たとえ、どんなに
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その出会いから時折高専を訪れる様になった恵君は必ずと言っていい程に私の元へ寄ってくれるようになり、あっという間に私達の距離はどんどん近いものへと変わっていった。
その時間の大半は術式の訓練に付き合ったり、学校の勉強を見てあげたり。
時折自室に招くようになると窓から差し込んだ暖かい日差しに一緒に昼寝をしてしまったりと、まるで本物の姉弟のような関係にも近くて。
それは私自身がいなくなってしまった弟の面影を求めて居たせいかも知れないし、恵君も強がりな一面を見せながらも甘えられる人が欲しかったからなのかも知れない。
それと言うのもこの当時、私の先輩に当たるのは一つ上の猪野先輩しか居なかった。
会えば話はするし、任務を共にした事もあるけれど親しいかと聞かれれば疑問が残る。
淡い期待をしてみたものの二年が経過しても、やっと入学して来た後輩二人は少し癖が強く同性でも無かった為に接点はあまり無くて。
常にたった一人きりの学生生活の中で、その存在は癒しに近かったのだろう。
しかし、中学も二年に上がると五条先生とは親交があるものの、恵君が高専を訪れる頻度は確実に減ってしまった。
立志を迎える節目の年と言えど、中学生といえばまだ幼さの残る少しやんちゃなお年頃。
多感な時期であると同時に少しずつ自分の将来なんてものをぼんやりとでも思い描く年頃でもあったりする。
もしかしたら呪術師としてやっていけるかどうかと悩みを抱いて居るのかと考えもするけれど、本人に会えない以上、それを確かめる術は無い。
ふと廊下から外を眺めれば、出会った頃を彷彿させる先生の瞳のような澄み渡る青い空に時折煩わしいとさえ思える蝉の音が夏の色を添える。
そしてその中には、まるで絵に描いたような入道雲が悠然と浮かんでいた。
「あっ、恵君!」
「……うす」
「久しぶりだね。今日は先生に用事?最近見かけなかったから心配してたんだよ。元気だった?」
「まぁ、それなりにやってますよ」
久しぶりに見慣れたツンツン頭を見かけたと喜び勇んで駆け寄った私に向けられたのは、何処か距離のある態度を取った恵君の視線だった。
少し前ならば抱きついてもやめて下さいよと顔を赤らめる程度だったものが、今ではあからさまにそういった触れ合いを拒む雰囲気を漂わせている。
それに中学に入ってからと言うもの、随分と背が伸びた気がする。
今では私の方が見上げないと行けないくらいになってしまった彼はまだ成長期の最中らしく、入学当初にはまだ大きかった制服の袖は右肩上がりの曲線についていけて居ないのか、少し短い様にも思えた。
高専とまでは行かなくともあまり目にする事のない白いブレザーは、私服だった頃と比べると随分彼の印象を大人びたものへと変えた気がする。
思春期というものを迎えてしまったのか以前と比べると話しかけても素っ気なく、たまに見掛けたさいには何度か一緒におやつを食べないかと誘ってみても断れてしまう事が大半で、その度に私は気付かれまいと肩を落としていた。
嫌われてしまったのかと、そんな思考すら頭を擡げたけれど、時折何か下さいとやってくる所を見ると存外その可能性は低そうで。
やはり幼子から少年へと移り変わる時の心の変化なのだろうかと思うしかないだろう。
けれどほんの数年前まで姉弟の様に過ごした時間を恋しく感じてしまうのは、どうやら私だけの様らしい。
何か良い切っ掛けは無いかと頭を捻る中でふと、先日補助監督から聞いたイベントを思い出すと私は思わず立場が逆転した様に恵君の制服の袖を引いていた。
「あ、あのね……。最近忙しいんだと思うけど。今度、近くで夏祭りがあるんだって。それで、ね。もし良かったら…」
「すみません、俺急ぐんで」
「あ。そっか……ごめんね。引き留めちゃって。また、ね」
一緒に行かないかと、最後まで言葉が出る前に放たれた言葉に裾を掴んだ手が離れてゆっくりと宙を彷徨った。
嫌われているわけでは無い。
