たとえ、どんなに
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師走とは文字通り師も走る程に慌しいと言う意味らしい。
毎年の事ながらこの時期には先生も五条家の用事で多忙になり、年末にかけて休暇を申請する補助監督も多くなる。
そうは言っても万年多忙、年中無休の呪術界。
完全に人手が居なくなってしまうのは困る訳で、当然ある程度の調整は必要になり、そんな中で私の様に帰省の予定がない人間は重宝される。
高専に入学してから三年。
それは即ち親元を離れた何月と同じになる訳だけれど、これまで私は両親と連絡を取り合うこともなく、病んだ母と仕事に居場所を求め逃げた父が今をどうしているかを知りはしなかった。
きっとあの人達の時間は弟が居なくなってしまった瞬間からその刻を止めてしまったのだろう。
それ自体を悲しく思う事もなくなってしまった。
私とて、いつ死ぬかもわからない呪術界に身を置くのならば私が死んで両親が憂うと言うのは心が痛む。
けれどまるでその存在が初めからなかったかの様に扱われると言うのは寂しいと矛盾した気持ちは常に胸の中に蔓延り続け、もしかしたら五条先生にばかり辛辣な態度を取ってしまうのは先生の性格もあるのだろうけれど私なりの反抗期だったのかも知れない。
誰しもが持つ「帰る場所」が存在しない私は、まるで世界に置き去りにされた様な錯覚を齎し、冷え込みの厳しくなった部屋の中、暖房もつけずに毛布に包まり震える日が増えた。
その年だけは一人で過ごせて居た筈の年の瀬がやけに億劫だった。
けれどそんな様子を常に続ける何気ない文面から察してくれた恵君がもうすぐ年が変わる直前に連絡をくれて。
その時ほど救われたと思った時は無かった。
年が開ければ互いに最終学年に向けての予定がやってくる。
目まぐるしい日々に追われる事は確実だけれど、それでも恵君はまた会いに行くから何か作って欲くれと、少し不遜な物言いでその弟っぷりを遺憾なく発揮してくれて。
その言葉が現実になる事を楽しみに待ち侘びながら忙しない日々はあっという間に過ぎ去り、雪解けと共に春の息吹が感じ始める季節となると私は高専の四年生に、恵君は中学三年生となった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
昔は五年制だったと言う高専は、現在は少しその体制を変えて四年制となっている。
三年までの間に必修科目を終えると最後の一年は主に呪術師として任務を行う事が殆どとなり、それはこの先高専を去る選択をするものにとっては新しい進路を決めて生活の準備を整える為の大切な一年となるのだろう。
しかし言わずものがな、私に後者の道を選ぶと言う選択は存在しない。
四年になった際には一年生が四人とこれまでの比ではないほど多く入学してきたらしいけれど彼らとの接点も薄く、今の私の日常は殆どが任務で始まり任務で終わるものへと変わっていた。
それと言うのも四年になるのと同時に一級の推薦をもらう事ができ、現在は準一級として任務に当たっている事も大きいだろう。
既にこの時、まだ一年は猶予があると言うのに高専への入学が決まっている恵君も二級が確定して居る。
私としては想い人であるのと同時に幼い頃から成長を見届けてきた子に抜かされてしまっては年上としての尊厳を損なわれる事になり、それだけは避けたいところだ。
必死に一級に向けて邁進するうちに時間は流れ、幾度も乗り越えてきた筈の繁忙期も目前と迫った頃。
新緑が芽吹き、五月雨に打たれた葉が輝く季節。
なんの前触れも無しに、穏やかだった日常が突如嵐を呼ぶ暗雲を齎し始めていく。
「真那、ちょっと良い?」
「はい。何ですか?」
「ごめん。訳は後で話すから今から職員寮に来てくれない?」
久方ぶりに嘗ての担任から声を掛けられ私は抱えた任務の資料を鞄に仕舞い込むと急いでいた筈の廊下で足を止めた。
