愛と言う名の咎
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そこはとても暖かい場所だった。
太陽なんてあるはずがないのに、始終暖かい日差しのような温もりを感じて、とても心地がいい。
何処からかやってくる微風が私の頬を優しく撫でて、目の前にはどれほど花びらを散らしても決して枯れることのない大きな桜の木が、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
…私は、死んでしまった。
数日後には京都に向かい、想い出に縋りながらでも平穏な日々を過ごして行こうとしていた直前のこと。
訳もわからず闇の中に放り込まれて、脆く軟いものをぐしゃぐしゃに歪められた感覚だけはなんとなく覚えている。
ずっと誰かに助けてと願った気もしたけれど…それも酷く曖昧だった。
人はどうしようもない事象に遭遇すると諦めの方が上回ってしまうのかも知れない。
同じ時間を生きている間は望みなんて無くても勝手に希望を見出しては縋ろうとしていたのに、生と死という隔たりの前では完全なる無力だ。
私の時間は止まり、彼の時間は動いているのだから。
こうなってしまっては、いつか彼が来るであろう日を待ち侘びるしか無い。
私が死んで、彼は私を思い出してしまったのだろうか。
あれ程思い出して欲しいと願ったのに。
もう一度幸せな日々を取り戻したいと願い、取り戻せない日々に嘆いたというのに、今となっては執着にも似た想いにこれでは彼も疲弊してしまう筈だと自嘲してしまう。
今、建人さんはどんな想いで日々を過ごしているのだろう。
どうか泣かないで欲しい。
私は、十分幸せだった。
貴方の幸せを願ってる。
ただ…アナタとの記憶はあまりにも優しすぎて、側にいる事が少し辛くなってしまった。
…逃げ出してしまった。
いつ来るかも分からない待ち人。
それでも此処で待ち続けることが出来るなら、貴方と出会った日のことを思い返しながらきっと静かに時を過ごせる。
誰の視線にも怯えることもなく、思い浮かべた貴方を見つめて名前を呼べる。
次に貴方に会える時、少しは私の事を覚えていてくれているでしょうか。
例えば他に誰かを愛して、その人と添い遂げられたとしても…私を見て懐かしさに目を細めてくれるでしょうか。
誰も来ないと思われたその空間。
酷く穏やかで懐かしい声をした尋人は、唐突に私の元にやってきた。
「すみません、少しお尋ねしたいのですが」
「はい」
「人を探しているんです。…最愛の女性を」
「すみません、私は誰も見ては居ません。時間の感覚も無いですが此処にはずっと一人で居ます」
「そうですか…。生前私は彼女を酷く傷つけてしまって、謝ることが出来なかったんです。許してもらえるか分からないが謝罪をしたい。どうしても彼女を見つけ出して、もう一度抱きしめたいんです」
その人は酷くがっかりした様子で声を落とし、私は背を向けたまま、ただ桜の木を眺めていた。
私はその人が誰かを知っている。
けれどきっと、少し顔を見るのが怖かったのだろう。
優しい声はその人をとても大切に思っている事を物語っている。
あれ程誰かと幸せにと願った癖に、彼の探している人に嫉妬をしているのだと気づくのに時間は掛からなかった。
私も…その場所に居たかったと、どうしても思ってしまうから。
音の無い空間というのは些細な息遣いさえ耳に届けてしまう。
鼓動などあるはずも無いのに、締め付けられる胸は痛み、大きく脈を打つようにさえ感じて出来るだけ平静を装いながら私は言葉を返していた。
「…素敵ですね。貴方にそこまで想われて居るその人が、私は羨ましいです」
「そんな事はありません、私は情けない男なんです。
彼女に多くの悲しみと苦痛を強いた。
長い間苦しませたのに、私はたった一ヶ月という期間さえも耐え難く、生きた心地がしなかった。それに、夢で会いましょうと言っていたのに彼女は一度も会いに来てはくれませんでした」