けれどあからさまに距離を置かれている現状は以前の親しくしていた頃を思えば寂しさを抱かせ、自然と視線が下を向く。
けれど視界に映る自分より大きな脚は急ぐといった割に消え去る気配はなく、コツンと何かが頭頂部に当たる気配がして視線を戻すと携帯を取り出した恵君がいつもと何ら変わらぬ澄ました顔をしていた。
「祭り、いつですか?」
「え?」
「行きたいんですよね。付き合います。連絡先、聞いてもいいですか?」
早くしろと雰囲気で急かされ、私は慌てて制服の上着から携帯を取り出した。
随分前に、二人で携帯を眺めている時に見つけた玉犬に似ている待受は未だそのままになっていて。
その画面を見た恵君が微かな笑みを浮かべると、口頭で伝えた番号を入力したのか私の携帯が短く鳴る。
目の前に掛けた相手がいると言うのに、電話が鳴るとすぐに受けてしまうのは常に緊急案件に対して対応できる様にと備えてしまう呪術師故の習性なのだろうか。
口元に緩やかな弧を描く恵君が登録しといて下さい、と呟くと直の音と電話越しの音に私の鼓膜が震えていた。
幼子だと思っていた男の子が急に自分と大差ない年頃の異性に見えた気がする。
自然と耳元から離れた携帯に慌てて視線を戻すと、私は十一桁の番号に「恵君」と名前を入力した。
「登録したよ。……でも、いいの?」
「一人で行かせてしょぼくれるよりはマシなんで。それで、いつ?」
「次の、土曜日なんだけど」
「分かりました。予定開けとくんで、それっぽく浴衣でも着て来て下さいよ。ついでになんか奢って下さい」
「……あ、うん」
「じゃ、また」
去り際にポン、と頭に手を乗せられ、横をすり抜ける影はやはり私より大きくて。
私が背後を振り返る頃にはその姿は小さく、私に向けて一度だけ手を翳した。
思わず私は己の頭に手を置いた。
トクトクと小さく脈打つこの感情は、これまでまた恵君と過ごしたもののどれとも違うもので。
胸が締め付けられ、戦慄く様な感覚は私の経験したどの感覚とも符合しなかった。
ただ、去り際に言われた浴衣でも着てこいと言われた言葉がやけに頭の中で渦を巻く。
お粧ししたらどんな反応をしてくれるのかと、そんな瑣末な事に興味が湧いた。
まだ約束の日までは数日あるし、幸い任務を行って貰える給料には然程手を付けていない。
和服なら先生に相談すれば呉服屋さんを紹介して貰えるだろうかと期待して、私は翌日にはその話を先生に持ち掛けた。
すると恵君と出掛けると聞いた瞬間にその顔は新しい玩具を見つけた子供の様に輝き始め、その更に翌日には五条家から持って来たと目を奪われる様な浴衣の数々を押し付けられる事になる。
更には着付けの手配まで勝手にされてしまうと、髪は綺麗に結い上げられ、自分では到底できない様なメイクまで施して貰い。
その日の私は例えるなら、まるで魔法にかかったシンデレラの様だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
行き交う人の波、賑やかな太鼓の音。
並んだ屋台からは食欲を刺激する香りがあちらこちらから漂い、普段の街の喧騒とは少し違う賑やかな雰囲気はまるでそこだけが切り取られた異空間の様な錯覚さえ抱かせる。
慣れない下駄が地面を蹴るたびに小気味いい乾いた音を響かせる。
数日前から短いやり取りを何度か交わし、恵君との約束の時間はもう目前で。
待ち合わせにした鳥居の前には私たち同様相手を待つ人が溢れ返って居り、こんな中からたった一人を探し出すのは一筋縄では行かないだろう。
別の場所にした方が良かったかもしれないと少し後悔しつつ、メッセージアプリでやり取りをしながら人の波を掻き分けて行くと、鳥居の根巻の側に少し目立つ姿を見つけて小走りに駆け寄る。
けれど私の姿に気づいたであろう彼は近寄った私を見るなりその場から動く事なく目を見開いた。
何かあったのかと、思わず立ち止まった私は通りすがりの人に押されてよろけると、咄嗟に腕を伸ばしてくれた恵君に抱き止められ、私達の間にだけ静かさが漂っている様な。