腐れ縁になるかも知れないと一時は本気で悩んだ先生との付き合いも三年までで終わりとなり、今の五条先生は事もあろうか一年の担任を受け持っているらしい。
私の様にマンツーマンでない事は救いかも知れない。
しかし、高専に入学したばかりでいきなりこんな癖の強い人物が担任では、碌に接点は無くとも後輩となる一年生達に同情を禁じ得ない。
けれど、今回に至っては先生の顔は教師というより呪術師のそれで。
普段からは考えられない静かで有りながら緊張を伴う声色に私の勘が警鐘を鳴らす。
思わず息を呑み、小さく頷くと同時に先生は踵を返した。
場所すら告げられず足早に道を行く先生について行くのは小柄な私では容易ではなく、小走りになりながら辿り着いたのは普段滅多に訪れることのない職員寮のロビーだった。
「……恵、君?」
「ごめん、ちょっと付き添ってやってて。僕、今から一年の方で呼ばれててさ。場所移しても良いからそん時には連絡してくれると助かる。頼むよ」
軽薄と言う薄皮を剥いだ先生の雰囲気はどこかピリピリとしたものに感じる。
反論すらする暇を与えられず私の肩を軽く叩き、去って行く背中を見送るしかできなかった。
此方に来る時は連絡すると常に口にする彼が私に何の予告もなく何故高専に居るのだろうか。
普段とは違う、何か良からぬ予感しかしないのにその何かが判然とせず私はソファで項垂れる丸い背中の側に寄るものの私が来た事にすら気がついて居ないのか。
視線すら絡まず、足元ばかりを向いた目線がこちらに向けられる事はなかった。
「恵君?」
「……真那さん」
勢いよく顔を上げた恵君の顔色はこれまで見たどの表情よりも青く、祈る様に重ねられた手は小刻みに震えて居た。
けれど具合が悪いと言う訳ではなく、彼がこれ程に狼狽えることなど見当もつかない。
まるで迷子の子供。
否、それよりももっとその狼狽えようは激しく、今にも世界に見捨てられてしまいそうな雰囲気すら漂わせて居る。
手を伸ばしても良いものか悩んだ。
けれど理由を聞くにも此処ではいつ誰が通るか判らないし、私自身話を切り出せない。
この様子からして余程の事があったから先生を頼り、約束も無しに高専を訪れたのだろう。
そして先生も、彼を心配したからこそ態々私に託したのだろう。
恐る恐る恵君の肩に手を置くと私に触れた彼の指先は冷え切って居た。
今にも胸を掻きむしりそうなほどの鎮痛な面持ちは見て居る私の胸さえも締め付け、縋り付くかの如く繋いだ手には力が籠る。
「恵君、私の部屋で話そう。先生には連絡して置くから」
此処で私まで取り乱してはいけないと、可能な限り穏やかな声で言葉を掛ける。
握られた手はそのままに恵君が立ち上がると、私はその手を離す事なく引き摺るようにして彼を自室へと招いた。
数ヶ月前、プレゼントを渡して見返りの約束をした時とは比べ物にならない重たい空気が部屋の中に充満する。
扉が閉まると同時に後ろにいた筈の恵君は凭れかかるようにして私の肩に頭を乗せ、何があったかを問いかける前に彼の口からは信じられない言葉が紡がれて行った。
「……津美紀が、呪われた」
喉を締め付けられた様に紡がれる苦しげな言葉は自分の耳を疑ってしまう程、俄かには信じ難いものだった。
私自身、恵君を通してその話は幾度も聞いた事があるし、昔はクッキーや小物のお礼として手紙を貰った事もある。
顔を合わせる機会こそ無かったけれど彼女の事は可愛がって来たつもりだった。
その複雑な家庭環境についても知らない訳では無い。
恵君と津美紀ちゃんは言ってしまえば親同士の都合で姉弟となった他人。
彼女自身に呪術師としての素養は無く、これまでそう言ったものとは無縁の世界で生きてきた非術師の筈だ。
だからと言って私の弟の様に呪いと完全に無縁で生きていける世の中では無いけれど、その可能性は私達に比べたら極めて低いし、一口に呪いと言ってもすぐにどうこうなる可能性ばかりでは無い。
