永遠という名の愛
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──渋谷事変
後にそう語られる呪術界最大の危機であり、一般社会からは理解の及ばない惨劇かの結末を、私は知らない。
託したものは受け継がれたのか。
あの世界での私と言う存在に、意義はあったのか。
ただ逃げ出し、曖昧な自己満足とも思えるものを追い求めて舞い戻った地獄。
その中で掴んだ幸福を自ら手放し、己の愚行を呪った。
不甲斐なさとは無縁の人生であるはずだった。
しかし、蓋を開ければ私の人生というものは、何とも情けない結末だったようにも思える。
ただ唯一。
今にも張り裂けんばかりの痛みと引き換えてでもアナタを思い出せた事だけは。
前を向き、恥じない自分で在ろうとした事だけは己を褒めてやりたいと思ったのに……。
結局、アナタの最期の願いすらも、私は叶える事ができなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
人生に於いて、前世や未来を知る術は存在しない。
こうであったら良いと願望を描き、その理想に向かって邁進する事しか出来ない。
しかし、人の生とは偶然と必然。
そして、時に考えられない様な神秘に満ちて居るものらしい。
呪いと言う概念そのものが存在しない世界。
それは命の駆け引きを常とする呪術師から考えれば、平穏以外の何者でもなかった。
前世の記憶を持ちながら、似て非なる別世界にでもやって来たかの様な感覚が付き纏い、時折自分の立ち位置が危うくすら感じる。
私が己の過去を認識したのは今から十年ほど前になる。
ある日、突然。
グラスに注いだ水が溢れ出しかの様に蘇った記憶は、それ自体が信じ難く。
けれど否定のしようがない程に残酷で美しいものだった。
思い当たる切っ掛けといえば、一つ。
当時の私の唯一のクラスメイトだった灰原に再開した事だろうか。
初めて出会った時の衝撃は今でも忘れ難い。
彼は私の事など覚えて居ない筈なのに、いつの間にか心の中にすんなり入り込んでくる辺り、生まれ変わってもその本質は変わらないものなのかと笑みさえ浮かんだ。
それからぽつぽつと、五条さん、家入さん、夏油さん。
一年後には伊地知君とも顔を合わせる事になり、当時を知る者、知らざる者がまるで磁石の様にこの不思議な巡り合わせによって再会を果たした。
──しかし、私の求めるたった一人の女性。
彼女の姿はいつまで経っても、見つける事が出来なかった。
約束の地での別れ際ですら、私は覚えて居る。
本当は私を引き留めたいと言う想いを押し殺し、静かに流した涙の美しさは、鮮烈なまでに脳裏に焼き付いて居る。
言ってしまえば私の我儘だった。
あのまま、共にあの地で過ごして居たとして。
それはそれで幸せだった事だろう。
けれど、輪廻と言う理から外れて仕舞えば、彼女は二度と親しかった彼らと見 える事は無くなってしまう。
私とて、やり直せるものならもう一度彼女に幸せを与えたい。
そう願って離した筈の手の感触を、今でも時折思い出す。
それからと言うものずっと、ずっと、アナタを探して居る。
もしかしたらこの現世には居ないかもしれないと言うのに。
もしかしたら既に他の誰かと手を取り合い幸せに微笑んでいるかもしれないのに。
それらの全てを否定し、必ずもう一度この腕に抱く事を渇望して居る。
今の私は前世で一般社会に逃げた時同様、証券会社で働いて居る。
幸いな事にそれなりに稼ぎはあるし、生活も充実して居る。
懐かしい面々とのひと時は私に束の間の安らぎを与えてくれると言うのに。
アナタが居ない。
それだけで私が満たされる事は決して無いのだと思い知らされる。
麗らかな日差しが差し込む季節だと言うのに、職場であるオフィスから覗く風景の中にアナタを思わせる桜は見られず。
最近では帰宅途中の公園に立ち寄ってはその景色を眺めるばかりだった。
時刻は正午を過ぎた頃。