そんな不思議な感覚さえ抱き、まじまじと私を眺める恵君の視線に何とも言えない気恥ずかしさを覚え、目線は伏せたまま上げることが出来なかった。
「ごめんね。恵君、ありがとう」
「気をつけて下さいよ。アンタ意外とそそっかしいんですから」
「あはは……そうだね。浴衣が汚れなくて良かった」
先生が持って来てくれた物と言うだけで着ることすら躊躇われるであろう浴衣は、間違いなくその辺でお目に掛かれる代物では無いだろう。
今一度裾の辺りに汚れがない事を確認すると胸を撫で下ろした私は恵君と向き合い、今度は昔より大人びた服装をした彼に視線を奪われる。
元々大人びた顔つきをしていたのに加えて、今は背が伸びたからか。
その辺の高校生といっても可差し支えのない姿は少し童顔気味の私にとっては羨ましい限りで、立場が逆になると恵君の方が恥ずかしげに顔を背けて行った。
「恵君の私服姿久しぶりに見た気がする。ちょっと大人びて見えるね」
「まぁ、それなりにデカくなってるんで。それより、本当に着て来たんですね。浴衣」
「恵君が一緒に行ってくれるって言うから嬉しくて張り切っちゃった。だけど浴衣ってどこで買えるか五条先生に話したら、何でか先生の方が気合い入れちゃったみたいで。あれよあれよと言う間に、ね。でも、見て見て。浴衣はとっても綺麗でしょ?」
全体を見渡せる様に少し広げた腕を上げると清楚な百合の柄の浴衣が全容を露わにして、自分で言うのも何だけれど馬子にも衣装と言うやつだろう。
その場でくるくると周りたい衝動を抑え、少し首を傾げると浴衣に合わせて貰った小振りの簪が揺れる。
無邪気な子供の様に粧し込んだ衣装が嬉しくて口元に笑みを浮かべれば、恵君はほんの僅かだけれど口の端を持ち上げた。
「じゃ、行きますよ」
「うんっ」
人混みがあまり得意ではない恵君はごった返す波を見て僅かに眉根を寄せたものの、意を決した様に一歩踏み出した。
その辺の背中につられてカラン、と私の足元が音を鳴らし、隣に並んだ恵君が一度私の姿を一瞥すると私は久しぶりに共に過ごせる時間に浮かれ笑みを溢す。
周りを見渡せば恋人同士、親子連れと様々な関係性を窺わせる人の姿が見受けられ、私達は側から見たらどんな印象を受けるのだろうかと。
ふとそんな事が脳裏を掠める。
私の我儘に付き合わせてしまった事に申し訳ないと言う思いは抱くけれど、ただこうして一緒のイベントを共有できる事が嬉しかった。
夏の匂いと熱気に気持ちは昂るばかりで、普段見慣れないお祭りならではの灯りに目を奪われていると不意に私の手が掴まれ、引き寄せられる。
「あんまりよそ見しないでください。逸れたら探す方が面倒なんで」
「あはは……ごめんね。嬉しくて、つい」
「子供かよ。手、繋いどいて下さい」
私の手を包み込む恵君の手は思って居たよりずっと大きかった。
男の人を思わせる指先にまるで空気を振るわせる太鼓の音の様に鼓動が大きく揺れた気がする。
ほんの少し手を握り返すと、恵君の指先に力が籠るのがわかった。
先ほどより歩くペースが遅くなったのは私の歩幅に合わせてくれているからなのだろうか。
元々無愛想と思われがちだけれど彼の優しさはわかりづらいだけで、極一部の親しい人にはちゃんと向けられている事を少なからず私は理解しているつもりだ。
けれどすっかり昔の面影が息を潜め、今の恵君が何を考えているのかを私に推し量ることは難しい。
しかし、今更ながらにもっとこの子の事を知りたいと思う気持ちは一体何なのだろうか。
弟の様だと…そう呼ぶにはもう、遅すぎる気がする。
だからと言ってこれが恋だと自覚するにはまだ決定的なものが足りない気もする。
抑、自分よりも四つも年下の男の子にそんな感情を抱く事は不自然とも思えて。
恵君だって、私の事は姉の様な存在としか認識して居ないだろう。
形容し難い不思議な感覚に囚われ、ほんの数年前まで子供だった彼が今はとても大人に見えるのは。
触れた箇所がこんなにも熱く、脈を打つのは全てが夏のせいなのだろうか。
夜といえど生温い風が人影をすり抜けながら私達の肌を掠めた。
