たとえ、どんなに
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人が五感を忘れていく順番は聴覚・視覚・触覚・味覚・嗅覚となるらしい。
記憶と結びつきやすいと言われる嗅覚がもし最後まで残って居てくれたのなら、私は最後の瞬間まで恵君の存在を欠片でもいいから自分の中に残しておけるのだろうか。
マナーモードにする事が常となった携帯が短く震えた。
画面を見ると相手は言わずもがな恵君からで、短い文面で「もうすぐ着く」とその文字を見た途端に私の顔が綻ぶ。
夏の気配は迫るのに五月雲が一面に広がる空は今にも泣き出しそうな気配さえ齎し、次第に窓を打ちつけ始めた雨に私は「気をつけてきてね」と返信を送る。
もう私が音を失ってから数日が経って居り、先日の事でいつ何があるか分からないとその危うさを示唆された私は学生寮から身の置き場を移し、今はその殆どを医務室で過ごして居た。
あの日以来、私の唇は音を紡がなくなった。
発した音が全て頭の中でのみ響くのは何とも言い難い奇妙な感覚で、時に激しい嫌悪と恐怖を抱くから。
予兆すらなく、突然奪われて行った音の感覚は私を茫然自失にするには十分過ぎて。
その場で崩れ落ちた私の姿に、恵君はただ困惑して 、私自身もあまりにも突然の出来事に激しく取り乱していた。
どれだけ言葉を掛けたところで私の鼓膜が震える事は無いのだから無理はないだろう。
どれだけの時間を過ごして居たかは定かではなかったけれど、いつまで経っても私が戻らない事から伊地知さんが先生と連絡を取ってくれたのか。
私を探し出し、直ぐ様家入さんの元へと連れて行かれると、検査を受けて居る間に恵君には事情を話したらしい。
はぐらかせる様な雰囲気でもなく、彼は誤魔化しが通用するタイプでも無い。
会う事を避けていれば何とかなると考えたのは私が浅慮だったが故の悪足掻きで。
こうなってしまった以上、真実を話す事が双方の為だと言うのが大人達の見解であり、恵君はその日以来、学校が終わると時間の許す限り私の側についてくれる様になった。
……それを恵君自身が望んでいるからと。
高専に入学してからと言うもの、少なからず人の死を目の当たりにしてきた。
これまで当然私は見送る側で、残される側の立場しか考えることなどできなかったのに。
……残して逝く事が、こんなにも胸を刺すような痛みを伴うなんて思わなかった。
けれどそれは残される側にとっても同じことが言えるのだろう。
今後、呪いが更に身体を蝕めば私は高専にすら居られなくなる。
恵君の為にも少しでも共に過ごす時間を設けてやってほしいと大人達に諭され、私は頷くしかできなかった。
けれどそれは結果として良かったと言えるのかも知れない。
側から見た私達の表情は以前と比べたら穏やかなものへと変わり、唯一以前と変わったところは会話が音ではなくボードだったり、携帯で行われる様になった事。
今となっては彼の学校の予定すら把握する程になってしまい、連絡が一度来れば後は部屋を訪れるまでの僅かな時間さえも待ち遠しくて堪らないなんて単純過ぎて笑うしかない。
ベッドのシーツを少し整え、読みかけだった本に栞を挟む。
側に置かれた鏡で自分の前髪を見てしまうのはこんな状況でも尚少しでも良く見られたいと言う欲目があるからなのだろうか。
音なんてもう聞こえる筈もないのに、もうすぐ扉が開く予感がした。
五感は一部を失うと他の感覚が澄まされると言うけれど、私は人の気配に対してここ数日でかなり敏感になった様に思う。