けれど恵君にとって、彼女は血の繋がりは無くともたった一人の家族だ。
時に人は血よりも遥かに強い絆で他人と結ばれる。
家族だからと言って必ずしもずっと共に有れるとは限らない事は私自身もこの身を持って痛感して居るのだから。
「……先生は何て?」
「全国で似た様な被呪者の例が幾つか上がってるらしいです。今は寝たまま起きない。それだけしか、分かってないんです。ただいつ呪殺されるとも判らない…」
私の様に疎遠になって居る訳でもない、ずっと一緒に過ごしてきた家族。
そんな大切な相手が呪いの被害にあったとなれば平静でなど居られるはずがない。
どんなに大人びて見えても、優れた術式を持ち、将来を有望されて居たとしても。
恵君はまだ中学生の少年で、己の力には限界がある。
その事がどれ程悔しいかは見て居るだけで痛いほどに伝わってくるし、私自身も嘗ては弟を、家族を呪いに奪われた身だ。
身近な相手が同じ事で苦しんでいるならばこの言葉が口を吐くのは当然と言えるし、今の私には少なからずそれに伴う力がある。
肩に頭を預けたまま、恵君の力なく宙を彷徨う手を握りしめると私は身体を反転させて自分より大きな恵君の身体を包み込む。
弱々しく私の服を握り返す様は痛々しくて、何とかしてやりたいと私が思ってしまうのは至極当然の事だろう。
「私に、何か出来ることはある?」
「……無いですよ。理由さえ分かってないんですから。先生に、任せるしか無い」
「でも、私だって少しくらいなら……」
そう言い掛けた言葉を言い終える前に、恵君が私の両腕を掴み密着して居た筈の身体の間に虚空が生まれる。
それはまるで私の言葉を拒むものにも思えて、伸ばしかけた手が再び届く事はなかった。
伏せた顔を上げるとこれ以上ない程に己の無力さを嘲笑する彼の顔が覗き、私にも同様の視線が向けられると吐き捨てるように紡がれた言葉は私の胸を抉り取る。
「アンタに何が出来るってんだよ。同情でもしてるつもりなんですか?」
「そんなつもりじゃ……」
「どうせ慰めるってんなら、キスの一つでもして下さいよ」
「何、言って……」
「冗談です。アンタに出来る訳が無いんですから。俺は大丈夫なんで。もう帰ります」
ふらふらと頼りない足取りで隣を過ぎ去る影を掴んだのは、このまま一人にさせてしまったら今にも儚く消えてしまいそうなほどに恵君の存在が危うく思えたからなのかも知れない。
確かに私は同じ境遇に陥り掛けて居る彼に共感している。
けれどそれは決して彼の思うような形な同情では無く、憐んでいる訳でもない。
自暴自棄の八つ当たりにも近い我儘を言われて居る近くはあるけれど、それを望むなら私はきっと何度でも首を縦に振るし、自分の差し出せるもの全てを投げ打つだろう。
「……分かった。そこ、座って」
挑発するような真似をしながらも何処か投げやりな恵君と、僅かに怒りの焔を灯し鋭くなった私の視線が絡み合う。
やれるもんならやってみろとでも言うようにベッドに腰を下ろした恵君はまるで獲物を見据える猛獣のような瞳をして居て。
一瞬怖気付いたものの、私は彼の目の前に足を運ぶと顔を上げた恵君の頬に片手を添えた。
甘さなんて欠片も無い、ギスギスとした雰囲気に室内の空気は静まり返り、緊張からか喉の奥が引き攣る。
やっぱり無理だと、そう言えば終わりだったのかもしれない。
けれどそれだけはどうしても出来なかった。
「あの、目閉じて……」
一心に己に向けられる視線に羞恥を覚え、背を丸めてあと僅かとなった距離のところで私が声を掛けると恵君は存外素直にその言葉に応じた。
伏せられた長い睫毛が微かに揺れて、すっと通る鼻梁が目を引く。
今は少年らしいあどけなさを少しは残して居るものの、女の私ですら羨みたくなるほどの淡麗な容姿はあと数年もすればさらに麗しいものになるに違いない。
ゆっくりと吐き出される呼吸すら感じ取れる程の距離の中で、私の胸が破裂しそうな程に煩く鳴り響く。