自分が傷つくだけだと歯止めを掛けた気持ちは、まだ淡く芽吹いたばかりの自覚出来ない程に小さなもので。
隣で歩く恵君の頬がほんの少し赤らんでいるのも、きっとこの夏の暑さのせいなのだろう。
その時間の大半は術式の訓練に付き合ったり、学校の勉強を見てあげたり。
時折自室に招くようになると窓から差し込んだ暖かい日差しに一緒に昼寝をしてしまったりと、まるで本物の姉弟のような関係にも近くて。
それは私自身がいなくなってしまった弟の面影を求めて居たせいかも知れないし、恵君も強がりな一面を見せながらも甘えられる人が欲しかったからなのかも知れない。
それと言うのもこの当時、私の先輩に当たるのは一つ上の猪野先輩しか居なかった。
会えば話はするし、任務を共にした事もあるけれど親しいかと聞かれれば疑問が残る。
淡い期待をしてみたものの二年が経過しても、やっと入学して来た後輩二人は少し癖が強く同性でも無かった為に接点はあまり無くて。
常にたった一人きりの学生生活の中で、その存在は癒しに近かったのだろう。
しかし、中学も二年に上がると五条先生とは親交があるものの、恵君が高専を訪れる頻度は確実に減ってしまった。
立志を迎える節目の年と言えど、中学生といえばまだ幼さの残る少しやんちゃなお年頃。
多感な時期であると同時に少しずつ自分の将来なんてものをぼんやりとでも思い描く年頃でもあったりする。
もしかしたら呪術師としてやっていけるかどうかと悩みを抱いて居るのかと考えもするけれど、本人に会えない以上、それを確かめる術は無い。
ふと廊下から外を眺めれば、出会った頃を彷彿させる先生の瞳のような澄み渡る青い空に時折煩わしいとさえ思える蝉の音が夏の色を添える。
そしてその中には、まるで絵に描いたような入道雲が悠然と浮かんでいた。
「あっ、恵君!」
「……うす」
「久しぶりだね。今日は先生に用事?最近見かけなかったから心配してたんだよ。元気だった?」
「まぁ、それなりにやってますよ」
久しぶりに見慣れたツンツン頭を見かけたと喜び勇んで駆け寄った私に向けられたのは、何処か距離のある態度を取った恵君の視線だった。
少し前ならば抱きついてもやめて下さいよと顔を赤らめる程度だったものが、今ではあからさまにそういった触れ合いを拒む雰囲気を漂わせている。
それに中学に入ってからと言うもの、随分と背が伸びた気がする。
今では私の方が見上げないと行けないくらいになってしまった彼はまだ成長期の最中らしく、入学当初にはまだ大きかった制服の袖は右肩上がりの曲線についていけて居ないのか、少し短い様にも思えた。
高専とまでは行かなくともあまり目にする事のない白いブレザーは、私服だった頃と比べると随分彼の印象を大人びたものへと変えた気がする。
思春期というものを迎えてしまったのか以前と比べると話しかけても素っ気なく、たまに見掛けたさいには何度か一緒におやつを食べないかと誘ってみても断れてしまう事が大半で、その度に私は気付かれまいと肩を落としていた。
嫌われてしまったのかと、そんな思考すら頭を擡げたけれど、時折何か下さいとやってくる所を見ると存外その可能性は低そうで。
やはり幼子から少年へと移り変わる時の心の変化なのだろうかと思うしかないだろう。
けれどほんの数年前まで姉弟の様に過ごした時間を恋しく感じてしまうのは、どうやら私だけの様らしい。
何か良い切っ掛けは無いかと頭を捻る中でふと、先日補助監督から聞いたイベントを思い出すと私は思わず立場が逆転した様に恵君の制服の袖を引いていた。
「あ、あのね……。最近忙しいんだと思うけど。今度、近くで夏祭りがあるんだって。それで、ね。もし良かったら…」
「すみません、俺急ぐんで」
「あ。そっか……ごめんね。引き留めちゃって。また、ね」
一緒に行かないかと、最後まで言葉が出る前に放たれた言葉に裾を掴んだ手が離れてゆっくりと宙を彷徨った。
嫌われているわけでは無い。
けれどあからさまに距離を置かれている現状は以前の親しくしていた頃を思えば寂しさを抱かせ、自然と視線が下を向く。