それは呪術高専ならではと言うべきか、無意識のうちに流れる僅かな呪力さえも察知できる様になり、案の定スライド式の扉が開くと恵君が顔を覗かせ、私の元へと真っ直ぐに脚を進めた。
『おかえり』
その一言だけはちゃんと伝えたいと私はいつも声に出さずに唇を動かす。
恵君は僅かに目を細めながらその言葉に一度頷くとベッドの横に置かれた椅子に腰掛け、その日あった事を文章にして私に伝えてくれた。
膝の上に並べて置かれた携帯の画面を眺め、どちらかが何か言葉を打つとどちらかが答えを返す無言の会話は、時に笑みさえ浮かぶ程に穏やかなもので。
取り止めのない会話の中で、不意に恵君が私の手を握りしめる。
その手つきは辿々しく、想いが通じ合って居るにも関わらず恋人同士のそれとは程遠い。
時折私に向ける悲しげな視線を本人は自覚しては居ないのだろう。
困った様な笑みを浮かべるとその手の力は一層強いものへと変わり、恵君は私の手を取ったまま己の頬に誘った。
『花火、行けなくてごめんね』
その言葉が一層彼の顔を曇ったものに変えてしまったらしい。
去年、初めて互いにデートと呼べるものをした。
私が誘ってくれるのなら、来年も一緒に行こうと約束した夏祭りは最早私達だけで出掛けることは困難となり、それでも私が行きたいと言うのならば連れて行ってくれると先生や家入さん口を揃えてくれた。
けれど迷惑になってしまうし、何より聴力を失った時の様にいつ何が起こるかわからない。
漠然と次は視力の様な予感もして居る。
賑わう人混みの中で突然光まで無くしてしまったら。
もし仮に逸れてしまう様な事があったら。
それは折角の楽しいひと時を台無しにしてしまうからと私はその好意に敢えて首を振った。
いつその時がやって来るのかは判然としない。
それでもそう遠くはない事は確かで。
もうすぐ恵君の顔すら眺めて居られなくなるかと思うと、少しずつ自分の中で覚悟の様なものが出来始めて居たとしても胸に釘を刺された様な気持ちになる。
先生達は最後まで打開策を打ち出そうとしてくれて居るけれど、依然八方塞がりな現状は何一つ変わって居なかった。
それでも何か手は無いかと必死になってくれる事には頭が上がらない。
けれど繁忙期を迎え、睡眠すら満足に取れない程に多忙な中、そこまで時間を割かせてしまうのは忍びなくて。
残りの時間は穏やかに過ごせたらそれで良いと告げた時の先生達の悔しそうな顔は、いつ思い出しても胸が締め付けられた。
『恵君。一つ我儘言ってもいい?』
『何ですか』
『もうすぐ、きっと目も見えなくなるから。今のうちにたくさん触っておいても良い?ちゃんと覚えておきたいから』
些か不躾な願いだとは思ったけれど、打ち込んだ文面を見た恵君は、はにかんだ私の姿を見て携帯を指差した私の手も自身の頬に誘う。
小さく頷きながら恵君の瞼が下ろされる。
その間、私はその輪郭を忘れることのない様に整った顔のパーツの一つ一つを指でなぞった。
音を無くした世界でも分かる静寂の中で、私はただ恵君の顔を眺め、無意識の内に好きだよと、伝えられない言葉を唇が形取る。
その瞬間に瞼が熱を孕んで視界が滲んだ。
お互いの気持ちを理解しても尚、私はたった四文字のこの言葉を文字にする事すら出来ない。
例えどれだけ強く願ったとしても。
もう戻れないのなら、私は恵君の悔いになりたくはない。
そう思って残りの時間を隠すことではなく共に過ごす為に使うことにしてはみたけれど。
これはきっと、今後の恵君を縛り付ける呪いになってしまうから。
呪術界は一般社会より格段に厳しい場所だ。
それでも、この恋に終わりを告げたら先のある彼には新しい恋をしてもらいたい。