まるで心臓に爆弾でも抱えて居るような心持ちだった。
次第に恵君の顔に私の影が落ち、私も瞼を下ろした。
初めて触れる誰かの唇は柔らかく、暖かくて。
初めてのキスがどんな味なのかなんて事は曖昧だったけれど、唯一言えるのはこれまで過ごしてきた長い時間の中で一番近くに感じた恵君の香りに頭がくらくらしそうだったと言う事だけ。
キスなんて結局はただの触れ合いだ。
それが唇同士と言うだけで特別な意味を持ち、接触すると言うだけの意味で捉えれば手を繋いだり、頭を撫でて貰うのと何ら変わりはない筈なのに。
好きな人の唇だと言うだけでこんなにも甘美なものへと変わるのかと、認識を改めさせられた気もする。
ほんの少し、離れる事が惜しくなった。
無音の世界では時間の経過さえも曖昧で、まるで時が止まったかのような幻想さえ抱かせる。
けれど何せ初めてのことばかりで、こう言う時の呼吸の仕方すら分からない。
次第に酸素を求める肺が苦しさを訴え始めると私は観念したように唇を離し、薄く開いた唇がゆっくりと酸素を取り込んだ。
「アンタ、馬鹿なのかよ…」
「そうかもね。……私、同情はしてないよ。でも、たとえ何も出来なくても慰めてはあげたかったから」
まさか恵君も私が本当にやるとは思って居なかったのか。
顔を赤らめながら吐いたのは可愛げのない憎まれ口だった。
けれどそれは私も同じで、きっと互いの照れ臭さを誤魔化すためには私達はこんな誤魔化し方しか出来ないのだろう。
触れて居た手を離そうとすると、恵君が私の手を捉えた。
一歩前に踏み出した私はそのままベッドに寝そべった恵君の上に乗る形となり、私達を受け止め、大きく跳ねたベッドが余韻で揺れる。
「じゃあ、もう一回して下さい」
今度は恵君が私の頬に手を添えた。
そのままするりと後頭部に回された手が私を引き寄せ、二度目の口付けは先程より一層恵君を強く感じた気がする。
それが例えば寂しさと恐怖と畏れを誤魔化すための手段であったとしても。
今の私に出来る事がこれだけしかないのなら、溢れ出る気持ちに蓋をしたとしても、私は君に寄り添うから。
毎年の事ながらこの時期には先生も五条家の用事で多忙になり、年末にかけて休暇を申請する補助監督も多くなる。
そうは言っても万年多忙、年中無休の呪術界。
完全に人手が居なくなってしまうのは困る訳で、当然ある程度の調整は必要になり、そんな中で私の様に帰省の予定がない人間は重宝される。
高専に入学してから三年。
それは即ち親元を離れた何月と同じになる訳だけれど、これまで私は両親と連絡を取り合うこともなく、病んだ母と仕事に居場所を求め逃げた父が今をどうしているかを知りはしなかった。
きっとあの人達の時間は弟が居なくなってしまった瞬間からその刻を止めてしまったのだろう。
それ自体を悲しく思う事もなくなってしまった。
私とて、いつ死ぬかもわからない呪術界に身を置くのならば私が死んで両親が憂うと言うのは心が痛む。
けれどまるでその存在が初めからなかったかの様に扱われると言うのは寂しいと矛盾した気持ちは常に胸の中に蔓延り続け、もしかしたら五条先生にばかり辛辣な態度を取ってしまうのは先生の性格もあるのだろうけれど私なりの反抗期だったのかも知れない。
誰しもが持つ「帰る場所」が存在しない私は、まるで世界に置き去りにされた様な錯覚を齎し、冷え込みの厳しくなった部屋の中、暖房もつけずに毛布に包まり震える日が増えた。
その年だけは一人で過ごせて居た筈の年の瀬がやけに億劫だった。
けれどそんな様子を常に続ける何気ない文面から察してくれた恵君がもうすぐ年が変わる直前に連絡をくれて。
その時ほど救われたと思った時は無かった。
年が開ければ互いに最終学年に向けての予定がやってくる。
目まぐるしい日々に追われる事は確実だけれど、それでも恵君はまた会いに行くから何か作って欲くれと、少し不遜な物言いでその弟っぷりを遺憾なく発揮してくれて。