「そうですか…。それならきっと酷い人ですね」
「酷いのは私です。…結婚の約束までした人だった。仕事柄、私には常に危険が伴うので無責任な事はしたくなかった。けれど、彼女を手放すことだけはどうしても出来なくて、プロポーズを受けてくれた時は天にも昇る想いでした。生涯ただ一人、彼女だけを愛し抜くと自分自身に誓った人です。…お願いします。真那、こちらを見てはくれませんか?」
ほんの僅かな期待。
それが確信に変わり背後から抱きすくめられた瞬間、私の瞳からは大粒の涙が溢れ出る。
微かに懐かしい香水の匂いがして、視界に入る大きな手はいつも優しく私に触れてくれたもの。
その左手の薬指には見覚えのある愛の証が光っている。
私は振り解く事も出来ず、その腕を掴み身体を震わせた。
私が死んでから一ヶ月…。
その言葉が本当だと言うのなら、彼の生は私を思い出した苦しみだけで終わってしまったことになる。
せめて幸せに過ごせたと、例え私以外の人を愛したとしてもそう言ってもらえたら少しは救われたのに。
あまりにも、早すぎる。
「…どうして。ゆっくり来てくださいとお願いしたのに」
「すみません…私にアナタの居ない世界は寂しすぎました。これでも頑張っては見たんです。
自業自得だと。アナタの分まで苦しむべきだと。
それでも、アナタより遥かに短い時間さえも私には耐えられませんでした」
私の頬に涙痕を残して、落ちた雫は彼のジャケットにいくつも染みをつくっていく。
はらはらと溢れる涙は私と彼のどちらを憐れんでいたのか定かではない。
ただ、現実とはどこまでも厳酷なものなのかと思い知らされた気がした。
きっと彼の事だからその言葉に嘘はない。
私がいなくなっても頑張ろうとしてくれたのだろう。
けれど、現世に居るのと居ないのとでは本質的な部分が違ってくる。
私もきっと、彼が先にこちらに来てしまっていたら同じように思っていたのだろう。
ここに来てからも何度も会いたいと思った。
心の底からもう一度貴方の腕に包まれたいと望んでいた。
…それでも、いくらでも待つからもう少し生きていて欲しかったと思う私は我儘でしょうか。
「アナタからの沢山の愛を受け取りました。それなのに、私は何一つ返すことが出来なかった。
手紙もネクタイも、料理のレシピも、オルゴールも…泣きたいほどに嬉しい贈り物なのに。ありがとうと言葉を伝える人が居ないんです」
「全部…貰ったんですか?オルゴールまで…」
独りよがりな願いを込めて、親しい人たちに託した様々なもの。
本当なら捨てる筈だったオルゴールは生前に私が倒れた時、部屋まで送り届けてくれた五条さんに見つかり、そのまま引き取られたものだった。
結婚式を挙げたら、その日の夜に彼に渡そうと密かに準備していたもの。
二人で撮った写真を飾り、リングピローを中にしまって、時折二人で音色に耳を傾けられたらと…。
そう願って用意した不要になってしまった筈のもの。
「毎日、あの曲に耳を傾けていました。ですがアナタの口ずさむ声が聞こえないのは寂しいし、レシピ通りに料理を作っても何処か味が違うんです。
アナタで無ければ、私は駄目なんです。どうか許しを請いたい。真那…私はアナタを愛しています」
痛いほどに力の篭った腕は彼の寂しさの表れなのだろうか。
離れていくな、何処にも行くなとでも言うように私をきつく閉じ込める腕の中は、まるで揺籠のように心地が良いものだった。
…懐かしい言葉を聞いた。
幸せだった日々の中で毎日のように囁いてくれた、大好きな言葉。
彼に微笑みながらそう言ってもらえるだけで、私は自分が世界で一番幸せな人間なのだと思えるほどに満ち足りた気持ちになっていた。
二度と聞くことは無いと思っていた言葉は、一度は凪いだはずの感情を大きく揺さぶる。
