永遠という名の愛
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それは泣きたくなる程に愛おしくて、切ない記憶。
否、もしかしたら記憶ですらなく、ただの願望なのかも知れない。
光の束を集めた様な髪を揺らし、無骨な指が頬を撫でる。
低い声は愛おしそうに私の名を呼んで、澄んだ瞳の中に私を溶かし込んだ。
暖かい風景。
舞い散る桜はいつ見ても美しく、私達を取り囲む穏やかな空気を……ずっとずっと探し求めて居たような気がする。
長い長い間、変わることのない景色を眺めて居た。
寄り添い、手を繋ぎ。
時折訪れる懐かしい顔ぶれに笑みを浮かべて、思い出話に花を咲かせた。
時間の経過も曖昧で、桜の元に集う人は一人、一人と少しずつ数を増やす。
別れはいつも突然で、決意を固めたかの様に誰かが立ち上がると、彼らは一様にまた会おうと告げて去って行く。
朗らかに手を振る人達を見送るのはいつも私達の役目で、寂しさを分かち合う様に肩を寄せ合った。
ぽつりぽつりと人影は疎になり、賑やかだった筈の場所に残ったのは、私と彼の二人だけ。
本当は、ずっとこのままでも構わなかった。
また離れ離れになってしまう位なら、廻る時の中に戻れなくても幸せだったのに。
稀に、彼が遠くを見つめては物思いに耽る時があった。
それは彼の旅立ちを窺わせるもので。
いよいよ私達にも、その時がやってきたのだろう。
私を掻き抱く腕には痛い程の力が籠り、震えを伴う。
告げた音は少しばかりの悲しみを宿し、やがて私の手を静かに離した。
朧気な視界に映るその人の姿は、泣いて居るのか微笑んでいるのかすら定かではない。
それなのに、耳に残る音だけが微かな希望を見出す様に私を取り巻いた。
あの時、私は肯定したのか、それとも否定をしたのか。
そんな事すら覚えて居ない。
ただ、私の涙を拭う親指の感触だけが、胸を締め付けるほどに愛おしかった。
──幾星霜巡りても、私は必ずアナタを見つけます。だからその時はどうか。どうか……。
それは約束か。
はたまた彼の願望だったのか。
その言葉の続きを、私は確かに覚えて居る筈なのに。
ただ、彼の頬を伝う雫があまりにも美くしくて、泣かないでとその一言すら伝える事がいつも出来ずに終わってしまう。
「……待って!」
無意識に伸ばした手が虚空を掴む。
目を覚ました私は現と夢の狭間を彷徨い、これが夢だったのだと認識すると、途端に伸ばした腕がベッドに沈んだ。
夢の終わりは、いつもこうだった。
思春期を迎えた頃から度々見る同じ夢はとても愛おしく、暖かく、絶えず胸を締め付ける。
私は満ち足りた幸福に包まれながら何度もその人の名前を呼ぶのに。
目が覚めるといつもその響きを忘れてしまう。
何処で出会ったのかも覚えては居ない。
もしかしたら出会ってすら居ないのかもしれない。
それなのに、夢で私が抱く感情は間違いなくその人に向けた直向きな恋慕にも近いものだった。
名前も知らないその人の事を私は愛していたのだろうか。
私は、愛されて居たのだろうか。
夢の中、別れ際の私は寂しさの中にまた会えると確信を抱き、ただ頷くばかりで。
──会いたい。
ただ、その想いが粉雪の様に降り積もる。
未だ出会えぬ夢のあの人に、いつか巡り会える日を待ち侘びながら。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「別れてくれ」
いつだったか私に愛を囁いた唇が、冷たく私を突き放した時。
自分でも恐ろしくなる位冷静で居られた。
思わず笑みを溢す私に向けられたのは侮蔑にも近い氷の様な視線で。
ああ、またこうなってしまったのかとバッグを握りしめた拳だけがその痛みを訴える。
数ヶ月前、世話焼きの友人の紹介で知り合った彼には猛アプローチを受けた末、私達は交際に発展した筈だった。