その人を慈しんで、尊んで、愛してもらいたいし愛されて欲しいと思う。
たくさんの仲間に囲まれて、日々生の尊さを感じてもらいたい。
本音を言えば、少し寂しい。
これはもう、恋という概念を飛び越えた愛とも言える感情なのに。
それを伝えることすらできないもどかしさが絶えず私を縛りつけた。
羨ましいと思う程きめの細かい肌を指先が滑る。
少し釣り上がった目元、通った鼻筋、最後に薄い唇に触れるとキスしたいと思う雑念を振り払い、私はもう良いよと合図するように恵君の頬を指先で突くと打ち込んだばかりの画面を突き出して私は、笑顔を向けた。
『ありがとう』
『どう致しまして』
一見簡素に見える文面のみのやり取りも恵君の表情を見ているとその優しさと悲しさがよく伝わる。
いっそそれらはこれから己の身にやって来るであろう別れに対する覚悟の様にも思えて。
それでも一緒に居ると、そう言ってくれた事は私に取っては嬉しい反面、申し訳なさが募っていく。
視覚でしか物を捉えられなくなってからと言うもの、私は人の顔を覗き込んで首を傾げる事が増えたように思う。
目は口ほどに物を言うと、その言葉通り最近は恵君の考えている事がよく分かる様になった気もする。
今は何か私に内緒で企んでいることでもあるのだろうか。
少し視線を泳がせ始め、仕切りに携帯を眺める様は誰かからの連絡を待っている様に思えた。
『用事があるならそっちに行って?』
『違います。まぁ、用事があるのは嘘じゃないですけど』
その画面を私が見たと同時に恵君の携帯が誰かからの着信を告げて、彼はその場で通話に応じた。
唇を読んで会話を探ろうとしてみたものの、流石にまだ私の読唇術はそこまでの域には到達しておらず、表情からおそらく相手は恵君と相当親しい人と言う事位だろうか。
いつのまにか空は茜色に染まり、夜の帳が空に広がり始めて居た。
幾ら自由が効くと言ってもあまり遅くまで引き留めてしまうのも気が引けるのに、もう時間が過ぎてしまったのかと肩を落とした私を見て通話を終えた恵君が手を差し伸べる。
『一緒に来て下さい』
画面にはその一文のみ。
けれどその姿は何処か私を探している様にも思えて、私は躊躇いながらもベッドから抜け出すと数日ぶりに医務室の外に出た気がする。
私の中でこれまでと見える世界が違って居た。
もうすぐ煩わしいほどに聞こえて来るであろう蝉の音や、風に揺られて若葉の踊る音が届く事はないのに。
少し湿った地面の匂いや、熱気を帯びた空気が今の私に夏を感じさせた。
しっかりと私の手を引きながらも、決して負担にならない速度で歩く恵君の背中は去年見たものより少し大きくて。
この先まだ心身共に成長するのだろうし、その時の彼はきっと素敵な男の人になっているに違いない。
せめて、その姿を一目だけでも見てみたかったと思うのは我儘ではないだろう。
医務室の外に出る事すら久しぶりであったけれど、外に出るのはあの日以来な気もする。
行き先すら教えてもらえず、すっかり敷地内を知り尽くしているであろう恵君が校庭の一角を目指して真っ直ぐに進むと、そこにはバケツが二つと手持ち花火の袋が置かれて居た。
『花火、やりませんか?ちゃんと先生には許可取ってあるんで』
恵君は躊躇う事なくそれに手を伸ばすと身を屈めて取り出した手持ち花火を私に差し出し、蝋燭に火を灯す。
どうやら彼の様子が普段と違ったのはこんなサプライズを用意して居てくれたからで、私が驚きに目を瞬かせていると火を灯した花火が華麗な花を咲かせていく。
薄暗くなった景色に花火の色を宿した恵君の横顔がとても幻想的なものに見えた。