デスクに齧り付いて居た筈の同僚がちらほらとその姿を消して、あと半日を頑張れば今日も無事に終わりを迎える。
帰宅したら少し手の込んだ料理を作り、読みかけの本の続きを読もう。
湯船にゆっくり浸かり、今日の疲れを癒して。
眠る前には真那との思い出に想いを馳せて眠りにつこう。
彼女の事を考え出せば私の時間は刹那にも等しい。
あれ程の苦痛を強いたと言うのに、都合のいい己の記憶の中には常に私に向けて微笑む真那の姿があるからなのだろう。
物思いに耽るうちに、パソコンに向かって居た筈の視線は天を仰いでいた。
しかし深く、長く息を吐き出すと、唐突に視界に割り込んできた姿に私は驚き。
まるで懐かしい憧憬でも見て居る様な錯覚に陥った。
「なーなみっ。どうしたの?お昼行こうよ」
「もうそんな時間ですか。ですがアナタはさっきもデスクでおにぎり齧ってませんでしたか?」
「あはは、ばれちゃった?でも、あれはおやつ!お昼は今からだよ」
無人なのをいい事に隣人の椅子を我が物とした灰原が、十年経った今でも変わることのない笑みを湛えて居た。
最早腐れ縁とでも言えば良いのか。
高校での再会を皮切りに現在の私達は、大学はおろか職場までも共有する、ある種パートナーにも近い存在となって居る。
灰原は決して業績が良いわけではない。
しかし、人好きする性格は顧客からは絶対的な信頼を寄せられて居る。
本人には自覚がないのだろうが、半ば勘とも言える鋭さで時に伸び代のある株を当ててみたりと、その異端児ぶりは言い出せばキリがない。
いつのまにかオフィスの中には私達二人だけとなって居た。
既に手短に昼食を済ませた同僚が戻ってきそうな気配さえ漂わせ、灰原と言えば私が動くまでお預けを食らう犬の如く動く気配がない。
日毎、懐かしさに駆られる。
青春を謳歌することすら許されず散った己の親友が、共に成人を迎え、同じ職場で肩を並べる事には只々、感謝するしかないだろう。
「炭水化物をおやつにしないで下さい。それで、今日のおすすめは?」
「ちょっと出た所に美味しい定食屋さんがあるみたいなんだ。そこ行ってみようよ」
「分かりました。書類をまとめたら支度をします」
「やった!早くしてね。腹ペコで死んじゃうから」
「全く、アナタは……。本当に昔から変わりませんね」
私の言う「昔」が果たしてどちらの過去を示して居るのかは定かではない。
ただ、入学して早々に珍妙なタスキを掛けられ、超新入生歓迎会などとふざけた会を催された事も。
いきなり沖縄に呼び出された時思えば空港で夜通し待機させられた事も。
一息つこうと買った缶ジュースを灰原の頬に押し当てた事も。
今となっては私しか知り得ない、大切な過去であり前世の記憶だ。
私が把握して居る限り、灰原と夏油さんにはその当時の記憶は存在しない。
そして、私と五条さん。
伊地知君と家入さんには差異はあれど前世の記憶と言うものが存在して居るらしい。
ただ、今となってはその話をする機会は滅多になくなり、それぞれがそれぞれの今の人生を謳歌して居る。
明確な境界となるのは、おそらく渋谷事変だろうと、以前五条さんと飲んだ時に話したことがあった。
下戸なのは相変わらずだと言うのに、洒落たバーでノンアルのカクテルを躊躇うことなく注文できる図太さも現在だ。
仮にその予測が当たって居たとしたのなら。
現世に真那が居たとしても、渋谷事変を前に命を落とした彼女は、恐らく私の事を覚えては居ないのだろう。
その覚悟はとうに決めてあった筈だった。
それでも私は、たとえどれだけの時間がかかったとしても。
もう一度会いたいと、強く願って居るのだから。
「お待たせしました。行きましょうか」
「うんっ!ねぇ、七海は何食べる?」
「普通はお品書きを見てから決めるものですよ」
「え、そう?僕は今日はカツ丼一択だよ」
デスクを簡単に整理して席を立つや否や、待ちかねたとばかりに灰原が椅子から飛び降りる。