私自身も、今度こそはと意気込んでみたものの、お互い社会人となれば双方が努力をしなければ時間を共有する事は難しくなる。
初めのうちは私も努力した。
彼の都合に合わせては自宅に向かったし、いつ何時でも連絡に応じられる様に務めた。
甲斐甲斐しく料理を作ってみたり、行き届かない部屋の掃除なんかも率先して行った。
しかし、どうやらそれは彼の理想とはかけ離れたお付き合いだったらしい。
彼は私の趣味には全く興味を示すこともなく、活発で、自身の広い交友関係の中に馴染む事を求めた。
一方で、私は特別な事はなくてもいいから寄り添って二人で穏やかな時間を過ごしたいと望んだ。
私達は付き合いを始めて程なくして既にすれ違い、連絡も少しずつ減って。
やっと半年を間近にして、この有様だ。
久しぶりに彼からの連絡が来た時、こんな事になるのでは無いかと予感はして居た。
それでも精一杯のお洒落をして今日の待ち合わせに臨んだと言うのに。
告げられた一言がその全てを打ち砕き、これが笑わずに居られるだろうか。
苛立ちを募らせた舌打ちが私に向けた心が欠片もない事を物語る。
少し離れた場所からも此方を伺う様に視線が突き刺さり、まるで私を咎めて居る様にも感じた。
「分かりました。今までありがとうございます。さようなら」
ただその言葉を受け入れて、休日の繁華街の中、踵を返す。
朝には暖かい日差しが差し込んでたと言うのに、今にも泣き出しそうな曇天が空を覆った。
膨らんだ桜の蕾が今にも綻びかけて居る。
その景色を見ても、私の心は晴れることがない。
振り返った視界の端に、彼に駆け寄る女の人の姿が見える。
仲良く手を取り合った姿を見る限り、私の居場所だった彼の隣はとうに別の人のものになってしまって居たのだろう。
……いつもこうだ。
私が求めるものは、いつも相手とすれ違う。
共にキッチンに立ち、互いの手料理を振る舞いあったり、興味深かった本や映画を相手にプレゼンする様な。
何をする訳でもなくても構わないから、時折絡む視線や指先に胸をときめかせる様な。
そんな関係をこれまで受け入れてくれた人は殆ど居ない。
いつだったか誰かに言われたのは、私の求めるものは恋人のそれではなく、夫婦のものにも見えると言う事だった。
稀に長く続いた人も居たけれど、いつからか自分を通して他人を見て居る気分だと私の元から去っていく。
私はちゃんと、その人を見て居たつもりなのに。
いつからか食い違いが生まれ、それは埋まらない溝となってしまう。
友人関係が希薄だった事はないし、学生生活もそれなりに充実したものだったと言える。
けれど、常に私の中には虚空が存在して居た。
今し方恋人と別れたばかりでも、悲しみより何がいけなかったのかと言う疑問の方が大きいのは、私自身がきっと彼に対して心を預けられて居なかった何よりの証なのだろう。
幾度も繰り返す別れにはとっくに疲弊して居ると言うのに。
夢で感じるあの高鳴りをずっと求める私は、自分でも呆れる程に滑稽だ。
家に辿り着き、そのままベッドに傾れ込む。
今日のデートの為におろしたばかりの服は、彼の好みに合わせた筈のものだった。
結局誉めてもらう事もなく、自分では選ばない色の服は今後着る気にもなれず、箪笥の肥やしになってしまうのだろう。
一人暮らしのアパートはもうすぐ更新が近づき、つい先日は別れたばかりの彼の家に近い物件を探してみよかと話した事が懐かしく思える。
けれどもう、その必要は無くなってしまった。
いっそ、職場から近い物件を探してみようかとすんなり気持ちが切り替えられたのは、長い間過ごした家に対してもあまり愛着がないからなのかもしれない。
常に私は、自分に欠けた何かを探して居る。
それが何かも判然としないと言うのに。
「……会い、たい」
ぽつりと溢れた言葉が誰に向けたものだったのかすら、私にはわからなかった。