それに釣られて私も受け取ったばかりの花火に火を灯すと一気に開いた花が華麗に色を変えていく。
自然と私の顔は満面の笑みに変わっていった。
去年見た空一面に広がる大きな花火とはかけ離れているけれど、私の視界に映る花火はとても綺麗で、隣に恵君が居ると言うだけで特別なものになったから。
『ありがとう』
顔に笑顔と言う花を咲かせ、声なくはしゃぐ私の姿を見て恵君もその表情を少し和らげる。
視線を花火に戻し、最後の瞬間までを見届けようとしている私の肩を恵君が叩く。
先ほどの返事をしているのだろうか。
手にした携帯を覗き込むとその文面を見て私は一瞬頭を悩ませた。
『お返し、貰ってもいいですか?』
『今の私にできる事ならね』
肩を竦めながらそう返事をするしかできなかった。
今の自分は例えるならばこの花火と同じだ。
少しずつ火薬と言う命の量を減らしてやがて消えていく。
出来ることなどたかが知れて居て、誰かの手を借りなければその日一日を何事もなく過ごす事すら難しくなってしまった。
手を煩わせてしまっている申し訳なさと感謝の念は絶えず私を苛むし、だからと言って諦めてしまう事は更に先生達を苦しめる事になってしまう。
私の会話の大半は「ごめんなさい」と「ありがとう」で済ませられるものばかりとなり、恵君が居なければとっくに普通らしさと言うものを失って居た様にも思える。
顔を覗き込むと同時に花火が消えて、恵君の顔が薄暗い中に美しい陰影を浮かび上がらせた。
私の手から燃え尽きた花火を取り上げてバケツに放り込むと、次のものに手を伸ばすかと思いきやその手は私の頬に伸びていく。
まるでコマ送りの画像を見せられている様に、恵君の顔が私に近づいて来る。
それはこれまでで一番静かで、優しい口付けだった。
音無き世界に身を置いても己の鼓動の音だけは感じ取れて、それは絶えず大きな花火が音を鳴らす様によく似て居た。
少しかさつきながらも柔らかい恵君の感触が唇越しに伝わる。
横並びだったはずの身体は次第に恵君に凭れる様な形となり、不安定な大勢の中でも彼はもう私一人を難なく支えてしまえるのだろう。
……この先の彼も見たかった。
その想いだけが今の私の唯一だった。
ゆっくりと唇が離れた時、薄暗い空間の中でも分かるほどに私達の顔は熱を帯びて居た様に思う。
これはきっと、夏の熱気が齎した悪戯のせいではない筈だ。
『花火の続き、やりましょう』
照れくさそうに打ち込んだ文面を見て、私もまた照れ笑いを返す。
どちらからともなく私たちの距離は先程よりも更に縮み、肩を寄せ合いながら色とりどりの花を咲かせた。
二人だけのひっそりとした花火は、去年の様な賑やかしや華やかさとは無縁のものだったけれど、私はきっとこの幸せなひと時を噛み締めて残りの時間を過ごしていける。
最後といえばやはり線香花火で。
ぷっくりと膨らんだ火の玉がパチパチと弾ける様はこれまでに恵君が与えてくれた数々の幸せを思わせる。
やがて己の胸中を思わせる涙滴状となった球が静かに地面に痕を残し、一層暗くなった世界の中で、私達はもう一度唇を重ねて居た。
たった数十分のこの時間が、呪われてからの私にとっては史上の幸福だった。
気の持ちようとはよく言ったものだ。
この先も最後まで足掻いて見せようとその瞬間は固く己に誓えるほどに強い思いを抱けて居たのに。
奈落を思わせる程の絶望とは常に不幸の馳走であり、生きようと足掻くほどに私を嘲笑う。
私がこの目に恵君の姿を映し出せたのはその日が最後となった。
そして、坂道を転がって居たはずの石はその勢いを増して後はただ堕ちていくのみ。