けれど視界に映る自分より大きな脚は急ぐといった割に消え去る気配はなく、コツンと何かが頭頂部に当たる気配がして視線を戻すと携帯を取り出した恵君がいつもと何ら変わらぬ澄ました顔をしていた。
「祭り、いつですか?」
「え?」
「行きたいんですよね。付き合います。連絡先、聞いてもいいですか?」
早くしろと雰囲気で急かされ、私は慌てて制服の上着から携帯を取り出した。
随分前に、二人で携帯を眺めている時に見つけた玉犬に似ている待受は未だそのままになっていて。
その画面を見た恵君が微かな笑みを浮かべると、口頭で伝えた番号を入力したのか私の携帯が短く鳴る。
目の前に掛けた相手がいると言うのに、電話が鳴るとすぐに受けてしまうのは常に緊急案件に対して対応できる様にと備えてしまう呪術師故の習性なのだろうか。
口元に緩やかな弧を描く恵君が登録しといて下さい、と呟くと直の音と電話越しの音に私の鼓膜が震えていた。
幼子だと思っていた男の子が急に自分と大差ない年頃の異性に見えた気がする。
自然と耳元から離れた携帯に慌てて視線を戻すと、私は十一桁の番号に「恵君」と名前を入力した。
「登録したよ。……でも、いいの?」
「一人で行かせてしょぼくれるよりはマシなんで。それで、いつ?」
「次の、土曜日なんだけど」
「分かりました。予定開けとくんで、それっぽく浴衣でも着て来て下さいよ。ついでになんか奢って下さい」
「……あ、うん」
「じゃ、また」
去り際にポン、と頭に手を乗せられ、横をすり抜ける影はやはり私より大きくて。
私が背後を振り返る頃にはその姿は小さく、私に向けて一度だけ手を翳した。
思わず私は己の頭に手を置いた。
トクトクと小さく脈打つこの感情は、これまでまた恵君と過ごしたもののどれとも違うもので。
胸が締め付けられ、戦慄く様な感覚は私の経験したどの感覚とも符合しなかった。
ただ、去り際に言われた浴衣でも着てこいと言われた言葉がやけに頭の中で渦を巻く。
お粧ししたらどんな反応をしてくれるのかと、そんな瑣末な事に興味が湧いた。
まだ約束の日までは数日あるし、幸い任務を行って貰える給料には然程手を付けていない。
和服なら先生に相談すれば呉服屋さんを紹介して貰えるだろうかと期待して、私は翌日にはその話を先生に持ち掛けた。
すると恵君と出掛けると聞いた瞬間にその顔は新しい玩具を見つけた子供の様に輝き始め、その更に翌日には五条家から持って来たと目を奪われる様な浴衣の数々を押し付けられる事になる。
更には着付けの手配まで勝手にされてしまうと、髪は綺麗に結い上げられ、自分では到底できない様なメイクまで施して貰い。
その日の私は例えるなら、まるで魔法にかかったシンデレラの様だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
行き交う人の波、賑やかな太鼓の音。
並んだ屋台からは食欲を刺激する香りがあちらこちらから漂い、普段の街の喧騒とは少し違う賑やかな雰囲気はまるでそこだけが切り取られた異空間の様な錯覚さえ抱かせる。
慣れない下駄が地面を蹴るたびに小気味いい乾いた音を響かせる。
数日前から短いやり取りを何度か交わし、恵君との約束の時間はもう目前で。
待ち合わせにした鳥居の前には私たち同様相手を待つ人が溢れ返って居り、こんな中からたった一人を探し出すのは一筋縄では行かないだろう。
別の場所にした方が良かったかもしれないと少し後悔しつつ、メッセージアプリでやり取りをしながら人の波を掻き分けて行くと、鳥居の根巻の側に少し目立つ姿を見つけて小走りに駆け寄る。
けれど私の姿に気づいたであろう彼は近寄った私を見るなりその場から動く事なく目を見開いた。
何かあったのかと、思わず立ち止まった私は通りすがりの人に押されてよろけると、咄嗟に腕を伸ばしてくれた恵君に抱き止められ、私達の間にだけ静かさが漂っている様な。
そんな不思議な感覚さえ抱き、まじまじと私を眺める恵君の視線に何とも言えない気恥ずかしさを覚え、目線は伏せたまま上げることが出来なかった。
「ごめんね。恵君、ありがとう」