仰向けになり、翳した己の左手に何か光る幻影を見た気がする。
これまで一度も贈られたことこない、永遠の証にも似た幻を。
もしも運命というものがあるのだとしたら、夢のあの人がそうなのだろうか。
この夢を見る様になって既に十年近く、私は未だその名前も、容姿すら知りはしない。
稲穂を思わせる金色の髪と、揺らめく焔の様な翠眼だけが酷く印象に残って。
時折、無性に心を掻き乱す。
それが誰とお付き合いをしてもうまくいかない原因なのだとしたら、私はもしかしたら誰かに呪われてでも居るのだろうか。
ただ、この現実ではそんなものは存在しない。
遥か昔はそう言ったものが栄えた事態もあったと言うけれど、今を生きる私達にとって可視化出来ないそれらは気の迷いや思い込みとして処理される。
至極当然な筈なのに、私はそれを否定したくなる時がある。
呪いとはもっと私達の身近に存在して、気付かぬうちに牙を剥くものであるのだと。
それらは何れも私達人間から生まれるもので、呪いとは奇しくも人の心の歪みなのだと。
誰に告げても夢想だと言われるこの出来事を、これまで打ち明けられた事はない。
けれど約束の鐘は刻々とその音を鳴らす刻を待ち侘びる。
それは偶然か、必然か。
或いは運命とでもいうべきなのか。
誰しもが一度は聞いた事がある、赤い糸と言うものがあるのだとしたら。
私達はきっと、幾度離れたとしても。
その糸に導かれて、惹かれ合うのだろう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
朝目が覚めて、泣いた様子すらない己の顔を見て己の薄情さに落胆した。
半ば二股をかけられた様なものだと言うのに、彼に対して怒りすら湧き上がる事はなく、ただ自分の何がいけなかったのだろうと、その答えを探して居る。
しかし、考えても考えてもこの疑問はまるで知恵の輪の如く複雑で、通勤までの僅かな時間では到底解けるものではないらしい。
仕方のなかった事だと、これまで幾度も言い聞かせた言葉を私は後何回繰り返せば良いのだろう。
そんな疑問を振り払う様にして、大きく首を振る。
職場に辿り着くや否や、彼の連絡先を消した携帯をロッカーに押し込み、私は自分を鼓舞する様に己の頬をペチンと叩いた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。今日も一日頼むよ」
「はいっ。頑張りますね」
カーディガンを羽織り、翳りを覗かせる気持ちを切り替える。
一度休憩室に立ち寄り、コーヒーメーカーを起動させて。
予約の入った患者のカルテを抱え、受付と書かれた己の定位置へと向かった。
内科を標榜して居る小さな診療所が今の私の職場であり、雇い主である家入さんは若くして開業医となった腕の立つ医師だ。
患者からの評判も良く、数少ないスタッフからの信頼も厚い。
それに加えて家入さんは私の恩人でもあり、姉の様に慕って居る数少ない人と言ってもいいだろう。
少し気怠そうな雰囲気を纏うものの、それすらも彼女の一部と感じる様になって居るのは、それなりに付き合いが長くなるからか。
受付の片隅で予定を確認しながらも、時折欠伸を噛み殺す仕草は患者さんには到底見せられたものではない。
しかし、そんな姿も私にとっては見慣れたもので。
苦笑しながら、残りの時間を確認するとカルテを纏めて席を立った。
「先生、しっかりしてください。今、コーヒー淹れますから」
「……ああ、頼む。ちょっと飲み過ぎた」
「ほどほどにして下さいね。週明けですから今日はきっと忙しいですよ」
ふらふらと身が入らない家入さんの手を引きながら、スタッフ用の休憩室に誘う。
椅子に家入さんを座らせると、直ぐ様テーブルに突っ伏す様子から昨晩は相当飲んだに違いない。
私達の出会いは今から数年前に遡る。