それでも、閉ざされた世界の中で私の瞼の裏にはあの時の憧憬が眩く輝いている。
……ただ、私の唯一の悔いは君に好きだと言えないこと。
記憶と結びつきやすいと言われる嗅覚がもし最後まで残って居てくれたのなら、私は最後の瞬間まで恵君の存在を欠片でもいいから自分の中に残しておけるのだろうか。
マナーモードにする事が常となった携帯が短く震えた。
画面を見ると相手は言わずもがな恵君からで、短い文面で「もうすぐ着く」とその文字を見た途端に私の顔が綻ぶ。
夏の気配は迫るのに五月雲が一面に広がる空は今にも泣き出しそうな気配さえ齎し、次第に窓を打ちつけ始めた雨に私は「気をつけてきてね」と返信を送る。
もう私が音を失ってから数日が経って居り、先日の事でいつ何があるか分からないとその危うさを示唆された私は学生寮から身の置き場を移し、今はその殆どを医務室で過ごして居た。
あの日以来、私の唇は音を紡がなくなった。
発した音が全て頭の中でのみ響くのは何とも言い難い奇妙な感覚で、時に激しい嫌悪と恐怖を抱くから。
予兆すらなく、突然奪われて行った音の感覚は私を茫然自失にするには十分過ぎて。
その場で崩れ落ちた私の姿に、恵君はただ困惑して 、私自身もあまりにも突然の出来事に激しく取り乱していた。
どれだけ言葉を掛けたところで私の鼓膜が震える事は無いのだから無理はないだろう。
どれだけの時間を過ごして居たかは定かではなかったけれど、いつまで経っても私が戻らない事から伊地知さんが先生と連絡を取ってくれたのか。
私を探し出し、直ぐ様家入さんの元へと連れて行かれると、検査を受けて居る間に恵君には事情を話したらしい。
はぐらかせる様な雰囲気でもなく、彼は誤魔化しが通用するタイプでも無い。
会う事を避けていれば何とかなると考えたのは私が浅慮だったが故の悪足掻きで。
こうなってしまった以上、真実を話す事が双方の為だと言うのが大人達の見解であり、恵君はその日以来、学校が終わると時間の許す限り私の側についてくれる様になった。
……それを恵君自身が望んでいるからと。
高専に入学してからと言うもの、少なからず人の死を目の当たりにしてきた。
これまで当然私は見送る側で、残される側の立場しか考えることなどできなかったのに。
……残して逝く事が、こんなにも胸を刺すような痛みを伴うなんて思わなかった。
けれどそれは残される側にとっても同じことが言えるのだろう。
今後、呪いが更に身体を蝕めば私は高専にすら居られなくなる。
恵君の為にも少しでも共に過ごす時間を設けてやってほしいと大人達に諭され、私は頷くしかできなかった。
けれどそれは結果として良かったと言えるのかも知れない。
側から見た私達の表情は以前と比べたら穏やかなものへと変わり、唯一以前と変わったところは会話が音ではなくボードだったり、携帯で行われる様になった事。
今となっては彼の学校の予定すら把握する程になってしまい、連絡が一度来れば後は部屋を訪れるまでの僅かな時間さえも待ち遠しくて堪らないなんて単純過ぎて笑うしかない。
ベッドのシーツを少し整え、読みかけだった本に栞を挟む。
側に置かれた鏡で自分の前髪を見てしまうのはこんな状況でも尚少しでも良く見られたいと言う欲目があるからなのだろうか。
音なんてもう聞こえる筈もないのに、もうすぐ扉が開く予感がした。
五感は一部を失うと他の感覚が澄まされると言うけれど、私は人の気配に対してここ数日でかなり敏感になった様に思う。
それは呪術高専ならではと言うべきか、無意識のうちに流れる僅かな呪力さえも察知できる様になり、案の定スライド式の扉が開くと恵君が顔を覗かせ、私の元へと真っ直ぐに脚を進めた。