軽快な笑みに釣られて、思わず私の顔も綻んだ。
やり甲斐、生き甲斐、それらを求めずとも、仲間の命を天秤に掛けなくとも過ごせる日常にひたすらに感謝したくなる。
それでも、やはりアナタに会いたい。
思いばかりが募り、行く宛てもなく彷徨う。
今のアナタが泣いて居ないか。
不安に駆られて居ないか。
記憶がなくても構わないから、どうか穏やかな日常を過ごしてほしいと願ってやまない。
エレベーターを待つ間も、灰原の一方的な会話は途切れることがなかった。
それは相変わらず近しい仲間の事ばかりで。
今世ですら、夏油さんに尊敬の念を抱いて居る辺り本人は人を見る目があると自負して居るものの、少し疑わしい。
「あ、そうだ。夏油さんがまた近いうちに皆で集まろうって話してたよ」
「そうですか。仕事が終われば参加します」
「じゃあ、七海の都合のいい時教えてよ。合わせてもらうよ。僕さ、どうしても七海に絶対合わせたい子が居るんだ」
その響きに丁度到着したエレベーターに乗り込む脚が立ち止まる。
同時に察したその意図に、思いがけず眉間に皺が寄った。
こう言った事はこれまでに何度もあった。
それは灰原からのものではなかったものの、定職に就き、それなりのポストに納まり始めた頃から会社絡みでは特に顕著になって居る。
呪術界では、いつその命を散らすともわからない職業柄か。
婚姻と言うものに縁が遠い人が多かった。
私自身も、真那に出会わなければきっとそこまでの踏ん切りはつかなかったに違いない。
結婚してやっと一人前。
そんな時代錯誤な考え方はこの時代では既に追いやられつつある。
己の人生をどう生きるか。
そう言った選択肢の一つに過ぎない。
これまでそんな事を毛程も口にしなかった筈の灰原が、何故今になってこんな事を言い出したのか。
恐らく自身が相手と接する内に純粋に私と気が合うだろうと、そう考えてくれて居る事に間違いはない。
しかし、何時何時も私の心を占めるのは真那ただ一人だ。
例えどれだけ周囲に幸せになれと背中を押された所で、私の今世もまた。
彼女に捧げるのだと己に誓いを立てて居る。
「そう言ったお節介は不要です、今はとても恋愛に現を抜かす気分にはなれない」
到着したエレベーターの扉が静かに閉じた。
他に乗客も居らず、閉鎖的な空間は今の流れを考えたら少し気まずいと思える。
しかし、それを気にも留めないのは長年の付き合い故か。
はたまた灰原自身の性質なのか。
不服そうに口を尖らせながらも、一応私の意思は尊重するつもりはあるらしく、残念そうに肩を落とす。
「絶対気が合うと思うんだけどなぁ……。七海はまだ会ったことないよね?僕の妹の同級生になるんだけど、可愛い子なんだよ」
「灰原の妹と言えば……四つか五つ位年下でしたか?」
「三つ違いかな。だから中学も高校も同じ学校だったのに被らなかったんだよね」
そんな些細な共通点でさえ、私の脳裏は彼女を思い描く。
そう言えば、真那も私より三つ年下だった。
淑やかな性格からか年上に見られがちではあったけれど、入学したばかりの彼女はまだあどけなく、クラスメイトも居ない一人きりの入学だった為に世話を焼いたものだった。
いや、寧ろあの当時から私は彼女に救われてきたのだろう。
受け入れ難い現実が押し寄せる中、せめて卒業だけはと踏ん張って居た。
そんな私の重しとなってくれて居たのは、彼女に他ならない。
途端に、名前も顔も知らない女性に対して親近感を抱く己は想像以上に単純らしい。
「そうですね。あの集まりに顔を出しているのなら、何れ会う機会はあると思いますが」
「だからっ!今度会おうよ」
「考えておきます」
短い密談はあっという間に終わりを告げた。
余程空腹に耐えかねて居るのか、扉が開くなり前も見ずに歩き始めた灰原を嗜めつつ、私も後に続く。
この時の私はきっと予想すらして居なかった。
幾度か五条さんにすらその存在を示唆された事があったと言うのに、あの人は彼女の名前を告げる事はしなかったから。