当時私は志望した大学に受かり、夢に向かって邁進する学生だった。
高校を卒業して、親元を離れた初めての一人暮らし。
慣れない生活は苦労も多かったけれど、それなりに充実して居たし、目に映るもの全てが新鮮で、将来に夢を描いた。
しかし、人生と言うのはどうにもうまくはいかないらしい。
実家から仕送りには極力頼らずに生活して居たものの、一年も経たない内に家庭の事情で退学を余儀なくされることになってしまった。
地元に戻り仕事を探すか、このまま都内で定職に就くか。
どちらにせよ、私自身が自立した生活をしなければならないと選択を迫られ、入学当初から見れば一転。
常に陰鬱な雰囲気を纏って居た気がする。
そんな時だった。
たまたま恩師の紹介で知り合った家入さんが、人手が欲しかったからと開業したばかりの自身の病院に来ないかと誘ってくれた。
夢があるのなら、一度自立してからでも勉強は出来るからと、励ましの言葉まで添えて。
出会った時の既視感は今でも忘れもしない。
初対面の筈なのに、何故かとても懐かしい感覚に襲われた。
胸に熱いものが込み上げて、事情だけを話した私は言葉すら無くしてしまった。
二つ返事でその申し出を受けた私はそれからと言うもの、ずっとこの病院に勤め続けて居る。
「はい。どうぞ」
「悪いな。真那の淹れてくれたやつが一番美味いんだ」
「お立てても患者さんは減りませんよ?さ、飲み終わったらお仕事頑張って下さいね」
励ましの言葉と共に淹れたばかりのカップを差し出すと、謎の外起き上がった家入さんは早速コーヒーに口を付け、一つ溜息を零した。
誰が淹れても同じだと思えるけれど、飲みすぎた翌日には必ず私の淹れたコーヒーが飲みたいと言う家入さんの小さな我儘に、私はこれまで幾度付き合ったかは数えきれない。
お酒が好きで、高校時代からのクラスメイトと度々飲みに行くのだと溢す彼女は、恐らく昨夜も気の良い仲間たちと楽しいひと時を過ごしたのだろう。
私自身も家入さんに誘われて幾度か顔を出した事がある為、ぽつぽつと語られる名前は誰も過去覚えのある人ばかりだ。
その中で知り合った五条さん。
伊地知さんや夏油さん。
彼等はとても奇妙な感覚を私に齎す。
それは家入さんと初めて会った時のものとよく似て居て、妙な既視感すら抱かせる。
まるで妹の様に接してくれる彼等が私には他人とは思えず、賑やかな場が得意ではない筈なのに、あの中に居る時だけは心地いいと感じる事が出来た。
けれどその中に、常に空席がある事を私はずっと気にして居る。
厳密に言えば、その彼がこれまで集まりに参加して居なかった訳ではない。
ただ、これまで私と彼の都合が合う事はなく、未だ面識を持たない人が居ると言うだけの話だ。
それなのに、どうにもその存在が自分にはなくてはならないものの様に感じる時があった。
賑やかな空間の中、欠けたピースがある様な。
何とも言えない違和感を。
いつか会ってみたいと言う思いは膨れ上がるばかりで、顔も知らない人に対して私は一体何を期待して居るのだと己を諌めた時もあったけれど。
どうしても、一度だけでもいいから会いたいと言う思いは日毎大きくなるばかりだ。
不定期ではあるものの、思いついた様に開催される飲み会はそろそろ時期がやって来そうな気配を感じさせて居る。
それぞれが多忙の中でも誰か一人が手を挙げると、いつのまにか集いかれこれ十年近くになる付き合いになるらしい。
その集まりの良さにはただただ、驚かされるばかりで。
現代では考えられない様な固く強い絆の様なもので結ばれて居る気さえしてしまう。
未だ、ちびちびとコーヒーを啜る家入さんの顔色が良くなり始めると、私は静かに席を立つ。
開院を待ち侘びたかの様に鳴り始めた電話はきっとこれから忙しくなると言う合図なのだろう。
時計に視線を向けると、もう開院時間は間近に迫って居た。