『おかえり』
その一言だけはちゃんと伝えたいと私はいつも声に出さずに唇を動かす。
恵君は僅かに目を細めながらその言葉に一度頷くとベッドの横に置かれた椅子に腰掛け、その日あった事を文章にして私に伝えてくれた。
膝の上に並べて置かれた携帯の画面を眺め、どちらかが何か言葉を打つとどちらかが答えを返す無言の会話は、時に笑みさえ浮かぶ程に穏やかなもので。
取り止めのない会話の中で、不意に恵君が私の手を握りしめる。
その手つきは辿々しく、想いが通じ合って居るにも関わらず恋人同士のそれとは程遠い。
時折私に向ける悲しげな視線を本人は自覚しては居ないのだろう。
困った様な笑みを浮かべるとその手の力は一層強いものへと変わり、恵君は私の手を取ったまま己の頬に誘った。
『花火、行けなくてごめんね』
その言葉が一層彼の顔を曇ったものに変えてしまったらしい。
去年、初めて互いにデートと呼べるものをした。
私が誘ってくれるのなら、来年も一緒に行こうと約束した夏祭りは最早私達だけで出掛けることは困難となり、それでも私が行きたいと言うのならば連れて行ってくれると先生や家入さん口を揃えてくれた。
けれど迷惑になってしまうし、何より聴力を失った時の様にいつ何が起こるかわからない。
漠然と次は視力の様な予感もして居る。
賑わう人混みの中で突然光まで無くしてしまったら。
もし仮に逸れてしまう様な事があったら。
それは折角の楽しいひと時を台無しにしてしまうからと私はその好意に敢えて首を振った。
いつその時がやって来るのかは判然としない。
それでもそう遠くはない事は確かで。
もうすぐ恵君の顔すら眺めて居られなくなるかと思うと、少しずつ自分の中で覚悟の様なものが出来始めて居たとしても胸に釘を刺された様な気持ちになる。
先生達は最後まで打開策を打ち出そうとしてくれて居るけれど、依然八方塞がりな現状は何一つ変わって居なかった。
それでも何か手は無いかと必死になってくれる事には頭が上がらない。
けれど繁忙期を迎え、睡眠すら満足に取れない程に多忙な中、そこまで時間を割かせてしまうのは忍びなくて。
残りの時間は穏やかに過ごせたらそれで良いと告げた時の先生達の悔しそうな顔は、いつ思い出しても胸が締め付けられた。
『恵君。一つ我儘言ってもいい?』
『何ですか』
『もうすぐ、きっと目も見えなくなるから。今のうちにたくさん触っておいても良い?ちゃんと覚えておきたいから』
些か不躾な願いだとは思ったけれど、打ち込んだ文面を見た恵君は、はにかんだ私の姿を見て携帯を指差した私の手も自身の頬に誘う。
小さく頷きながら恵君の瞼が下ろされる。
その間、私はその輪郭を忘れることのない様に整った顔のパーツの一つ一つを指でなぞった。
音を無くした世界でも分かる静寂の中で、私はただ恵君の顔を眺め、無意識の内に好きだよと、伝えられない言葉を唇が形取る。
その瞬間に瞼が熱を孕んで視界が滲んだ。
お互いの気持ちを理解しても尚、私はたった四文字のこの言葉を文字にする事すら出来ない。
例えどれだけ強く願ったとしても。
もう戻れないのなら、私は恵君の悔いになりたくはない。
そう思って残りの時間を隠すことではなく共に過ごす為に使うことにしてはみたけれど。
これはきっと、今後の恵君を縛り付ける呪いになってしまうから。
呪術界は一般社会より格段に厳しい場所だ。
それでも、この恋に終わりを告げたら先のある彼には新しい恋をしてもらいたい。
その人を慈しんで、尊んで、愛してもらいたいし愛されて欲しいと思う。
たくさんの仲間に囲まれて、日々生の尊さを感じてもらいたい。