私の手の届くすぐ側で、記憶を無くしても尚。
アナタが再会の時を待ち侘びて居てくれた事を。
後にそう語られる呪術界最大の危機であり、一般社会からは理解の及ばない惨劇かの結末を、私は知らない。
託したものは受け継がれたのか。
あの世界での私と言う存在に、意義はあったのか。
ただ逃げ出し、曖昧な自己満足とも思えるものを追い求めて舞い戻った地獄。
その中で掴んだ幸福を自ら手放し、己の愚行を呪った。
不甲斐なさとは無縁の人生であるはずだった。
しかし、蓋を開ければ私の人生というものは、何とも情けない結末だったようにも思える。
ただ唯一。
今にも張り裂けんばかりの痛みと引き換えてでもアナタを思い出せた事だけは。
前を向き、恥じない自分で在ろうとした事だけは己を褒めてやりたいと思ったのに……。
結局、アナタの最期の願いすらも、私は叶える事ができなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
人生に於いて、前世や未来を知る術は存在しない。
こうであったら良いと願望を描き、その理想に向かって邁進する事しか出来ない。
しかし、人の生とは偶然と必然。
そして、時に考えられない様な神秘に満ちて居るものらしい。
呪いと言う概念そのものが存在しない世界。
それは命の駆け引きを常とする呪術師から考えれば、平穏以外の何者でもなかった。
前世の記憶を持ちながら、似て非なる別世界にでもやって来たかの様な感覚が付き纏い、時折自分の立ち位置が危うくすら感じる。
私が己の過去を認識したのは今から十年ほど前になる。
ある日、突然。
グラスに注いだ水が溢れ出しかの様に蘇った記憶は、それ自体が信じ難く。
けれど否定のしようがない程に残酷で美しいものだった。
思い当たる切っ掛けといえば、一つ。
当時の私の唯一のクラスメイトだった灰原に再開した事だろうか。
初めて出会った時の衝撃は今でも忘れ難い。
彼は私の事など覚えて居ない筈なのに、いつの間にか心の中にすんなり入り込んでくる辺り、生まれ変わってもその本質は変わらないものなのかと笑みさえ浮かんだ。
それからぽつぽつと、五条さん、家入さん、夏油さん。
一年後には伊地知君とも顔を合わせる事になり、当時を知る者、知らざる者がまるで磁石の様にこの不思議な巡り合わせによって再会を果たした。
──しかし、私の求めるたった一人の女性。
彼女の姿はいつまで経っても、見つける事が出来なかった。
約束の地での別れ際ですら、私は覚えて居る。
本当は私を引き留めたいと言う想いを押し殺し、静かに流した涙の美しさは、鮮烈なまでに脳裏に焼き付いて居る。
言ってしまえば私の我儘だった。
あのまま、共にあの地で過ごして居たとして。
それはそれで幸せだった事だろう。
けれど、輪廻と言う理から外れて仕舞えば、彼女は二度と親しかった彼らと
私とて、やり直せるものならもう一度彼女に幸せを与えたい。
そう願って離した筈の手の感触を、今でも時折思い出す。
それからと言うものずっと、ずっと、アナタを探して居る。
もしかしたらこの現世には居ないかもしれないと言うのに。
もしかしたら既に他の誰かと手を取り合い幸せに微笑んでいるかもしれないのに。
それらの全てを否定し、必ずもう一度この腕に抱く事を渇望して居る。
今の私は前世で一般社会に逃げた時同様、証券会社で働いて居る。
幸いな事にそれなりに稼ぎはあるし、生活も充実して居る。
懐かしい面々とのひと時は私に束の間の安らぎを与えてくれると言うのに。
アナタが居ない。
それだけで私が満たされる事は決して無いのだと思い知らされる。
麗らかな日差しが差し込む季節だと言うのに、職場であるオフィスから覗く風景の中にアナタを思わせる桜は見られず。
最近では帰宅途中の公園に立ち寄ってはその景色を眺めるばかりだった。
時刻は正午を過ぎた頃。
デスクに齧り付いて居た筈の同僚がちらほらとその姿を消して、あと半日を頑張れば今日も無事に終わりを迎える。