飲みかけのコーヒーと家入さんを診察室に押し込むと、受付に戻った私は受話器に手を伸ばした。
否、もしかしたら記憶ですらなく、ただの願望なのかも知れない。
光の束を集めた様な髪を揺らし、無骨な指が頬を撫でる。
低い声は愛おしそうに私の名を呼んで、澄んだ瞳の中に私を溶かし込んだ。
暖かい風景。
舞い散る桜はいつ見ても美しく、私達を取り囲む穏やかな空気を……ずっとずっと探し求めて居たような気がする。
長い長い間、変わることのない景色を眺めて居た。
寄り添い、手を繋ぎ。
時折訪れる懐かしい顔ぶれに笑みを浮かべて、思い出話に花を咲かせた。
時間の経過も曖昧で、桜の元に集う人は一人、一人と少しずつ数を増やす。
別れはいつも突然で、決意を固めたかの様に誰かが立ち上がると、彼らは一様にまた会おうと告げて去って行く。
朗らかに手を振る人達を見送るのはいつも私達の役目で、寂しさを分かち合う様に肩を寄せ合った。
ぽつりぽつりと人影は疎になり、賑やかだった筈の場所に残ったのは、私と彼の二人だけ。
本当は、ずっとこのままでも構わなかった。
また離れ離れになってしまう位なら、廻る時の中に戻れなくても幸せだったのに。
稀に、彼が遠くを見つめては物思いに耽る時があった。
それは彼の旅立ちを窺わせるもので。
いよいよ私達にも、その時がやってきたのだろう。
私を掻き抱く腕には痛い程の力が籠り、震えを伴う。
告げた音は少しばかりの悲しみを宿し、やがて私の手を静かに離した。
朧気な視界に映るその人の姿は、泣いて居るのか微笑んでいるのかすら定かではない。
それなのに、耳に残る音だけが微かな希望を見出す様に私を取り巻いた。
あの時、私は肯定したのか、それとも否定をしたのか。
そんな事すら覚えて居ない。
ただ、私の涙を拭う親指の感触だけが、胸を締め付けるほどに愛おしかった。
──幾星霜巡りても、私は必ずアナタを見つけます。だからその時はどうか。どうか……。
それは約束か。
はたまた彼の願望だったのか。
その言葉の続きを、私は確かに覚えて居る筈なのに。
ただ、彼の頬を伝う雫があまりにも美くしくて、泣かないでとその一言すら伝える事がいつも出来ずに終わってしまう。
「……待って!」
無意識に伸ばした手が虚空を掴む。
目を覚ました私は現と夢の狭間を彷徨い、これが夢だったのだと認識すると、途端に伸ばした腕がベッドに沈んだ。
夢の終わりは、いつもこうだった。
思春期を迎えた頃から度々見る同じ夢はとても愛おしく、暖かく、絶えず胸を締め付ける。
私は満ち足りた幸福に包まれながら何度もその人の名前を呼ぶのに。
目が覚めるといつもその響きを忘れてしまう。
何処で出会ったのかも覚えては居ない。
もしかしたら出会ってすら居ないのかもしれない。
それなのに、夢で私が抱く感情は間違いなくその人に向けた直向きな恋慕にも近いものだった。
名前も知らないその人の事を私は愛していたのだろうか。
私は、愛されて居たのだろうか。
夢の中、別れ際の私は寂しさの中にまた会えると確信を抱き、ただ頷くばかりで。
──会いたい。
ただ、その想いが粉雪の様に降り積もる。
未だ出会えぬ夢のあの人に、いつか巡り会える日を待ち侘びながら。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「別れてくれ」
いつだったか私に愛を囁いた唇が、冷たく私を突き放した時。
自分でも恐ろしくなる位冷静で居られた。
思わず笑みを溢す私に向けられたのは侮蔑にも近い氷の様な視線で。
ああ、またこうなってしまったのかとバッグを握りしめた拳だけがその痛みを訴える。
数ヶ月前、世話焼きの友人の紹介で知り合った彼には猛アプローチを受けた末、私達は交際に発展した筈だった。
私自身も、今度こそはと意気込んでみたものの、お互い社会人となれば双方が努力をしなければ時間を共有する事は難しくなる。