堪えきれず嗚咽を漏らすと反転させられた身体は彼の胸元に押しつけられ、一層強く彼の香りと温もりを感じて子供のように泣きじゃくる私の背中を、大きな掌が優しく触れた。
「誰も悪くはありません。あの病は仕方のないことだった。…でも、辛かったです。苦しかった。悲しかったし、寂しかった。…一緒に、生きていたかった」
「私もです。アナタと共に生きたかった」
死者が生者に戻れることなどありはしない。
私達の時間は尽きたものであり、動き出すことも巻き戻ることも二度とない。
それが事実であり真理。
此処にいつまで居られるのかも定かではなく、再び訪れるかも知れない別れの時が急に恐ろしくなり始めた私は、彼のジャケットを握りしめていた。
…やっと会えたのに。
私が愛し、私を愛してくれていた時の建人さんが目の前にいると言うのに。
「もう…離れるのは嫌です」
「離しはしません。…二度とあんな思いはしたくない。真那、左手を出し貰えますか」
言われるがままに私は少し距離を取ると左手を彼の前に差し出した。
此処は所謂、約束の地とでも言えば良いのだろうか。
不思議なもので、泣き別れた筈の腕はまるで何事もなかったかのように私の元に戻って居り、彼も任務中に命を落としたのなら死に際はきっと凄惨なものだった筈なのに、その姿は見慣れた普段のものだった。
私から腕を離し両手を首の後ろに回した彼は何かを外し、私の左手を掬い上げていく。
彼の指に光るものと同じ銀白色は、死に際に私の元から離れて行ってしまった指輪だった。
「もしも来世があるのなら、必ずアナタを見つけます。今度こそ、アナタを私の妻にしたい」
「持ってきて、くれたんですね」
「アナタが居なくなってから、ずっと一緒でしたよ」
それは、彼からの三度目のプロポーズだった。
三度目の正直なんて言葉はよく聞くけれど、まさか人生において大事な分岐点となる言葉を同じ人から三度も聞くことになるとは誰も予想しないだろう。
彼の指先が私の指を滑り愛の証が在るべき場所へと戻ると、そのまま互いの指先が絡み合っていく。
離れることの無いよう、しっかりと互いの温もりを感じながら。
久しぶりに触れる彼の温もりに、私は戸惑いが隠しきれなくて。
まるで初恋が実ったばかりの少女のような心持ちだったのかも知れない。
そんな様子に気づいたのか、建人さんは優しい色をした翠眼でこちらを見つめると突然私の身体を抱き上げていく。
「建人さん、下ろして…」
「駄目です。捕まっていてくれたら落ちませんし、私は一秒もアナタを離したくない」
そうは言っても本来の自分の目線よりも遥かに高い位置。
建人さんの顔さえも見下ろすような状況で私は彼の肩を掴んで必死になっていた。
その様子を眺める目は、懐かしくて暖かくて、思い出の中のよく知る優しい姿でありながらも少し意地の悪いもので、しがみつく私を見ては目を細めて口元を綻ばせる。
「アナタからの口付けを貰えませんか?」
「…え」
「お願いします。アナタからの愛が無いと乾涸びてしまうんです。私に愛という水を与えてください」
建人さんは静かに翠の瞳を閉ざして顔を上げた。
愛の言葉と共に幾度も触れた筈の唇は今の私には一年ぶりに触れるものであり、平静でなど居られない。
固まったままの私と、瞳を閉じて私の唇を待ち侘びる彼の間に微風が吹き抜ける。
いつまで経っても動く気配のない私に痺れを切らしたのか、片腕で私を抱き上げたまま彼の手は私の後頭部に添えられた。
徐々に近づく距離。
ほんの僅かな筈なのにそれはとても長いものに感じ、柔らかい温もりに触れた瞬間。
息を吹き返したかのように懐かしく幸せな記憶達が溢れ出す。
一度交わしてしまえば後はただ彼を求めるだけで、互いの隙間を寸分の隙もなく埋めるように私達は抱き合っていた。
「愛しています」
「私も、です」
嬉しくて涙が出るのはいつぶりだっただろうか。
今の私は、これまでの苦しみさえも全て溶かして行ってしまう程の幸福に包まれていた。