帰宅したら少し手の込んだ料理を作り、読みかけの本の続きを読もう。
湯船にゆっくり浸かり、今日の疲れを癒して。
眠る前には真那との思い出に想いを馳せて眠りにつこう。
彼女の事を考え出せば私の時間は刹那にも等しい。
あれ程の苦痛を強いたと言うのに、都合のいい己の記憶の中には常に私に向けて微笑む真那の姿があるからなのだろう。
物思いに耽るうちに、パソコンに向かって居た筈の視線は天を仰いでいた。
しかし深く、長く息を吐き出すと、唐突に視界に割り込んできた姿に私は驚き。
まるで懐かしい憧憬でも見て居る様な錯覚に陥った。
「なーなみっ。どうしたの?お昼行こうよ」
「もうそんな時間ですか。ですがアナタはさっきもデスクでおにぎり齧ってませんでしたか?」
「あはは、ばれちゃった?でも、あれはおやつ!お昼は今からだよ」
無人なのをいい事に隣人の椅子を我が物とした灰原が、十年経った今でも変わることのない笑みを湛えて居た。
最早腐れ縁とでも言えば良いのか。
高校での再会を皮切りに現在の私達は、大学はおろか職場までも共有する、ある種パートナーにも近い存在となって居る。
灰原は決して業績が良いわけではない。
しかし、人好きする性格は顧客からは絶対的な信頼を寄せられて居る。
本人には自覚がないのだろうが、半ば勘とも言える鋭さで時に伸び代のある株を当ててみたりと、その異端児ぶりは言い出せばキリがない。
いつのまにかオフィスの中には私達二人だけとなって居た。
既に手短に昼食を済ませた同僚が戻ってきそうな気配さえ漂わせ、灰原と言えば私が動くまでお預けを食らう犬の如く動く気配がない。
日毎、懐かしさに駆られる。
青春を謳歌することすら許されず散った己の親友が、共に成人を迎え、同じ職場で肩を並べる事には只々、感謝するしかないだろう。
「炭水化物をおやつにしないで下さい。それで、今日のおすすめは?」
「ちょっと出た所に美味しい定食屋さんがあるみたいなんだ。そこ行ってみようよ」
「分かりました。書類をまとめたら支度をします」
「やった!早くしてね。腹ペコで死んじゃうから」
「全く、アナタは……。本当に昔から変わりませんね」
私の言う「昔」が果たしてどちらの過去を示して居るのかは定かではない。
ただ、入学して早々に珍妙なタスキを掛けられ、超新入生歓迎会などとふざけた会を催された事も。
いきなり沖縄に呼び出された時思えば空港で夜通し待機させられた事も。
一息つこうと買った缶ジュースを灰原の頬に押し当てた事も。
今となっては私しか知り得ない、大切な過去であり前世の記憶だ。
私が把握して居る限り、灰原と夏油さんにはその当時の記憶は存在しない。
そして、私と五条さん。
伊地知君と家入さんには差異はあれど前世の記憶と言うものが存在して居るらしい。
ただ、今となってはその話をする機会は滅多になくなり、それぞれがそれぞれの今の人生を謳歌して居る。
明確な境界となるのは、おそらく渋谷事変だろうと、以前五条さんと飲んだ時に話したことがあった。
下戸なのは相変わらずだと言うのに、洒落たバーでノンアルのカクテルを躊躇うことなく注文できる図太さも現在だ。
仮にその予測が当たって居たとしたのなら。
現世に真那が居たとしても、渋谷事変を前に命を落とした彼女は、恐らく私の事を覚えては居ないのだろう。
その覚悟はとうに決めてあった筈だった。
それでも私は、たとえどれだけの時間がかかったとしても。
もう一度会いたいと、強く願って居るのだから。
「お待たせしました。行きましょうか」
「うんっ!ねぇ、七海は何食べる?」
「普通はお品書きを見てから決めるものですよ」
「え、そう?僕は今日はカツ丼一択だよ」
デスクを簡単に整理して席を立つや否や、待ちかねたとばかりに灰原が椅子から飛び降りる。
軽快な笑みに釣られて、思わず私の顔も綻んだ。
やり甲斐、生き甲斐、それらを求めずとも、仲間の命を天秤に掛けなくとも過ごせる日常にひたすらに感謝したくなる。