初めのうちは私も努力した。
彼の都合に合わせては自宅に向かったし、いつ何時でも連絡に応じられる様に務めた。
甲斐甲斐しく料理を作ってみたり、行き届かない部屋の掃除なんかも率先して行った。
しかし、どうやらそれは彼の理想とはかけ離れたお付き合いだったらしい。
彼は私の趣味には全く興味を示すこともなく、活発で、自身の広い交友関係の中に馴染む事を求めた。
一方で、私は特別な事はなくてもいいから寄り添って二人で穏やかな時間を過ごしたいと望んだ。
私達は付き合いを始めて程なくして既にすれ違い、連絡も少しずつ減って。
やっと半年を間近にして、この有様だ。
久しぶりに彼からの連絡が来た時、こんな事になるのでは無いかと予感はして居た。
それでも精一杯のお洒落をして今日の待ち合わせに臨んだと言うのに。
告げられた一言がその全てを打ち砕き、これが笑わずに居られるだろうか。
苛立ちを募らせた舌打ちが私に向けた心が欠片もない事を物語る。
少し離れた場所からも此方を伺う様に視線が突き刺さり、まるで私を咎めて居る様にも感じた。
「分かりました。今までありがとうございます。さようなら」
ただその言葉を受け入れて、休日の繁華街の中、踵を返す。
朝には暖かい日差しが差し込んでたと言うのに、今にも泣き出しそうな曇天が空を覆った。
膨らんだ桜の蕾が今にも綻びかけて居る。
その景色を見ても、私の心は晴れることがない。
振り返った視界の端に、彼に駆け寄る女の人の姿が見える。
仲良く手を取り合った姿を見る限り、私の居場所だった彼の隣はとうに別の人のものになってしまって居たのだろう。
……いつもこうだ。
私が求めるものは、いつも相手とすれ違う。
共にキッチンに立ち、互いの手料理を振る舞いあったり、興味深かった本や映画を相手にプレゼンする様な。
何をする訳でもなくても構わないから、時折絡む視線や指先に胸をときめかせる様な。
そんな関係をこれまで受け入れてくれた人は殆ど居ない。
いつだったか誰かに言われたのは、私の求めるものは恋人のそれではなく、夫婦のものにも見えると言う事だった。
稀に長く続いた人も居たけれど、いつからか自分を通して他人を見て居る気分だと私の元から去っていく。
私はちゃんと、その人を見て居たつもりなのに。
いつからか食い違いが生まれ、それは埋まらない溝となってしまう。
友人関係が希薄だった事はないし、学生生活もそれなりに充実したものだったと言える。
けれど、常に私の中には虚空が存在して居た。
今し方恋人と別れたばかりでも、悲しみより何がいけなかったのかと言う疑問の方が大きいのは、私自身がきっと彼に対して心を預けられて居なかった何よりの証なのだろう。
幾度も繰り返す別れにはとっくに疲弊して居ると言うのに。
夢で感じるあの高鳴りをずっと求める私は、自分でも呆れる程に滑稽だ。
家に辿り着き、そのままベッドに傾れ込む。
今日のデートの為におろしたばかりの服は、彼の好みに合わせた筈のものだった。
結局誉めてもらう事もなく、自分では選ばない色の服は今後着る気にもなれず、箪笥の肥やしになってしまうのだろう。
一人暮らしのアパートはもうすぐ更新が近づき、つい先日は別れたばかりの彼の家に近い物件を探してみよかと話した事が懐かしく思える。
けれどもう、その必要は無くなってしまった。
いっそ、職場から近い物件を探してみようかとすんなり気持ちが切り替えられたのは、長い間過ごした家に対してもあまり愛着がないからなのかもしれない。
常に私は、自分に欠けた何かを探して居る。
それが何かも判然としないと言うのに。
「……会い、たい」
ぽつりと溢れた言葉が誰に向けたものだったのかすら、私にはわからなかった。
仰向けになり、翳した己の左手に何か光る幻影を見た気がする。
