンタの一言に震え上がる伊地知さんは少しばかり恨めしそうな視線を向けて居た。
伊地知、五月蝿い乗せられた一言で一連の会話を全て無かった事にしてしまう辺り、五条さんにらしいとは思える。
肩を落とす伊地知さんに慰めの言葉を掛けると、その瞳は少しばかり潤んでいるやうにも思えた。
けれど、やっと訪れた本日の主役に場の空気は攫われ、灰原さんは当然の様に夏油さんの隣に腰を下ろす。
「まぁ、来たんだから良いじゃないか。それで、灰原。相棒はしっかり捕まえて来たのかな?」
「はいっ!引き摺って連れて来ちゃいました。ほら、早く入って来なよ」
灰原さんが襖の向こうに声を掛けた。
少しばかり見える大きな影がゆっくりと動くのを確認すると、ほんの少し己の鼓動が高まった気がする。
会った事も無い人に妙な期待を寄せてしまうのは失礼だとは思うけれど、この高鳴りは自分ではどうしようもなかった。
五条さんの言う通り、私は灰原さんと家入さんさんとしか接点を持たず、彼等の様にずっと共に過ごして来た訳では無い。
もしかしたら、初対面の私に良い感情は抱いてくれないかもしれない。
それでも、やっと胸の蟠りが取れる様な気がして。
私はきっと、この日この瞬間を自分で思う以上に心待ちにして居たのだろう。
「お疲れ様です」
「お疲れ、七海」
七海と、そう呼ばれた人が姿を現した刹那。
私は自分の呼吸が一瞬止まった気がする。
室内の灯りに照らされた髪は金の糸を思わせた。
冴え冴えとした瞳はまるで吸い込まれそうで、たった一言呟いただけの声は私の神経を直に撫でる様な感覚を私に与える。
理由なんてわからない。
ただ、心が歓喜に震えて居た。
今のその人の表情に笑みはなかったものの、夢に見続けて居た漠然としたあの人の姿が目の前にある様な錯覚を齎したからだ。
思わず涙さえしそうになった。
ほんの一瞬、視線が絡んだだけだと言うのに。
それはまるで永遠にも近い刹那だった様に思う。
「真那は初めてだよね?僕の高校時代からの親友、七海だよ。あ、七海。この子は妹の同級生で、如月真那。ずっと七海に合わせたかった子だよ」
「……初めまして」
「あ。初め、まして……」
その時、灰原さんから互いの紹介を受けて私達が交わした言葉はこれだけだった。
ほんの束の間、訝しげな視線を向けられて肩が竦んだものの、目の前に腰を下ろした七海さんを私は幾度も垣間見た。
意図せず顔すら赤くなる様な気がして。
どんどん鼓動は早くなっていく。
相手の事などまるで知らない筈なのに、何故こんなにも泣き出しそうな程の歓喜に震えるのか。
やっと面子が揃ったからと、改めて仕切り直された宴会の中。
私と七海さんが言葉を交わす事は無かった。
それなのに一緒の空間に居られる。
それ自体が途方もなく嬉しくて。
この日の私は、只々この機会を与えてくれた灰原さんに向けて、言葉なく感謝の念を抱き続けるばかりだった。
この典型的な病院での言葉を投げかける時。
私はほんの少しでも、その人が早く良くなるように祈る。
それが些細な事であったとしても、此処に訪れる人に向けては何よりの言葉になると信じて居るからだ。
特にそれが小さな子供となると、帰り際に手を振ってくれる姿が可愛らしくて堪らなくなった。
いつだったか私も、小さな我が子の手を引きながら愛する人と共に微笑み合う。
そんな夢を描いて居たようにすら感じる。
しかし、現実の私はほんの数週間前に恋人と別れたばかりで。
そんなものは手の届かない憧憬にも近い。
それなのに、ありもしない未来が身近にあったような錯覚を抱く時がある。
そして、それを失ったかのような途方もない失望感に苛まれる。
つい先日、友人にはことの顛末と謝罪の旨を報告したけれど、どうにも彼女は世話焼きな性格らしく、また良い人が居たら紹介すると妙に張り切った返事を貰ってしまった。
本音は暫くは一人で過ごしたい。
自分の何がいけないのかを見つめ直す必要がある。
誰を、何を求めて居るのか。