本音を言えば、少し寂しい。
これはもう、恋という概念を飛び越えた愛とも言える感情なのに。
それを伝えることすらできないもどかしさが絶えず私を縛りつけた。
羨ましいと思う程きめの細かい肌を指先が滑る。
少し釣り上がった目元、通った鼻筋、最後に薄い唇に触れるとキスしたいと思う雑念を振り払い、私はもう良いよと合図するように恵君の頬を指先で突くと打ち込んだばかりの画面を突き出して私は、笑顔を向けた。
『ありがとう』
『どう致しまして』
一見簡素に見える文面のみのやり取りも恵君の表情を見ているとその優しさと悲しさがよく伝わる。
いっそそれらはこれから己の身にやって来るであろう別れに対する覚悟の様にも思えて。
それでも一緒に居ると、そう言ってくれた事は私に取っては嬉しい反面、申し訳なさが募っていく。
視覚でしか物を捉えられなくなってからと言うもの、私は人の顔を覗き込んで首を傾げる事が増えたように思う。
目は口ほどに物を言うと、その言葉通り最近は恵君の考えている事がよく分かる様になった気もする。
今は何か私に内緒で企んでいることでもあるのだろうか。
少し視線を泳がせ始め、仕切りに携帯を眺める様は誰かからの連絡を待っている様に思えた。
『用事があるならそっちに行って?』
『違います。まぁ、用事があるのは嘘じゃないですけど』
その画面を私が見たと同時に恵君の携帯が誰かからの着信を告げて、彼はその場で通話に応じた。
唇を読んで会話を探ろうとしてみたものの、流石にまだ私の読唇術はそこまでの域には到達しておらず、表情からおそらく相手は恵君と相当親しい人と言う事位だろうか。
いつのまにか空は茜色に染まり、夜の帳が空に広がり始めて居た。
幾ら自由が効くと言ってもあまり遅くまで引き留めてしまうのも気が引けるのに、もう時間が過ぎてしまったのかと肩を落とした私を見て通話を終えた恵君が手を差し伸べる。
『一緒に来て下さい』
画面にはその一文のみ。
けれどその姿は何処か私を探している様にも思えて、私は躊躇いながらもベッドから抜け出すと数日ぶりに医務室の外に出た気がする。
私の中でこれまでと見える世界が違って居た。
もうすぐ煩わしいほどに聞こえて来るであろう蝉の音や、風に揺られて若葉の踊る音が届く事はないのに。
少し湿った地面の匂いや、熱気を帯びた空気が今の私に夏を感じさせた。
しっかりと私の手を引きながらも、決して負担にならない速度で歩く恵君の背中は去年見たものより少し大きくて。
この先まだ心身共に成長するのだろうし、その時の彼はきっと素敵な男の人になっているに違いない。
せめて、その姿を一目だけでも見てみたかったと思うのは我儘ではないだろう。
医務室の外に出る事すら久しぶりであったけれど、外に出るのはあの日以来な気もする。
行き先すら教えてもらえず、すっかり敷地内を知り尽くしているであろう恵君が校庭の一角を目指して真っ直ぐに進むと、そこにはバケツが二つと手持ち花火の袋が置かれて居た。
『花火、やりませんか?ちゃんと先生には許可取ってあるんで』
恵君は躊躇う事なくそれに手を伸ばすと身を屈めて取り出した手持ち花火を私に差し出し、蝋燭に火を灯す。
どうやら彼の様子が普段と違ったのはこんなサプライズを用意して居てくれたからで、私が驚きに目を瞬かせていると火を灯した花火が華麗な花を咲かせていく。
薄暗くなった景色に花火の色を宿した恵君の横顔がとても幻想的なものに見えた。
それに釣られて私も受け取ったばかりの花火に火を灯すと一気に開いた花が華麗に色を変えていく。
自然と私の顔は満面の笑みに変わっていった。