その言葉が現実になる事を楽しみに待ち侘びながら忙しない日々はあっという間に過ぎ去り、雪解けと共に春の息吹が感じ始める季節となると私は高専の四年生に、恵君は中学三年生となった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
昔は五年制だったと言う高専は、現在は少しその体制を変えて四年制となっている。
三年までの間に必修科目を終えると最後の一年は主に呪術師として任務を行う事が殆どとなり、それはこの先高専を去る選択をするものにとっては新しい進路を決めて生活の準備を整える為の大切な一年となるのだろう。
しかし言わずものがな、私に後者の道を選ぶと言う選択は存在しない。
四年になった際には一年生が四人とこれまでの比ではないほど多く入学してきたらしいけれど彼らとの接点も薄く、今の私の日常は殆どが任務で始まり任務で終わるものへと変わっていた。
それと言うのも四年になるのと同時に一級の推薦をもらう事ができ、現在は準一級として任務に当たっている事も大きいだろう。
既にこの時、まだ一年は猶予があると言うのに高専への入学が決まっている恵君も二級が確定して居る。
私としては想い人であるのと同時に幼い頃から成長を見届けてきた子に抜かされてしまっては年上としての尊厳を損なわれる事になり、それだけは避けたいところだ。
必死に一級に向けて邁進するうちに時間は流れ、幾度も乗り越えてきた筈の繁忙期も目前と迫った頃。
新緑が芽吹き、五月雨に打たれた葉が輝く季節。
なんの前触れも無しに、穏やかだった日常が突如嵐を呼ぶ暗雲を齎し始めていく。
「真那、ちょっと良い?」
「はい。何ですか?」
「ごめん。訳は後で話すから今から職員寮に来てくれない?」
久方ぶりに嘗ての担任から声を掛けられ私は抱えた任務の資料を鞄に仕舞い込むと急いでいた筈の廊下で足を止めた。
腐れ縁になるかも知れないと一時は本気で悩んだ先生との付き合いも三年までで終わりとなり、今の五条先生は事もあろうか一年の担任を受け持っているらしい。
私の様にマンツーマンでない事は救いかも知れない。
しかし、高専に入学したばかりでいきなりこんな癖の強い人物が担任では、碌に接点は無くとも後輩となる一年生達に同情を禁じ得ない。
けれど、今回に至っては先生の顔は教師というより呪術師のそれで。
普段からは考えられない静かで有りながら緊張を伴う声色に私の勘が警鐘を鳴らす。
思わず息を呑み、小さく頷くと同時に先生は踵を返した。
場所すら告げられず足早に道を行く先生について行くのは小柄な私では容易ではなく、小走りになりながら辿り着いたのは普段滅多に訪れることのない職員寮のロビーだった。
「……恵、君?」
「ごめん、ちょっと付き添ってやってて。僕、今から一年の方で呼ばれててさ。場所移しても良いからそん時には連絡してくれると助かる。頼むよ」
軽薄と言う薄皮を剥いだ先生の雰囲気はどこかピリピリとしたものに感じる。
反論すらする暇を与えられず私の肩を軽く叩き、去って行く背中を見送るしかできなかった。
此方に来る時は連絡すると常に口にする彼が私に何の予告もなく何故高専に居るのだろうか。
普段とは違う、何か良からぬ予感しかしないのにその何かが判然とせず私はソファで項垂れる丸い背中の側に寄るものの私が来た事にすら気がついて居ないのか。
視線すら絡まず、足元ばかりを向いた目線がこちらに向けられる事はなかった。
「恵君?」
「……真那さん」
勢いよく顔を上げた恵君の顔色はこれまで見たどの表情よりも青く、祈る様に重ねられた手は小刻みに震えて居た。
けれど具合が悪いと言う訳ではなく、彼がこれ程に狼狽えることなど見当もつかない。
まるで迷子の子供。
否、それよりももっとその狼狽えようは激しく、今にも世界に見捨てられてしまいそうな雰囲気すら漂わせて居る。
手を伸ばしても良いものか悩んだ。
けれど理由を聞くにも此処ではいつ誰が通るか判らないし、私自身話を切り出せない。