恋に恋する様な年齢でもないと言うのに、こうだと描く理想があったのだと頑ななまでに己の心が叫んでいる気がしてならない。
すっかり外の景色は薄暗くなり、混み合って居た待合室も人の姿は疎らとなった。
最後の患者さんを見送り、今日の業務も無事に終わる。
一通り周囲を見渡し、人の姿がない事を確認すると入り口の扉を閉めてブラインドを降ろした。
「終わった終わった。よし、飲むか」
「先生、明日が休みだからってまた飲み過ぎたら駄目ですよ」
仕事モードから一転。
大きく伸びをした家入さんは白衣に手を突っ込みながら、既にこの後の宴の事で頭が一杯らしい。
診療所である以上、年末の様に祝日が重ならない限り連休とは無縁になる。
それは世間が休みとなる週末も同様だ。
その代わり、週も真ん中を過ぎると一日休みがあるのだけれど、案の定休み明けは先日の二の舞になったばかりだ。
しかし、家入さんにとっては存分にお酒を楽しめる事そのものが息抜きと言っても過言では無く、今日は久しぶりにいつもの面子で飲み会が催される事になって居る。
普段から声を上げるのは大概五条さんになるのだけれど、今回に限っては珍しく灰原さんが発起人で。
私の所にもおいでと連絡が届き、色良い返事をした事は記憶に新しい。
「真那はどうする?無理にとは言わないけど、都合がつくならおいで」
「灰原さんからも是非と連絡頂いたので、お邪魔するつもりです。それに、五条さんがうっかりジュースとお酒を間違えて飲まない様にちゃんと見張ってないと」
「違いない。あの時は悲惨だったからな」
いつもながら誰よりも飲んでいたはずなのに記憶が確かな所は流石としか言いようがなく、さして古くもない記憶を辿った私達は互いに苦笑する。
あの時は正に家入さんの言葉通りで、間違えてアルコールを口にしてしまった五条さんが酩酊してしまった。
下戸だとは聞いて居たけれど、私もまさかあそこまでお酒に弱いとは思わず、普段の飄々とした態度は息を潜めて可愛らしいとさえ思えてる程だったのだけれど。
脚元すら覚束ない長身の五条さんをタクシーに押し込むのは一苦労だった。
夏油さんがその場に居なかったら、きっと私達は途方に暮れてしまっただろう。
飲めない訳ではないけれど、さしてお酒が好きな訳でもない私は以来、監視要員にも等しくて。
あの場の空気を存分に楽しませてもらう事にして居る。
そうと決まればそこから先の家入さんの行動は早かった。
最低限だけの業務を熟すと、あっという間に飲みに繰り出す為の支度を始め、その後早さと言ったら普段の倍以上と言っても良い。
「終わったか?何かあるなら手伝うよ」
「大丈夫ですよ。もう終わりました。それに、家入さんの楽しみを奪う訳にいきませんから」
「流石だな、よく分かってる」
「着替えてきますね」
電気の消し忘れがないかを確認しながら、更衣室に向かう。
着替えをしつつ、就業中は触れることの出来ない携帯を手に取った。
家入さんを待たせて居る手前あまり時間を食う訳にはいかない。
灰原さんからの今日は絶対来てねと念を押す連絡に、今から行く旨だけを返信すると私は家入さんの元へと向かった。
今日の宴会場は灰原さんの行きつけのお店らしい。
食べる事が好きな彼の選ぶ店ならば、きっとお酒がなくとも美味しい料理にありつけるのではないかと、腹の虫が期待にくるくると音を鳴らす気がした。
駅からも近く、診療所からも然程離れて居ない事も有難い。
少し肌寒い星空の下、まだ人の気配の漂う街に飲み込まれていくと趣のある暖簾が私達を出迎えてくれた。
店内は、テーブルと座敷。
奥には個室があるらしく、予約してくれた灰原さんの名前を伝える。
向かった先の個室には既に五条さん、夏油さん、伊地知さんと、いつもの面々が勢揃いして居た。
「や、お疲れ」
「お。早いじゃん。ま、硝子が居るんだから当然か。真那、こっち来なよ」
「お二人もと、お疲れ様です」
久方ぶりの挨拶を交わし、硝子さんが腰を降ろした事を見届ける。