去年見た空一面に広がる大きな花火とはかけ離れているけれど、私の視界に映る花火はとても綺麗で、隣に恵君が居ると言うだけで特別なものになったから。
『ありがとう』
顔に笑顔と言う花を咲かせ、声なくはしゃぐ私の姿を見て恵君もその表情を少し和らげる。
視線を花火に戻し、最後の瞬間までを見届けようとしている私の肩を恵君が叩く。
先ほどの返事をしているのだろうか。
手にした携帯を覗き込むとその文面を見て私は一瞬頭を悩ませた。
『お返し、貰ってもいいですか?』
『今の私にできる事ならね』
肩を竦めながらそう返事をするしかできなかった。
今の自分は例えるならばこの花火と同じだ。
少しずつ火薬と言う命の量を減らしてやがて消えていく。
出来ることなどたかが知れて居て、誰かの手を借りなければその日一日を何事もなく過ごす事すら難しくなってしまった。
手を煩わせてしまっている申し訳なさと感謝の念は絶えず私を苛むし、だからと言って諦めてしまう事は更に先生達を苦しめる事になってしまう。
私の会話の大半は「ごめんなさい」と「ありがとう」で済ませられるものばかりとなり、恵君が居なければとっくに普通らしさと言うものを失って居た様にも思える。
顔を覗き込むと同時に花火が消えて、恵君の顔が薄暗い中に美しい陰影を浮かび上がらせた。
私の手から燃え尽きた花火を取り上げてバケツに放り込むと、次のものに手を伸ばすかと思いきやその手は私の頬に伸びていく。
まるでコマ送りの画像を見せられている様に、恵君の顔が私に近づいて来る。
それはこれまでで一番静かで、優しい口付けだった。
音無き世界に身を置いても己の鼓動の音だけは感じ取れて、それは絶えず大きな花火が音を鳴らす様によく似て居た。
少しかさつきながらも柔らかい恵君の感触が唇越しに伝わる。
横並びだったはずの身体は次第に恵君に凭れる様な形となり、不安定な大勢の中でも彼はもう私一人を難なく支えてしまえるのだろう。
……この先の彼も見たかった。
その想いだけが今の私の唯一だった。
ゆっくりと唇が離れた時、薄暗い空間の中でも分かるほどに私達の顔は熱を帯びて居た様に思う。
これはきっと、夏の熱気が齎した悪戯のせいではない筈だ。
『花火の続き、やりましょう』
照れくさそうに打ち込んだ文面を見て、私もまた照れ笑いを返す。
どちらからともなく私たちの距離は先程よりも更に縮み、肩を寄せ合いながら色とりどりの花を咲かせた。
二人だけのひっそりとした花火は、去年の様な賑やかしや華やかさとは無縁のものだったけれど、私はきっとこの幸せなひと時を噛み締めて残りの時間を過ごしていける。
最後といえばやはり線香花火で。
ぷっくりと膨らんだ火の玉がパチパチと弾ける様はこれまでに恵君が与えてくれた数々の幸せを思わせる。
やがて己の胸中を思わせる涙滴状となった球が静かに地面に痕を残し、一層暗くなった世界の中で、私達はもう一度唇を重ねて居た。
たった数十分のこの時間が、呪われてからの私にとっては史上の幸福だった。
気の持ちようとはよく言ったものだ。
この先も最後まで足掻いて見せようとその瞬間は固く己に誓えるほどに強い思いを抱けて居たのに。
奈落を思わせる程の絶望とは常に不幸の馳走であり、生きようと足掻くほどに私を嘲笑う。
私がこの目に恵君の姿を映し出せたのはその日が最後となった。
そして、坂道を転がって居たはずの石はその勢いを増して後はただ堕ちていくのみ。
それでも、閉ざされた世界の中で私の瞼の裏にはあの時の憧憬が眩く輝いている。
……ただ、私の唯一の悔いは君に好きだと言えないこと。