これまで一度も贈られたことこない、永遠の証にも似た幻を。
もしも運命というものがあるのだとしたら、夢のあの人がそうなのだろうか。
この夢を見る様になって既に十年近く、私は未だその名前も、容姿すら知りはしない。
稲穂を思わせる金色の髪と、揺らめく焔の様な翠眼だけが酷く印象に残って。
時折、無性に心を掻き乱す。
それが誰とお付き合いをしてもうまくいかない原因なのだとしたら、私はもしかしたら誰かに呪われてでも居るのだろうか。
ただ、この現実ではそんなものは存在しない。
遥か昔はそう言ったものが栄えた事態もあったと言うけれど、今を生きる私達にとって可視化出来ないそれらは気の迷いや思い込みとして処理される。
至極当然な筈なのに、私はそれを否定したくなる時がある。
呪いとはもっと私達の身近に存在して、気付かぬうちに牙を剥くものであるのだと。
それらは何れも私達人間から生まれるもので、呪いとは奇しくも人の心の歪みなのだと。
誰に告げても夢想だと言われるこの出来事を、これまで打ち明けられた事はない。
けれど約束の鐘は刻々とその音を鳴らす刻を待ち侘びる。
それは偶然か、必然か。
或いは運命とでもいうべきなのか。
誰しもが一度は聞いた事がある、赤い糸と言うものがあるのだとしたら。
私達はきっと、幾度離れたとしても。
その糸に導かれて、惹かれ合うのだろう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
朝目が覚めて、泣いた様子すらない己の顔を見て己の薄情さに落胆した。
半ば二股をかけられた様なものだと言うのに、彼に対して怒りすら湧き上がる事はなく、ただ自分の何がいけなかったのだろうと、その答えを探して居る。
しかし、考えても考えてもこの疑問はまるで知恵の輪の如く複雑で、通勤までの僅かな時間では到底解けるものではないらしい。
仕方のなかった事だと、これまで幾度も言い聞かせた言葉を私は後何回繰り返せば良いのだろう。
そんな疑問を振り払う様にして、大きく首を振る。
職場に辿り着くや否や、彼の連絡先を消した携帯をロッカーに押し込み、私は自分を鼓舞する様に己の頬をペチンと叩いた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。今日も一日頼むよ」
「はいっ。頑張りますね」
カーディガンを羽織り、翳りを覗かせる気持ちを切り替える。
一度休憩室に立ち寄り、コーヒーメーカーを起動させて。
予約の入った患者のカルテを抱え、受付と書かれた己の定位置へと向かった。
内科を標榜して居る小さな診療所が今の私の職場であり、雇い主である家入さんは若くして開業医となった腕の立つ医師だ。
患者からの評判も良く、数少ないスタッフからの信頼も厚い。
それに加えて家入さんは私の恩人でもあり、姉の様に慕って居る数少ない人と言ってもいいだろう。
少し気怠そうな雰囲気を纏うものの、それすらも彼女の一部と感じる様になって居るのは、それなりに付き合いが長くなるからか。
受付の片隅で予定を確認しながらも、時折欠伸を噛み殺す仕草は患者さんには到底見せられたものではない。
しかし、そんな姿も私にとっては見慣れたもので。
苦笑しながら、残りの時間を確認するとカルテを纏めて席を立った。
「先生、しっかりしてください。今、コーヒー淹れますから」
「……ああ、頼む。ちょっと飲み過ぎた」
「ほどほどにして下さいね。週明けですから今日はきっと忙しいですよ」
ふらふらと身が入らない家入さんの手を引きながら、スタッフ用の休憩室に誘う。
椅子に家入さんを座らせると、直ぐ様テーブルに突っ伏す様子から昨晩は相当飲んだに違いない。
私達の出会いは今から数年前に遡る。
当時私は志望した大学に受かり、夢に向かって邁進する学生だった。