この様子からして余程の事があったから先生を頼り、約束も無しに高専を訪れたのだろう。
そして先生も、彼を心配したからこそ態々私に託したのだろう。
恐る恐る恵君の肩に手を置くと私に触れた彼の指先は冷え切って居た。
今にも胸を掻きむしりそうなほどの鎮痛な面持ちは見て居る私の胸さえも締め付け、縋り付くかの如く繋いだ手には力が籠る。
「恵君、私の部屋で話そう。先生には連絡して置くから」
此処で私まで取り乱してはいけないと、可能な限り穏やかな声で言葉を掛ける。
握られた手はそのままに恵君が立ち上がると、私はその手を離す事なく引き摺るようにして彼を自室へと招いた。
数ヶ月前、プレゼントを渡して見返りの約束をした時とは比べ物にならない重たい空気が部屋の中に充満する。
扉が閉まると同時に後ろにいた筈の恵君は凭れかかるようにして私の肩に頭を乗せ、何があったかを問いかける前に彼の口からは信じられない言葉が紡がれて行った。
「……津美紀が、呪われた」
喉を締め付けられた様に紡がれる苦しげな言葉は自分の耳を疑ってしまう程、俄かには信じ難いものだった。
私自身、恵君を通してその話は幾度も聞いた事があるし、昔はクッキーや小物のお礼として手紙を貰った事もある。
顔を合わせる機会こそ無かったけれど彼女の事は可愛がって来たつもりだった。
その複雑な家庭環境についても知らない訳では無い。
恵君と津美紀ちゃんは言ってしまえば親同士の都合で姉弟となった他人。
彼女自身に呪術師としての素養は無く、これまでそう言ったものとは無縁の世界で生きてきた非術師の筈だ。
だからと言って私の弟の様に呪いと完全に無縁で生きていける世の中では無いけれど、その可能性は私達に比べたら極めて低いし、一口に呪いと言ってもすぐにどうこうなる可能性ばかりでは無い。
けれど恵君にとって、彼女は血の繋がりは無くともたった一人の家族だ。
時に人は血よりも遥かに強い絆で他人と結ばれる。
家族だからと言って必ずしもずっと共に有れるとは限らない事は私自身もこの身を持って痛感して居るのだから。
「……先生は何て?」
「全国で似た様な被呪者の例が幾つか上がってるらしいです。今は寝たまま起きない。それだけしか、分かってないんです。ただいつ呪殺されるとも判らない…」
私の様に疎遠になって居る訳でもない、ずっと一緒に過ごしてきた家族。
そんな大切な相手が呪いの被害にあったとなれば平静でなど居られるはずがない。
どんなに大人びて見えても、優れた術式を持ち、将来を有望されて居たとしても。
恵君はまだ中学生の少年で、己の力には限界がある。
その事がどれ程悔しいかは見て居るだけで痛いほどに伝わってくるし、私自身も嘗ては弟を、家族を呪いに奪われた身だ。
身近な相手が同じ事で苦しんでいるならばこの言葉が口を吐くのは当然と言えるし、今の私には少なからずそれに伴う力がある。
肩に頭を預けたまま、恵君の力なく宙を彷徨う手を握りしめると私は身体を反転させて自分より大きな恵君の身体を包み込む。
弱々しく私の服を握り返す様は痛々しくて、何とかしてやりたいと私が思ってしまうのは至極当然の事だろう。
「私に、何か出来ることはある?」
「……無いですよ。理由さえ分かってないんですから。先生に、任せるしか無い」
「でも、私だって少しくらいなら……」
そう言い掛けた言葉を言い終える前に、恵君が私の両腕を掴み密着して居た筈の身体の間に虚空が生まれる。
それはまるで私の言葉を拒むものにも思えて、伸ばしかけた手が再び届く事はなかった。
伏せた顔を上げるとこれ以上ない程に己の無力さを嘲笑する彼の顔が覗き、私にも同様の視線が向けられると吐き捨てるように紡がれた言葉は私の胸を抉り取る。
「アンタに何が出来るってんだよ。同情でもしてるつもりなんですか?」
「そんなつもりじゃ……」
「どうせ慰めるってんなら、キスの一つでもして下さいよ」