五条さんの手招きに誘われて側に座るものの、本日の主催である灰原さんの姿が見えず、私は周囲を見渡した。
そんな中でも、早速と言わんばかりにメニューを開いて居る家入さんは既に飲む気満々なのだろう。
よく見ればテーブルには三人の手元にもグラスが置かれて居り、どうやら一足先に始めてしまった様だった。
「あの、灰原さんはまだですか?」
「ん?まだ来てないね。どうやら相棒を連れてくるのに苦戦して居るんじゃないかな」
「そうそう。真那はまだ会った事無かったっけ?なんだか知らないけど二人ともタイミング悪いんだよねぇ。まるで運命の悪戯みたいにさ」
「五条、五月蝿いぞ」
枝豆を摘みながら五条さんが相変わらずの軽口を叩くと、家入さんは視線すら向けずにその言葉を一蹴する。
相手が相手ならば険悪な雰囲気にすらなりかねないと言うのに、学生時代からこんなやりとりをずっと続けて居る彼らにとって、こんなやり取りは日常にも等しく私は伊地知さんを顔を見合わせた。
この集まりに呼ばれた回数はもう両手でも数えきれない位になっている。
夏油さんの言葉が本当なら、今日こそ未だ会えず仕舞いの灰原さんの親友と言う人にも会う事は出来るのだろうかと期待に胸が膨らんだ。
時計の無い個室では、無意識のうちに携帯を眺める回数ばかりが増えてしまい、側から見れば私はきっと気もそぞろだったに違いない。
そんな私の様子に逸早く気がついたのは、隣に座って居た五条さんだった。
「そんなに気になる?まだ会ったことのない僕達の後輩」
「えっ、あ……。はい」
「すんごい嫌なやつかもよ?」
意味ありげに目を細め、口元には弧を描く。
元より、この人は人をよく見る。
先見の明でもあるのではないかと思える程に、吸い込まれそうな蒼眼は相手の真意を見透かす時がある。
テーブルに片肘を突きながらこ此方を眺める様は至極絵になった。
私はほんの一瞬。
五条さんの言わんとする事が理解できず首を傾げる。
相手を試す様な視線は私に何を求めて居るのかまでは定かではないものの、この人の根底はきっと悪ではない。
そんな確証すら持てる自分が時折不思議でならなかったものの、自然と己の顔にも笑みが浮かんだ。
「ふふ、それは無いと思いますよ。灰原さんと一緒に居て、嫌な人になれる方が難しいですから」
「でも、君は好かれないかもしれない」
「五条っ!」
間髪入れずに彼を嗜めたのは家入さんだった。
伊地知さんは狼狽え、夏油さんに至っては私同様に驚きを隠せないと言った様子で目を丸くするばかり。
これまでは言及する事など無く、ただ共に楽しい時間を過ごして居ただけだと言うのに、一体どうしてしまったのか。
まるで私とその人の間に、私達すらも知り得ない繋がりがあった事を示唆して居る様な。
そんな不可思議な感覚にすら囚われていく気がした。
無言で私を捉えた瞳は回答を待ち侘びて居る。
彼の求めるものが何なのか未だ判然とはしないものの、私は己の直感に従って偽りのない言葉を紡いでいた。
「仮にそうなった時は仕方ありません。どちらに非が無くても、対人関係に好き嫌いはついて回るものですから。でも……」
「なに?」
「ずっと、違和感を抱いてたんです。其処に居なければならないはずなのに、その人が居ないだけで、まるで完成しないパズルを目の前にして居る様な。不思議な感覚を。変ですよね、会った事もない人なのに……」
俯き、不意に己の表情が曇っていく気がした。
本当は此処まで話すつもりはなかった。
私がこんな事を言い出せばきっと彼等は気を遣ってしまうだろうから。
けれど、今の五条さんはどうにも私が本音を語らなければ納得してくれない雰囲気を醸し出して居る。
理由は分からないけれど、こうするしか私には他に彼を納得させるだけの言葉を持ち合わせて居ない。
もしかしたら、こんな曖昧な解答を望んでいた訳ではないのかも知らないけれど。
不意に綻んだ表情が憂いを帯びた様にも見えて。