怖くはない、悲しみもない。
もう、痛みも不安もない。
約束の地で散りゆく花が枯れる事は無く、出会ったあの頃と同じようにヒラヒラと舞い落ちる。
私達はその姿に見惚れると額を合わせて微笑みあった。
「建人さん、一つお願いがあります」
「何ですか?」
「灰原さんに、会ってみたいです」
昔話してくれた建人さんの唯一のクラスメイトであり親友だというその人は、高専時代に任務で命を落としたのだと聞いている。
建人さんに出会えたのなら、もしかしたら彼も居るのかも知れないと私の中に期待が過っていた。
そうしたら、建人さんは恥ずかしがるかも知れないけれど、私の知らない彼の話をもう少しだけ教えて欲しいとも思っている。
明確な時間の概念が無いというのは何とも不思議なものだった。
思えばここに来てからは空腹もなく、乾きもなく、夜もない。
輪廻というものが確かに在るというのなら随分前からこちらの住人の彼は既に居ないのかも知れないけれど、私たちにはきっと少しのゆとりはある筈だ。
「そうですね。随分前になりますが、彼もまだどこかにいるかも知れませんね。ですが少し気乗りしない」
「どうしてですか?」
「灰原は人誑しなんです。誰の心の内側にもすんなり入っていける人なんですよ。…アナタを取られたくない」
まるで子供のような拗ね方をする建人さんに私は目を瞬き、その後にゆっくりと細める。
少し赤くなったように思える頬に手を添えて大丈夫ですよと、あやすように告げた私に幾度目かの口付けが降り注ぐと私の身体は漸く自分の脚で立つ事を許された。
隣に立つ彼は、ただ私を優しく見つめてくれた。
「行きましょうか」
「はい」
私達は行き先も決めずに歩き始める。
もしも、再び現世で貴方に会えるなら二度と貴方と離れはしないでしょう。
例えば生と死という境界で分たれたもしても、何度でも会いに行きます。
だから、どうか…。
何度でも私を貴方のお嫁さんにして欲しい。
建人さん、愛しています。
ずっと、ずっと…。
太陽なんてあるはずがないのに、始終暖かい日差しのような温もりを感じて、とても心地がいい。
何処からかやってくる微風が私の頬を優しく撫でて、目の前にはどれほど花びらを散らしても決して枯れることのない大きな桜の木が、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
…私は、死んでしまった。
数日後には京都に向かい、想い出に縋りながらでも平穏な日々を過ごして行こうとしていた直前のこと。
訳もわからず闇の中に放り込まれて、脆く軟いものをぐしゃぐしゃに歪められた感覚だけはなんとなく覚えている。
ずっと誰かに助けてと願った気もしたけれど…それも酷く曖昧だった。
人はどうしようもない事象に遭遇すると諦めの方が上回ってしまうのかも知れない。
同じ時間を生きている間は望みなんて無くても勝手に希望を見出しては縋ろうとしていたのに、生と死という隔たりの前では完全なる無力だ。
私の時間は止まり、彼の時間は動いているのだから。
こうなってしまっては、いつか彼が来るであろう日を待ち侘びるしか無い。
私が死んで、彼は私を思い出してしまったのだろうか。
あれ程思い出して欲しいと願ったのに。
もう一度幸せな日々を取り戻したいと願い、取り戻せない日々に嘆いたというのに、今となっては執着にも似た想いにこれでは彼も疲弊してしまう筈だと自嘲してしまう。
今、建人さんはどんな想いで日々を過ごしているのだろう。
どうか泣かないで欲しい。
私は、十分幸せだった。
貴方の幸せを願ってる。
ただ…アナタとの記憶はあまりにも優しすぎて、側にいる事が少し辛くなってしまった。
…逃げ出してしまった。
いつ来るかも分からない待ち人。
それでも此処で待ち続けることが出来るなら、貴方と出会った日のことを思い返しながらきっと静かに時を過ごせる。