「気をつけて下さいよ。アンタ意外とそそっかしいんですから」
「あはは……そうだね。浴衣が汚れなくて良かった」
先生が持って来てくれた物と言うだけで着ることすら躊躇われるであろう浴衣は、間違いなくその辺でお目に掛かれる代物では無いだろう。
今一度裾の辺りに汚れがない事を確認すると胸を撫で下ろした私は恵君と向き合い、今度は昔より大人びた服装をした彼に視線を奪われる。
元々大人びた顔つきをしていたのに加えて、今は背が伸びたからか。
その辺の高校生といっても可差し支えのない姿は少し童顔気味の私にとっては羨ましい限りで、立場が逆になると恵君の方が恥ずかしげに顔を背けて行った。
「恵君の私服姿久しぶりに見た気がする。ちょっと大人びて見えるね」
「まぁ、それなりにデカくなってるんで。それより、本当に着て来たんですね。浴衣」
「恵君が一緒に行ってくれるって言うから嬉しくて張り切っちゃった。だけど浴衣ってどこで買えるか五条先生に話したら、何でか先生の方が気合い入れちゃったみたいで。あれよあれよと言う間に、ね。でも、見て見て。浴衣はとっても綺麗でしょ?」
全体を見渡せる様に少し広げた腕を上げると清楚な百合の柄の浴衣が全容を露わにして、自分で言うのも何だけれど馬子にも衣装と言うやつだろう。
その場でくるくると周りたい衝動を抑え、少し首を傾げると浴衣に合わせて貰った小振りの簪が揺れる。
無邪気な子供の様に粧し込んだ衣装が嬉しくて口元に笑みを浮かべれば、恵君はほんの僅かだけれど口の端を持ち上げた。
「じゃ、行きますよ」
「うんっ」
人混みがあまり得意ではない恵君はごった返す波を見て僅かに眉根を寄せたものの、意を決した様に一歩踏み出した。
その辺の背中につられてカラン、と私の足元が音を鳴らし、隣に並んだ恵君が一度私の姿を一瞥すると私は久しぶりに共に過ごせる時間に浮かれ笑みを溢す。
周りを見渡せば恋人同士、親子連れと様々な関係性を窺わせる人の姿が見受けられ、私達は側から見たらどんな印象を受けるのだろうかと。
ふとそんな事が脳裏を掠める。
私の我儘に付き合わせてしまった事に申し訳ないと言う思いは抱くけれど、ただこうして一緒のイベントを共有できる事が嬉しかった。
夏の匂いと熱気に気持ちは昂るばかりで、普段見慣れないお祭りならではの灯りに目を奪われていると不意に私の手が掴まれ、引き寄せられる。
「あんまりよそ見しないでください。逸れたら探す方が面倒なんで」
「あはは……ごめんね。嬉しくて、つい」
「子供かよ。手、繋いどいて下さい」
私の手を包み込む恵君の手は思って居たよりずっと大きかった。
男の人を思わせる指先にまるで空気を振るわせる太鼓の音の様に鼓動が大きく揺れた気がする。
ほんの少し手を握り返すと、恵君の指先に力が籠るのがわかった。
先ほどより歩くペースが遅くなったのは私の歩幅に合わせてくれているからなのだろうか。
元々無愛想と思われがちだけれど彼の優しさはわかりづらいだけで、極一部の親しい人にはちゃんと向けられている事を少なからず私は理解しているつもりだ。
けれどすっかり昔の面影が息を潜め、今の恵君が何を考えているのかを私に推し量ることは難しい。
しかし、今更ながらにもっとこの子の事を知りたいと思う気持ちは一体何なのだろうか。
弟の様だと…そう呼ぶにはもう、遅すぎる気がする。
だからと言ってこれが恋だと自覚するにはまだ決定的なものが足りない気もする。
抑、自分よりも四つも年下の男の子にそんな感情を抱く事は不自然とも思えて。
恵君だって、私の事は姉の様な存在としか認識して居ないだろう。
形容し難い不思議な感覚に囚われ、ほんの数年前まで子供だった彼が今はとても大人に見えるのは。
触れた箇所がこんなにも熱く、脈を打つのは全てが夏のせいなのだろうか。
夜といえど生温い風が人影をすり抜けながら私達の肌を掠めた。
自分が傷つくだけだと歯止めを掛けた気持ちは、まだ淡く芽吹いたばかりの自覚出来ない程に小さなもので。
隣で歩く恵君の頬がほんの少し赤らんでいるのも、きっとこの夏の暑さのせいなのだろう。