それでも、やはりアナタに会いたい。
思いばかりが募り、行く宛てもなく彷徨う。
今のアナタが泣いて居ないか。
不安に駆られて居ないか。
記憶がなくても構わないから、どうか穏やかな日常を過ごしてほしいと願ってやまない。
エレベーターを待つ間も、灰原の一方的な会話は途切れることがなかった。
それは相変わらず近しい仲間の事ばかりで。
今世ですら、夏油さんに尊敬の念を抱いて居る辺り本人は人を見る目があると自負して居るものの、少し疑わしい。
「あ、そうだ。夏油さんがまた近いうちに皆で集まろうって話してたよ」
「そうですか。仕事が終われば参加します」
「じゃあ、七海の都合のいい時教えてよ。合わせてもらうよ。僕さ、どうしても七海に絶対合わせたい子が居るんだ」
その響きに丁度到着したエレベーターに乗り込む脚が立ち止まる。
同時に察したその意図に、思いがけず眉間に皺が寄った。
こう言った事はこれまでに何度もあった。
それは灰原からのものではなかったものの、定職に就き、それなりのポストに納まり始めた頃から会社絡みでは特に顕著になって居る。
呪術界では、いつその命を散らすともわからない職業柄か。
婚姻と言うものに縁が遠い人が多かった。
私自身も、真那に出会わなければきっとそこまでの踏ん切りはつかなかったに違いない。
結婚してやっと一人前。
そんな時代錯誤な考え方はこの時代では既に追いやられつつある。
己の人生をどう生きるか。
そう言った選択肢の一つに過ぎない。
これまでそんな事を毛程も口にしなかった筈の灰原が、何故今になってこんな事を言い出したのか。
恐らく自身が相手と接する内に純粋に私と気が合うだろうと、そう考えてくれて居る事に間違いはない。
しかし、何時何時も私の心を占めるのは真那ただ一人だ。
例えどれだけ周囲に幸せになれと背中を押された所で、私の今世もまた。
彼女に捧げるのだと己に誓いを立てて居る。
「そう言ったお節介は不要です、今はとても恋愛に現を抜かす気分にはなれない」
到着したエレベーターの扉が静かに閉じた。
他に乗客も居らず、閉鎖的な空間は今の流れを考えたら少し気まずいと思える。
しかし、それを気にも留めないのは長年の付き合い故か。
はたまた灰原自身の性質なのか。
不服そうに口を尖らせながらも、一応私の意思は尊重するつもりはあるらしく、残念そうに肩を落とす。
「絶対気が合うと思うんだけどなぁ……。七海はまだ会ったことないよね?僕の妹の同級生になるんだけど、可愛い子なんだよ」
「灰原の妹と言えば……四つか五つ位年下でしたか?」
「三つ違いかな。だから中学も高校も同じ学校だったのに被らなかったんだよね」
そんな些細な共通点でさえ、私の脳裏は彼女を思い描く。
そう言えば、真那も私より三つ年下だった。
淑やかな性格からか年上に見られがちではあったけれど、入学したばかりの彼女はまだあどけなく、クラスメイトも居ない一人きりの入学だった為に世話を焼いたものだった。
いや、寧ろあの当時から私は彼女に救われてきたのだろう。
受け入れ難い現実が押し寄せる中、せめて卒業だけはと踏ん張って居た。
そんな私の重しとなってくれて居たのは、彼女に他ならない。
途端に、名前も顔も知らない女性に対して親近感を抱く己は想像以上に単純らしい。
「そうですね。あの集まりに顔を出しているのなら、何れ会う機会はあると思いますが」
「だからっ!今度会おうよ」
「考えておきます」
短い密談はあっという間に終わりを告げた。
余程空腹に耐えかねて居るのか、扉が開くなり前も見ずに歩き始めた灰原を嗜めつつ、私も後に続く。
この時の私はきっと予想すらして居なかった。
幾度か五条さんにすらその存在を示唆された事があったと言うのに、あの人は彼女の名前を告げる事はしなかったから。
私の手の届くすぐ側で、記憶を無くしても尚。
アナタが再会の時を待ち侘びて居てくれた事を。