「何、言って……」
「冗談です。アンタに出来る訳が無いんですから。俺は大丈夫なんで。もう帰ります」
ふらふらと頼りない足取りで隣を過ぎ去る影を掴んだのは、このまま一人にさせてしまったら今にも儚く消えてしまいそうなほどに恵君の存在が危うく思えたからなのかも知れない。
確かに私は同じ境遇に陥り掛けて居る彼に共感している。
けれどそれは決して彼の思うような形な同情では無く、憐んでいる訳でもない。
自暴自棄の八つ当たりにも近い我儘を言われて居る近くはあるけれど、それを望むなら私はきっと何度でも首を縦に振るし、自分の差し出せるもの全てを投げ打つだろう。
「……分かった。そこ、座って」
挑発するような真似をしながらも何処か投げやりな恵君と、僅かに怒りの焔を灯し鋭くなった私の視線が絡み合う。
やれるもんならやってみろとでも言うようにベッドに腰を下ろした恵君はまるで獲物を見据える猛獣のような瞳をして居て。
一瞬怖気付いたものの、私は彼の目の前に足を運ぶと顔を上げた恵君の頬に片手を添えた。
甘さなんて欠片も無い、ギスギスとした雰囲気に室内の空気は静まり返り、緊張からか喉の奥が引き攣る。
やっぱり無理だと、そう言えば終わりだったのかもしれない。
けれどそれだけはどうしても出来なかった。
「あの、目閉じて……」
一心に己に向けられる視線に羞恥を覚え、背を丸めてあと僅かとなった距離のところで私が声を掛けると恵君は存外素直にその言葉に応じた。
伏せられた長い睫毛が微かに揺れて、すっと通る鼻梁が目を引く。
今は少年らしいあどけなさを少しは残して居るものの、女の私ですら羨みたくなるほどの淡麗な容姿はあと数年もすればさらに麗しいものになるに違いない。
ゆっくりと吐き出される呼吸すら感じ取れる程の距離の中で、私の胸が破裂しそうな程に煩く鳴り響く。
まるで心臓に爆弾でも抱えて居るような心持ちだった。
次第に恵君の顔に私の影が落ち、私も瞼を下ろした。
初めて触れる誰かの唇は柔らかく、暖かくて。
初めてのキスがどんな味なのかなんて事は曖昧だったけれど、唯一言えるのはこれまで過ごしてきた長い時間の中で一番近くに感じた恵君の香りに頭がくらくらしそうだったと言う事だけ。
キスなんて結局はただの触れ合いだ。
それが唇同士と言うだけで特別な意味を持ち、接触すると言うだけの意味で捉えれば手を繋いだり、頭を撫でて貰うのと何ら変わりはない筈なのに。
好きな人の唇だと言うだけでこんなにも甘美なものへと変わるのかと、認識を改めさせられた気もする。
ほんの少し、離れる事が惜しくなった。
無音の世界では時間の経過さえも曖昧で、まるで時が止まったかのような幻想さえ抱かせる。
けれど何せ初めてのことばかりで、こう言う時の呼吸の仕方すら分からない。
次第に酸素を求める肺が苦しさを訴え始めると私は観念したように唇を離し、薄く開いた唇がゆっくりと酸素を取り込んだ。
「アンタ、馬鹿なのかよ…」
「そうかもね。……私、同情はしてないよ。でも、たとえ何も出来なくても慰めてはあげたかったから」
まさか恵君も私が本当にやるとは思って居なかったのか。
顔を赤らめながら吐いたのは可愛げのない憎まれ口だった。
けれどそれは私も同じで、きっと互いの照れ臭さを誤魔化すためには私達はこんな誤魔化し方しか出来ないのだろう。
触れて居た手を離そうとすると、恵君が私の手を捉えた。
一歩前に踏み出した私はそのままベッドに寝そべった恵君の上に乗る形となり、私達を受け止め、大きく跳ねたベッドが余韻で揺れる。
「じゃあ、もう一回して下さい」
今度は恵君が私の頬に手を添えた。
そのままするりと後頭部に回された手が私を引き寄せ、二度目の口付けは先程より一層恵君を強く感じた気がする。
それが例えば寂しさと恐怖と畏れを誤魔化すための手段であったとしても。
今の私に出来る事がこれだけしかないのなら、溢れ出る気持ちに蓋をしたとしても、私は君に寄り添うから。