ポンポンと、私の頭に乗せられた手が髪を乱していった。
「そっか。わかったよ。ごめん、意地悪だったね。それにしても本当に遅いよねぇ。伊地知ぃ、連絡してよ。三分以内に来なかったらマジビンタで」
「それは……私がビンタ受けると言う事でしょうか?」
「あったり前だろ!!!ほらっ、早く早く」
捲し立てる様にテーブルを叩き始めた五条さんに、伊地知さんは慌てふためく。
しかし、条件反射とも思える速さで取り出した携帯は狼狽えるあまり掴みきれず、わたわたする姿が気の毒にも思えた。
主役は遅れて登場するものだ。
そんな言葉はこれまで読んできた物語の中では幾度も目にして来て居る。
けれど、今回に限っては伊地知さんの為にも一刻も早く灰原さんには到着して欲しいものだと願って居ると、勢いよく開いた個室の襖に一同の視線が奪われていった。
「遅くなりましたっ!!お疲れ様です」
「おっせぇよ。後三分遅れたら伊地知をマジビンタする所だった」
「それは……連絡する意味がなかったと言う事でしょうか?」
未だマジビンタの一言に震え上がる伊地知さんは少しばかり恨めしそうな視線を向けて居た。
伊地知、五月蝿い乗せられた一言で一連の会話を全て無かった事にしてしまう辺り、五条さんにらしいとは思える。
肩を落とす伊地知さんに慰めの言葉を掛けると、その瞳は少しばかり潤んでいるやうにも思えた。
けれど、やっと訪れた本日の主役に場の空気は攫われ、灰原さんは当然の様に夏油さんの隣に腰を下ろす。
「まぁ、来たんだから良いじゃないか。それで、灰原。相棒はしっかり捕まえて来たのかな?」
「はいっ!引き摺って連れて来ちゃいました。ほら、早く入って来なよ」
灰原さんが襖の向こうに声を掛けた。
少しばかり見える大きな影がゆっくりと動くのを確認すると、ほんの少し己の鼓動が高まった気がする。
会った事も無い人に妙な期待を寄せてしまうのは失礼だとは思うけれど、この高鳴りは自分ではどうしようもなかった。
五条さんの言う通り、私は灰原さんと家入さんさんとしか接点を持たず、彼等の様にずっと共に過ごして来た訳では無い。
もしかしたら、初対面の私に良い感情は抱いてくれないかもしれない。
それでも、やっと胸の蟠りが取れる様な気がして。
私はきっと、この日この瞬間を自分で思う以上に心待ちにして居たのだろう。
「お疲れ様です」
「お疲れ、七海」
七海と、そう呼ばれた人が姿を現した刹那。
私は自分の呼吸が一瞬止まった気がする。
室内の灯りに照らされた髪は金の糸を思わせた。
冴え冴えとした瞳はまるで吸い込まれそうで、たった一言呟いただけの声は私の神経を直に撫でる様な感覚を私に与える。
理由なんてわからない。
ただ、心が歓喜に震えて居た。
今のその人の表情に笑みはなかったものの、夢に見続けて居た漠然としたあの人の姿が目の前にある様な錯覚を齎したからだ。
思わず涙さえしそうになった。
ほんの一瞬、視線が絡んだだけだと言うのに。
それはまるで永遠にも近い刹那だった様に思う。
「真那は初めてだよね?僕の高校時代からの親友、七海だよ。あ、七海。この子は妹の同級生で、如月真那。ずっと七海に合わせたかった子だよ」
「……初めまして」
「あ。初め、まして……」
その時、灰原さんから互いの紹介を受けて私達が交わした言葉はこれだけだった。
ほんの束の間、訝しげな視線を向けられて肩が竦んだものの、目の前に腰を下ろした七海さんを私は幾度も垣間見た。
意図せず顔すら赤くなる様な気がして。
どんどん鼓動は早くなっていく。
相手の事などまるで知らない筈なのに、何故こんなにも泣き出しそうな程の歓喜に震えるのか。
やっと面子が揃ったからと、改めて仕切り直された宴会の中。
私と七海さんが言葉を交わす事は無かった。
それなのに一緒の空間に居られる。
それ自体が途方もなく嬉しくて。
この日の私は、只々この機会を与えてくれた灰原さんに向けて、言葉なく感謝の念を抱き続けるばかりだった。