誰の視線にも怯えることもなく、思い浮かべた貴方を見つめて名前を呼べる。
次に貴方に会える時、少しは私の事を覚えていてくれているでしょうか。
例えば他に誰かを愛して、その人と添い遂げられたとしても…私を見て懐かしさに目を細めてくれるでしょうか。
誰も来ないと思われたその空間。
酷く穏やかで懐かしい声をした尋人は、唐突に私の元にやってきた。
「すみません、少しお尋ねしたいのですが」
「はい」
「人を探しているんです。…最愛の女性を」
「すみません、私は誰も見ては居ません。時間の感覚も無いですが此処にはずっと一人で居ます」
「そうですか…。生前私は彼女を酷く傷つけてしまって、謝ることが出来なかったんです。許してもらえるか分からないが謝罪をしたい。どうしても彼女を見つけ出して、もう一度抱きしめたいんです」
その人は酷くがっかりした様子で声を落とし、私は背を向けたまま、ただ桜の木を眺めていた。
私はその人が誰かを知っている。
けれどきっと、少し顔を見るのが怖かったのだろう。
優しい声はその人をとても大切に思っている事を物語っている。
あれ程誰かと幸せにと願った癖に、彼の探している人に嫉妬をしているのだと気づくのに時間は掛からなかった。
私も…その場所に居たかったと、どうしても思ってしまうから。
音の無い空間というのは些細な息遣いさえ耳に届けてしまう。
鼓動などあるはずも無いのに、締め付けられる胸は痛み、大きく脈を打つようにさえ感じて出来るだけ平静を装いながら私は言葉を返していた。
「…素敵ですね。貴方にそこまで想われて居るその人が、私は羨ましいです」
「そんな事はありません、私は情けない男なんです。
彼女に多くの悲しみと苦痛を強いた。
長い間苦しませたのに、私はたった一ヶ月という期間さえも耐え難く、生きた心地がしなかった。それに、夢で会いましょうと言っていたのに彼女は一度も会いに来てはくれませんでした」
「そうですか…。それならきっと酷い人ですね」
「酷いのは私です。…結婚の約束までした人だった。仕事柄、私には常に危険が伴うので無責任な事はしたくなかった。けれど、彼女を手放すことだけはどうしても出来なくて、プロポーズを受けてくれた時は天にも昇る想いでした。生涯ただ一人、彼女だけを愛し抜くと自分自身に誓った人です。…お願いします。真那、こちらを見てはくれませんか?」
ほんの僅かな期待。
それが確信に変わり背後から抱きすくめられた瞬間、私の瞳からは大粒の涙が溢れ出る。
微かに懐かしい香水の匂いがして、視界に入る大きな手はいつも優しく私に触れてくれたもの。
その左手の薬指には見覚えのある愛の証が光っている。
私は振り解く事も出来ず、その腕を掴み身体を震わせた。
私が死んでから一ヶ月…。
その言葉が本当だと言うのなら、彼の生は私を思い出した苦しみだけで終わってしまったことになる。
せめて幸せに過ごせたと、例え私以外の人を愛したとしてもそう言ってもらえたら少しは救われたのに。
あまりにも、早すぎる。
「…どうして。ゆっくり来てくださいとお願いしたのに」
「すみません…私にアナタの居ない世界は寂しすぎました。これでも頑張っては見たんです。
自業自得だと。アナタの分まで苦しむべきだと。
それでも、アナタより遥かに短い時間さえも私には耐えられませんでした」
私の頬に涙痕を残して、落ちた雫は彼のジャケットにいくつも染みをつくっていく。
はらはらと溢れる涙は私と彼のどちらを憐れんでいたのか定かではない。
ただ、現実とはどこまでも厳酷なものなのかと思い知らされた気がした。
きっと彼の事だからその言葉に嘘はない。
私がいなくなっても頑張ろうとしてくれたのだろう。
けれど、現世に居るのと居ないのとでは本質的な部分が違ってくる。
私もきっと、彼が先にこちらに来てしまっていたら同じように思っていたのだろう。