高校を卒業して、親元を離れた初めての一人暮らし。
慣れない生活は苦労も多かったけれど、それなりに充実して居たし、目に映るもの全てが新鮮で、将来に夢を描いた。
しかし、人生と言うのはどうにもうまくはいかないらしい。
実家から仕送りには極力頼らずに生活して居たものの、一年も経たない内に家庭の事情で退学を余儀なくされることになってしまった。
地元に戻り仕事を探すか、このまま都内で定職に就くか。
どちらにせよ、私自身が自立した生活をしなければならないと選択を迫られ、入学当初から見れば一転。
常に陰鬱な雰囲気を纏って居た気がする。
そんな時だった。
たまたま恩師の紹介で知り合った家入さんが、人手が欲しかったからと開業したばかりの自身の病院に来ないかと誘ってくれた。
夢があるのなら、一度自立してからでも勉強は出来るからと、励ましの言葉まで添えて。
出会った時の既視感は今でも忘れもしない。
初対面の筈なのに、何故かとても懐かしい感覚に襲われた。
胸に熱いものが込み上げて、事情だけを話した私は言葉すら無くしてしまった。
二つ返事でその申し出を受けた私はそれからと言うもの、ずっとこの病院に勤め続けて居る。
「はい。どうぞ」
「悪いな。真那の淹れてくれたやつが一番美味いんだ」
「お立てても患者さんは減りませんよ?さ、飲み終わったらお仕事頑張って下さいね」
励ましの言葉と共に淹れたばかりのカップを差し出すと、謎の外起き上がった家入さんは早速コーヒーに口を付け、一つ溜息を零した。
誰が淹れても同じだと思えるけれど、飲みすぎた翌日には必ず私の淹れたコーヒーが飲みたいと言う家入さんの小さな我儘に、私はこれまで幾度付き合ったかは数えきれない。
お酒が好きで、高校時代からのクラスメイトと度々飲みに行くのだと溢す彼女は、恐らく昨夜も気の良い仲間たちと楽しいひと時を過ごしたのだろう。
私自身も家入さんに誘われて幾度か顔を出した事がある為、ぽつぽつと語られる名前は誰も過去覚えのある人ばかりだ。
その中で知り合った五条さん。
伊地知さんや夏油さん。
彼等はとても奇妙な感覚を私に齎す。
それは家入さんと初めて会った時のものとよく似て居て、妙な既視感すら抱かせる。
まるで妹の様に接してくれる彼等が私には他人とは思えず、賑やかな場が得意ではない筈なのに、あの中に居る時だけは心地いいと感じる事が出来た。
けれどその中に、常に空席がある事を私はずっと気にして居る。
厳密に言えば、その彼がこれまで集まりに参加して居なかった訳ではない。
ただ、これまで私と彼の都合が合う事はなく、未だ面識を持たない人が居ると言うだけの話だ。
それなのに、どうにもその存在が自分にはなくてはならないものの様に感じる時があった。
賑やかな空間の中、欠けたピースがある様な。
何とも言えない違和感を。
いつか会ってみたいと言う思いは膨れ上がるばかりで、顔も知らない人に対して私は一体何を期待して居るのだと己を諌めた時もあったけれど。
どうしても、一度だけでもいいから会いたいと言う思いは日毎大きくなるばかりだ。
不定期ではあるものの、思いついた様に開催される飲み会はそろそろ時期がやって来そうな気配を感じさせて居る。
それぞれが多忙の中でも誰か一人が手を挙げると、いつのまにか集いかれこれ十年近くになる付き合いになるらしい。
その集まりの良さにはただただ、驚かされるばかりで。
現代では考えられない様な固く強い絆の様なもので結ばれて居る気さえしてしまう。
未だ、ちびちびとコーヒーを啜る家入さんの顔色が良くなり始めると、私は静かに席を立つ。
開院を待ち侘びたかの様に鳴り始めた電話はきっとこれから忙しくなると言う合図なのだろう。
時計に視線を向けると、もう開院時間は間近に迫って居た。
飲みかけのコーヒーと家入さんを診察室に押し込むと、受付に戻った私は受話器に手を伸ばした。