ここに来てからも何度も会いたいと思った。
心の底からもう一度貴方の腕に包まれたいと望んでいた。
…それでも、いくらでも待つからもう少し生きていて欲しかったと思う私は我儘でしょうか。
「アナタからの沢山の愛を受け取りました。それなのに、私は何一つ返すことが出来なかった。
手紙もネクタイも、料理のレシピも、オルゴールも…泣きたいほどに嬉しい贈り物なのに。ありがとうと言葉を伝える人が居ないんです」
「全部…貰ったんですか?オルゴールまで…」
独りよがりな願いを込めて、親しい人たちに託した様々なもの。
本当なら捨てる筈だったオルゴールは生前に私が倒れた時、部屋まで送り届けてくれた五条さんに見つかり、そのまま引き取られたものだった。
結婚式を挙げたら、その日の夜に彼に渡そうと密かに準備していたもの。
二人で撮った写真を飾り、リングピローを中にしまって、時折二人で音色に耳を傾けられたらと…。
そう願って用意した不要になってしまった筈のもの。
「毎日、あの曲に耳を傾けていました。ですがアナタの口ずさむ声が聞こえないのは寂しいし、レシピ通りに料理を作っても何処か味が違うんです。
アナタで無ければ、私は駄目なんです。どうか許しを請いたい。真那…私はアナタを愛しています」
痛いほどに力の篭った腕は彼の寂しさの表れなのだろうか。
離れていくな、何処にも行くなとでも言うように私をきつく閉じ込める腕の中は、まるで揺籠のように心地が良いものだった。
…懐かしい言葉を聞いた。
幸せだった日々の中で毎日のように囁いてくれた、大好きな言葉。
彼に微笑みながらそう言ってもらえるだけで、私は自分が世界で一番幸せな人間なのだと思えるほどに満ち足りた気持ちになっていた。
二度と聞くことは無いと思っていた言葉は、一度は凪いだはずの感情を大きく揺さぶる。
堪えきれず嗚咽を漏らすと反転させられた身体は彼の胸元に押しつけられ、一層強く彼の香りと温もりを感じて子供のように泣きじゃくる私の背中を、大きな掌が優しく触れた。
「誰も悪くはありません。あの病は仕方のないことだった。…でも、辛かったです。苦しかった。悲しかったし、寂しかった。…一緒に、生きていたかった」
「私もです。アナタと共に生きたかった」
死者が生者に戻れることなどありはしない。
私達の時間は尽きたものであり、動き出すことも巻き戻ることも二度とない。
それが事実であり真理。
此処にいつまで居られるのかも定かではなく、再び訪れるかも知れない別れの時が急に恐ろしくなり始めた私は、彼のジャケットを握りしめていた。
…やっと会えたのに。
私が愛し、私を愛してくれていた時の建人さんが目の前にいると言うのに。
「もう…離れるのは嫌です」
「離しはしません。…二度とあんな思いはしたくない。真那、左手を出し貰えますか」
言われるがままに私は少し距離を取ると左手を彼の前に差し出した。
此処は所謂、約束の地とでも言えば良いのだろうか。
不思議なもので、泣き別れた筈の腕はまるで何事もなかったかのように私の元に戻って居り、彼も任務中に命を落としたのなら死に際はきっと凄惨なものだった筈なのに、その姿は見慣れた普段のものだった。
私から腕を離し両手を首の後ろに回した彼は何かを外し、私の左手を掬い上げていく。
彼の指に光るものと同じ銀白色は、死に際に私の元から離れて行ってしまった指輪だった。
「もしも来世があるのなら、必ずアナタを見つけます。今度こそ、アナタを私の妻にしたい」
「持ってきて、くれたんですね」
「アナタが居なくなってから、ずっと一緒でしたよ」
それは、彼からの三度目のプロポーズだった。
三度目の正直なんて言葉はよく聞くけれど、まさか人生において大事な分岐点となる言葉を同じ人から三度も聞くことになるとは誰も予想しないだろう。
彼の指先が私の指を滑り愛の証が在るべき場所へと戻ると、そのまま互いの指先が絡み合っていく。
離れることの無いよう、しっかりと互いの温もりを感じながら。
久しぶりに触れる彼の温もりに、私は戸惑いが隠しきれなくて。
まるで初恋が実ったばかりの少女のような心持ちだったのかも知れない。
そんな様子に気づいたのか、建人さんは優しい色をした翠眼でこちらを見つめると突然私の身体を抱き上げていく。
「建人さん、下ろして…」
「駄目です。捕まっていてくれたら落ちませんし、私は一秒もアナタを離したくない」
そうは言っても本来の自分の目線よりも遥かに高い位置。
建人さんの顔さえも見下ろすような状況で私は彼の肩を掴んで必死になっていた。
その様子を眺める目は、懐かしくて暖かくて、思い出の中のよく知る優しい姿でありながらも少し意地の悪いもので、しがみつく私を見ては目を細めて口元を綻ばせる。
「アナタからの口付けを貰えませんか?」
「…え」
「お願いします。アナタからの愛が無いと乾涸びてしまうんです。私に愛という水を与えてください」
建人さんは静かに翠の瞳を閉ざして顔を上げた。
愛の言葉と共に幾度も触れた筈の唇は今の私には一年ぶりに触れるものであり、平静でなど居られない。
固まったままの私と、瞳を閉じて私の唇を待ち侘びる彼の間に微風が吹き抜ける。
いつまで経っても動く気配のない私に痺れを切らしたのか、片腕で私を抱き上げたまま彼の手は私の後頭部に添えられた。
徐々に近づく距離。
ほんの僅かな筈なのにそれはとても長いものに感じ、柔らかい温もりに触れた瞬間。
息を吹き返したかのように懐かしく幸せな記憶達が溢れ出す。
一度交わしてしまえば後はただ彼を求めるだけで、互いの隙間を寸分の隙もなく埋めるように私達は抱き合っていた。
「愛しています」
「私も、です」
嬉しくて涙が出るのはいつぶりだっただろうか。
今の私は、これまでの苦しみさえも全て溶かして行ってしまう程の幸福に包まれていた。
怖くはない、悲しみもない。
もう、痛みも不安もない。
約束の地で散りゆく花が枯れる事は無く、出会ったあの頃と同じようにヒラヒラと舞い落ちる。
私達はその姿に見惚れると額を合わせて微笑みあった。
「建人さん、一つお願いがあります」
「何ですか?」
「灰原さんに、会ってみたいです」
昔話してくれた建人さんの唯一のクラスメイトであり親友だというその人は、高専時代に任務で命を落としたのだと聞いている。
建人さんに出会えたのなら、もしかしたら彼も居るのかも知れないと私の中に期待が過っていた。
そうしたら、建人さんは恥ずかしがるかも知れないけれど、私の知らない彼の話をもう少しだけ教えて欲しいとも思っている。
明確な時間の概念が無いというのは何とも不思議なものだった。
思えばここに来てからは空腹もなく、乾きもなく、夜もない。
輪廻というものが確かに在るというのなら随分前からこちらの住人の彼は既に居ないのかも知れないけれど、私たちにはきっと少しのゆとりはある筈だ。
「そうですね。随分前になりますが、彼もまだどこかにいるかも知れませんね。ですが少し気乗りしない」
「どうしてですか?」
「灰原は人誑しなんです。誰の心の内側にもすんなり入っていける人なんですよ。…アナタを取られたくない」
まるで子供のような拗ね方をする建人さんに私は目を瞬き、その後にゆっくりと細める。
少し赤くなったように思える頬に手を添えて大丈夫ですよと、あやすように告げた私に幾度目かの口付けが降り注ぐと私の身体は漸く自分の脚で立つ事を許された。
隣に立つ彼は、ただ私を優しく見つめてくれた。
「行きましょうか」
「はい」
私達は行き先も決めずに歩き始める。
もしも、再び現世で貴方に会えるなら二度と貴方と離れはしないでしょう。
例えば生と死という境界で分たれたもしても、何度でも会いに行きます。
だから、どうか…。
何度でも私を貴方のお嫁さんにして欲しい。
建人さん、愛しています。
ずっと、ずっと…。